◇黛 正
◇新潟県における障害者運動/自立生活運動
◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
※いくつかに分けた記録の3です。
◇黛 正 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)(本頁)
◇黛 正 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◆黛 正 i2022c インタビュー・3 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◇黛 正 i2022d インタビュー・4 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◇黛 正 i2022e インタビュー・5 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◇黛 正 i2022f インタビュー・6 2022/05/19 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
◇黛 正 i2022g インタビュー・7 2022/05/19 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
◇黛 正 i2022h インタビュー・8 2022/05/19 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
◇文字起こし:ココペリ121 20220521黛正(於:新潟市・魚沼釜蔵ぼんしゅ館)_205分
~このように表現しています~
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。
■はまぐみ学園★
★はまぐみ小児医療センター https://www.pref.niigata.lg.jp/site/humagumi/hamagumi.html
立岩:あ、そうなんだ。
それで、そっちはそっちでそのあと続いたんですか? その、はまぐみ。だいたい「はまぐみ」っていうのは何なの? 言葉としての意味は。[00:50:05]
黛:「はまぐみ」ってのは、だから、はまぐみってあるでしょ?
栗川:ぐみの一種。
黛:ぐみ。海に。
栗川:植物の。
ようこ:海のほうに行くと、
栗川:ぐみの実がなる、ぐみ。それの、はまぐみという植物の名前。
立岩:海岸に生えてる植物の名前から「はまぐみ学園」って。
ようこ:海岸にはいっぱいこう。
山口:あれ新潟でしか見ないですよね、確かに。
黛:え? いやどこでもあんじゃない?
ようこ:「明生園」って知的障害者のとこにもある。
黛:じゃあそのころだったらあれじゃないの? 高橋芳子さんって知ってんじゃない?
ようこ:もしかしたら私、
黛:会っているはずよ、そのころ。
ようこ:そういうかた、ね。お会いできなかった。会っててもわからなかった。
立岩:それだけど、栗川さんに紹介されて篠田さんとこに行った時★に初めて新潟の砂丘つうの、あの光景はおれ体験してなくて、「うわー、こういうのあるんだ」ってちょっとびっくりしましたね。
★篠田 隆・篠田 恵 i2019 インタビュー 2019/11/04 聞き手:立岩真也 於:新潟市・篠田氏宅
栗川:バス停から海まで歩く、
立岩:松がね、生えてて、砂丘がずっと続いてて、なんか、ぱって見ると意外と佐渡がおおきく見える、みたいな。あれちょっと初体験で、ちょっと新鮮でした。
黛:いつごろ?
立岩:2019年にその青木学さんに午前中話聞いた★あと、バス乗ったんじゃねえや、タクシー乗ったんだっけな、で、行ったんです。そしたら、
★青木 学 i2019 インタビュー 2009/11/04 聞き手:立岩真也 於:新潟市総合福祉会館
栗川:今の篠田さんち。
黛:あれはね。
ようこ:【アンリハウス】(00:51:48)に行った?
立岩:【アンリハウス】(00:51:49)は…、篠田さんちに。篠田さんが住まいの家に。
黛:あの砂丘ってのは、あれはもうほんの一部だよ。昔はさ、もっとずーっとあれあったよね。
栗川:でかかった。
ようこ:すごいでかくって。よく言ってるのが、海に行くのに裸足になって行くと、あちちあちちって、延々砂浜を走らないと海に入れないという。
黛:だっておれさ、前、内野に住んでたんよ。
栗川:え? 内野に? ほんとに。
立岩:新潟市ローカルわかんない。説明してください。
■千草の舎
黛:千草の舎(ちぐさのしゃ)ってのがあってさ。でね、
栗川:千草の舎に住んでたんですか?
黛:いや、違う違う。そこに勤めてたさ、シミズさんの子どもを預かるので、ちょっと今のね、新潟大学のすぐ近くの内野の坂登ってさ、水道のタンクあるじゃない、その脇のところに住んでたことある。
栗川:旭が丘幼稚園のとこ。
黛:うん。うちのだからトモコが旭が丘幼稚園か、に入ったんよ。
立岩:でもまあ新潟にそういうとこあるわけね。
栗川:だから新潟大学が五十嵐の町ってとこで、ぼくが今住んでる内野町のJR(ジェーアール)内野駅の近く。まあ、界隈なんですよ。
黛:そこからさ、はまぐみに通ってる時はそれこそね、冬場は風が吹くと道路がなくなっちゃうの。ぜんぶ砂で埋まって。
山口:関谷分水ってまだその時あったんでしたっけ? 関谷分水通ると、あそこの道が海浸りなんです、ざあざあざあざあ。
黛:うん。だからあそこはさ、小針じゃないな、もう金衛町からそうだけどさ、海岸の埋め立て、ぜんぶごみを埋め立てるんよ。ぜんぶ下にごみを埋めてんの。おれそれを見ながらさ、毎日通っていたんだけどさ。
栗川:ごみ捨て場がそのまんま海岸にされたみたいな。
ようこ:そう、埋めちゃったみたいなね。
立岩:それ海岸が減ったのは何? 潮流っていうか、海の流れとかそのせいで? 削られたって?
ようこ:テトラポットがばーっとあったけど、こんなのおかまいなしにばーっと波が来て。
栗川:やっぱ大河津分水・関谷分水できて、やっぱりぜんぜん違ってきたんですよね。
黛:それもあるし、人間ってばかというか、何と言ったらいいのかわからんけどさ、ようするに砂浜をどんどんどんどん少なくしちゃうわけよ。そうすると飛ぶ砂がなくなっちゃってさ。だから住宅ができるように砂浜をどんどんどんどん減らしてるわけよ。だから、昔だったら松林で防風林だとか防砂林を作ったけれども、だけど、だから篠田とか、あそこのアンリさんところのね、ドンキホーテなんっていうところができたころはすごい砂がさ、風が吹いたあとなんかはほんとに砂がたいへんだったけどね。[00:55:09]
立岩:そうなんだ。私なんかぜんぜん知らないから、行った時「お、すげーな、砂」って。すごいなと思ったけど、もっと昔はすごかった。
黛:昔はほんとにね…。で、どんどんどんどんさ、だから、砂浜をさ、コンクリートでどういうんかな、駐車場を造ったりとかさ、そういうふうにどんどんどんどん減らしてくわけよ。だからそんなことをしてね、人間ってどうするのかなと思うけどね。だからあのあたりなんて、ちょっと何かの災害があればすぐ砂に埋もれてしまうんだろうなと思うけどね。
■
立岩:そうですよね。それで、戻して戻して戻して、大学2年の時に戻るわけだが。
それで福井さんとこ帰ってきて、はまぐみ通うようになって、園長さんから「この二人ととりあえず話しろ」って言われて、それでどうなんですか?
黛:それでさ、とくに田村っていうのがさ、あいつがばかというか、女の先生に熱をあげてさ。一生懸命その詩を。彼は自分では詩人だと思ってるわけよ。まあ確かに言葉を選んで…。脳性麻痺の人って言語障害があるから、われわれみたいにだらだらと書かないよね。表現しないで、それで自分が好きだったら「好きだ」とかさ、ぱっぱっぱっと、そういう詩をさ、ノートに書いてくれ言ってさ、それを書いていたんよ、ずっと。
栗川:なるほど、詩をね。
黛:うん。ほいで、篠田にしても田村にしても、1年とかで家に帰るわけじゃん。ほいで帰って、家に訪ねてきてくれってちゅうわけよ。われわれにね。それで、もうおれも、「ああ、彼が家に帰ったら、友だちもいないし、家にこもりっきりなんだろな」と思って、大変だなとは思ったけれどもさ。でも篠田の実家ってのが割野っていってね、交通の便が悪いところ。バスが1日に2、3便しか通らないようなところで。田村のほうは内野だったから比較的行きやすかったんだけれども。でもそんなに施設、はまぐみにいたときみたいに1週間に1回とか2回とか行けないわけよね。それとあと、田村のほうはやっぱりお母さんとやっぱりうまくいかなかったのね。ほいで、そのころにできた千草の舎っていう施設に入るわけ。
立岩:それも誰かに、その名前誰かに…。
栗川:千草の舎ね。
黛:ほんま…何ていったかな。ホンマ。名前忘れた。あれだな。そのホンマさんっていうおばさんがやり始めて。んで、家族的な雰囲気でやりたいってことでさ、ようするに家族的雰囲気ちゅうのは何かっていったら「朝ごはんを一緒に食べる」とかそういうレベルの家族的なんだけれども。そこに田村も入ったし、篠田も半年ぐらい遅れてやっぱり入ったのかな。
そうすると、あそこで五十嵐の大学のすぐ近くだったからさ、行きやすいわけ、ぼくなんかもね。で、そこで千草の舎なんかと付き合い始めて。で、その千草の舎の人たちと一緒に夏キャンプをやったりとかするようになったわけ。
立岩:それって、そういうことに関わってた、べつに医学部じゃなくていいんですけど、新潟市内の学生さんっていうのは何人もいたんですか? 大学生の人たち。[01:00:02]
黛:大学生いなかった。いなかったというかね、もう一つね、教育大…、教育学部を中心にさ、うーんとね、しょう…、
ようこ:障問研。障害者問題研究会★。
★「障害者問題研究会」 cf.「全国障害者問題研究会(全障研)」
黛:障問研とかさ。あと、医学部の中にも障医研☆っていうのがあった。
立岩:だいたいなんか出自がわかる名前にする。障問研とかね。
黛:うん、だいたい。だから…。で、その連中は篠田とか田村に言わせるとさ、アンケートばかりとって何もしてくれないっていうわけよ(笑)。
立岩:診断されてた。ある程度当たってるな。
栗川:研究の対象なんですね。
黛:それで、そいつらとはあんまりおれは合わなかったからさ、付き合わないで自分でやっていて。そうだな、ほかにはだから、そういう感じで動いてる人っていなかった。だから、みんなあれだね、障問研だとか障医研に誘われると入ってさ、アンケートをとって、交流だとか言ってさ、ハイキングに健常者だけ行ってさ。
栗川:まあそりゃハイキングには篠田さんたちは連れて行かれない、一緒には行かないけどね。自分たちだけ、障問研のね。
黛:おれなんかはまあいちおう、篠田なんか「キャンプやりてえ」って言うとさ、じゃあやってみようかって一緒にやってたわけよ。
栗川:当時車いすってどんな感じなんですか?
黛:車いすはふつうの車いすよ。ふつうじゃない車いすってどうだったって。
ようこ:電動とかじゃなくて。
黛:電動はぜんぜん。うん。
立岩:はまぐみって、おれ行ったことないから何のイメージも。その病室ってのがあって、そこにたとえば6床とか8床とかベッドが2列で並んでる的な、そういう感じのとこだったんですか?
黛:4人部屋ぐらいだね、だいたい。
立岩:それがあって、で、隣にその養護学校の分校が併設されて。朝になると朝めし食って、渡り廊下か何か使って、そこ行って、戻ってきて、みたいな。
黛:ほいで、病棟が三つあったんだよね。第一病棟っていうのはね、重度のおもに脳性麻痺の人を中心にしたところで。で、おれがそこの主治医だったわけ。で、第二病棟っていうのは整形外科的な手術をしたりとかする人が中心なんだけど、ぺルテス病っていう、ちょっとね、
立岩:何病?
黛:ペルテス病、股関節の病気。それは1年ぐらいギブスをしていないとだめな子なんだけどね、それが第二病棟にいて、第三病棟が母子入院みたいなことを母親と一緒に。あのころ早期療育ってのが始まった時期だからね。で、その母親をふくめた母子入院ってのが3か月ぐらいやっていた。それがいちおう全体としては200人ぐらいの病床数なんだけども、実際に入ってるのは100人ぐらい。重症化していたから、そんなに入れられないからっていうね。
立岩:200人定員の実質100、それ三つに分かれてて。さっき「主治医」っておっしゃったけど、もう学生のころはもちろん医者じゃないわけじゃないですか。それは「やがて」って話ですよね。
黛:ああ、そうか、いきなり飛んでしまったけど。
立岩:けっきょく就職先はそこに。
黛:そこに就職。就職っていうかね、その倉田先生っていうのがいろいろ気をつかってくれてさ、「黛くんがここへ勤めてくれるんだったら」っていうことで、いろいろ便宜をはかってくれたわけ。[01:05:00]
立岩:それは卒業の時じゃないですか。でも医学部6年あるじゃないですか。それが2年はじめだとしてですよ、2、3、4、5、6で5年もあるじゃないですか。その5年って何してたんですか?
黛:いや、6年…。おれ留年した。
立岩:留年したから6年か。
▽黛:で、あー、そうそう、それでね、篠田とか田村と付き合っていたわけよね、千草の舎でさ。そこで、ほいでね、篠田に言われたのか田村に言われたのか、おそらく田村だろうな…に、そのはまぐみ学園っていうところは昔の整形外科、整形外科医がポリオの手術の練習みたいなことで、半年とか1年ぐらいでころころころころ医者が変わったわけよ。で、整形外科の医局っていうかな、そのころ、医局でもいわゆるバイト先みたいなことぐらいにしか考えていなかったわけよ。で、田村か篠田に言われたのは、「医者はね、ころころころころ半年とか1年で変わるけれども、おれたちは障害を抱えて一生病気と付き合っていかなきゃならないんだけれども、黛さん医者になるんだったら、おれたちのことをずーっと一生付き合ってくれる医者になってくれないかな」って殺し文句を言われたわけよ。△
栗川:脅迫的ですよね。
黛:おれもそのころ真面目だったからさ。ほいで、「あ、それだったら、ふつうの医者になるつもりはなかったんだけれども、じゃあそういう障害を持った子どもの医者になってもいいかな」と思った。思ったんだけれどもさ…。
それで、大学の授業なんてみんな入院している病気の人の学問なわけじゃない? で、ぜんぜん、脳性麻痺だとか障害を持った子どもの話なんてぜんぜんないわけ。だから、ずっと大学は行ったり行かなかったりしながら、そのころボランティア活動をずっとやったわけよね。夏はキャンプをやったりとかさ。あと、篠田とか田村がいるその千草の舎に行ってみたりとか、千草の舎から家に帰ると家に行ったりとかね、そんなのを4、5年やっていたよ。
立岩:じゃあけっこう学部生っていうか、医師の免許取るまでは、そういう生活っていうか、わりと淡々とというか、続けてたってこと?
黛:うん。
栗川:あんまりじゃあ障害者運動っぽくはないわけね、その時は。
黛:うん。だから、おれがはまぐみに勤めたのが79年、養護学校の義務化の年。
■
立岩:そうか。その前の70年代の半ばの時は、とくにそのボランティアで、そこらでごちゃごちゃやってるような運動は知らなかったのか、知ってたは知ってたけど「まあええわ」ってな感じ?
黛:知らなかった、ぜんぜん。ぜんぜん知らないで、だからほんとに東京だとかさ、そんな全国の運動なんてのは関係なく、自分たちで篠田とか田村と付き合いながら、自分たちで何がやれるかっていうことをこうやっていたというね。
立岩:なんか情報が入ってきたっていう記憶はない?
黛:もうほとんどない。うん、ぜんぜんない。
立岩:ありうることですよね。「ない」っていうことがありうるってことですよね。
黛:だから、ただね、その千草の舎に、富山からさ、
山口:77年に来たんですよね、青い芝。
黛:うん、青い芝の連中が来て。
立岩:平井〔誠一〕さんですか?
黛:平井はね、来てないんじゃないかな。まあおれはよくわからない。だけれども、千草の舎に来て、オルグをして帰ってんだよね。
山口:77年に来て、新潟でも作れって言って帰ったって。
黛:77年。そんな早よ来てるかな。77年って79年、おれがはまぐみだから、あ、そうだね、そのころ。
で、あいつらおれに内緒でさ、だからそれ話したわけよ。その、あの…、[01:10:10]
栗川:青い芝に入れよみたいなね。
黛:うん。作ろうかどうしようか…。で、そのころだから会田きよみ★さんっているんだよね、うん。
★社会福祉法人けやき福祉会 http://keyakifukusikai.com/publics/index/22/
広島幹也
20120922 「『世直し』の中心に『障がい者問題」を置いて――こしかたを振り返り、『未決の問い』に向き合う」, 『広島幹也さんを偲ぶ』, 広島さんを偲ぶ会.
(全障連第2回大会の)「大会報告集を読むと、分科会の発言者の中に新潟からの参加者がいました。「新潟外に出よう会」と記された発言者は、その内容からすると会田きよみさんに違いありません。喫茶「けやき」の会田きよみさんはご存じですよね。会田さんとは、まゆずみさんを通して、障害児の普通学校への就学運動で知り合い、もう三〇年近いおつきあいです。」(p.3)
栗川:会田きよみさん。
黛:うん。会田きよみさんはいちおう全障連で、会田きよみさんね、あの人はそのあとも一緒に就学運動なんか一緒にやってんだけども、そのころが、たしか全障連の影響を受けていて、会田さん、会田さんは富山の、何だ? 何さんだっけ? 名前ど忘れしちゃったけどその女性の活動家なんかを知ってるわけ***(01:11:12)。
立岩:富山、女性…。たぶん出てくると思う。
栗川:会田きよみさんは上新栄町で喫茶店やってます。
山口:六角形のとこですか?
ようこ:六角形っていうか…、うん、うんとね。
黛:けやき。けやきの家。
ようこ:けやき、けやき。
黛:まだやってる?
ようこ:やってる。
黛:施設も今やってるよね、老人施設のね。
栗川:そうそう。老人施設です。
ようこ:けやき私も、仕事の途中あそこでランチして次の仕事に。
山口:五十嵐中学から歩いて5分ぐらいです。
ようこ:そうだよね、五十嵐中学。
栗川:五十嵐中学の近く。
黛:五十嵐中学?
山口:おれ「いが中」なんです。
黛:いくつ?
山口:98年に生まれてるんで、23ですね。
黛:23。
栗川:23なのにね、青い芝とか。障害者運動おたくなんです。
黛:だけれども、あのころ五十嵐中学がさ、日の丸・君が代の強制に反対する人なんてのは知らない? 広島さんだとか、東京のほう行っちゃったけど、あれ誰だったっけな? 最近ね、歳とると名前出てこなくなるから(笑)。薬科大があるでしょ、あっちに。その先生やってた人で…。
(料理が出される)
栗川:愛田きよみさんは、あれ今どういう話だったんだっけ?
立岩:今の話はちょっと戻すと、そのころいろいろあったわけじゃないですか、70年代。
栗川:そうかそうか、義務化反対闘争。
黛:だから千草の舎に、だから富山の人がオルグに来たわけよ、そういう話よ。で、「アパッチの歩んだ何たら」っていう冊子みたいな書いてるでしょ、こういう。『養護学校はあかんねん』何かで出てくる人。
立岩:アパッチなんとかって聞いたことあるような。
★ 河上千鶴子(戸籍名:)
◇河上 千鶴子 20171111 『脳性マヒの私が、六十五歳の現在書いとくこと』,すがの印刷,205p. 1300+ ※
◇『全障連』7(19790625)の「本の紹介」に
『アパッチの歩んだ五年間の日々!―あるCP者(女性)の愛への挑戦―』
河上千鶴子・著/編集実行委・編集連絡/富山市大泉一区南部236 河上千鶴子あて
黛:何さんだったかな。だからね、そのころに、「千草の舎にその人たちが来た」ぐらいが外から入ってくる情報だった。そういう影響を受けて彼らが小学校、中学校を卒業して高校ぐらいになった時かな、篠田とかがね。それをさ、自分たちで成人部を作りたいっていうね。だから千草の舎の成人部を作ってね、ようするに「朝めしを一緒にとにかく食べる」とかそういうことじゃなくて、ちゃんとこう【巣】(01:14:48)ね。自分たちでこう【巣】(01:14:50)を持って自分のやりたいことをやるような、そういう千草の舎の成人部を作りたいっていうことでね。
立岩:千草の舎っていうのは、朝めし一緒はいいとして、居住の形態っていう…居室っていうか居住っていうのはどうだった? [01:15:09]
黛:居室の形態は男女が分かれていたぐらいで、ふつうの家と同じ。
立岩:じゃあ何人かは***(01:15:20)。
黛:あのころ5、6人いたのかな?
立岩:男女別に5、6人が一部屋ずつっていうか、そんなイメージ?
黛:一部屋ずつではなくって、女の子は女の子、男の人は男の人みたいな感じね。
立岩:それはけっきょく、二部屋ってことでしょ? 男一部屋、女一部屋、そういう感じ?
黛:うん。それとあと大広間みたいのがあってね。
立岩:そこでめしを食って、みたいな。
黛:一緒に食べて。ふだんは「プロレスごっこ」とか言ってさ、ほいで遊びに行ったら、おれなんかもう自分は手は使わないで足だけで蹴っ飛ばすようなさ、そういう遊びをやったりとか、そんなことをしていたんだけれども、でもそれだけじゃなくてやっぱり彼らが「自分の部屋がほしい」って言いだして。じゃあ成人部を作ろうかという話になってね。となりの土地がさ、ホンマさんのお姉さんか誰か持っていたのかな? で、それを買い取るための金が必要だとか言ってさ、それで募金をしたりしたんだわ。***(01:16:42)とかそういうとこで、ときどき。募金をして、あのころいくらだったかな? 何百万かでその土地を買い取ろうとしたけれども、言ったら知り合いなんてもっと安くできるんじゃないかとかさ、まあいろいろうちら部外の人は勝手なことを言ったりしていたんだけれども、その勝手なことを言うなかで、やっぱり彼らがホンマさんのやり方じゃない自分たちのやり方をしたいっていうことを言いだしたわけ。
そのころちょうどキャンプを一緒にやってた人でね、シミズマサルっていうのが神奈川のほうで教員をやっていたんだけれども、じゃあそのシミズさん「新潟へ移ってこいよ」って話をして。彼に成人部をやってもらおうっていうことでね。で、彼が千草の舎に移ってきたわけね。
で、話をしているとだんだんそのホンマさんっていう人とやり方がやっぱり違ってくるわけだよね、成人部のやり方っていうのがね。そういう話をしている間にそのホンマさんっていう人が失踪してしまうわけ。ぱっとうち飛び出しちゃったわけよ。
山口:けんかした。
黛:うん。けんかしてさ。「自分の思う通りにいかないんだったら」みたいなことでさ。
栗川:ホンマさんって女の人ですか?
立岩:***(01:18:35)を運営するサイドの人が、ある種の突き上げっていうか、成人部の。
黛:うん。突き上げをくらって失踪しちゃって。半年ぐらいかな、***(01:18:55)にまた戻ってきたんだけれども、その時点でわれわれっていうかな、ホンマさんだとかシミズさんだとか職員が何人かと、入ってる人、篠田とかさ、桐沢、あいつはなんか…何人か一緒に出て、ほいで分裂したわけ。それで田村も出たんだよな。田村は家に帰りたくないからってんで、シミズさんの家に居候してたわけ。
ほいでさ、その時におれがちょっと失言をしてさ。ほんで、シミズさんところのつれあいだとかさ、シミズが忙しくしてるのに田村のやつがカセットを聞いてごろごろしてたからさ、「お前らいいよな。障害者はいいよな、ごろごろしてカセット聞いてりゃいいのに」つったらさ、そしたら、「黛さんにそんなこと言われるとは思わなかった。おれたちだってそんな、好き好んででこんなやってるんじゃない」とかって。ほいで彼に絶交されてさ。それからあとね、彼はずっとそれを通して、死ぬまでおれと回復できなかった。[01:20:21]
栗川:そこから絶交が。田村さんとはね。
黛:そのあと体悪くしてさ、おれ勤めてるころにはまぐみに緊急入院したりしてさ。おれ風呂に入れてあげたりしたんだけどさ、それでいろいろ話たけども、その絶交は解けなかった。
栗川:「障害者はいいよな」って、それはやっぱり許せないって感じだったんですね。
立岩:みんな、まだ黛さんが学部生やってたころ。医学生やってたころ。
黛:いや、もうそのころはまぐみもう勤めてた。79年から勤めて、だから、