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小林 提樹

こばやし・ていじゅ

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https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%8F%90%E6%A8%B9-1075614
 「1908−1993 昭和-平成時代の小児科医。
 明治41年3月23日生まれ。日赤産院小児科部長をへて,昭和36年日本初の重症心身障害児施設島田療育園(現島田療育センター)の園長となる。のち重症心身障害児療育相談センターで障害児の療育相談にあたる。44年朝日賞(社会奉仕賞)。平成5年3月7日死去。84歳。長野県出身。慶大卒。著作に「福祉の心」など。」

重症心身障害児施設
島田療育園



◆19080323生

◆1935 慶応義塾大学医学部卒業

◆小林 提樹 1954 「精神薄弱兒(ママ)の発見」、『公衆衛生』:9-14.

 「精神薄弱兒(ママ)の発見」
 小林提樹* *日赤産院小児科医長
 精神薄弱児を論じようとする場合、まず精神薄弱とは何であるかということから出発しないとならない。これは大変重要な根本問題であるけれど、それはここでは余り触れないことにしたい。というのは、その定義には仲々むずかしいところがあり、医学的研究であれば的確な定義から決めて行く必要があるが、ここにこれから問題にしようという範囲では、私達の一般常識的な見方で大過なく精神薄弱児を爼上に上せ得ると考えられるからである。又実際には精神薄弱児を確実に選び出すことよりも、その疑いのある者を見つけ出す方がもつと意味があるからでもある。併し、最も妥当と思われる定義だけを加えておくことにする。即ち、精神薄弱とは発育過程において恒久的に智能発育が障碍されたものである。
T. 精神薄弱児の智能検査について
 智能検査法によつて智能を調べて、智能指数、即ちI.Q.を計算し、それによつて定められた智能段階に照してその程度を決める。I.Q.の段階は、学者によつて見方が多少違うが、次のようなのが一番妥当のようでゐる。そして80以下の、I.Q.のものが精神薄弱にはいる。80~89は或は境界線級は中間児童ともいわれている。(第1表)
 第1表/智能程度→I.Q.//優秀→130以上/上智→110 129/普通智→90-109/下智(愚鈍)→80-89/魯鈍→60-79/癡愚→40-59/白痴→39以下
[…]△009
 […]
 遺伝性に代って胎芽性という考えが生れてきたのであるが、この考えで行くと、どの家庭にも精神薄弱は生れてくる可能性があるわけである。事実それは戦後に相当強く経験してきた。精神薄弱は下層階級ばかりでなく、上層階級にも同じように生まれていると言つてよい。それは、戦争による会情勢の悪化があらゆる階級の母体によくない影響を及ぼし、この胎芽性発生を来したものと考えれば当然である。戦争による精神薄弱発生の影響を統計数値で出すことばできなかつたが、私達の慶大小見精神衛生相談所を訪れた蒙古症の数から考えると、戦前は来所精神薄弱見の2.7 %であつたものが、戦後は6.0 %と著明に増加している。戦前は国宝であると珍重したものも、今はひどく価値が下落して、決して珍らしくはなくなつてしまつた。私達が診療した戦後の数は既に150名を突破している。
 次に、胎芽性のものばかりでなく、他の原因によつてきたものであつても、脳に障碍があると当然、他にも色々な脳神経系統の障碍が考えられる。例えば、反射運動でいえば病的反射、異常允進或は減弱等、或は自律神経系統ではその不調、或は抹消神経では麻痺等も随伴証明されることが考えられる。これ等は無くても構わないが、あれば一層器質的な脳障碍を強く想定できることになる。
 W. 精神的特徴について
 智能の問題については既に言及したので略することにする。
行動の面から見ると非常に色々な奇妙なものがある。精神病的なもの、幼兒(ママ)的なもの等色々な不調和なものが多い。特に私達の注意を引くことは年令的に常に低下したというものばかりでなく、まがつた異常行動、問題行動が比較的に多いことである。甚だしい時は既に乳兒(ママ)観からこれを見出すことがあり、それだけで精神薄弱のよい判定資料となることがある。そして、それが甚だしい程精神発達の不良を予想される。そうしたものゝ中に、私達が「習慣的特殊動作」と名ずけているものがある。それは一種の常同運動であつて、非常に色々な型がある。詳しくは小兒(ママ)科臨床6巻8号を参照願いたい。
このような性格的な変化を伴う者程、私達の治療効果も又教育的効果もあがりにくいのが原則のようである。それで私達は、智能的効果をあげる前に、その性格的な問題を取りあげる必要に迫られている。その手段として現在考えていることは電気ショック療法、気脳術、ロボトミーである。
 そして目下ある程度の成績をあげつゝある。△014」(ここまででおわり)

◆黒丸 正四郎・小西 輝夫 1954 「幼年分裂病について」,『精神神経学雑誌』56:641-642
 「211 幼年分裂病について
 黒丸正四郎・小西輝夫(大阪市立醫大神経科)
 3、4歳以前に既に発病した幼年分裂病は極めて稀なので、精神病理学的見地からいつても興味深いものである。紹介する1例は3歳前に発病し、現在、病勢進行の 7歳の男児である。遺伝、家族環境に特記すべきものなく、2歳半までは心身共に正常な発育を遂げた。ところが3歳前から、周囲に対して何等の関心も示さなくなり、独語、空笑、常同症などが著明となり、現在では、食事、排尿も独りで不可能であるほどの高度の Demenz陥入つている。しかし、彼の作品、智能テスト(ブロックデザイン)などみると、抽象的智能は優秀であると思れる。殊に興味があるのは言語の解体であつて、発病前まで他児よりも言語発達の優れていた彼が、現在では無意味な、 Perseveration、 Phonographen-symptom Echolalie、 Paralogiaな示し、また、第一人称と、第二、三人称の転倒、疑問文と肯定文の混合がみられ、言語としての社会的機能を失つてしまつている。成人または7、 8歳以上の少年の分裂病のようにWahn、 Halluzination、 Zwangssymptomはなく、幼年分裂病は極めてSymptom arm であり、たゞ極度の Autismus、 Leerheit Demenz が特有であるといわなければならない。これは、外界との生ける接触を介して、id-ego-superego の構造が介在し、Subject-object-relationshipが確定されて行かねばならない大切な幼年期に、分裂病-Processが外界との交渉な断つてしまうため、人格構造の発達が阻止されるばかりでなく、無防備のegoは何らの抵抗さえ示すことなく(人格反応も示さない)、急速に解体されるからであると思う。

 追加
 臨床症状も日本脳炎後の状態、他の精薄患者には沢山みられる状態である。殊に言葉のおうむ返えしや常同症は日本脳炎後にはしばしばみられる症状である。
 また松沢病院入院中の4歳前発病の Dem・praecox の Encephalogrammには非常に著明な脳室拡張がみられた。精薄で途中で精神分裂病が合併したと考えられた少年患者の l例には高度な脳萎縮、Markの小さなたくさのErweichungshredがみられた。他の例は、脳皮質全体における細胞脱落、殊に間脳においてはさらに著明にGliawucherungがみられた。
 要するに、幼時発病の精神病を分裂病と診断ずるには慎重でなければならぬと思う。(松澤病院 立津政順)
 知能検査はやっておられるか。抽象概念はよいという、知能的には一応よいのに痴呆というのはどういう意味においてか。(東京少年鑑別所 鰭崎轍)
 このような症例は、小児科領域では決して稀ではない。その一部は昨年本学会において映画で供覧した。治療法としては、電気ショック、ロボトミーなど実施したが、何も無効に終っている。(東大小児科小林提樹)
 幼年期ではHirnのorganischな変化でも(Hellerの例)、またNeuroseでもAntismusを示してSchizo-phrenie様の症状な呈する。したがつて、私も確信を以つて本例をSchizophrenieとは言えない。しかし、少なくもgrobな脳病変を思わせる前歴および現在の神経症状をもつていないし、 VerlaufをみるとemotionellにDemenzに陥りつゝある。故に、少なくも現在ではSchizophrenieと思つている。この間題は重大であるので検討を要する。
 精神病学的にいつて、抽象智能では崩壊が少なく、むしろemotionellな崩壊な来しているSchizophre Demenzである。すなわちSchwachsinnとは全く異るものである。
 小児科医がしばしばみられるのであれば精神科医にもつと診せてほしい。しかし、私の経験では、心理学者や小児科医が幼年分裂病といつたものは、多くの場合、精神科医が診ると他の疾患である(Neurose又は脳炎後精△641 神病)。(黒丸正四郎)
 ※学会報告に対する参加者の質疑・コメントがこの時期のこの雑誌にはこのような形で掲載されていたということだろう。

◆小林提樹・石橋泰子・伊藤文雄 1956 「D31.小兒(ママ)の精神分裂病様疾患について」,『精神神経学雑誌』58:205-206

 「D31 小兒(ママ)の精神分裂病様疾患について
 小林提樹・石橋泰子・伊藤文雄(日赤産院小児科・東京)
 About the schizophrenic symptoms of children. T.Kobayashi、 Y. Ishibashi and F. Ito(Jap. Red. Cross Maternity Hosp. Tokyo)

 小児精神衛生相談に来院した小児の中、精神分裂病様症状を呈するものを精神薄弱との関連で、次の如く分類してみた. (a) 精神薄弱の要素が強くて分裂病症状の比較的少ないもの、(b) 精神薄弱と分裂病症状とが、何れに重点をおくべきか判定しがたいもの、 (c) 分裂△205 病症状が著明で、精神薄弱の要素の弱いもの. (a) は約20%、 (b) は10%、(c) は7%となる。もし、精薄弱の診断でまとめようとすれば (a) と (b) はそれにはいるであろうし、また分裂病のもとにまとめようすれば (c) と (b) がはいることになるかも知れない. (b)は両者にまたがって観る者の判定次第という傾向が強いが、その経過を長く観察すれぱ自ら(a)、 (c) 何れかに片寄って行く。  以上は精神薄弱との関連においての観察であるが、尚鑑別すべき行動として、癲癇様疾患に伴うもの、適応障害による異常行動、操うつ病、更に昔からいわれている白痴の常同運動がある。  これらの若干を16ミリの映画、また録音によつて併せ供覧したい。」(全文)

◆第53回日本精神神経学会総会−質疑応答・追加討論」,『精神神経学雑誌』58号外:1-13
 「[…]
 「演題D31「小兒(ママ)の精神分裂病様疾患について」に対して
 1)精神薄弱やてんかんのある幼児に妙な行動が現わるというだけで分裂病様という名称を用いる必要があるか。
 2)黒丸氏のいう如き小児分裂病はたしかにあるが,今の演説では分裂病とはいいにくい.
       西丸四方(信州大神經科)
 反復運動とホスピタリズムとの関係をどう考えるか。
       高木四郎(四立精神衛生研)
 小児分裂病という名称はよくないと思うがそれに代るよいものがない。分裂病様という方が適当。分裂病様ということを納得してもらうに足る材料を提供したのでなく,二三の症状をお目にかけただけである。
       演者(小林提樹)
 幼児では器質性脳疾患にも心因反応にも分裂病様というべき精神症状がみられるが,その他或る時期に発病して自閉症状,人格の解体を来す小児精神病があることも事実である。これを小児分裂病と呼んでよいか否かは疑問であるが,成人の分裂病の症状経過に似ている点からそう呼んでよいのではないか。
       黒丸正四郎(大阪市大神経科)」(p.10、演題D31に対しての全文)

◆小林 提樹 19600810 『どうしましょう――問題児の精神衛生のための問と答』,医学出版社,239p. ASIN: B000JAPER0 300 [amazon] ※ j01.

◆1961 島田療育園創設

◆花田 春兆 1962/06 「現代のヒルコ達――小林提樹先生へ」,『しののめ』47→19681020 『身障問題の出発』,pp.1-13

◆石川 達三・戸川 エマ・小林 提樹水上 勉仁木 悦子 196302 「誌上裁判 奇形児は殺されるべきか」,『婦人公論』48-2:124-131

◆1974 島田療育園園長辞任

 「もともと効果の期待できない診療で治療費をいただくことも矛盾している。後になってボランテイア活動という言葉が生まれてきたが、当時の私の行ったことは、まったく文字通りのボランティア活動であった。そのような出発は私の習慣となって後々まで長く続き、私自身の働きはいつまでもポランティアの域を脱しなかった。私がそのほうをむしろ選び取ってそれに甘んじたのは、「この子も、あの児も私である」という言葉を座右に、自分自身を規正しているからである。島田療育園の園長時代には、議論が沸騰して統一が困難な時はいつも、「それは障害児の幸福にどのように連なるのか」と問い直して結論とするのを常とし、結局、障害児の幸福にどうびつくかを考えてその正否を決定した。
 こうした姿勢を厳守してきたつもりであるが、あくまで子どもの福祉を中心にすえていく「平和の社会活動」は、暴力には勝てないことを肝に銘じて教えられる結果となった。このことは、最近の中東問題にもいえようが、だからといって無条件で降伏するのではなく、あくまで非福祉的なものには立ち向かうべきである。この信念を貫こうとする時の私たちの頼みは大衆の世論であり、福祉を達成するための正義を待ち望む人々の姿勢である。」(小林[1991:xiv])

◆小林 提樹 1983 「障害者に愛と医療を捧げて」、八幡・小林・田中・市川[1983:53-120]
◇八幡 一郎・小林 提樹・田中 文雄・市川 浩之助 19830410 『来し方の記 6』,信濃毎日新聞社,228p. ASIN: B000J7CILS 1000 [amazon] ※

◆小林 提樹 編 19910729 『大人になった障害児――長期予後の追跡から』,メヂカルフレンド社,354p. ISBN-10: 4839200351 ISBN-13: 978-4839200350 [amazon][kinokuniya] ※ j01.

◆日本心身障害児協会島田療育センター 編 20030625 『愛はすべてをおおう――小林提樹と島田療育園の誕生』,中央法規出版,246p. ISBN-10:4805823682 ISBN-13:978-4805823682 2625 [amazon] [kinokuniya] ※ j01.

◆小沢 浩 20110408 『愛することからはじめよう――小林提樹と島田療育園の歩み』,大月書店,283p. ISBN-10: 427236068X ISBN-13: 978-4272360680 1600+ [amazon][kinokuniya] ※

■言及

立岩真也編編『与えられる生死:1960年代』表紙   立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』表紙

◆立岩 真也 編 2015/05/31- 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books 1000 ※r.

◆立岩 真也 2016/08/01 「国立療養所・5――生の現代のために・15 連載・126」,『現代思想』44-(2016-8):

 「六四年の前から、重症心身障害児(重心)施設に関わる動きは始まっている。多くの患者会やその家族の会は医師のまわりにできたものだが、重症心身障害児の親の会もそうだった。五五年小林提樹が月例の相談会「日赤両親の集い」を始め、翌年『両親の集い』が発刊され小林の文章が掲載される★01。そこから施設を作る動きが始まる。資産家から土地の寄贈を受け、しかし当初期待したその人の金は得られず、資金を各所に求め断われもしたがいくらかは集まり、六一年に島田療育園ができる。国の支援を求めこの年に請願を行う。その際「社会の役に立たない重症児に国の予算を使うことはできない」と言われたという(北浦[1993:60])★02。」

 「★01 『両親の集い』の「どうしましょう」という欄に質問と小林の回答が掲載された。それは整理されて小林[1960]となった。「ある時、末の娘が町で「お父さん何している?」と人に聞かれて、「書いているとの返答」。「お医者さんじゃなかったの?」「うん、原稿書いてるの」/この返事には恐れいってしまった。毎月「両親の集い」という薄い月刊誌であったが、ほとんど一人で発刊していたので、父の姿がこんな風にとられたのは心外でもあった。」(小林[1983:113])」

◆立岩 真也・杉田 俊介 2017/01/05 青土社 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,立岩 真也・杉田 俊介 2017/01/05 青土社 ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 [amazon][kinokuniya] ※

 □第2章 障害者殺しと抵抗の系譜

  □1 二〇一六年九月・本章に書くこと
  □2 一九六二年・『しののめ』安楽死特集
  □3 一九六三年・『婦人公論』誌上裁判
  □4 一九七〇年・横浜での事件
  □5 一九八一年・『典子は、今』他
  □6 一九八二年・島田療育園からの脱走事件他
  □7 ナチによる「安楽死」
  □8 二〇〇四年・もう一つの相模原事件
  □9 これから
  □ 註

 □3 一九六三年・『婦人公論』誌上裁判
 一九六〇年代初頭、サリドマイド剤を飲んだ母親の子に奇形が生じて大きな問題になった。ベルギーでは子の殺害事件が起こり、それが日本でも話題にされ、『婦人公論』で座談会が企画され二月号に掲載される。冒頭に編集部の「この記事を読まれる方に」がある(以下『現代思想』連載「生の現代のために・4」([[2014-(7),2015-7,113])で紹介、再掲含む)。

 「睡眠薬サリドマイドによる奇形児の出生が世界の話題となっているが、昨年ベルギーのリエージュにおいては、肩から指の生えたアザラシ奇形児を母親を中心として医師・家族が加わって殺害した事件が起きた。加害者は逮捕され裁判になったのは当然だが、ベルギーの世論調査は母親の態度を一万六千七百対九百で支持していた。この事実を裏書きするように陪審員の答申は、全員無罪であったが、奇形児とはいえ人命を奪った罪が無罪であった点に疑問が残されている。」

 睡眠薬として販売・使用されたサリドマイドの被害がどのように広がったのか、後にそれがハンセン病、エイズ、癌にまた使われるようになっていった経緯を記した本に、その事件への言及がある。

 「ベルギーでは、バン・ド・プットという夫婦が重度の奇形を持って生まれた自分たちの子供を、生後八日目に毒殺する事件が起こった。後に罪を認めた二人は、それが子供にとって一番よかったのだと主張し通した。死亡証明書に署名した医師は、五〇〇人の傍聴人でいっぱいになったリエージュの法廷で、自分にはその子の衣服を脱がせる勇気すらなかったと告白した。彼の声は低く抑えられ、嗄れていた。「もし私がその殺人を知る唯一の人間だったなら『自然死』と記入したでしょう」。聴衆からは拍手が起こった。
 「あの子がもし精神にも障害をもっていたなら」スザンヌ・バン・ド・プットは言った。「自分の宿命を知らずにすんだでしょう。でも、あの人の脳は正常だった。彼女は死ぬ運命にあったんです。気づく運命にあったんです」。
 二人の無罪が宣告されると法廷には喝采が沸き起こった。」(Stephens & Brynner[2001=2001:112])

 座談会(石川他[1962])の参加者は石川達三、戸川エマ、小林提樹◇、水上勉◇、仁木悦子◇。戸川と仁木はあまり話さない。仁木は推理小説家で胸椎カリエスの障害があった(二日市安◇は夫)★07。作家の水上勉は、国に新生児を殺すか殺さないかを決める委員会を作ったらよいと述べる。また次のように発言する。

 「今日のように薬が悪魔的になり、空からいろいろなものが降ってくる時代になって、健康であっても奇形児が生まれてしまうのなら、法律もやはり発達して、赤ちゃんを殺して、それが有罪か無罪かということも規定しなくてはいけないと思います。」

 またやはり作家の石川達三が、重症心身障害児施設島田療育園の園長であった小林提樹に「世間に対してプラスにならないナマコみたいな不具廃疾の人」もいるのかと尋ね、人口が過剰になる社会――増加も減少も同じ危機感を生じさせる――にあって、「今までのようなムード的な要素の強いヒューマニズムじゃ、もう駄目だ」といったことを言って座談会を締めくくっている。

 「小林 腕のないアザラシ奇形でしたら七ヵ月になって、レントゲンで調べればわかる。ほかの奇形は、レントゲンに写らないものがありますから、どうにもならないです。
水上 レントゲンでそういう奇形児が歴然としているなら流産を奨励したいですね。
小林 そのときはやるべきだと思います。」
 「戸川 日本でサリドマイドが売り出される以前、アザラシ奇形児はどうだったんですか。
石川 ありました。子どものときに、見世物小屋で、客の呼び込みが、左の肩から指が二本、右の肩から指が三本、と叫んでいたのをおぼえています。
水上 私は若狭の曲馬団の小屋で見た記憶があります。
小林 昔の医学の教科書にも出ています。」

 これは「異形」――第3章では専ら「能力」について記しているが、姿形・異なり・美醜の契機が大きいことについては「生の現代のために・6」([2014-(6),2015-9,115])等――に関わるやりとりということになる。もう一つは「貢献」(のための「能力」)を巡っている。そうした人には価値がないという言い方と、もう一つ、社会はやっていけなくなるという現実的な問題として言われる場合がある。そして社会全体という大きな単位がとられることもあるし、家族という局所において起こるできごとであることもある。後者についてはそれは現実になることがある。つまり共倒れになったり、やっていけなくなって、あるいはそれが予期されて負担のかかる人を殺すことがある。その可能性をもたらす規範・価値は、ここで基本的には、肯定されている。それを確認しておく。」

 「一つだけあげておく。八二年に島田療育園から出ようという人がいて、それが阻まれることがあった。一月一六日に斉藤秀子(当時三二歳、脳性まひ)が施設を出る。家族は捜索願いを出し連れ戻される。「家出」を支援した職員は懲戒解雇処分になる。それに抗議した職員は訴訟を起こすが、その公判で施設側は斉藤に「意思能力」「同意能力」がないことを主張した。支援者は連れ戻された斉藤に会おうとするが拒絶される。尾上浩二が私たちに寄贈してくれたものの中から出てきたのは八二年一二月一五日付けの「島田療育園を告発する障害者七人委員会」による社会福祉法人日本心身障害児協会太宰博邦(花田の著書等でも肯定的に紹介されている業界では有名な人だった)宛の抗議書であり、そしてこの抗議に加わることを要請するビラだ。そこには斉藤の文章も付されている。その全文はまたHP上に掲載するが、七人は井田博士(神奈川青い芝の会)、宇都宮辰範◇(中野区)、小林敏彦(障害者の地域生活を保障する会)、小山正義◇(神奈川青い芝の会)、千田好夫◇(千書房)、本間康二◇(『月刊障害者問題』)、三井絹子◇(府中療育センター闘争◇)★17。面会は、国会議員の八代英太◇が太宰に談判して、ようやく実現する。その経緯は『同行者たち』(荘田[1983])に詳しく書かれている(がやはり品切れ)。
 私はその時の家出とそれを支援した側に理があったと考えるが、実際がどうであったかをよく知っているわけではない。施設の側にも言い分があるかもしれない。既に何度目かだが、繰り返す。あった場から事実が外されてしまう、結果、ないことになってしまう。
 小林自身の「思想」を問題にすることもできなくはない(そのビラには少しそうした部分もある)★18。ただそんなことをしていけば、自分自身はどうなのだ、小林は自分よりずっと偉く、がんばった人だということにもなる。それは認めよう。だが、起こった出来事はあり、それはその人の立派さ、立派なその人の話には出てこない。
 小林提樹や島田療育園について様々の書きものがある。『愛はすべてをおおう』(日本心身障害児協会島田療育センター編[2003])には九三年までの年譜があるが記述はない。『愛することからはじめよう』(小沢[2011])は七四年に園長を辞任している島田についての本であり当然のことだが出てこない。自伝「障害者に愛と医療を捧げて」(小林[1983])にも当然出てこないが、それでもそれは八三年に書かれたのではある。小林の辞任には労働者の待遇をめぐる労働争議への対応に小林が疲弊したこと、それが辞任に関わったことは複数の本に書いてある。それはその通りだったのだろうし、双方に言い分のあることだっただろう。ただ別の種類の、労働組合からも支持されなかったできごともある。そうした動きがなかったことにされてきた歴史がある。加えておけば、題名に愛が頻出する。その人たちの愛は本書があまり肯定的なものと捉えない(第3章1−3)愛とは異なる――小林も糸賀一雄もキリスト教徒だったという。それでも頻出はしている。」

★07 仁木は(一九二八〜一九八六)は『猫は知っていた』で江戸川乱歩賞他。仁木が代表を務めた会の編で『もうひとつの太平洋戦争』(障害者の太平洋戦争を記録する会編[1981])。二日市(一九二九〜二〇〇八)は翻訳家で脳性まひ者。筆名に後藤安彦。「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」「障害児を普通学校へ全国連絡会」等で活動。著書に二日市[1972][1985][1995]。 ★09 「生の現代のために・13〜16」([2014-(13)〜(16),2016-6〜11,124〜127])で「重心」、小林提樹、糸井一雄らについて書かれたもの、その人たちが書いたものをいくつか紹介している。終わっていない。関連文献はその連載の方を見られたい。
★17 小山正義については註15。三井絹子は「殺すな」がおおっぴらに言われ出したのと同じ一九七〇年に始まった「府中療育センター闘争」に関わり、施設を出て国立市に住み活動してきた。著書に三井[2006]。
★18 文責本間康二――小さな媒体ではあったがカレン・クインラン事件を特集するなど重要な活動を展開した『月刊障害者問題』を主宰した――となっているビラには「他の園では発達保障を云々されているが、この子らには発達を与えることはできない」「運命的に死に移行しているので、この死にうまく移してやる」といった小林の文章が引かれている。その悲観を本間は強く批判しているだが、それに全面的に同調しきれるだろうかというのが、本文で述べたことだ。
 なおこの文章(小林[1972])は、もとを確かめていないが、「全障研滋賀支部サークル」での報告であるらしい。滋賀県には近江学園・びわこ学園があって、全障研(→註15)の活動の発祥地のようにも言われる。しばしば二つ並べられる「重心」の施設、その関係者の考えの間にも差があるということである(とともに、島田はその滋賀で報告しているらしい)。加えると、本間は、その短いビラで、小林の他の場での断種手術を支持する文章を引いて小林をさらに批判している。」

◆立岩 真也 2018/07/01 「七〇年体制へ・上――連載・147」,『現代思想』46-(2018-07):-

 「一九六〇年の前後、偉人たちが現われ、その後社会福祉が発展したという物語がある。東京の島田療育園には小林提樹がいた。滋賀のびわこ学園他の創始者として糸賀一雄がいる☆。その二つの施設は、重症心身障害児――大雑把には知的にも身体的にも重い障害のある子ども(やがて大きくなり、今は高齢者となっている人たちも多い)――施設として先駆的な施設だった。その後、国立療養所が、結核療養者の次のお客として多くのその「重心」の子を受け入れもする。小林は医師だが、糸賀は違う。この人は今でも例外的に知られており、その時代(から)の福祉を語る時の符丁のようなものにされている。その人々を尊敬する人たちによって書かれたものもあり、いくつかは紹介した☆。ただ、この定番な人たちをあげてなにか歴史を語ったつもりになるのはよくないと思う。人を語り、その人たちが肯定されるべき人たちであるということから零れるものがある。それでこの文章も書いており、この人たちを一人ひとり紹介し論ずるつもりはない。ただ少し書いておく。
 まず、私は、その人たちは立派であったと思う。その人たちは、その後の人たちのように、本人やその「代理人」の(事前)決定に委ねればよいといったことは言わない。「生命の質」といったことも容易には言わない。その人たちに象徴されるような実践がなかったら、かなりの数の人たちがもっと早くに死んでいただろうと思う。そのうえでの話だ。
 具体的な検討は一切省いて、二人を二つの「型」としてあげる。悲観的で人道的な人と、人道的で肯定的な人、その二つである。
 小林は、「重症者」に対して悲観的ではあったが、それを愛が覆う、というような具合になっていて、力を尽くした。尽力したが悲観的だった。それは、次回に紹介する白木博次☆といった医学者たちにも言えることを後述する。小林は、生まれたら(生まれてしまったら)救う、それは医師の義務だと言う。ただ、生まれなくすることには賛同している。ではそうしたこと、他を批判すればよいか。とても少ないが、直接小林に対してなされた批判もある☆。私も批判したらよいと思うところはある。優生保護法下の不妊手術について二〇一八年になって提訴があり、にわかに、ようやく、このことがいくらか知られるようになった☆のだが、小林は、そこからそう大きく異なる場所にいるわけではない。しかしそれでも私たちはうしろめたいのだ。つまり、否定的・悲観的であるという現実感はぬぐえない。である以上、捉え方描き方が否定的・悲観的であると、本当に批判できるかと思う。しかも、そのうえで、小林は実践を行なった。他方、そんなたいへんなことはできないと思う私(たち)は何もしていないのだ。
 しかしそれでも、やはり、悲観的である必要はない。それがヌスバウムの議論☆を検討し批判する回(→本年九月号、「理論篇」に収録)で言いたいことであり、そこで説明する。歴史と理論はそうして繋がっている。
 それに対して糸賀の「この子らを世の光に」という言葉は[…]」

 「次に人の「思想」だけをみることはない。種々の施設とその歴史について書かれたものも実はたいへん少ない。調べるとよいこと、その際に見ておいた方がよいことを記す。
 一九六四年に筋ジストロフィー、重症心身障害児に対する施策が始まったが、施設の使いまわしだけが目指されたのではない。新しい施設が構想された。厚生大臣の私的諮問機関として「学識経験者」十七人からなる「心身障害者の村(コロニー)懇談会」☆が六五年に設置され、同年十二月に「心身障害者のためのコロニー設置についての意見」(答申)が発表される。それを受けて七一年に開設されたのが知的障害児の施設「国立のぞみ園」☆。この時期、花田春兆の「熱心かもしれないが、身障者自身でもなければ、この問題のエキスパートでもない」「水上〔勉〕・秋山〔ちえ子〕・伴〔淳三郎〕の三氏らに突上げられた橋本〔登美三郎〕官房長官の鶴の一声で具体化への運びになつたらしいが、本当に必要性があるものなら無名人の陳情によってだって作らなければならない筈だし」(花田[1965])☆といった苦言かあったぐらいなのだが、それから五年ほど経つと「コロニー解体」といった勇ましい標語が現れる☆。その後を含めても、たかだが十年ほどの間に何が起こったのか。勇ましい側にいた横塚晃一も「われわれの手で小さな施設を」と言うのだから☆、そう分岐は明確ではないとも言えるし、「われわれの手で」という差異は小さくはないとも言える。そして社会にとって施設とは何であったのか――「解体」を言う人は、世話する仕事を免除することによって労働力を生産に向ける装置だと主張するが、それはどこまで妥当なのか、等――については、やはり別に考えるか考えてもらう。またこの懇談会と別に、「社会開発懇談会」の六五年の「中間報告」☆でもコロニー建設が言われる。ただ、この報告で言われる「社会開発」は単純に経済成長を志向するといったものではないこと、そしてこのことと社会の中での施設の意味といった議論も必要であることを言うだけにしておく。
 ここでは懇談会のメンバーを列挙だけする。座長葛西嘉資(社会福祉事業振興会長)、副座長牧賢一(全社協事務局次長)。そして秋山ちえ子(評論家)、井深大(ソニー社長)☆、菅修(国立秩父学園長)、糸賀一雄(近江学園長)、登丸福寿(コロニーはるな郷長)、仲野好雄(育成会専務理事)、関根真一(国立武蔵療養所長☆)、富田忠良(国立箱根療養所長☆)、小林提樹(島田療育園長)、小池文英☆(整枝療護園長☆)、三木安正(東大教授)、宮崎達(国立国府台病院長)、菅野重道(国立精神衛生研究所精神薄弱部長)、浜野規矩雄(藤楓協会理事長)。井深大がなぜここにいるのかがわかる人には不要だが、この十七人がどんな人であるかは(今度の)本で記す☆。国立療養所の所長がたくさんいる。武蔵療養所は『造反有理』に少しでてくる精神障害者の施設。戦前は軍の病院だった箱根療養所は唯一の脊髄損傷者等のための施設。いずれも子度の本には出てこない。箱根療養所については坂井めぐみの論文がある☆。整枝療護園といったこの国で先駆的な施設の長もいる。
 そして小林も糸賀もいることは確認しておく☆。呼ばれて出ないわけにもいかなかったというところだと思う。そこで糸賀は大規模施設には反対する気持ちを強くしていったという☆。」

 「処遇改善を当然に求める労働組合他との関係に疲弊し、愛の心が足りないなどと嘆いて、小林は施設の長を退くことになる☆。ただこの種の争いは、労働条件がわずかずつでもよくなっていくにつれ、そう大きなものではなくなる。府中療育センター事件☆、島田療育園での「脱走」は入所者の処遇の問題に発する。そして府中の事件には「解体」といった標語に連なる人たちがたしかに関わってはいる☆。島田については組織の関与はなかったようだが、それでも施設内で『さようならCP』といった映画の上映会などしたり自分たちも映画を作ってみたりした職員たちがいて、脱走した人はその人たちとの関わりがあった。そしてそうした流れと別の流れにあってしかし、正義・権利、そして愛によって献身した人たちは、そうした事件について何も言わないし書かない☆。ここにも断絶が作られることによって、流れが作られる。すると、ものを調べず知らない人たちはそれが歴史だと思ってしまう☆。単純にそれはよくないから調べて書く必要がある。
 ただ事態はもうひとつ複雑だ。というのも、島田にせよ府中にせよ、そこでは雑多な人が収容されたがゆえにものを言う人たちもいて、そこから問題は生じたのだった。だがそのものを言う人たちには、その主張を進めそして貫いて、施設を出る人たちがいる。島田については、小林が辞任した後、天下り先のようになったその施設がうまく機能しなくなっていったことが脱走にも関わる。先出の石田圭二らへのインタビューによれば、施設の機能不全が憂慮され、より仕事のできる施設長への交代があり、体制の建て直しが図られ、「重心」と言えず別の施設の方でよいとされた人はそこから移されていったという。脱走しそして施設に連れ戻された人も、別の施設(当時の療護施設)に移ったという。それは本人の希望でもあった。
 こうして、ものを言う人たちがその施設には少なくなっていく。[…]」


◆立岩 真也 2018 『(題名未定 2018b3)』,青土社 文献表


作成:立岩 真也・植木 是
UP:20150218 REV:20150224, 20160711, 20180611, 13
重症心身障害児施設  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO 
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