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太田 典礼

おおた・てんれい OTA Tenrei
1900〜1985/12/05

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last update: 20151008

Shinya Tateiwa September 1997 On Private Property『私的所有論』), Tokyo, Keiso-Shobo 445+66p ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300yen [amazon]/[kinokuniya]
Shinya Tateiwa 2016 On Private Property, English Version, Kyoto Books Translation by Robert Chapeskie

chap.4 note 12
"The movement to introduce legislation governing euthanasia (later referred to as "death with dignity") in Japan was first actively pursued by Tenrei Ota (cf.Tateiwa [2009a:chap.2]), and he advocated it in conjunction with eugenic sterilization (Ota [1967]). He states
"It is fundamentally the suffering of the person in question. But there are cases in which they are not conscious or aware. In such cases whether or not to view the suffering observed by a third party as suffering is for doctors to determine (from a conversation recorded in Ota and Watanabe [19721974:170]).
"Should the life of a person in a vegetative state be viewed as a human life? ...can society be created out of the weak? This is an anti-social attitude on the part of the family. Human consciousness is lacking [in people in this state]" (Ota, speaking in "Dilemma", a TBS Saturday documentary broadcast in 1978 and cited in Shimizu [1994:213-214]. At the time Ota was the chairman of the Japan Euthanasia Association.)
In the same documentary, Toshiaki Wada, then a member of the board of directors of this association, said, "Is not the killing of those whose lives are unnecessary, the killing of those whose lives are of no use to society, in fact a good thing? We must be careful to distinguish between this and the sort of genocide perpetrated by the Nazis."
For an overview and criticism of statements made by the Japan Euthanasia Association and the Japanese Society for Dying with Dignity see Shimizu [1994:213-214](cf.Tateiwa and Arima [2012]).
Of course, most of those who advocate "death with dignity" today are not this barbarous. They claim it is a matter of self-determination.
"Almost all of the cases in which euthanasia or assisted suicide is carried out in the Netherlands involve end-stage cancer patients who are unable to do anything for themselves, are completely dependent on others, are expected to live only a few more days, and do not want to endure what would at most be 2 or 3 weeks of humiliation" (From answers to interviews with Dutch people cited in Goto [1996:133]. For more on euthanasia in the Netherlands, see NHK Jintai Project ed. [1996] (which includes the above-referenced text) and Chabot [1995]).
When "pain clinics" have been established and a sufficiently high standard of pain management has been attained (as is said to be the case in the Netherlands), death is no longer something individuals choose for themselves as a means of escaping physical pain. In such cases, the reason for choosing death becomes the more "human" desire to "escape from humiliation." This is what gives rise to the misgivings expressed in Ichinokawa [1993b] [1994a] [1996e] (cf. Komatsu and Ichionkawa [1996], Omata and Ichinokawa [1996]). For more on this issue, see Chapter 7 Note 22.


◆早川 一光・立岩 真也・西沢 いづみ 2015/09/10 『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』,青土社,  ISBN-10: 4791768795 ISBN-13: 978-4791768790 [amazon][kinokuniya] ※ 1850+

◆立岩 真也 2014/09/01 「早川一光インタビューの後で・1――連載 103」『現代思想』41-(2014-9):-

◆大谷 いづみ 2005/03/25 「太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸」,『死生学研究』5:99-122 ※
 http://devita-etmorte.com/archives/oi05a.html

◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360[amazon][kinokuniya] ※ et.

 第2章 近い過去と現在→一九七八年版/二〇〇三年版→太田 典礼

『唯の生』表紙

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%85%B8%E7%A4%BC

略歴
 学生時代に、産児制限の推進者であるマーガレット・サンガーの思想を知り、以後避妊や人工妊娠中絶の運動を行ってゆく。
 1946年、第22回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で京都全府区から立候補するが、落選。その後日本社会党に移籍し、1947年、第23回衆議院議員総選挙で京都2区から社会党公認で立候補し、当選。その後、加藤シヅエらとともに「優生保護法」(1948年施行、現・母体保護法)の制定に尽力した。その後労働者農民党に参加するが、1949年、第24回衆議院議員総選挙で落選。1962年、第6回参議院議員通常選挙に、京都府選挙区から無所属で立候補するが落選し、政界を引退した。
 また、日本の安楽死運動の第一人者としても知られる。1976年1月には、植松正らとともに「安楽死協会」を発足させる。同年6月には「日本安楽死協会」と改称、初代理事長に就任する。
 しかし、太田は老人について「ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」[2]と主張し、安楽死からさらに進めた自殺を提案したり、安楽死を説く中で、障害者について「劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない」「障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。」[3]と主張した。また、『週刊朝日』1972年10月27日号によれば、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない」[4]と放言した。
 太田のこうした言動から、安楽死が老人など社会的弱者の切り捨てや、障害者の抹殺につながるとして非難が起こった[5]。太田はこうした批判に対して見当違いと反発したが、1983年8月には団体名を「日本尊厳死協会」に変更した。太田は「尊厳死」の用語を批判 していたが[6]、にもかかわらず「尊厳死」を採用したのは、「安楽死」が持つマイナスのイメージを払拭し、語感の良い「尊厳死」に変えることで世間の批判を和らげようとしたのが狙いと言われている[7]。
 晩年は体調を崩し、療養生活を送る。1985年12月5日急逝。享年85[8]。

脚注
.^ 平等文博「太田典禮:その生と性と死をめぐる闘い1」『大阪経大論集』2003年、53巻、5号、p163。
2.^ 『思想の科学』85号
3.^ 太田『安楽死のすすめ』p158
4.^ 『週刊朝日』1972年10月27日号 「安楽死させられる側の声にならない声」
5.^ 三井美奈『安楽死のできる国』(新潮新書、2003)p178-180、福本博文『リビング・ウィルと尊厳死』(集英社新書、2002)p144-149
6.^ 大谷いづみ 太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸――
7.^ 三井美奈『安楽死のできる国』p179、福本博文『リビング・ウィルと尊厳死』p152
8.^ 平等文博「太田典禮:その生と性と死をめぐる闘い1」『大阪経大論集』2003年、53巻、5号、p163-183。

■著書

◆196308 「安楽死の新しい解釈と合法化」 『思想の科学』63-8
◆1967 『堕胎禁止と優生保護法』 人間の科学社 4000 
◆1967 『堕胎禁止と優生保護法』 経営者科学協会  
◆1969 『日本産児調節史』 日本家族計画協会  
◆1972 『安楽死』 クリエイト社
◆1972 「安楽死の概念」
    →1974 『現代のエスプリ』83  
◆太田 典礼・渡部 淳一 1972 「安楽死はどこまで許されるのか」,『暮らしと健康』27-9→1974 長谷川泉編[1974:168-176] <1997:168>*
*『現代のエスプリ』83 1974 「安楽死」,至文堂(長谷川泉編) b ※
◆19730615 『安楽死のすすめ』,三一書房,三一新書,223p. ISBN: 4380730077 683(400) [amazon][kinokuniya] ※ d01 et 19761130:第4刷
◆1976 『日本産児調節百年史』 人間の科学社 4800 
◆19770820 「尊厳死運動のパイオニア 太田典礼氏の宗教無用の仙人論」
 猪瀬[1987:151-168]
◆1980 『エロスの周辺』 人間の科学社 18000 
◆19800227 『反骨医師の人生』 現代評論社,270p. 1400 ※
◆1981 『安楽死』 三一書房  
◆1982 『死はタブーか――日本人の死生観を問い直す』 人間の科学社 1400 
◆1984 『王様のねむり』 人間の科学社 1400 
◆1984 『短編集・老人島』 人間の科学社 1200 
◆19840915 「随想三題」 太田・田村編[1984:73-90]
◆1987 『堕胎禁止と優生保護法』 経営者科学協会(→人間の科学社?)

◆太田 典礼・田村 豊幸 編 19840915 『ガンと安楽死――共存・安楽生の時代を迎えて』(目次↓)
 人間の科学社, U+208p, 780 780 三鷹490

■訳書

◆Heifetz, Milton & Mangel, Charles 1975 RIGHT TO DIE=19760510 太田 典礼・和田 敏明 訳 『死を選ぶ権利――脳神経外科医の安楽死の記録』,金沢文庫,270p. 850 [amazon] ※

■太田典礼言及書

◆太田典礼を偲ぶ会 編 1986 『生き生きて八十余年』,太田リング研究所 2000 
河野 誠 198702 「太田典礼の優生思想」,『技術と人間』1987年2 月号
◆稲子 俊男 19991025 『産む、死ぬは自分で決める――反骨の医師太田典礼』,同時代社,236p. ISBN: 4886834221 2310 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2009/03/10 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya]

■その他

 cf. ◆日本安楽死協会
   ◆安楽死

■引用・安楽死関連

 「…私は前から医師として安楽死の実践をしていたのであるが、論文として発表したのは、有名な名古屋高裁判決の出た翌年の三十八年で、『思想の科学』八月号の「安楽死の新しい解釈とその立法化」である。日本における論争はすでに昭和の初期から始まっており、とくに刑法学者の間では肯定論が有力になりつつあったが、医学関係者は僅かな先覚を除いてはほとんど否定的であった。私はこれに対して積極論を述べたのであり、臨床医としては最初のものであった。むしろ、おそきに失した感があったほとである。でも手応えはまったくなく、非難も起こらず無視された格好だった。ただ一人旧友の松田道雄から激励のハガキを貰っただけであった。
 ところが十年ほどたつと、安楽死事件が相ついで起こり、それに対して世間の同情が集まり議論がまたさかんになって、私の論文の転載を求める雑誌や出版社があらわれてやっと注目され出した。…」(19800227 『反骨医師の人生』、p.249)

◆19730615 『安楽死のすすめ』,三一書房,三一新書,223p. ISBN: 4380730077 683(400) [kinokuniya] ※ *d01 19761130:第4刷

一 らくに死にたい/二 今とむかし/三 ヒューマニズム/四 法のさばき/五 医は仁術か/六 生かされる人間――植物人間/七 消されてたまるか/八 なんじ殺すなかれ 九 立法化悪用の危険/一〇 社会福祉の限界/一一 立法化への期待

◇1976 日本安楽死協会設立

 「法制化を阻止する会
 一九七八年十一月、この名の会が発足した。発起人は武谷三男、野間宏、水上勉、那須宗一、松田道雄らの文化人五氏とあり、協会はその生命に対して、誤解にもとづき、理論的根拠がない、という反駁声明を出したように、国際的な動きに目をつむる知性の不足がある。そしてアメリカと日本は風土がちがうという古さである。ヒステリックな生命尊重論やニヒリスト的な見解から、青医連的な発想まであってまとまっていない。(p.266)
 一番問題なのは文化人という肩書きにあぐらをかいていることである。文化人なら何でもできるという思い上りがある。五氏はそれぞれ優れた業績の持主ではあるが、国際的感覚のない連中を文化人といえるかどうか。
 困るのは松田道雄である。私とは古い友人で同じような経歴をもち、かつては安楽死支持者であった人なのにどうして正反対にまわったのか、私より数年若いはずなのに老化したのか。同じ道を歩いたものが敵意をもって人間的にも憎しみあうような関係になったのはまことに心外で、何度も話しあいたいと思ったが、ここまでふみ切った以上は面子もあり後へは引けないだろう。残念ながらあきらめざるを得ない。これも安楽死思想の運命なのか。
 安楽死を強者の論理として攻撃する向きがあるが、安楽死こそ病者という弱者のためであり、私個人も昔から弱者の味方として努力して生き、そのために多くの苦汁をなめた。私を石で打つことのできる文化人はいないはずである。日本の文化のおくれのせいか、風土か。日本人の大きな欠点は島国根性であり、視野もせまい。文化人は進歩的な人に多く、そうであってはならないはずなのに、かえって進歩をくいとめるような反対によく顔を出し、それを誇っているようなところがある。反対が変革への言動力になる場合が少なくないが、合理化反対のように、革新につながるとは限らない。」(19800227 『反骨医師の人生』、pp.266-267)

 「ナチスではないが、どうも「価値なき生命」というのはあるような気がする。[…]私としてははっきした意識があって人権を主張し得るか否か、という点が一応の境界線だ[…]自分が生きていることが社会の負担になるようになったら、もはや遠慮すべきではないだろうか。自分で食事もとれず、人工栄養に頼り「生きている」のではなく「生かされている」状態の患者に対しては、もう治療を中止すべきだと思う」(『毎日新聞』1974-3-15、清水 昭美[199803:89]*に引用)
清水 昭美  19980320 「「安楽死」「尊厳死」に隠されたもの」
 山口研一郎編[1998:079-108]**
*山口 研一郎 編 19980320 『操られる生と死――生命の誕生から終焉まで』,小学館,287p. ISBN:4-09-386018-1 1995 [kinokuniya] ※

以下立岩真也『私的所有論』注12(p.168)

 日本で安楽死(のちに尊厳死と呼ばれる)法制化の運動を積極的に推進したのはまず太田典礼だが、彼は一貫して優生断種を擁護している(太田[1967])。さらに例えば次のような発言。

 「基本的には本人の苦しみですよ。しかし、本人が無意識の場合がありますからね。その場合、第三者の見た苦しみを、苦しみとみるかどうかは、これは医者の判断…。」(対談での発言、太田・渡辺[1972→1974:170])

 「命(植物状態の人間の)を人間とみるかどうか。…弱者で社会が成り立つか。家族の反社会的な心ですよ。人間としての自覚が不足している。」
(太田、当時日本安楽死協会理事長)
 「不要の生命を抹殺するってことは、社会的不要の生命を抹殺ってことはいいんじゃないの。それとね、あのナチスのやった虐殺とね、区別しなければ」(和田敏明、当時協会理事)
(一九七八年一一月一一日、TBSテレビの土曜ドキュメント「ジレンマ」での発言、清水昭美[1994:213-214]に採録)。

 日本安楽死協会、日本尊厳死協会の安楽死・尊厳死に関する発言の紹介、批判として清水[1994:213-221]。

太田「(法律規定の)必要があり、法制化できる可能性があると思うから、一歩も二歩もしりぞいてもいいということで、妥協している」「日本では、かつて、ドサクサであったかしらないけど、世界にさきがけて優生保護法をつくり、中絶を自由にした。堕胎の自由をかちとった以上、安楽死はこれと一連のものがありますからね」
渡辺「何歩も後退してもいいから法的に認めさせるといいますが、それによるメリットって何ですか。」
太田「それによって啓蒙の役も果たしますよ。」(太田・渡辺 1972→1974)

「患者の方も脳軟化でいつまでもたれ流しで生きていることは、生の尊厳を傷つけるものとして拒否しようとする傾向にある。ことに立派な業績を残した人々の間に高まりつつある」(太田[1975])

「よき死、グッド・デスの確保、苦しまない平和な死。植物人間化して、見苦しい生きざまをさらしたくない。つまり品位ある死を望むということ。」「消極的と積極的安楽死との見方、その境は微妙なもの」(太田[1977])

「これ(青少年の主観的な理由による自殺:筆者注)に対して不治末期の病人や、生きがいを失っての自殺希望は客観的にも無理ないと受け取れます。前者は生か死の選択によるものですが、後者とくに末期患者は生か死かではなく、死ぬにきまっているが、死の日を早くするかどうかの選択によるもので、合理的自殺と表現され、前者を非合理的自殺として区別されます。
 青年の自殺など自分だけの考えからの非合理的自殺はできるだけ防ぐように社会も力をかさねばならないが、合理的自殺は容認されてよいと思います。しかし、これを手助けするのは別です。自殺幇助罪の改正が必要であり、進んだ判例が一日も早く出ることを期待するわけです」(太田[1982:204])

「(協会名改称にあたって)消極的安楽死の思想を普及させるためには、『どちらの表現が正しいか誤りか』ではなく、その時その時の内外の情勢を考えて運動に有利な表現を採用すればよいわけであります。今回の改称はあくまで今日の情勢への対応に過ぎません」(太田[1984:10])
1984 「安楽死論集第八集によせて」,日本尊厳死協会編[1984:5-16]

●引用・優生保護法関連

「優生保護法
 革命の夢は遠のいたとはいえ、小さな部分的革命を積み重ねて行く手もある。それこそ現段階における可能な革命への道ではないか。幸いに国会議員は国政を審議する任務と権限を与えられている。これをできるだけ活用することだ。
 私は政治には全く素人で、官僚出身者のように役人に顔がきくわけではもない。せめて自分の分(p.35)野で地道に努力しようと思い、まず前々からねらっていたことであったが、堕胎罪を骨抜きにし、かつ避妊を促進するために優生保護法の立案にとりかかり、法律の名称もいろいろ考えて私がつけた。
 戦時中の「国民優生法」はナチスドイツにならったものであり、当然廃止されることになったが、厚生省はそれに代わる案をもちあわせていなかったので、先手を打ってやろうと思ってのことであった。
 古くから産児制限運動で親しい加藤シズエの協力を得て議員提案とし、GHQでOKをもらった。当時は法案提出は政府案も議員案もすべてGHQの承認を求めねばならない時代だった。
 もちろんOKをとるのはむずかしく、かなり時間がかかった。まず、これは二つの法律にすべきではないかといわれた。たしかに悪質遺伝の防止と母性の健康保持を目的としているが、結果的には優良な子供をということになり、矛盾ではないと説明し食糧難と不良児防止を強調してやっと了解を得たものである。そこへ同じ社会党の医系議員の福田昌子が参議院の秘書の松本治一郎の秘書を伴ってきて、共同提案に加わりたいとのことで、加藤、福田、太田の三人の名で厚生委員会へ議案を提出したものの、時間切れで審議未了となった。もちろん、つぎの国会に再提出の用意をしていたところ、福田の仲介で参議院の医系議員谷口弥三郎から、通り易い案に改めて参議院から出したいと交渉があった。法案を横取りするとは何事かと腹が立ったが、私は労農党の結成(p.36)でそれどころではなく、みなになだめられて折れ、結局両院同時提出、参院先議ということになり、両院の医系議員を中心に超党派で関係者が名を連ねて提出し、あっさりとおった。
 提出者は衆院議員が加藤シズエ、福田、太田、大原博夫、榊原亮、武田キヨ(自、看護協会)の六名、参院議員は谷口、竹中七郎、中山寿彦、藤森真治の四名で計十名。
 これは世界的にも実に画期的な新しいものであったのに、不思議なのは、法務委員から一言の文句も出なかったことだ。これで刑法が骨ぬきになるのを気付かなかった様子だった。とおってから刑法界から小言が出たが後の祭りだった。これについては拙著『堕胎禁止と優生保護法』にそのいきさつや内容、その後の改正を詳しく書いた。」(19800227 『反骨医師の人生』、pp.35-37)

 
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◆1969 『日本産児調節史』 日本家族計画協会  

 http://d.hatena.ne.jp/okumi/20080214/1202958689

IV堕胎法改正運動

 有害避妊器具取締りの弾圧から、突如として堕胎法改正の叫びが上った。日本では初めてのことであった。
 日本の堕胎法は明治十三年(実施十五年)からでキリスト教国フランスの刑法にならったのである、その改正運動はヨーロッパでは自由解放思想にもとづくもので、十九世紀後半から起っているが、日本の自由民権運動にいはまだとり入れられなかった。でも明治三十九年(一九〇六)には刑法学者の勝本勘三郎(京大)が革新的な見解をのべ「堕胎それ自体は禁ずべきでない」としている。
 自由と堕胎、産児制限、社会主義は複雑な関係にあり、また人口問題と大きなかかわりをもちながら、いわゆる産児制限運動とは別になっている。産制は妊娠予防をめざすもので堕胎を罪悪視してその解放に反対していた。革新的である筈の社会主義者は、産制には反対であり、堕胎解放にも賛成しなかった。
 明治三十六年の平民新聞は産制主張に反対したが、それが第一次世界大戦後になると、ヨーロッパでは大回転して産制をうけ入れると共に堕胎法改正にも熱心になる。生活防衛のためには公式論に従っておれなくなったからである。医師の法でも中絶の適応症をひろげ、社会的適応症を主張するようになる。もちろんこれには一九一七年(大正六年)のロシア革命の影響が大きい。一九一八年、旧刑法の堕胎罪を撤廃し、二二年の刑法であらためて、医師の中絶を条件付で認めた。
 日本も一九二二年サンガー夫人が来日すると、キリスト教社会主義の安部磯雄を始め後に労民党の代議士になった山本宣治や総同盟の松岡駒吉らが参加して大正十四年月刊誌「産児調節詳論」を出したが、堕胎にはまだ反対であった。

1 安部磯雄らの堕胎法改正運動


◆太田 典礼・田村 豊幸 編 19840915 『ガンと安楽死――共存・安楽生の時代を迎えて』,人間の科学社, II+208p, 780 780 三鷹490

◆日本尊厳死協会 編 19881031 『誰もが知っておきたいリビング・ウィル』,人間の科学社,安楽死論集11,233p. ISBN:4-8226-0107-2 1200 [kinokuniya] ※

日本尊厳死協会 発行 19881031 『リビング・ウィルQ&A』
 日本尊厳死協会編[1988:201-233]

 「V 太田典礼と安楽死運動の文献
Q28 日本と世界の尊厳死運動を理解するために、これだけは、ぜひ読んでおくべきだという本を推薦してください。<230>
A 日本の尊厳死運動の開拓者、太田典礼の著作を中心に、次の本をおすすめします。
 □太田典礼『安楽死』『安楽死のすすめ』(三一書房)
 □日本安楽死協会『安楽死とは何か 安楽死国際会議の記録』(三一書房)
 □日本安楽死協会『安楽死論集1〜10集』(以上、人間の科学社)vt Q29 日本の安楽死・尊厳死運動の創始者である太田典礼さんとは、どういう人でしょう。なぜ、この運動を始めたのでしょうか。
A 太田典礼は、合理的で偉大なヒューマニストでした。[…]」(230-231)

 
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■言及

◆松田道雄 1951

 「太田典礼さんとはながいつきあいである。太田さんを私にむすびつけたのは、昭和のはじめの無産者医療運動であった。学生だった私は小遣いの一部をカンパする程度のことしかできなかったが、産婦人科の太田さんはその全存在を運動にかけられた。太田さんのりっぱだったのは、運動と医学研究とを結びつけられた点にあった。」(推薦文,1951年1月→1980 『私の読書法』,筑摩書房,松田道雄の本15 p.222)

◆横田 弘 19740115 『炎群――障害者殺しの思想』,しののめ発行所,しののめ叢書13,177p. 850 ※r:[椎木章氏蔵書]/東社3639..27

 「何故、脳性マヒ者は殺されるのだろう。
 なぜ、殺されなくてはならないのだろう。
 そして、多くの人々は「惨めな状態で生き続けるより、殺された方がむしろ幸せ」と考えるのだろう。

 「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に寄与できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から「われわれを大事にしろ」などといわれては、たまったものではない。」

 これは、週刊朝日七二年一〇月二七日号「安楽死させられる側の声にならない声」という記事にある元国会議員で、「日本安楽死協会」なる物を作ろうとしている太田典礼の言葉だ。私たち重度脳性マヒ者にとって絶対許せない。又、絶対に許してはならないこの言葉こそ、実は脳性マヒ者(以下CP者と云う)殺し、経済審議会が二月八日に答申した新経済五カ年計画のなかでうたっている重度心身障害者全員の隔離収容、そして胎児チェックを一つの柱とする優生保護法改定案を始めとするすべての障害者問題に対する基本的な姿勢であり、偽りのない感情である事を私はまず一点押えて置かなければならない。」(p.6)

◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360[amazon][kinokuniya] ※ et.
 第2章 近い過去と現在→一九七八年版/二〇〇三年版→太田 典礼

 「3 伝統ある動きであることについて
 そして[…]このたびも法律の制定に尽力されているのはe;「日本尊厳死協会」であるようだ。この協会が真摯で真面目な人たちによって構成され、支えられていることを私は否定しない。しないけれども、とりわけこの組織を作ってきた人たち、中心になる人たちの言ってきたことは知っておいた方がよいと思う。
 この組織の前身は「日本安楽死協会」であり、例えば尊厳死協会のホームページ自身がそのことをきちんとうたっている。冒頭には協会の設立は一九七六年であると書いてあるが、これは安楽死協会の設立年であり、そしてこの協会の創設者として太田典礼という人物のことが書かれている。これは、出自を隠さないという意味においてはたいへん立派なことであると私は思う。ただ、この太田典礼、および太田とともにこの協会を作り育ててきた幾人かの思想・主張を、私は支持できない。
 太田が書いた本はたくさんあるが、今ではほぼ買えなくなっている◆3。ただ私は、アマゾン経由で、古書で『安楽死のすすめ』(太田[1973])を入手できた。また彼の生涯について書いた本も出版されている(稲子[1999])。これも仕事なので、私はそれらの本を集めて並べるけれども、お薦めはしない。HPの太田典礼のファイルにいくつかの引用を置いてある。また大谷いづみによる太田典礼についての論文が近々公刊されるはずである。〔大谷[2005a]として公刊された。また学会報告として大谷[2005b]〕。
 このようなことを書いて、そして次回に書くようなことが広く知られ、そして組織を運営する人たちが世代替わりすると、表現も変わるかもしれない。やがて尊厳死協会は太田という先祖を捨てるかもしれない。それはその人たちの考え次第だ。だが、それはともかく、まずは知っておいてもらってよいと思うし、その上で考えてもらいたいと思う。
 ▽079 以上が法制定の動きをめぐる、応急の対応の、ひとまずの始まりである。次回は、安楽死協会、尊厳死協会が言ってきたことをすこし追ってみる。そして、冒頭に書いたことだが、この法案をどうするかということとはすこし別に、この問題はなかなかにやっかいである。次第にそのやっかいなところに入っていこうと、いささかげんなりしながらも、思っている。」(立岩[2009:78-79])

 「▽081 それは日本尊厳死協会の前身の組織「日本安楽死協会」が作成し法制化の運動を行なった法案である。この協会の設立は一九七六年。同年、第一回国際安楽死会議を開催。国際会議というのは様々な主張をもつ人たちが、それを支持させ、盛り上げるために行なう手段でもあって、このたびも、日本尊厳死協会は、このような手順を、どの程度その反復性に自覚的であるのか、踏んでいる。二〇〇四年の秋にも国際会議が開催された。第一回の国際会議は、実際には五カ国(アメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア、フィリピン)から一二人の人が来たという程度のものだったのだが、二〇〇四年の会議はもっと規模が大きく、財界・政界の偉い人も参列している。
 そして一九七八年一一月、「末期医療の特別措置法」草案作成作業終了、一九七九年三月に正式発表。一九八三年に「日本尊厳死協会」に改名。同年、請願署名を添え法案が国会に提出される。審議未了で廃案。
 こうして一九七八年にまずは草案として作成された法案があり、その二五年後、二〇〇三年に示された法案がある。各々の全文はホームページで読める。私は、なんとなく七八年にできた法案の方がこのたびの案よりずっと過激な法案であったように思っていた。それは「安楽死協会」によって示されたのだし、反対運動を引き起こしたのだし、これから述べるように太田典礼という強くはっきりした主張の持ち主が関わっていたからである。だが、読んでみると、両者は基本的に同じである。」(立岩[2009:81])

 「2 太田典礼
 この協会は、かつては医師、法律家、大学の教員といった職につく男たちの小さな組織だった。この組織を始め、その中心にいたのが太田典礼である。
 太田は一九〇〇年生。医師。治安維持法違反で入獄したこともある。戦後は、一時期国会議員もつとめ、一九四八年に制定された優生保護法制定のために活躍した。また避妊器具である「太田リング」の開発者でもある。一九八▽084 五年にそうめんを喉につまらせて、その時何を思ったか思わなかったか知らないが、亡くなった。
 この人物について、大谷いづみの論文が『死生学研究』(東京大学大学院人文社会系研究科発行)に掲載される〔前節でも紹介したが、大谷[2005a]として掲載された〕。詳細はその論文に譲り、やはりごく簡単に。一九六三年、太田の書いた「安楽死の新しい解釈と合法化」が『思想の科学』に掲載される(太田[1963])。太田によれば、これにはまったく反応がなかった。ただ松田道雄が「激励のハガキ」をくれたという(松田道雄については後述)〔『生死本』で紹介〕。それから一五年後、一九七三年に『安楽死のすすめ』(太田[1973])が刊行される。内容は紹介しないが、題のとおり、その主張はたいへん明解でもあり、同時に、論理の混乱・飛躍も数々見出される、そのような本である。
 その人は天真爛漫に明解に自らの優生思想を語っている。『私的所有論』で、またホームページの彼についてのファイルで幾つか引用している。例えば以下のようなもの。

「ナチスではないが、どうも「価値なき生命」いうのはあるような気がする。[…]私としてははっきした意識があって人権を主張し得るか否か、という点が一応の境界線だ[…]自分が生きていることが社会の負担になるようになったら、もはや遠慮すべきではないだろうか。自分で食事もとれず、人工栄養に頼り「生きている」のではなく「生かされている」状態の患者に対しては、もう治療を中止すべきだと思う」(『毎日新聞』一九七四年三月一五日、清水昭美[1998 : 89]に引用)

「命(植物状態の人間の)を人間とみるかどうか。…弱者で社会が成り立つか。家族の反社会的な心ですよ。人間としての自覚が不足している。」(太田、当時日本安楽死協会理事長)
▽085 「不要の生命を抹殺するってことは、社会的不要の生命を抹殺ってことはいいんじゃないの。それとね、あのナチスのやった虐殺とね、区別しなければ」(和田敏明、当時協会理事)(一九七八年一一月一一日、TBSテレビの土曜ドキュメント「ジレンマ」での発言、清水昭美[1994 : 213-214]に採録、[1997 : 168]で引用)

 そして、協会の刊行物等における太田の持ち上げ方の度合いは小さくはなっているようにも思うが、すくなくとも当初から協会の活動を担っている人たちは、すなおに太田の主張と業績と人格とを肯定し、賞賛している。すくなくとも今のところ批判的な文言を見たことはない。日本尊厳死協会はまっとうな組織である。そして、その尊厳死協会が、安楽死協会からの連続性を確認し、その始祖を肯定することは、まず、事実を隠そうとしないことにおいて立派なことであり、このことは評価されてよい。過去の都合のわるい部分は隠そうとすることがままあるのだが、日本尊厳死協会はそのように姑息なことは行なわず、敬愛、親愛の情を隠そうとしない。例えば協会編の『誰もが知っておきたいリビング・ウィル』に収録されている「リビング・ウィルQ&A」には以下のような問答がある。

「Q28 日本と世界の尊厳死運動を理解するために、これだけは、ぜひ読んでおくべきだという本を推薦してください。
 A 日本の尊厳死運動の開拓者、太田典礼の著作を中心に、次の本をおすすめします。
  太田典礼『安楽死』『安楽死のすすめ』(三一書房)
  日本安楽死協会『安楽死とは何か――安楽死国際会議の記録』(三一書房)
  日本安楽死協会『安楽死論集1〜10集』(以上、人間の科学社)
 ▽085 Q29 日本の安楽死・尊厳死運動の創始者である太田典礼さんとは、どういう人でしょう。なぜ、この運動を始めたのでしょうか。
 A 太田典礼は、合理的で偉大なヒューマニストでした。[…]」(日本尊厳死協会編[1988 : 230-231])◆5

 それはいったいいかなることなのか。どれほどのことが知られているのか。知らないということなのか、あるいは知った上で肯定しているということなのか。
 もちろん、いま尊厳死の主張は、「反骨の医師」などと自称したり他称されたりするメンタリティとは別のところで、広範に受容され支持されている。安楽死・尊厳死の主張は、元祖たちよりもっと慎ましやかに行なうこともできるはずだし、現在の会員の多くもそのような人たちであるのだろう。そしてやがてこの組織そのものも、本心から、あるいは戦略的に、始祖たちとはまた別の言い方をするようになるかもしれない。だから主張の「危なさ」とか主導者の「怪しさ」を指摘していくという行ないは、起こっている事態に対する正面からの対し方ではない。その先が問題なのではある。

「表に現われる言論は次第に「洗練」されていくに違いない。それ以前の歴史を表に出すことも必要だが――尊厳死協会も以前に比べればずいぶん「紳士」になったのである――、しかし過去を「反省」し、より慎重になり、危ないことを誰も言わなくなる時がやがて来るかもしれない。その時にもなお、何を言い得るのか。それをも含めて、言い得ることを考えなければならなくなる。だから、以上で、安楽死がなされようする時、既にそこに生じてしまっていることは何かと考えようとしてみたのだった。」([2000g]↓本書第5章)

 ▽087 以前に書いた文章の末尾にこのように記した。ただ、それでも、まず過去を知っておいた方がよいのだろうということである。」(立岩[2009:83-85])

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版
 ※【 】内が第2版で加えた部分。それ以外は1997年の初版のまま。

 「◇12 日本で安楽死(のちに尊厳死と呼ばれる)法制化の運動を積極的に推進したのはまず太田典礼だが【(立岩[2009a]『唯の生』の第2章「近い過去と現在」でその主張を紹介した)】、彼は【優生保護法制定の推進者の中心人物でもあり】一九六〇年代になっても優生断種を主張している(太田[1967])。さらに例えば次のような発言。
 「基本的には本人の苦しみですよ。しかし、本人が無意識の場合がありますからね。その場合、第三者の見た苦しみを、苦しみとみるかどうかは、これは医者の判断…。」(対談での発言、太田・渡辺[1972→1974:170])
 「命(植物状態の人間の)を人間とみるかどうか。…弱者で社会が成り立つか。家族の反社会的な心ですよ。人間としての自覚が不足している。」(太田、当時日本安楽死協会理事長)「不要の生命を抹殺するってことは、社会的不要の生命を抹殺ってことはいいんじゃないの。それとね、あのナチスのやった虐殺とね、区別しなければ」(和田敏明、当時協会理事)(一九七八年一一月一一日、TBSテレビの土曜ドキュメント「ジレンマ」での発言、清水昭美[1994:213-214]に採録)。
 日本安楽死協会、日本尊厳死協会の安楽死・尊厳死に関する発言の紹介、批判として清水昭美[1994:213-221]。【清水は、一九七〇年代、そして二〇〇〇年代の「安楽死(尊厳死)法制化」に反対する活動の実務的・実質的な部分を引き受け活動してきた。立岩・有馬[2012]でその著作を紹介している。】
 もちろん現在「尊厳死」を主張する人達の多くはこんなに野蛮ではない。自己決定が主張される。しかしこれで問題がなくなるのではない。  「オランダで行われている安楽死や自殺幇助のほとんどは、がんの末期患者で、自分では何もできなくな▽291 り、すべてを他人に頼らなければならないという状態で余命予測の二、三日以内の人で、最長でも二、三週間の屈辱感に耐えられないという患者です」(インタヴューに対するオランダ人の回答――後藤猛[1996:133]に掲載。オランダの安楽死について、この文章所収のNHK人体プロジェクト編[1996]、Chabot[1995]。【その後オランダで安楽死した人による著作としてネーダーコールン[2000] [2001]、ジャーナリストによるものとして三井[2003]、平沢[1996]等。法学者によるものとしてTak/甲斐編訳[2009]立岩・有馬[2012]で紹介した。】
 所謂「ペイン・クリニック」が整備され痛みの制御が十分な水準に達した時(オランダではそうだと言う)、自己決定される死は身体的な苦痛から逃れるためのものでなくなる。この時、その決定の理由は、「屈辱感に耐えられない」といった、より「人間的」なものになる。市野川[1993b][1994a][1996e](cf.小松・市野川[1996]、小俣・市野川[1996])が危惧するのはこのことである(第7章注22・318【→533】頁)。」

◆立岩 真也 2014/02/24 「『生死の語り行い・1』がまた入り用になってしまっている・1――連載:予告&補遺・34」
 生活書院のHP:http://www.seikatsushoin.com/web/tateiwa.html

◇立岩 真也 2014/09/01 「早川一光インタビューの後で・1――連載 103」『現代思想』41-(2014-9):-

◆早川 一光・立岩 真也・西沢 いづみ 2015/09/10 『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』,青土社,250p. ISBN-10: 4791768795 ISBN-13: 978-4791768790 1850+ [amazon][kinokuniya] ※


REV:.....20050104(リンクミス訂正),19,0329 0401,04 20080814, 20090325, 20101012, 20130223, 20140224, 0804, 05, 14, 1219, 20151008, 20160619
優生(学) (eugenics)  ◇安楽死/尊厳死  ◇日本安楽死協会  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇WHO 
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