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『愛することからはじめよう――小林提樹と島田療育園の歩み』

小沢 浩 20110408 大月書店,283p.

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last update:20160116

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■小沢 浩 20110408 『愛することからはじめよう――小林提樹と島田療育園の歩み』,大月書店,283p. ISBN-10: 427236068X ISBN-13: 978-4272360680 1600+ [amazon][kinokuniya] ※

■著者

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

小沢/浩
静岡県に生まれる。天城湯ヶ島町立湯ヶ島小学校、天城中学校、静岡県立韮山高等学校、高知医科大学医学部(現・高知大学医学部)を経て、現在、社会福祉法人日本心身障害児協会島田療育センターはちおうじ所長、小児科医師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

1章 芽ばえ
 信仰
 はじまり
 戦争
2章 蕾
 日赤産院
 戦い
 道程
3章 結実
 協力
 光と影
 そして

■目次

刊行によせて
           島田療育センター院長 木実谷 哲史

 平成七年九月に島田療育センターに赴任して強く感じたことは、島田療育園初代園長小林提樹先生の足跡がセンターのなかで語り継がれていないということであった。島田療育センターは昭和三六(一九六一)年五月に、日本で最初の重症心身障害児施設島田療育園こして誕生しており、私どもはその歩んできた道を後世に語り継いでいく義務があると考えている。
 私が赴任して間もなくのことであるが、小林提樹先生顕彰委員会を立ち上げて先生を顕彰しようという話が持ち上がった。小林先生にお世話になったと名乗りを上げた方々から、たちまちのうちに多額の寄付金が集まり、先生を顕彰するレリーフを作成することになった。現在、管理棟の正面玄関の小林先生のコーナーに掲示してある。そのコーナーには小△003 林先生の歩んでこられた年表も展示されている。レリーフの前には島田療育園の土地を寄付してくださった島田夫妻のご次男・良夫さんの像があり、島田の原点を知ることのできる場所となっている。
 レリーフ作成で残った寄付金の使い道は顕彰委員会から私に一任され、島田療育センターの誕生した経緯を残すべく『愛はすべてをおおう――小林提樹と島田療育園の誕生』を発刊するに至ったわけである。その出版にあたり、当時の育務科長・平川剛氏の命をかけた戦いは、本書第三節の「愛はすべてをおおう」の章に詳しい。平川氏は出版したばかりの本と病床で対面し、その二週間後に障害児療育一筋の生涯を終えた。
 本書『愛することからはじめよう』の著者である小沢浩氏は、平成一五年に東京都立八王子小児病院を辞し、当センターに赴任した。小沢氏は重症心身障害児療育の世界では名前を知らない人がいないくらい有名な医師であるが、島田療育センターの歩んできた道、こくに小林先生の生きざまに強い衝撃を受けた。松本市での講演依頼をきっかけとして小林先生の歩んでこられた障害児に対する愛情とその行動力を知れば知るほど、そこから受ける感動はますます大きいものとなり、その後も多くの場所で講演等を通して小林先生と島田療育園を語り継いでくれている。△004
 この本を上梓するにあたり、小沢氏は今まで島田療育センターにかかわってきた多くの人たちに直接会って、事実を確認しながら筆を進めてきた。その熱意と行動力には心から敬服している。障害児に対する医療・療育に対しては、小沢氏も小林先生に負けないくらいの愛情と情熱の持ち主である。島田療育センターでも毎日障害児のために外来診療、入所利用者への対応、また地域への支援のために駆け回ってくれている。日頃から尊敬と感謝の気持ちを抱いている私としては、今回小林先生についてこのような感動の書を書き上げてくれたことに心から敬意を表したい。小沢浩君、ありがとう。

三章 結実
 一 協力 108

 「拝啓」は小沢[2011:118-138]、「拝復」は小沢[2011:139-149]に引用。

 「水上勉が投じた一石は、社会へ波紋を広げていった。それが大きなうねりとなり、政府さえも動かした。その結果、内閣官房長官黒金泰美が『中央公論』(一九六三年七月号)の紙上で返答するという前代未聞のこととなった。以下に、その返答を再録する。」([139])

 「黒金泰美は、『中央公論』からの原稿料をそのまま島田療育園に寄付してくれた。それは天井に取りつけられた二台の扇風機となって、暑い日に子どもたちに涼風を送ってくれた。みんなはこれに親しみをこめて「拝復扇風機」と呼び、大切にしたのであった。

 このニつの文章は、その後の障害児福祉の日本の流れを変えたといっても過言ではない。その後、秋山ちえ子、森繁久弥、伴淳三郎らにより、「あゆみの箱」献金がはじまった。また、翌年には遠矢善栄により、「おぎゃー献金」運動がはじめられた。みんなの想いが、世を動かしはじめた。それをきっかけに、後の総理大臣となる佐藤栄作夫人や官房△149長官や建設大臣などを歴任した橋本登美三郎夫人が、いろいろな形で寄付をしてくれた。

 父田の支え
 島田療育園の経営は相変わらず苦しかった。そのようななか、昭和三八年七月二六日厚生省より「重症心身障害児療育について」の次官通達が発せられた。これで初めて重症児も国の施策に乗ることができたのであったが、このときの重症児指導費は一日五五円六一銭と算定され、余りに少ない補助費に唖然としたものであった。
 毎年のことながら年末近くになると、息のつまるような予算対策運動が連日展開された。小林先生が先頭に立って重症児の父母たちが、文字通り足を棒にして連日朝から夜まで、担当官や議員、それに顔のきく方面にコネをたどって駆けずり回るのが、年末の風景であった。情勢不利が伝わったときには、水上勉氏へ早朝の寝込みを襲って、黒金官房長官への連絡を懇願する一幕もあった。結局、重症児指導費が一五〇円という増額になったが、まだまだ不十分であった。しかし、滋賀のびわこ学園が認可されて、ベッド数は二〇〇名余となり、わが国の重症児政策が一歩前進したことは確かであった。その後、秋津療育園も認可され、三施設で定床は約三〇〇になったが、実際の収容は三分のニにすぎなかった。△150
 びわこ学園は、社会に投げ出された戦災孤児や知的障害児のために一九四六年に近江学園を作った糸賀一雄が、重症心身障害児のために奔走し設立した施設である。一雄が残した「この子らを世の光に」という言葉は、世の中に障害児のあり方を問うた後生まで伝えられている代表的な一文である。
 秋津療育園は、裁判所の調停委員をしていた草野熊吉が、昭和三四年から借家に障害児を集め、夫婦で献身的に世話をしていた借家にそう名前をつけたものである。
 糸賀一雄、草野熊吉、形は違え、彼らは小林提樹とともに重症心身障害児のために時代を生きた戦友であった。」([149-151]

 二 光と影 154
  エンゼルベビー 154
 […]
 一九六三年(昭和三八年)一月一〇日、厚生省は島田療育園とびわこ学園をサリドマイド障害児の特別医療保護施設に指定した。島田療育園では、昭和三七年三月二五日よリサリドマイド障害児を受け入れ、二年余で計工六名が入園した。祖父母が島田療育園に子どもと母親を連れて押しかけ「こんな子どもは家の血筋にはいない。戸籍から消してくれ」△156 と玄関で叫び、泣きながら母親がわが子をひしと抱きしめる……そんなこともあった。
 提樹は、サリドマイド障害児の小さいかわいい手が天使の翼のようにみえたことから「エンゼルべビー」と名付けた。手が短いというだけで、大人は大騒ぎをしている。そのことは何も知らずにすやすやと眠っているエンゼルべビー。エンゼルべビーは人間のおろかさを身をもって我々に伝えてくれた天使であった。
 エンゼルべビーは当時の社会的関心を集めていたため、島田療育園もさらに注目されることとなっていった。

 あっちの空は光ってる
 エンゼルべビーや重症心身障害児のことが知られるにつれ、報道機関の取材や見学者が増えてきた。取材のたびに、よかれあしかれ何らかの反響があった。そのなかでTBSラジオの特集番組「あっちの空は光ってる」は、一時間という当時としては非常識ともいえる破格の時間をかけて放送された名作である。その年の民放祭に、見事入選という栄誉に輝いたことからもわかるように、大きな社会的反響を呼んだ。小さな波紋がだんだん広がりつつあるときに、突然大きな花火が打ち上げられたようなものであった。
 「あっちの空は光ってる」の制作スタッフの視線は、当初サリドマイド児の問題に注が△157 写真「エンゼルベビー、1963年(昭和38年)△158 れていた。ところが、その問題の調査を進めるうちにひとつの大きな壁にぶつかった。それが重症心身障害児の問題であった。障害児を抱えているがゆえに、家庭が陰惨となり、しばしば離婚、心中などの家庭悲劇が生まれている。重症心身障害の問題をこのまま放置していていいのだろうか。そのような思いから、主たるテーマを重症心身障害児に変更したのである。
 この番組は、約三力月にわたり島田療育園および提樹の全面的協力を得て取材、「国からの援助はなく、社会からは見捨てられているこれらの子どもたちの問題がこのままでいいのかと訴えながら、人間が人間であることをもう一度考えよう」というねらいで制作された。
 取材に当たっては、スタッフ四名が島田療育園に泊まり込むなどして、三〇分テープ六〇本、一五分テープニ〇本に録音した。番組は、奈良岡朋子の語りで進められ、園長小林提樹の主張、看護婦の話、入園児の声、両親の話、入園できない子どもたちの親たちの悩みなどが四〇分間の録音構成にまとめられた後、残り二〇分は、小林園長、構成者、担当プロデューサーの座談会が組まれていた。
 ラジオの内容をここに紹介する。△159

 番組の全記録 160-

 「正義 
 最初の一〇年は、誠に平和な、今から考えても、理想の世界に近かった。「公的扶助も十分ではなく貧しかったけれど、職員も障害児もそれに耐え楽しい生活を送っていた。福祉は、持ち物の豊かさに比例するものではないどころか、逆に反比例して不幸に陥ることさえある。日本の現状はまさにそれを証明しているようであるが」――提樹はそう回想している。また「子どもを育てるのには、まず育てるものの方が空腹であってはならない」と語っている。一方の側の犠牲のもとに、他方の側が幸せになるのは本当の幸せではない。物がなく貧しくとも、心が満たされていることが大切なのだ。心が満たされない、すなわち心が空腹になることが一番怖いことである。島田療育園は、貧しくても心が満たされた△247 ときが流れた。だが、その均衡が少しずつ崩れていった。
 昭和三〇年代、日本経済は高度経済成長のうねりのなか上昇傾向をたどり、企業の生産活動は高まり、人々の生活は豊かになっていった。昭和四〇年代に入ると、日本経済の成長とともに深刻な労働力不足から、労働条件の改善などを求め、労働組合運動が全国的にさかんになってきた。それは、福祉の世界も例外ではなかった。「子どもを育てるのには、まず育てるものの方が空腹であってはならない」という信念をもつ提樹は、職員のために組合ができるのは、むしろ賛成であった。そのため、昭和四七年に島田療育園においても組合ができた。
 物事は、最初は小さくともそれが徐々に大きくなり、うねりとなって轟音をとどろかすようになると、そのうねりを止めるのはとてつもなく困難になる。島田療育園においては、それが組合運動であった。職員不足のため、職員はどうしても過剰労働となってしまう。そのために、腰痛や体調不良をきたす職員が続出した。その職員が、待遇改善や補償を求める。この流れは、全国の療育施設にもみられた。島田療育園はその象徴的存在となった。提樹は、職員たちの待遇改善を何とか図ろうとした。でも、人手がない、お金がないとしう状況のなかでは、仕事を続けることをただ頼むしかなかった。善意や犠牲を前提にして作られたシステムは、永劫には続かない。職員のために、何とかしてあげたい気持ちはあっても、国の援助の少ないなか、人々の生活がどんどん豊かになっていくなか、限界は目にみえていた。
 提樹たちは幾度も交渉を重ね、自分の想いを伝えた。だが、その交渉には、内部の職員だけではなく、組合の交渉のプロが外からやってくるようになった。外部の人間にいくら想いを伝えても、何も響かない。「外部の人間は関係ないんだから出ていってくれ」と言うと、「あなたは、労働組合法を知っていますか。もっと勉強しなさい」と言われてしまう始末。確かにそれは労働組合法に守られた権利であった。子どもたちのためにすべてを捧げていた職員にとって、組合の交渉は思いもしないことであり、ましてや、労働組合法など知るよしもなかった。
 提樹をはじめとする幹部との徹夜の交渉が幾度となく続けられた。先のみえない夜通しの交渉は、提樹たちの体力、気力を消耗させていった。提樹は、組合の交渉で、帰りが遅くなるときには、いつも家の戸じまりをしっかりするようにと言い残してから、仕事に向かった。嫌がらせに対して、家族もまた神経質になっていた。提樹は、家ではあまり多くを語らなかった。美津江は、そんな提樹を支え子どもたちを守った。
 朝突然ストライキになり、職員が出てこないという事態もしばしば起こった。職員がいなくなり、一番困るのは入所している子どもたちなのは明白であった。そのときには、入△249 所している子どもたちの両親が率先して協力してくれた。府中の旅館に待機し、ストライキで職員がこないとわかると、運転手が迎えにくる。そしてオムツ交換、食事介助など、自分たちにできるすべてのことを子どもたちのためにしたのであった。提樹は「春闘と称する統一行動でストライキを実施するのは、社会福祉施設の性格を無視した行為である。生命も健康も福祉も守れない施設に陥ったのでは存在理由もあったものではない。第一に金、第二に人手、そして第三にはこの”反福祉”と、苦労したことのなかで、暴力は断じて許すべきではない」と述べている。
 さまざまな喧噪のなか、この騒動で一番被害を受けたのは子どもたちであった。子どもたちにとって、一番大切な人は、そばに寄り添って一緒に遊んでくれる人である。いくら正義をふりかざし、正論と信じていることを語ってもそれは子どもたちにとっては何も意味のないことである。本当の正義とは何であろうか。子どもたちのことを思い、組合の混乱のなかでも子どもたちを守り続け、働き続けた職員や家族……。これこそが本当の正義である。
 提樹は、さまざまなところに交渉したが、解決の糸口が見えなかった。精神的にも肉体的にも限界であった。ある朝には、出血のために目が真っ赤になったこともあった。提樹から笑いが消えた。いつも硬い表情になった。こんなはすではなかったという想い、マス△250 コミを含めすべてが敵にみえた。提樹は、昭和四九年四月一五日に、この騒動に対し島目療育園を解散する決心をしたが、それができなかったので園長を辞任した。ひとこと「疲れた」と言い残して……。六六歳の春のことであった。
 後に、組合運動の中心となり、旗をふっていたある男が父母に会ったときのこと。とりとめのない話の最後に、ぽつりとつぶやいた。「あの頃は、若気のいたりでしたな。お許しください」。
 その後の提樹は、名誉院長として、島田療育園、慶應病院、日赤産院時代からのカルテ資料整理をライフワークとして続けた。また、園長辞任の翌年、昭和五〇年に重症心身障害研究会(現・日本重症心身障害学会)を設立した。島田療育園を去っても、なお子どもたちとともに生きたい、子どもたちのことを伝えたいという想いは、変わらなかった。
 提樹はその後も活動は続けたが、平成五年に脳梗塞により逝去した。享年八四歳であった。△251

 あとがき 277

 平成一八年に友人の医師・石田修一から私に、日本の重症心身障害児の歴史について話してほしいとの講演依頼があった。石田は、子どもたちのために、ずっと活動を続けている私にとってかけがえのない仲問の一人である。石田が私に頼んだのは、日本で最初の重重症心身障害児施設に勤めているからというただそれだけの理由であった。恥ずかしいことだが、私はそのとき島田療育園のことや重症心身障害児の歴史についてほとんど知らなかった。それから島田療育園の歴史を調べはじめた。それは、いきなり頬を叩かれたような衝撃だった。私は、歴史を調べること、すなわち小林提樹や島田夫妻をはじめとする多くの人々の想いにふれることに夢中になった。心を奪われた。
 […]△277


UP:20160713 REV:20160814
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