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生活療法

精神障害/精神医療歴史

last update:20110609

■関連事項・人

小林 八郎(精神科医)
臺 弘/台 弘(精神科医,1913〜)
竹村 堅次(精神科医,1924〜)
中沢 正夫(精神科医,1937〜)
西尾 友三郎(精神科医)
松島 昭(精神科医)
藤沢 敏雄(精神科医,1934〜2009)
浅野 弘毅(精神科医,1946〜)
烏山病院闘争

阿部 あかね 2013 「精神科看護者にとって作業療法と生活指導への実践が有する意義――1950・1960 年代のわが国における実践報告の分析」,『立命館人間科学研究』27:15-29
 http://www.ritsumeihuman.com/uploads/publications/85/p015-029.pdf
◆立岩 真也 2013/05/01 「精神医療についての本の準備・2――連載 89」,『現代思想』41-(2013-5):- 
◆立岩 真也 2013/06/01 「精神医療についての本の準備・3――連載 90」,『現代思想』41-8(2013-6):18-28 →

『現代思想』41-(2013-5)   『現代思想』41-8(2013-6)

◆1951年9月、「「精神外科手術療法として各種精神科治療の効果のない荒廃した患者がロボトミー、デアレクトミーなどの手術によって意志疎通性を恢復した後、その後の人間らしい生活の躾を作ることを重要目的として外科病棟」が設置」(国立武蔵野療養所の1955年の年報、藤澤[1998:296]に引用)

◆「昭和二四年頃から、不潔行為や暴力行為のため、保護室の中に閉じこめられていた患者に対して、脳手術を行うようになった。そして、脳手術の終わった患者を再教育する動きが始まった。脳手術そのものに対しては、後日、多方面からの批判非難があり、三一年になって<0296<からは、ほとんど行われなくなったが、その時の動きが武蔵野診療所における「生活療法」の基礎である「生活指導」のきっかけとなったのは否定できない事である。」(国立武蔵野療養所の一九六〇年の年報、藤澤[1972→1998:296-297]に引用)

◆「生活療法はロボトミーの後療法としてスタートし、おりしも普及しはじめた薬物療法に後押しされて全国的に広まりました。あたりまえの生活とはかけ離れた環境、生活を奪われた環境のもとで、こと細かに日常の所作を規制され矯正されるのが生活療法だったのです。療法の対象とされた患者は、過剰な院内適応が図ら<0076<れ、結果として退院と院外の生活は遠のくばかりでした。」(浅野[2005:76])

◆「一部の国立病院や療養所で試みられていた作業療法と、その延長線上にある生活療法は、向精神薬の開発後に全国の私的な精神病院に普及することになった。この背景には、向精神薬が患者を覚醒状態において鎮静させる効果があるため、電器ショックやインシュリン療法と違って、少ない人手でたくさんの患者を管理することが可能になったことがある。」(坂口[2002:409])

◆「加藤[6b]によれば、小林による生活療法の体系化は、1953年の懇話会の席で国立武蔵療養所所長の関根眞一が次のように話したことに端を発するという捉え方ができる。  「患者の幾分でも残っている精神作用を活用して、健康な生活圏内に引きあげる源に作業療法の意義がある。その点から私は作業療法と云う言葉の代わりに、広い意味から生活指導と名付けたいと思う」(柳田純子[2004]、加藤[6b]=加藤伸勝[2004])

◆「われわれがレクリエーション療法の重要性に気付いたのは1952年(S27)年頃からである。それより先、昭和25年に、精神外科手術を終えた患者に、その後療法として行った生活指導が功を奏したことを認め、手術をしていない荒廃患者にも生活指導をはじめた。昭和26年には専門の生活指導病棟ができた。生活指導が行き届いていることはレクリエーション療法の最もよい下地である」(小林八郎,鎌倉矩子[2001]に引用)

◆「生活指導、レク指導、作業療法は、その領域と狙いが、それぞれ違うことについては前述した通りである。[…]総括的な命名が必要とあれば、われわれは生活療法という言葉を選びたい。日常語を学術語に使うという昨今の流行を取り入れて命名を試みると次のようになる。<294<
 生活療法(くらし療法)
 (1)(しつけ療法)habit training
 (2)レクリエーション療法(あそび療法) recreation therapy
 (3)作業療法(はたらき療法) work therapy」(小林・小林[1956]、藤澤[1998:294-295]に引用)

◆1957年(昭和32年)武蔵療養所において生活療法委員会発足。
※レク病棟にいる者にも作業病棟にいる者にも、荒廃患者にも軽症患者にも常に生活指導は必要で社会復帰のための形式的整備である。(小林論文引用、浅野弘毅『精神医療論争史』p35)

◆小林 八郎 1957 「精神疾患の生活療法」,『日本臨床』第17巻第1号.

「指示的−非指示的のみでなく、庇護的−訓練的、心理的開放−物理的閉鎖のような対立概念と方法が、病院精神医学のなかにあり、いずれも必要があって発達して来たのである。このような対立的なものを、現場に生かして使い、あるいは綜合させ、あるいは個別的に適用して、滞ることがないのが生活療法の本質であろうと思う」

◆1966〜 藤沢[1998]より(立岩[2013(90)]に引用)

 「私が赴任した時点で、武蔵療養所の「生活療法」は、提唱者の小林の主導下からはなれ、小林の実験的治療病棟の共同作業者の一人であった岡庭武と秋元の指導下に移っていたようである。一九五七年四月に発足した生活療法委員会は、一九六六年六月の生活療法組織委員会の編成により再検討されることとなり、岡庭が作業医長となった。一九六六年一一月には、生活療法棟が発足して「生活療法」の中央化が企図され、さらに同年一二月には「生活療法要綱」なるものが作製された。秋元が着任して八カ月の間のことであり、秋元がどの程度「生活療法」について認識を持った上で、その過程をすすめたのかは、よくわからない。ともあれ、一九六七年には、小林の「生活療法」は、岡庭・秋元の「生活療法」に移行していたのである。ただし、その内容に根本的な改変が加えられたわけでないことは、「要綱」を見れば明らかである。/一九六七年四月に松沢病院から移り、短期間の男子急性期病棟の体験のあと、同年八月から私は「男子社会復帰病棟」の担当医となった。作業医長であり、社会復帰病棟の担当医であった岡庭が、当時国立病院・療養所が開始した沖縄の精神医療援助のための派遣医として出張したあとの病棟後任医としてである。」(藤沢[1998:319-321])
 「国立武蔵療養所が[…「要綱」改訂]をきめたのは、一九七二年[…]詳しい経緯は、改訂のための討論を主催して来た当時の作業医長原田憲一の文章[…]と、所長秋元波留夫の[…]文章にほぼ明らかにされている。これは、「生活療法」という言葉を武蔵療養所の治療活動からなくして、作業療法とレク療法に還元し、同時に精神科看護の独自の展開を期待することを目標としていたのである。この討論は、約二年間にわたって行われたものであり、武蔵療養所の五年間の活動の展開が必然的にもたらしたものであった。小林が指摘するように、決して「上位にランクされる者」が勝手に決定をしたことではない。[…]小林の病院管理作法からは考えられない民主的で活発な討論のつみ重ねが、みちびき出したことといってよい。」(同[387-389]、言及されている文献は原田[1972]、秋山[1972]、小林[1978])
 「私が赴任した時代は、国立武蔵療養所は動きはじめていた。松沢病院に比べて患者数は少なかったし(と言っても、当時定床八〇〇床であった)、職員数も少なかった。病院全体の構造がよく見通せ、ある病棟の変化が他の病棟にインパクトを与えていくという流動性をもつ時代に入りつつあった。[…]秋元の人事の影響があったことは確かであろう。サナトリウムが精神病院にかわろうとしつつあったと言ってよいかもしれない。若い医師達の動きと活動性がさまざまなインパクトを与え、療養所を動かしつつあった。それは、いわば「近代化」と呼ぶべき動きの一側面であった。しかし、この「近代化」がはらむ矛盾と落とし穴は、国立武蔵療養所においては、「生活療法」批判の作業のあとに顕在化するのである。[…]どのような精神病院へということが重要なのであった。そして、外的な条件としては、一九六九年にはじまった日本精神神経学会の改革闘争が直接・間接に武蔵療養所にも影響を投げかけつつあった。
 国立武蔵療養所の「生活療法」批判の実践的・日常的なあらわれは、「自由化」と呼んでいいことであった。不必要な諸規則の廃棄と患者の日常生活上の自由化・社会化ということであった。当然のことであるが、それは形式的・表面的な変化でしかない。それに伴う医療従事者の内的変革が伴わなければ、形骸化と責任放棄を招くことになるのである。その内的変革は、苦しい作業である。この苦しい作業に、全所的にとり組むかどうかが問われたのである。われわれが、「プラハの春」と秘かに語った時期は長くは続かなかった。秋元は「生活療法」批判につづく困難な、そして重要な作業の前で、回れ右をするのである。新しい秩序と権威威主義的支配を企図するのである。」(同[324-325])

◆1969〜 烏山病院闘争

 「しつけを行うという、いわば生活のリズムを人なみに回復させるための再教育である。起床から就寝に、更に夜間のトイレット・トレーニングにいたる24時間の生活にあって、指導すべき項目は限りなくある。この生活指導は、レク・作業の基礎となり、またこの二者と組合わされて生活療法は成り立つ」(烏丸病院問題資料刊行会編[1981]、浅野[2000:40]に引用)

◆小林 八郎・松本 胖・池田 由子・加藤 伸勝・徳田 良仁・鈴木 明子 編 19700315 『精神科作業療法』,医学書院,247p. ASIN: B000JA0RBS 2300 [amazon] ※ m.

◆1972頃 

 「「正直のところ私の心の片隅には『今の時点で旗をおろして本当に正しかったのだろうか? 旗は立てたまま、後門旗がみえなくなるところまでわれわれが前進すべきなのではなかったか?』という思いが今もかすかにある。私の心配が杷憂であることを――すなわち、武蔵において、生活指導、作業療法を、今後さらに広げ深めていく上に、生活療法の旗をおろしたことが役立つことを切に願う」/この原田の感慨は、そのあとの武蔵療養所における治療活動の推移について、なにがしかの予感を抱いていたのではないかとさえ読みとれるのである。原田は一九七二年二月に武蔵療養所を去って信州大学へ移ったのである。/原田は武蔵療養所の治療活動が、活発なひろがりを持ちはじめ、自由な討論と実践が展開した時期に在職をしていた人である。そして、一九七〇年にはじまった専門病棟設立の動きを同時に経験し、武蔵療養所の運営全体のあり方についても心をくだいた人であった。したがって、原田の杞憂は武蔵療養所の開放化と自由化の流れと新しく登場して来た専門病棟群の開設・純化の流れとが、どのように矛盾なく展開していくかについて誰しもが危倶の念を抱きはじめていた状況の中で生じたものだと考えてよいのである。」(同[389-390]、引かれているのは原田[1972])

 そしてこの引用の手前に、時間の順序としては逆なのだが、武蔵療養所の中毒専門病棟の医長を一年すこし務め、原田の後、作業医長を兼務した石戸政治が就任するにあたっての感想を引いている。

 「「昨今、何かにつけて生活療法が批判されるのは、むしろ今日的状況に因するところが大きいのではないでしょうか。一方では生活療法そのものが手アカにまみれ、他方では、科学方法論や人間認識の常識さえもが見失われ、混乱しているような”精神医学”が横行しているという今日的状況を考える時、私はいつも肝腎な点が素通りされている様な気がしてならないのです」
 一九七二年に日本精神神経学会が「生活療法とは何か」というシンポジウムを行う前に書かれた文章であり、石戸が指摘している精神医学の状況は、一九六九年以来の精神神経学会闘争とそれに関連した動きについてのことなのである。明らかに、学会闘争についてにがにがしい思いを抱いているわけであり、それだけでなく、武蔵療養所の臨床現場で起こっていたことについても同じように感じていたのであろう。」(同[388-389])

 生活療法〜作業療法の責任者は、小林八郎〜岡庭武〜原田憲一〜石戸政治と移っていったことになる☆02。そして藤沢が述べるのは、まず、秋元が研究所を構想し、それ自体はよしとしても、病院における臨床、運営体制の改善・構築に手がまわらなくなった、それ以前に、その方面についての感覚を欠き、才覚がなく、改革は頓挫してしまったということだ。そしてそこには秋元(他)の造反派、そう立場を明確にしなくても病院の改革に同調した人たち、その活動への反感があったということだ。」(立岩[2013])

秋元 波留夫 1975 「作業療法を考える」、秋元編[1975:9-22]→秋元[1976a:140-158]

 「「生活療法」の提唱は、わが国の精神科作業療法が生産労働にかたより、労役にはしりがちであったことへの反省としての意昧をもち、精神病院の生活環境全体を「治療的」に再構成する目標を示す役わりを果たしたことはたしかだろう。[…]ただし指摘しておかねばならぬことは、当時はまだ作業療法士が専門職として独立しておらず、その力も弱かったということ、したがって「生活療法」は彼らとは無関係に医師の独善的ともいうべき発想に基いたものだといえないこともないということだ。」(秋元[1975:15-16])
 「「生活療法」には原理的にもおかしいことがある。その一つは作業療法やレク療法とは直接かかわりのない「生活指導」をそのなかにとリ入れ、これを作業療法やレク療法の基礎と見倣していることである。さらに問題なのは、音楽療法、絵画療法、演劇療法(心理劇を含めて)、図書療法、社会療法などをすべて網羅[…]するようにその範囲が拡大されたことである。[…]/[…]「生活療法」は無限大の可能性をもった精神科医療という途方もないものに祭りあげられたのである。/「生活療法」の内容のこのような肥大はこれを実践するにあたってさまざまな問題を提起する。このように多様で多面的な「生活療法」を誰が計画し、誰が実施するのか、その治療の責任は誰が負うのか、等々である。/[…]「生活療法」とは具体的にどのような医療活動をさすのだろうか。いやしくも療法を名のる以上、方法論的な同一性と統一がなければなるまい。[…]国立武蔵療養所の実践状況を見てもとうてい療法とよぶにふさわしい統一を発見することができない。[…]実践が不充分であるがために、「生活療法」の体系化ができなかったのではなく、それはもともと体系の構築など望むべくもない性質を異にした医療や看護のよせ集めにすぎないものだったからである。
 […]「われわれは生活指導を基盤としてレクリエイション療法と作業療法を総合的に考えるが、同時に三者を一応切り離して独立のものとする」(小林・小林[1956])という文句はその意昧がよくわかりかねるが[…]察せられることは「生活療法」において「生活指導」がとくに重視されていることである。[…]それは主として病棟で看護者によって行なわれる、日常生活の世話や面倒を見ることを指している。看護者によるこれらのケアを「生活指導」と呼び、調教的な意味づけを一方的に与えることへの疑問はともかくとして[…]実態はまぎれもなく精神科看護の活動そのものである。国立武蔵療法所生活療法要綱は「生活指導」を担当する部局として「生活指導部」をおくこととし、その業務として「基本的指導」(病棟内における基本的な日常生活の指導および身辺の清潔、整理)や「社会的指導」(身辺に対する関心をたかめ、対人関係、社会的適応性の改善をはかる)など精神科看護を内容とする活動をあげている。この部局の「総括責任者」を総婦長とする他、「生活指導婦長」をおくことにしたのも、この部局の活動が看護に属することを諒解しているためである。/本来精神科看護の[…]重要な任務である「生活指導」を「生活療法の基盤」だといって、理念の上でも、実践の上でも、看護からきりはなした[…]看護の主体性の侵害であったかも知れない。
 「もっと大切なことは、作業療法やレク療法(このニつは[…]活動療法として統一されるべき領城である)とは次元を異にする「生活指導」を加えて観念的に「生活療法」なるものを作りあげた結果、「生活指導」が看護と作業・レク療法の谷間におかれ宙に浮いてしまったということである。さらに[…]作業・レク療法自身もまた「生活療法」というあいまいで実態のない理念のために圧迫されてその独自性がかすんてしまった[…]。このことを[…]過去数年の医療実践はわれわれに教えた。
 「生活療法」を作業・レク療法に還元する[…]のは実践のなかから生まれた反省であり、この反省がまず作業・レク療法職員の討議からめばえたことを私は評価したい。[…]この反省は国立武蔵療養所の仕事について専門職としての意識と責任を身につけなければできない[…]。/「生活療法」の作業療法・レク療法への還元は同時に「生活指導」の看護への還元を意昧する。「生活療法」のなかで空文化され、よどんでいた「生活指導」は理念の上でも実践の上でも精神科看護の基本問題として問い直されなければならない。[…]「生活指導」とは何かが個々の患者の看護場面で具体的にとりあげられなければならない[…]。
 「生活療法」を作業・レク療法に還元することにもうひとつ大切な意昧がある[…]。それは作業・レク療法、とくに作業療法に含まれている矛盾や欠陥が「生活療法」という美名によって被覆される嫌いがあるということである。[…]現実を仮装することをやめ、もしそれが療法の名に値しない実態をもっているなら、その正体を直視してそれを治療にまでたかめる努力をつづけようではないか。/精神科医療のおかれている客観状勢は看護や作業・レク療法にもさまざまな困難をもたらしてしる。この困難と闘うには、精神科医療を担当する各職域が、まず自分自身の独立と責任を確立すること、その上でお互いの職域の役わりを正しく認識し、お互いに協力することが必要である。「生活療法」の作業療法への還元もまた専門職確立の意義をもっていると忠う。」(秋元[1975:14-19])

藤澤 敏雄 1972 「「生活療法」を生みだしたもの」,1972年日本精神神経学会シンポジウム「生活療法」とは何か→藤澤[1998:289-307]*
*藤澤 敏雄 19981110 『精神医療と社会 増補新装版』,批評社,431p. ISBN-10: 4826502648 ISBN-13: 978-4826502641 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1956.

 1951年9月、「「精神外科手術療法として各種精神科治療の効果のない荒廃した患者をロボトミー、デアレクトミーなどの手術によって意志疎通性を恢復した後、その後の人間らしい生活の躾を作ることを重要目的として外科病棟」が設置」(国立武蔵野療養所の1955年の年報、藤澤[1972→1998:296]に引用)

 「昭和二四年頃から、不潔行為や暴力行為のため、保護室の中に閉じこめられていた患者に対して、脳手術を行うようになった。そして、脳手術の終わった患者を再教育する動きが始まった。脳手術そのものに対しては、後日、多方面からの批判非難があり、三一年になって<0296<からは、ほとんど行われなくなったが、その時の動きが武蔵野診療所における「生活療法」の基礎である「生活指導」のきっかけとなったのは否定できない事である。」(国立武蔵野療養所の1960年の年報、藤澤[1972→1998:296-297]に引用)

小澤 勲 1974 「精神病院における生活療法」,『臨床生活医学』3:25-31

◆吉田 おさみ 19750512 「患者にとって治療とは何か」,『精神医療』第2次4-3(17):60-63

 「私は3年余り前に退院し、その後1週間に一度通院していますが、その体験を素材として、患者の立場から精神医療について考えてみたいと思います。[…]  大まかにいって、従来の精神医療を否定する考えの筋道に2つあります。ひとつは、狂気は病気でないから、当然、治療の対象は問題にならないという考え方。もうひとつは、狂気は病気だけれども、病気だからといって必ずしも治療(従来の意味での)する必要はないという考え方です。狂気が病気かどうかは難しい問題ですけれど、私は病気でないと簡単に割り切ることはできません。といいますのは、もう10年以上も前になりますが、私は分裂病の症候といわれる被害妄想、させられ行為、思考伝播、恐怖体験などを体験し、特に激しい恐怖感に襲われた時は本当に苦しく、医師に救いを求めるほかなかったのです。そういう意味で、医療を全面的に否定しきることは私にはできません。でも、完全に症候もとれ、苦痛もなくなった現在、生活の領域にまず医療が割りこんでくることは私は納得できません。」(吉田[1975:60])
 「もともと医療には本人の利益を保護する面と、国家・社会(いいかえれば支配者)の利益をまもる面との2つがあります。身体医療の場合には前者に重点があり、精神医療は後者に重点がおかれてきたといえるでしょう。そして身体医療においては、本人の利益をまもることがそのまま国家社会の利益につながるのに対し、精神医療の場合は両者は背馳する場合が多いということもいえるでしょう。
 以上のようなことから、私は治療は原則として身体的療法である薬物療法のみに、しかも、それは患者の要請がある場合にのみかぎられるべきだと考えます。精神療法や生活療法は医師の抱いている価値観に左右されることが多く、またこれらのめざす「社会への適応」ということが問題だからです。社会に適応すべききか、異議申し立て者に留まるべきかは本人の選択にまかすべきことです。精神療法や生活療法の生活指導は、いわば人間操作の技術にすぎず、そこでは患者の主体性は完全に圧殺されてしまいます。」(吉田[1975:61]) cf.薬についての言説

◆秋元 波留夫 編 19750915 『作業療法の源流』,金剛出版,344p. ASIN: B000JA02S6 5800 [amazon] ※[広田氏蔵書]

◆臺 弘 1984 「生活療法の復権」,『精神医学』26(8):803-841→ 臺[1991 :135-159](全文掲載)

生活療法の復権
 はじめに
 1.生活療法の復権
 2.生活障害
 3.障害の受容
 「作業療法,生活療法は,働け働け,世渡りをうまくこなせと気合いをかけすぎたきらいがある。そこに画一王義,生産第一主義,冶療者の価値観<0147<の押しつけなどという批判の生まれてきた理由の1つがある。だが生活療法にたずさわる者は,患者は押しつけられても動くものでなく,それには「きっかけ」が必要で,患者も治療者も自分で実際にたずさわってみて,「こつ」をっかむものであることを早くから知っていた。」
 4.経験の学習
 5.生活療法の構成

◆臺 弘 19920715 「自由を奪う病とその治療」 ,『精神医学』34-7:777-784(全文掲載)

 「このように精神障害者が社会的に不自由を強いられている状況は,ここであらためて述べるまでもないが,それに加えて,分裂病者が心理的な意味でも生物学的な意味でも,「選択の自由」に故障のある不自由な存在であることを,我々は遺憾な<778<がら承認しなければならない。言い換えれば,彼ら,彼女らは「自由を失う病気」(下線筆者)に悩んでいるのである。このことを私が学んだのは,逆説のように聞こえるかもしれないが,自由をもたらすつもりで始められた生活指導と作業療法の経験に基づいている。これが我が国で後に生活療法といわれるものになったことは周知のことであるし,私自身もそれに積極的に参加してその意味と価値を会得したつもりである。しかしそれだけでは自田は十分に回復されないという限界もまた悟らざるをえなかった。Zuttもいう「これはほかならぬ社会復帰に専念している医師たちの経験するところである」22)と。
 生活療法の初めの頃には私たちは楽観的であった。戦争が終わってから松沢病院では病院体制も民主化されてきて,医者と看護婦と作業員が一緒になって,患者の生活を人間的に立て直そうという努力が行われるようになり,それは開放看護と結びついていった。生活療法と開放看護はまことに民主主義の子どもである。よく知られているようにこの方面の活動は松沢だけでなく,全国各地の病院で行われるようになった。昭和30年代は我が国の社会に大きな変動をもたらした重要な時期であるが,それは精神科医療にとっても画期的な時期であった。というと多くの方はまず薬物療法の導入を考えられるであろうが,精神療法や生活療法もこの同じ時期に私たちの中に入ってきたのである。指導的な役割を演じた友人には,松沢病院の江副勉や肥前療養所の伊藤正雄などの名前が挙げられる。この人たちの線の上に山形県での内ケ崎順平や山田俊治たちの活動も位置づけられる。
 ところがそれらの活動は我が国では順調に発展しなかった。それはなぜだったであろうか。読者の中には昭和40年代後半からの生活療法批判,反精神医学運動を記憶されている方もおられよう。筆者にいわせれば,それは患者のためという旗印を掲げながら,結果的には皮肉にも現状維持の保守派に融合して入院体制の擁護に転じ,10年にわたって我が国の精神障害者の開放,社会復帰を遅らせる事態をもたらした。「みやま荘」の活動がこの時期を通じて続けられたことは,それだけにいっそう貴重である8)。当時批判された生活療法なるものが画一化に流れ,訓練至上主義の弊害があったことは否定できない。
 しかし困難の中でも少なからぬ同志たちは,生活療法を自分なりに現場で実践して,傍観者流の誹謗にくじけることがなかった。その人たちに励まされて書かれた「生活療法の復権」18)という筆者の論文は当時の状況を明らかにしている。そこにも述べたように,我々が生活療法の正しい道を十分に守れなかった理由には,大きく言って3の状況があった。それは今もなお続いている。
 1つは我が国の精神病院体制が保険と生保で一応民主的な体裁を整えながら,基本的には市場経済の上に置かれていること,はっきり言えば患者が商品化されていることである。宇都宮病院のような病院が成り立つことや入院患者を積極的に減らせぼ経営が破綻することが,端的にそれを物語っている。2つには,法律や行政に精神障害者のリハビリと福祉の精神が欠けていることである。それらは志のある人々の奉仕の上でしか成り立つことができない。これについて論ずることは本論文の主題から離れるので,述べるのをさし控えたい。さて3つは,前2点のような外部条件ではなく内部要件であって,生活療法がもともと,分裂病に対して,不十分な効果しか発揮できなかったことである。
 生活療法とは,ごく簡単に言えば,経験の蓄積と活用に頼り,それを拡大しようとする治療である。これを生活の場で,相談・指導・訓練を通じて行おうとする治療者が直面する困難は実に多面的であるが,筆者が特に取り上げたいと思うのは,いったん修得した習慣経験を現実の社会生活の中で生かすことが難しいという点である。そんな当たり前のことを何であらためて持ち出すのかと言われるだろうが,自由を広げるつもりで不自由に突き当たったのが,まさにこの種の経験であったのである。例えば,病院で作業療法をうまくやれるようになった患者でも,病室の生活態度は改善<0779<するとは限らないし,遊びに活発な入院患者が退院して自立できることはむしろ少ない。自活生活の訓練をしてアパート退院できた諸君も,馴染みの治療者や仲間のいる親病院や施設から離れた所ではなかなか暮らせない。就労を果たした回復者が転々と職を変えるのは障害者職業カウンセラーの悩みの種である。そして失職するとまた振出しに戻ってやり直しとなる。
 患者,回復者諸君は,習ったことを手順を変えずに同じ場所で続けている間は結構うまく過ごせるのに,違ったことに取りつくと,手順を変えただけでも,まして違った場所では,途端に調子が狂ってしまう。これは「変化に弱い」とか「融通が利かない」とか「落とし穴現象」とか呼ばれて,広く知られている行動上の弱点である。筆者をはじめ生舌療法に携わっている治療者やリハビリ活動の協力者たちはこのような特徴を「生活のしづらさ」「暮し下手」などの1つと数えて,当人の「生活障害」の現れとみなしており,そしてそれは病気による「機能障害」つまり「脳の機能の故障」によって自由性が損なわれることに関連すると考えていた。現場では当人の決定機能に問題があるとしか思われなかった。ところがこのような見方は,社会適応中心の姿勢に基づく人間蔑視観であり,患者の主体性や対人関係を無視した技術至上主義であり,世間の常識に屈した専門職の通弊であって,本質は反治療的な態度であると謗られた時期があった。こうした精神主義からの生活療法批判は,我が国の治療者たちに今なお少なからず影響を残しているので,次に問題を「自由」の「生物学的意味」に絞って考えてみることにしたい。」

◆浅野 弘毅 20001010 『精神医療論争史――わが国における「社会復帰」論争批判』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー3,211p. ISBN:4-8265-0316-4 2100 批評社,メンタルヘルス・ライブラリー3,211p. ISBN:4-8265-0316-4 2100 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1956. m01h1958.

◆柳田 純子 2004/09 「医療技術職の専門分化過程における職業意識の考察(二)――精神科作業療法従事者の専門分化と職業倫理」,『東京情報大学研究論集』8-1: (2004.9) pp.45-57
(Job Identity of Co-Medical Workers in the Professionalization(the Second Report)-A Study of Psychiatric Occupational Therapists' Cases in View of Work Ethics-)
 http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/journal/ron/r8-1-7/r8-1-7c.html

「(4)小林八郎
 小林[15a]は、生活療法の主旨として患者の治療外の時間(生活時間)を治療化することによって、薬物などによる身体的治療の効果を活かし、社会復帰までもっていくことをめざすことを挙げ、「患者の生活項目の中から治療の対象として価値あるものを選んで、作業療法、生活指導、レクリエーション療法が生まれたとみることもできる」と述べている。
 また小林[15b]は、呉秀三、加藤普佐次郎、長山泰政、菅修ら先人たちの取り組みに言及した後に、むすびとして次のように述べている。「指示的−非指示的のみでなく、庇護的−訓練的、心理的開放−物理的閉鎖のような対立概念と方法が、病院精神医学のなかにあり、いずれも必要があって発達して来たのである。このような対立的なものを、現場に生かして使い、あるいは綜合させ、あるいは個別的に適用して、滞ることがないのが生活療法の本質であろうと思う」
 加藤[6b]によれば、小林による生活療法の体系化は、1953年の懇話会の席で国立武蔵療養所所長の関根眞一が次のように話したことに端を発するという捉え方ができる。「患者の幾分でも残っている精神作用を活用して、健康な生活圏内に引きあげる源に作業療法の意義がある。その点から私は作業療法と云う言葉の代わりに、広い意味から生活指導と名付けたいと思う」
 生活療法は、上記(3)の山根[17]の指摘にあるように当時の時代的な背景のもとで病院経営上から患者の使役につながった場合が多々あり、学界・マスコミから厳しい批判を浴びた。加藤[6a]は、その批判として「体系化とともに生活療法は一連の流れに乗せなければならない儀式と化した点に問題があった」と指摘し、さらに秋元による批判を例示し「生活指導という精神科看護の活動そのものを治療概念にまで拡大化した点にも問題があった」としている。
 生活療法批判は、従来の取り組みの悪しき例として、作業療法士に写った部分が少なからずあったと考えられる。そして自分達の「作業療法」はそうではない、ではどうあるべきかという職業上のアイデンティティの模索への契機にもなり得ただろう。生活療法やそのなかで実施された作業療法の考え方自体には患者の使役の意図は見られないものの、それが実施された時期の精神病院をめぐる状況のもとで病院経営上の手段に転化されやすい面を持っていたと考えられる。なお、生活療法をめぐる経済的側面については次の(5)で参照する石田[19]による指摘と合わせて後述する。

[15a]小林八郎(1965)「生活療法」江副勉ほか編『精神科看護の研究』医学書院.
[15b]小林八郎(1957)「精神疾患の生活療法」『日本臨床』第17巻第1号.
[16a]臺弘(1975)「精神科作業療法の概念−その歴史と展望−」『医学評論』第43巻.
[16b]臺弘(1984)「生活療法の復権」『精神医学』第28巻第8号.
[17]山根寛(1997)「精神医療の歴史と作業療法の歩み」山根寛『精神障害と作業療法』三輪書店.
[18]秋元波留夫・調一興・藤井克徳編(1991)『精神障害者のリハビリテーションと福祉』中央法規.
[19]石田武(1975)「生活療法」横井晋ほか編『精神分裂病』医学書院.」

◆古屋 龍太(日本社会事業大学大学院 / 国立精神・神経センター病院) 2008 「日本病院・地域精神医学会の50年とわが国の精神保健福祉をめぐる流れ――1957年〜2007年」  日本病院・地域精神医学会50周年記念号
 http://www.byochi.org/contents/07_shiryo/nenpyo2008.pdf

「4.生活療法
 1955年、国立武蔵療養所の小林八郎によって提唱された「生活療法」は、患者の入院生活の細部にわたる全てを治療の対象とし、しつけを内容とする「生活指導」を基礎として「作業療法」と「レクレーション療法」を行う。病院職員は諸服務規程に従って仕事をし、病院の運営は「要綱」のもとに組織される諸会議によってなされ、患者は入院ー生活指導ー作業ー社会復帰と機能的に分類された病棟に収容され、これらの病棟を順に移動していく。患者は「客観的に」症候論的観点から把握され、機能的病棟毎の日課表、週課表に従って集団として扱われる。この体制のもとで患者の開放的処遇と稼働能力賦与がある程度まで効率的に可能となったため、近代的な治療体制であるとされた。その後「生活療法」体制は、患者・職員の人権と自由を抑圧し管理し収奪するものであるとの根底的な批判が展開され、衰退していった。
 リバーマン(Liberman)らによる生活技能訓練(SST)の我が国への導入を、「生活療法の逆輸入」(竹村堅次)「生活療法の復権」(臺弘)と唱える向きもあるが、質的にも概念的にも、また方法論においても大きく異なるものである。「生活療法」は、我が国固有の精神病院の歴史的所産として、その本来の姿の通りに理解しておく必要がある。生活場面における様々な患者への関わりを、一括して「生活療法的関わり」と称するのは、大きな誤りといえる。
[参考]樋田精一:「生活療法」について.In:日本精神病院協会編:精神科作業療法;115-149,牧野出版,東京,1975
樋田精一:SSTに関わる若干の問題の整理ー生活療法、デイケア、その他の実践との関連から.OTジャーナル,23;350-356,1991」

◆鎌倉 矩子 20010620 『作業療法の世界――作業療法を知りたい・考えたい人のために』,三輪書店,204p. ISBN-10: 4895901483 ISBN-13: 978-4895901482 3300+ [amazon][kinokuniya] ※ r02. m.

2 わが国における作業療法の発展
 2・2 作業療法の再建と新生
  2・2・3 生活療法の登場

 田島明子による引用(を若干増補・訂正)
 http://www5.ocn.ne.jp/~tjmkk/seikatsuryouhou.html

 「生活療法は、1956(昭和31)年に初めて小林八郎によって提案された(小林,1965;関,1981;臺,1984)。モデル病院の役割を果たしたのは、国立武蔵療養所および昭和大学烏山<0047<病院である。
 小林は当時国立武蔵療養所医務課長の任にあった。彼のいう生活療法(くらし療法)は、生活指導(しつけ療法)、レクリェーション療法(あそび療法)、作業療法(はたらき療法)の3つから成るものであるが、作業療法が長い伝統があるのに対して、生活指導、レクリエーション療法は”戦後の混乱”の中から生まれてきた非常に新しいものであると言い、由来を次のように説明している。

 「われわれがレクリエーション療法の重要性に気付いたのは1952年(S27)年頃からである。それより先、昭和25年に、精神外科手術を終えた患者に、その後療法として行った生活指導が功を奏したことを認め、手術をしていない荒廃患者にも生活指導をはじめた。昭和26年には専門の生活指導病棟ができた。生活指導が行き届いていることはレクリエーション療法の最もよい下地である。」(小林,1965,p.175)

 当時行われていた精神外科手術とは前頭葉白質切裁術(ロボトミー)である。術後の退行状態を示している患者に対し、環境の設定と適切な生活指導によって人格の再形成が可能であると当時は考えられていた。一方、当時の経済的窮乏によって精神障害者の生活は惨状を極め、人間らしさの一切を失ってしまったと思わせるほどの人格荒廃をきたしていたので、彼らにも同じ指導を適用してみようと考えたのである。したがって、生活療法の基本は”患者のしつけ”の思想で貫かれている。
 小林の生活療法の中で”生活指導”は中核的な位置を占める。その”生活指導”とは、患者が起床してから就寝するまでの日課のすべてを、つまりは食事、清潔、身だしなみ、清掃から、レクリエーション参加、作業参加、余暇活動、社会活動(社会見学、患者クラブ、患者懇談会、患者自治会のようなもの)に至るまで、日課のすべてを、規律正しく活動的に過ごさせるための関与の一切である(小林,1965)。厳密な生活時間表が作られ、職員の指導指針が作られ、働きかけはマニュアル化されていた。ゲーム時の人員配置でさえもが壁に貼られていた。レクリェーション療法も作業療法も日課の一部であり、これもまた徹底した管理が図られていた。今日の感覚をもって小林の生活療法の著者を読むと、その徹底した規律主義、管理主義、全体主義に息がつまるのを覚えるほどである。
 一方、用語の問題に触れて小林は「生活指導・レクリエーション療法・作業療法は、それぞれ異なる治療状況を持つもので・・その領域とねらいは違う。ところが日本でもアメリカなどと同じように、上記三者のほかに心理劇その他までを含めて作業療法と
する者がある。従来、日本では作業療法の概念は非常に狭いものなので、この狭義の作業療法と広義の作業療法とはまぎらわしい。とりわけ作業療法ということばは名が実を表していない。(この広義の作業療法に対して)われわれは生活療法ということばを選びたい」と述べている(小林,1965)。
 生活療法は、この時代の精神医療者の熱気を示す一現象ではあったが、2つの問題を内在させていた。ひとつは作業療法をめぐる概念の拡散と混乱、もうひとつは善意の管理主義の中に<0048<ひそむ重大な危険と過ちである。生活の一切を”療法”と見なしてこれを管理する手法は、ひとたび安定した生活環境と職員の倫理を失うなら、たちどころに患者の使役と収奪に転落していく危険をもっている。それはすでに19世紀末の米国において実験済みである。
 1966年(昭和41年)、国立武蔵療養所長に就任した秋元は、職員に生活療法の総決算を働きかけ、”生活指導”は看護に、”その他”は作業療法に還元させた。しかし生活療法は、現実には国内の多くの精神病院にゆきわたった。関英馬は、「1960年前後からしばらくの間、『生活療法』を実施しない精神病院はないといってよいほどであった」と述べている。浅野も「昭和30年代から40年代へかけてわが国の精神病院を特徴づけたのは生活療法であった」と述べている。後述するように、わが国の国策として”新しい”作業療法の移入が図られたのは1960年代のことであるが、その1960年代とはこのような生活療法全盛の時代であったことを知っておく必要がある」(鎌倉[2001:47-49])

 「作業療法の診療報酬化を不当であると主張する一群がいた。精神医療改革を旗印に急進的社会闘争をくり広げた若い精神科医たちの一群である。彼らは日本精神神経医学会の中枢を制圧し、先輩世代が築いた精神医療のあり方を鋭く批判、攻撃した。その中に1975(昭和50)年の第72回精神神経学会総会における「今回の『作業療法』点数化に反対する決議」がある。全文は以下のようになっている。

「今日の我が国の精神病院の医療状況は、強制的拘禁状況への傾きが強い。その中で入院患者の人権を擁護することは、緊急の課題として登場している。作業は、入院患者の生活の一部であるとはいえ、上述の現在的状況の許で、これを療法として位置付けることは、この課題とりわけ患者の生活及び労働に関する諸権利の擁護に鋭く対立するものである。この意味において、今回『作業療法』点数化に反対する」(日本精神神経学会、1975)

 この「反」作業療法宣言は同時代の精神医療全体に対する意義申し立てと連動していた。1970年代の精神医療の現場を支配していたのは生活療法と生活指導的思想であり、精神病院内部には大量の長期在院者が累積していた。そして若い精神科医たちの目には、職員たちにも患者たちにも無力感が蔓延しているのが見えた。「生活療法」の名のもとに、恐るべき収奪が行われていた病院も実際にあった。作業療法は、生活療法と同義に使われることもその一部(労働的部分)を指していることもあったが、批判者から見れば、生活療法と表裏一体であった。彼らは、そのような惨状と収奪の源は生活療法(=作業療法)の悪用にあるのではなく、生活療法思想そのものの中にあるのだと主張した。思想自体が患者を抑圧し、適応を強制する技術体系を生んでいるというのである。この激しい批判は、当時全国にくり広げられたいわゆる”全共闘時代”の若者たちの、反体制運動とも軌を一にするものである。
 ”新しい”作業療法士たちは、この挑戦を受けて立つことはなかった。攻撃されているのは自分たちの作業療法ではないと考えていた。応戦したのはもっぱら、菅修、台弘、秋元波留夫など、かつて自分自身が作業療法を手がけ、または関わり続けた長老的精神科医たちである。だが両陣営の間で議論が噛み合うことはなかった。この嵐の中では、新しい教育を受けた作業療法士が精神科領域に進出していくことは難しかった。かなり長い間、きわめて少数の”理解ある”病院のみが、”新しい”精神科作業療法のひっそりとした砦となった。新しい作業療法士たちの精神科作業療法は、フィドラー夫妻のテキストに代表される、力動精神心理学的作業療法であった。
 やがて、反体制の若者たちは消え、反作業療法の声も止んだ。1984年に台は時代をかんがみて、「10余年が空しく過ぎた」と述べ、その痛みを語っている。同時に彼は、批判者たちが残した教訓についても触れた。それは、従来の生活療法(=広義の作業療法)において、”組織対個人””訓練対啓発”の問題が十分に配慮されていなかったという反省である。言い換えれば、組織が優先されて個人への配慮が不足していたこと、教示が優先されて自己啓発を促す視点が不足していたことへの反省である。
 こうして表だった論争は影をひそめたが、精神医療それ自体の問題は続いていた。1984年の宇都宮病院での「看護者による患者リンチ殺人事件」はその象徴ともいえるものである。このスキャンダルの発覚につれて、患者に対する治療者代理行為の強制、作業療法名目による患者の強制労働の疑い、規定を著しく下まわる医師・看護婦数の不足等が明るみに出た。当時、精神障害者の入院需要は上昇を続けていたが、社会復帰施設の制度はまだ著しく不備であり、長期入院者が滞留した。一方、病院経営者側には、医療技術が評価されない低医療費政策のために、収入を入院医療費に頼らざるをえない状況があった。多数患者・長期入院・低コスト経営を助長する体質は、医療制度の中にあった」(鎌倉[2001:61-62])

◆山根 寛 2006 「精神科作業療法の現状と課題」,『日本精神病院協会雑誌』25-4:18-23
 http://www.geocities.jp/zizi_yama60/pdf/POT-Genjo-Kadai.pdf

 「2.作業療法士の誕生
 第二次大戦終戦後,GHQ指導で精神障害者の医療と保護を目的とした「精神衛生法」(19 50 年)が公布された.それを機に,私宅監置が廃止され,各都道府県には精神科病院の5)設置を義務づけられた.そして,病床数の不足に対して国庫補助規定が設けられ,精神科病院ブームが起きたが,当然ながら医師,看護師の慢性的な不足を招いた.こうした状況にライシャワー事件が重なって,長期保護収容入院が始まったともいえよう.
 この時代に,病院の活性化に一役買ったのが生活療法であった.生活療法はわが国特6)有のもので,十分な治療法がなかった当時の病院を活性化したが,一方で,院内清掃やカルテ整理,配膳など病院業務を作業療法(仕事療法)の種目として扱うことによる問題や, 下請け作業や外勤作業による収益の扱いに対する問題がとわれるようになった. 7)
 このような背景のなかで,WHO(世界保健機構)の勧奨を受けて1963 年に作業療法士養成校が開設され,「理学療法士及び作業療法士法」(1965 年)により,作業療法士が誕生した.しかし,この身分法の成立にあたり,原語であるoccupational therapy が作業療法と訳されたため,従来の作業療法との混同を招いた.1974 年の「作業療法」の社会保険8)診療点数化を機に,精神科作業療法の点数化に対し異議が申し立てられた.それは,従9)来の作業療法の実態や運用に対する批判のはずであったが,結果的には作業療法批判となって広がり,わが国の精神科領域における「作業療法」の理解と進展を大きく妨げてきた.」
「5)田辺子男:日本精神医学100 年を築いた人々.臨床精神医学,10:875-883,1981.
6)小林八郎,小林清男:レクリエーション療法.日本醫事新報,1956:35-41,1662.
7)山根寛:作業療法の盛衰に映る精神障害者の尊厳.精神医療9:61-66,2000.
8)鈴木明子司会.座談会/OTにとっての精神医療の壁.理学療法・作業療法;9:840-48, 1975.
9)日本精神神経学会理事会:.今回の「作業療法」点数化に反対する決議.精神経誌,7 7 ;543-544,1975.

◆山根寛 2010 「日本の精神科作業療法の歴史と現状」,『大韓作業治療師協会学術誌』

「2.作業療法士の誕生
 第二次大戦終戦後,GHQの指導で精神障害者の医療と保護を目的とした「精神衛生法」(1950 年)の公布により,私宅監置が廃止され,各都道府県に精神科病院の設置を義務づけられた.そして,病床数の不足に対して国庫補助規定が設けられ,精神科病院の建設ブームが起きたが,当然ながら医師,看護師の慢性的な不足を招いた.こうした状況にライシャワー駐日米国大使が暴漢(統合失調症患者とされている)にナイフで刺されるという事件が重なって,長期保護収容入院が始まった.
 この時代に,病院の活性化に一役買ったのが生活療法(小林ら,1962)であった.世界で初めて向精神薬が発見された時代に,生活指導,レクリエーション療法,仕事療法(作業療法とも称されていた)を包括したもので,精神外科ロボトミーがその体系化の契機となったともいわれている.当時の事情から管理的な生活指導を中心とした考え方がなされていたため,生活療法では病院内の清掃や配膳などの業務,病院外に働きに行く外勤作業などが行われ,薬物療法の出現,精神病院ブームの中で,またたくまに理論的に未整理のまま全国の病院に広がった.
 それまでの看護の関わりをすべて療法という名称で包括した生活療法は,当時の閉鎖的で活気のなかった病院を活性化し,病院運営の改善の機能を果たした.しかし,拘束的状況下における患者使役,治療の個別性や不参加の自由が保障されていない集団管理,病院の経済的理由に基づく作業しばり,収益の収奪,人権の侵害といったさまざまな問題を引き起こした(山根,2000a).
 このような背景のなかで,WHO(世界保健機構)の勧奨を受けて1963 年に作業療法士養成校が開設され,「理学療法士及び作業療法士法」(1965 年制定)により1966 年に初めての国家試験が実施され作業療法士が誕生した.しかし,この身分法の成立にあたり,原語であるoccupational therapy が作業療法と訳されたため,従来の生活療法では仕事療法を作業療法と称していたため混乱を招いた.1974 年の社会保険診療点数化に対して,日本精神神経学会は異議が申し立てた.それは,従来の生活療法における仕事療法の実態や運用に対する批判であったが,名称の混同により作業療法批判となったもので,後々の精神科領域における作業療法の理解と進展を大きく妨げた.」
山根寛(2000a).作業療法の盛衰に映る精神障害者の尊厳.精神医療9,61-66

◆立岩真也 20110701 「社会派の行き先・9――連載・68」,『現代思想』39-(2011-7):→改稿のうえ、に収録予定

「生活療法・生活臨床・…(予告)
 問題はもっと大きなところにある。また微妙なところにある。対処法・治療のあり方として、普通の狭義の医療・治療――を「改革派」は否定していなかったことを今述べたのだが――に対して、より「関係」や「社会」的な対応を対置し、「改革」は後者の意義を強調し実践しようとするものと捉えられることがある。まったくの間違いというわけではない。例えばさきほど名の出たクーパーは薬物療法に否定的で、一九七五年の精神神経学会の大会にトマス・サズとともに招かれた折、赤レンガ病棟(第65回・4月号)を訪れ、薬を使っていると聞いて「いかにも不満そうな表情と身振りをしてみせた」(冨田[1992:305])というエピソードが伝えられている。
 ただこうした二分法にも乱暴なところがある。治療法の歴史として――それ以前の様々があった後――ロボトミーなど脳外科手術の隆盛の時期があり、電気ショック(電撃療法)が広範になされるようになり、有効な薬物が現れたためにそれらに代わって薬物療法が主流になったと言われる。それはその通りなのだろう。だが同時に、むしろそれ以前に、呉秀三――この人がわるく言われることはほとんどない――は「作業」の意義を認め実践させている(一九〇一年からとされる)。そして、国立武蔵野療養所では一九四九年頃から脳手術がなされるようになるのだが(五六年からほとんど行われなくなる)、「脳手術の終わった患者を再教育する動きが始ま」り、五一年にその手術で「意志疎通性を恢復した後、その後の人間らしい生活の躾を作ることを重要目的として外科病棟」が設置され、「その時の動きが武蔵野診療所における「生活療法」の基礎である「生活指導」のきっかけとなった」とされる(国立武蔵野療養所の年報、藤澤[1998:296-297]に引用)――その「生活療法」は小林八郎(当時武蔵野診療所)が一九五六年(五五年と書かれているものもある)に提唱したものとされる。また薬物療法の効果のために――人々がよりおとなしくなり、多くの人数を廉価で収容できるようになり――「作業」に従事しやすくなる――とさらに病院がより円滑に運営されるようになる――といったこともあった。
 もちろんその指導・訓練・作業は「改革派」「反・精神医学」によって厳しく批判されたものである。ただ、その小林にしても、当時の主流に対する批判からその営みを始めたとされる。また、群馬大学にいた臺が呼んだ江熊要一が一九六三年に提唱した、退院を促進し、退院した後での「地域」での「支援」を行ない再入院を減らそうとする「生活臨床」の動きは、生活療法批判の面を持ちつつ、共通するところもある。それが全国の熱心な保健師に受け入れられていく。そしてこうした動きは、第65回(4月号)でわずかにふれたが、一時期学会改革に関わった人たちとの関係を有していた。志を共にするところがあった。生活臨床から出発しやがて独自の(統合失調症の原因は家族にあるとする)理論を展開し(やがて消えていった)小坂英世と岡田靖雄――この時期の著書に『差別の論理――魔女裁判から保安処分へ』(岡田[1972])――と共著の本『市民の精神衛生――社会のなかで精神病を治す』(岡田・小坂[1970])も出版されている。それは向精神薬の登場を肯定的に評価しつつその弊害も説く『精神医療――精神病はなおせる』(岡田編[1964])の「一般向けの版」を出したいとの希望から書かれたもので、第U編「治療の進め方」、第V編「実生活指導――分裂病を中心に」を小坂が担当し、「江熊要一さんを中心とした群大グループ[…]の仕事におおくおっていることを、感謝の念をもって記しておきます」と岡田の「あとがき」には記されている。
 こうして、この時期、議論・実践はそうきれいに分かれていない。その後、七〇年代前半、生活療法・生活臨床への批判と反・批判がなされる。そしてそこで、批判される側、反・批判する側――臺や秋元たち――は、「行き過ぎ」が現実にはあることを認めたり、言葉の意味するところが曖昧だからこの言葉はやめようなどと言ったりもする。乱暴でなくより穏当なものを支持すると言う。
 これらについて後述する。こうした中から何を拾えるか。」

◆立岩 真也 2013/06/01 「精神医療についての本の準備・3――連載 90」
 『現代思想』41-8(2013-6):18-28 →

■文献

◆秋元波留夫 1972 「作業療法をみんなで考えよう」、『むさし』5-2 [90]
◆―――― 1975 「作業療法を考える」,秋元編[1975:9-22]→秋元[1976a:140-158]
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◆―――― 1975 「解説」、秋元編[1975:310-336] [89]
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◆秋元 波留夫 19760531 『精神医学と反精神医学』,金剛出版,371p. ASIN: B000J9WA3M [amazon] 13567〜 ※ m. [広田氏蔵書] [90]
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浅野 弘毅 2000 『精神医療論争史――わが国における「社会復帰」論争批判』、批評社、メンタルヘルス・ライブラリー3 [65]
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◆原田 憲一 1972 「武蔵の一生活療法――その旗を捲くにあたって」、『むさし』5-2[90]
◆石戸 政治 1972 「新作業医長のごあいさつ」、『むさし』5-2[90]
◆鎌倉 矩子 20010620 『作業療法の世界――作業療法を知りたい・考えたい人のために』,三輪書店,204p. ISBN-10: 4895901483 ISBN-13: 978-4895901482 3300+ [amazon][kinokuniya] ※ r02. m.
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◆小林 八郎 1965 「生活療法」,江副勉他編『精神科看護の研究』,医学書院
◆小林 八郎 1978 「生活療法批判の批判」、『日精協月報』203[90]
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◆中川 善資 20100510 「国立武蔵療養所における治療共同体をめざした実践」,精神医療編集委員会編[2010:120-121] [63][90]
◆岡庭武 1965 「演劇療法」、江副他編[1965:233-237] [90]
◆岡庭武 1965 「レクリエーション療法」、江副他編[1965:190-203] [90]
◆精神医療編集委員会 編 20100510 『追悼藤澤敏雄の歩んだ道――心病む人びとへの地域医療を担って』,批評社,『精神医療』別冊,141p. ISBN-10: 482650523X ISBN-13: 978-4826505239 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m. [63][64][65][66][89][90]
◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※
◆臺 弘 1984 「生活療法の復権」,『精神医学』26(8):803-841→臺[1991:135-159](全文掲載)
◆――――― 19911201 『分裂病の治療覚書』,創造出版,260p. ISBN-10: 4881582283 ISBN-13: 978-4881582282 [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆山根 寛 2006 「精神科作業療法の現状と課題」,『日本精神病院協会雑誌』25-4:18-23
◆山根寛 2010 「日本の精神科作業療法の歴史と現状」,『大韓作業治療師協会学術誌』
◆柳田 純子 2004/09 「医療技術職の専門分化過程における職業意識の考察(二)――精神科作業療法従事者の専門分化と職業倫理」,『東京情報大学研究論集』8-1: (2004.9) pp.45-57
 http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/journal/ron/r8-1-7/r8-1-7c.html
◆吉田 おさみ 19750512 「患者にとって治療とは何か」,『精神医療』第2次4-3(17):60-63

http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/journal/ron/r8-1-7/r8-1-7c.html


UP:20110609 REV:20110702, 0801, 20130324, 0525, 0601
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