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重症心身障害児施設


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島田療育園
びわこ学園

糸賀 一雄
北浦 雅子(〜2023/02/26),
小林 提樹
水上 勉
岡崎 英彦
高谷 清

日浦 美智江
窪田 好恵


■新着新規掲載

◆窪田 好恵 20190430 『くらしのなかの看護――重い障害のある人に寄り添い続ける』,ナカニシヤ出版,287p. ISBN-10: 4779513804 ISBN-13: 978-4779513800 3200+ [amazon][kinokuniya]

◆立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※

 「もう一つ所謂重症心身障害児の親たちの動きがあった。まず、熱心であった医療者たち――島田療育園の小林提樹が有名だ――の活動があり、その周りに親たちの集まりができて、それが当時の(今でも与党の)与党に働きかけた。筋ジストロフィーの親の組織の結成と同じ六四年「全国重症心身障害児を守る会」が結成される。この組織は「誰とも争わない」という方針を掲げた。「争わない」というのは――内部において、争ってよいはずだと言う人たちは抑え除外しつつ――具体的には政府・与党の批判はしない、お願いをするということを意味する。そしてそうした姿勢は六〇年代からしばらく、例えば自民党の厚生(厚労)族の大物議員たちに対して効果的だった。その運動とそれが得たものを調べておくことが必要だが、窪田好恵が研究を始めているので略す★26。一点だけ補足しておく。現在「重心」というと、身体的にも知的にもとても重い人たちがいる施設だと思われているし、実際そんな規定になっており、おおむね現実にもそうだ。ただ少なくともその初期においてはかなり多様な人たちがいたようだ。琵琶湖学園に務めたことのある窪田に、そこには脳性まひでものを書いたりする人もいると聞いた(264頁)。そしてその人たちは当然、今はもう小児などではまったくなく、高齢に達している。さらに文献にも当時サリドマイド児も入所していたことが記されている。制約はありながらも、まだそれほど規定がはっきりしていなかったこともあり、困窮度によって、あるいは施設やその関係者への訴えが――ときには有力者を介してということがあったかもしれない――有効であった限りで、入れる人は入れたということかもしれない。
 こうして「受け皿」を同じにしたまま「防衛」の対象が変わっていった。」

 「結核・ハンセン病の療養者たちの運動・組織は、『国立療養所史』といった同じ書籍に、筋ジストロフィー児や重症心身障害児の親たちの運動とともに登場することがある。ただそれは、その後の論文の類においても、比較されるなら差異が見出される二つの類型としては了解されていない。そしてそうした事態は、そもそもその歴史についての記述がなく、それで私も書いてもいるのだが、その後も続いている。
 六四年は「重症心身障害児(者)を守る会」が結成された年でもあり、「全国進行性筋萎縮症児親の会」も結成されている。ただその前から重症心身障害児(重心)施設に関わる動きは始まっている。多くの患者会やその家族の会は医師のまわりにできたものだが、重症心身障害児の親の会もそうだった★29。重度の癲癇発作を伴う知的障害児だったという自らの子のことで島田伊三郎が日赤産院にいた小林のもとを訪れたのが五〇年。島田伊三郎は当時東京・日本橋遊技場組合長。その子の住む別荘のような場を考えていると言った島田に、小林が施設の建設を提案。五五年、小林は月例の相談会「日赤両親の集い」を始め、翌年『両親の集い』が発刊され小林の文章が掲載される★30。この五六年に千葉の土地を取得しかけるが住民の反対によって頓挫。その後多摩の土地を見つける。ただ島田の企業の経営が悪化し当初島田が提供するとしていた額を得られなくなる。募金活動をし、資金を各所に求める。六〇年着工、六一年に島田療育園ができる★31、国に支援を求めこの年に請願を行う。その際「社会の役に立たない重症児に国の予算を使うことはできない」と言われたという(北浦[1993:60]他)★32。その運営が困難なことを水上勉が六三年に『中央公論』で問題にして――その「拝啓池田総理大臣殿」もその施設長らによって肯定的に受け止められていることを紹介する(129頁)――それを政治が受け入れたということがあっ△124 た。こうした動きについての記述は、他に比べればかなりあるから、ここではここまでにする。
 比べて筋ジストロフィーの子の親の会の動きは、六四年に始まり、短い間に展開していったのだという★33。」

 「★29 親の会は、その子を連れていく病因・医院の医師の周りにできることが多い。血友病者(のまずは親の)組織の現われ、変化について北村[2014]。
★30 『両親の集い』の「どうしましょう」という欄に質問と小林の回答が掲載された。それは整理されて小林[1960]となった。「ある時、末の娘が町で「お父さん何している?」と人に聞かれて、「書いているとの返答」。「お医者さんじゃなかったの?」「うん、原稿書いてるの」/この返事には恐れいってしまった。毎月「両親の集い」という薄い月刊誌であったが、ほとんど一人で発刊していたので、父の姿がこんな風にとられたのは心外でもあった。」(小林[1983:113→2003:49])
 小林のその以前について植木[2018-]。一九五〇年代にロボトミーを行なったことについて学会で報告、発言している。自身の報告に小林[1954](肩書は日赤産院小児科医長)。「幼年分裂病について」と△190 いう題の黒丸正四郎・小西輝夫[1954]に「このような症例は、小児科領域では決して稀ではない。[…]治療法としては、電気ショック、ロボトミーなど実施したが、何も無効に終っている。」肩書は(東大小児科)と述べている。自閉症者の施設の始まりと変遷について研究している植木是(植木[2019])が、これらを発見した(植木[2018-])。それ以上のことは今のところわからないのだが、調べておいてよいとも思う。島田療育園についての文献は多い。論文に窪田[2014]他。
★31 島田伊三郎は後に日本遊技場組合(現・日本遊戯関連事業協会)の組合長を務めた。こんなことがあってその後もパチンコ業界は支援を続け、「島田療育センターを守る会」の活動には現在もその業界が関わっている。それを伝えるものに「「島田わいわい祭り」に業界関係者らが参加」(『パチンコ業界ニュース』二〇一六年九月十二日)、等。島田療育園開設時とその後については(一般社団法人)日本遊技関連事業協会[n.d.](掲載年不詳)。
★32 「私の次男は昭和二一年に福岡で生まれました。生後七ヵ月目に種痘を接種したために半身不随、ちえおくれ、言葉もない重症児となってしまいました。当時、こうした子供たちの施策は皆無でしたので、親の愛情だけでひっそりとすごしておりました。この子が一四歳の時東京へ帰ってきて、小林提樹先生にめぐり会ったのが、私にとり大きな転換点となりました。私たち親は当時「自分が死んでしまったらこの子はどうなるだろうか」という不安で一杯でした。小林先生が毎月一回開いて下さる「両親の集い」の例会の時は、親同志ひそかによりそってこのことを話し合っていました。その時、先生が重症児のための施設(島田療育センター)を計画されているのを知り、五〇床の施設が完成した時、親同士でよろこび合ったことを忘れることができません。
 しかしこの施設を運営するためには、何とか国の援助を得なければならないと、小林先生のあとについて、議員会館、大蔵省、厚生省へと、初めての陳情活動を行いました。昭和三六年のことです。△191
 その時の国の姿勢は、社会の役に立たない重症児に国の予算を使うことはできない、というものでした。私たちは「どんなに障害が重くても、子供は真剣に生きています。また親にとってはこの子も健康な子も、その愛情には少しも変わりはありません。しかし親の力には限界があります。どうか国の力で守って下さい」と何日も歩き[…]」(北浦[1993:59-60]、続きは本文113頁)。
 こうした活動とともに、また少し別に、各地の組織の成立と活動はそれとして興味深い。京都の「守る会」の成立と活動について東出[1983]。その全文をホームページに掲載している。この会の活動の経緯について、註26にあげた堀堀智久の研究(堀[2006])があり、堀[2014]の一部になっている。

『くらしのなかの看護――重い障害のある人に寄り添い続ける』表紙   立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

森山 治 2004 「東京都における保健・医療・福祉政策――重症心身障害児施策の成立過程についての考察(その1)」,『人文論究』73:97-112(北海道教育大学函館人文学会)  [120]

森山 治 2005 「東京都における重症心身障害児施策」,『人文論究』74:43-61(北海道教育大学函館人文学会)  [120]

森山 治 2006 「美濃部都政下における都立病院政策と白木構想の影響」,『人文論究』75:1-14(北海道教育大学函館人文学会) ※ [145]

白木 博次(1917/10/22〜2004/02/19 医師)

https://www.n-fukushi.ac.jp/gs/dc/shelf/paper/no53.pdf

  ……

◆立岩真也・杉田俊介 2017/01/05 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』青土社,260p. ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 1944 [amazon][kinokuniya] ※

窪田 好恵 2015 「全国重症心身障害児(者)を守る会の発足と活動の背景」,『Core Ethics』11:59-70 [PDF]

堀 智久 20140320 『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』,生活書院,224p. ISBN-10:4865000208 ISBN-13:978-4865000207 \3000+tax [amazon][kinokuniya]

第1部 戦前の教育保護構想と戦後の具現化――戦時期から高度経済成長期へ
第3章 重症児の親の運動と施設拡充の政策論理――精神薄弱福祉の高度経済成長期
1 はじめに
1.1 研究目的
1.2 研究方法
2 重症児の存在とその処遇の社会問題化
3 重症児の親の運動の展開
4 「親の心構え」の強調
5 収容施設拡充の政策論理
5.1 社会開発の論理
5.2 親の介護義務を織り込んだ重症児対策
6 おわりに

◆立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』Kyoto Books 1000

窪田 好恵 201403 「重症心身障害児施設の黎明期――島田療育園の創設と法制化」,『Core Ethics』10:73-83 [PDF]



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E7%97%87%E5%BF%83%E8%BA%AB%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E5%85%90

◆日本重症心身障害児学会
 Japanese Society on Severe Motor and Intellectual Disabilities
 http://www.js-smid.org/




◆小林 提樹 19600810 『どうしましょう――問題児の精神衛生のための問と答』,医学出版社,239p. ASIN: B000JAPER0 300 [amazon] ※ j01.

◆水上 勉 1963/06 「拝啓池田総理大臣殿」,『中央公論』1963年6月号,pp.124-134→立岩編[2015]

◆黒金 泰美 1963/07 「拝復水上勉様――総理に変わり『拝啓池田総理大臣殿』に応える」,『中央公論』1963年7月号,pp.84-89→立岩編[2015]

◆水上 勉 1963/08 「島田療育園」を尋ねて――重症心身障害の子らに灯を」(特別ルポ),『婦人倶楽部』1963-8:198-202→立岩編[2015]

◆花田 春兆 1963/10 「お任せしましょう水上さん」,『しののめ』51→19681020 『身障問題の出発』,pp.78-85→立岩編[2015]

◆花田 春兆 1965/10 「うきしま」,『しののめ』57→19681020 『身障問題の出発』,pp.33-44→立岩編[2015]

◆保坂武雄・阿部幸泰 1976 「重症心身障害児(者)の医療」、国立療養所史研究会編[1976a:254-272]※
※国立療養所史研究会 編 1976a 『国立療養所史(結核編)』、厚生省医務局国立療養所課、679p.

1. 国立療養所が重症心身障害児(者)を収容するにいたるまでのいきさつ

1)社会的状況
 昭和36年5月1日に重症心身障害児を収容する施設として,島田療療育園が開園された。日本における重障児はそれまで,全く野放し状態におかれていたと言ってよい。昭和32年頃,東京の日赤産院には重症欠陥児(現在の重障児)が20人も入院していた。治療効果があがらないこれらの患児は当時健康保険の対象外とされ,行き場所のないこれらの患児をかかえた産院の小林提樹小児科部長は,これらの子供を救うためには,特別な施設を作るより外に方法はないと考えていた。小林は昭和33年重障児を持った島田伊三郎に病院をかねた収容所を作ることを説いた。この考えに同意した島田は財産の殆んどを投じ,都下の南多摩郡多郁多摩村に15,000坪の土地を求め,収容施設の建設に着手しようとした。しかし折からの不景気に見舞われ計画も危ぶまれたが,2人は有力な政・財界の人々を動かし,33年11月に日本心身障害児協議会を発足させ,1,500万円の予算で島田療育園を設立することにこぎつけた。昭和35年10月日赤産院を辞し,36年5月1日ようやく島田療育園が開園することになった。
 昭和38年「中央公論」6月号で,作家水上勉が重障児をもつ親の立場から「拝啓池田総理大臣殿」の書翰を発表し,時の政府に訴えた結果同誌7月号で池田総理に代って黒金官房長官が「拝復水上勉様」を発表し,今後重障児の問題の解決に努力するという異例の解答があった。これがきっかけで重障児の間題は一躍社会の脚光をあびることになった。△254
 また同年7月,厚生省は「重症心身障害児の療育について」の次官通達を出し,早い速度で法的裏付けに近づける努力を示した。
 その施設入所基準は,
1. 高度の身体障害があってリハビリテーツョンが著しく困難であり精神薄弱を伴うもの,ただし盲またはろうあのみと精神薄弱が合併したものを除く
2. 重度の精神薄弱があって家庭内療育はもとより重度の精神薄弱児を収容する精神薄弱施設において集団生活指導が不可能と考えられるもの
3. リハビリテーシ三ソが困難な身体障害があり,家庭内療育はもとより肢体不自庄由児施設において療育することが不適当と考えられるもの
 一方諸団体は,聯召和39, 40年度の国家予算編成に対する重点項目として,重障児対策を入れてもらう運動を行った。
 39年6月全国重症心身障害児(者)を守る会が発足し,同月全国大会を開き,国の重障児対策の貧困を社会に訴え,大きな共感と支持を受け,政府自ら国立の重障児施設や,心身障害児(者)のコロニー設置を約束するまでになった。これが41年度国家予算に国立重症心身障害児(者)施設11箇所520床をもりこむ原動力となった。

2) 国立療養所のおかれていた状況
 この頃の国立療養所のおかれていた状況をみると,昭和30年代の後半頃,予防医学の普及,化学療法,外科療法の進歩で,結核患者の入院は次第に減少して来ており,将来なんらかの方向転換を考慮せざるを得ない状況になってきていた。この辺の事情を寄せられた原稿をもとにしてお伝えしょう。
 八雲病院長篠田実の文章によると,「結核患者の減少に伴い,北海道においても昭和37年度より地方医務局を中心に,国立療養所の将来の性格△255 付けについて模索していた。当時道内の医療需要の見通し,診療圏の現況性格付けとその目標にわけてかなり詳細な検討を行っていた。たとえば八雲病院においてもその検討がなされ,
 1)結核病床の人ロ1万人当りの比率が高く,
 2)歴史的背景により,比較的安定した診療圏と病床利用率の高さをもち,
 3)小児療育施設として安定した診療圏がある
等により,一般結核を主とした小児療育施設がもっとも適した性格であろうと考えられ,4箇年におよぶ整備の計画もたてられていた。昭和32年6月より肺結核,骨関節結核の児童を対象とした学童病棟が町立八雲小,中学校の特殊学級として認定され,医療と教育の場としての第1歩をふみ出していたのであった。」そうしてこれが,昭和35年になると全道的規模となり結核のみならず,他の肢体不自由児を含めた収容施設設という性格に落着きつつあったという。
 西多賀病院でも八雲病院と同様な歩みをしている。その前身の1つである玉浦養療所は昭和23年より骨関節結核専門療養所として出発し,昭和29年にカリエス児童のため私設の小学校が誕生し,これが昭和32年にこの地区の小,中学校の分校となった。昭和30年代後半,カリエス患者の著明な減少が見込まれ,小児整形外科を中心とした小児慢性疾患へと方向づけがなされた。
 前静岡東病院長の石井良平の資料によると,昭和40年度までは180名程度の在院患者があったが,昭和40年以降退院患者が入院患者をはるかに越すようになった。即ち,昭和40年度入院34,退院64; 昭和41年度入院54,退院70; 昭和42年度入院39,退院68。以上差し引き75名の減となり,入院患者の著明な減少をきたしている。
 前長良荘長成瀬昇(現明星療養所長)からの重心病棟創立当時の資料△256 によると,昭和40年頃国立療養所では合併論が盛んで,長良荘も,長良川向いの日野荘との合併論がでていた。しかし成瀬は地域の医療ニードと結びついた特徴ある施設に変身できるものであれば合併しなくてもよいだろうと考え,手始めに整形外科の分野についての教えを請うため,岐阜大整形外科の綾仁教授に面会を求めた(昭和40年4月)。教授から体不自由児通園訓練施設が欲しいといわれ,5月に厚生省の大村国立療養所課長を説得,滝沢母子衛生課長の激励を受け,改築予算をもらい,8月末に,肢体不自由児訓練所を開所させた。
 以上の資料が示すように全国的な結核患者の減少に伴い,各施設は何らかの方向転換を迫られていたわけである。

3)重障児病棟受け入れ当時のいきさつ
 【水上勉の書翰や,守る会の運動などで,政府は国立の収容施設や,コロニー設置の約束をするはめになったからであるが,具体的に国立療養所側に伝えられたいきさつは,成瀬の資料にくわしく述べられている。要約すると,昭和40年9月28日,東京勧銀本店で40年度秋季全国国立療養所長会議が行われ,そのとき本省説明で,重症心身障害児施設は医療施設として考えてゆきたい旨が発表された。10月2日,希望施設長が島田並びに東京小児療育園を見学。10月4日,日比谷の松本楼で小林提樹・小池文英両博土の講話をきく。午後,国立療養所課長,母子衛生課長同席で出席施設長全員と協議があった。「現在世論では,国立施設でこれら重障児を扱えという声が喧しいが,果して現在の国立療養所でこれらを世話できるであろうか。」これに対して施設長側よりの積極的意見は殆んどなかった。最後に,今すぐ引きうけ得ると答えられる施設がありますかという問に, A療養所のA所長が1人だけ手をあげた。A所長は上京するとき職員代表より,どんな患者でも引き受けるから必らず手を挙げてくれる様に依頼されたのだという。△257
 このあと各々の施設長は施設に帰って,重障児施設を引きうけるかどうか決定を迫られたわけである。長良荘では病棟の敷地,設備内容,医師,看護婦その他の人的資源将来像などについて検討,引きうけるべきかどうかについて悩むのであるが,びわこ学園などを見学,岡崎園長に会い,話をきき,引きうける以外に長良荘の生きる道はないという結論に達し,地方医務局に申し出るのである。
 九州地区では再春荘の小清水荘長の資料を紹介する。昭和41年重症心身障害児収容施設を設置するにあたって,九州地区では福岡東病院と再春荘にその白羽の矢がたてられ,地方医務局より設置の要請を受けた。当時福岡東病院はl,OOO名以上,再春荘においても800名近い結核患者を収容しており,これら多数の結核患者と共に全く異質のものといえる重障児を同時収容することには,少なからず躊躇せざるを得ない状態であった。おそらく感染に対しても極めて抵抗力が弱いであろうこの子供達を収容することともなれば,余程の良い条件下,態勢下でなければうまく行かないのではなかろうかと考え,地方医務局とも再三話し合った。再春荘の意見は充分内容の整った設傭九州地区は夏期は特に暑い地区でもあり冷房の設備の必要性や,また職員の定員は患者1人に対し1.5乃至2名であるとのこと,少なくとも1 : 1の必要性を要望したものであったが,到底叶えられそうにもなかったので初めは辞退した。しかしこれは重障児を収容するというそのことを嫌ったものではなく,引き受けても充分なことができない限り却って申し訳ないと考えたからに外ならない。福岡東病院においても辞退したようであるが,思うにみな同様な考えからではなかったろうか。当時福岡東病院の梅本三之陵助は九州地方医務局の医療専門官を兼務していたので,片や勧告すべき立場であり,片や辞退したい立場であり,板挟みとなり,さぞかし困却したであろうと思われた。この様なわけで当初昭和41年度の整備計画から九州地区は外△258 された。さらに成瀬の資料によると,「11月26日松本楼で本省主催の施設個別折衝があった。ここで国立療養所課,整備課より受け入れの可能性について質問を受けた。昭和41年1月6日の夕刊によると,大蔵省原案で重障児施設は全国に3箇所と発表。13日夕,7時のニュースで全国11箇所に決定と再発表があり,14日に決定の報を受けた」と述べている。
 かくして昭和41年度の整備予算がつき昭和42年2月頃より患者収容を開始,その後毎年施設整備がなされ,その後毎年施設整備がなされ,昭和49年度までに76施設7,520床の整備が行われた。その年度別整備状況は表に示す通りである。(本節末)

 2. 療育
 医療機関である国立療養所に重症心身障害児の委託ベッドがおかれて,今までにはまなかったいわゆわゆる療育という問題が起ってきた。つまり医療のみでなく生活指導,訓練などを行わなければならないことになったのである。人間の発達には,肉体的にも精神的にも年齢による限界があり,障害児であればことに早期に教育と訓練をしなければ効果をあげ得ないものである。しかるに現在入所しているものは決して低年齢のみではなく,かつ年々加齢して行くのである。ここに生活指導が効果をあげ得ない一つの理由がある。また比較的年長になって,拘縮が高度になってしまったものについては理学療法による治療は困難であり,脳性麻痺にたいする適確な薬物治療もないのであるが,現在入所しているものにはこうした例が多いのである。
 現在の入所基準は昭和41年5月に出されたものであり,それ以前のものは廃止になった。そうして「障害の程度,家庭の状況等を勘案して児童相談所において入所を必要と判定した重症心身障害児(者)であること」となっているが,児童相談所においての判定の基準として,昭和38年7月の通達がまだ残っている現状である。こうした理由から,現在の重障児施設にはいわば掃きだめの様にいろいろの種類と程度の障害児が△259 収容されている状態である。定義どうりの重症心身障害児の中には,教育訓練による発達効果を期待できないものもあるが,現在の様に障害の種類も障害程度もいろいろである,いわゆる重症心身障害児を収容している状況下においては,生活指導教育,訓練というものがかなり大きな役割を持つことになる。一方国立療養所重症心身障害児病棟における指導,訓練関係の職員構成は次のとおりである。

職名  病床数 40 80 120
児童指導員   1 1 2
保母      2 3 5
理学療法士   1 2 3

 この人数では,すべての入所している障害児にたいして充分な療育はでき難いといえよう。43年の施設長会議における指示事頂には「障害児の生活指導は障害児に接触する全職員がこれに関係するのが当然であるが,特に児童指導員,保母,心理判定員,ケースワーカーがこの任にあたることになる」と述ぺられているが,現状では実効をあげるには甚だ困難である。重症心身障害児施設が,単なる救護的のものでなく,収容された障害児の心身を発達させて行くようなものでなければならず,改善すべき点が多いというべきである。そうした一つの試みを行った代表的な施設の経過をみてみよう。一施設は療育の任にあたる児童指導尊員,保母等を組織的にはっきりと責任をもたせた西多賀病院であり,もう一つは重障児の療育は,児童指導員,保母が主に行うものと,病棟の人員配置を思い切って傾斜配置を行った長良荘(現長良病院)である。

 1)西多賀病院の場合
 国の施策としての重障児収容弟1期として,昭和42年3月に西多賀病△260 院に重障児病棟が開棟した時点において,単に重障児の生命保持だけでなくその生活そのものを保障してゆくべく,院内独自に指導部を設けた。看護助手も婦長配下でなく,療育員と呼び,広く,重障児の世話をしたいという若い人々が集ってきた。人員構成からいっても病棟内においては看護部門より多く,夜勤体制も看護部門職員1名と指導部職員1名とが組む体制をとった。この指導部門の責任者は指導員であり,その下に保母――療育員という命令系統であり,病棟内においては医療,看護生活指導の3本柱による協議によって運営されてゆく方法をとった。指導部長は始め院長が兼務したが,現在は副院長が兼務している。保母の有資格者も,療育員の中に多数存在し,重障児の発達保障が充分に行い得る体制であり,重障児病棟のあり方と方向性を示したものと注目を集めたが, 3, 4年後,全国的な2・8間題ともからんで,療育員は看護助手として看護部門に配置換えせざるを得なくなった。しかし指導部という組織は今なお続いている。また西多賀病院における指導部とは,単に病棟における生活指導のみでなく,こうした子供達を収容した施設が当然負わなければならない社会の福祉,教育のあり方の啓蒙への大きな役割を専門に業務として行っている。最盛期には,年間延べ6,000人という実習,研修,奉仕,見学者等の受け入れを,その計画のもとに行い,現在においても年間延べ数千人の指導等に当っている。
 2) 長良病院の場合
 「重心病棟看護要員傾斜配置に関して」という題で長良病院長古田富久より原稿が寄せられた。以下原文のまま引用する。
 「長良病院が重心児収容を開始したのは昭和42年2月であり,昭和48年1月に120床がほぽ満床になった。その間,次の諸点が問題として浮び上って来た。
(1)当初比較的重症児が入院したが,入院後の療育により軽症化した。△261
(2)最近の入院児は当初よりー般に軽症化した。
(3)以上がいわゆる「動く重障児」問題として新たな対策の必要性を生じた。
(4)保護者より教育(学籍を含む)の要望が出されて来た。
(5)これらのことは児童福祉法が目的としている治療,日常生活の指導のうち,後者を大幅に必要とする患児の増加を意味する。
(6)今後,法が規定する目的を達するためには,動く重障児に適応し二病棟運営を行い,日常生活指導を重点として管理する必要が生じた。

 研究病棟運営の構想
 看護単位を2箇病棟合せ1単位とする。内1箇病棟を研究挽病棟として看護婦2〜3名を配置し,それ以外は指導員,保母,看護助手(保母有資格者)とし,指導,保育面を充実させる。研究病棟については保母,看護助手も夜勤を行い,看護婦は同一単位病棟より巡回を行う。
 実施について
 一斉切換の混乱を避けるため,保母,看護助手に順次3交替物務を習熟させ完全移行を行う。その時点では次表の如き配直になる。

区分   手術中在 外来 結核 筋ジス 白T 日U 白V 計
看護婦  (2)  (2)  (8)  (15)  (10)  (14)  (63)
     2   2   8   15   16   4    63
保母  ――  ―― ――  (3)  (3)  (4)  (4)  (15)
看護助手 ――  (2)  (1)  (2)  (2)  (3)  (2)  (12)
     ――  2  1  2  2  2  3  2  12
計  (2)  (4)  (9)  (18)  (20)  (17)  (20)  (90)
    2   4   9   17   18   19   21   90
(註)1.保母資格を有する看護助手はすべて保母とした。(  )内は旧配置
   2.白T,日U,白Vは重心病棟の名称である。

 実験的運営の成果と反省
 1箇年間の経験より委員会を構成し,その成果と反省を総括した。利点欠点を要約すれば次の如くになる。
(1)指導員,保母の自主性の確立。
(2)子供の個性をのばす努力がなされた。
(3)教育について内容形態共に発展した。
(4)指導員,保母共に専門職としての目覚が出て来た。
(5)傾斜配置は医療上問題はない
(6)最重症病棟が子供中心の療育より外れがちになる。
(7)夜間2〜3名の看護婦が80名の子供の責任を負う形態を続けるのは精神的肉体的に無理がある。
 結論
 病棟内にての以上のような実験的運営は,それなりの努力と成果が認められたが,病棟という医療法上の制約の下では,最初予想さえできなかった変化を示す重心児に対応不能になって来たのと,重心児対策は施設収容が唯一の方法ではなく,在宅下に地域社会全体が取り組んでゆくのでなければ,1病院の運営上の努力だけではどうにもならない時点に来ていることが痛感され,今後は在宅間題との関連で病棟連営がなされるべきと思う。」

 3. 重症心身障害協議会
 国立療養所に重症心身障害児病棟をおくことがきまった時,その予定された国立療養所の間で「その適正な管理,運営および研究を図るために必要事項について相互に協議し,改善を計るほか,関係機関への連絡,交渉等をなし,国立療育施設として完全かつ円滑なる任務の遂行を期すること」を目的に,昭和41年5月に重症心身障害児(者)収容施設協議会なるものを設立し,以来その目的のために活発な活動を続け△263 てきている。日本における重症心身障害児施設の歴史はあさく,その管理,運営などについては不明のことが多く,解決しなければならない問題が山積しているといえる。一方当時の日本における重症心身障章害児ベッド計画は,国立施設に10,431床,公立,法人施設として6,069床となっており,重症心身障害に関する諸問題の解決について,国立療養所が主流的立場におかれている関係上,これらの問題に対する解明,改善に動かなければならないのであった。こうしたことから,児童家庭局の委嘱による異常行動研究班に委員を送るなど,対外活動も行っている。施設の建物,設備職員構腐その運営,管理に関して,この協議会がたゆまず改善努力をつずけてきた結果,国立療養所における重症心身障害児施設の内容は年とともに向上してきたものといえる。会長として,下志津病院長,山梨清楽荘長,足利療養所長,長良病院長などがその任にあたってきた。
 この会の目的にもあるとおり,研究方面の総括がされてきたことは勿論であるが, 49年になって国立療養所課の慫慂により,重症心身障害研究会を別に設けることになり,活動目的の大きな部分が削られれた感がなきにしもあらずであるが,今後の活躍を期待したい。

 4.研究
 すでに述べたごとく昭和42年に国立療養所の重症心身障害害児児病棟が開設されたが,その年仙台で行われた国立病院療養所総合医学会に12題の報告が行われている。重症心身障害関係の研究,調査報儀告などは,この第22回総合医学会ではリハビリテーション分科会において,第23回以革は重心・筋ジス分科会においてとりあげられるようになった。
 重症心身障害児施設では,医療のみならず,生活指導,保育などが行われている関係上,その研究報告などはかなり多岐にわたり,看護部部門と生活指導部門との交錯するものがあったり,また報告された分科会△264も,小児科,重心・筋ジス,看護,臨床検査,薬学などにわたっているため,すべてを総括することは困難であるが,重心・筋ジス分科会を中心に過去8年間に報告されたもので,国立療養所関係の出題数を纏めると次表の如くである。
 区分 医療部門 指導部門 その他
 第22回  5   2   5
 第23回  14   11   2
 第24回  20   11   5
 第25回  22   16   6
 第26回  25   21   6
 第27回  38   21   6
 第28回  32   36   7
 第29回  44   34   12
 […]

 また,西多賀病院副院長湊治郎は施設のあり方について寄稿したが,現在のようなすっかりでき上ってしまった重障児収容中心の考え方から,幼弱脳障害児の治療に積極的に参加すべきことを説いている。そして国立の重心施設との差が次第になくなりつつある現在の肢体不自由児施設との協力態勢をとっていくことが,今後の課題となるであろうと述べている。以下湊の文章をそのまま引用することによりこの稿を終りたいと思う。
 「重症心身障害児の原因の70%以上を占めると考えられる脳性麻痺にしても,また代謝異常,染色体異常などと呼ばれている疾患も,医学が今程度の発達具合では,そう急に減少するものとは考えられない。現に脳性麻薄だけを取り上げて乙1, 000の出産に対し2人位の割で次々△269 と生れてくるものであり,日本中で年間200万の出産があるとすれぱ,4, OOO人の脳性麻簿患者が生れることになる。その4分の1が重度の障害をもつとすると,年間1,000人ずつ重症心身障害児の数がふえてゆくことになる。従って,現在のように,地域の要求があれば,次々に施設をふやして収容してゆくといった収容中心のやり方では,いくら施設をふやしても不足する結果になる。生命に対し適切な医学的処置がなされている現代ではなおさらで,施設はいくら作っても際限がない。
 患者の年齢も年ごとに大きくなり,介護に要する労力は益々嵩み,要する経費も莫大なものになってゆく。
 そこで,国立重症心身障害児収容施設の将来像として,まず,第1番に考えなければならないことは,収容中心の考え方からの脱皮であると思う。では,収容に代えて何を行ったらよいかということになるが,それは幼弱脳障害児の治療に積極的に参加することであると思う。別の言葉を言うと,少し乱暴な言い方だが,『でき上ってしまった重症心身障害児を集めて苦労するよりも,未だ重症心身障害児になっていない子供たちを,そうならないように治療する療養所に変れ』ということとである。
 そして,実はこれは日本では未だ余り誰もが手をつけていない新しい分野であるとともに,極めて効果の期待できる魅力ある分野だと思う。
 最近,脳性麻痔の治療に,超早期療法という考え方が提唱され,ボバース法をはじめ,いくつかの万法が紹介され,極く一部の肢体不自由児施設ではすでに実施され,優れた効果をあげている。超早期療法というと極めて目新しい印象を与えるが,要するに『脳障害は,できるかぎり幼ないうちに訓練・治療をすれば著しい効果があるが,反面,大きくなってからでは極めて効果が薄い』ということで,『脳障害児は,できるだけ早く治療せよ』という主旨である。△270
 目常,私たちが病棟で重症心身障害児を見,また,親からその成長発育の過程を聞き糺して痛切に感ずることは,重症心身障害児の多くのものが,はじめから重症の心身障害児ではなくて,成長発達の途中で,正しい取り扱い(育児と言ってもよい)がなされなかったため,とうとう重症心身障害児になってしまったのだという印象を強く受けることである。つまり,今私たちが診ている重障児も,もしも,もっと幼い時期に親たちに正しい取扱いが教えられ,正しい管理がなされていたら,全く健康な子供とは言えないまでも,今では想像もできない程自分で何かができ,他と意志を通ずることのできる子供になっていた筈だということである。これを夢物語と思うむきもあると思うが,すでに超早期療法・実施した人たちの報告もそれを証明しているし,私たちの短い期間だが,幼い心身障害児の外来患者の経験でもこれは言うことができる。
 とはいえ,収容中心の現施設を急に治療中心の療養所に切り替えることはそう容易なことではない。何よりも職員の教育が必要である。特に医師の教育が必要なのだが,その数が徹底的に不足している療養所の多い現在では,専任の医師が重症心身障害児にかかりきりになることは容易なことではない。そこで,それの可能ないくつかの療養所をえらび,まず,医師,次いでPT,看護婦などに,幼弱脳障害児の訓練の知識技術を習得させることである。また,この際児童指導員,保母たちは幼鬼兇の知能訓練プログラムの実施計画者として極めて重要な役割を果すことになるので,現在問題になっているその仕事の内容身分などを明確にする上でも優利になる。
 では,どこでこうした技術,知識を習得し得るかということになると日本の現状ではまた問題が多少残る。しかし,幸い各県にある肢体不自由児施設では,最近,急速にこうした超早期療法に対する関心が高まりつつあるので,差当り,これらの施設と連携を深めることが必要になっ△271 てくる。
 すでに知られているように,最近肢体不自由児施設自身,収容患者の内容が変化しており,従来のポリオその他中心から脳性麻簿中心になり,しかも重度で幼弱な患者の占める比率が年々増加する傾向にある。このことは,国立療養所の重症心身障害児病棟との差が次第に無くなりつあるということである。さらに昭和54年度から実施される重障児の教育の完全実施などという問題を考えると,現存する肢体不自由児施設と,国立療養所の重症心身障害児病棟の協力体制は,今後極めて重要な課題になるものと思う。」
      (西多賀病院院長 保坂武雄, 同院 阿部幸泰

(寄稿原稿)
重心病棟看護要員傾斜配置に関して…………吉田富久(長良病院)
重症心身障害児収容施設今後のあり方………湊治郎(西多賀病院)
重症心身障児(者)……………………………小田島正夫(釜石療養所)
 〃       ……………………………石井良平(静岡東病院)
重心児病棟創立時のこどもども………………成瀬昇(長良病院)
重心,筋ジス……………………………………篠田実(八雲病院)
重症心身障害児…………………………………久保宗人(村松晴嵐誠荘)
(参考資料)
重症心身障害児…………………………………小清水忠夫(再春荘)△272

重症心身障害児(者)病床施設別設置状況 pp.273-275
都道府県・施設別 年度基盤別整備状況 昭和41年度〜49年度
昭和41年度合計:480 → 49年度:7,520

◆湊治郎・浅倉次男 1976 「進行性筋萎縮症児(者)の医療」,国立療養所史研究会編[1976a:276-297]
※国立療養所史研究会編 1976a 『国立療養所史(結核編)』、厚生省医務局国立療養所課、679p.

……

■研究

◆『総括篇』

 「新しい分野の医療をはじめる上に、医師をはじめとして医療従事者者の研究活動は、きわめて重要問題である。このことは、重症心身障害児児の医療においても例外ではない。このための医療開始と同時に、重症心身障害児の発生予防の面をふくめて治療、看護、栄養、生活指導等に関する研究が行われ、その療育の改善に役立っている。すなわち、昭和42年度に42万9,000円の研究費が国立養療所で初めて予算化された。その後、昭和43年には国立療養所重症心身障害共同研究班班が編成され、「重症心身障害の成因と病態生理」等の研究が行われ、昭和44年度度からは厚生省の特別研究「脳性麻ひの成因に関する研究」の一部をこの共同研究班が分担して研究を行ってきた。昭和46年度には、この特別研究費は、児童家庭局で心身障害研究費に発展的解消され、大型化し、他方に国立療養所の特別会計に新規に重症心身障害に閏する特別研究費が584万9,000円つけられ、その研究の推進がはかられた。国国立療養所の共同研究班による研究はその後大きく発展し、その行う研究内容も病因に▽479 する研究から、看護栄養とその療育全般にわたって行われており、昭和49年度には1,500万円におよぷ研究費が児童家庭局の科学研究費の内からこの研究班に出されている。/また、国立療養所に入所している患児の実態を調べ、療育内容の改善をはかっていくため、昭和44年度から毎年、重症心身障害患者調査を行っている。」(1976c)
 ↓
 「新しい分野の医療をはじめる上に、医師をはじめとして医療従事者者の研究活動は、きわめて重要問題である。このことは、重症心身障害児児の医療においても例外ではない。このための医療開始と同時に、重症心身障害児の発生予防の面をふくめて治療、看護、栄養、生活指導等に関する研究が行われ、その療育の改善に役立っている。すなわち、昭和四二年度に四二万九〇〇〇円の研究費が国立養療所で初めて予算化された。その後、昭和四三年には国立療養所重症心身障害共同研究班班が編成され、「重症心身障害の成因と病態生理」等の研究が行われ、昭和44年度度からは厚生省の特別研究「脳性麻ひの成因に関する研究」の一部をこの共同研究班が分担して研究を行ってきた。昭和四六年度には、この特別研究費は、児童家庭局で心身障害研究費に発展的解消され、大型化し、他方に国立療養所の特別会計に新規に重症心身障害に閏する特別研究費が五八四万九〇〇〇円つけられ、その研究の推進がはかられた。国国立療養所の共同研究班による研究はその後大きく発展し、その行う研究内容も病因に▽479 する研究から、看護栄養とその療育全般にわたって行われており、昭和四九年度には一五〇〇万円におよぷ研究費が児童家庭局の科学研究費の内からこの研究班に出されている。/また、国立療養所に入所している患児の実態を調べ、療育内容の改善をはかっていくため、昭和四四年度から毎年、重症心身障害患者調査を行っている。」(1976c:478-479)

◆『結核篇』

「4.研究
 すでに述べたごとく昭和42年に国立療養所の重症心身障害害児児病棟が開設されたが,その年仙台で行われた国立病院療養所総合医学会に12題の報告が行われている。重症心身障害関係の研究,調査報儀告などは,この第22回総合医学会ではリハビリテーション分科会において,第23回以革は重心・筋ジス分科会においてとりあげられるようになった。
 重症心身障害児施設では,医療のみならず,生活指導,保育などが行われている関係上,その研究報告などはかなり多岐にわたり,看護部部門と生活指導部門との交錯するものがあったり,また報告された分科会△264も,小児科,重心・筋ジス,看護,臨床検査,薬学などにわたっているため,すべてを総括することは困難であるが,重心・筋ジス分科会を中心に過去8年間に報告されたもので,国立療養所関係の出題数を纏めると次表の如くである。
 区分 医療部門 指導部門 その他
 第22回  5   2   5
 第23回  14   11   2
 第24回  20   11   5
 第25回  22   16   6
 第26回  25   21   6
 第27回  38   21   6
 第28回  32   36   7
 第29回  44   34   12
 […]

 また,西多賀病院副院長湊治郎は施設のあり方について寄稿したが,現在のようなすっかりでき上ってしまった重障児収容中心の考え方から,幼弱脳障害児の治療に積極的に参加すべきことを説いている。そして国立の重心施設との差が次第になくなりつつある現在の肢体不自由児施設との協力態勢をとっていくことが,今後の課題となるであろうと述べている。以下湊の文章をそのまま引用することによりこの稿を終りたいと思う。
 「重症心身障害児の原因の70%以上を占めると考えられる脳性麻痺にしても,また代謝異常,染色体異常などと呼ばれている疾患も,医学が今程度の発達具合では,そう急に減少するものとは考えられない。現に脳性麻薄だけを取り上げて乙1, 000の出産に対し2人位の割で次々△269 と生れてくるものであり,日本中で年間200万の出産があるとすれぱ,4, OOO人の脳性麻簿患者が生れることになる。その4分の1が重度の障害をもつとすると,年間1,000人ずつ重症心身障害児の数がふえてゆくことになる。従って,現在のように,地域の要求があれば,次々に施設をふやして収容してゆくといった収容中心のやり方では,いくら施設をふやしても不足する結果になる。生命に対し適切な医学的処置がなされている現代ではなおさらで,施設はいくら作っても際限がない。
 患者の年齢も年ごとに大きくなり,介護に要する労力は益々嵩み,要する経費も莫大なものになってゆく。
 そこで,国立重症心身障害児収容施設の将来像として,まず,第1番に考えなければならないことは,収容中心の考え方からの脱皮であると思う。では,収容に代えて何を行ったらよいかということになるが,それは幼弱脳障害児の治療に積極的に参加することであると思う。別の言葉を言うと,少し乱暴な言い方だが,『でき上ってしまった重症心身障害児を集めて苦労するよりも,未だ重症心身障害児になっていない子供たちを,そうならないように治療する療養所に変れ』ということとである。
 そして,実はこれは日本では未だ余り誰もが手をつけていない新しい分野であるとともに,極めて効果の期待できる魅力ある分野だと思う。
 最近,脳性麻痔の治療に,超早期療法という考え方が提唱され,ボバース法をはじめ,いくつかの万法が紹介され,極く一部の肢体不自由児施設ではすでに実施され,優れた効果をあげている。超早期療法というと極めて目新しい印象を与えるが,要するに『脳障害は,できるかぎり幼ないうちに訓練・治療をすれば著しい効果があるが,反面,大きくなってからでは極めて効果が薄い』ということで,『脳障害児は,できるだけ早く治療せよ』という主旨である。△270
 目常,私たちが病棟で重症心身障害児を見,また,親からその成長発育の過程を聞き糺して痛切に感ずることは,重症心身障害児の多くのものが,はじめから重症の心身障害児ではなくて,成長発達の途中で,正しい取り扱い(育児と言ってもよい)がなされなかったため,とうとう重症心身障害児になってしまったのだという印象を強く受けることである。つまり,今私たちが診ている重障児も,もしも,もっと幼い時期に親たちに正しい取扱いが教えられ,正しい管理がなされていたら,全く健康な子供とは言えないまでも,今では想像もできない程自分で何かができ,他と意志を通ずることのできる子供になっていた筈だということである。これを夢物語と思うむきもあると思うが,すでに超早期療法・実施した人たちの報告もそれを証明しているし,私たちの短い期間だが,幼い心身障害児の外来患者の経験でもこれは言うことができる。
 とはいえ,収容中心の現施設を急に治療中心の療養所に切り替えることはそう容易なことではない。何よりも職員の教育が必要である。特に医師の教育が必要なのだが,その数が徹底的に不足している療養所の多い現在では,専任の医師が重症心身障害児にかかりきりになることは容易なことではない。そこで,それの可能ないくつかの療養所をえらび,まず,医師,次いでPT,看護婦などに,幼弱脳障害児の訓練の知識技術を習得させることである。また,この際児童指導員,保母たちは幼鬼兇の知能訓練プログラムの実施計画者として極めて重要な役割を果すことになるので,現在問題になっているその仕事の内容身分などを明確にする上でも優利になる。
 では,どこでこうした技術,知識を習得し得るかということになると日本の現状ではまた問題が多少残る。しかし,幸い各県にある肢体不自由児施設では,最近,急速にこうした超早期療法に対する関心が高まりつつあるので,差当り,これらの施設と連携を深めることが必要になっ△271 てくる。
 すでに知られているように,最近肢体不自由児施設自身,収容患者の内容が変化しており,従来のポリオその他中心から脳性麻簿中心になり,しかも重度で幼弱な患者の占める比率が年々増加する傾向にある。このことは,国立療養所の重症心身障害児病棟との差が次第に無くなりつあるということである。さらに昭和54年度から実施される重障児の教育の完全実施などという問題を考えると,現存する肢体不自由児施設と,国立療養所の重症心身障害児病棟の協力体制は,今後極めて重要な課題になるものと思う。」
      (西多賀病院院長 保坂武雄, 同院 阿部幸泰」

■文献

◆全国重症心身障害児(者)を守る会 編 19830905 『この子たちは生きている――重い障害の子と共に』,ぶどう社,230p. ASIN: B000J77FI4 [amazon] ※ j01.
◆全国重症心身障害児(者)を守る会編 19930312 『いのちを問う』,中央法規出版, 161p.,ISBN-10: 4805810645 ISBN-13: 978-4805810644 1993 [amazon] ※ d01 t02 j01.

◆日浦 美智江 1996/06/01 『朋はみんなの青春ステージ――重症心身障害の人たちの地域生活を創る』,ぶどう社,150p. ISBN-10:4892401242 ISBN-13:978-4892401244 \1631 [amazon][kinokuniya]

◆本間 肇 20020325 「重症心身障害児(者)の歩み」,川上編[2002:466-516]*
*川上 武 編 20020325 『戦後日本病人史』,農村漁村文化協会,804+13p. ASIN: 4540001698 12000 [amazon] ※ h01.
 ※
堀田義太郎による紹介
 ※一部に府中療育センター批判あり

秋元 波留夫 200206 『新・未来のための回想』,創造出版,328p. ISBN-10: 4881582720 ISBN-13: 978-4881582725 [amazon][kinokuniya] ※

 「わが国に独特な用語に「重症心身障害」というものがある。これは精神障害(おもに知恵おくれ)と身体障害(おもに運動麻痺=まひ)の二重の障害をかねた状態をいい、医学的には原因を異にするさまざまな疾患がそのうちに含まれている。このいわゆる“重心”については国の特別な配慮が払われ、全国に数千床に及ぶ医療費公費負担のベットが用意されている。
 このこと自体は結構なことに違いないが、この基準に合致しない、知恵おくれの人たち、つまり運動麻痺はないが、情緒障害があり、動きがはげしく行動の制御が乏しいなどの、障害をもっている人たちはこの“恩恵”に浴することができない。それらの人たちは重度精神薄弱ということで、福祉施設が療育をひきうける建前になっている。しかし福祉施設では医療スタッフを欠くところが多いし、その多くが人手不足で難渋している状況ではこの建前を実行することは、しょせん無理な話である。」(pp135-6)

大谷 藤郎 2009 『ひかりの軌跡――ハンセン病・精神障害とわが師わが友』、メジカルフレンド社 ※

◇立岩 真也 2014/11/01 「精神医療現代史へ・追記8――連載 105」『現代思想』41-(2014-11):8-19

 「☆03 自身の関わりも含むらい予防法廃止の経緯については大谷[1996]等。また大谷[2009]は小林提樹、武見太郎…他、多くの人たちとの関わりについて記されている。九二年までの厚生大臣以下の役職者(とくに初期は非常に少ない)・国家上級職試験採用者一覧は水巻[1993]にある。ただし技官については記されていない。」

◆立岩 真也 2013/12/01 「『造反有理』はでたが、病院化の謎は残る――連載 96」『現代思想』41-(2013-12):-

 「家族会が施設作りに熱心になるのはよくあってきたことであり、まったく不思議なことではない。例えば「重症心身障害児(重心)施設」については、親たちが熱心に運動し、それに理解を示した少数の医療者がおり、政治に訴え、メディアの介在もあって、一九六〇年代に制度化がなされるといった経緯を辿る。それは身体障害、知的障害全般について言える。それが身体の関係ではようやく七〇年代初頭に法的・全国的なかたちでは身体障害者療護施設といったかたちで実現し、実現するのと同時期に本人(たちのごく一部)から批判が始まるのだった(立岩[1990])。それが「精神」の領域でどうであってきたか。」


■島田療育園

◆島田療護園 1963 『島田療護園の歩み No.1』,社会福祉法人日本心身障害児協会付属島田療護園

◆島田療護園 1969 『島田療護園の歩み No.2――1963〜1965』,社会福祉法人日本心身障害児協会付属島田療護園,143p.

◆島田療護園 1969 『島田療護園の歩み No.3――1967〜1968』,社会福祉法人日本心身障害児協会付属島田療護園,116p.

◆島田療護園職員労働組合 82 「重症心身障害児施設・島田療護園でなにが起こったのか」,『福祉労働』14:111-117

◆石田 圭二 1982 「重度障害者は意志なき人間か――島田療護園その後」,『福祉労働』16:103-109

◆荘田 智彦 19830420 『同行者たち――「重症児施設」島田療護園の二十年』,千書房,382p. 1600 ※ ** d

◆荘田 智彦 19883 「いっそ,重症施設と名前をかえたら!?」,『福祉労働』20:24-34

◆廣野 俊輔 200902 「1960年代後半における『青い芝の会』の活動――実態と意義をめぐって」,社会福祉学』49-4:pp.104-116.

 「重度障害児(者)が充分な支援を受けられていないということは,専門家によっても訴えられた.その中心となったのは,医師の小林是樹である.小林は,1950年代後半から,児童福祉法によっては充分に援助できない障害児が存在することを訴えてきた.小埜寺(2000:154)によれば,これらの児童は小林によって1958年「重症心身障害児」と名付けられた.小林は,重症心身障害児を療育する施設として島田療育園を創設する. 」

◆日本心身障害児協会島田療育センター 編 20030625 『愛はすべてをおおう――小林提樹と島田療育園の誕生』,中央法規出版,246p. ISBN-10:4805823682 ISBN-13:978-4805823682 2625 [amazon][kinokuniya] ※ j01.

◆小沢 浩 20110408 『愛することからはじめよう――小林提樹と島田療育園の歩み』,大月書店,283p. ISBN-10: 427236068X ISBN-13: 978-4272360680 1600+ [amazon][kinokuniya] ※ j01.

窪田 好恵 201403 「重症心身障害児施設の黎明期――島田療育園の創設と法制化」,『Core Ethics』10:73-83 [PDF]

窪田 好恵 2015 「全国重症心身障害児(者)を守る会の発足と活動の背景」,『Core Ethics』11:59-70 [PDF]

◆立岩真也・杉田俊介 2017/01/05 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』青土社,260p. ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 1944 [amazon][kinokuniya] ※

■府中療育センター →府中療育センター闘争

白木 博次(1917/10/22〜2004/02/19 医師)

川村 佐和子・木下 安子・山手 茂 編 19750425 『難病患者とともに』,亜紀書房,259p. ASIN: B000J9OGWK [amazon] ※ n02. j01.

U 医療福祉の組織と実践
 1 東京都の難病問題と難病対策 中島 初恵 62-75
 「府中療育センターは、昭和四三年、重い心身障害をもつ児童および成人を収容する施設として発足した。その内容は、衛生局担当の重症心身障害児(者)のための二〇〇床、民生局担当の重度精神薄弱児のための五〇床、重度精神薄弱者のための五〇床、重度身体障害者のための一〇〇床である。このように、さまざまな重い障害をもつ児童・成人を対象としているため、施設の運営において多くの問題が生じた。昭和四三年暮に、美濃部都知事は療育センターを視察し、センターを終生の収容施設とみなすのは不適当であり再検討を要すること、少なくとも重度関係は早急に分けるべきこと、を指摘した。このような指摘に基づいて、療育センターのありかたについての検討が活発に始められた。この検討と併行して、神経病院の設立準備および心身障害総合研究所(仮称)の設立準備のための検討が進められた。こうして、先天的または周産期の原因による重症・重度心身障害児を対象とする府中療育センター、後天的要因による神経疾患(心身障害)患者の対象とする神経病院、およびこれらの対象者の疾患・障害の基礎的研究や予防・治療・リハビリテーション・看護・福祉のための応用的研究を行なう研究所、の三施設が同じキャンパスにおいて密接な協力関係を保つことができるよう計画が立てられ、逐次実現されつつある。」(中島[1975:68])

■社会福祉法人 全国重症心身障害児(者)を守る会
 Social Welfare Foundations, Nationwide Association for Children (Persons) with Severe Physical and Intellectual Disabilities
 http://www.normanet.ne.jp/~ww100092/


■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:20141224 REV:20141225, 26, 20150219, 21, 0506, 0625, 20180526, 1003
施設/脱施設  ◇病者障害者運動史研究  ◇身体の現代:歴史 
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