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青木学氏インタビュー

20191104 聞き手:立岩真也 於:新潟市総合福祉会館

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青木 学 i2019 インタビュー 2009/11/04 聞き手:立岩真也 於:新潟市総合福祉会館 ※
◇文字起こし:ココペリ121 ※聞き取れなかったところは、***(hh:mm:ss)、 聞き取りが怪しいところは、【  】(hh:mm:ss) としています。
 【11中05】20191104青木学氏_100分
病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇障害者である議員 
青木:青木と申します。よろしくお願いいたします。

立岩:ありがとうございます。名刺あるのであとでお渡しします。今年改選があったんですね?

青木:そうです。この4月。

立岩:ネットで検索したら当選議員の中にでてきた。

青木:そうですね、ホームページもその頃から全然更新してないなかで。

立岩:6期連続ということですか?

青木:今回がそうですね、7期目になります。

立岩:7期目になる、もう6期は勤めあげて。7期目。大ベテランですよね。

青木:議会の中ではそうですね、そういう位置づけになってきましたかね。

立岩:66年のお生まれですか?

青木:そうなんです。はい。

立岩:僕は60年だから、少しお若い。

青木:栗川〔治〕さんとおない年ぐらいでいらっしゃいますか?

立岩:そうですね。栗川さんとほぼ同じです。で、実は栗川さんに「新潟に行くんだけど、どなたに」っていったら、「青木さん」っていう名前を【言われて】(00:00:56)。

青木:篠田さんとかね。

立岩:今日午後に篠田さんにお会いすることになりまして。どうもお忙しいところ、ほんとすいません。

青木:いやいや、とんでもありません。ほんとにお疲れさまです。

立岩:メールにもちょっと書きましたけど、今やってるのは、来年に3月までの「病者障害者運動史研究」というので、運動に関わってきた人たちにインタビューなんかして、それを手直ししてもらったり、まずい所は削ってもらったり、何をしてもらっても構わないんだけれども。その上でウェブサイトのほうに掲載させていただくっていうようなことを手始めにやってまして。今60とか70とか、そのぐらいのものが出てるんですね。うまくいけば、来年の4月からも同じように、それをさらに発展させたような企画をやっていこうっていうのを画策してるんですけれども。そんなこともありまして、今日時間も、さっそくあとでもう、いかようにも点検していただくっていう前提の上で、録音回させていただきますのでよろしくお願いします。

青木:どうぞ。

立岩:たぶん今やっておられることは、いろんな媒体で発言なさったりしていることでしょうから。今日そのウェブサイトも少し見ましたけれども。教員の資格は持ってらっしゃるんですね?

青木:そうですね。はい、資格そのものは持ってます。ただ、今なんか更新しないとなんかほとんど…なんで、また研修は受けなきゃいけないんでしょうけれども。はい。

立岩:外語大?

青木:そうです。だから京都です。

立岩:京都外国語大?

青木:そうなんです。はい。

立岩:じゃあ近所っていうか、

青木:そうですね、だから立命のあたりは、衣笠のあたりは。はい。

立岩:じゃあご存知っていうか。

青木:そうですね。

立岩:栗川さんなり、今僕らの所は栗川さん、大学院生に来て。それから中村雅也さんっていう、視覚障害の教師だった人が視覚障害の教師の研究をしていて。今度、今月、今月じゃない、もう先月か、博士論文出して修了する予定なんですが。そういうんで、今、視覚障害、障害で教師っていうことの研究してるのが2人、栗川さん入れてですけど。青木さんの場合、京都外語大出られて、教師の免許は持たれた上で、そのあとのことってどういうふうに考え、どういうふうに決まっていったんですか?

青木:私が大学卒業するぐらいまでは、大学卒業して、そのあと留学するんですけれど。その頃は最初の頃は、やっぱり将来的には英語を教える職業に就きたいなという気持ちがあったんですね。ただ、その留学生活の中で、いろんな体験をする中でですね、関心がちょっと変わっていきまして。やっぱりこう、ほんとさまざまな国から留学生も来てましたし、そこでいろんな国籍の面でも多様な人たちとも出会ったし。あるいはその私の障害に対する捉え方もそこで大きく変わった部分があるんですけれども。障害のある学生、視覚障害に限らずですね、いろんな障害のある学生なんかも同じキャンパスで当たり前に学んでいたりですね、そういうふうな中で、やっぱ非常に多様性っていうことに関心が、意識が向くようになって。できることなら、そういう国際関係の中でですね、なにか仕事がしたいなっていうふうに、もっと社会的な関係とか国際的な関係のほうに自分の意識が向いていきまして。英語そのものを教えるということよりは、英語はそのためのツールとしてですね、いろんなコミュニケーションとか情報収集だとか、そういったものに使うことにして、もう少し国際的な関係だとか社会的なものに自分の身を置いていきたいな、というふうに関心が変わっていったんですね、気持ちが。[00:05:30]

立岩:91年に出られて、その年にそのセントラル・ワシントン大学の大学院って所に留学したんですか?

青木:そうなんです。

立岩:これはどういう大学の、どういう大学院だったんですか?

青木:これは外大の姉妹提携校の1つだったんですね。それで、私も大学に在学の時から卒業後は留学したいっていうような目標があって。いろんなゼミの先生なんかにも相談をしながら、ちょうどそのセントラルの先生が、私が大学4年の時に、ちょうどその外大のほうに研究を兼ねて来られてまして。そこでこうお会いすることなんかもできたりしてですね、ちょうどその先生、当時はまだ英語を言語学、英語学っていいますかね、教育を含めた英語学っていうことを考えていて、その先生もその専攻、専門だったもんですから。そういうふうな繋がりの中でセントラルに行こう的なことになってきたんですね。

立岩:ワシントンだからワシントンにあるんですか?

青木:ワシントン州のほうですね。西部のほうですね。

立岩:ワシントン州にある大学で、私立の大学なんですか?

青木:州立です。

立岩:州立の…ワシントン州立の大学で。その入った時、それで修士課程を出られたようなかたちですかね。2年間おられたっていうことですから。名前としては英語学みたいな、そういうことなんですか?

青木:そうですね、はい。

立岩:それで、それはそれで、そっか。その大学っていうのは、わりとさっきおっしゃったように、いろんな国から来てたっていうのはわかる感じはするんですけど。米国に行ってそれで英語っていう人は、世界中からってのはわかるんですけど。障害持った人がいたんですか?

青木:そうなんです。これはべつにこのセントラルだけに限らずですね、どこの大学でもスペシャルサービスという機関がありまして。

立岩:大学の中ですね?

青木:はい、はいはい。私以外ももちろんそのネイティブなアメリカ人の視覚障害者の学生もおりましたし、あといわゆる車いす、自分で自走できるような車いすの学生なんかも複数いましたし。あと電動車いすを使って、常時介護者がですね、ついてる学生もいたんですよね。

立岩:特別にその大学がってわけでもなくて、アメリカ全般その当時、

青木:…の制度として、はい。

立岩:だいたいそんなふうになってたと。それはけっこう青木さんにとっては新鮮というか、

青木:そうですね、衝撃っていうか、ですね。

立岩:衝撃っていうぐらいのもんであったと。

青木:そうですね。



立岩:それで、そこはその、まあ言うたら、その英語学みたいなものの修士論文を書かれて、修士号取られて、で、生まれは、新潟生まれて、大学に入る前までは新潟にいた?

青木:そうなんです。新潟、旧亀田町っていう所の私出身で。小学校6年卒業する頃までは、地元の小学校に通ってまして。そのあとちょうど中学に入る前に視力を失って、新潟盲学校という所に中・高と通ったという感じなんですよね。

立岩:こう、見えなくなったっていうのは急激というか、

青木:比較的急激ですね。私は栗川さんと同じ病気なんですけれども。この病気だと、わりと40代、50代まで視力が残る方とかね、60代、70代ぐらいまで視力が残る方もいらっしゃるんですけど、私はそういうふうに言うとかなり早いほうで、小学校の4年生ぐらいから自分もちょっと見え方が他の人と違うなってなことを意識し始めて、視野が狭くて暗い所が見えないっていう、もともとそういう病気なんですけど。それで徐々に視力も下がってくるっていう感じで。小学校6年の夏休みぐらいから急激にやっぱ落ちていってですね、あれよあれよという間に、半年間ぐらいで見えなくなったという感じですね。[00:09:55]

立岩:そんなに早くってことだと、視覚障害になるってことを前提になにかっていうこと、そんな時間もないじゃないですか。

青木:そうですね、はい。

立岩:もうそういう短い時間の間に見えなくなって、それで盲学校6年間?

青木:そうですね。

立岩:新潟市内ですよね?

青木:そうなんです。この同じ中央区というとこですね。

立岩:けっこうなんだろう、今回は大人になって活躍してからっていうのが、みんなある程度知ってるからっていうのもあって、けっこう昔の話とかをほじりだして聞いてるんですけど。盲学校、それは通われてた?

青木:寄宿舎ですね。家からそう遠くはなかったんですけども、寄宿舎に入りました。

立岩:亀田って新潟市の? 接してます?

青木:すぐ隣で、はい。

立岩:おせんべいの美味しい、

青木:そうです、亀田のあられ(笑)。

立岩:寄宿舎、6年間寄宿舎でした?

青木:そうです。

立岩:それは一言で言えないでしょうけれども、どんな記憶というか、気持ちというか、その6年間というのは?

青木:その見えなくなった頃のことも含めてということですかね。やっぱり今まで見えてたものが見えなくなるっていうことについては、理屈抜きでやっぱりショックなことで。当時私野球が好きで、野球なんかもやるぐらいの視力もありましたし、あと自転車乗りまわすとかですね、そんなこともよくやっていたんで、そういうことが、ほんとに物理的にもできなくなったっていう。で、ほんとに見えてたものが見えなくなったっていうことに対するショックというか苛立ちとかですね、歯痒さとか、そういうモヤモヤした気持ちはまずありましたよね。もう一つはですね、やっぱりその見えなくなったことに対して、それを恥ずかしいことだというふうに思いましたんで、自分はそれでまともな人間じゃないみたいなですね、そういう気持ちですごく劣等感も強くなって。当時は、立岩さんの年代でもそうだと思いますけど、よく「めくら」とかですね、めくら鬼とか、めくら滅法とか、そんな、あと例えばそんな悪いことしたら、「ばちが当たってめくらになるぞ」とかですね、そんなことも私、聞いた記憶があって。

立岩:めくら、おし、つんぼっていう言葉がまだあった、子ども頃ね。

青木:つんぼ桟敷とかですね。

立岩:あれはいつ頃、その表舞台からというか、消えてなくなるのかっていうのは、それはそれで調べてみてもいいのかなと思ったりしますけどね。

青木:そうですね。

立岩:確かに子どもの時ありました。

青木:ありましたよね。あのほんとに「ばちが当たってめくらになるぞ」とかですね、そんな言葉がまだ飛び交ってた頃だったんで、だから私の中でも当然その目が見えないっていうことにイコールめくらっていうことで、すごくマイナスのイメージがね、当然あって、私もそういうめくらって言葉も自分が使っていたんだけども、自分自身が差別していた、めくらそのものになったっていうですね、いうことで、やっぱそういうことでもあって、自分は恥ずかしい、まともな人…非常に劣った人間なんだっていうですね、そういう意識で、すごく劣等感も持ちましたし。今でこそ、白杖を自分の体の一部のようにして持ってますけれど、これは視覚障害者どなたでも経験することなんですけど、ほんとこれを持って、持って外に出ることっていうのはほんと勇気が必要なことでですね。これ一つは、それを持つことによってやっぱり自分がもう目が見えないっていうことを認めざるを得ないっていう気持ち、それを受け入れたくないって気持ちがあるっていうのと、もう一つはやっぱりその姿を周りの人に見られたくない、見せたくないっていうこういう二つの気持ちがあって。なかなかその全然誰も知らない所であればまだ持てるんですけど、自分の実家の周辺とかね、これ持って歩くのはほんとにできなかったことなんですけど。

立岩:いつ頃から白杖っていうのを使い始めたというか?

青木:使うようになったのは、盲学校卒業したあと1年間京都の盲学校に専攻科普通科っていうですね、予備校みたいな所があって。

立岩:千本〔通り〕、ですよね。

青木:ええ、そうなんです。

立岩:私の職場の近くなんです。

青木:そうです、千本北大路。そこに行ってからですね、本格的に使い始めたのは。それまでは寄宿舎だったんで、ほとんど学校の敷地内の移動だったんで、そん時は全然白杖は使わなかったですし、時々週末自宅に帰る時に、どうしても杖持たないとあれなんで、バスでこう帰ったりしてましたんで、そん時に持つぐらいでしたけれども。それ以外は、例えば見える弱視の友人と街へ出たりするときも、一切持ちませんでしたし、ほんと持たなかったですね。[00:15:38]

立岩:なんとか、そうか、弱視の同級生と一緒に歩いたりなんかして、なんとかしてたっていうか、そんな感じだった?

青木:そうです、そうです。はい。

立岩:あとそうか、学校は寄宿舎一緒になってるから、慣れた空間だからそんなに要らないと。

青木:使う必要なかったということですね。

立岩:そんな感じか。

青木:もともと行動範囲がそのぐらいでしたからね。

立岩:京都にも行かれたっていうのは、今知りました。ちなみにちょっと脱線しますけど、うちで岸〔典子〕っていう全盲の院生が楠敏雄さんのことで研究するって言って、ゆっくりゆっくりですけどやってる。彼も専攻科のときに、京都盲学校にいたらしいんです。世代がだいぶ上てすけばどね。

青木:それ、岸田さんがですか?

立岩:岸田さんもそこいたんですけど、楠さんがずいぶん前に。彼は龍谷大学で、大学院出て、それで視覚障害の中では最初の高校の教師、専任というわけじゃないけどっていうそういう人なんですけど、それ調べてるんですけど。で、例えばさ、青木さんなんかが、そういう楠さんみたいなその運動の先輩みたいな人たちっていうか、あるいは運動っていうか、日本のね。アメリカに行って、アメリカはこんな感じなんだって思ったっていうのはよくわかるんですけれども。それはいっぺんアメリカ行って日本に帰ってきたからですか?

青木:そうですね。だから日本にいる時は、逆にいうと、視覚障害者以外の障害の人に会ったことっていうのは、記憶がないぐらいなんですね。車いすの人に会ったこともなかったし。で、私がだから接することがあった障害者っていうのは同じ視覚障者ぐらいっていうのと、あといろんな視覚障害者を含めて、障害者の当事者団体がいろんな運動してたってこともまったく知らなかったんですよね。だからほんとに日本の中で、障害者の人たちがどういうふうな運動してたかっていうようなことも全然知らなかったし、そこに当時は関心もあまりなかったとういうかですね、そこに全然アクセスすることもなかったですし。あとはなんていうのかな、当時はまだ自分自身が障害当事者として、なかなかそれを十分受け入れてたかというと、受け入れてなかった時期もあって、あまりこう逆に障害のある人との接することをですね、自分からそんな求めてもいなかったっていうかですね。あまり逆に障害者団体とかそういったとこにも意識もしなかったけども、あまり自分から関わろうというふうな気持ちもなかったというかですね、そういうことであまり情報もなかったような気がしますね。

立岩:たぶん、みんなそうだったと思うんですけどね、中・高はそんな感じ。例えば京都外大に学生として4年間ですか、学生してるわけじゃないですか。その中・高の時はだいたいそんな感じ、中にずっといて、週末実家に帰ったり、弱視の友達と街に出たりっていうような生活だったっていうのはなんとなく、お聞きするとそうだったんだろうなと思うんですけど。京都外大にいた、学生の時の4年間っていうのは、どんな感じでした?

青木:なんで私が一般大学に行くことになったかってこともあるんですけど、それが高校3年の時にですね、担任の先生と将来のことを話をする機会があって。その先生は盲学校の経験が少ない、普通高校から来たばっかりの、来て2年目ぐらいの先生だったかな、だったんですけど。で、だからその先生からすると、ある意味当たり前のような感じだったのかもしれないんですけれど、その将来の話を…進路の話をする時に、外の世界を見とかないかっていうようなことをですね、言われて。どういうことなのかなと思ったら、その例えば一般大学に進んでみるとかっていうふうなことを、その先生が初めて私にそういうことを投げかけたんですね。[00:20:13]

立岩:それは担任の先生みたいな?

青木:担任でした。私からすると、まったくそのなんていうんでしょうかね、思いもよらない言葉っていうか、自分からしてみると、その盲学校の世界と外の世界っていうふうな区別的なかたちで当時思っていて。その盲学校の外の世界っていうのは、私にとってみればほんと別世界のように思っていましたし。しかもその中で、一般大学なんていうのは、もうまたさらに別世界の別世界みたいなですね、いう意識で、考えたこともない世界だったので、ほんと、ちょっとこの先生は何を言いだすんかな、みたいな話で(笑)。

立岩:ちなみにその先生の担当科目は?

青木:数学の先生です。で、ただ私自身もやっぱり盲学校っていうのは非常にこう限られた空間だし、人数も少ないし、高校生ぐらいになった時から、「盲学校の外の世界ってどうなってるのかな」とかですね、「もっと多くの人に会いたいな、会って広い世界を知りたいな」っていう気持ちは芽生えてきてたんですね。ただ、だからと言ってね、何ができるわけでもないしってことで、この環境にいるしかないんだっていうふうに言い聞かせて生活してたなかで、だから先生からそういう話が最初あった時は、とんでもない話だってことで断ったんですけど。でもそのあとも何回かちょっと真剣、まじめに話をするような機会があって、その中でもともと自分はそういう気持ちもあったし、失敗しても命を取られる程のことでもないし、それであればあとであの時やっとけばよかったなと後悔するよりは、失敗したとしてもあの時やりたいことがやれたなと思えたほうがいいかなと思ってですね、それで心を決めたっていうところがあるんですね。

立岩:2つあってね、その受験勉強っていうか、福島智さんって方ご存知ですかね。彼にこないだ論文の審査員やってもらって、そのついでに彼はいかに受験をしたのかっていう話を聞いて、それ面白かったんですけど。京都に、京都の所に1年ですか、京都盲学校、そういうのも含めて自分がどういうことをしたのかっていうのと、あと京都外大がその当時ですよ、どんな感じでその対応というか、そのへんを教えていただけますか?

青木:そうですね。ほんとにあの、盲学校時代は、べつに大学進学なんてことも考えたことないんで、ほんとに受験勉強なんてことやったことがないですし、ほんとに一からのまた勉強のやり直しだったんですけど。で、向こうは大学進学を専門というか、それを意図したコースがあるということで、いろんなそのための対応をしてくれたんですけども。で、私はそん中で、やっぱり勉強ってこんなに大変なものなんだなということがわかったってことが一つ、自分にとっては収穫だったなと思うんですけれど。ですから1年間とにかく初めて受験勉強っていうか勉強らしいことをして、勉強の厳しさをわかったっていうのと、あと、それまで大学に行くことは決めたんですけれど、具体的にこれを勉強したいっていうのが特にあったわけではなくてですね。そんなかで、その京都府盲行った時に、英語の先生がすごく、なんていうかな、魅力的なというか、英語の授業が面白くてですね、それで英語って面白いんだなって初めて思って。

立岩:それは京都に行ってから?

青木:行ってからなんです。はいはい。それで、これであれば自分も英語をもう少し深く勉強してみたいなっていうふうに思うようになって。だから、なんか勉強したいことが実際に見つかって、それも大きかったと思いますよね。

立岩:その京都府盲にそういう1年間の大学進学のためのコース的なものがあるっていうのは、新潟の先生から聞いて?

青木:そうなんです、そうなんです。その担任の先生が調べてくれて、それで行くことになったんですよね。

立岩:ちなみに京都府盲にいた1年っていうのの住処というか、住居というか?

青木:寄宿舎です。

立岩:やっぱり寄宿舎か。その2つあるんですけど、その新潟の時の盲学校のサイズっていうか、同級生何人いたとか、中と高も違うかもしれません、違うでしょうけれど、どんな規模なんですか?

青木:そうですね、当時私がいた頃は全校で百数十人ぐらいいたと思うんですよ。

立岩:全校っていうのは、中・高入れて?

青木:幼稚部からですね、幼稚部、小学部、中、高等部、高等部の上に専攻科理療科っていうのがあるんですけれども。あと、同じ高等部にもいわゆる中学卒業後に、あんまとかを学ぶ、高校過程みたいなのもあったりして、それ全部含めると120人ぐらいいたのかなと思うんですけど。

立岩:全部くるめてそのぐらいってことですね。そうすると1学年ってどのぐらい?

青木:多いところで、私のクラスは6人ぐらいでしたし、多いところでも10人とか、12人いたらすごく多いなっていう感じで。ちなみに今でいうと、新潟盲学校は全校揃っても30数人ぐらいなんですよね。30人、40人いないぐらいなんですよね。少ない(笑)、ええ。だから中学部だけでも3人とかですね、そんな感じとかですね。

立岩:そうなんだ。その京都の京都府盲の1年間の時の大学進学クラスみたいなものですよね、実質的に。それはどのぐらいの人数いたか、記憶にありますか?

青木:それはですね、その年は非常に少なくて、私ともう1人の2人しかいなかったんですよね。はい。

立岩:その寄宿舎ってものは、その2人の同室みたいなんですか? そうでもないんですか?

青木:寄宿舎は他の学年といいますか、他の人とみんな寄宿舎一緒なんで、はい。

立岩:何人部屋?

青木:私ら3人部屋でしたね。

立岩:それは新潟の時も?

青木:新潟の時も高校生の時は2人部屋でしたけれど、中学の時は3人部屋でしたね。

立岩:それで京都に来られて英語面白いと。ちなみに僕の父親っていうのは去年亡くなって、

青木:今回法事だったそうで、ええ。

立岩:そうなんですよ。高校の英語の教師でした。

青木:ああ、そうなんですか、おお。

立岩:僕は英語がまったく読み書きすべてできないんだけれども、父親は、なぜかというか、英語の教師でした。じゃあ、英語を教え…、あ、そうか。で、それで英語面白いなと思ったと。思って、ほんで、でも1年間しか、短いですよね。

青木:短いですね。

立岩:勉強するには。でも実質受験勉強っていうのはその1年間?

青木:そうです。

立岩:高等部の3年が終わり…、3年生の時にその数学の先生に勧められて、じゃあやってみようかっていうんで、京都行った。1年間でその受験勉強っていうものは済んだというか。

青木:私もね、1年目の冬ぐらいでなかなかその思うように力も伸びなかったし、もう1年覚悟しなきゃいけないのかなって思ったんですけど。ただでも、それでもやっぱりまだ時間が残ってるんで、諦めずにとりあえずやれるところまでやろうというようなことでですね、やって、なんとかクリアできたんですけれど、ほんとによかったと思いますけどもね。

立岩:その当時の大学の、大学を出たのが、そうすると、出たというか入ったのが66年生まれ、91年、87年とかそのぐらいですか?

青木:そのぐらいになりますかね。

立岩:87年とか、違うか。91年から大学は4年間で出た?

青木:そうですね。

立岩:だったら91から4引いたら87か。そのぐらいか。それは、その頃の、例えば大学いくつも受けたのかとか、その大学の受験体制、入試の受け入れの体制っていうのはどんな感じだったですか?

青木:そうなんです。それでとにかく我々がまず確認しなきゃいけないのは、どこの大学が点字受験を実施するかっていうところからなんですよね。そいで関西でいうと、京都外語大っていう所と、関西外大っていうのがあってですね、ここが2つとも点字受験を実施していたっていうのがありましたし、あと関東のほうもちょっと調べたんですけれど、それも関東のほうでも何ヶ所かやってるとこがあるっていうことがわかったんですけど。

立岩:それは外国語の学部とか大学とかでってことですね?

青木:そうです。で、ただ実際京都に住んでいたんで、そのまま京都での生活続けたほうがいいかなっていうふうに思ったのと、その京都外大には実際に当時まだ現役で視覚障害者の人がいらっしゃったんで、学生が。その人に話も聞くことができたので、それで京都の外語大を本命に受けたいなというふうに思っていったんですね。実際受かったのが、そこだけだったってこともあるんですけど(笑)。

立岩:いくつか受けたんですか?

青木:京都外大とその関西外大の2校でしたね、受けたのは。

立岩:2つか。じゃあ2つ受けて1つ受かって、で、京都で。じゃ京都の生活を1プラス4、5年京都におられた?

青木:そうですね、そうなります。

立岩:外大の、外大の時は下宿というか?

青木:そうなんです。これもほんとに恵まれていてですね、最初ちょっとやっぱり不動産屋とかに行った時に、やっぱ視覚障害者ということで、最初私が近くていいなと思った所があったんですけど、そこは大家さんが受け入れられないということがあって、断られてですね。その次に、その時その京都の盲学校でもお世話になった先生が一緒に探してくれたんですけれど、ここもなかなかいいんじゃないかっていうふうに教えてくれた所が、すごく大家さんがいい人で。私をなんていうかな、家族みたいに受け入れてくれてですね。小さいアパートだったんですけど、大家さんの家もすぐ隣にあって、わりと私と同じぐらいの息子さん達もいて、ほんとありがたいことに、夕食はそこの奥さんというかお母さんがいつも届けてくれてですね。とか、あと日曜日になるといつもその家に行って、夕食を一緒に取らせてくれたりとかですね、ほんとに息子のように扱ってくれた大家さんで、ほんとに恵まれてたんですよね。

立岩:どこだったか覚えてます? 場所。

青木:京都のですね、徳丸町っていう。松尾橋ご存知ですか? 西のほうなんですけど。ずっとね四条、

立岩:松尾橋って松尾大社とかあるとこ?

青木:そうです、そうです。あそこよりもなんていうかな、中心部側なんですけど。四条通に面してるぐらいの所なんです。

立岩:大学、学校の近くってことで選んだんですか?

青木:ええ、大学からバスで、乗って4つか5つぐらいの停留所のとこですね。

立岩:じゃあ4年間はその親切なっていうか、よくしてくれた大家さんの家の隣のアパートにずっと4年間住んでた。大学の受験は特に支障というか、

青木:そうですね、それも点字でですね、試験問題が出されて、あと時間配分も1.5倍あってやってましたし。あとただ、実際その点字への点訳を誰がするかっていうと、盲学校の先生がされてたんですね、京都の盲学校の先生が。そうすると私の他にも受験生もいるっていうこともあって、1人せいぜい多くても3校までの受験にしてくれっていうようなことが言われてましたし、あとその点訳の費用は私たちのほうで払ってたって、謝礼をですね、払うってことがありましたけど。

立岩:え、何? (笑)受験生が、自分が受験するにあたっての先方の大学の試験問題を点字にするのを、

青木:盲学校の先生が。

立岩:先生にやってもらうのを、その謝礼を受験生が払うっていう、

青木:仕組み(笑)。点訳の依頼は大学のほうから学校側にきてるみたいなんですけれど。で、だけども実際その点訳の謝礼、確か当時2万だったと思いますけど、2万はこちらでお支払いしてましたね。

立岩:それは何? 全科目で2万円とか。

青木:1校に対して。

立岩:ちなみに、青木さんがその当時受けられた時の科目っていうのは、もちろん英語はあったと思いますけれども。

青木:外大は英語と国語と小論文だけだったです。

立岩:英、国、小論文。そうすると先生としては、英と国と小論文はほんとの作文みたいなものだったでしょ? 2科目とちょっとぐらいな翻訳を2万円で、盲学校の先生がやったのに対して受験生が払う?

青木:そうです。

立岩:今はそれはさすがにないんじゃないですかね?

青木:さすがにそれはたぶんないと思いますね。と思いますね、今はね。

立岩:お金のことはそうだったと。時間は1.5倍って今でもけっこう、

青木:たぶん今も1.5倍だと思いますけど。

立岩:なんとなく相場っぽいですね、1.5ってね。それで受けて、それはそれで受験は1年間の短い受験勉強期間だったけれども、なんとか合格したということで。

青木:まあそういうことですね(笑)。

立岩:4年間の外大での生活っていうものは、どんな、どんなっていうかな。

青木:そうですね、住まいのほうはね、おかげさまでそういう大家さんに恵まれて、食事のほうも夕食はそれで***(00:35:42)で大変ありがたかったんですけど。あとやっぱり、あれなんですね、私にとってみれば初めてと言ってもいいほどね、小学校の時を除けば、健常者と見える人たちの中での生活なんてことで、やっぱ最初はものすごく緊張していたんですよね。毎日、毎日学校に入っていく時に、周りの人は自分のこの姿を見てるんだろうかとかですね、周りの人がなんか自分のことを見てんのかな、どんなふうに見てんのかなとか、そのへんのことを気にしたりとか、緊張して入っていってですね。で、それでもそうですね、教室で私もけっこう緊張していたけども、やっぱり周りの学生もなにかぎこちないというか、緊張しているようなですね、雰囲気みたいなのも、感じたところはあるんですけど。なんか私が1人で座ってると、ちょっとやっぱりたまにっていうか何人かは声かけてくれる人がいるんですけど、なんか私に声かける時と他の友達と話をしている時と全然雰囲気が違うみたいな、妙に硬い感じっていうかですね、敬語になったりとかですね、そういう雰囲気が【あって】(00:36:53)(笑)。で、それでだいたい話しかけてくる学生はですね、わりと同じようなこと聞かれたんですけど、「青木くんって1人でご飯食べれるんですか」とかですね、「1人でバス乗れるんですか」とか、「1人で風呂に入れるんですか」とかですね、そういったことを聞いてきたりとかですね。して、こっちからすれば、極々日常の生活なんで当たり前にやってることを、なんでこんな聞かれるのかなと思いながらも、でもこれが現実なんだろうなっていうようなですね、いうふうなところから始まって、だけどやっぱり時間が経つにつれて徐々に打ち解けていくようなかたちになってですね。だからほんとになんていうかな、ごく自然にクラスメートとも付き合えるようになってきたし、一緒にサークルやったり、ドライブに行ったり、カラオケ行ったり飲みに行ったりとかっていうふうなことでわりと普通に学生生活を楽しめるようになりましたね。

立岩:その受験は2万円払って受験して。でもその授業の時のって、やっぱ黒板とか見えないわけじゃないですか。そのへんのその情報保障というか、学習保障というか、そんなんはどんな感じやったんですか?

青木:そうですね。まず教科書については、テキストについてはボランティアの点訳の方だとかにお願いして、あと音声訳をお願いして。これ、もともとその外大にいた視覚障害者の先輩がいたんで、その方からこういうボランティアの方がいらっしゃるよっていうようなことを情報いただいたりしたこともありましたけど、基本的にはみんな自分でコーディネートをして、点訳とかしてもらってたんですよね。

立岩:それは大学っていう組織は関わらないって考えていいんですか?

青木:ええ。それ、最初はそうだったんですけれども、私が卒業する頃にまた新しい視覚障害者の学生も入ってきて、学校側も、自分たちの学校側として…学校としてボランティアの方とコンタクトを取って教科書を用意するっていうようなことを、私が卒業する頃にですね、そういう体制をとってくるようになったんですね。

立岩:それってけっこうその70年…80年代、70年代後半から80年代ってこう事態が変わっていく、10年とか20年ぐらいの間で。僕がこの間聞いたのだと、僕の先輩でもある石川 さんが大学入って、どういうかたちでっていうのを聞いて※、それはそれで面白かったし、いろいろ違うんだなっていうのも思ったし。わりと短い間に変わっていったんだなっていうのも思いましたけどね。そうか、先輩がいたっていうのは、けっこう大きかったのかもしれないですね。
※石川 准・河村 宏・立岩 真也 20140322 「視覚障害学生石川准と東大図書館員河村宏――その1970年代から21世紀へ」

青木:それはやっぱり大きかったですね。その方は、あの、

立岩:お名前は覚えてらっしゃいます?

青木:森さんっていう方で、この方は入学の時は普通に見えてる方だったんですけど、なんか病気かなにかで、[00:40:15]

立岩:在学中に?

青木:に、視覚障害になられて、たぶんちょっと1年ぐらい休学されたんでしょうけども。そのあとまた復学されて、それから視覚障害者の道がその大学では開いていったっていう経緯があるんですよね。

立岩:石川さんときもなんかそんなこと言ってたな。彼をずっと支援した、その図書館の職員っていうのが、あれですよ、河村さん、DAISYの人。あの人があの時図書館の職員で、石川さんの支援にもあたったんだけど。その前に、やっぱり中途で法学部かなんかの学生で、在学中に視覚障害になった人っていうのが最初だった。全盲で見えないまんまで、受験してあたったっていうのは、その石川さんが最初だったみたいですけど。それでその前にそういうことがあって、そういうもので徐々に、そういうものが多少というか継承されたりっていうのはあったのかもしれませんね。

青木:そうですよね。だから私が受けた授業の先生の中でも、森さんを教えた…担当したことがある先生もいたんで、そういう方は少しなんていうかな、慣れてるところもありましたし。あと先生に対しては授業の始まる前に、「目が見えないんで、板書をするときはすみませんが声を出して読んでください」とか、それは全部の先生にお願いしてやってました。

立岩:書きながら、読みながら、書いてくれと。なるほど。

青木:それは全部お願いしてましたね。あと必要に応じて私も録音採ってやりましたんで、そういうふうなかたちでやってましたね。

立岩:板書は先生に声出してもらう、録音は時々する。それでどうですか、授業はだいたい乗り切れた的な感じですか?

青木:そうですね、授業は。あとはそうですね、特になんていうかな、普通のその英語とか専攻に関わるような授業は教科書もきちっと用意しましたし、それはだいたいオッケーで、逆にいうと一般教養みたいなすごい大教室でやるようなのは、なかなか板書を大きいクラスなんで、板書で声出してもらってもなかなか読み取れなかったりとか、聞き取れなかったりとか。そういうときはクラスメートにですね、ノートをちょっと貸してもらったりとかですね、読んでもらったりして、ケーキを御馳走したりしたぐらいしてですね(笑)、そういうふうに少し手伝ってもらったりしたこともありましたね。

立岩:大学で例えば単位取る時、試験なんかあるじゃないですか。そういうのはどうした?

青木:試験はですね、別室でその各先生が他の学生とは違う時間帯に時間を取ってくれて、個室でですね、試験をやってくれましたね、口頭でやってくれました。はい。

立岩:口頭で問われたことに口頭で答える的な?

青木:そうですね、口頭の場合もありましたし、やっぱりそのリーディングみたいなのは、たぶん盲学校かなんかに依頼したんだと思いますけど、点字で試験問題が出てきたものもありますね。

立岩:その当時そのテキスト、教科書とか点訳したけど、それはその大学とは別の点字ボランティアスタッフ的な?

青木:そうです、そういうことです。

立岩:ものがあった?

青木:はい。

立岩:それは森さんっていう方の時にできた? 前から、その前からあったのかな?

青木:そうですね、大学とは直接関係なくして、なんか京都はわりとボランティア活動が盛んということもあって、そういう点訳のボランティアをされる方とかがけっこういらっしゃって、そちらのグループのほうに依頼さしてもらって。

立岩:それはその、青木さんのほうから、この教科書を点字にしてくれっていうふうに言うと、そのボランティアでやってくれるっていう、そういうことだったんですね。録音っていうのは、僕はね、その石川さんのインタビューでも言ってますけれども、彼は社会学だったから、社会学の本って山ほどあるじゃないですか。で、読まなきゃいけないっていうんで、僕はその彼のためにというか、それはね、大学がなんか特例みたいな感じで、どっかから怪しげに金を当時は引っ張ってきたらしいですけどね。なんかを回したっていうことだと思うんだけど、けっこういいアルバイトで、僕はそのテープレコーダー、カセットテープに本を朗読するっていうアルバイトをけっこうやってたんですよ。

青木:そういう関係なんですね、石川さんとは。

立岩:そう、石川さんとはそれが始まりで、学部生の時からそういうんで、で、やがてって話なんですけど。だからもう僕はそういうふうなことをやった記憶はあるんですが、そんなその録音物を使うっていうようなことっていうのは、大学の時代にありましたか?[00:45:14]

青木:それもですから私はボランティアの方にですね、お願いしてやってました。

立岩:それは何? 録音したものが、カセットテープのあれが送られてくる的な?

青木:そういうことですね。

立岩:対面は?

青木:対面は、それこそ京都ライトハウスっていうのがありますけれども、そこで対面朗読のコーディネートやってくれてたんで。だから授業で出されたプリントなんかをそこに持って行って、そこで読んでもらって自分で点字に書き直したりとかっていうこともしてましたね。

立岩:じゃあけっこうその大学のっていうよりは地域のというか。確かに京都はライトハウスの歴史もあるし、府立盲学校ってあれ、日本で初めてですか?

青木:そうですね。

立岩:なんかそういうのは、蓄積というか、あるんでしょうかね。

青木:あるんです。で、あそこにはきちっと視覚障害者のいわゆる生活訓練の施設もありまして、私が実際京都に行っていろんな歩行訓練ってのもしてもらいましたし、学内、学校の中をまず、どこに何があるかっていうのもそこの歩行訓練士からみんな教えてもらったりとか。そういうふうなことでやってきましたね。

立岩:それでなんとか学校の時は乗り切ったが、でもって話が最初の話でしたよね。その4年間そうやって、まあいったらつつがなくというか、学生は。その時に例えばね、ある種の人たちっていうのは、大学だと楠さんなんかそうですけれども、時代が時代ですからね、もうそりゃだいぶ違うし、もう10年以上経ってるから違うと思うんですけど。その大学の時に、のちのというか、運動であったり政策であったり、そういうものに繋がるような契機というかそういうもの、そういうものの芽生えというか、そういうものはあったんですかね?

青木:そうですね、学部生の時はそういう直接運動とかっていうことはなかったですね。その時はですね。

立岩:とにかく勉強して4年間で卒業して、そしたらもっと研究というか、もう少し勉強し続けたい、

青木:当時はだから、とにかく英語力を身につけて、この社会の中で、なんていうんでしょうね、やっていけるだけの力をつけたいと、その気持ちのほうがやっぱり非常に強かったですね、当時は。

立岩:英語の力を、技を身につけて、そのために留学したのも、まあいったらそのパワーアップというか、そのために2年間行ったら力がつくというか、箔がつくというか、そういうので行ったと。だから、行った時はほんとに英語の先生になるつもりで、

青木:当時はそういうふうな気持ちが強かったですね。

立岩:でも、っていう話でようやく最初に話に戻ってきたわけですが。けっこうそのアメリカの2年間っていうのが、転機というか。



青木:私にとってはそういうことでしたね。

立岩:もうちょっとその、最初ね、お伺いしましたけれども、いろんな学生がいて、いろんな国の障害持ってる学生もいてっていうような、そうだったんだろうなと思うんですけど。だいぶその気持ち的にというのかなあ、違うものでした?

青木:そうですね、私、最初にですね、さっきお話ししたスペシャルサービスっていう所にまず行きまして、そこの担当者が出てきて、その担当者が最初に端的にこういうことを私に聞いてきたんですよね。「あなたは目が見えないけれども、目が見えないあなたがこの大学で自分の目標を達成するためには、どういうサポートがあればいいですか?」っていうですね、どういうサポートが必要ですかっていうことを聞いてくるんですよね。私はそれで、日本でやったように、例えば教科書が点訳点字であったりだとか、あと録音してもらったりだとか、あるいは図書館で資料を探すのを手伝ってもらったりだとか、そういう人が、そういうサポートがあればやっていけると思うっていうようなことを話をしましたら、それがもうオッケー、わかったというふうなことになるんですよね。で、具体的にそれは誰がその作業するのかなと思ったらですね、さっき立岩さんが朗読されたって言ってましたけど、学生に学生がやるんですよね、アルバイトいう形でですね。ですから、点訳っていうのはなかなか難しいんで、点訳…自動点訳のパソコンみたいなのもあったんですけど、主にはだから私、その教科書、だいたいテープで録音してもらって、それを主に活用していたんですけれど。ですから、日本の時は自分でボランティアの人を探して、どうしてもボランティア活動なんで、授業に間に合わないようなこともあったんですけど、それはそれでやむを得ないだろうと思ってやっていたんですけど。ですからあの、そのアメリカの場合は、きちっとその授業に間に合うようにボランティアじゃなくて、学生に仕事としてそれを要請して、依頼して、準備するっていうですね。そういう意味ではすごく助かったというか、楽だったというかですね、そういう意味ではすごく環境としてはよかったなと思いますよね。

立岩:それはそのサービスというか、大学のほうが依頼すればやってくれる、それはそれできっとよかったことだと思うんだけれども。当初その英語の先生になりたいと思って行ったのが、帰ってくる頃にはちょっと社会的なっていうの、そういうことにっていう、そのあたりのこと、転機というか?

青木:それはですね、さっき言ったみたいに、ほんとに国籍も多様だし、その他の重度の脳性麻痺のような学生に対しても介助者が、同じ学生がですね、介助としてついたりして、当たり前に自分の身の回りで同じように学んだり生活をしているわけなんですけれど。こういうことってできるんだなって一つ単純に思ったんですよね。それまでは、私も視覚障害者が大学に行くなんてことは特別なことだと思っていたわけなんですけども、特別なことではないんだなっていうかですね、こういう必要な形でのサポートがあれば、障害がある人だって同じように同じ場で学んだり生活をすることも可能だし、それまでは私も目が見えないことを自分の個人の欠陥っていうふうに思っていて、それをこういかに薄めていくかっていうですね、薄めて健常者に近づいていけるか、健常者に近づくことによって評価される人間になるかみたいなですね、そんなふうな思いだったわけですけれど。この社会っていうのは、いろんな人がいて当たり前なんだなっていうことを今更ながらというか実感をして、それでその、いろんな多様な人たちがいて、その人たちがこの社会を作っていて、それぞれに違った条件で生きてる人たちに対して必要な支援をすることによって、なんていうんでしょうかね、ほんとに共に生きていけるような環境は作られるんだなっていうようなことを実感したんですよね。そういうふうなことを感じる中で、自分が今まで劣等感を持った、自分の欠陥だと思っていた見えないことそのものもですね、この見えないことを含めて、これが青木学そのものなんだなというふうにですね、思えるようにもなってきたんですよね。そういうふうに思えるようになったらですね、すごくこう自分の気持ちも楽になって、自己解放っていうふうなかたちになって、青木学はこの見えないことを含めて青木学で、このまま生きていけばいいだっていうふうに思えるようになってですね、いうふうな気持ちになって。で、すごく気持ちが前向きになったんですよね。
 ただ現実的には、その一視覚障害のある青木学という者が自分の目標に向かって生きていこうと思ったとしても、それは時には人の意識的な差別だとか偏見によってそれを惑わされることもあるだろうし、あるわけだし。社会的な制度においても、それが閉ざされることもあると。それこそ社会モデルの話になりますけれども、その時に初めて本当の障害っていうのは、むしろ社会の側にあるんだ、あるものなんだっていうことを当時、私バリアフリーとか、社会モデルのことも全然知らなかったんですけど、そういうふうな発想に向いていったんですよね。で、と同時に、ですから、初めてその自分の障害というもの、目が見えないっていうことと、社会っていうものを結び付けて考えるようになったんですよね。で、そういう社会のあり方、形っていうのは、どういうふうに作られていくかっていえば、やっぱ政治だっていうようなことにもなっていってですね。ですから、非常にその頃から政治とか社会っていうことに、こう意識が向いていったっていうところなんですよね。そいで、そういうことを感じたこと、当事者自身が自分の言葉でやっぱり周りに伝えていくことが大事なんだっていうふうなことも思ってですね、これで日本に帰ったらいろんな運動に入っていこうっていうふうにはその頃思ったんですよね。[00:55:42]

立岩:日本に帰られたっていうのは、日本のどこに、ワシントン州から、帰国してどこに行ったっていうか、

青木:最初は実家の亀田にまず戻ってですね、最初東京方面であれなんです、いろんなその、いわゆる国際交流とか国際関係に関わる機関が東京のほうにいくつかあるもんですから、そういった所の門戸を叩こうと思って、自分では東京のほうに出て行こうとは思っていたんですよね。

立岩:そういう機関というか、そういう国際交流なんとかとか、そんな感じのとこですかね?

青木:今でもJICAとかですね、いろんな他にも外郭団体があったりとかですね。あとはもう少し民間のものがあったりしたんですけど。そういった所をとりあえず当たっていこうかなというふうに考えてたんですよね。

立岩:で、その、今、年表見たら、93年に帰ってこられて95年にはもう市議会議員になっちゃってるじゃないですか(笑)。その間2年しか経ってないって感じですよね。かなり短い期間の間に、なんていうか。

青木:これもいろんな紆余曲折あったんですけど、結局みんな門前払いにあったってことなんですよね、その就職が。

立岩:東京での国際交流系の所が?

青木:はい。で、門前払い、結局私もそんなに、そんななんていうかな、当時の状況の中で、全盲の視覚障害者が簡単に就職できるというところまで楽観はしてなくて、なかなか厳しい状況あるだろうなとは覚悟して当然帰ってきたんですけれど。でもやはり、あん時は7、8件、7、8社ぐらいはたぶんあたったと思うんですけれど、すべての所が視覚障害って聞いただけで、うちは点字受験をしてないとか、障害者を受け入れる環境が整ってないっていうことで、試験さえも受けれないっていうかですね、受けさせないという状況の中で全部門前払いだったんですよね。

立岩:8つとか9つのそういう会社…、

青木:機関ですね。

立岩:それで相談というか、どうしたら受けられるんだみたいなこと言った時点で「うちは採ってません」みたいな、そういう。JICAとかもそんな感じだったんですか?

青木:そうですね。あとは、「じゃああとで返事をします」とか言って手紙なんかも来たこともありますけれども。ちなみにJICAは今は全盲の視覚障害者も働いてる人いますけどね。それで、それがなんていうかな、私にとってものすごい悔しい経験だったんですよね。その視覚障害ということだけで、青木学がどういう人間かも全然判断もされないし、どういう能力を持ってるかっていうのも判断されないし。それで、なんていうかな、もうそういうかたちの中で門前払いをされるっていうのに、ほんとに悔しい思いをしてですね。これはいつか今はとりあえず1回撤退はするけれども、いつか必ずこれで済むような、なんていうかな、このままでは済ませないっていうふうな気持ちもすごく強かったし、いつかそういう時代が来ると、時代が来るだろうし、時代にしなきゃいけないっていうふうな思いで、とりあえず1回は撤退するけども、このままで許されると思うなよ、みたいな気持ちがその時強く思ったんですよね。で、それで、栗川さんとは、私が外大の学生の時からもう出会ってたんですけれど。

立岩:学生の時もう知ってたんですか?

青木:ええ。栗川さんは当時もう盲学校のほうに勤務してた頃だったんですけどね。アメリカ行く前にもいろいろ会ったりもしてましたし、帰ってきてから、実は今こういう状況でみたいな話をして。その時に栗川さんが、「いや、青木さん実は市議会っていう道もあるんじゃないか」っていうことをですね(笑)、いうふうな、

立岩:栗川さんが言ったんだ。

青木:ええ、栗川さんがその一番のきっかけだったんです(笑)。

立岩:それでこうでこうでっていうようなこと言ったら、栗川さんが議員っていうのもあるよって。

青木:そうですね。もちろん、それもまた紆余曲折があってですね、1回私も「そうか、そういう道もあるのか」って思って、すごい関心を強く持ったりして。そのやっぱり行政のこのなんていうか、形式的なやり方に対してすごく腹も立ったし、それを打ち破るような少しそういうことに?がるんであればっていうようなことで、すごく気持ちがそちらに向いたことも一度は決意したけども、ちょっとまたそのあといろいろ紆余曲折があって、やっぱりやめることにしたとかですね、ちょっといろいろあったんですけど。そういった時に、遁所(とんどころ)さんっていう名前もメールで出てましたけど、あ、遁所さんご存知ですかね?

立岩:遁所さんはそうなんですよ。なんで知ってるのかよくわかんないですけど(笑)。はい、存じあげております。

青木:そうですよね。ちょうど遁所さんが、行政書士の試験を受けたいっていう時に、受けようと思って、県庁かなんかに行ったんですけど、そん時にそのやっぱり県の役人が、「いや、そういう前例がありませんので」っていうふうなことでですね、「自分はワープロ受験…ワープロで受験させてもらえればできるんだけど」っていう話をしたんだけども、「いや、それは前例がありませんので」ということで門前払いに遭ってたんですね。その交渉の場にたまたま一緒に行く機会があってですね、これはほんとに私の就職の時の点字受験とかとも同じ課題だし、当時もだから最終的に出るかどうかまだ悩んでる時期でもあったんですけど。でもほんとにこれはやっぱり自分だけの問題じゃなくて、いろんなところにこういう課題があるんだなっていうふうに思って。自分が議会に出ることによって、少しでもそういう環境を変えていけることに貢献できるんであればっていうふうな気持ちで「よし、やろう」っていうふうに思ったんですかね。

立岩:でもこれ、でもっていうか、29とかですよね?

青木:そうです。当時はまだ28だったですね。

立岩:20代じゃないですか。市議会とはいっても、なんというか、やっぱりそう簡単なもんじゃないじゃないですか。実際問題というか、どういうふうにして、議員青木は誕生したというか。

青木:たまたま栗川さんがですね、当時でいう社会党の市議会議員の知り合いの人がいてですね、女性の議員がいて、その方もわりと福祉とかを熱心にやってる方だったんですけど。私、今思うとたいしたもんだなと思うけど、その方が当時からですね、やっぱりその方も障害福祉なんかもわりと取り上げてくれてた方だったんですけど、やっぱり当事者が出る必要があるというようなことを思ってた人で、その人が栗川さんになにか当事者の人で、紹介してもらえるような人がいたらお願いします、みたいなこと言ってたそうなんですね。

立岩:ちなみにその方の名前とかも覚えてらっしゃいますか?

青木:その議員の方ですか? 内田洵子(じゅんこ)さんっていう、はい。

立岩:じゅんは純粋?

青木:純粋の純だったかな?

立岩:市議会の議員を務めておられて、当時の社会党だったんですね?

青木:そうなんです、そうなんです。なので私が決意、ですから決意をするということで、だから当時社会党の推薦を受けるようなかたちですね、それで栗川さんなどを中心にいろんな仲間とか、ボランティア的な人を募って準備をしていたっていうのと、もう一つは社会党ということでですね、労働組合の一定程度の支援もいただけるような体制もとってくれたんですね。そういうふうな二つの、一つはボランティアの有志の皆さんの力と、その労働組合の力とそれをこう、兼ね合わせて選挙戦やってきたって感じだったんですよね。

立岩:新潟市って、新潟県民であったはずなんだけど全然よく覚えてないんだが、例えば新潟市って社会党強いんですか?

青木:当時は非常に力があるとこでしたね。議会の中でも第一会派になったこともあるし、第二会派ぐらい…いつも第二会派ぐらいの。

立岩:第一会派になったこともある?

青木:あるぐらいなんですよね。

立岩:組合はどこがっていうのはあったんですか?

青木:組合は、いわゆる民間とかですね、当時はそうですね、民間の事業者の組合がついてくれましたかね。

立岩:じゃあわりと28、9の最初の選挙はわりとこう、すんなりということじゃないと思いますけど、わりと順調にというか、

青木:そういう体制はですね、私もよく今思うと、よくこんなどこの馬の骨か分からない、27、8ぐらいのですね、みんなそういうふうに支援してくれたなっていうふうに今思うんですけれど。おかげさまで、わりと支援の輪が広がっていって、はい。いい形で進んで行きましたね。

立岩:それが95年だから、それから早いもので24年?

青木:丸24年が過ぎて(笑)。

立岩:そうか、辻褄合いますよね。4×6=24だから。その間1回も外れることなく当選を続け、24年が経ち、今がプラス1年目と。

青木:25年目に入ったと。

立岩:すごいですね。その間のこと全部語ってもらったらそれはキリがない話なので、よしときますけれども。毎日新聞の記事を検索したら出てきて見たんだけれども、その県議会とか、それから政令指定都市を含めて、青木さんみたいな方いらっしゃらないって。

青木:そうですね。県議、政令市では、今は私だけですけど、ただ他のいわゆる…、今はですね、私は95年の頃はもう少し視覚障害者の議員は多かったんです。今は私を含めて7人ぐらいかな、それでも。地方議会で。

立岩:その当時って堀〔利和〕さんは?

青木:堀さんもう国会議員で、私の選挙にも応援に来ていただきましたし、はい。



立岩:堀さんが国会にいて、ていう時期でもあったってことですね。その間ずっと20何年やってこられたんだと思いますけれども、何をっていうのは、もしあと時間あれば、これはっていうことで一部お聞きするかもしれませんけど。今その、実はうちの大学院に小井戸さんっていう、前橋市の議員だった、

青木:ああ、わかります、わかります。

立岩:車いすに乗ってる女性の方ですけど、こちらの大学院生になっちゃったんですよ。まだ何するか、掴み、決めきれない感じなんだけど。彼女がやるかどうかは別として、前から障害持ってる議員、あるいは議員たちの繋がりであるとか、ネットワークであるとか、そうしたものって誰かは研究したほうがいいのになっていうのは思っていたんです。ただ、思いだしてからずいぶん経つと思うけれども、あんまりそういうもの出てないんですが。今そういう障害を持ってるっていうことと、議員であるということのそういう繋がりっていうか、っていうものは現存するというか、あるんですか?

青木:今ですね、「障害者の政治参加をすすめるネットワーク」※っていうのがありまして、これは96年に立ちあげたんですね。
https://seijisanka.wixsite.com/home

立岩:立ちあげたというのは、青木さんもそこに主体的に関わったということですか?

青木:はい。主体的、そういう呼びかけがあって、そこに96年から参加をしてるっていう。

立岩:呼びかけをもらって。どのへんが言いだしっぺだったっていう記憶ありますか?

青木:当時はですね、豊中市市議会議員で入部香代子さんっていう人がいて。

立岩:はいはい、もう亡くなられましたね〔2013〕。

青木:亡くなりましたね。入部さんが初代代表だったんですけど。わりと関西の人がまず呼びかけをして、それから広がっていったっていう感じですね。

立岩:それは続いてるんですか?

青木:ええ。今はですね、さいたま市議会の傳田ひろみさんっていう、この人は車いすの人ですけど、この方が代表になって続けてますけれど。あとね、視覚障害者は視覚障害者の議員ネットっていうの、堀さんを中心に作ったんですけど、それは今、事実上休止状態っていうか、ですね。

立岩:その96年にできたほうのやつは今でも活動は続いて?

青木:そうです、続けてます。

立岩:主にどういうことをやってるのですか?

青木:だいたい年に2回ぐらいですね、会合を持って、それを各会員の地方のほうでやって、そこの政策なんかを学んだりとかですね、あとは情報交換とかですね。あと例えば、いわゆる議会における障害者議員が活動しやすいようにっていうことで、国の議長会だとか、そういった所に要望書を出したりとかですね。あと国の障害者雇用の水増しがあった時に、いろいろ国のほうに改善要望とかですね、そういうものを出したりだとか。そんなことをわりと積極的にやってますね。

立岩:それは誰か調べたらいいな、って前からちょっと思っているんですよ。

青木:それでですね、ほんと最近なんですけど、三重のですね、三重県立、三重の三重大…三重大学ってありましたよね。そこの女性の方が関心を持たれて、障害者議員にいろんなアンケートをして、それを取りまとめたものがあってですね。私もそのデータもらった…あるんで、もしよければ参考にそういう、また立岩さんのほうにそれお貸しします。

立岩:ありがとうございます。三重大学、誰だろう?

青木:今ちょっと名前がわからないんですけど。それもまたあとでお知らせしますけど。

立岩:そうなんだ。誰もってわけでもなくて、少し調べ始めてる人もいる、

青木:そうなんです。その方がよく政治ネットの会合にも参加されておりますんで、最近。

立岩:それは心強い。

青木:ここ1、2年、2年ぐらいの話ですね。

立岩:今、障害の議員がってことで限んなくていいんですけど、例えば青木さんまだ、まだって言っちゃいけない、社民党は社民党でいいんですよね?

青木:今現在は社民党ですね(笑)。

立岩:ある意味、ある意味って言っちゃいけない、立派だなと僕は思ったんですが。例えば今回、この秋に新撰組っていうよくわからないとこから、あれはほんとになんていうか、瓢箪からコマみたいなところはあるんですけどね。ちょっといきさつを聞いて知っているぶんもあるもんですから。そんなようなこともあったわけですけれどもっていうか。そういう中でこれからというか、なかなか社民にしても厳しいは厳しいわけじゃないですか。そのへんの政治というか、政治家というか、あるいは障害を持ってる政治家というか、そのへんのこれからみたいなことについて、その第7期目のベテラン議員は何を考えているのだ? っていう。

青木:そうですね、あまり地方政治の場では社民党はそれほどこう、なんていうんですか、市議会の中では直接的にあんまり関係ないところもあるんですけれど。ただちょっと政党的なことでいうと、昨年新潟市長が変わりまして、元自民党の国会議員が当選したんですけどね。それで市議会の中でもいわゆる自民党系の議員が一気に固まりまして、それだけで26人ぐらいの大会派を作って、過半数を制するぐらいの会派になったんですけど。なので、私自身の今回、この7期目のまず大きな自分の中での思いっていうのは、この新潟市議会、新潟市政を悪の安倍自民党の色に染めさせないっていうのがですね、私の中では非常に強いモチベーションとしてはありまして。そういうスタンスで新市長に対して、厳しい指摘とかですね、質問しているところが一つはあるんですけれど。[01:14:42]
 もう一つは2016年にですね、これは、国の障害者差別解消法と同じ施行日になるんですけれど、新潟市で「障害のある人もない人も共に生きる街づくり条例」っていうですね、いわゆる差別解消法の自治体版みたいな。これ、長年この制定を訴えてきて取り組んできまして、新潟市の条例は合理的配慮も民間も義務づけにすることができたんですけど。なので、この条例を施行、成立させた、できたってことが非常に私の中でも大きなものがありまして。ただこれもなんていうんでしょうか、理念的なところがあるもんですから、これをいかに新潟市の街づくりのとこ、隅々まで行き渡らすかっていうところはこれからの課題だなっていうふうには今思ってるところなんですよね。

立岩:そうなんだ。じゃあ政令のほうが解消法よりも一歩進んだというか、そういうふうなものを作らせたというか、作ったというか。そりゃそうだということ、それを実質化するというか。その線で現実を作っていくってことですかね。

青木:はい。が大きいところで、大きな課題だなと思ってますけどね。

立岩:それで自民のほうが固まって過半数になっちゃうぐらいだって、今、野党というか第一党以外の人たちっていうのは、なんとかなってるというか。公明はやっぱり自民につくんですか?

青木:どっちかというと、やっぱりそうですね。それで今回もですね、あれなんです、例の障害者の就労っていう関係でいうと、それこそ重度訪問介護を就労にも使えるようにっていうものがあったじゃないですか。それで新潟でも1人、障害当事者の人がいて、全国と繋がってそういう運動したいっていう人がいてですね。その人からも連絡があって、なにか新潟市とかにも要望出せないかっていう話があったんですよね。それで、せっかくであれば新潟市にも要望を出すし、新潟市議会にも陳情を出して、議会として国のほうに意見書あげるようにしましょうっていうふうな話…相談をして、そういう陳情書を出してもらったんですよね。これ通るかなと思ったらですね、自民党、今の自民党のほうから、一つは、もちろん重度の障害のある人が働くことは、それはもちろん方向性としてはよく理解できるんだけども、その陳情書の文書の中に、「自分も働いて納税者となって国民の義務を果たしたい」とかですね、そういう文言を入れてもらえないかとかですね。で、もう一つね、私もまったく想定してなかったんですけど、陳情書の前文のところに背景の一つとして、その令和新撰組の重度障害者の国会議員が誕生して、この経済的問題と…経済活動とこの介護の問題が今注目されてるみたいなことを、一部入れたんですよね。そしたら、それが入ってることもね、これは気に入らないってことでね。ていうことで、その二つの理由で、今回は採択されなかったんですよね、継続審査になって。それで水面下でその自民党の議員といろいろやりとりをする中で、国民の義務を果たすということはそれは当然働いて納税できる状況であれば、それは当然自動的に納税するわけなんだし、障害のある人が働きたいという意欲を持っていても、必ずしも納税できるほどの収益、収入を得れない場合もあると。でもそれは、その人にとって働くということは非常に大きな意味があるんだということだから、この文言は、それはもう無しにしてほしいっていうような話をして。それは向こうもまあ納得してですね。じゃそこはカットしてくれっていうことで(笑)、それで次の12月市議会ではそれで通そうっていうようなことで、一応話がついてる。

立岩:カットして通るならそれでいいと思いますけどね、私も。

青木:まあね(笑)。

立岩:そうか、そんなことが起こってるのか。知りませんでした。でもあれは、少なくともああいう制度があるとか、それから仕事する時の介助どうするかっていう課題があるとかっていうの、ある程度知らしめたという意味では大きかったですよね。で、僕もちょっとその続きは、なんかちょっと考えたいなということはちょっと思ってて。そのだんだんと思ってますけど。それと関係はなくはないところでいうと、これは2017年だったかな、もう2年前かな。この間、金沢の国立療養所を出た、出るって言ってた筋ジストロフィーの人の支援っていうかな、そういうのに僕も少し関わったりして、それで、古込さんっていうんですけど。彼は2017年秋にようやくというか、ずいぶん苦節何年みたいなことで出られて、それはよかったんですけど。ただ、やっぱり筋ジスだと進行して、40代まで生きられたとも言えるんだが、今年の春に亡くなって。彼はそれでその人生は終わってしまったんですけどね。ただ、彼がその、金沢って80万ぐらいいるのかな、そういう大都市で、その重度訪問の制度を金沢が全然やってこなかったっていう中で、彼が突破口というか、あの時は井上さんって、金沢大学の名誉教員だった人であるとか、あるいは弁護士、その金沢大学の先生も法学の人ですけどね。それでそのあたりがちょっと押して、通したと。なにかっていうと、重度訪問の制度っていうのは全国的にいうとかなりムラがあって、特に富山、金沢、石川ですね、石川、富山、新潟、上…、たぶん山形もですけれども。なかなかその重度のたくさん介助がいる人が厳しいっていう話は前から聞いてて、僕も新潟県の出身だからってわけでもないんだけれども、気にはなってるんですよね。そのへんが日本海側っていうかな、そのへんがこれからどういうふうに動いていけるのかっていうかは、その就労の介助っていうのは、これは今全国的にね、話題というか、考えなきゃいけないこととしてあるんですけど。それも含めてですけれども、生活のほうの制度っていうのを、どういう形でどういうルートで作っていけるのかなっていうのは気にはなってるんですけどね。どうなんでしょうかね。

青木:そういう意味でいうと、私、今任期の大きな課題のもう一つが、いわゆる重度のですね、これ視覚障害に限らずですけど、重度の障害の方のグループホームが新潟市では非常に不足してるんですよね。結局、今も施設も当然作らない【時代】(01:23:03)になっていて、グループホームそのものはできてきてるんですけども、いわゆる比較的軽度の人を対象にしたものは、それなりにできてきてるんですけれど、いわゆる重度と言われる人たちが生活できるようなグループホームがなくてですね。だから施設にも入れないし、かといって地域でのグループホームも入れないし、結局在宅でかなり高齢の親御さんが見ていかなきゃいけないっていうふうな状況があってですね。ここ、だからこの間、かなり強く取り上げてきてまして。新潟市も今後、そこはちょっと重点的に整備をしていくっていうですね、予算を加算をしながら重点的に整備していくっていう方針を今示してきているところなんで、そこをこの4年間でかなり加速度的に整備できればな、というふうには思ってるところなんですけどね。

立岩:僕は全然その具体的なとこ詳しくないですけど、ずっとの繋がりで、高橋修、彼は99年に亡くなったんですけど。ちょっと彼のこと書き足して、今度2000年に出した本の第2版に高橋さんのことをちょっとと思って、今ちょっと書いたりしたんですけどね。彼がずっとやってた介護保障協議会っていうの、今でもやってて。そこの人なんか聞くと、かなり緩く使えるって、ほんとは。少なくとも厚労省的には。厚労省がオッケーっていう範囲で、これでグループホームって言えるの? ぐらいの緩い感じで使えるっていう話は聞いたことがあって。だからそのへんの裏技みたいなところもあるんでしょうけれども、どうやって使いよいようにしていくかっていうのと、建物っていうか居住空間としてグループホームが、一方で現実的なチョイスとして当然あると思いますけれども、それとくっつけるような形で、重度訪問の拡大といいますかね。それが山形であったり、富山であったり。富山もかなり今厳しいみたいなんですよね。なので、そこのところがうまい具合にいくと、もうちょっとよくなっていくのかなと思うんですけどね。今、青木さんのほうでは、いろんな人と繋がり合いながらというか、付き合いながらやってらっしゃるんだと思うんだけれど、その新潟県内なり市内なりの、いろんなですか? その障害者関係の団体。

青木:そうですね、もう視覚から聴覚から肢体不自由から精神から知的からっていう、それはわりとこう広いネットワークの中で活動してますね。

立岩:今日30分までお時間をいただいてて、あと11分ぐらいなんですが。なので時間もあとそのぐらいの時間しかないんですけれども。今日はほんとに議員を始めましたぐらいのところで、までの話を、僕はちょっと最初からそのつもりだったってとこあるんですけれども、そのあとの何より重要なっていうか、25年間については、また新潟、また法事でもあったら、そんなことはないですけど、新潟に来る機会あったらっていうことを思うんですが。

青木:ありがとうございます。

立岩:どうでしょう。僕が今日ちゃんと聞かなかった25年分について、なんか言っとくとすると、

青木:そうですね、やっぱり新潟市もいろんな形でこのバリアフリーの推進はかなり進んで、この間ですね、来たなというふうに今思ってるところもあるんですけど。さっき条例の話もさせてもらいましたけど、一つやっぱり私の立場で思い入れがあるのは、やっぱり私自身も雇用でシャットダウンされたっていうことがあるんで、新潟市に対して議員になった時から、その点字受験をですね、職員採用試験でやるようにっていうようなことを訴えてきて、実際私が議員になってから、ずいぶん経ってからですけど、今から12年ほど前に、その点字受験を認めるってことで、採用試験で実施することになったんですけど。一応制度は整ったんですけど、実際に受ける人がいなくてですね、それでこのまま終わっていくのかなと思ってましたら、5年ほど前にやっぱり新潟出身で筑波に行った全盲の女性がいてですね、彼女が受けてくれまして。見事当選じゃなくて合格しまして。彼女が今、正規職員として働いてるんですね、全盲で。今、議会事務局にいるわけなんですけれど。だから今、この雇用の中で、障害者は福祉のサービスを受けるだけじゃなくて、やっぱり働き手にもみたいなことを言う人もいるんですけれど。新潟市役所が福祉サービスをきちっと提供していくということも重要な課題ですけど、市役所の組織という中にこういう全盲の障害のある人が働けるようにしていくっていうのもこれ、やっぱり大きな意味があると思ってまして。それが今、実現してるってことが非常に私の中でも大きいことだなと思ってるところなんですよね。
 もう一つは、2011年から2年間副議長を務めたんですけれども、この時もなんていうんでしょうかね、周りの議会、議員たちともいいネットワークを、関係性を作って来れてる、来れたなということがありがたく思っていて。最初私も、これ議長、副議長って一応選挙で決めることになるんですけれど、当然その前段にはいろんな調整なんかもあった上でなんですけどね。そん時に、私に例えば副議長とかっていう話を出してくれた、これ他の会派のメンバーだったんですけど、声をかけてくれて。私も実際自分が議会の運営側になれるかなっていういろんな不安なんかもあったんですけど。だけど、自分たちもしっかりサポートするし、当然議会事務局だって、青木ができるようにサポートさせなきゃいけないんだから、それも俺たちもちゃんと言うしっていうふうなことを言ってくれてですね、背中を押してくれたってことがありまして。それは大変、ほんとありがたいことだったなというふうに思って。実際にいろんな、副議長として業務にあたる時も議会事務局はもちろんですけれど、執行側も含めていろいろ配慮といいますか、必要な手立てをして対応してくれたっていうところで、それは私の中でも非常に大きい2年間だったなと思います。

立岩:11、12?

青木:はい。

立岩:今僕の所で視覚障害、けっこうこの間いて、栗川さんもそうですし、教師やってきた中村さんが今回博士終わって。今度日本学術振興会っていうのの研究員というのが、2〜3年しかやれないんですけどその間は給料もらえるっていう。それで東京に、籍はそっちに、東大の先端研っていうとこに行くとか。あとはね、ハンスンミンっていうのは、韓国の人なんだけれども、日本に長くって、最初はアシスティブ・テクノロジー系の民間会社に勤めてたんですよね。実際にそういうもの作る、作ったり売ったりする、売るほうの側にいたんですけど、彼はそういうので大学入ってきて、博士号をとって、今九州、福岡教育大か。視覚障害の人の教育のなんかコースみたいなのが、日本にはほんのちょっとしかないらしいですけど、そこの教員になったりとか。あと、上村さんっていう、SJS、スティーブンス・ジョンソン症候群っていうので、途中で中途失明した人が、図書館流通センターっていうそういう所で、これまだほんとは言っちゃいけないので、言っちゃいけないんですけど、来年の4月から国会図書館の職員というか、になるとか。まあぼつぼつ。あと、ほんと今、障害学生支援の体制はようやくいろんな大学でできてきて、そういう所のスッタフやったりとか、そのスタッフを経て民間の、うちだと立命館そのものじゃ…、立命館も障害学生支援室はあって、そこに車いすの女性とかはいるんですけど。そこを出た卒業生で、学生のサポートをするのを主な仕事にしてるっていうNPOを、筋ジスの30代ぐらいの卒業生がやってるんですけど。そこのスタッフやってる青木くんっていう弱視の、やっぱり、いたり。まあまあ、なんやかんや、そんなに稼げてる人だっていうことでもないでしょうけど、まあまあなんとかなったり、なかなか難しかったり。だけどそうですね、それなりに頑張ってくれてるかなあと思いますね。

青木:視覚障害者も徐々に職種もね、拡大してますし。いろんな民間の所で事務系やったりって人も増えてきてますし。

立岩:青木さん今、情報媒体としては、ほんとの点字って変ですけど、どういう情報の使い方、文字の扱い方っていうか、文字情報は、パソコンはやられる?

青木:そうですね。

立岩:それは今持たれてるディスプレイというか、点字盤というか、それとPC?

青木:ええ。

立岩:その紙の点字というか、あれも?

青木:ええ、紙も使うことあります。

立岩:そういうのいろいろ組み合わせってことですか?

青木:そうですね。その時の場面場面で。

立岩:全部使ってって感じ?

青木:そうですね。

立岩:そんなこんなで、こちらも栗川さんもこれから、栗川さんこれから論文書いて、なんか来年3月めでたく退職なさるそうですが。もう退職するんだって言ってましたけど。時々京都に来て、

青木:ねえ、この前は中国に行ってこられましたからね。

立岩:そうなんです。中国行ったんですよ(笑)。

青木:立岩さんと一緒に行かれたんですか?

立岩:一緒に行きました。

青木:ああ、そうだったんですか。なるほど。

立岩:だから、ぼつぼつといろんな形で。特にほんとにさっきの、なかなかその、今日もこれから篠田さんの所に会いに行って、新潟で自立生活センター始めたけど、なかなかみたいな話もきっと出ると思うんですけど。新潟県人だから言うわけじゃないけどね、なんかほんとに日本海側がやっぱり、やっぱり相対的にはなかなか厳しいというのは全般的には言えると思うんで、そこが底上げされていくといいなっていうのは思ってることですね。[01:35:14]

青木:特にやっぱり、ご案内の通りみんなやっぱり事業者になっていってしまって、運動体っていうのがね、なくなってしまったんですよ、新潟今ね、いわゆるCIL的な昔の自立生活。そういうだから運動としていろんなことを求めていったり、訴えていったりっていうその母体からちょっと今ないような状態でですね。

立岩:事業は事業でけっこうだと思うんですよね、必要なんですから、必要な事業をやってるんで、それはそれで大いにけっこうだが、事業をやりながらなんとかってね。でも、なかなか人の数も少ないとか、いろいろなってくると難しいんでしょうけれども。でもここまでちょっとなって思うんですよね。

青木:そこが今新潟のちょっと弱さだな、弱点だなと思っていて、とこなんですよね。

立岩:僕も京都もうずいぶん長くなったんですけどね、17年ですから。ただ僕いる間にもけっこう、一時期わりと停滞って言っちゃいけないのかな、あまり活動活発じゃなかった組織が、若い人の関係、それは必ずしも障害者ってわけでもないんですけれども、大学院出て行き先がないからっていうので、就職したのもいるっていうような自立生活センターがかなり手広いというか、大きな事業、何億、3億とかそのぐらいの事業やりつつ、わりと積極的に社会に訴えていくっていうことをこの間やってくれてて、多いに。例えばそこが今、国立療養所に溜まってる筋ジストロフィーの人、出られる人、出られる人出そうよっていう話にかなり主体的に関わってるんですよね。だからそういうので。例えば新潟にも新潟病院ってあって、あそこの院長さんなんかは僕も知ってる人なんですけど、彼自身はわりとやる気あるんだろうけれども、その結局地域の受け皿っていうのがなかなか難しいっていうところで、らしいんですよね。それが動きだすとだんだん、やってる人も面白くなっていくからと思うんですけどね。そういうことが課題にもなるだろうし。栗川さんも新潟に住みながら、僕らに付き合ってくれてるので、なんやかんやとこれからやりとりさせていただけるような場面も出てくるかもしれませんので、どうぞよろしくお願いいたします。

青木:いえ、こちらこそ。

立岩:ありがとうございます。ほんとに急な、とんでもない、昨日の夜で、今日の朝っていうのいったい、どんな失礼な奴だということになるんですけれども。お話を聞かせていただきありがとうございました。

青木:ありがとうございました。

立岩:私の名刺、点字ありません。紙のペラッとしたやつです。

青木:ありがとうございます。あの立岩さんはほんとにもう昔からね、お名前をよく承知してましたし、ただ共同連の時もこういうゆっくりお話しする時間もなかったんで、

立岩:夜ちょっと飲みましたね。

青木:いや、でも今回ね、こうやってゆっくりお話しできるのも初めてだったので、ほんとに私にとっても光栄でございました。ありがとうございます。

立岩:いやいや、そうなんですよね。けっこう酒飲んでる時は、それはそれで楽しいんですけど、やっぱり根掘り葉掘り、子どもの頃の話なんか聞いてる時間もないですからね。

青木:飲んだ勢いでみたいなね、わりとこうね、大雑把な話とかが多いですしね。

立岩:ですから、僕ほんとに、改めて知ってるはずの人の昔の話とかをやっぱいっぺんは聞くもんだなと、自分でも思ったり、人に言いふらしたりしてるんですけど。だから知ってる人であっても聞くっていうことは、僕はもう体が足りないので、若い人とかも含めてこれからやっていきたいと思いますので、またなんかいろいろ紹介していただいたりとか、

青木:いえいえこちらこそ。ぜひこういう研究のね、分野の第一人者なんで、またぜひ、はい、リードしていただければと思います。ありがとうございます。

立岩:ちょうど1時間半プラスみたいな感じで、どうもありがとうございました。

青木:ほんとにありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

立岩:これから、今日はそうか、国民的には休みなんですね。

青木:そうなんですね。

立岩:お住まいはどちらなんですか?

青木:私、関屋といって、こっから少し西のほうにですね、車で10分ちょっとぐらいの所なんで。

立岩:移動は何、バスとかが多いですか?

青木:そうですね。時間のあるときはそうしてますし。今日はこのあと人が、迎え来た奴とまた出るんですけど。

立岩:そうですか、じゃここでお待ち、待って。

青木:ええ、ここで待ち合わせしてますので。

立岩:そうですか。

青木:この外で、はい。

立岩:僕はじゃあここで、お別れして、また新潟。昨日も新潟のもの食べて、多いに。

青木:ぜひまた新潟にね、来られた時は、

立岩:飲みすぎるほど飲んで。

青木:そうですか(笑)。[音声終了] 


UP:20191218 REV:20191219
青木 学  ◇障害者である議員(であろうとする人たち)  ◇病者障害者運動史研究  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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