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早川一光インタビューの後で・1――連載・103

立岩 真也 2013/09/01
『現代思想』2014-9

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last update:20151008


 ※大幅に書き換えられて以下の本の第3章になりました

◆早川 一光・立岩 真也・西沢 いづみ 2015/09/10 『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』,青土社,250p. ISBN-10: 4791768795 ISBN-13: 978-4791768790 1850+ [amazon][kinokuniya] ※

『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』表紙

■十全会病院/堀川病院
 昨年末『造反有理――精神医療現代史へ』(立岩[2013])刊行の後も精神医療に関して書いてきた。八月号が「精神医療現代史へ・追記5」でとくにこの二回他では京都十全会病院についていくらかを書いてきた。今回はその「まとめ」のつもりでいたのだが、本号の特集の企画で早川一光氏(一九二四〜)にお話をうかがう機会を得た。今から七〇年前のことをじかにうかがって知ることを、ずいぶん前のことであるがゆえにというよりむしろ今でもなお語り難いことがあるという意味において、なかなか難しいものだと思った。わからないところも残った。そこで私が何かをわかっているわけではないのだが、その補遺のようなものを書くことにした★01。
 ただ以下に記すことにも十全会(のようなもの)との関係はある。まず、五月号に記したように、早川らが設立と運営に関わった堀川病院に勤め、「呆け老人をかかえる親の会」(現在は社団法人「認知症の人と家族の会」)を一緒に始める三宅貴夫(一九四五〜、八〇年から堀川病院勤務)は十全会二法人の三つの病院の一つである双岡病院の近くに住み、また京都の医療行政に関わり、そこに多くの高齢者が送られていることを知ったことがその会を始める一つのきっかけであったと記していた(三宅[2012)。そして一九七七年に京都新聞社社会福祉事業団が開設した「高齢者なんでも相談」で早川が担当していた「ボケ相談」のコーナー(cf.早川[1979:256-257]等)を三宅が訪ね、相談の役を自らも受けることになり、そこで始めた家族の集まりが京都での集まりになり、そして全国組織になったということである(三宅[1983])。
 そして早川はその著書で、その活動にあたって京都の医師会や行政と――京都では蜷川革新府政が長いこと続いた――幾度もぶつかりもし、またその政策に翻弄される部分があったことを記しながらも、それらに支えられてきたことも記すのだが、その京都の医師会や行政は十全会病院については及び腰であってきた。そして、先述の三宅もまた早川も認知症の高齢者を精神病院に送ることに反対なのだが★02、それでも、早川が関係する地域からもその病院に送られた人たちはいたはずである。
 一九五〇年に設立された白峰診療所、それが発展して一九五八年に開設された堀川病院は先駆的な地域医療を実践したと言われ、住民主体の運営がなされたと言われる。同じ頃、一九五一年、五五年、六三年に十全会の三つの病院ができている。そしてその三病院の病床数は堀川病院の十倍を超える。後者の、明らかに悪辣である病院について幾度か書いてきたのだったのだが、例えばこの二つをどのように並べて見たらよいのか。
 後で、両端に位置する二つは、共通する構造から、問題を抱えたりまた商売を繁盛させたりしたのでもあること、その上でなお、ある時代の理想像として語られる(いっときの)堀川病院の組織・運営の形態は、保険医療体制のもとでの採りうる一つの解であることを示していると考えられることを述べる。
 それを述べるのは次回になるからまず簡単にいくつか記しておく。堀川病院は当時の制度のもとで金が出ない在宅医療をする。従事者側からは反対論が出るが住民側に押されて続ける。それは当然に経営を圧迫し従事者の仕事をきつくする。他方、老人医療費(のいわゆる自己負担分)が無料になると、高齢者が病床を占めるようになりその対応に苦慮する。在宅療養を支援しつつ病院を出たり入ったりという間歇入院という仕組みを作るが、それも病院の都合で退院させられると利用者からの不評を買う。やがて無料化は撤回され、同時に、入院日数の短縮政策とともに訪問医療・看護には一定の予算がつくようになりいくらかのことは各地で行われるようになる。とすると、その病院は先導的でありながら、普通の病院になっていく。そんなことが起こったというまとめ方でよいか。そうでもない、もっと言えることがあると思っている。
 出来高払いの保険医療体制といっても、もちろん何に点数がつくかは制度が決めている。一つにその改善は当り前のことだが政策の水準でなされるほかない。それがうまくいかなければ個々の努力・尽力はその個々に、とくに真面目にまともな仕事をしようとする側に困難を生じさせる。ここまでも当然のことだ。そしてその政策に関与する重要な部分は経営者側の勢力が強い場で議論されてはならないことが、利用者が主体であるとかいった一般論とは別に、この制度を維持しながら制御していくために一定の意味をもつ方策だと言えるはずである。例えば五月号・第九九回でとりあげた「病棟転換型居住系施設」についての議論がどのような場でなされてたか、それでどんなことになったがそのことを示している。業界は業界の利害を通そうとする。それ自体は当然のことではある。しかしその帰結が合理的でないなら、そうした勢力の影響力を弱くするのが一つに採るべき策である。
 次に個々の組織・病院について。よくない金の使い方、過剰・不要な医療を行うことを止める方法としてこれまで出されてきた案は、自己(家族)負担の増額と定額制の導入であり、とくに後者は全面的に否定される必要はないとしても、いずれにも問題が多い。基本的に出来高払いの保険医療体制が維持されるべきだとした場合、個々の、そしてすべての病院の経営について、必ず利用者であるべきであるかは検討の余地があるが、その経営から経済的な利益を得ることのない人たちが実質的に経営に関与するようにすべきである。以上がこれから辿っていって言えることだと考えている。ただこのことをそのわけとともに述べるのは次回になる。今回はまず、論じられず知られてない過去についていくらかを述べてから次に進む。
 組織や運動には様々な人が関わり様々な思惑が絡む。語り難いことが語られるために時間のいることがある。そしてそうして時間が経つうちに本当にわからなくなることもある。それでうかがったのだが、まだかかるようだと思った。喧嘩もあり対立もあったのだが、まだ生きている人もいる、だから…、と早川は語った。幾度か流れるように語られる声が止まることにあったように思う。すると一つに、残存する文字資料で固められることは固めていくことがやはり必要だ。まず著書を書い足した(→文献表)。それはまったく安直なことだ。だが、彼の娘でもあり大学院生でもある西川いづみは古い資料・史料を集め当時あったことを調べ確認する仕事をしている(→文献表)。それは貴重で重要な作業である。私はとてもそうした本格的な調査研究を行なうことはできない。だが、いつもそのように思って書いているのだが、きっとこの後を続ける人がいるだろうから、いくらか参考になればよいと思い、以下記しておく。

■終戦後・前

■太田典礼/松田道雄

■党との距離に関わる事情

■だがたいした分岐ではない

■再び堀川病院にて

■註
★01 早川について書かれたものとして中里憲保[1982:95-120](『週刊現代』での連載がもとになっている)。『日本仁医物語 近畿篇』(志村編[1984])所収の加来耕三[1984]については註3。慶応義塾大学経済学部でゲストを読んて話をしてもらう一連の講義を書籍化した一冊である高草木光一編[2013]に収録されている山口研一郎[2013:209-223]。また鎌田實[2001]には鎌田自身の文章の他に若槻俊一、早川、増田進との対談が収録されている。西川の著書・編著で今回入手できたものは文献表に列挙した。arsvi.comの頁を増補し著書の目次や引用を付した頁を作成した。
★02 「問い合わせの中で私が一番気になるのは「いっそのこと精神病院に入れて治療を受けさせた方がいいのでは?」という質問である。それに対して私はこう答える
 「わたしたちはボケてうまれたんです。親が年をとって、物忘れしくぼけたって順おくりや。おむつして世話するのはあたりまえではないか。病院送りはウバステと同じや。共倒れしそう毎日なんやと思いますが、これは三十年後の自分だと考えて、全力をつくして看てやってほしい。ぼけを病気とみるのでなくて、人問の自然の姿としてとらえて最後までつきあってあげてほしい。いつまでもとはいいません。やがて間もなく”みなくてもい時”がきます。八合目あたりが、山登りでもつらい時と思いますが、登りきってやってやってほしい。頂上に達した時、きっと、登ってよかったと、しみじみ思われるだろう。登りきった人だけが味わう満足感、その満ち足りた家族の人たちの顔を私は何人も見てきているんです」(早川[1980:231])
★03 日本社会党に移籍し、四七年、衆議院議員総選挙で京都二区から社会党公認で立候補し、当選。その後労働者農民党に参加するが、四九年衆議院議員総選挙で落選。六二年、参議院議員選挙に、京都府選挙区から無所属で立候補し落選。政界を引退した。
 岡本靖(一九二八〜、元・京都民主医療機関連合会事務局長、全日本民主医療退職者の会代表委員…、私の勤務先の関連会社でもあるクレオテック取締役という肩書もある)によると、太田は京大産婦人科医局副手のときに郷里から金を取り寄せ洛北診療所を開所、夜間診療を行う。その後軍医として召集される。帰った時には診療所はなくなっていた。その後三九年に党への寄付によって逮捕、西陣に一年間留置。四二年に再度逮捕(産業組合青年部に講演したこと、論文に反戦思想が濃厚だったことが理由とされたという)。四五年まで収監された(岡本[2008:67-74]。
★04 インタビューの中で早川は自分だけでなく当時の医学生の親(の世代)からの継承があったことを述べている。そうしたことが数々あったのだろうと思う。ただ私は、この現状においては、世代間の継承を断ち切る方向にことを進めた方が事態をよくするだろうと考えている。とくに開業している医師たちにとって子への継承が最大の関心であり、実際それが様々な無理を生じさせつつなされ、それが停滞と悪化に結びついている。このことは山本真【63】へのインタビューで語られてもいる(山田・立岩[2008b:228])。
 早川の生い立ち――これまでの著書ではみな愛知県(の現在の)東海市出身と略記されている――のこと父親のことについては加来耕三[1984]がかなり詳しい。ただ文献として早川[1980]があげられている以外の情報源についての情報は見当たらない。
★05 「太田典礼さんとはながいつきあいである。太田さんを私にむすびつけたのは、昭和のはじめの無産者医療運動であった。学生だった私は小遣いの一部をカンパする程度のことしかできなかったが、産婦人科の太田さんはその全存在を運動にかけられた。太田さんのりっぱだったのは、運動と医学研究とを結びつけられた点にあった。」(松田[1951→1980:222])
★06 「私は前から医師として安楽死の実践をしていたのであるが、論文として発表したのは、有名な名古屋高裁判決の出た翌年の三十八年で、『思想の科学』八月号の「安楽死の新しい解釈とその立法化」である。日本における論争はすでに昭和の初期から始まっており、とくに刑法学者の間では肯定論が有力になりつつあったが、医学関係者は僅かな先覚を除いてはほとんど否定的であった。私はこれに対して積極論を述べたのであり、臨床医としては最初のものであった。むしろ、おそきに失した感があったほとである。でも手応えはまったくなく、非難も起こらず無視された格好だった。ただ一人旧友の松田道雄から激励のハガキを貰っただけであった。」(太田[1980])
★07 「法制化を阻止する会/一九七八年十一月、この名の会が発足した。発起人は武谷三男、野間宏、水上勉、那須宗一、松田道雄らの文化人五氏とあり、協会はその声明に対して、誤解にもとづき、理論的根拠がない、という反駁声明を出したように、国際的な動きに目をつむる知性の不足がある。そしてアメリカと日本は風土がちがうという古さである。ヒステリックな生命尊重論やニヒリスト的な見解から、青医連的な発想まであってまとまっていない。
 一番問題なのは文化人という肩書きにあぐらをかいていることである。文化人なら何でもできるという思い上りがある。五氏はそれぞれ優れた業績の持主ではあるが、国際的感覚のない連中を文化人といえるかどうか。
 困るのは松田道雄である。私とは古い友人で同じような経歴をもち、かつては安楽死支持者であった人なのにどうして正反対にまわったのか、私より数年若いはずなのに老化したのか。同じ道を歩いたものが敵意をもって人間的にも憎しみあうような関係になったのはまことに心外で、何度も話しあいたいと思ったが、ここまでふみ切った以上は面子もあり後へは引けないだろう。残念ながらあきらめざるを得ない。これも安楽死思想の運命なのか。」(太田[1980:266-267])
★08 太田については『私的所有論』(立岩[1997→2013:290])『唯の生』(立岩[2009:76,83-91])他で幾度かふれている。松田道雄と安楽死・尊厳死とのかかわりについては『良い死』(2008:52,78]、また『生死の語り行い・1』に収録された文章(立岩[2012])でも記している。『唯の生』はここしばらく書店で入手できなくなっていたが、このたびまずテキストファイルでの提供を始めた。
 (言葉の普通の用法との異同は別として)安楽死、尊厳死、リビング・ウィル…についての早川の言及をいくつか拾っておく。
 「呆けは治りにくいし、又、たとえ治らないでもよろしい。呆けることが安楽死ですもの。/[…]自分が死ぬことをわからずに死んでいくこと、これは自然の安楽死。薬を一服もることは安楽死でもなんでもない。自然はちゃんと安楽死を用意してくれています。それは生きぬくことです。[…]あれが安楽死なんです。」(吉沢・早川[1982:199]、早川の発言)
 こうした発言・文章は幾度も繰り返される
 「寿命いっばい生きてきて、だんだんもの忘れがすすんで、最高に親しい人も忘れて、自分の死ぬものもわからない、そういう死にかたが、ぼくは安楽死だと思いますね。」(早川[1984:(110-)111]
 「楽に死ぬということは、それは、出来ません。人間は一分でも一秒でも生きるように創られています。生きようとする力――死んでたまるか――という力が"いのち"(生命力)です。死がすぐそこまで来ても。全力をあげてそれに抗います。だから、苦しいんです。その苦しみからのがれようとするから、苦しむんです。だから、死んだら楽になるんで、楽に死ぬといっても無理なことです。/たくさんの患者さんの生き死に立ち合ってきて、肩で息をし、小鼻を動かし、下顎を古ぼけた機関車のように激しく動かし、汗をたらし、歯をくいしばって呼吸を止めたとき、”うんこれで患者さんは楽になったんだな”と思う。」(早川[1991:208-209])
 こうした記述は早川の著書の中で一貫して続くが、他方、一九九〇年代半ば以降、わりあい標準的な発言も見られるようだ。
 「延命と安楽死/これから、医療と倫理の関係が問われてくる時代になってまいりました。倫理委員会などと組織をっくって、どのような冶療をするのか、どのような手当をするのか、これが問われてくる時代に入りました。
 それはなぜかというと、現在の近代医療は延命、一分、一秒でも長生きさせようとするのを目的とする医療です。そのためには手段を選びません。/[…]/その結果、本人が望まない延命、あるいは、もはやこれまでと本人が納得をしても、なおわれわれが延命を図るという医療も出てまいりました。
 ここに、患者さんご本人からも、無駄な医療、延命医療をしないように、あるいは自分ここに、患者さんご本人からも、無駄な医療、延命医療をしないように、あるいは自分がが息をひきとる場所、自宅であれぱ自宅、病院であれぽ病院、息を引き取る場所をはっきりとしておくことが必要になってきました。これが実は安楽死、尊厳死の発想の元になりました。/要は、今まで医療に携わる者に一任されていた命、体というものを、もう一度ご本人の手に取り戻す、返すという考え方が出てまいりました。これが医と倫理の関係になってまいります。
 インフォームド・コンセントという言葉があります。[…]/これから二十一世紀は、ますますこの考え方がはっきりしてくると思います。」(早川[1996:167-169])
 他に、早川[1998:81-83]、早川[2003:185-193]等々。
★09 小児科の山田真【63】に行なったインタビューが本誌に掲載され(山田・立岩[2008a])それに未掲載の部分と長い註を付したもの (山田・立岩[2008b])を『流儀』(稲場・山田・立岩[2008])に収録した。その終わり頃に山田は次のようなことを語っている。『造反有理』【359】でまったく同じ個所を引用した。
 「いい医療をやると目指して、いい医療をやったと思ってるからよくないんだよね。田舎ってすごくやりやすい。医者がいい医療をやろうっていうふうに目標たてたら、みんな協力してくれるし、やりやすいの。だからある意味では、いい医療をやることによって全てが管理されているようなもんなんだよね。「健康日本21」みたいな発想っていうのは、そういうところからでてきている。
 そこへ来てくれる医者は神様みたいに思われている地域へ行って、医者が理想的な医療をやってしまうということは、それで満足したら非常にまずい。それがモデルとして使われてしまう。今の健康政策は予防医学という線だよね。どこがお手本になってるかっていうと、あのへんの医療が、地域医療がお手本になって、それを全国化する。[…]/「ぴんぴんころり」は佐久市の三浦市長が言い出したという説もあって、革新的なところから安楽死的な発想が出てくるという皮肉なこともある。保守的な考えも革新的な考えも紙一重なんだよね。その紙一重の怖さみたいなものが、なかなかわからなかった。」(山田・立岩[2008b:245-246])
 すると結局何ををよしとし何をよしとしないのかというごく基本的なことを考えねばならないということになる。本号の発売とほぼ同時に拙著『自閉症連続体の時代』(立岩[2014])が刊行される。その本は、自分は自閉症である、自閉症は脳の機能障害であると知ったり述べたりすることが何をもたらすか、それをどのように考えたらよいか、過去とくにここ十年ほどたくさん出た「本人」による本を集め、それらに書いてあることを検討し考えたことを述べた本である。その第7章「社会がいる場所」第8章「処世と免責とわかることについて」で、まだ出された問いに答えるには精度が足りないのだが、いくらかのことを述べている。
★10 石井の話の中には次のように早川が出てくる。
 一九七七年八月に始めた地域医療懇談会に「集まったのは、うちの病院と黒岩のところ――あついはもう浦佐(新潟県)で「ゆきぐに大和病院」をはじめてた――以外では、関西の阪神医療生協――元は社会党系――の今泉さん、精神科では初音病院、これから病院作るぞとぶち上げていた九州の松本文六たちでしょ、それから当時民医連から脱退していた京都の堀川病院なんかも来てくれた。僕は堀川病院とは親しくしてて、うちに地域保健部を作るときに見学に行って参考にさせてもらいました。浦池のルートで、やつの兄貴も来たな。九州で病院グループを経営してたんだけど、これが左翼でもなんでもなくてさ、「ミニ徳洲会みたいな感じで経営者根性丸出しのことをまくしたてるから、堀川病院の早川[一光]大先生、怒って帰っちゃった。」(市田・石井[2010:225])

■文献 ※を付したものはウェブ上で読める
天田城介・村上潔・山本崇記編 2012 『差異の繋争点――現代の差別を読み解く』、ハーベスト社
呆け老人をかかえる家族の会 編/早川 一光 監修 1982 『ぼけ老人をかかえて』、合同出版
早川 一光 1979 『わらじ医者 京日記――ボケを看つめて』、ミネルヴァ書房
―――― 1980 『続 わらじ医者 京日記』、ミネルヴァ書房
―――― 1983a 『親守りのうた』、合同出版
―――― 1983b 『ボケてたまるか!――早川一光講演録』、神奈川県老人クラブ連合会
―――― 1984 『ポックリ往く人逝けぬ人』、現代出版
―――― 1985a 『ぼけない方法教えます』、現代出版
―――― 1985b 『ぼけの先生のえらいこっちゃ』、毎日新聞社
―――― 1986 『畳の上で死にたい』、日本経済新聞社
―――― 1989 『長生きも芸のうち――となりのおばあちゃん』、小学館
―――― 1990a 『くらしの中の知恵――ボケないボケさせない』、協同組合通信社
―――― 1990b 『おいおいあんなぁへえー』、京都21プロジェクト
―――― 1991 『ほうけてたまるか』、労働旬報社
―――― 1992 『ボケない話 老けない話』、小学館
―――― 1995a 『不思議・ふしぎ?からだ再発見! 1』、ミネルヴァ書房
―――― 1995b 『くらしの中の知恵――ボケないボケさせない』、小学館
―――― 1995c 『大往生の心がけ――わらじ医者の一人語り』、創樹社
―――― 1995d 『ボケないひけつ教えます――看護と介護の道を歩く人たちとともに』、小学館
―――― 1996a 『わらじ医者健康問答』、京都21プロジェクト
―――― 1996b 『不思議・ふしぎ?からだ再発見! 2』、ミネルヴァ書房
―――― 1996c 『いきいき生きる――人間学のすすめ』、京都新聞社
―――― 1998 『お迎え来た…ほな行こか――老いと死、送りの医療』、佼成出版社
―――― 2003a 『“わらじ医者”早川一光のボケない生き方ボケても幸せな老い方』、海竜社
―――― 2003b 『大養生のすすめ』、角川書店
―――― 2003c 『老い方練習帳』、角川書店・新書
―――― 2003d 『人生は老いてからが楽しい』、洋泉社
―――― 2004a 『ほな、また、来るで――人を看るということ』、照林社
―――― 2004b 『お〜い、元気かぁ〜――医の源流を求めて』、かもがわ出版
―――― 2005a 『老いかた道場』、角川書店・新書
―――― 2005b 『ひろがれ、ひろがれ九条ねぎ(祈ぎ)の輪――早川一光 憲法わいわい談義』、かもがわ出版
―――― 2007 『大養生の作法――人生最終章の生き方のコツ』、角川書店・新書
―――― 2008 『わらじ医者 よろず診療所日誌』、かもがわ出版
―――― 2009 「医師・早川一光が語る民主主義・平和・革新懇運動」(インタビュー)、『京都革新懇ニュース』2009年9月10日号 ※]
―――― 2012 『どーんと来い、困りごと』、かもがわ出版
早川一光 編 1983 『ボケの周辺――老いを支える人間もよう』、現代出版
早川一光・鎌田實 2001 「VS 早川一光 地域医療の青い鳥を探して」、鎌田[2001:134-194]
早川一光・老いの心と体の研究会 編 1982 『ボケ100番』、現代出版
早川一光・吉沢久子 「対談」、吉沢・早川編[1982:175-212]
稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』、生活書院
市田良彦・石井暎禧 2010 『聞書き〈ブント〉一代』、世界書院
加来耕三 1984 「父子鷹――早川一光(京都)」、志村編[1984:175-214]
鎌田實  2001 『命があぶない医療があぶない』、医歯薬出版
小林宗之・谷村ひとみ編 2013 『戦後日本の老いを問い返す』、生存学研究センター報告19
松田道雄 1951 「推薦文」→松田[1980]
―――― 1980 『私の読書法』、筑摩書房、松田道雄の本15
三宅貴夫 1983 「呆け老人をかかえる家族の会ができるまで」、早川編[1983:10-12] ※
―――― 2012 「私の転居歴2――京都」、『認知症あれこれ、そして』 ※
中里憲保 1982 『地域医療の旗手――住民と共に歩む「赤ひげ」たち』、現代出版
西沢いづみ 2009a 「生活の場を起点としたポリオ生ワクチン獲得運動」、『出生をめぐる倫理研究会 2008年度年次報告書』 :64-73  ※
―――― 2009b 「ポリオ生ワクチン獲得運動に見いだされる社会的な意義」、櫻井・堀田編[2009:83-112] ※
―――― 2011 「地域医療における住民組織の役割の歴史的検討――白峯診療所および堀川病院の事例を中心に」、『Core Ethics』7: 211-220 ※
―――― 2012 「西陣地域における賃織労働者の住民運動――労働環境と医療保障をめぐって」、天田・村上・山本編[2012:41-61]
―――― 2013 「1970年代の京都西陣における老人医療対策と住民の医療運動との関わり」、小林・谷村編[2013] ※
―――― 2014 「早川一光の臨床実践からみた住民の医療運動――京都西陣地区での終戦から1970年までの取り組みをてがかりに」(草稿)
岡本康 2008 『革新京都の先駆者たち――治安維持法犠牲者の群像』、つむぎ出版
太田典礼 1963 「安楽死の新しい解釈とその立法化」、『思想の科学』
―――― 1969 「老人の孤独」、『思想の科学』85:42-47
―――― 1980 『反骨医師の人生』、現代評論社
大谷いづみ 2005 「太田典礼小論――安楽死思想の彼岸と此岸」、『死生学研究』5:99-122 ※
櫻井浩子・堀田義太郎 編 20091 『出生をめぐる倫理――「生存」への選択』、立命館大学生存学研究センター、生存学研究センター報告10 ※
志村有弘 編 1984 『日本仁医物語 近畿篇』、国書刊行会
高草木光一 編 2013 『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』、岩波書店
立岩真也 1997 『私的所有論』、勁草書房
―――― 2008 『良い死』、筑摩書房
―――― 2009 『唯の生』、筑摩書房
―――― 2012 「「ブックガイド・医療と社会」より」、立岩・有馬[2012:]
―――― 2013a 『私的所有論 第2版』、生活書院・文庫版
―――― 2013b 『造反有理――精神医療現代史へ』、青土社
―――― 2014 『自閉症連続体の時代』、みすず書房
立岩真也・有馬斉 2012 『生死の語り行い・1――尊厳死法・抵抗・生命倫理学』、生活書院
山田真・立岩 真也(聞き手) 2008a 「告発の流儀――医療と患者の間」(インタビュー)、『現代思想』36-2(2008-2):120-142
―――― 2008b 「告発の流儀」、稲場・山田・立岩[2008]
若月俊一 1994 『信州の風の色――地域農民とともに50年』、旬報社
―――― 2010 『信州の風の色――地域農民とともに50年 第2版』、旬報社
吉沢久子・早川一光 編 1982 『銀の杖』、自由企画・出版
山口研一郎 2013 「医療現場の諸問題と日本社会の行方」、高草木編[2013:151-233]
山本崇記 2004 「松田道雄小論――戦後革新政治におけるその位置」『戦後社会運動史のために・1』、科学研究費助成研究、基盤B・16330111、2004年度報告書3、pp.35-61 ※
―――― 2005- 「松田道雄関連著作リスト」 ※


UP:20140814 REV: 20151008
早川 一光  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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