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『愛しすぎる家族が壊れるとき』

信田 さよ子 20030627 岩波書店,201p.


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信田 さよ子 20030627 『愛しすぎる家族が壊れるとき』,岩波書店,201p. ISBN-10:4000220179 1600 [amazon][kinokuniya] ※ m.

■内容

(出版社/著者からの内容紹介)
長年、家族援助にかかわってきた著者が、問題の背景にある支配・被支配の権力構造を鮮やかに読み解く。息詰まるような多くの家族の在りようは、戦後日本社会の在り方そのものだったのではないか。家庭内のプライヴェートな暴力から、広く暴力論、責任論、そして「和解する」とはどういうことかという問題意識につなげて論じる、画期となる書。

(「MARC」データベースより)
家族援助にかかわってきた著者が、「家族の常識」「社会の常識」を一枚一枚はがし、まやかしの仲良し家族から安全な家族への脱却を提案する。『世界』掲載を中心にまとめる。

■目次

まえがき
【事例】理想の家族をつくるために
妻として・母として/夫として・父として/このようにして家族は始まった――娘として・妻として

第一部 家族解放宣言
・家族解散という選択
模範家族においてなぜ?/二つのキーワード/機能不全家族がACを生む?/「共依存」は他者をコントロールして寄生すること/相対化の時代の家族/家族の希望
・親と子どもの免責競争
いい子、ふつうの子の犯罪/家族機能の外注化/アダルト・チルドレンとは/ACへの批判/親の免責/親と子の免責競争/タブーだった親への批判/育ちの苦しみ/崩れる家族の常識/戦後家族の到達点/家族の原点

第二部 すきま風家族へ
・対の関係は危険である
相談内容が変わってきた/幕開けとしての「家庭内暴力」/アダルト・チルドレン(AC)ということばのもたらしたもの/家族内暴力の顕在化/児童虐待とDV/嗜癖としての暴力/第三者の喪失/ストーカーにみる関係の嗜癖化/被害者救済こそ最優先課題/客観的中立的立場はない/「親密な関係は危険である」

第三部 「家族愛」と暴力
・家族内暴力から見えてくる権力関係――人はいかにして「当事者」となるのか
ありえない「中立点」/「常識」が暴力を見えなくさせる/状況の定義権とは何か/当事者性の不在という謎/なぜ当事者性を回避するのか/「状況の定義権=権力」を脅かされる恐怖/援助者の役割/「時間」の効果、「数」の効果/加害者はどのようにして加害者に「なる」のか/「愛」と「権力」
・被害者からサバイバーへ
なぜバッシングされるのか/北朝鮮報道の姿勢/家族と国家は似ている/娘の主語を奪う母

家族解放からすきま風家族へ――あとがきに代えて

■引用

 「名付ける必要がある人々が存在したためにこの二つのことば[「アダルト・チルドレン」と「共依存」:引用者]は生まれた。しかし名付ける動機は恐らく正反対だったのではないだろうか。前者は、名付けて一括りにしないと救われない人々だったからであり、後者は名付けないことにはその問題点に決して本人が気づかないからだったのだろう。」(信田[2003:69])

 「トラウマということばを、あたかもこころの傷として独立した実体のように解釈することも危険ではないだろうか。[…]心的外傷とは実体としての「傷」なのではなく、あくまで傷を負ったかのような経験の「メタファ」なのである。[…]傷を実体化した途端に、傷を与えた加害者と被害者、原因があって結果としての傷、傷を癒すことが治療…という単純な二元論に再びもどっていくだろう。[…]結果が親を支えてきたことで身につけた独特の適応がACのひとたちの苦しみであるとするならば、その回復は医療モデルに回収されてしまうような二元論では実現しないだろう。このコンセプトは機能的・関係的であることによってかろうじて二元論を免れているのだ」(信田[2003:75-76])

 「父・母・子の三者の「病理」を衝くのではなく、このようにしか生きてこれなかった「意味」を認めること、そして新たな家族再生の希望を「解散」ということばに託したい」(信田[2003:89])

 「親を批判することが社会の矛盾や教育の矛盾から目をそらすものであるという批判もあるが、同心円構造という視点から見れば、別の見方もできる。つまり親への批判が社会への、国家への批判であるがゆえにタブー視されたのなら、親への批判、反逆は社会への強力な批判に他ならないのだ。」(信田[2003:105])

 「第三者の喪失という、かつてない現実を生きるわれわれは、とりあえずひととの関係において距離をとること、危険な対象からは遠ざけること、親密な関係は容易に嗜癖的、暴力的関係に転化するという危険性を念頭に置くことをこころがけるべきであろう」(信田[2003:143])

 「対の関係に介入し、風穴を開けるのは誰か。批判を承知であえて「公的機関」の介入を家族に対して行うべきである。と提言したい。(…)公的機関、および国家資格を持つひとたち(たとえば医師)は被害者を救うためには、あえてプライバシーを突破する義務を国民から負託されているのではないだろうか。」(信田[2003:144])

 「社会的背景を探ってみれば、ACが流行語となったことと、グローバリズムによって自己責任が強調されるようになった流れとは、奇妙にシンクロしているようだ。[…]カウンセリングに来るひとたちの求めるものが実は自分を変えることではなく、単にイノセンスの要求であることは珍しくない。[…]このような膨大なイノセンスの承認欲求は、うまく説明はできないのだがどこかで逆転してイノセントな存在を絶対化する方向につながっているのではないか、というのが私の直感だ。絶対化はそのまま権力化につながっていく。「被害者に責任はない」、これは今や誰も否定できない命題になった。つまり被害者はイノセントなのだ。こうして被害者性はひとつの権力と化しているのでは、と思う。」(信田[2003:184])

 「ACということばが、なんでも親のせいにするという誤解を招いたのはひとえに、「私のせいではない」というイノセンスの承認欲求だけをとらえてのことだろう。つまり親からの被害者性を臆面もなく主張することへの反発だったのであり、それは被害者としての権力をふりかざすことへの反感でもあったのかと今になって気づかされる」(信田[2003:187-188])

 「被害者は被害者であることのイノセンスを武器にしなければ生き延びられないこともある。それがいったんは承認されなければならないだろう。しかしそれがときとして政治や社会の潮流の渦によって祭り上げられ、途方もない権力を持ち始めることもあるのだ。「残された家族」という被害者性は、それが家族の博愛を前提にしているぶんだけ、情緒的共感を誘い、抗いがたい力へと変貌していく。このような傾向はますます強まるばかりに思われる。繰り返すが、被害者はその状況を日々生きていく。その営みを、生き延びること、サバイバルと再定義することで、それは生存のための戦略として見えてくるだろう。生き延びることは被害者であることを超えることである。そして自覚された生存戦略は肯定されなければならない。被害者は日々生きていくことで被害者を脱していくのである。サバイバーとはそのような人のことを指すのだろう。」(信田[2003:189-190])

 →ACという言葉を提示し始めたころ、著者は意図的にACを「免責する言葉」として使用することを推奨する。しかし、後に「自分が悪い」と思うことの回避を言うときに、「自分をほめる」ことと「人のせいにする」を分けて述べ、後者は安逸な方法だという。さらに2003年の著書では、そうしてACがイノセンス承認欲求のための便利な言葉として使用されているために、被害者性という権力を産んでいると指摘する。(山口真紀)

■書評・紹介

■言及

◆立岩 真也 2008- 「身体の現代」,『みすず』2008-7(562)より連載 資料,

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※


*作成:山口真紀
UP:20080704 REV:20081102, 20091030, 20140824
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