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『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』

信田 さよ子 20080325 筑摩書房,206p.


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■信田 さよ子 20080325 『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』,筑摩書房,206p. ISBN-10: 4480842837 ISBN-13: 978-4480842831 [amazon][kinokuniya] ※ m.ac.dv.

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内容(「BOOK」データベースより)
なぜ、あんなことを?加害者の声に耳を傾けることで見えてきた現実。一歩間違えば被害者から加害者へ。悲劇が起きないよう、カウンセラーから緊急提言。

■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

信田 さよ子
1946年生まれ。臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。95年に原宿カウンセリングセンターを設立。アルコール依存症、摂食障害、DV、虐待などで悩む本人や家族へのカウンセリングを行っている。また、2005年には性犯罪者処遇プログラム検討委員としてプログラムの作成にかかわり、講演も多い(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

第1章 カウンセリングの現場から
 カウンセリングに来る人
 加害者とは誰か
第2章 虐待する親の姿
 映画「ある子供」から
 A子の場合
 三つのタイプの親たち
 ゴミの山に埋もれた子ども
 無関心な父親たち
 暴力に満ちた家庭に育つ子ども
 映画「サラバンド」からぶれ  アダルト・チルドレン 1
 アダルト・チルドレン 2
第3章 ドメスティック・バイオレンス
 ある事件から
 加害者と被害者の逆転した意識
 ほか
第4章 性犯罪
 語られない被害
 目の前の存在は人ではないのか?
 ほか
第5章 責任の取り方
 被害者は何を望んでいるか
 加害者との生活
 ほか

■引用

 「アダルト・チルドレン 1

 アルコール依存症とアダルト・チルドレン  もうずいぶん前のことだが、一九九六年に、アダルト・チルドレン(AC)ということばが、朝日新聞で流行語の一つに選ばれた。
 私はACを「現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人」と定義している。もともとは、アメリカのアルコール依存症治療にかかわる人たちから生まれたことばで、Adult Chileren of Alcoholics がその語源であり、アルコール依存症の親のもとで育った人たちのことを指していた。[…]<0082<
 日本語で流行語になった背景には、AlcoholicのかわりにDisfunctional Family(機能不全家族)をあてたことも大きかった。これによってACの範囲が一気に拡大したのだ。外見はふつうの家族だが、目に見えない家族内の抑圧・軋轢を感じていた人たちは多かっただろう。そこにぴったりはまったのが機能不全という言葉だった。「そうか、自分の家族は機能不全だったのだ」と彼らは納得し、ACだと自覚したのだ。

 親子の役割逆転
 酔って大きな子どもと化した父親、父親からの暴言や暴力に振り回され、子どものケアどころではない母親、そんな両親の間で子どもは嘘と裏切りと暴力、そして恐怖に満ちたなかに育つ。しかし家族はたった一つだ。よその家族に移住することは許されない。子どもこちにとって家族とは生き抜くしかない場所、いってみれば収容所のようなものである。さてどうやってそこからサバイバルをすればいいのだろう。<0083<
 その一つは、幼少時からチックや小児喘息といった病気の症状を呈して、父親よりもっと困った子どもになるという道である。もう一つは、小学校の高学年あたりから非行集団に加わり、実質的に家を捨てる道である。前者を病気、後者を非行とするなら、いずれも社会不適応であることに違いはない。
 ところが第三の道がある。これは駱駝が針の穴を通るような狭い道にみえるが、実はアルコール依存症のなかに育つ子どもの多くはこの道をとおるということが注目をあつめ、 一九八〇年代半ばにアメリカでACということばが広がるきっかけになった(『私は親のようにならない』C・ブラック著、斎藤学監訳、誠信書房、一九八九)。ひとことでいえば、親の機能を果たさない両親を子どもが支えるという役割逆転によって、家族に適応していくという道である。
 ブラックはそのパターンを@責任者、A調整役、B順応者と分類している。
 母親の相談にのる、愚痴の聞き手になる、父の介抱をし母との間を取り持って、きりきり舞いをしながら弟妹のめんどうをみる、学業に秀でることで一家の希望の星になる……その子たちは親からはもちろん、先生や近所のひとからも、しっかり者のいい子と評価されながら育つ。経済的・物理的に支えるのではなく、情緒的・心理的に子が親を支えるという点が強調されるべきだろう。つまり親の期待をいち早く実現することによって、子どもは親の情緒を安定させる。親は子どもに依存しているのだが、その自覚はない。それが当たり前だと思っているからだ。子どもは自己の欲望より親の欲望を読み取ること、それを満たすことを優先する。これ<0084<は、自我意識が形成される以前に習慣化されるので、当たり前のことになっている。思春期を過ぎて「生きづらさ」「対人関係の行き詰り」を感じたとしても、親の欲望こそ満たされなければならないという命題は血肉化していて意識に上ることすらない。その問題点が浮上するのは成人後になる。
 「思い返せば、ずっと親の期待を満たすためだけに生きてきた。対人関係でも絶えず周囲の期待に添うことばかりを優先させてしまう。自分の欲望、意志を自覚することに大きな罪悪感がある」これらはACの人たちのカウンセリングで繰り返される発言の、ほんの一部である。親を支えるために身に着けたサバイバル・スキルが、皮肉にも成人後の不適応を生み出してしまうというパラドックスが、そこにはみられる。ただただ必死に生きてきたことは、責められるどころかむしろ敢闘賞ものなのに。では、それはいったい誰の責任に帰せられるべきなのだろう。

 免責性と過剰な自己責任
 ACに対しては、さまざまな評価や批判が与えられてきた。私も『アダルト・チルドレン完全理解――一人ひとり楽にいこう』(三五館、一九九六年)を出版したときに多くの批判を受けたが、批判者の論点のほとんどが『他人[ひと]のせいにするな」「親のせいにするな」という点に絞られていた。上記の本のオビには大きな字で、「あなたが悪いわけではない」という<0085<キッャチコピーが躍っているが、ACが流行語になるずっと前から 、ACの人たちにとってその一言がどれだけ必要とされているかを、私は肌で感じてきた。
 被虐待児への対処で最初に必要とされることばが、「あなたが悪いわけじゃない」である。幼児と同じことばが、なぜ ACのひとたちに対しても必要なのだろう。その秘密は、幼児的万能感が形成する世界観にある。三歳から六歳までの幼児期には、子どもたちはあらゆるものの中心に自分がいるという天動説的世界を生きる。せみが鳴くのも、太陽が東の山から上るのも、自分が動かしているとすら考える。快と喜びの経験は「自分がいい子だから」という因果・意味を形成し、世界は秩序立つ。そこから「よい自分」「生きていい自分」の核がつくられていく。
 いっぽう目の前で、父が母を殴り、母が泣き叫ぶ場面に遭遇すると、子どもの足元の世界は真二つに割れ、破壊されるだろう。両親が繰り広げる修羅場は、どうしていいかわからないカオスである。混乱の中で子どもは「自分が悪い子だからこんなことが起きる」と思う。自分を否定する残酷な因果律だが、それによって世界は説明可能となり、秩序を回復する。「自分が悪い子だから」と考えれば、説明不可能な世界など存在しなくなる。
 幼児期に刻印された自己認知は、父と母の関係が突然平和で穏やかなものに変貌しない限り、そのまま維持されるだろう。言い換えれば ACのひとたちは、「自分のせいだ」と考えることでしか世界を秩序立てられなかったのだ。一種のサバイバルスキルとしての否定的自己認知は、<0086<いっぽうで意識の底流に「生きている価値などあるのだろうか」「この世の空気を吸っていてもいいのだろうか」という問いを胚胎させる。生き延びるためのスキルが自分を否定するというパラドックスが、ACのひとたちの生きづらさを形作っている。この自己否定は、過剰な罪悪感・責任感につながることはいうまでもない。ACのひとたちがどれほど親を支え、責任を感じてきたかの描写は省略するが、親はそのことにほとんど無自覚だ。  「他人のせいにするな」という批判はたしかに一理あるが、ACというアイデンティティを受け入れるまでに背負いすぎた責任の重さを思えば、まず免責性の承認が必要なのだと思う。生まれて初めて「あなたに責任はない」と免責されることが、まるで干天の慈雨のように感じられるのだ。これまでの人生で他者から一度も言われたことのないことばによって、ACの人たちはいったん過剰な荷を下ろすことができる。その瞬間を「世界が違って見えた」「謎が解けた」などと表現する人がいるのは、自己責任をめぐる劇的なパラダイム転換が起きるからなのだろう。この転換点を経ることで、はじめて「適正な」自己責任がみえてくるのだ。

 被害者としてのAC・加害者である親
 自分に責任はないという免責性は、これまでと反転した自己認知であり、そのまま親に責任があるという「親の加害者性」につながる。「親のせい」でこんなに生きづらいのだから、自分は親の被害者である、ACはこう主張している。おそらく AC批判のもうひとつのポイント<0087<は「親の加害者性」を含意している点にあったのだろう。被虐待児としてでなく、成人後に親を責めることに対して、日本の社会はそれをまったく容認してこなかった。親を許すことが成熟の証しとすら考えられてきたのだ。ACの主張は、日本の家族のタブーに対する挑戦だった。
 被害者の視点で、加害者としての親を語ることは、しかしそれほど簡単なことではない。 中年になるまでは「親だって理由があったのだろう」「私のために親はあんなことをしたんだ」と親をかばいつつ、親の立場から自分を責めてきたのだ。その人たちが、一転して子どもの立場から、被害者としての経験を語ってしまうと、あとには強烈な自己嫌悪や罪悪感にさいなまれることは珍しくない。根深くすみついていた長年の認知が変わるときは副作用が生まれるのだ。
 憎しみや怒り、恨みといった親に対する感情は、すべて肯定されなければならない。中年になっても忘れられない親の言動に対して、親の謝罪を求めたい気持ちは当然だ。問題はその表出の方法である。親が存命だからといって、親に向かってそれを投げつけることは単なる復讐だろう。多くのクライエントから「親にあやまってほしい」「あやまらせたい」という言葉を聞いたが、私は賛成しなかった。その期待はほぼ裏切られるからだ。親は奇妙なほどACのひとたちの記憶している行為を忘却している。「加害者は加害記憶を喪失する」、これは私がACのひとたちから得た教訓の一つである。<0088<
 それどころか、「今頃何を言ってるのか」「いつまで甘えたことを言ってるんだ」と逆ギレされて傷つけられたりする。親は愛情からやった行為だと思っており、加害者としての自覚などないからだ。常識も、美しい家族像も、すべて親に与している。だから、親が変わる期待など捨てるほうがいい。私は、そう思っている。 」(信田[2008:82-89])

 「アダルト・チルドレン 2
 家族の日
 […]<0090<  親子関係は権力に満ちている
 「あなたが悪いわけじゃない」という免責性を他者から承認されることで、ACの人たちは過剰な自己責任からいったん解放される。それはそのまま、責任を育児の主体である親に返すことを意味し、ACの人たちは自分を被害者、親を加害者として認知する。一般の犯罪の加害者と異なる点は、親ごころ、良識、愛情といった疑いもない「正義」が、親という立場には付与されていることだ。親は、自らを加害者として認知するどころか、愛情深く正しいしつけをしたのだと思っており、それに子どもが異を唱えることを許さない。「親は子どものことを思っていて正しい」のだから、家庭における「状況の定義権」は親に属している。M・フーコーは<0091<「権力とは状況の定義権である」と述べた。ACの人たちはそのような親の権力に真正面から立ち向かう。「親のいうことを聞け」という全体主義的権力であれ、「お前のためなんだから」という温情主義的な権力であれ、いずれも権力であることに違いはない。ACは親子関係を表現する語彙に「権力」を加えたことになる。
 自分と親との関係を被害・加害というパラダイムで、権力関係というフィルターを通してとらえなおすことはそれほど容易ではない。「親のせい」にするのと同じくらい、常識や良識からの激しい反発を招くだろう。正義を付与された親に対する反逆を意味するからだ。ACと自己認知することは、このように親子観を転換すること、反常識の立場に立つことを意味する。
 カウンセラーである私も、親と子のいずれの立場にあなたは立つのか、という立場の表明を厳しく迫られることになる。「親だってそれなりの理由があったのでしょ」という一見中立にみえる意見は、実は親の依拠する良識そのものであり、親=加害者側に立つことを意味する。私がカウンセリングの場で、徹底して目の前に座っているクライエントの立場に立つことにしているのは、このような理由からである。

 被虐待経験の証言者としてのアダルト・チルドレン
 私は、三五歳以上の女性を対象としたACのグループ、カウンセリングを一二年にわたっ<0092<て実施している。親が高齢化もしくは死亡してはじめて、親との関係を語り再考し整理したいという女性が多いからだ。累計すれば一〇〇人を超えるACの女性たちとのかかわりをとおして、私は多くのことを学んだ。
 彼女たちは、いわば「被虐待経験の証言者」である。現在各地で起きている子どもの虐待事件をみても、テレビニュースに映る三歳の子どもに、アパートでいったい何が起きていたかという証言を期待することはできない。虐待加害者である親の証言内容は、おそらく子どもの経験とはかけ離れているだろう。ましてその子どもが死んでしまえば、被害を証言する存在はなくなる。アウシュビッツのナチス強制収容所で何が行われていたかが、 生き残った人たちの証言によって初めて明らかになったように、閉ざされた家族の中でどんなことが起こっていたかは、ACの人たちによって時を経て初めて語られる。それは、今から二〇年から三〇年以上前の児童虐待のなまなましい証言なのである。
 幼い頃からの父や母の記憶をたどることで、生まれて初めて言語化された被虐待経験の数々が、グループの場に満ちる。「中絶できる時期を逃したから産んだ」と繰り返し言い聞かせる母親、思春期の彼女たちに対して性器を露出し触らせる父親、包丁で自分を刺してくれと頼む兄、日常的に殴る父……。一二年のあいだ、私はありとあらゆる虐待の種類を聞いた気がする。親は子どもに、本当にやりたい放題だ、と何度思ったことだろう。<0093<
 家族の中の子ども、それも小さな女の子は権力構造の末端に位置するので、絶えず父、母、兄、姉からの支配にさらされることになる。学校からの帰り道だけが、安心できる時間だったという四五歳の女性もいた。彼女たちの親は、テレビで見る虐待する親とはかけ離れている。外見は、社会的に尊敬される立派な職業人の父、教育熱心な、手作りのおやつを欠かさないよき母だ。親たちの外見と、自分の経験との落差があまりに大きいので、 自分の感じ方がまちがっているような不安におそわれて、自分の感覚のほうをずっと疑ってきた。その親たちは、もっとも弱い立場の、誰よりも自分を信じている(信じるしかない)存在の子どもに対してだけ、人生に対する呪詛や恨みを全開させたのだろうか。負の部分を子どもに放出し吸収させることで、かろうじて日常生活を成り立たせていたのだろうか。
 グループ・カウンセリングは一〇回で一クールと区切られている。もちろん何クール参加してもいいのだが、一〇回目に生育歴を語ることが参加者に義務付けられている。その理由は、「私とは『自己物語』(self-narrative)である」「人は物語によって生きる、あるいは物語を生きる存在である」というナラティヴ・セラピーの考え方に私が深く影響を受けたからだ。それをグループ・カウンセリングに組み込んで、生育歴を発表してもらうことにした。

 親の謎解き
 生育歴はACである自分の物語を探り言語化したものであり、それは「当事者研究」その<0094<ものだ。研究にはテーマが必要であるが、毎回オリジナルなテーマが図表、年表、パワーポイントなどを使って、時には一編[ママ]の文学のようなバラエティに富んだ物語として語られる。
 グループ・カウンセリング開始後しばらくして奇妙に感じたのは、自分の生育歴を語れない人がいたことだ。どうしても親の生育歴になってしまう人が何人もいた。なぜだろうと考え、私は気づいた。「私の親はなぜあのような親だったのか?」というシンプルな問いに対する答えを出さずに、その親から生まれ、育てられた自分の生育歴を語ることはできないのだと。なぜならACの人たちにとっての生育歴は、親との関係そのものなのだ。自分の欲望より親の欲望を優先させることで生きてきたのだから、親の姿が鮮明でなければ、いっぽうの極の自分を描くことはできないのだ、と。自分の生育歴は、親の謎解きとセットなのだった。
 彼女たちは生育歴の発表に備えて、親の謎を解くために親の生家や親戚を訪れインタビューを試みる。親のルーツをたどり生きた時代を知り、父と母の結婚のいきさつを探ることで親の像が立体的に浮かび上がる。すると、謎はさらに遡及して祖父母の世代にも及ぶ。こうして発表される生育歴は、昭和一桁から大正、明治にまで遡る壮大な日本近代の家族史ともいうべき内容となる。特に印象的だったのは、五十代以上の女性たちが生育歴で語った、第二次世界大戦から復員した父が、家族のなかでどれほど苛烈な暴力をふるったかという事実だった。
 自分の生育歴は親の謎解きとセットであること、親=加害者の像が結べなければAC=被害<0095<者である自分の物語がつくれないということ。このことは、虐待ばかりでなく、さまざまな被害者に対するケアのありかた、被害者の立場からどのように脱け出すかについて、大きな示唆を与えてくれるように思われる。流行語としての生命は終わったかもしれないが、アダルト・チルドレン(AC)という言葉は今でも私にとっては大切な存在である。加害・被害の問題を考えるための宝庫といってもいいだろう。」(信田[2008:90-96])

■書評・紹介

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/review/2shohyou4_atsuta.pdf

http://imago.blog64.fc2.com/blog-category-28.html

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UP:20091107 REV:
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