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誌上裁判 奇形児は殺されるべきか

石川達三・戸川エマ・小林提樹・水上勉・仁木悦子 196302 『婦人公論』48-2:124-131

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◆石川達三・戸川エマ・小林提樹水上勉仁木悦子 196302 「誌上裁判 奇形児は殺されるべきか」『婦人公論』48-2:124-131

 ベルギーに起こったサリドマイド嬰児殺しの無罪の判決をめぐって、賛否両論がうずまいているが、ここに日本の現実と照らし合わせて、肢体不自由者の立場から二木氏、父親の立場から水上氏、医者として小林氏、世論の代表としての石川氏、戸川氏の五氏に、おのおのの立場からの意見を聞く

 〔この記事を読まれる方に〕睡眠薬サリドマイドによる奇形児の出生が世界の話題となっているが、昨年ベルギーのリエージュにおいては、肩から指の生えたアザラシ奇形児を母親を中心として医師・家族が加わって殺害した事件が起きた。加害者は逮捕され裁判になったのは当然だが、ベルギーの世論調査は母親の態度を一万六千七百対九百で支持していた。この事実を裏書きするように陪審員の答申は、全員無罪であったが、奇形児とはいえ人命を奪った罪が無罪であった点に疑問が残されている。
 人工妊娠中絶を認めないアメリカではサリドマイドによる奇形児を分娩する可能性のある主婦が人工流産許可要求の訴訟を起こし、敗訴して、スエーデンへ行って中絶したという事実もある。
 妊娠時のサリドマイド服用による奇形児の出生は日本でも急増し、札幌市内では、六千対七の割合で出生し、その比率の高さは、暗い影をわれわれの生活に投げかけている。
 愛知県豊橋市では、妊娠初期にサリドマイド系の薬を服用していた二人の妊婦がそろってアザラシ奇形児を出産したが、この二組の夫婦が昨年末、法務局人権擁護係へ「人権上大きな社会問題で、当然国で保護対策を考えるべきだ」と訴えた。この訴えにより、睡眠薬と奇形児との因果関係とか生存権の問題が大いに論議されることと推測されるが、似たような訴えが各地で予想される現在、国としての道義的責任をいかにとるべきか、国会、法務省、厚生省など関係当局の態度が注目されている。

■無罪判決に疑義あり
戸川 ベルギーのサリドマイド嬰児殺しの被告人五人が全員無罪になった原因のひとつとして、十二人の男の陪審員がもしも自分の子だ△124としたらという恐怖感のために一種の興奮状態にあったことが考えられますね。
小林 一人の奇形児を死なせたということで五人の健康なものが処罰されるのならば無罪のほうがいい、と考えたかもしれません。
戸川 刑は三年以上の懲役または死刑です。
石川 量刑は裁判官が決めるわけですが、少なくとも人一人を殺したのだから、無罪になると問題が残りますね。有罪としておいて、執行猶予にするとか、免罪という方法もあります。なぜ検事が控訴しなかったのかな。
水上 その子が生きていることがほんとうに不幸であって、親が努力しても駄目だということがわかる場合は、その子を消すことに、私は賛成しますが、もう少し殺し方があったのじゃないかということを考えますね。
石川 つまり個人の勝手な意志でもって、一人の人の命を処置しちゃいけないですよ。
仁木 国家の意志とか、法律の意志という公的な立場で処置するのでないと、世間の秩序はどうにもならないですね。ですから、無罪というのは行き過ぎだと思います。日本でしたらいちおう有罪になって、執行猶予という形になるのが妥当じゃないかと思います。
戸川 私も母親ですから、人情としては無罪のときにはあの判決をよかったという気がしたのです。しかしさっそく同じリエージュで福助頭の六つの子どもを殺したお母さんの事件が起こった。それなどを考えるとやはり有罪として執行猶予というのが妥当だという気がいたしますね。
小林 私はそういう赤ちゃんをあすかり育て△125 ている特殊な立場ですから、あれが許されるなら、私の存在の意義がないわけです。それに医者は生かすことを使命とするように教育されていますから、人殺しは許されません。ただ、有罪をどういう形で処置するかが私の場合問題です。
戸川 現地でもはじめは無罪でよかったと拍手喝采しましたが、二週間ぐらいたつと教会、法曹関係、政界、医学界の人たちのあいだで、はたしてこれを無罪にしたことが正しかったかどうかという反省の色が濃くなってきた。
 一方では、この事件がおきてからドイツは国家が保障をはじめることにしたのです。子どもたちのために義手、義足の研究に金を出し、施設を作り、専門の医者、看護婦を養成する一方、お母さん方にも子どものための訓練を施すことになりました。

■責任の所在を追及する
戸川 サリドマイドを使った薬は、日本でもあるのですか。
小林 日本では全面的に姿を消しました。
戸川 政府が禁止しないうちに自発的にメーカーが在庫品まで処分しましたが、サリドマイドはつわりを楽にする効果のある薬だったのですね。そして、妊娠初期に飲んだ人がいちばん危険なのです。
仁木 これは妊娠の過程において、ぜんぜんわからないことでしょうか。
小林 腕のないアザラシ奇形でしたら七ヵ月になって、レントゲンで調べればわかる。ほかの奇形は、レントゲンに写らないものがありますから、どうにもならないです。
水上 レントゲンでそういう奇形児が歴然としているなら流産を奨励したいですね。
小林 そのときはやるべきだと思います。
戸川 ドイツでは近年になって生まれた奇形児、六千人のうち半分生きていますけれどもたいへんな重症が五百ケースです。
小林 日本は、最近、東京で生まれたうちで、十二人生まれて十人死んでいます。
石川 それは、死なせたいという親の意志もある程度働いているんじゃありませんか。
水上 小林先生のところへくる親ごさんの表情はどうですか。
小林 それが悲しいのです。半年以上預かっていますけれども、なかなか両親の気持ちを開いてあげることはできないのです。私たちが子どもを収容するということは、家庭に、いかに精神の安定を得させるかということが非常に大きい眼目ですが、サリドマイドの場合は困難ですね。とくに母親が悲しいのですね。母親が来られる家庭は二軒しかありません。
石川 ほかの奇形は、親が、自分がなにかをしたからこういうことになったとは思わない。サリドマイドの場合は、自分があの薬を飲んだからこうなった、自分の罰だというのがはっきりしていて、それだけにつらいのだと思いますね。
小林 国の補助はまったくないのです。今度の豊橋のお母さんの訴えがどう処理されるか注目されますが、サリドマイドが悪いことがはっきりわかれば、その薬は国が許可した薬ですから補償は国がすべきだと考えます。
石川 判決が国家に賠償する義務があるということになれば、身体障害の子どもの親たちはぜんぶ訴えますよ。
小林 そうなっていいのじゃありませんか。

■激増する奇形児出生数
戸川 日本でサリドマイドが売り出される以前、アザラシ奇形児はどうだったんですか。
石川 ありました。子どものときに、見世物△126 小屋で、客の呼び込みが、左の肩から指が二本、右の肩から指が三本、と叫んでいたのをおぼえています。
水上 私は若狭の曲馬団の小屋で見た記憶があります。
小林 昔の医学の教科書にも出ています。
水上 ですから薬を飲んでいてもちゃんとしたお子さんが生れるかもしれないし、どうにもそれはわからない。ただ、いちばん最初に発見するのは母親よりもお医者さんになるわけでしょう。このお医者さんの措置が非常に日本ではあいまいだと思うのです。おギャーと生まれたときに奇形だったら、医者が、産婦に母親の意識が芽生える前に処置できるのじゃないかと考えますね。うちの娘の場合は脊椎破裂というのでしたが、五日間もほうっておかれた。その間、病院ではめずらしいからというので学生に見せたりしている。私が仕事場から病院へ来て娘の様子をみると頭から布がかぶせてあるのです。五体ちゃんとしてますと病院は答えながら、死ぬのを待っていたのです。私は、さっそく外科の方にお願いして手術していただきました。そうしたら、ちゃんと泣くようになりました。しかし、現在、両足ともだめなんです。
石川 生後五日で手術したの。
水上 はい。その場合、私にいくばくかの金があったから、それができたのでありまして金がないとできないのです。たいへんな金を積まなければだめというのが現実なのです。
石川 とにかくこれからは薬をめちゃくちゃに使うケースがふえるので、どんな奇形児が出てくるかもしれませんね。
小林 発生率からみますと、日本では、奇形はだいたい一%と言われています。イギリスあたりは二・二%以上。日本人はどこのうちでも、一%の危険率を、もっているといえます。
水上 一%とは、精薄も入れてですか。
小林 奇形だけです。精薄は百人に三人で奇形の多くは生後間もなく死亡します。
戸川 昔から奇形児はあったし、将来、私たちの身の回りにそういう子が生れるかもしれないのですね。
小林 文化の程度が進むほど、奇形が多いという統計になります。未開のほうが少ない。今後ますますふえるであろうということを考えると、非常に大きな問題ですね。

■放置されている重症者
石川 日本の場合、ひどい身体障害者に対する保護というのはどういう状態ですか。
戸川 収容施設があり、それを教育する学校があり、最近は通園するようなセンターもできておりますけれども、全体の数から見ると非常にわずかなものです。そのなかでそういうものに受入れられるタイプと、受入れられないタイプがあるのです。たとえば二重障害をもっている、視力が悪くて耳が悪くて精薄があるというふうになると、もうどこにも行きようがない。△127
石川 保護者が死亡してしまって、年をとって、何重にも身体障害のある方は、どういう生活をしているのでしょうか。
水上 従兄弟、はとこが見ていくのでしょう。それもない場合は・・・・。
小林 いまの時代には、家族同士で面倒を見ることさえつらいのですから、親戚のものが手を出すなど一般論として成り立たない。そこで生活ができないから、生活補助を受けるとか、短命に終わるとかしていきます。そういう人たちですから、叫び声も出せないのですね。いつの間にか社会から消えていくのです。
水上 安楽死じゃなくて、自然死ですか。
小林 自然死じゃない、不遇死ですよ。
水上 のたれ死にですね。
小林 そうです。
戸川 昔は、財産がある家は極力隠して、座敷牢に入れておく。見せものに売られるは、貧乏な家の子。
水上 どっちかだったですね。だから村役場がそういう子が生れたということを確認したら強制収容しなければいけないのではないかな。
戸川 癩病の場合は、隔離して強制的に行かせるわけでしょう。そういう措置に近いことができればいいですね。それでないとその兄弟が悲惨ですね。お兄さんは、座敷にいて垂れ流しで、口もきけない。お母さんは可愛がるけれども、弟妹は学校へ行って暗い表情をしている。悲惨ですね。

■安楽死はなされるべきか
水上 私は人を殺すということは、ちゃんとした人間であった場合の殺人ということで立法されていると思うのです。しかし今日のように薬が悪魔的になり、空からいろいろなものが降ってくる時代になって、健康であっても奇形児が生まれてしまうのなら、法律もやはり発達して、赤ちゃんを殺して、それが有罪か無罪かということも規定しなくてはいけないと思います。私は中学一年生に入ったときに、人間はなんのために生きるか、ということを校長先生がおっしゃった。社会にプラスするものになるということにその意義があるのだ。それがないということは、生きる資格がないということです。水頭症の子どもとか、脊椎破裂の子どもというものは、仁木さんもいらっしゃいますが、やはり足が不自由であっても、社会にプラスすることができるので生きる権利がある。それさえでき得ないと判断された場合には、人の範疇に入らないのではないかと私は考えます。そこでですが、小林先生がいま面倒見ていらっしゃるお△128 子さんのなかで、この子が生きても社会にプラスするところは、一ミクロンもないと思われるお子さんがいらっしゃいますか。
小林 おります。しかし、明らかに育ててよかったと思うことがずいぶんあります。
水上 それは健康な五体そろったものが感情として言われることであって、社会にプラスしないということはかわりないでしょう。
小林 社会にプラスするかしないかは考えません。
水上 先生にあずけられる前に処置しておいたほうがいいとはお考えにならないですか。
小林 その人たちを育てるのは、本来は国がやるべきことです。重症心身障害者はほんとうに生きる屍です。泣く声もたたない。しかし、私は人間として生きているものは生きさせるほうが正しいであろうと考えます。
石川 プラスになるかプラスにならないかというのは、その人の周囲の人あるいは責任者は判定することはできるけれども、国家とか社会とか第三者が判定することは非常にむずかしい。極端なものはだれが見てもわかるけれども、限界がわからない。
水上 その限界を立ててほしいと思います。
石川 無事に育って成人しても、途中で交通事故なり戦争なりで大きいけがをした、廃疾者みたいになった、これからあとはプラスにならないから安楽死させるべきだという、成人に対する安楽死を要求するケースが出てくるでしょう。
水上 そうなってもらうと、私は困る。新産児のみに限定してほしいと思います。
戸川 プラスになるかどうかということは広い意味で考えると、間接的なプラスになり得ることがあると思うのです。
石川 戸川さん、クリスチャンですか。
戸川 そうです。
石川 あるクリスチャンと議論して、ぜんぜん世間に対してプラスにならない人間はヒューマニズムを適用する必要ないんじゃないかという話をした。ところが、相手はぜんぜん世間に対してプラスにならないナマコみたいな不具廃疾の人でも、その看護をして生活している周囲の人たちが、天の啓示を受けることがあるというのです。
小林 たしかにそうです。
石川 しかしその場合は、人間じゃなくてほかのものだって啓示は受けられる。そういう議論をしたのですがね。
小林 そこで生まれた時に奇形がわかれば、安楽死をとお考えかも知れませんが、私はそれは安楽死という言葉じゃない気がするのです。生まれたばかりの赤ん坊は、むしろ両親、家族のほうが苦しんでいるので、自分たちの精神安定のために、行なった犯罪、人殺しになってしまうという気がするのです。
石川 この子が家族のなかに生きている限り、家族が皆不幸になる。家族全体の自衛のための手段ということも考えられるでしょう。
小林 その子の意志に沿うようなものじゃないということにおいても、私は人殺しだという感じが強いように思うのですが。
仁木 しかしこの人自身が大きくなってから△129 の苦しみというものを考えると、たいへんなものだと思うのです。私は手はちゃんと動きますけれどもそれでもずいぶん辛い思いをしました。ですから手もぜんぜんない人が大きくなってどんなに苦しむかを考えると、殺してしまったほうがいいかとも考えます。しかし社会に役立たないから殺すということは肯定できないのです。
小林 私たちは奇形の子どもたちを見ていて、人間とはいかなるものぞという定義を考えて、結論としまして、人間とは人間が生んだものだというのがいちばんいいのじゃないかということになってしまいました。
戸川 安楽死させるんじゃなくて、立派な施設に送られるようになったら理想的ですね。
水上 それがない以上、理想論でいくらいっても、母親にも本人にさえも酷だと思うのです。
小林 にもかかわらず、それを生かすように持っていかなければならない。辛くても生かすということが、こういう施設を発展させる一つの基盤になります。現実はおっしゃるように非常に悲しいです。悲しいからといって目をつぶるんじゃしようがない。これに向って抵抗していこうじゃないか。
水上 日本というところは、うちの女房だっておもてに太陽を見せに子どもを連れていかない。隣近所が妙に引っかかる。理想論はむなしいけど、私が言いたいのは、病院でそういう子が生れた場合に、白いシーツに包んでその子をすぐきれいな花園に持っていってくれればいいということだ。いまのように抱えてうちへ戻って、あそこは赤ちゃんの声がするけれどもだれにも見せない、どうしたのだろうと噂される。その奇形の子を太陽に向ける施設があればいいが、そんなものはない。そうしたいまの日本では、どうしても生かしておいたら辛いんだな。親も辛い、子も辛かろう。

■新しいヒューマニズムを!
戸川 私なんか甘いセンチメンタリズムと言われるかもしれないですけれども、小林先生の施設へ行ったときに、自分の手がちゃんとあるということ、自分の子どもたちが五体がちゃんとしているということに、なんとも言えない気持がしたのです。ですから、なにも不自由のない人たちがもうちょっと関心をもってもらいたい。実際には健全な人たちが関心をもち、大きく取り上げて、さっき水上さんがおっしゃったような花園に行ける施設が、国家の予算でできたら、と、そういうことを非常に強く感じます。
小林 とにかくいまの時代は、ドライな考え方でいかなければならない。奉仕とかサービスという精神は望みえない。そこで、いちばん基本的なものはなにかというと、国の組織、社会の組織、われわれのほうから言えば施設の組織です。しかし、昔からみますと、とにかくいちおうここまで来ましたということは申し上げられるのです。なにもなくて長年苦しんできたのですから。
水上 私は、生命審議会をさっそく作ってもらって、そこへ相談に行けば、子どもの実状や家庭の事情を審査し、生死を決定するというふうにしてほしいのです。
小林 私はあなたの言う花園みたいなものがあれば、決定する必要ないと思うのです。
水上 日本というところは、それがなかなかできない、ところが奇形の子はあしたにも生まれるかもしれないのです。
仁木 いま小林先生が、やっとここまで来たとおっしゃったけれども、ほんとうにそうだ△130 と思うのです。私の子どものころには、私のような子どもを入れる学校は、ほとんどなかったのです。いまは非常に少ないながらもいできています。私たちから見れば、やっといくらかの人間の城に入れてもらうところまでやってきたという感じがします。
石川 この問題の結論はとても簡単に出てくるようなものじゃないと思うのですが、その基本にあるものは、ヒューマニズムに対する考え方だと思うのです。僕はいつも言っているのですが、人口過剰は限界にきつつある。これから先日本の人口がふえたらどうするのか、誰も対策をもっていない。今までの五十年前、百年前のヒューマニズムの考え方で、命あるものはすべてこれを生かしていかなければならない生まれてくる子どもは生むのが親の義務だということを言っていたら、みんなが死んじゃう。健康な人間まであと五十年もたったら駄目になってしまう。強度の身体障害の人たちをどうするかという問題をも含めて、なんか新しい別のヒューマニズムを考えなければ、とてもやりきれなくなってくるのじゃないか。それではどういうふうな形のものがいいかというと、なかなかむずかしい。しかし一方では文化程度が進んでくるにしたがって奇形児がふえてくる。しかも、薬がこれだけ発達し、原子力だなんだというものが実用化されて、これから先どういうことになるかもわからない。そうすると今までのようなムード的な要素の強いヒューマニズムじゃ、もう駄目だ。もっと冷たくわりきった、はっきりしたヒューマニズムというものが一般の道徳の規準になっていかないと、やりきれないのじゃないか。それをどうすればいいかということをみんなで考えていくのがこれから私たちに課せられた問題です。△131


■cf.

◆花田 春兆 1963/06 「切捨御免のヒューマニズム」,『しののめ』50→19681020 『身障問題の出発』,pp.14-23

◆石川達三 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%81%94%E4%B8%89
 「石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年(明治38年)7月2日 - 1985年(昭和60年)1月31日)は、日本の小説家。『蒼氓』により、芥川賞受賞者第一号となった。」
小林 提樹
◆戸川エマ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%B7%9D%E3%82%A8%E3%83%9E
 「戸川エマ(とがわ エマ、1911年12月10日 - 1986年6月29日)は、随筆・評論家。文学者・戸川秋骨の娘。のち結婚して本姓は高木。東京生まれ。文化学院に学び、1933年より母校で教え、1955年より「読売新聞」の身上相談を28年間担当。映倫管理委員、東京都青少年健全育成審議会会長などを歴任した。」
仁木 悦子
水上 勉


再録:窪田 好恵
UP:20150221 REV:
サリドマイド  ◇障害者(運動)史のための年表  ◇障害者(運動)と安楽死尊厳死  ◇安楽死尊厳死  ◇重症心身障害児施設  ◇全文掲載 
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