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小坂 英世

こさか・ひでよ
1930〜


last update:20131125
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・1930年生 ・1953年東京医科歯科大学卒業
・〜1966年 松沢病院
・小坂診療所(東京都世田谷区)

■著作

◆岡田 靖雄・小坂 英世 19700530 『市民の精神衛生――社会のなかで精神病を治す』,勁草書房,324p. ASIN: B000JA0XOY 525 [amazon] ※ m.

◆小坂 英世 19711115 「ある家族の手紙」,『精神医療』2-2-1(7):95-101

◆江熊 要一・小坂 英世・山本 和郎・金松 直也 1972 「私ならこうする、在宅分裂病者の生活指導」,『地域精神医学』10:37(地域精神医学会第5回総会シンポジウム)

■言及

http://www.geocities.jp/tramarakawa/h9borakouza3.html

*精神保健活動の歴史-40年代・荒川での行政の動き-*

この時代、荒川では42年に関川病院で週1回の神経科クリニックが始まりました。
戦前には荒川区にも病床のある精神病院がありましたが、戦争のために荒川から外へ移転してしまったのです。
確か根岸病院も戦前は荒川にあったと思います。
現在も病床のある病院は荒川にはありません。
とにかく、関川病院でクリニックが始まった同時期に荒川区で精神衛生相談日が月1回行われることになりました。
この当時、保健所は荒川区の所管ではなく東京都の所管だったんですね。
そして保健所の場所も現在のところではなく、尾竹橋通りのマクドナルドの向かい側のスーパーのあたりにありました。
木造2階建てで、2階に上がるとぎしぎし軋むような建物でした。
そこへ小坂英世という精神科の先生が東京都精神保健センターから相談医として派遣されておりました。
しかも保健所が東京都の保健所だったものですから、荒川区の人たちだけではなくて、近隣地区からどっと来ました。
実に、相談日には行列ができるくらいでした。
おそらく朝の9時から夕方までかかっても終わらないくらいの相談件数があったと思います。
そして、この小坂先生がいらした同時期に、『精神衛生相談員』という専門家が東京61保健所中に10名配置されることになり、
そのうちの一人が荒川の保健所に配置されることになったのです。

*精神保健活動の歴史-職親のはしりの動き-*

小坂先生とこの精神衛生相談員の方は、非常に一生懸命に取り組んでくださいました。
在宅の当事者10数名を荒川の鉛筆工場だとか家具屋さんだとか、
近辺の職場へ朝送り出し、夕方行って様子をみるということもしていました。
これが後に『職親(しょくおや)』と言われ、『通院患者リハビリ援助事業』へと発展しました。

◆藤澤 敏雄 19720510 「過渡期の悲劇――小坂英世氏に関するおぼえ書き」,『精神医療』2-2:118-122

http://www.jpware.com/auctionInfo.php?id=d112912061

小坂英世著『患者と家族のための精神分裂病理論』(珠真書房、1972年4月刊)

商品詳細

◇ 精神科医・小坂英世が、それまでの分裂病患者の社会生活指導という、群馬大学で続けられてきた生活臨床と似通った方法論から、完全に独自の小坂理論――心理的原因の抑圧理論――へと離脱した、記念すべき著書です。第1版第2刷まで発行されましたが、これは第2刷です。国会図書館にも所蔵されておらず、やはり、入手がきわめて難しい貴重な書籍ですので、本当に必要な方にのみお譲りするため、最低落札価額を少々高額に設定しました。やはり小坂英世が1972年に刊行した『精神分裂病読本』とともに、当オークションにこれまで3点ずつ出品してきましたが、これが最後のものになります。この機会をお見逃しなく。

◇ 四六版ソフトカバーで293ページ、当時の定価は1400円でした。実用的に使われたため、数ページに赤線が引かれていますが、それ以外は比較的きれいで、読むのには差しつかえありません。

◇ 目次は次の通りです。
はじめに
第一部 分裂病に到る道
第二部 分裂病を脱する道
第三部 分裂病を脱する道の実例
第四部 分裂病を脱する道の補足
第五部 小説「病めるときも」をめぐって
おわりに



 一九六九年当時は「地域精神衛生活動の理論的支持としては、群馬大学の江熊要一氏が一九六三年に提唱した「生活臨床」の流れと、生活臨床から出発して独自の理論を展開しつつあった小坂英世氏の理論が、主だったものとして、とりわけ熱心な地域活動家達のたよりとされていた時代である。言うまでもなく、一九六九年は日本精神神経学会金沢大会が精神医療改革の端緒を切った年である。金沢学会がどのような影響を私自身や精神医療に与えたかについては、詳しく語らねばならないのであるが、ここでは私の地域活動の、金沢学会の精神医療改革ののろしをあげた年にはじまったということの重要さを私自身のこととして強調しておくにとどめたい。金沢学会の精神医療批判を、いかにして地域活動と自分の病院実践のなかで具体化し、のりこえようかという思いがありつづけたということである。」(藤澤[1982→1998:42])

□1965〜1969

◆浜田 晋 19940506 『心をたがやす』,岩波書店,シリーズ生きる,257p. ISBN-10: 4000038117 ISBN-13: 978-4000038119 2446 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「ちょうどその頃忘れられない一人の医師との出会いがあった。小坂英世。昭和四〇年頃である。私より四つ年下。彼は昭和三六年頃から宇都宮を中心に、保健所を拠点とした「地域活動」をすさまじいエネルギーでやり、喧嘩して(彼は行く先々で喧嘩をする才能があった)、栃木から松沢病院へ、大きな登山靴をはいてやって来た。骨格のがっしりした男。射るように人を見て、大声で断定的にしゃべり、声高に笑う。酒を飲んではどぎついY談を得意とする。一方きわめて几帳面なところがあって、定時に出勤してきて(これは松沢病院では稀なこと)、受持病棟へ行ってちゃんと看護婦の引き継ぎに出て、きわめ<0103<て辛辣な質問を発し、私たち大勢の医師が出動する(おおむね一〇時)頃には、もう医局に引き上げてきて、大声を発している。
 とにかく魅力的な毒をもった男だった。
 昭和四一年、小坂は精神衛生法改正(精神病院入院中心主義から地域精神保健活動へというキャッチフレーズ)にもとづいて精神衛生センターが設置され、松沢を去る。
 そして主として荒川区町屋に小坂の肝煎りで民医連峡田診療所(現在荒川生協病院となり畏友岡田靖雄が働いている)に、精神科ナイトクリニックを開き、松沢の中堅医師が六名交代で診療を始めた。これが私の後半生を決定づける体験となる。
 診察室にいると保健婦松浦光子が「これは先生、こういう家で、家族は……仕事は……こういう状況の中におられます」と社会的背景を語ってくれた。
 一人の分裂病者を診るだけでなく、その人がどんな環境の中でどんな暮しをしているのか――晩年の私の主題への道を開いてくれたのである。もはや「精神分裂病」という一枚岩へのアタックよりも、一人一人の分裂病者の暮しが私の視野にひろがってくる。
 そして私は、松沢病院を去る。
 私を育てはぐくんでくれた松沢村を、苦い思いを残しつつ去ることとなった。<0104<
 昭和四三年の春である。当時わが国は高度経済成長のまっただ中にあり、繁栄への道を
ひた走る。
 そこに東大闘争があった。

 (3) 再び東京大学精神科教室へ
 […]
 昭和四四年、「闘争」に疲れ、私は放心状態となって上野から荒川あたりをさまようことになる。学生時代、その青春をすごした上野の地下街のうす暗がりで、私はなぜかほっと安らぎを覚えていた。
 そして東大闘争は学生の完全敗北で終る。私も一種の虚脱状態の中にいた。不安と焦躁といってもよい。その敗北感のうしろめたさの中で、なぜか私は東京下町に強くひかれていったのである。当時、荒川医でエネルギッシュな活動をしていた医師小坂英世と保健婦松浦光子にみちびかれて行くことになる。

 (4) 地域活動のはじめ
 昭和四四年四月、私は隅田川を渡って江東地区に入り、そこで数多くのいわゆる医療放置の悲惨な患者たちの生活を見た。
 今までの私の医療が、患者やその家族にとって何であったのかを――私はいやという程みせつけられる。ある雑誌にこんなことを書く。
 「私は今、はだしで江東地区の路地に立っている。
 どうしようかと途方にくれている。ポケットには何もない。患者に与えてあげるも<0108<のは何もない。患者を助けおこす力もほとんどない。助けおこしたとしても病院に彼らを運びたくない。一生鍵づめにされるか、すっぱだかで放り出されるか、そして今よりもっとひどいところから、またぞろ始めなければならなくなるだろう。今の私は地べたにしゃがんでじっと彼らを見つめるしかない。せめて側にじっとしているだけである。私はもう医者でなくなったのかもしれない。それでよい。そうならなければいけないとさえ思う。彼らと同じ地べたに立つことができるかどうかが、いうならば今後の私の生き方のせめてもの一つの支え――といえば倣慢な言い方になるだろうか」。
 私自身がほとんど患者になっていた。
 そこで私は精神科医としての後半生の生き様への大切な手がかりをつかむことになる。
 昭和四五年四月、私は東大を辞し、小林英世のあとを追って都立精神衛生センターに勤めはじめる。私の中の東大闘争の一つの帰結でもあった。そしてまた出合いは運命的なものであった。」(浜田[1994:103-109])

◆浜田 晋 20010101 『私の精神分裂病論』,医学書院,244p. ISBN-10: 4260118528 ISBN-13: 978-4260118521 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「東京下町との出会い
 私を東京下町に引き寄せたものに、東京荒川区での小坂英世、松浦光子の活動がある。昭和40年に始まる彼らの活動は、私を大きく変えた。彼はその地域活動の中でどうしても「地域精神科診療所」が必要であると思い、荒川区町屋にある峡田診療所(院長茂木啓一、生協母体)に夜間診療所を開設した。昭和43年1月のことである。
 ナイトクリニックについてはすでに昭和34年以降、大阪の長坂五朗の先駆的な業績がある。しかしその成り立ちは違う。長坂は精神病院退院患者のアフターケアとして自宅を開放してのそれであった。峡田診療所はすでに活発な地域活動の中から生まれるべくして生まれたものである。「初めに地域活動ありき」であった。
 今日、雨後の筍のようにできる精神科診療所は、そのほとんどが落下傘降下のごとく、取りあえずどこかへ…というものであり、医療側の好みが優先し、したがって東京でいえば新宿区、渋谷区、豊島区などに集中する。診療所はなぜその地に「今」…が必要であろうものに。
 さて峡田診療所のナイトクリニックは昭和43年に始まり、吉岡眞二、長谷川源助、松下正明、竹中星郎、高橋浩史(松沢病院)、浜田晋(東京大学)が交代で週2回、夜間(6〜9時)まで行われ、昭和47年から岡田靖雄(常勤)へと受け継がれた。
 東京下町荒川区の峡田診療所はほとんどスラムといえるような地域にある木造2階建ての粗末な有床診療所である。事務所わきの診察室はカーテンで区切られた狭い空間であり、後ろには内科医が診察をしていた。
 しかしそこに来る患者たちは松沢病院で診る患者とは違って貧しいながらも生き生きとして個性的であった。私たちは小坂のメモを見ながら、時には松浦光子が付き添ってくれながらの診察で、松沢病院(巨大精神病院)の外来診察に比して鮮烈な印象を残した。
 その第1報は「「入院の適応」が地域側と診療所側でくいちがった症例に<0041<ついて」17)にある。そこで7例の具体例から「地域に根差した精神科診療所」の私の理念がまとめられている。
 原文のまま「考察」から引用しておこう。」(浜田[2001:41-42])

 V.地域精神医療というもの―私の日記抄―
 昭和46年

 「家族会・小坂英世の活動
 〔1971年〕2月24日
 三多摩C保健所の家族会で小坂が話をするというので聞きに行く(その頃小坂はまだ基本的には生活臨床学派〔群馬大グループ〕と大差なかった)。
 「分裂病者には弱点がある。特定の事象に過敏で、その弱点を刺激すると再発する。その弱点を本人に指摘し、くすぐり、自己洞察に至らしめるのが治療というもの。家族でもできる」と。
 「1)金銭に関すること、2)男女関係に関すること、3)面子に関すること(学歴・役職)、4)身体的故障に関すること、患者によってこの4つの弱点のうち1つに特異的に過敏であり、それを知ることが第一」
 話は具体的であり説得力がある。ちょっとうさんくさいが、明快、断定的で家族はうっとりと聞き入る。カリスマ性が大きい。
 「学歴にこだわる人は通信教育を。何か資格を…」「結婚にこだわる人は…『あなたを結婚させてあげたい…だから家事をきちんとできるように、明日から家事をお母さんに習いなさい』」「体にこだわる人はちょっとけがしても大きな包帯をまいてやれ、専門医にみせよ。頭から『気のせいだ』といってはいけない」「金にこだわる人は家計簿をつけさせて1円でもはっきりさせる。親があいまいにごまかしてはいけない。小使いをやったらその収支をきちんとチェックした方がよい。患者から金を借りたら必ず返すか、もう少し待って…とはっきりいう」などなど。具体的な話だから保健婦の体質にあうのだろう。
 F市の薄暗いバーで飲む。ふたりとも暗い。彼はだまってウイスキーをがぶのみする。孤独な男。別れて午前1時帰宅。」(浜田[2001:95])

◆「小坂グループの忘年会で
 12月9日
 夜、小坂英世一派との忘年会に出てみる。大熊一夫、大熊由紀子、吉岡眞二(上川病院)、上妻善生(上妻病院)、尾崎新(現立教大学教授)、小坂派の保健婦3名など11名。小坂が話しだす。

 「私の子どもが2歳半の時、ある夏の夜、妻が風呂上がりの子どもに下着を着せていた。パンツをはかせたとたん、ギャッ!と大声…さあ、あなたならどうする」と。もったいつけて得意な顔して「正解はこうです。パンツを脱がせた…蜂が入っていた…子どもの睾丸が赤く腫れ上がっている…。さ、あなたならどうする…。ちがうちがう。まず蜂をたたき殺す。そして妻にアンモニアをを買いに走らす。私が子どもを逆さにして傷口をチュウチュウと吸った。実はその子は今小学1年になっている。その記憶が残っている。『お父さんが蜂を殺して、毒を吸ってくれた…』と。そこでだ。この症例は家族教育に使える。医者を呼ぶ前に親としてやるべきことがある。原因ははっきりしている。それは親にしかわからない。蜂だ。それをまず見つけて殺す(原因をとりのぞく)。そして医療の手配をする。<0180<そして傷口をチュウチュウすう。果たして毒がどれだけ吸い出せるかはわからないが、その行為が重要である。子どもに『お父さんに毒をすってもらった!』という記憶がいつまでも残る」
 「精神分裂病でも同じことだと思う。分裂病を発病してしまいました。『ハイ、あとは先生にお願いします』と。全然ほったらかしにしているのがいる。パンツを脱がせることをしない親。子どもが泣きわめくので『どうしたの、どうしたの、何かおっしゃい…』と怒ったりなだめたりする親。布団をしいて寝かせる親。医者のところへ連れていく親。医者は熱を計って、胸や腹を診て、普通は睾丸まで診ないよ。『大したことないでしょう…』と。薬を与えて注射して終る。子どもは本当に痛かったことを誰にもわかってもらえず、我慢するしかない。原因は3つある。蜂。親。医者」

 そう断定的にあの小坂の太いドスのきいた声とジェスチャーで言われると、「なるほどそうか」と思って感心するしかない。しばらくたって分裂病まで拡大するのはちょっとおかしい。しかし一般的な育児、教育論としては説得力もあるし、「よう!小坂!」と大向こうから声がかかるだろう。
 とにかく小坂は酒をガブ飲み。「この男死ぬ気か!」と直感する。
 小坂は走る。翔ぶ。日々説が変わる。そして常に自信にあふれでいる。後ろを振り向かない。
 (彼に対する私の両価的な気持ちは1972年10月日本看護協会出版会で出した「精神分裂病読本」26)で、小坂英世、浜田晋、外間邦江の座談会によく出ている。3人とも熱っぽく本音で語っている。)」(浜田[2001:180-181])

笠原 敏雄 http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/psycho/zuiso1.html

 「その精神科病院では、精力的にシステム改革を進めようとしていた、まだ三十代の院長の方針のおかげで、当時としては先進的な「心理科」に所属し、かなり自由に活動することが許されていた。既にタブーとなりつつあった、小坂英世先生の創始になる精神分裂病の心理療法(小坂療法)を、6年近くもの間、大変な迷惑をかけつつ院内で実践し続けることができたのも、ひとえにこの院長のおかげであった。」

 「まもなく行なうようになった小坂療法との関連でも、医師たちとの間で、何度か興味深い経験をした。ある医師は、家族の依頼で分裂病と思しき新患の家庭を訪問する際、何度か私を同行させ、かなり自由にふるまわさせてくれた。懐の深いこの医師の見守る前で、私は、何人かの患者とやりとりし、短い時間の中で運よく心理的原因が探り当てられたことが一度だけあった。その瞬間、それまで1週間ほど続いていた患者の幻覚妄想や異常行動が消失した。その結果、この患者は入院の必要がなくなり、外来で心理療法を受けるようになった。」

 参考文献:小坂英世 (1972)『精神分裂病読本』日本看護協会出版部

http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/psycho/zuiso4.html

 「小坂英世先生は、自ら開発した心理療法に関連して興味深いのは、それに対する専門家たちの態度だと語っていた。群馬大学で創始された生活臨床と似通った社会生活指導(小坂、1970年)という方法を採用していた段階では、小坂先生もまだ学界に受け入れられていたが、その後、分裂病の抑圧理論を前面に押し出すようになってからは、次第に無視されるようになり、現在ではその存在は完全に抹殺され、小坂先生自身も漢方医に転身してしまっている。学会の中ですら、根も葉もないうわさが流されたと聞いたが、私が直接耳にしたのは、当時、わが国で指導的な立場にあった精神科教授の発言である。ある会合で紹介された温厚そうなその教授は、私が小坂療法を行なっていると聞くや、「君、小坂の言ってることはみんなうそだよ」と即座に断言した。しかし、実際には、単にうわさを耳にしているだけで、小坂療法についてはほとんど知らなかったのである。 」

 「最後に、(5)専門家はほとんど例外なく信じないであろうし、そのような主張に対してはきわめて強い不快感さえ示すことであろうが、分裂病の幻覚・妄想を心理的方法によって消失させることは、実際にはそれほど難しくない。私は、精神科病院に勤めていた6年弱の間に、主として明確な急性症状を示す分裂病患者100名強に、小坂療法的な観点から面接を行ない、数分から一時間程度の面接を平均で2.7回繰り返し、7割強の患者の分裂病症状を眼の前で軽快ないし消失させることに成功している。本連載の第1回目で紹介した2例もその中に含まれる。中でも興味深かったのは、父親の葬儀に出席したにもかかわらず、父親が病院の近くの町で暮らしているという妄想を、電撃療法や薬物療法が継続されてきたにもかかわらず、10年近くも訴え続けてきた五十代の分裂病患者の症例である。町内の住宅地図を持参し、「お父さんが暮らしている家を教えてください」と求めただけで、本人は、その地図を見ることなくその場を逃げ出したが、その直後から、その妄想を消失させてしまったのである(笠原、1997年、173-74ページ)。」

笠原 敏雄 (2005)『なぜあの人は懲りないのか困らないのか――日常生活の精神病理学』(旧題『懲りない・困らない症候群』〔春秋社〕)
栗本藤基 (1980)「分裂病者の母親に内観を施行しての一考察」『第三回内観学会発表論文集』(内観学会事務局)63-64ページ
小坂英世 (1970)『精神分裂病患者の社会生活指導』医学書院

◆浜田 晋・川上 武 20010702 「臨床日記からみる戦後病人史――『私の精神分裂病論』が提起したもの」(対談),『週刊医学界新聞』2443

 「川上 […]分裂病の患者さんは非常に多彩です。この本の中にも先生が,予後的なものを考えていますが,そういうところがよいところですね。
浜田 なるほど。長い目で見ていかなければいけないということと,1人ひとりはそれぞれ違うのだという「多様性」と言うのでしょうか。ひと言でいえば,分裂病者の多様な生き方を日記という形を借りて書いた,そういう事実を今の時点でまとめてみた,ということなのです。
 単なる論であってはいけない,いわゆる「反論としての論」,「精神分裂病論批判」というように私は今思っているのですが,それでよろしいでしょうか。
川上 この本の中に出てくる方で,先生と対照的なのは小坂英世さんでしょう。
 彼は「小坂精神分裂病理論を作りたい,これを立てるまでは死ねぬ」と言います。彼の言っていることは,実は新興宗教のカリスマ的なものに過ぎません。
 しかし,浜田先生の日記は,もっと大きな理論を生み出す土壌になっています。つまり,「浜田日記」にしなかったところがよいと思いますね。」

http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/psycho/book_denialofhappiness.html

 著書『幸福否定の構造』
 2004年3月に春秋社から出版された拙著『幸福否定の構造』は、2部構成になっています。第1部は、幸福否定という概念を基盤にした私の心理療法が生まれるまでの経過が詳しく説明されており、第2部には、私の心理療法理論から導き出される、現行の科学知識とは根底から異なる人間観が紹介されています。別著『なぜあの人は懲りないのか・困らないのか』(『懲りない・困らない症候群』の新装版=春秋社刊)は、人間に遍く存在する幸福否定という、隠された強い意志を浮き彫りにして見せてくれるさまざまな事例で構成されていますが、それに対して、本書の(特に後半)は、幸福否定の理論的説明が中心になっています。また、別著『隠された心の力』(春秋社刊)が、人間が潜在的に持つ能力を扱っているのに対して、本書は主として、人間の隠された人格的側面を扱っています。
 かつて精神分裂病の心理療法として一時注目を浴びていたにもかかわらず、その後、専門家からその存在を完全に抹殺されて現在に至っている小坂療法について、その歴史や追試の結果が、小坂英世先生との個人的接触を含めて、かなり詳しく書かれているのも、本書の大きな特徴と言えるでしょう。小坂療法について、ここまで詳細に書かれた本は他に存在しません。本書は、結果的に、精神科医に対するかなり厳しい批判にもなっています。小坂療法は、いつの日か必ずや再び脚光を浴びることになるはずです。小坂療法や分裂病の心理療法に関心のある方は、ぜひ本書をお読み下さい。
 また、オウム真理教の麻原彰晃についても、私の人間観から、これまでにない分析を行なっています。麻原彰晃はなぜ妄想を抱くに至ったのか、なぜ拘置所で拘禁反応を起こしたのか、専門家はなぜそれを拘禁反応と認めようとしないのかなど、麻原彰晃をめぐるふしぎな問題についても扱っています。
 下の表紙のサムネールをクリックすると、出版社の当該ページに飛びます。また、目次の .pdf ファイルがありますので、参考までにご覧下さい。内容を知っていただくため、序章、参考文献、索引の .pdf ファイルもご覧いただけるようにしました。

Copyright 1996-2007 c by 笠原敏雄 | last modified on 12/14/08

http://d.hatena.ne.jp/you999/20080922/p1

2008-09-22 Mon
家族療法の理論と実際/大原健士郎 石川元 編著

 浜松では浜松医大に大原健士郎先生がいらしたので、家族療法はかつては盛んだったみたいですね。現状はどうなのかはよく知りません。これはかつて浜名湖で行われたシンポジウムをまとめたもの。家族療法からは高石昇、東豊、宮田敬一、亀口憲治、平木典子、遊佐安一郎の諸先生方、他領域からは精神分析の乾吉佑先生、行動療法の山上敏子先生が参加されています。
 面白かったのは浜田晋先生の回想による「小坂理論と私 小坂流家族療法の再検討」でした。独自の理論とカリスマで信者を獲得し消えていった「日本のレイン」小坂英世に興味が湧きました。

家族療法の理論と実際〈1〉 大原 健士郎 石川 元
星和書店 1986-11

浜田 晋 2010 「小坂英世という男――老いのたわごと・46/日本社会精神医学外史・8」,『精神医療』第4次 (59):153-16

◆立岩 真也 2011/10/01 「社会派の行き先・12――連載 71」,『現代思想』39-(2011-10): 資料

 「また、この本の「発刊当時から、その一般向けの版を出したいという希望」があって、一九七〇年に出された『市民の精神衛生』には次のように記述されている――後述する「生活臨床」から出発し、独自の理論と実践を展開する小坂英世の主張が大きく採り入れられているのだが☆08、そしてその「生活臨床」と小坂の理論・実践は「反乱」を起こした側から後に強く批判されることになるのだが、このことについても後述する。」

■cf.http://www.02.246.ne.jp/~kasahara/parapsy/biblioillusion.html

笠原敏雄 (1980).
「内観による症状消失の心理力動に関する一考察――症例を中心として」『第三回内観学会発表論文集』(内観学会事務局)60-2ページ。
笠原敏雄 (1987a).
「結論」笠原編『サイの戦場』(平凡社)所収
笠原敏雄編 (1987b).
『サイの戦場――超心理学論争全史』平凡社
笠原敏雄 (1989/94a).
『超心理学研究』おうふう(『超心理学ハンドブック』〔ブレーン出版〕改訂版)
笠原敏雄 (1989/94b).
「PK能力者を対象にした実験的研究」『超心理学研究』(おうふう)(『超心理学ハンドブック』〔ブレーン出版〕改訂版)所収
笠原敏雄 (1989/94c).
「心理療法の中で観察された, PKによると思われる現象」『超心理学研究』(おうふう)(『超心理学ハンドブック』〔ブレーン出版〕改訂版)所収
笠原敏雄編 (1993a).
『超常現象のとらえにくさ』春秋社
笠原敏雄 (1993b).
「人間の心から見たサイのとらえにくさ――私の心理療法からの一考察」笠原編『超常現象のとらえにくさ』(春秋社)所収
笠原敏雄, 堀口省平 (1976a).
「小坂療法の追試研究1――抑圧解除法について」(未発表)
笠原敏雄, 堀口省平 (1976b).
「小坂療法の追試研究2――『もちあじ論』について」(未発表)
小坂英世 (1960). 「精神分裂病患者の家族関係の研究」『医療』第14巻4, 5号, 259-72, 354-60ページ
小坂英世 (1970). 『精神分裂病患者の社会生活指導』医学書院
小坂英世 (1971). 「リハビリテーションの技術論――精神分裂病患者の場合」江副 勉監修『精神科リハビリテーション』(医歯薬出版)所収
小坂英世 (1972a). 『患者と家族のための精神分裂病理論』珠真書房
小坂英世 (1972b). 『精神分裂病読本』日本看護協会出版部
小坂英世 (1973a). 『再発の研究』小坂教室(私家版)
小坂英世 (1973b). 『抵抗とイヤラシイ再発の研究』小坂教室(私家版)
小坂英世 (1973c). 『再燃・症状の動揺・症状の進行・症状の憎悪および初発の研究』小坂教室(私家版)
小坂英世 (1976). 『私の病因論と治療法』小坂教室(私家版)
小坂英世 (1977). 『小坂から患者諸君に』小坂教室(私家版)
www.showapsy.com/common/doc/message.pdf

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.
『造反有理――精神医療現代史へ』表紙


UP:20110604 REV:20110704, 0912, 20130817, 1125, 20140221
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