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新潟県における障害者運動/自立生活運動


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last update:20221130


■人(50音順)

青木 学
◇会田きよみ(喫茶「けやき」)
◇アンリ(ベルギー人神父)
◇小野沢 博(※1950~、26歳で施設入所)
◇桐沢 正弘
◇金平 明義
栗川 治
佐藤 聡(関連:はまぐみ)
篠田 隆
◇篠田 恵
高橋 修
◇田村
◇東條恵(はまぐみ医師)
遁所 直樹
◇中村 与吉(戦後新潟県で初めて特殊学級を担任した教員)
◇新田 初美(はまぐみ医師)
◇長谷川 均(部落解放同盟新潟県連書記長)
広島 幹也(青松学園→CIL新潟→スペースBe)
本間 康二
黛 正(はまぐみ医師、千草の舎、巣立っ子)
◇山内 俊博


圓山 里子

■年表

1953年9月1日
広島幹也、生。
1958年7月1日
はまぐみ学園開設県立民営(定員100人)
1959年5月5日
篠田隆、生。
1960年2月1日
はまぐみ学園、母子入園部開設(定員10人)
1963年8月1日
はまぐみ学園、通園部開設(定員40人)
1966年4月1日
はまぐみ学園、重度病棟開設(定員20人
1968年
篠田隆がはまぐみ学園に入園
1969年
篠田隆が家に戻る
1970年
篠田隆がはまぐみ学園に再入園
1972年3月
広島幹也、新潟高校卒業。
1973年4月
広島幹也、明治大学政経学部入学。
その後、政経学部自治会委員長、学生会中執副委員長を歴任
学生運動の指導者として、様々な闘争を指導する
1974年
「未来を切り開く会(通称、未来の会)」が結成
1976年
篠田隆が「千草の舎」に入所
1977年
・全障連大2回大会 明治大学で開催。広島幹也参加。
・会田きよみが「新潟外に出よう会」として全障連第2大会に参加。
・篠田隆が富山青い芝のメンバーと交流。青い芝を新潟でも作らないかという誘いがあった。
1977年12月
金平明義が失明する。
1978年
・全障研系の作業所が開設。(篠田は1週間ほど通い、離脱)
1978年2月1日
金平明義が糸魚川市役所に復職する。
1978年3月
広島幹也、明治大学を除籍退学。学費の未納のため。
1980年4月
広島幹也、社会福祉法人更生慈仁会青松学園就職。
1981年10月24日
はまぐみ学園、全面改築(3病棟定員130人)
1981年11月1日
はまぐみ学園、「新潟県はまぐみ小児療育センター」に改称
1982年
広島幹也、結婚。
1985年4月1日
はまぐみ学園、2病棟(定員90人)に変更
1986年
「障害者の生活を支える会」が結成
1987年
・1月。篠田隆・恵が「カサ・ドン・キホーテ」に移る。
・6月。遁所直樹、受傷。
・篠田隆が結婚。
・栗川治、視力が急速に低下し「歩行も危なっかしく」なる。[栗川 1996]
・新潟で教育労働問題研究会の全国集会が開かれる。栗川修は「解放教育の分科会に参加」し、「いかにして差別をなくしていくのかという方法論に、私自身の生きる方向を」見出す。[栗川 1996]
・篠田夫妻に子「光太」が生まれる
1988年
篠田隆に第一子が誕生。
1988年
青木学、京都外国語大学英文科二年に編入。
1988年4月
栗川治、新潟盲学校へ異動。
1989年
・篠田隆が東京の集会に出るようになる。
・広島幹也、反天皇闘争に参加。
1990年
栗川治、普通校への異動希望を出す。1度目。[栗川 1996]
1990年
青木学、新潟江南高校での教育実習を終える。
1991年
新潟県上越市で障害者餓死事件が起きる。
1992年
・栗川治、普通校への異動希望を出す。2度目。県立吉田養護学校への異動を打診されるが、断る。[栗川 1996]
・篠田夫妻、第一子「栄作」くんが生まれる。
・11月。栗川治、普通校への異動希望を出す。3度目。[栗川 1996]
1993年2月
栗川治へ普通校への異動の打診がある。[栗川 1996]
不詳
「介護保障を考える会」が結成※黛、篠田がかかわる。
1993年6月1日
はまぐみ、リハビリテーション総合承認施設届出
1993年8月
小野沢博、「みずほ園」を出所、自立生活を開始。
1994年2月9日
栗川治、小野沢宅を訪問する。佐藤環が参加。
1994年
新潟市福祉公社のヘルパー制度が設立。
1995年4月
「介護保障を考える会・たんぽぽ」が発足。
1995年7月
CIL新潟(自立生活支援センター新潟)を設立。
1996年
広島幹也、青松学園退職
1997年4月
広島幹也、CIL新潟入植。
2001年4月1日
はまぐみ、機能再編・強化(1病棟定員50人)
2001年8月1日
はまぐみ、重症心身障害児(者)通園事業「あすか」開始
2001年10月1日
はまぐみ、障害児者地域療育等支援事業(拠点施設)開始
2002年
スペースBe、CIL新潟を母体として設立
2006年
スペースBe、「地域活動センター」として独立。
2006年7月3日
はまぐみ、新潟県発達障がい者支援センターを設置
2008年
広島幹也、CIL新潟を退職。
2010年
・スペースBe、NPO法人スペースBeとして独立。
・広島幹也がNPO法人スペースBe理事長に就任。
2011年
スペースBe、就労継続支援B型に移行。
2012年4月1日
はまぐみ、肢体不自由児入所施設を医療型障害児入所施設に移行
はまぐみ、肢体不自由児通所施設を医療型児童発達支援センターに移行
2012年4月1日
はまぐみ、重症心身障害児(者)通園事業を生活介護・児童発達支援に移行
2012年6月20日
広島幹也、死去。
2022年11月29日
[報道]「基準満たさず運営、新潟市の福祉系NPOが計3億円不正受給」 [ 外部リンク]

年表の作成:山口 和紀

■施設・組織

◇はまぐみ学園 ◇新潟県はまぐみ小児療育センター
◇障害者の生活を共に考え、実現する会
◇にいがた自立生活センター・まいらいふ
◇自立生活福祉会
◇千草の舎※篠田、田村が一時期入所
◇コーポおおたけ※アンリが開設
◇カサ・ドン・キホーテ※篠田が居住
◇介護保障を考える会
◇ぐみの会
◇小鳩会新潟支部※新潟のダウン症親の会で広島幹也の父が新潟支部を立ち上げ
◇喫茶「けやき」※会田きよみ
◇障害者の生活を支える会[広島幹也さんを偲ぶ会 2012:13]
◇更生慈仁会
◇明生学園※広島幹也の妹が利用していた。
◇部落解放同盟新潟県連※長谷川均を通じて広島幹也と連携。
◇共に生きる教育を求める新潟県連絡会※会田きよみ、黛正が中心。広島幹也もかかわる。
◇福祉を考える会※黛正、広島幹也が行っていた学習会。

■資料

◇広島幹也さんを偲ぶ会 2012

「また第二回大会以来の全障連大会に、新潟から何人かの障がい者の人達を誘って参加したりもしました。私が参加した大会は、滋賀、長野、高槻など三〜四箇所の大会です。九〇年前後の年に行われた大阪大会に、何故か私は参加しなかったのですが、篠田さんとまゆずみさんで参加し、そこでJIL(全国自立生活センター協議会)の事務局長まで務めた長岡出身の故高橋修さんと出会うことになります(高橋修さんについては大変重要人物ですので立岩HP「arsvi.com」の「人」コーナーでどういう人なのかご覧になって下さい。)
 この出会いが決定的でした。すなわち、新潟の運動は高橋修さんに導かれる如くにCILにたどり着くのです。 」(p.19)
(注記=山口 和紀:おそらく第13回(1988年)―滋賀大学が一つ。大阪、長野は不明)。

◇栗川治 199607 「異彩はバリアフリー 視覚障害教師が「障害」を問う」, 新潟日報事業社発行.

「 学校とは違うが、九歳からの五年間、新潟市にあるはまぐみ小児療育センターに入院した。ここで隆さんは、後の人生に大きな影響を与えることになる三人の重要人物と出会っている。一人は、彼の自立生活の条件をつくったベルギー人神父アンリさん。もう一人は、隆さんと共に障害者運動を進めていくことになる当時医学部学生だった黛正さん。そして、将来の伴侶となる三歳年下の恵さんである。」

「 隆さんを自立生活へと導いていった人が、アンリさんである。障害者のためのボランティア活動をしていたアンリさんが、私財を投じてコーポ大竹というアパートを借り、自立生活を目指す若い障害者たちと共同生活を開始したのが一九七九年のことであった。今日のグループホームのはしりのような存在で、岩波新書『障害者はいま』でも紹介されている。
 一九八五年一月、隆さんはアンリさんと一軒家を借り、本格的な自立生活を始める。一年半後、コーポ大竹に移った。その頃、コーポ大竹はいくつかの問題を抱えていた。」

「 新潟市関屋金衛町に住む遁所直樹さんは一九六二年生まれ。新潟市内の小中高校を経て、新潟大学理学部化学科に進んだ。小学校四年の時から本格的に水泳を始め、新潟市の強化選手にもなって活躍した。大学三年まで現役選手で、十年以上にわたって鍛え上げた肉体と体力には自信があった。研究室での徹夜の実験も、肉体派・遁所直樹には苦にならなかった。」

全国障害者解放連絡会議 19780725 「全障連第二回大会 報告集」, 全国障害者解放運動連絡会議.

「発足して2か月位です。全障連が結成されたころ、私自身が中途障害者になってみて、差別の重みがわかってきた。やはり障害者差別に対する運動をしなければと思い、学生時代の友人で教員とか近所に住む知恵おくれの子を持つ親とかと話しながら、近所にある精神病院と重度精神障害者の施設があり、そこの職員にもっと障害者の側の立場をとらえて、その職業にあたれというような呼びかけをして何回か交流会をもちやっと会をつくった。その中でやっているのは在宅訪問と教員の意識を変えることです。私自身も障害者になったといっても、まだまだ障害者を差別しているというのは持っていると思うんです。もっともっと正面から真剣に障害者の告発とか差別していないということ自体が、差別をしていることを知らないでいっている部落解放運動とか民族差別解放運動をしている人々が障害者差別の言葉を平気で使う。養護学校の教員とか施設の労働者は使っている。外へ出ようというのは障害者に体当たりしようという意味も含んでいるのですが、あらためて自分達一人一人のエゴをまずやめようというところでやっています。」(p.98)
「外へ出よう会というのはほとんど教員なんですけど、そこで語られているのは、私自身が障害者で私が語る中から、私の係りで重度の障害者にめぐりあう中から理論的に54はいけないんだと、分けることはいけないんだ、隔離だからいけないんだと解っても、具体的に自分がクラスで知恵おくれの子がいると、その子が今、特殊学級にいってたばかりで普通割球には入れて、ついていけるかとか、とても不安だとか、あるいは養護学校の教員は、自分がかかえている子供が、ほんとに歩くことも何もできない。そういう中で普通学校に入れていけるかとちゅうちょしてしまう。その中で54阻止というのはどうしたら良いのか、教師のほとんどはまず今の教育は、教育じゃなくてただの授業、今は算数、今は理科、今は国語というものを消化するだけの授業で、これは教育ではないと解っているんです。これを変えなければならないことも解っていて、どうやって誰が変えていくのかというと、誰がとは自分達教師であることを解っているのですが、どうやって変えていくのかがよく解らない。そういう中でやっぱり自分が持っている普通学級に障害児を入れない限り、今の教育体制は変わらないだろう。それは障害児の姿を見ない普通の子供達がどんどん成長していって、受験とかに慣れている子供達、人をけ落とすことに慣れている子供達が障害児の姿を見ないまま大きくなるのは、すごく恐ろしい世界になるんだと確認して、今、メンバーは13人で結成してまだ2か月だけど、2名画自分の学級に障害者を入れて実践しはじめているのです。その中で、今度、誰が担任になるかというと誰も名のりでないので自分が受け持つということでやっと学校が受け入れていく、それも一年間だけ様子をみようということで学校の許しがでていて、来年自分がどう闘うのかということはすごく不安なんですが、ともかく障害児を自分のクラスに受け入れていくということをまず第一においていて、それが教育を変えていくので、ほんとうに教育を目指すと言うのは、そういうところから始まるんだという風に確認してやっています。」(p.102)

◇[報道]2022年11月29日 「基準満たさず運営、新潟市の福祉系NPOが計3億円不正受給」 外部リンク]


「 新潟市は28日、障害者支援サービスの基準を満たさないまま事業を行い、市から計約3億円を不正受給したとして、重度訪問介護や就労支援をしている二つの特定非営利活動法人を対象に、利用者の新規受け入れの半年間停止などの行政処分をした。
 処分を受けたのは、新潟市西区の「CIL新潟」(篠田隆理事長)と、秋葉区の「幕明けプロジェクト」(中村直理事長)。12月1日から6カ月間、新規受け入れ停止のほか、事業者が受...」

■文献リスト

全国自立生活センター協議会 編 20010501 「新潟市における障害者の運動の歴史」,『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』全国自立生活センター協議会,発売:現代書館,480p. ISBN-10: 4768434266 ISBN-13: 978-4768434260 3500+ [amazon][kinokuniya] ※ d00h
◇栗川治 199607 「異彩はバリアフリー 視覚障害教師が「障害」を問う」, 新潟日報事業社発行.
◇広島幹也さんを偲ぶ会 2012 「広島幹也さんを偲んで」.

■インタビュー(50音順)

◇佐藤 聡 i2018 インタビュー 2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤真由美 於:東京・戸山サンライズ
◇篠田 隆・篠田 恵 i2019 インタビュー 2019/11/04 聞き手:立岩真也 於:新潟市・篠田氏宅
◇本間 康二 i2017 インタビュー 2017/09/15 聞き手:立岩真也 於:東京・蔵前

■はまぐみ

文献

「 波荒い日本海の砂に埋れ,風雪にさらされても,あしたは必ず芽を出し,地中に深く根をはって耐え栄える〈はまぐみ〉のように,この子らも育ってくれることを願って名づけられた新潟県肢体不自由児施設《はまぐみ学園》(園長河野左宙,副園長志賀正之,婦長山田ヤヨヒ)には,現在110名の手足の不自由な子どもたちが元気で日夜療養に励んでいます。
 新潟県約4000名の肢体不自由児の唯一の療育センターとして昭和33年7月,県民の強い要望と支援によって設立されたこの学園は,青い海,みどりの松林を背景にたてられ,新潟市の中心街より徒歩で15分,松風と潮騒の奏でる,閑静な環境のなかにあります。」
「↑基準看護, 寝具, 給食を実施しており, 手術の前後も家族の付添はまったくない。身心発育途上の子どもたちの健康管理, 毎日の医療的処置とあいまって身のまわりいっさいの面倒をみる看護婦でもあります。時には母親であり, また良いお姉さんであり, 家庭教師でもあります。」
「↓母子入園=母親と子どもを一緒に3か月くらい入園して, 家庭に帰ってからの訓練のしかたを習得してもらうことを目的とし, 不自由児をもつ母親のきゅおういくもねらいとしています。(別棟にある)一般に幼少児よりの早期治療が必要と言われているが、家庭を離れての長期入園は幼少児では困難な点が多いため、学令前の子どもたちには母子入園および外来にて通園治療訓練を行っています。」
「卒業式=ベッドのまま卒業式に。卒業証書を胸に, 複雑な思い。卒業と退園で, 二十の喜びの子どももいるが・・・・ほたるの光 窓の雪, そっと涙をぬぐう。
手術後のベッドの学習や, 重いギブスをつけて教室へ出たことなど, ずいぶんつらいと思いましたが卒業式のきょう, ほんとうに頑張ってよかったと思います。<卒業生答辞の一節>」

◇看護学雑誌 19630301 「グラビヤ はまぐみの子ら−新潟県肢体不自由児施設《はまぐみ》」, 看護学雑誌, 27(3), 5-12.



*作成:山口 和紀
UP:20220510 REV:20220515, 24, 29, 0612, 0821, 1130
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