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生活臨床と地域精神衛生

群馬大学精神医療研究会 19740127 『精神医療』第2次Vol.3 No.2[通巻16]:63-78(特集:精神科治療とは何か)


◆群馬大学精神医療研究会 19740127 「生活臨床と地域精神衛生」,『精神医療』第2次Vol.3 No.2[通巻16]:63-78(特集:精神科治療とは何か)

 ※その社会的・歴史的意義に鑑み、以下、全文を収録させていただいています。

 はじめに
 私たちは1月以来、江熊氏の「脳アレルギー」人体実験を、講義−医局−学会を通し糾弾してきた。私たちが問うてきたのは、江熊擁護派のいうような「20年前」の「江熊個人」のことなどではなく、かかる人体実験を生み不問に付すどころかむしろそれを評価し自らの内に組み込み、それによって成立してきた精神医学・医療の思想とその構造であった。その意味では、激発する各精神病院闘争と基盤を同じくしている。大学における人体実験糾弾、市中病院における「患者」管理抑圧への告発糾弾の示すものは、呉秀三の「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト言フベシ」といった私宅監置の状況が、今日の精神医療の中にもなお生き続けているということである。
 隔離収容としての病院への問題意識と批判の中から当然生まれてきた地域精神医療への志向はすでに昭和30年代後半からあったが、これを唯一体系化した「生活臨床」が、台弘−江熊要一の精神外科的人体実験の両巨頭によっているのは皮肉である。彼らがともに、今なお自らの人体実験に対し居直っている姿を見るとき「地域で治す」をお題目とする「生活臨床」の「地域」なるものが、いかなる質であるのか疑わざるを得ない。
 生活臨床の基軸は社会順応であり、その理論はそれを目的とする「実学」である。すなわち、「患者」の生活ぶり(生活特性)が、能動型か受動型か(生活類型)、色・金・プライドのどれにもっとも弱いか(生活特徴)を、社会生活、特にそこでの破綻を通して診断し、それによって破綻をつぐなう方向、社会順応の方向で(イ)具体的に、(ロ)断定的に、(ハ)時期を失せず、(ニ)繰り返し 「働きかけ」と称した社会生活の規制を行なうものである。
 生活臨床は「精神分裂病」の再発防止を目的とするが、「分裂病」そのものがあいまいであるに加えて、そのような精神の状態が、いかなる時間・空間の背景を持ち、それをどうするのかを問わず、かつまた、それを「患者」が主体的にどのように克服してゆくのかを問わないで、社会順応への「技術」のみが問題とされるならば、問題は「患者」個人に還元されてしまい、そのような「技術」とは「患者」にとっては管理・抑圧でしかなくなるであろう。
 生活臨床の「地域」がかかる思想で組織化されているのを見るとき、そこに隔離収容的精神病院の医療・医学との質的差異を認めるのは難しい。私たちは、今日の精神医療の状況における「生活臨床」の特異性をも踏まえて、その理論と実践の総体に対する批判を具体化してゆかねばならないし、それによってはじめて、台・江熊人体実験批判の現実的第一歩を踏み出したといえるであろう。

 T「生活臨床」の背景
@政治・経済的背景(別年表を参照)
 直接生活臨床と政治経済の動向との脈絡をつかむことはできないが、ある関係を読み取ることは可能であろう。すなわち「再発予防五ヵ年<0063<(⇒表1年表・略)<0064<計画」は、池田高度経済成長政策と前後しており、とりわけ江熊、中沢らが地域(東村)へ乗り出したのは、40年精神衛生法改「正」によって、地域が「障害者」の治安的管理へと位置づけられた翌41年1月である。そして40年日韓条約=海外経済侵略の本格化の2年後、第1次第2次羽田闘争の年42年に江熊は「生活臨床」で学会賞を受けている。
 これをただちに直接的関係とする愚は避けねばならないが、帝国主義としての国内体制の再編が本格化してゆくことのうみ出す社会的状況(反動化、合理化、高度管理、情報化等)を背景として、生活臨床は計画され、整理され、組織され、評価されてきたことを見ておく必要がある。
A精神医療状況
 (1)治安管理の精神衛生行政
 差別分断支配と排外主義は、日帝の経済的各段階によって強化されてきているが、「精神障害者」に対するそれのエポックは、40年精神衛生法改「正」と積年の刑法改「正」=保安処分新設への野望であろう。
 40年改「正」の最大の眼目は「地域」であった。すでに36年精神衛生法一部改「正」で強化された措置入院制度は、40年改「正」では一<0065<段と強化(24〜26、29、30条〉され、知事、市町村長、警察官の権限が拡大された。さらに保健所に訪問指導を義務づけ(43条)「患者」管理への第一線へと狩り出し、外側には精神衛生センター(7条)地方精神衛生審議会(16条)の設置がうたわれた。かくして「障害者」のあぶり出しと病院への隔離収容の地域治安管理体制は、その法的基礎を得たのである。
 すでに38年頃から保健婦に対しオルグを開始していた生活臨床は、かかる体制を得て41年頃より地域実践に入るのである。
 ナチス顔負けの反革命陰謀=破防法−保安処分体制への動向については多くの批判が提出されているので、精神医療の状況はすでに保安処分であり、生活臨床は地域で「患者」管理、人格規制としてその片翼を担っていることを、指摘するに止めたい。
 (2)病院精神医療と大学精神医療
 向精神薬の登場 (27年〜)と精神衛生法 (25年〜)の「患者」狩り体制、そして、精神病院への特別金融政策・健保体制によって、精神医療の商業的基盤が形成されてくる状況の中で、営利中心の精神病院が隆盛となり、薬づけあるいは看護人の暴行、リンチがまかり通るような抑圧的状況の中に「患者」は文字通り隔離・収容されることになる。他方、医局講座制の下での大学精神医学は、台、江熊らの人体実験に象徴されるように、研究と業積のため、無数の「患者」に犠牲を強いる状況にあった。
 このような体制の中で、とりわけ30年代をおおった治療幻想はその後ほぼ破綻していくのであるが、かかる(精神)医療自身を含む「精神病」の生まれ出てくる基盤を根底的に総括することなしに、その場限り、近視眼的になされた「治療」の追求は、療法的くら替え、多元化という形をとっていく。
 台、江熊が、今なお自らの人体実験を居直って自己批判しないどころか、学会での論議を経てもなお、提示された批判がわからない、感受性を持たない、という事態を見るならば、台の精神外科−作業療法(松沢時代)−生活臨床(群大時代)−行動学的方法(東大)としての軌跡も、また、江熊の精神外科−薬物療法−生活臨床という軌跡も『掌上の悟空』でしかなく、人体実験の思想が今なお彼らの中に生き続けていると断ぜざるを得ないし、その御両人の叡知の結晶たる「生活臨床」もまた『姿形は変われども』ということになる。事実、「生活臨床」の疾病観、治癒像は基本的には「脳ア」人体実験のそれと同じものである。
 精神医療全般の療法的変選の概略は、図1のように図式化できるだろう。
(⇒図1 精神病諸治療法概略・略)

 U「生活臨床」の過程
@生活療法との内的連関
 生活臨床は「生活療法の社会生活版」(生活臨床第2報)である。その内的関連を見ておく。
 (1)台弘の軌跡
 生活臨床のイデオローグとしての台は松沢病院時代作業療法に携わっていた。台は病像それ自体よりも病棟、作業指導員、作業内容、病院体制等医療環境に力点をおいた論文「身体療法の限界と作業療法」(最新医学10巻、昭和30年)を書いている。その中での「欠陥分裂病という言葉の響きは、ともするとそれの動かし難い面のみを強調するきらいがある。しかし無為好褥の欠陥病像ができあがるには、単調で陰惨な病室に何年も閉じこめられ豊かな生活活動への可<0066<能性が奪われていたという事情があずかって力あることを考慮しなければならない。」という指摘は、それ自体は当を得ており、生活臨床が行動学的社会精神医学的着眼を持っているのもこの辺の事情によると思われる。
 しかし、松沢時代の台は、同時に他方であのロベクトミー人体実験をやっていたし、作業療法とてESで作業に引っ張り出すという、押し出し方式であったのである。「患者中心」といいつつもその実体は、人体実験、押し出し作業療法に見られるような管理抑圧、人間性の破壊抹殺である。さらに加えて、「医の進歩」・「研究の正義」=「患者中心」という医者の側の傲慢な価値規範に拝跪しているがゆえに一切の「患者」の現実は目に入ってはいないのである。江熊「脳アレルギー実験」もかかる構造は同質である。生活臨床は、このような欺瞞的二重構造を持つ台精神医学を母体としたのである。
 (2)治療概念の内的連関
 小林八郎は「身体的治療は精神的疾患の病因的核心に向けられ、その結果として社会適応能力がもたらされることを期待する。リハビリテーションは端的にこの社会適応を問題とし、その解決の過程において逆に疾患の核心もまた、治癒におもむくことを期待するのである。」(「精神疾患の生活療法」日本臨床、昭和34)と規定している。ここでのリハビリテーションとは生活療法と考えてよい。生活臨床の治療概念は完全にこの踏襲である。すなわち「分裂病治療の実践において働きかけ(身体療法は別として)には2つの流れがある。1つは精神療法であり、1つは生活療法である。この生活臨床治療編は生活療法の社会生活版である。」(生活臨床2報)とし、そして古典的病因論的アプローチはさておき「まず因襲社会への日常的意味での適応復帰から出発しなければならない」(同上)とするのだ。先に述べた生活臨床の社会医学的側面もここから出発している。
 生活臨床では必ずしも「精神病」の基盤を問わないのではなく、再発の社会生活的原因(誘因)はあらゆる手段をつくして色か金かプライドかといった矮小な形ではあるがつきとめようとするのである。しかし、こうした私立探偵まがいの調査追跡を行なうのも、「日常的意味での適応」状態を破綻させない、という至上目的から来ている。そして、働きかけは環境の制御に力点をおくのではなく、「患者」の規制へのプラグマティズムと化す。生活臨床の治療概念が「順応型社会復帰」である、と断ずることのできるのはこのような根拠による。
 (3)「働きかけ」の場面
 生活療法への批判は、治療的側面からは、(イ)「患者」主体の抜け落ちたマスが対象、(ロ)擬社会としての病院内での生活規則はせいぜい見せかけの自主性回復にしか至らない、として立てられるだろう。その点生活臨床は地域社会の、生の現実の中での規制であるがゆえに(ロ)に関する批判は免れている。しかし、(1)、(2)のような生成の秘密を持つがゆえに、(イ)についてはより合理的、かつ緻密になっただけのことである。
 (イ)の緻密化、(ロ)の逆転は、地域治安管理体制としての現実にとって、いかなる意味があるだろうか。「飼い訓らされた狂気」とでもいうべき、おそらく「患者」にとっては、二重の抑圧の状況が、そこには現出するであろう。「精神病院治療に対する重要なアンチテーゼとして出現したものとして評価できる。」(藤沢「生活療法と生活臨床」)などといってはおれないはずなのだ。
A再発防止五ヵ年計画
 昭和33年、台弘を教授とする群大精神科は、「精神分裂病の再発防止(予後改善〉五ヵ年計画」と銘うって、総力をあげての組織的治療と観察の試みに入った。その概要を次に示す。
 (1)基調
 台は、精神医療状況と自らの計画の見通しを次のように述べている。「我が国の精神病院が戦争の傷手から回復し始めた当初、それまでの身体的治療法(ショック療法)中心に傾いていた方針に強い反省が起ってきた。それは身体的治療法の効果が長期予後にほとんど影響を及ぼ<0067<さないことが判ったばかりでなく院内生活の積極的指導が長期の慢性患者にも社会復帰の可能性を作り出すことが、実例を以って示されたからである。先人がつとに強調していたところの生活指導や作業療法の価値が再認識され、患者は常に病的な人格ではなくて、情況によっては正常にも振る舞うことが指摘され始めた。」「一方、クロルプロマジンとレゼルピンを代表とする向精神薬剤が我国の分裂病治療に広く導入されるようになったのは1955年頃からである。これらの薬剤が単純に病因的療法と見做せるものでないことは間もなくあきらかになり、苦悶、興奮、妄想気分などのいわゆる標的症状に対して有効に作用するいわば対症的な療法であることを認識されるようになった。薬物療法はより広いスペクトルの、又は特異的なスペクトルの薬剤の開発という方向へ進む反面、生活指導や作業療法と結びつけてこれを行なうという多面作戦の意義が強調されるようだが分裂病治療の本筋はどこにあるのであろうか。これに対して明確に答えてくれた資料はまだ存在しない。」「1958年正月、我々は次のような計画をたてた。慢性の入院患者でもその中のあるものは、院内生活の中で積極的に社会性を高めるような働きかけをすると、社会復帰可能の域にまで達しうるのであるから新鮮な症例の退院患者を退院後の社会生活の中で持続的に適切な指導を与えればもっと容易に再発を予防できるのではなかろうか。」(「転換期に立つ精神分裂病の医療」)
 すなわち社会復帰を視点の基軸に、生活作業療法の評価と、身体療法と薬物療法の限界を確認し、生活療法の「社会復帰を一義的なものとし、その中で病因論的核心に迫る」という治療的立場の踏襲を明らかにした後、的を再発予防に絞り、「社会生活の中での治療」に展望を見出さんとしたのである。かくて、生活臨床の礎石は打たれたのだが、注意しておくべきことは、生活作業療法の方法的外延をしてはいるが、それへの根底的批判、総括はなされていないことである。
 (2)実践(表2、3参照)
 ここでは次の3点を押えておく必要があるだろう。
 まず第1に、病棟の開放は何であったのかという問題である。当時は、薬物の登場以降精神病院の開放化が進められるという背景があり、また大学精神科が医療スタッフと患者数の関係で比較的恵まれていたという状況の中で、すでに述べたようにその行動学的立場から、かねてから精神病院的環境の精神への影響を見ていた台は、病棟開放の実践に踏み切ったものである。が、しかし「この計画によれば入院は治療の第一階程にすぎず、従来のようにそれだけで完結するものではない。入院は退院後も患者と医師とも連絡を持続するための教育と準備の期間を兼ねているから、そこでの医師と患者の関係は長期にわたって相互の合意と信頼の上に成立させねばならない。」(転換期の医療)という将来の再発予防の医療活動にそなえて、というプログラマティックな位置づけは上記のような社会精神医学的立場を徹底化する、という事とはズレているという事は指摘しておかねばならない。
 第2には、入院治療の内容がどうであったかである。しかしこの点ではわれわれは十分な資料を得ていない。わずかに Day hospital、Night hospitalという形をとったという程度である。台「転換期……」も江熊の中間報告も、社会生活の中での働きかけとその結果についてはかなりの量で触れているが、入院治療そのものについてはほとんど触れていない。この事は生活作業療法・病院精神医療への根底的批判、総括の欠如の中でうまれた生活臨床の体質を示すだけかもしれないが、今日、精神病院闘争が激発して来る中で生活臨床派からは精神病院への批判と運動がいっさい出されないのも、このような精神医療の把え方によっている、と思えるのだ。
 第3には、退院「患者」の後保護、すなわち、問題とされる社会生活の中での治療についてである。再発予防五ヵ年計画の目標はここにあり、そのためにすべての精神科の体制が再編された<0068<といっても過言ではない。その内容とは、患者家族訪問、家族指導強化、外来強化というものであった。院内から社会生活の場へと、生活療法の方法は大きな変貌を遂げたのだがそれはまだ整理されず、むしろ行動学的観察に重点がおかれている。この活動は生活臨床の理論構築の基礎になるとともに41年以降の地域活動の基礎にもなる訳だが、この段階では従来の大学精神医療と生活臨床の過渡的な形態であり、活動の拠点は依然、大学にあった。

(⇒表2 群大精神科の医療体制の整備経過(台「転換期−」)・略)


 表3 精神分裂病者治療計画の構成
    (台「転換期−」より)

    患者に対し、 家族(職場)に対し

入院  納得入院   病気の説明、方針の説明
    患者会    面会時に患者会に出席
    通勤、通学  家族、職場の啓蒙
    練習外泊   受け入れ態勢の準備、
           患者と家庭訪問

退院  機に応じての早期退院
    後保護相談会、退院後の連絡を説得、
    患者指導と環境整備相談

後保護 定期的通院
    昼間病院   患家訪問指導
    随時来院   文書連絡
    退院者クラブ
再発  適時早期再入院
悪化  休息(短期)入院

 (3)実績と総括
 「我々の計画の現在までの成績では退院患者の3割に当る人々には治療効果が及ばない。又、一方向じく3割の人々は、一回の治療の後に持続的な良い適応が得られている。残りの4割は何らかの障害を一時的にせよ示している。この数字は古くからの予後統計と表面的には、余り違わないように見える。」(「台、転換期……」) としながら一方「昭和33年から計画された群大精神科における分裂病予後改善のための<働きかけ>の成果について著者の一人江熊は昭和37年4月、その中間発表を行なった。外来〜入院〜後保護の一貫した<働きかけ>の組織化から得られた結果から、当時はわれわれは、分裂病の予後に対して大きな期待といわば楽観的な見通しを持っていたのである。」(生活臨床1報)(後に修正が加えられはするが)とひとまず景気の良いアドバルーンはあげられた。五ヵ年計画を終え、さらに保健婦のオルグ、地域での活動が着々と進む中で、台は41年群大を去り、江<0069<熊にヘゲモニーが渡されていき、生活臨床の次の段階へと入っていくのである。

(⇒表4・略)
(⇒A:生活臨床と予後改善計画−39年−(台)・江熊・加藤・湯浅・田島
  B:生臨1.2報−41年−(台)・江熊・加藤・湯浅・田島
  C:学会シンポ−44年−湯浅
  D:対保健婦−46年−江熊・中沢)
(⇒Aの1:患者自身の特性
  Aの2:患者のおかれている環境からみると)

B生活臨床1報・2報
 五ヵ年計画を踏え、技術論(診断→治療)としての一応の完結を見たのが、41年相次いで提出された生活臨床1報・2報である。内容については別述するが、地域活動の密度に従って、生活特徴の把え方が変遷していることを、ここでは見ておきたい(表4参照)。
 Bでは主として、職業場面における方針が述べられているのだが、その診断と治療は、生活類型については明確である。すなわち能動型に対しては、「積極的にその生活に関与して、本人を一定の枠に他動的にはめ込むことが必要であり、可能なあらゆる手段で自ら生活圏を拡大しようとするのを抑えねばならない」とし、受動型に対しては「生活圏の拡大と変化を排除」し「本人よりも周囲の人達に対する働きかけが重要である」と定式化している。だが生活特徴については、診断そのものも、働きかけの方針もあいまいである。
 CはDに至る過渡的なものである。
 Dでは、生活類型に関しては Bを踏襲したままだが、生活特徴とは「社会生活破綻のきっかけとなるもの、何に弱いか」とはっきり概念規定し、その診断がつけば、その問題に関してのみ働きかける、という方針をとる。したがって、「色か金かプライドか、早く的確につかむのが名医」ということになる。その問題点については後に批判を加える。
 ここで見落してならないのは、Aの2の問題意識がB、C、Dでは抜け落されていることである。Aの行動病理学(?)的記載は、実践の中では必要なくなったとでもいうのだろうか。社会精神医学としての面は、ここに至ってそのささやかな火を消し去り社会管理医学への変質<0070<へと道はとられたのである。
C保健婦との結合
 生活臨床の地域実践の一方の主役は保健婦である。国家による地域治安管理体制の第一線に位置づけられている保健婦は、生活臨床ではより理論化された現場部隊として「保健婦はもちろん国からの上からの管理機構の末端としての役割を果しますが、同時に自治体労働者として住民につくしたい気持ちとその方向への努力も強い。どんな医者でも、患者をなおしたいという気持をもっているように、われわれは後者の志向に期待すべきだと思う。」(中沢正夫「地域精神衛生活動をめぐって」)という例の楽観的二元論の下に位置づけられている。
 (1)保健所業務の変遷
 40年精神衛生法改「正」の法的基礎と、医療内容の進展との中で、保健所の業務の中心は、かつての結核伝染病から、成人病精神衛生へと変わってきている(詳しくは信州大精医研の医ゼミレポートを参照)。
 (2)40年精神衛生法改「正」=国家のニード
 43条によって訪問指導が保健所に義務づけられ、その要員として保健婦があてられることになって(精神衛生相談員制度に至る)、地域−病院の患者管理体制の第一線におかれた。ライシャワー事件とマスコミの「精神障害者」野放し論は、日帝の治安管理政策の格好の材料となったのである。
 (3)生活臨床の保健婦オルグ
 精神衛生法に先立つ38年、江熊は県の保健婦研修会で講演し、「保健婦は、精神病に対し何もやっていない。」(江熊「地域精神衛生活動の展開方法」)と空気を入れ、「群大に来い。しごいてやる。」(西本「地域精神衛生活動の実際」)と以後、群大での研修会、県や保健所、保健婦等の主催する各種講演会、また、保健所でのケース検討会、地域精神医学会等を通して「地域で治る。」「保健婦が治せる。」と、生活臨床の技術論の宣伝にこれつとめ、41年以降の地域活動もあって、佐波郡東村、境町に拠点を形成、さらに沼田、高崎、前橋へとその勢力を伸ばさんとするに至るのである。他に確立された保健婦固有の技術論のない状況の中で、江熊神話ができ上がり、保健婦の群大詣、東村詣なる現象が生じる。そして現在は、江熊人体実験糾弾闘争に対して事情はわからなくとも、何はともあれ「江熊先生を守れ。」と署名カンパ活動に精力的に乗り出す、という状況にある。
 (4)生活臨床はなぜ保健婦に浸透したか
 上述したように、国家のニードおよび保健婦技術論不在の中におかれてあり、加えて仕事熱心、勉強好き、で15年来「保健婦とは何か」を論じてきたような保健婦に対し、「精神障害者に対して何もやっていない。」「地域で治せる。」「保健婦が治せる。」とアジり、いわゆる(イ)見てくる訪問、(ロ)手さぐり訪問、(ハ)働きかけ訪問の訪問指導の技術指針を与えれば、信仰的崇拝にも似たのめり込みに陥るのもおおかたの察しはつく。この生活臨床−保健婦連合に、致命的に欠落しているのは、自らの存在基盤を問う中で国家のニードを徹底して批判し抜く作業である。中沢は「もっとはっきりいえば、自覚的、自発的な活動によってたくわえられたエネルギーがよく国による管理学化への方向を押し返しうるかどうか、旗色は芳しからず、楽観どころではありません。」(「地域精神衛生活動をめぐって」)と述べているが、なぜ自分たちの旗色が悪いのか、どのような構造の中で劣勢なのか、語ろうとしない。それは「管理学」を外部の敵として決めてかかっているが、自分たちが、そうであることに気づいていないこととも相まっているのである。「地域のニード」なる幻想に満ちたデマゴギーをもこのような思想性は抵抗なく受け入れてしまうであろう。生活臨床−保健婦の連合の環が「治せる」=順応型社会復帰である背景はここにある。
 (5)50年保健所大改革構想
 地域管理の再編合理化に迫られる日帝はその一環として保健所の改革構想を打ち出して来ている。保健所問題懇談会の基調報告によれば、<0071<その大筋は地区(市町村)−地域(数市町村)−広域地域(数地域)と、地域を系列化し、それにそって医療サービスを地区保健センタ一−地域保健センタ一−広域地域保健センターと再編成しようというもので、特に広域地域センターには情報の収集管理を集中するという。コンピューター=国民総背番号制の志向と軌を一にしているのである。地域精神衛生が、この中でどのように位置づけられるかは、自ら明らかであろう。医療を口実として、「障害者」のみならず地域全成員の思想調査まがいのリストアップ程度の超治安管理体制へと突入することは必至であろう。
D東村・境町への進出
 41年2月、生活臨床は延14名の医者を佐波郡東村に送り込み、地域活動は開始された。当時の伊勢崎保健所長杉村が精神衛生に積極的で群大との協力体制がとられ、41年3月には東村家族会が発足、村議会で国保10割給付を43年に獲得している。この頃、峰村光平の東村診察所ができ、西本多美江ら2名の保健婦の精力的活動もあって、地域精神衛生のモデル地区となり、全国の保健婦の「東村詣」が行なわれるに至るのである。
 中沢・江熊「活動の実際−地域精神衛生活動」によれば、佐波・伊勢崎地区の活動の現状は次の通りである。
 「伊勢崎市(人口8万8千)、ここでは保健所と協力して地区割りで、保健婦が訪問指導を行なっている。当該保健所の嘱託医であり、精神科診療所を開いている峰村光平が責任をもってはりついている地区である。従来最もたちおくれていた地区であったが、最近の活動の伸びは注目されている。境町(人口2万7千)、5人の保健婦と群大の江熊要一が組んできわめて密度の濃い患者に対する働きかけが行なわれている。月1回の江熊による現地出張相談の1日(役場と家庭)は、患者及び家族に対する働きかけの方針決定のための面接とスタッフの討論の場となり、最近では県下の保健婦の実施訓練の場でもある。東村(人口9千4百)、ここは村の患者のほとんどが保健婦によって把握されており、疾病管理が最もすすんでいる。保健婦2人と組んでいるのは群大の中沢正夫である。原則として週に1回午後から出張し、もっぱら直接患者家庭訪問により、働きかけが行なわれる。またここでは活発な動きをみせる精神障害者家族会があり、昭和43年より国保10割給付が行なわれている。」(中沢・江熊「地域精神衛生活動の実際」)
 が、中沢が「だが、モデル地区におこった変化は容易に他の地区に及ぼうとしないのである。例えば10割給付……ところがこれが東村以外には増えないのである。東村以上にきめ細かい活動のある境町にさえ、拡がらないのである。」(地域精神衛生活動をめぐって)と嘆いているように、東村・境町の状況は、かなり特殊なものであるといえよう。では、その特殊性は何なのか。もともと(イ)伊勢崎保健所長杉村(現県予防課長)の協力、(ロ)活発な結核療友会活動を基礎とした家族会、(ハ)地域ニード〈第5表参照)、という基盤のあるところに加えて、延14名もの生活臨床派の医者が圧倒的に介入したこと、これであろう。
 中沢「生活臨床を土台として」から引用した第5表を見ると、中沢の意識の投影もあろうが、そのニードとは即自的利害であるだけに人間性に対する感覚を有しつつも、社会防衛としてもあることを見取ることができる。

 V 大学医局講座制と地域
@行政と大学精神科のゆ着
 生活臨床に治安的精神衛生行政=国家のニードへの徹底した批判が欠落していることは再三指摘したが、群馬における地域活動においては、精神衛生法地域治安管理体制をも含め行政に乗り、それを利用してすらいる。すなわち、
 (1)精神衛生実態調査の推進
 38年には江熊、菱山が委員となり本年の調査には江熊が横井教授とともに調査委員となって<0072<いる。精神衛生実態調査が日帝の国内体制再編に見合った治安管理政策への露払いとなっている以上、この役割は犯罪的である。

 表5 家族ののぞむ病院
    (中沢「生活臨床を土台として」)
1. 無料の病院
 「金につきる」「全額タダ」「健康なときはできるだけ払うから病気のときはタダに」「措置になって身がふるえるほどうれしかった」「貧之すれば心も貧しくなる」
2. 家からすんなり入院させられる病院
 「ペコペコ頭をさげたくない」「役人風吹かされて…頼まねばならない」「一部負担で保健所ともめごとがたえない」
3. 家族に会ってくれる医師がいて、いい医療をする
 「病状を説明してくれない」「めんどくさそうに先生があってくれる」「座敷豚みたいにかっておくだけではこまる」「なっとくいくまでなおしたい」
4. 中間施設らしきものをもつ
 「仕事が憶えられる」「退院前、訓練所のようなところでためしたり仕上げ」「病院の近くに独立してすめる家がほしい」「通って仕事が憶えられるところ」
5. 地域性
 「遠くて面会が1日がかり」「なるべく近く」「地元の家族の力になって、相談役になってほしい」

 *追記;10月実態調査は、保健所嘱託医=専門調査員のボイコットと、精医研、群大医学友会、医連合および県職等の阻止闘争とによって中止の事態に追い込んだのだが、日共は県会で実態調査予算案に賛成であった事を付記しておく。
 (2)精神衛生特別都市対策への埋没
 指定都市には高崎が45年、沼田が46年になっているが、高崎保健所の嘱託医に江熊がなっており、沼田には日共の拠点病院、利根中央病院がある。保健所嘱託医には伊勢田夫人がこれにあたっているが、特別都市指定に対する反対運動はなかった。国民総背番号制への野望を基調に地域治安管理の強化・分類収容・保安処分へと日帝の治安的精神衛生政策は方向づけられているが、この特別都市対策は訪問指導強化、個人カード整理を義務づける等その試行的布石であるにもかかわらず江熊らはそこにはまり込んでいるのみなのである。
 (3)県精神衛生行政の活用
 伊勢崎保健所との野合をはじめ、県の(主に保健婦を対象とした)講演会のフル活用、保健所嘱託医(高時−江熊、伊勢崎−蜂村、桐生−湯浅、前橋−国友、沼田−伊勢田)そこでのケース検討会と行政の作り出したシステムに乗り、地域活動へのテコにしてゆく手口は一貫している。境町、東村の例はそれが患者家族会にまで到達した場合である。
A大学医局と地域
 台、江熊はともに人体実験批判に対し「医の進歩」論で反発しているところのいわば医局講座制研究至上主義の権化である。生活臨床の「地域」とは東村、境町という地域の拠点を持っているが依然としてその中軸は大学医局であり医局講座制に依拠している。すなわち、
 (1)大学に生活臨床室を構えている。
 (2)地域の組織化にあたっては無料の地域活動(大学医局員だからこそできる)など、医局体制と助教授の権威をフル活用している。
 (3)地域拠点たる東村、境町の伊勢崎・佐波地区にしても大学を中心としたネットワーク(図2参照、地域管理網としか言えない!)としてある。
B保健婦の活動状況
 生活臨床が生み出す地域管理の数量的表現は保健婦の訪問指導状況に端的に示される。「精神障害者」訪問指導の頻度は、全国の10倍近くを示す高知を除けば群馬は宮城とともに群を抜いており5倍に近い。さらに被訪問者のうち「精神障害者」の占める割合では、群馬は一躍トップに踊り出る(表6)。群馬県内では伊勢崎、高崎、沼田(保健所別)でその割合が高い(表7、8いずれも群馬県予防課)。
C入院・通院状況
<0073<
(⇒表6 昭和45年(1〜12月)における保健婦の訪問状況(群馬県予防課)・略)
<0074<
(⇒表7 昭和46年(1〜12月)における保健所保健婦の訪問状況(本県)(群馬県予防課)・略)

 伊勢崎(特に東村)、沼田、前橋については確かに、入院「患者」の減少ないしは横ばい、外来の増加はいえるが、高崎では必ずしもそうではない。また、生活臨床とは特別関係のない他の地区(たとえば太田・安中)で東村と同様の傾向を示す所もある。他県の状況にたいして資料はないが、入院横ばい・外来増加は全国的傾向と思われるので生活臨床によればそうなると<0075<は一概にいえない。

 W 「生活臨床」批判の視点
@生活臨床の疾病観と治癒像
 江熊の「私の分裂病観は、基本的にはクレペリン、ブロイラーのそれに近い。」「以前は身体因にのみ目を奪われていたが、今日では変わった。」(いずれも講義)および、中沢の「我々にとって精神分裂病とは『青年期に発病し幻覚妄想があり、慢性に経過し末は欠陥状態に陥る』病気ではなく『自慢の孝行息子を奪い職場や隣近所とのつきあいに疲れ果てさせ家族中をいがみ合せ土地田畑を失い国民五割給付では治すことのできない病気』であったのです」(「地域精神衛生活動をめぐって」)を見ると、社会生活場面での「症状」に力点が移り、厄介迷惑をかけるのが病気で、そうしなくなれば治癒、ということになっている。これは、中沢がイキがっているほどダイナミックな転換ではなくて、クレペリン、ブロイラーの古典的「分裂病」を基礎に、近代風に社会生活場面での「症状」を押し出してみせただけのことである。医者の「患」者を見る眼差しは相変わらず「正常」の高みから向けられている。「因襲的社会への日常的な意味での社会復帰」という治療目標もすなわち「異常」者を「正常」の規範にはめ込むことに他ならない。「生活そのものを手段とする」諸々の技術論もすべて、このベースの上に、組み立てられたものである。
 私たちはここで「自傷他害」の精神病質概念、精神衛生法措置概念との類似に気つくはずである。厄介迷惑から因襲社会への適応、ということと、国家による治安管理=社会防衛との間に、どんな違いがあろうか。中沢は「地域活動は、もしわれわれが患者のために、もっといいシステム治療を心がけないと、たちまちのうちに社会防衛論に軒をかすことになります。それはわれわれの主観的意図とは無関係にもっと大ワクの中で変質してくるのです。(「同前」)とこの点での危倶を述べているが、上に述べた疾病・治癒概念に立脚するがゆえに「そのためにもまた、我々の武器(再発をくいとめる技術)をみがかなくてはならないわけです。」とそこにさらに深くはまり込んでいくだけなのである。
A生活臨床技術論への批判点
 (1)「患者」の背景を切り落す「生活特性」診断
 生活特性と称する類型化について、およびそれが治療方針と一体となった「治療」のための類型化であることについてはすでに触れた。したがって「働きかけ」への批判こそが主要な問題であるが、この類型化自身も(イ)そもそも成立するのか、(ロ)現実の「障害者」差別観に拍車をかけるのみかそれ自体が差別である、の2点で問題である。
 ここには症状のみを「患者」の状況と切り離して見取ってきた記載精神医学と同じ眼差しがある。「患者」の生活ぶりはそのひと個人に還元されレッテルがはられる。これは「精神病は遺伝」という偏見差別と同質のものであろう。
 (2)「患者」の主体性を無視した「働きかけ」
 生活臨床の治療=働きかけはひと口にいえば、社会順応のためのプラグマティックなあらゆる手段である。自らの生活史の時空の中で、何らかの理由をもって「分裂病」といわれる状態にある「患者」の主体性にとって、それは労働における労務管理と同質の外的規制としてあるだろう。したがって、「患者」が主体的に自己と状況を洞察し確認し乗り超えていくというような展開は、有り得なくなるのである。

受け入れない態度
 格付け・資格・技術を無視する
 希望の実現に強く反対する
 自信をなくさせる
 ささいな成功に基づくうぬぼれをけなす

受け入れる態度
 形式的な格付けも意味がある
 小さな資格でも重要視する
 将来の希望をもたせる
 ささいな成功に対しても高く評価する

  「生活臨床2報」より

 2報の「手の内に入れる」とか、生活特徴に<0076<対する「受け入れる態度、受け入れない態度」また、江熊の「分裂病者に対する私の接し方」での「一喝」、「茶化し」、「冗談」などは、順応させるためなら何でもやることを示しており、(イ)具体的に、(ロ)断定的に、(ハ)時期を失せず、(ニ)繰り返し、という働きかけのスローガンとはまさしく緻密化近代化した「患者」管理であろう。
 (3)技術至上主義に対し
 中沢によると、社会防衛にならないためには技術をみがけばよい、ということで、彼らに組織された保健婦も当然同じ事情である。「私は精神の患者さんを扱う場合に情熱や同情は絶対いらないと思っています。一番必要なものは技術です。」(西本「地域精神衛生活動の実際」)「技術」とは当然、生活特性の診断と、それに基づく働きかけ論のことである。この技術主義の結果、「治す」意気込みに燃えて、「障害者」を調べ上げ、あぶり出し、また、生活特徴をつかむために私立探偵まがいに調べあげるとか、生活圏を拡大させないための外的抑制を加えるとかの地域「患者」管理網へと血道を上げて行くことになるのである。
B「生活臨床」の現実の構造
 すでにT〜Vで論じてきたが、もう一度まとめ、さらに最後に「差別」の問題に触れておきたい。
 (1)地域治安管理体制の補完
 技術論のみを武器とした地域活動が、一方で治療的幻想ををふりまきながら、家族・保健婦等に、金・色・プライド・能動・受動なる貧困かつ一方的な人間理解の方法を押しつけ、人間管理を当然とする思想、を植えつけて「障害者」のあぶり出しを促進し、他方では「障害者」を地域社会から排除する地域−病院の体制との対決なくして、けっきょく、帝国主義的地域治安管理体制を医療の側から補完している。
 (2)精神病院医療に対する批判と運動の欠落
 生活臨床は、その発生から、院内生活療法の継承であり、それへの批判も含め精神病院医療に対する根底的批判と運動は欠落している。このため、「手の内」に入らない「患者」は他の病院に送り込む場合すらあるのである。
 「地域精神衛生活動をめぐって」の中で、中沢は「もちろん地域活動をさかんにするカギは、人の熱意もさることながら、医擦技術の進歩と一般化、医療制度の改革、組織−人−それを保障する金など多要素的です。しかし、現象的にいって当面のカギは精神病院の変革でしょう。」と「カギ」の問題を提出しているが、その内容については何も語っていない。のみならず「いくつかの今日的問題点」の項で「第5は地域活動を推しすすめるうえで不可欠な精神病院の変革です。すでに述べたように精神病院が地域にむかって歩みはじめる保証はどこにもないわけです。昨今の精神病院変革の嵐はとまってしまいましたし、あの中から何が生まれるのか未知数では私は多く期待できないと感じています。」と傍観者の態を装って評論してみせるのであるが、一体、中沢らは「精神病院変革」のために何をしてきたというのか。続発する精神病院闘争に対し陰に陽に反対し続けて来たのは他ならぬ彼らであった。
 (3)大学医局講座制の無批判的利用 (VのA〉
 (4)必生活臨床が産み出す差別・偏見
 「治らない」という偏見が差別の根源である、と生活臨床派は言う。「むしろ、どうやって地域にとどめておいて、再発を防ぎ、患者さんの生活を発展させていくか、"入院しなくても治る"ということを確立する、このことが精神の患者に対する偏見・蔑視をなくする一番大切なことだ。」(西本「地域精神衛生活動の実際」)。「治すことが人権を守る」(中沢「百ヵ条」)と。かくて、彼らは技術至上主義にのめり込んでゆくのである。一体「治る」ことによって守られる「人権」とは何だろうか。人権とはそのような陽のあたる人々にしか享受されるべきでないと考えているのだろうか。そこには、根深い戦後民主主義型の彼らの体質が表明されている。そして、それ自身がさらにたちの悪い差別・偏見であることに彼らは気づいてはいない。すな<0077<わち、治る−治らない、非入院−入院の新たな差別構造を彼らの内と、その周辺に、うみ出して行っているのである。
 差別と排外主義は、決して技術だけの問題として止まるものではない。日帝の海外侵略国内再編の進行とともに、排外主義イデオロギー・差別分断支配は、市民社会の内と外とに構造化されてきている。
 精神医療における地域管理・分類収容・保安処分の治安政策は、一連のマスコミの「狂気」キャンペーン、「気遣いに刃物」的発想、および医療の側からの精神病質概念、「自傷他害」概念、人体実験の思想と相補して差別の構造をなしており、それは、入管法−国士館事件等の在日外国人(特に朝・中)差別、部落差別、身障者差別、優生保護法−女性差別、と基盤を同じくしているのである。これら総体に向けた運動の中でしか、差別構造解体の展開はないであろう。

 おわりに
 病院精神医療へのアンチテーゼの形で登場してきた地域精神医療を、現在唯一体系化している生活臨床が帝国主義による地域−病院の地域治安管理体制の、実に見事な補完であること、また、その精神医療の思想が、人体実験思想=上から眺めた管理抑圧の継承であることを私たちは見てきた。
 生活臨床批判とは、同時にこれらに対する妥協なき戦いであって、決して、批判のための批判・揚足取りであってはならないはずである。
 私たちは、江熊人体実験糾弾・地域治安管理体制解体・保安処分新設粉砕の闘いをさらに推し進め、その中でこの生活臨床批判を理論的にも実践的にも深化してゆくつもりである。
 本論文は第12回医ゼミ第1分科会のために書かれたものの改訂版である。改訂にあたり、京大精医研、木田孝太郎氏の的を射た批判と助言があったことを、同氏への謝意とともに付記しておきたい。

 参考文献
1)江熊要一:精神分裂病寛解者の社会的適応の破綻をいかに防止するか,精神経誌,64巻,1962。
2)加藤友之・江熊要一:精神分裂病の予後計画−改善における薬物の役割,精神経誌,65巻2号,1963。
3)加藤・江熊:精神分裂病の生活臨床と予後改善計画,精神経誌,66号4巻,1964。
4)台弘:生活臨床より見た精神分裂病の異常と治癒の概念,精神経誌,67巻7号,1965。
5)台:転換期に立つ精神分裂病の医療,北関東医学,15巻,1965。
6)田島昭・江熊:精神分裂病の生活臨床,第62回日本精神経学会,1965。
7)加藤・田島・湯浅修一・江熊:生活臨床第1報,精神経誌,68巻,1966。
8)江熊:薬物と精神療法,精神医学,8巻,1966。
9)加藤・田島・湯浅・江熊:生活臨床第2報,精神経誌,69巻,1966。
10)江熊:精神疾患の自宅療法の指導,生活教育2月号,1966。
11)台:精神医学における行動学的接近,精神経誌,69巻9号,1967。
12)中沢正夫:東村での活動,公衆衛生,Vol.32,No.2,1968。
13)江熊:分裂病者に対する私の接し方,精神医学,U巻4号,1969。
14)湯浅:精神療法と生活療法,精神経誌,1969。
15)江熊:問診とカウンセリング,総合臨床,Vol.19 No.7,1970。
16)江熊:地域精神衛生活動の展開方法,地域保健,10月号,1970。
17)西本多美江:地域精神衛生活動の実際,地域保健,10月号,1970。
18)中沢:精神衛生を始めようとする人の百ヵ条,保健婦雑誌,Vol.27,No.2,1971。
19)中沢・峰村光平:私の技術論,保健婦雑誌,Vol.27,No.2,1971。
20)中沢:地域精神衛生活動,新しい医師,5月21日号,1972。
21)江熊・中沢:活動の実際,公衆衛生,Vol.36,No.2,1972。
<0078<


UP:20110730 REV:
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