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信田 さよ子

のぶた・さよこ


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last update:20151011

■業績

〈書籍〉
◆信田 さよ子 20100916 『ふりまわされない――会社、仕事、人間関係がらくになる7つの物語』,ダイヤモンド社,192p. ISBN-10:4478009317 ISBN:978-4895143004 \1365 [amazon][kinokuniya]
◆信田 さよ子 20091118 『タフラブという快刀』,梧桐書院,216p. ISBN-10:4340120006 ISBN-13:978-4326152476  \1470 [amazon][kinokuniya]
◆信田 さよ子 20090530 『苦しいけれど、離れられない――共依存・からめとる愛』,朝日新聞社,187p. ISBN-10:4022505850 ISBN-13:978-4022505859 \1680 [amazon][kinokuniya]
◆信田 さよ子 20080410 『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』,春秋社,192p. ISBN-10: 4393366255 ISBN-13: 978-4393366257 1785 [amazon][kinokuniya] ※ m.ac.
◆信田 さよ子 20080325  『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』 ,筑摩書房,206p. ISBN-10: 4480842837 ISBN-13: 978-4480842831 [amazon][kinokuniya] ※ m.ac.dv.
◆信田 さよ子・上岡 陽江・シャナ キャンベル  20040915 『虐待という迷宮』,春秋社,206p. ISBN-10:4393364759 ISBN-13:9784393364758 \1700 [amazon][kinokuniya] ※ v04 s02
◆信田 さよ子 20030627 『愛しすぎる家族が壊れるとき』,岩波書店,201p. ISBN-10:4000220179 1600 [amazon][kinokuniya] ※ m.ac.
◆信田 さよ子 20020315 『DVと虐待――「家族の暴力」に援助者ができること』,医学書院,190p. ISBN-10: 4260331833 ISBN-13: 978-4260331838 1890 [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆信田 さよ子  20010608 『子どもの生きづらさと親子関係――アダルト・チルドレンの視点から』,大月書店,子育てと健康シリーズ15,122p. ISBN-10: 427240315X ISBN-13: 978-4272403158 [amazon][kinokuniya] ※ m.ac.
◆信田 さよ子 20010518 『子どもの虐待防止最前線』,大月書店,219p. ISBN-10:4272411306 1800 [amazon][kinokuniya] m.
◆信田 さよ子 20010209 『「アダルト・チルドレン」実践篇』,三語館,221p. ISBN-10:4883203186 1400 [amazon][kinokuniya] ※ m.
◆西山 明・信田 さよ子 20001120 『家族再生』 ,小学館,223p. ISBN-10:4093873194 1500 [amazon][kinokuniya] ※ m,
◆信田 さよ子 19990615 『アディクションアプローチ――もうひとつの家族援助論』,医学書院,220p. ISBN-10: 4260330020 ISBN-13: 978-4260330022 2100 [amazon]/ryospage03-22">[amazon][kinokuniya] ※ m.f03
◆信田 さよ子 19980907 『愛情という名の支配――家族を縛る共依存』,海竜社,222p. ISBN-10: 4759305629 1500 [amazon] ※ m.ac.
◆信田 さよ子 19970330 『コントロール・ドラマ――それはアダルト・チルドレンを解くカギ』,三五館,221p. ISBN-10: 4883201007 1400 [amazon] ※ m.ac.
◆信田 さよ子 19960808 『「アダルト・チルドレン」完全理解』,三五館,205p. ISBN-10:4883200876 1400 [amazon][kinokuniya]→20010410 『アドルト・チルドレンという物語』(改題),文春文庫,224p. ISBN-10: 4167157187 ISBN-13: 978-4167157180 552+ [amazon][kinokuniya] ※ m.ac.

〈雑誌〉
◆東 小雪・信田さよ子 20151001 「討議 私たちがつくる〈家族〉のかたち」」,『現代思想』43-16(2015-10)


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■引用

◆信田 さよ子 19960808 『「アダルト・チルドレン」完全理解』,三五館,205p. ISBN-10:4883200876 1400 [amazon][kinokuniya]→20010410 『アドルト・チルドレンという物語』(改題),文春文庫,224p. ISBN-10: 4167157187 ISBN-13: 978-4167157180 552+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「家族の一員が機能不全を感じれば機能不全なのです。
 これは自分がACと思えばACなんだという自己申告と重なるものがあります。このことで、飛躍的にACの範囲が広がりました。
 日本でいうところの機能不全家族は、ワーカホリックと良妻賢母ホリックの共依存であり、その家族のもとで育つ勉強依存の子どもたちによって構成されています」(信田[1996:56→2001:60])

 「ACという自己認知は自分の人生をストーリーとして組み替える作業を含みます。このような内省と自己点検ははっきり言ってかなりの力を要します。現実の親との関係ではなく、自分の中に棲む親との関係というきわめてイマジネーションによるところが大きいからなのです」(信田[1996:77→2001:81])

 「人の評価を気にせず、自分で殺してきた感情を「私」を主語にして語ることで、自分のストーリーが少しずつできてくるのです。それは今、自分がここにいることを結果的に肯定するストーリーです。話すことによって、どうしてACが楽になっていくかというと、自分はこういうふうに生まれてこういうふうにきた、と自分が悪いと思っていた物語を話、自分はACなんだと、もう<0128<一度遡っていって、私はこの世の中に生まれてもよかったんだと、物語を書き換えていくわけです」(信田[1996:128-129])
 「自分で封印してきた記憶を「私」を主語にして語ること、そして語った内容が否定されないで聞いてもらえることで、自分のストーリーが少しずつできてくるのです。それは今、自分がここにいることを結果的に肯定するストーリーです。
 語ることによって、どうしてACの人たちが楽になっていくかというと、自分はこのように生まれてこのように生きてきたと繰り返し語ること、自分が悪いと思っていた物語がACと気づいた地点からもう一度遡っていって、私はこの世の中に生まれてもよかったのだと、物語が書き換えられるのです。」(信田[2001:133])

 「原因を除けばすべてが解決するのでしょうか。私は“親が原因”と言いたいのではありません。親を抹殺すれば解決するのではないのです。親との関係で苦しんできたのですから、親との関係を変えればいいのです。そして、今の自分をむりやりインナーチャイルドとして対象化せず、今、ここに棲みついている親との関係を整理してゆくことのほうが現実的でしょう。」(信田[1996:143→2001:147])

 「摂食障害とかアルコールのように何か困った行動があれば、それがなくなることが「回復」だと言えばわかりやすいでしょう。ところがACというのはそれがないわけです。回復は親の清算で七割達成されます。
 残りの二割は、自分が親からの拘束を受けるなかで身に付けた対人関係や感じ方を、どう自分に楽な行動に変えていけるかを考えることです。
 最後の一割は平安の祈りのようなもので、ACであるということを忘れてしまうくらいになるということでしょうか」(信田[1996:149→2001:153])
 「回復のための努力は、(世代連鎖の恐怖を断ち切るため…引用者)次の世代にとっても大きな意味を持つのです」(信田[1996:176→2001:181])

 「サイコドラマでは、意識的に演じることから、自分の対人関係の持ち方が客観的にわかります。ふだんとは違う行動をしてみる。言えないことを言ってみる。やさしく語りかけてみる。その仮の場面でできたことは、仮ではありますが、今ここで起きたことですから、現実でもできる可能性があるのです。」(信田[1996:160→2001:165])
「私たちの場合はそれ(感情の吐露の重要性:引用者)に加えて、自分で自分を見つめたり、演じながら考えるという意識的な面も大切にします。役割に没入したり、なりきる必要はないのです。」(信田[1996:161→2001:166])

 「基本的には、自分で気づいて自分がそう思えば、誰からも文句を言われることのない、立派なACです。このように、自己申告という面があります。
 医療の世界に関連した言葉の中で、こんな言葉はほかにありません。たいていは言われると嫌な気持ちになる言葉しかありません。たとえば、「ボーダーライン」とか、「人格障害」とか、「神経症」とか…。「神経症と言われて、救われた」とか、「人格障害ですよといわれて、もう天にも昇る<0188<心地だ」ということはまずないでしょう。たいていの診断名は、診断する側とされる側があって、さ<0184<れる側は傷つき、それを勲章どころか、夜陰に隠れて裏街道という感じになってしまいます。
 ところが、アダルト・チルドレンという言葉のもつ独特の響きには、そうしたニュアンスがないという面を強調しておきたいと思います。」(信田[1996:184-185:→2001:188-189])

 「だれだって「私はAC」といっていいのです。「ACかな?」と思ってカウンセリングの場にきたのなら、その人はACです。
 アルコール依存症の親がいるからといって、「ACです」と断定することはありません。[…]<0186<<0190<本人の知らないところで勝手にラベルを貼り付けるものではありません」(信田[1996:186-187→2001:190-191])

 「親の影響を受けつつも、それに支配しつくされることなく、それを怜悧に見つめきり、言語化する能力と、それを支える溢れるような環生を保ちつづけてきたこと。これこそが人間の尊厳です。ACは誇りなのです。」(信田[1996:199→2001:203])

 「ACコンセプトがなければ「私は甘えているんじゃないか。私は親のせいにして、あんな年老いた親を責めて、冷たい子どもじゃないか」「でも苦しいし、親を許せない」と、堂々巡り<0189<を続けます。この堂々巡りを突き破る言葉がなかったわけです。」(信田[1996:189-190→2001:194])

 「ACという言葉は、私たちの生まれ育った家族における親の影響、親の支配、親の拘束というものを認める言葉なのです。つまり私たちはそういう支配を受けて今の私がいるという、まったく純白なところから私たちが色をつけられたのではなくて、親の支配のもとにあって、影響を受けながらいまこういうふうに生きているのであって、そこを認めるということです。自分がこんなに苦しいのは、「私がどうも性格がおかしいのでは<0195<ないか」とか、「私が意志が弱かったのではないか」ということではなくて、そこには親の影響があったのだと認めることで、「あなたには責任はない」と免責する言葉でもあるわけです」(信田[1996:191→2001:195-196])

◆信田 さよ子 19970330 『コントロール・ドラマ――それはアダルト・チルドレンを解くカギ』,三五館,221p. ISBN-10: 4883201007 1400 [amazon] ※ m.

 「息苦しい、生きづらいという感覚を持っている人がだんだんと増えています。それを「病理」として個人の問題として説明することはできるでしょう。でも、そのこと自体が、もっと「生きにくさ」を増し、もっと自分を責めることになるのではないでしょうか。
 ACという言葉の提示するメッセージは、「親との関係を見直すこと」「親の支配を読み解くこと」であり、「あなたに責任はない」と免責することなのです。」(信田[1997:4])

 「ACは何か特徴があるとか、チェックポイントが二〇項目あって、そのうち幾つ以上当てはまればACだとする見方がありますが、それは大変失礼なことです。人に決めてもらうことではなくて、ACか否かは自分で決めることです。
 何でもかんでも客観性を持つことが正しいと考えている人もいますが、ACについては違い<0056<ます。1+1=2、これは正しい。気圧が高いと高気圧、これも正しい。でも、自分がACかどうかは客観的にはわかりません。自分で決めることです。
 自分は、馬鹿だと自己認知する人もいるかもしれません。自分はブスだという自己認知をする人もいます。でも同じ自己認知でも、ACは自分が楽になる自己認知です。ACと思って、ものすごく落ち込むような人は、ACと自己認知しない方がいいのです。ACと思って、これで私は先が見えるんじゃないかとか、自分という存在が見えるんじゃないかとか、自分の過去がこれでたどれるんじゃないかと思った人は、自分をACだと思って、ACを自分のアイディアにしていただければいいのです。
 これが、AC本人に一番やさしい考え方だと私は自負しています。」(信田[1997:56-57])

◆信田 さよ子 19980907 『愛情という名の支配――家族を縛る共依存』,海竜社,222p. ISBN-10: 4759305629 1500 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「共依存は一代で終わらないで連鎖していきます。[…]暴力を見て育った子どもは殴る側か、殴られる側のいずれかに自分を重ね合わせて成長します。だから、男の子であれば同性の父(殴る側)に自分を重ねることが多くなり、女の子であれば同性の母(殴られる側)に自分を重ねることが多くなります。[…]親に殴られて育つと、自分も親になった時、子どもを殴るというようなことをしてしまいがちなのです。[…]しかし、「人はなぜされたようにしてしまうのか」という問いに対する明らかな理由はまだ分からない部分が多いのです」(信田[1998:32-33])

 「運命や遺伝といった言葉で考えてはいけません。親との関係で身につけたものであれば、それは変えることができるのです。」(信田[1998:73])
 「両親二人の間に繰り広げられる、支配する・支配されるという、それ以外の何ものでもないような関係を日常的に見ているという、この三つを受けて育ったのがACの人たちなのです。」(信田[1998:82-33])

 「トラウマとACという二つの言葉は共に「あなたが悪いわけではない」という「免責性」を与えてくれます。いつもすべての原因を自分に求め責め続けている人にとって、この免責性は救いと感じられ、楽になるきっかけを与えてくれるのです」(信田[1998:96])

 「人のせいにする人は悪い人、自分のせいにする人はいい人と思われていますが、自分が悪いと思うことが本当にいいことなのでしょうか。」(信田[1998:209])
 「一般常識では、自分を責めれば、自分は変わるのではないかと思われています。私はむしろ、自分をほめた方が自分は変わると思います。一見いいことのように思いますが、「私が悪いのだ」と理由づけするだけで、何の解決にもならないのです。」(信田[1998:212])

 「苦しいことに慣れるのは、代わりのものが手に入るからです。りんごが奪われたら代わりに姫りんごが与えられるようなものです。その代わりのものは「自分で引き受けなくていい」という安楽です。「自分の足で立たなくてもいい」という安逸です。これは自分で立ち、考えることを奪われることなのです。[…]どうせ一回しかない人生なのですから、少々こわくても自分の意見を言い「ヨッシャ!」と引き受けてみましょう。その結果について文句は言わないことです。[…]よく言われる「イキイキ」という言葉は、このような勇気の結果生まれるものなのです。人のせいにしてはイキイキできません。」(信田[1998:213-214])

◆信田 さよ子 19990615 『アディクションアプローチ――もうひとつの家族援助論』,医学書院,220p. ISBN-10: 4260330020 ISBN-13: 978-4260330022 2100 [amazon][kinokuniya] ※ b f03

◆西山 明・信田 さよ子 20001120 『家族再生』 ,小学館,223p. ISBN-10:4093873194 1500 [amazon][kinokuniya] ※ m,

 *一部
 信田「[ACが社会的に認知されたことで、「親のせい」という思考の活路を開いたが:引用者]問題はその先ですね。今はとりあえず親のせいとしていられるとしても、その先の大いなる責任に対する渇望が非常に高まっていると思います。だから、非常に危険な状況ではないかと考えています。「全部自分の責任だ」というところから「自分に責任がないんだ」と免責されたとき、行き先のないエネルギーが行き場を求めるでしょう。一部は宗教やなんとかイズムへ流れているんでしょうが。」(西山・信田[2000:125-126])

◆信田 さよ子 20010209 『「アダルト・チルドレン」実践篇』,三語館,221p. ISBN-10:4883203186 1400 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「私はその人たちに対して責めることはしません。キッチン・ドリンカーの主婦がアルコールに嗜癖するように、その人たちは子供を虐待することに嗜癖しているのでしょう。自分の行為を責めないで、嗜癖と捉えること、そして自分一人だけではないんだ、ということがわかれば、その女性は楽になれるでしょう」(信田[2001:42])

 「客観的に人から見ておかしいというのは、ACではありません。客観性を持たないというのがACです。[…]「ACというのは、私のことかもしれない。ああ、私はACだったんだ」と思ったら、その人はACだと思ってかまわないということです。」(信田[2001:56])

 「共依存からの回復はACとしての自己認知なのです。ACという概念に気づくことによって、自分を見ることができるようになる、ということなのです。」(信田[2001:98])

 「ACプライドを持った人は、まやかしの家族の中で、自分で自分を作らざるを得なかった人たちなのです。自分を作ることは、とても自己内省的なことです。この自己内省は、これまで日本ではずっとあまりやらないで済ませてきたことなのです。自己内省をすることは、暗いことであり、むしろ自分の進歩を止めてしまうことと受け止められ、避けられてきました。」(信田[2001:81])

 「私たちに求められていることは、自己内省というもう一回自分を見ること、そして醒めることです」(信田[2001:82])

 「私は自分を掘り下げることは意味がないと思います。自分を掘り下げるというのは、玉葱の皮をむいていくようなものです。それよりも、自分はどう行動したらいいだろうかとか、自分のいま置かれている関係を読み解いてもらうとか、自分の中にあるとてもいいものを評価してもらうとか、そういうことのほうがむしろ大事だと思います。」(信田[2001:143])

 「自分勝手に結婚した夫の愚痴を子供に言うな――これは母親の原則です。いじめる、いじめられるという関係は、たしかに教育の問題も大きいですし、地域の力が衰退したことも関係します。でも、残念ながら私はやっぱり家族の問題だというふうに思ってしまいます。家族が悪いと言っているわけではありませんが、家族の中にいじめの一種が存在するのではないでしょうか。誰かが誰かをいじめる。」(信田[2001:77])

 「今後のカギを握るのは、女性かもしれません。女性が自分の欲望に目覚め、欲望を肯定できたときに、家族は変わるかもしれません。なぜなら今まで、自分の人生を生きることを断念し、そのひきかえに主婦として経済的安定を得た女性たちが家族を支えてきたのです」(信田[2001:51])

 「日本では女の支配ということはあまり言いません。女性はやはり被害者でした。しかし、じつは女性だって支配しているわけです。むしろ、家族のコントロール・ドラマの主役は女性だったのです」(信田[2001:107])

 「「私が自立できないのは母親から受けたトラウマのせいだ」と主張することと、ACの人たちに「全部親のせいにしていいんだ」とアドバイスをすること――この二つは似ているようで違います。前者のように言われたとき、母親はもっと支配するようになるでしょう。[…]しかしACの人が親のせいだと言ったとき、それは「自分が悪い」と責めることをやめるための切り口なのです。自分が楽になるためのプロセスとしていったん親のせいにしてもいいということを、自分に許す必要があります」(信田[2001:115])
 「加害、被害という言葉は、苦しみを受けた人に対して「あなたは悪くない」と免責性を強調するために、加害者としての親を浮き立たせることはあります。しかし当の親に対して、「トラウマを与えた人」という加害性をあまりに強調すると、親が子どもから手を引くどころか、さらに子どもの面倒を見るようになってしまいます。「支配」を強化することになるのです」(信田[2001:116])

 「カウンセリングに来る人は、心の悩みというよりも、何かはっきりしない問題を抱えてくるのです。(…)彼らはつき動かされる何かがあって来るのです。自分一人で抱え込めないと思ったことを誉めないといけません。なぜなら、人が自分の悩みをすべて自分で抱え込めるというのは傲慢なのです。人の助けを借りるのは、ちっとも恥ずかしいことではないし、借りたほうが勝ち。そのほうが賢明です」(信田[2001:141])

 「我慢とは、我慢した先に保障される報酬が信じられた時代には意味を持ちました。そのことの意味・目的が明確であれば、人は我慢をします。耐えることも同じでしょう。しかしいまはその意味・目的がわからなくなっています。また我慢は必ず副作用があることもわかってきました。耐えて苦しむ母は、その苦しむ姿、不幸を、子どもの支配の小道具に使ってきました。」(信田[2001:208])

 「私はACだと認知することで、自分のこれまでの生の軌跡が、方程式を解くように、今の自分を肯定するひとつの物語としてかたちづくられること、それがすべてであると言っていいと思います。つまり、親の人生ではなく、他でもない「私の物語」をつくれることに尽きると。」(信田[2001])

◆信田 さよ子 20010518 『子どもの虐待防止最前線』,大月書店,219p. ISBN-10:4272411306 1800 [amazon][kinokuniya] m.

 *未掲載

◆信田 さよ子  20010608 『子どもの生きづらさと親子関係――アダルト・チルドレンの視点から』,大月書店,子育てと健康シリーズ15,122p. ISBN-10: 427240315X ISBN-13: 978-4272403158 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 アダルト・チルドレンの定義の「第二のポイントは、「起因する」という点です。なぜ、「原因」といわないのでしょうか。「わたしが生きづらいのは、親の愛情が足りなかったのが原因である」と考えれば、とてもスッキリするでしょう。その結果としての自分の生きづらさを解消するには、原因である親を責め攻撃すればいいという、単純な因果論におちいってしまうからです。このようなうすっぺらな解釈は誤っています。このような原因→結果の因果論、誰が悪いのかという犯人捜しや攻撃からは何も生まれません。親を責めることでは何も解決しないのです。ただし、「すべて私が悪い」と考えてこれまで生きてきた人が、苦しみの反転で「すべて親が悪い」とある時期感じることは、変化のプロセスの一段階としては認めなくてはならないでしょう。
 これは、第一のポイントの「親との関係」と関連しています。現実の親が客観的<0069<にどうあったからではなく、自分のとらえた、自分との関係における親なのです。このように関係を問題にするのです。それが客観的にどうであったかを問うのではなく、私にとってそれが苦しかったという主観的な、心的事実が問題なのですだから、現実の親のを原因として責めることは意味がないのです。自分の生きづらさを形づくっている多くのファクターのうちの主要なファクターとして、親との関係を認めること、これが「起因」という表現にこめられているのです。」(信田[2001:69-70])

 「第三のポイントは「認めた人」という点です。[…]<0070<
 このようにACとは「自己認知」を基本とし、「自己申告」するものなのです。専門家に決めてもらうのではなく、ACかどうかは自分が決めるのです。もちろんACは病気の名前ではありません。したがって、これまでの医者が診断するいわゆる医療モデルとは正面からぶつかってしまいます。」(信田[2001:70-71])

◆信田 さよ子 20020315 『DVと虐待――「家族の暴力」に援助者ができること』,医学書院,190p. ISBN-10: 4260331833 ISBN-13: 978-4260331838 1890 [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆信田 さよ子 20030627 『愛しすぎる家族が壊れるとき』,岩波書店,201p. ISBN-10:4000220179 1600 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「名付ける必要がある人々が存在したためにこの二つのことば[「アダルト・チルドレン」と「共依存」:引用者]は生まれた。しかし名付ける動機は恐らく正反対だったのではないだろうか。前者は、名付けて一括りにしないと救われない人々だったからであり、後者は名付けないことにはその問題点に決して本人が気づかないからだったのだろう。」(信田[2003:69])

 「トラウマということばを、あたかもこころの傷として独立した実体のように解釈することも危険ではないだろうか。[…]心的外傷とは実体としての「傷」なのではなく、あくまで傷を負ったかのような経験の「メタファ」なのである。[…]傷を実体化した途端に、傷を与えた加害者と被害者、原因があって結果としての傷、傷を癒すことが治療…という単純な二元論に再びもどっていくだろう。[…]結果が親を支えてきたことで身につけた独特の適応がACのひとたちの苦しみであるとするならば、その回復は医療モデルに回収されてしまうような二元論では実現しないだろう。このコンセプトは機能的・関係的であることによってかろうじて二元論を免れているのだ」(信田[2003:75-76])

 「父・母・子の三者の「病理」を衝くのではなく、このようにしか生きてこれなかった「意味」を認めること、そして新たな家族再生の希望を「解散」ということばに託したい」(信田[2003:89])

 「親を批判することが社会の矛盾や教育の矛盾から目をそらすものであるという批判もあるが、同心円構造という視点から見れば、別の見方もできる。つまり親への批判が社会への、国家への批判であるがゆえにタブー視されたのなら、親への批判、反逆は社会への強力な批判に他ならないのだ。」(信田[2003:105])

 「第三者の喪失という、かつてない現実を生きるわれわれは、とりあえずひととの関係において距離をとること、危険な対象からは遠ざけること、親密な関係は容易に嗜癖的、暴力的関係に転化するという危険性を念頭に置くことをこころがけるべきであろう」(信田[2003:143])

 「対の関係に介入し、風穴を開けるのは誰か。批判を承知であえて「公的機関」の介入を家族に対して行うべきである。と提言したい。(…)公的機関、および国家資格を持つひとたち(たとえば医師)は被害者を救うためには、あえてプライバシーを突破する義務を国民から負託されているのではないだろうか。」(信田[2003:144])

 「社会的背景を探ってみれば、ACが流行語となったことと、グローバリズムによって自己責任が強調されるようになった流れとは、奇妙にシンクロしているようだ。[…]カウンセリングに来るひとたちの求めるものが実は自分を変えることではなく、単にイノセンスの要求であることは珍しくない。[…]このような膨大なイノセンスの承認欲求は、うまく説明はできないのだがどこかで逆転してイノセントな存在を絶対化する方向につながっているのではないか、というのが私の直感だ。絶対化はそのまま権力化につながっていく。「被害者に責任はない」、これは今や誰も否定できない命題になった。つまり被害者はイノセントなのだ。こうして被害者性はひとつの権力と化しているのでは、と思う。」(信田[2003:184])

 「ACということばが、なんでも親のせいにするという誤解を招いたのはひとえに、「私のせいではない」というイノセンスの承認欲求だけをとらえてのことだろう。つまり親からの被害者性を臆面もなく主張することへの反発だったのであり、それは被害者としての権力をふりかざすことへの反感でもあったのかと今になって気づかされる」(信田[2003:187-188])

 「被害者は被害者であることのイノセンスを武器にしなければ生き延びられないこともある。それがいったんは承認されなければならないだろう。しかしそれがときとして政治や社会の潮流の渦によって祭り上げられ、途方もない権力を持ち始めることもあるのだ。「残された家族」という被害者性は、それが家族の博愛を前提にしているぶんだけ、情緒的共感を誘い、抗いがたい力へと変貌していく。このような傾向はますます強まるばかりに思われる。繰り返すが、被害者はその状況を日々生きていく。その営みを、生き延びること、サバイバルと再定義することで、それは生存のための戦略として見えてくるだろう。生き延びることは被害者であることを超えることである。そして自覚された生存戦略は肯定されなければならない。被害者は日々生きていくことで被害者を脱していくのである。サバイバーとはそのような人のことを指すのだろう。」(信田[2003:189-190])

◆信田 さよ子・上岡 陽江・シャナ キャンベル  20040915 『虐待という迷宮』,春秋社,206p. ISBN-10:4393364759 ISBN-13:9784393364758 \1700 [amazon][kinokuniya] ※ v04 s02

◆信田 さよ子 20080325 『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』,筑摩書房,206p. ISBN-10: 4480842837 ISBN-13: 978-4480842831 [amazon][kinokuniya] ※ m.ac.dv.

 「アダルト・チルドレン 1

 アルコール依存症とアダルト・チルドレン  もうずいぶん前のことだが、一九九六年に、アダルト・チルドレン(AC)ということばが、朝日新聞で流行語の一つに選ばれた。
 私はACを「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人」と定義している。もともとは、アメリカのアルコール依存症治療にかかわる人たちから生まれたことばで、Adult Chileren of Alcoholics がその語源であり、アルコール依存症の親のもとで育った人たちのことを指していた。[…]<0082<
 日本語で流行語になった背景には、AlcoholicのかわりにDisfunctional Family(機能不全家族)をあてたことも大きかった。これによってACの範囲が一気に拡大したのだ。外見はふつうの家族だが、目に見えない家族内の抑圧・軋轢を感じていた人たちは多かっただろう。そこにぴったりはまったのが機能不全という言葉だった。「そうか、自分の家族は機能不全だったのだ」と彼らは納得し、ACだと自覚したのだ。

 親子の役割逆転
 酔って大きな子どもと化した父親、父親からの暴言や暴力に振り回され、子どものケアどころではない母親、そんな両親の間で子どもは嘘と裏切りと暴力、そして恐怖に満ちたなかに育つ。しかし家族はたった一つだ。よその家族に移住することは許されない。子どもこちにとって家族とは生き抜くしかない場所、いってみれば収容所のようなものである。さてどうやってそこからサバイバルをすればいいのだろう。<0083<
 その一つは、幼少時からチックや小児喘息といった病気の症状を呈して、父親よりもっと困った子どもになるという道である。もう一つは、小学校の高学年あたりから非行集団に加わり、実質的に家を捨てる道である。前者を病気、後者を非行とするなら、いずれも社会不適応であることに違いはない。
 ところが第三の道がある。これは駱駝が針の穴を通るような狭い道にみえるが、実はアルコール依存症のなかに育つ子どもの多くはこの道をとおるということが注目をあつめ、 一九八〇年代半ばにアメリカでACということばが広がるきっかけになった(『私は親のようにならない』C・ブラック著、斎藤学監訳、誠信書房、一九八九)。ひとことでいえば、親の機能を果たさない両親を子どもが支えるという役割逆転によって、家族に適応していくという道である。
 ブラックはそのパターンを@責任者、A調整役、B順応者と分類している。
 母親の相談にのる、愚痴の聞き手になる、父の介抱をし母との間を取り持って、きりきり舞いをしながら弟妹のめんどうをみる、学業に秀でることで一家の希望の星になる……その子たちは親からはもちろん、先生や近所のひとからも、しっかり者のいい子と評価されながら育つ。経済的・物理的に支えるのではなく、情緒的・心理的に子が親を支えるという点が強調されるべきだろう。つまり親の期待をいち早く実現することによって、子どもは親の情緒を安定させる。親は子どもに依存しているのだが、その自覚はない。それが当たり前だと思っているからだ。子どもは自己の欲望より親の欲望を読み取ること、それを満たすことを優先する。これ<0084<は、自我意識が形成される以前に習慣化されるので、当たり前のことになっている。思春期を過ぎて「生きづらさ」「対人関係の行き詰り」を感じたとしても、親の欲望こそ満たされなければならないという命題は血肉化していて意識に上ることすらない。その問題点が浮上するのは成人後になる。
 「思い返せば、ずっと親の期待を満たすためだけに生きてきた。対人関係でも絶えず周囲の期待に添うことばかりを優先させてしまう。自分の欲望、意志を自覚することに大きな罪悪感がある」これらはACの人たちのカウンセリングで繰り返される発言の、ほんの一部である。親を支えるために身に着けたサバイバル・スキルが、皮肉にも成人後の不適応を生み出してしまうというパラドックスが、そこにはみられる。ただただ必死に生きてきたことは、責められるどころかむしろ敢闘賞ものなのに。では、それはいったい誰の責任に帰せられるべきなのだろう。

 免責性と過剰な自己責任
 ACに対しては、さまざまな評価や批判が与えられてきた。私も『アダルト・チルドレン完全理解――一人ひとり楽にいこう』(三五館、一九九六年)を出版したときに多くの批判を受けたが、批判者の論点のほとんどが『他人[ひと]のせいにするな」「親のせいにするな」という点に絞られていた。上記の本のオビには大きな字で、「あなたが悪い わけではない」という<0085<キャッチコピーが躍っているが、ACが流行語になるずっと前から 、ACの人たちにとってその一言がどれだけ必要とされているかを、私は肌で感じてきた。
 被虐待児への対処で最初に必要とされることばが、「あなたが悪いわけじゃない」である。幼児と同じことばが、なぜ ACのひとたちに対しても必要なのだろう。その秘密は、幼児的万能感が形成する世界観にある。三歳から六歳までの幼児期には、子どもたちはあらゆるものの中心に自分がいるという天動説的世界を生きる。せみが鳴くのも、太陽が東の山から上るのも、自分が動かしているとすら考える。快と喜びの経験は「自分がいい子だから」という因果・意味を形成し、世界は秩序立つ。そこから「よい自分」「生きていい自分」の核がつくられていく。
 いっぽう目の前で、父が母を殴り、母が泣き叫ぶ場面に遭遇すると、子どもの足元の世界は真二つに割れ、破壊されるだろう。両親が繰り広げる修羅場は、どうしていいかわからないカオスである。混乱の中で子どもは「自分が悪い子だからこんなことが起きる」と思う。自分を否定する残酷な因果律だが、それによって世界は説明可能となり、秩序を回復する。「自分が悪い子だから」と考えれば、説明不可能な世界など存在しなくなる。
 幼児期に刻印された自己認知は、父と母の関係が突然平和で穏やかなものに変貌しない限り、そのまま維持されるだろう。言い換えれば ACのひとたちは、「自分のせいだ」と考えることでしか世界を秩序立てられなかったのだ。一種のサバイバルスキルとしての否定的自己認知は、<0086<いっぽうで意識の底流に「生きている価値などあるのだろうか」「この世の空気を吸っていてもいいのだろうか」という問いを胚胎させる。生き延びるためのスキルが自分を否定するというパラドックスが、ACのひとたちの生きづらさを形作っている。この自己否定は、過剰な罪悪感・責任感につながることはいうまでもない。ACのひとたちがどれほど親を支え、責任を感じてきたかの描写は省略するが、親はそのことにほとんど無自覚だ。  「他人のせいにするな」という批判はたしかに一理あるが、ACというアイデンティティを受け入れるまでに背負いすぎた責任の重さを思えば、まず免責性の承認が必要なのだと思う。生まれて初めて「あなたに責任はない」と免責されることが、まるで干天の慈雨のように感じられるのだ。これまでの人生で他者から一度も言われたことのないことばによって、ACの人たちはいったん過剰な荷を下ろすことができる。その瞬間を「世界が違って見えた」「謎が解けた」などと表現する人がいるのは、自己責任をめぐる劇的なパラダイム転換が起きるからなのだろう。この転換点を経ることで、はじめて「適正な」自己責任がみえてくるのだ。

 被害者としてのAC・加害者である親
 自分に責任はないという免責性は、これまでと反転した自己認知であり、そのまま親に責任があるという「親の加害者性」につながる。「親のせい」でこんなに生きづらいのだから、自分は親の被害者である、ACはこう主張している。おそらく AC批判のもうひとつのポイント<0087<は「親の加害者性」を含意している点にあったのだろう。被虐待児としてでなく、成人後に親を責めることに対して、日本の社会はそれをまったく容認してこなかった。親を許すことが成熟の証しとすら考えられてきたのだ。ACの主張は、日本の家族のタブーに対する挑戦だった。
 被害者の視点で、加害者としての親を語ることは、しかしそれほど簡単なことではない。 中年になるまでは「親だって理由があったのだろう」「私のために親はあんなことをしたんだ」と親をかばいつつ、親の立場から自分を責めてきたのだ。その人たちが、一転して子どもの立場から、被害者としての経験を語ってしまうと、あとには強烈な自己嫌悪や罪悪感にさいなまれることは珍しくない。根深くすみついていた長年の認知が変わるときは副作用が生まれるのだ。
 憎しみや怒り、恨みといった親に対する感情は、すべて肯定されなければならない。中年になっても忘れられない親の言動に対して、親の謝罪を求めたい気持ちは当然だ。問題はその表出の方法である。親が存命だからといって、親に向かってそれを投げつけることは単なる復讐だろう。多くのクライエントから「親にあやまってほしい」「あやまらせたい」という言葉を聞いたが、私は賛成しなかった。その期待はほぼ裏切られるからだ。親は奇妙なほどACのひとたちの記憶している行為を忘却している。「加害者は加害記憶を喪失する」、これは私がACのひとたちから得た教訓の一つである。<0088<
 それどころか、「今頃何を言ってるのか」「いつまで甘えたことを言ってるんだ」と逆ギレされて傷つけられたりする。親は愛情からやった行為だと思っており、加害者としての自覚などないからだ。常識も、美しい家族像も、すべて親に与している。だから、親が変わる期待など捨てるほうがいい。私は、そう思っている。 」(信田[2008:82-89])

◆信田 さよ子 20080410 『母が重くてたまらない――墓守娘の嘆き』,春秋社,192p. ISBN-10: 4393366255 ISBN-13: 978-4393366257 1785 [amazon][kinokuniya] ※


 
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◆「人はいかにして「当事者」となるのか 〜家庭内暴力と支配関係の中で〜」
 信田さよ子
 『世界』2002年5月号

 この論文の紹介の作成:柳本明子(立命館大学政策科学部3回生)
 掲載:20020801

1.ありえない中立点
 DVや虐待のカウンセリングを行う著者は、センターを訪れるクライアントの話を聞く時に、クライアントにシンクロして話を聞く時と、中立、客観的に話を聞く時では全く聞こえ方が異なることを発見する。前者にたった時は、その人たちの苦しみが伝わり、親の行為が明らかに虐待だと感じることができるが、後者の場合、クライアントの言葉はたとえようも無く一方的、被害的で誇張されているかのように聞こえ、親には親の苦労があったはずだなど考えるのである。虐待のみでなくDVのケースでも同じようなことが起きる。客観的に見ると「このクライアントにも責任の一端はあるだろう」と考えるが、クライアントの立場で聞けばそれは明らかにDV、暴力となる。そして、中立、客観的であるということは暴力をふるう側の親、夫の立場と重なるのである。つまり、DVや虐待には「中立点」などありえない。

2.「常識」が暴力を見えなくさせる
 このことは、そもそも親子・夫婦の関係が平等で対等な関係ではないことを表している。では、優位な側に立っている親、夫という立場は何を意味するのか。「子供(又は妻)を殴る」という行為は、親・夫の立場から見れば「しつけ」という行為として位置付けられている。子供を叩くことを親はしつけや体罰と呼び、自分の言うとおりにならない妻を殴ることは夫として珍しくない行為であった。それらはあくまで「普通」「当たり前」の延長として行使されるのだ。つまり、親・夫は自らが内面化した「常識」に従って行為しているにすぎない。この「常識」が暴力を見えなくしている。これは後述する加害行為の無自覚さにつながるが、ここで重要なのは子供や妻も、親・夫の「常識」に適応してしまっていることである。親や夫と暮らしていくには、彼らの「常識」「価値」に適応せねば生きていけない。この常識に適応することが子供や妻から「殴る」=「暴力」という構図を排除し、かわりに「殴る」=「しつけ・愛情」という構図を埋め込むのである。
親・夫からの行為を「普通」「あたりまえ」とするのではなく、「家庭内暴力」と呼ぶこと、そこに既に立場性が前提とされている。叩いた・叩かれた経験をどう呼ぶかは立場によって異なる。「暴力」と呼ぶのは、その行為をふるわれる側の立場に立つことなのである。

3.状況の定義権とは何か
 「権力とは、1つの制度でもなく、1つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力でもない、それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである。」
 このフーコーの言葉を家族に当てはめてみる。殴る行為そのものが権力なのではなく、それを暴力と呼ぶことを禁じ、「しつけ」「愛情」と定義することが権力である。ある状況を名づけ、それ以外に定義を許さないこと。つまり権力とは「状況の定義権」に他ならない。そして子供や妻も「暴力」を「しつけ」「愛情」と定義していくのである。
 子供や妻のような殴られる側は、暴力をしつけや愛情と考えることで、自らがDV・虐待の被害者であるという自覚を持たないようになる。これは殴る側も同じで、自らが加害者であると言う自覚を持たない。つまり双方とも自分達が当事者であると言う自覚を持たないのだ。「当事者性の不在」である。

4.当事者性の不在と言う謎
 なぜ当事者であると言う自覚を被害者・加害者共に持たないのか。それは先に述べたように、「暴力」=「しつけ」「愛情」という図式で考えているからである。「夫は愛しているから私を殴る」と考える、全くの被害者の自覚を持たない人間が「それは愛情ではなく暴力である」という状況の再定義を行わない限り、家庭と言う密室で行われる暴力が暴力として社会に現れてくることは無い。クライアントとしてやってくる女性たちは別の顔、別の主訴でカウンセリングの場に登場する。著者の臨床経験から次のように分類される。
@ 子供の問題を抱えた母として、夫の嗜癖問題に困った妻として
A 夫の暴力を辞めさせたい妻として
B 夫を救ってあげたい妻として
C 夫に復讐したい妻として
D 私が悪いんですと訴える妻として
 彼女達にとって有効な再定義は、夫を病者としてとらえることである。「殴る夫は病気なのだ、夫を救えるのは自分だけだ」と考え、ますます夫から離れなくなる。しかしこの彼女達のやり方を大切にする必要がある。これは彼女達が自らを治療者とし、夫を病者とすることで状況を再定義し、権力を奪取しようとする試みなのである。

5.なぜ当事者性を回避するのか
 @〜Dを見ると、彼女達はあたかも被害者という当事者性を獲得することを避けているようにも見える。なぜ彼女達は被害者という当事者性を避けるのだろうか。
 自らを被害者と認めることは夫を加害者として認めることであり、二人の関係は愛情関係から、被害者・加害者の関係へと変貌する。その時、女性は男性と結婚した意味、つまり、ある男性の妻として男性中心の社会に参入できるという価値を失う。妻になることで社会に所属することが成立するこの社会では、夫との関係が被害者・加害者の関係になると言うことは、社会から疎外されることを表すのだ。「たった一人で生きていけるか」という問いに直面し、これらの計り知れない恐怖によって多くの女性は被害者という当事者性を避けるのであり、DVという状況の再定義を受け入れないと考えられる。
 では加害者はどうか。先に状況の定義権は加害者にあると述べたが、加害者自身に自らが主体的に「暴力」=「愛情」「しつけ」だと定義している自覚はほとんど無い。これこそが加害者の当事者性の不在である。親は子供をかわいがり、夫は一家の長であり、妻は夫から愛され守られている、だからこそ夫に従い、夫を支えるのだ―――それが家族のドミナント・ストーリー(権力者によって定義された状況。支配的物語)であり、その定義に何の疑いも持たない人に、状況の定義権を行使していると言う自覚は無いだろう。権力者とはそのようにしばしば自らの権力に無自覚な存在である。

6.「状況の定義権=権力」を脅かされる恐怖
 ではなぜ加害者は暴力をふるうのか。著者はカウンセリングの場で多くのDV・虐待加害者と出会ったが、その人たちは共通して「自分こそ被害者だ」と感じていた。それは殴られたといった身体的な被害感覚ではなく、例えばDVの場合、離乳食を食べてくれない、なついてくれない時にかっとする親の感覚であり、とにかく妻が脅威だった、馬鹿にされたとして殴る夫の感覚のことである。 そこにあるのは「状況の定義権を脅かされる」という、おそれとおびえの感覚である。自分をおびえさせた対象に対して、屈辱感と怒りから暴力をふるい、屈服させる。暴力はその名状しがたい感覚から一時的な解放、快感をもたらし、そして家族の中で繰り返され習慣となる。習慣となるにつれて動機は短絡化され日常の風景と化していくのである。

7.援助者の役割
 これまで、大多数の家庭内暴力の特色は当事者性の不在であると述べてきた。それならば、当事者性をいかに構築するかが援助者の最大の課題になろう。 DVと言う言葉が客観的事実を指すのではなく、状況の再定義を含意していることは既に述べた。愛しているから殴るのではなく、それはDVであり、暴力なのだと第3者が再定義する、これが援助者の役割である。夫の定義に従っている限り暴力は続く。自らを被害者としなければ暴力は暴力とならず、まして夫にその暴力の加害者であると言う当事者性を構築するきっかけすらつかめないだろう。女性たちが夫の行為をDVと認め、自らを被害者であると自覚した時、その人はDVの被害者に「なる」。殴られている人が被害者で「ある」のではない。「夫は私を愛しているから殴るの」という女性は被害者という当事者性を持たない。したがって当事者ではないのだ。

8.「時間」の効果、「数」の効果
 被害者に「なる」事は容易ではない。当事者性を獲得することは到達点ではなく、それは絶え間ないドミナントストーリーとの葛藤、戦いのプロセスの中にある。多くの女性が逃げてきては自発的に夫の元に戻っていくことからもそれは明らかである。それをふせぐために必要なのは何か。
 必要なことは、長期間被害者を加害者から引き離すこと、その離れている時間に「自分はDVの被害者である」ということを認識させることである。この状況の再定義は、それまでの結婚、夫婦と言う家族にまつわる様々な価値や幻想を転換させるものであった。そのため加害者とはなれることで失われるものだけが意識を占領する時期があることが考えられる。それを防ぐためには、「被害者に責任は無い」という新たな中心的視点を明確に示すことも必要である。自分の人生を選んできたと考える女性ほど結婚生活の責任の半分は自分にあると考え、この自己責任の強調は後に夫のもとに再び戻るエネルギーになりかねない。「被害者に責任は無い」「逃げたあなたの行動は正しい」と強調することで自己責任の責めは軽減される。
 ドミナントストーリーは被害者自身にも内面化されて自分の一部となっているため、それを否定する事は大変苦しい。それをのりこえるために必要なのは心のケアなどではなく、その人のとらえ方を転換することなのだ。これらを効果的に伝えつづけるためのシステマティックなプログラムも必要である。

8.加害者はどのようにして加害者に「なる」のか
 では、加害者の援助に関して援助者はどのような立場にたつべきなのか。それは「加害者の立場に立ち、加害者の味方をすること」に尽きる。加害者の当事者性は犯罪として罪を問い、責任を追求されることで構築されるのではなく、被害者として援助されることで構築される。パラドックスめいているが、加害者こそケアが必要なのである。
 まず加害者を決して責めないという地点から出発しなければならない。自らの加害性を自覚し、被害者に対して責任を感じるようになるために、それは必須の前提である。
援助者は加害者のそれまでの人生を語ることを促し、語られる社会生活の挫折や親から受けた苦痛な経験といったストーリーを被害者ととらえる立場で、味方として聞くことである。なぜなら加害者は他者からこれまでの人生の苦しみを共感、承認されなければ、自分が被害者にどのようなことをしたのかについて一切自覚できないのであり、責任意識などは芽生えようも無い。痛み、苦しみの感覚を回復させることではじめて自分が与えた被害者の痛みへの想像力が持てるようになる。責任意識はそこから発生するのである。

9.「愛」と「権力」
 家庭内暴力についての考察のヒントを、著者は社会科学から与えられている。マクロな領域を対象とする社会科学と、その対極にあるミクロな単位としての家族。しかしどちらの暴力も権力・支配によって起こるとすれば、双方は構造的に相似である。
 家族の暴力を見えなくさせてきたのが「愛」という言葉だったとすれば、その裏側に張り付いている権力・支配と言うものに自覚的でなければならない。自らの権力せいを足元の日常である家族と言う単位で自覚していくこと、このことによってしか家族の暴力は見えてこないだろう。

10.感想
 状況を定義するものが権力者であるという構図は、家族という一番小さな社会的単位から、もっとも大きな国際社会と言う単位にも共通のものらしい。この文章は「世界」5月号に掲載されたものであるが、興味深いことに信田さよ子がDVや虐待にこの構図を当てはめている隣で、9.11のテロに関する記事の中で全く同じ議論がされていた。
 「超大国」であるアメリカは、9.11の襲撃を「卑劣なテロ」と呼んだ。そうして産まれた「テロとの戦争」という言葉は、「テロリスト」と決め付けられた人々をその理由もろとも押しつぶすにはもってこいの標語だったのである。相手を「テロリスト」と名指せば、相手を法秩序の全くの外に置く事ができる。そして、テロリスト相手に「人道的」配慮は不要どころか有害である。これらのことから、あらゆる非正規の作戦や大量殺戮兵器の使用が正当化され、さらにこの標語を踏絵にして、アメリカに従わない国家に対して軍事力を発動させたりすることすら正当化されるのである。まさに、状況の定義権である。ところで「テロ」とは「テロル」「テロリズム」の略で、もともと「恐怖」あるいは「恐怖に訴えること」を意味する。「テロとの戦争」という表現は「恐怖との戦争」を意味することになるが、恐怖に見舞われているのは奇妙なことに、他でもない世界最強の国家なのである。しかし、世界最強だからこそ、その権威が奪われるのを恐れテロ撲滅に躍起になる。このあたりの構造も、DVの妻を殴る夫の心理と非常に良く似ている。状況の定義権をもっているという自覚があるかないかという差はあるが、暴力をふるい、それを正当化する根底は一緒であろう。

何が人を暴力に駆り立てるのか。その根底にある心理は個人でも超大国でも変わらない。ただひとつ違うところは、DVや虐待においては、被害者も加害者も自らを当事者とは考えていないことである。人はいかにして当事者となるのか、その当事者性を認識するところから、DVや虐待からの脱出は始まる。

■言及



REV:....20081102, 20090531, 1107, 09, 20110501, 20140824, 20151011
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