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本間 康二

ほんま・こうじ
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last update: 20180312
・1951年生
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■新着

◆立岩 真也 201812220 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

 「小林〔提樹〕は、「重症者」に対して悲観的ではあったが、それを愛が覆う、というような具合になっていて、力を尽くした。尽力したが悲観的だった。それは、第2節5(243頁)に紹介する白木博次といった医学者たちにも言えることを後述する。小林は、生まれたら(生まれてしまったら)救う、それは医師の義務だと言う。ただ、生まれなくすることには賛同している。ではそうしたこと、他を批判すればよいか。とても少ないが、直接小林に対してなされた批判もある★03。私も批判したらよいと思うところはある。優生保護法下の不妊手術について二〇一八年になって提訴があり、にわかに、ようやく、このことがいくらか知られるようになった★04のだが、小林は、そこからそう大きく異なる場所にいるわけではない。しかしそれでも私たちはうしろめたいのだ。つまり、この社会と私たち自身が否定的・悲観的であるという現実感はぬぐえない。である以上、その人たちの捉え方描き方が否定的・悲観的であると、本当に批判できるかと思う。しかも、そのうえで、小林は実践を行なった。他方、そんなたいへんなことはできないと思う私(たち)は何もしていないのだ。
 しかしそれでも、悲観的である必要はない。というか、否定的であることができない。それが今年の△207 もう一つの本([201811])で言っていることの一つでもある。歴史と理論はそうして繋がっている。」(立岩[2018:207-208])

 「★03 「文責本間康二――小さな媒体ではあったがカレン・クインラン事件を特集するなど重要な活動を展開した『月刊障害者問題』を主宰した――となっているビラには「他の園では発達保障を云々されているが、この子らには発達を与えることはできない」「運命的に死に移行しているので、この死にうまく移してやる」といった小林の文章が引かれている。[…]/なおこの文章(小林[1972])は、もとを確かめていないが、「全障研滋賀支部サークル」での報告であるらしい。滋賀県には近江学園・びわこ学園があって、全障研[…]の活動の発祥地のようにも言われる。しばしば二つ並べられる「重心」の施設、その関係者の考えの間にも差があるということである(とともに、島田はその滋賀で報告しているらしい)。加えると、本間は、その短いビラで、小林の他の場での断種手術を支持する文章を引いて小林をさらに批判している。」([201610→201701b])このビラは島田療育園を告発する障害者七人委員会[1982]△268 (HPに全文掲載)。了解を得て本間へのインタビュー(本間[2017])を公開する予定。」(立岩[2018:268-269])

◇本間 康二2017 インタビュー,聞き手:立岩真也
→本間 康二 i2017 インタビュー 2017/09/15 聞き手:立岩真也 於:東京・蔵前 ※
◇島田療育園を告発する障害者七人委員会 1982/12/15 「抗議書」 ※近く掲載します。

■プロフィール(上記リンクから転載)

「名前/ほんまこうじ(本間 康二)
原産地/新潟県(佐渡ヶ島)
住んでる所/東京都台東区厩橋(うまやばし)そば

生まれてすぐポリオで歩行不能となり、8歳より施設を転々。養護学校中卒で上京。職業を身につけ独立をめざすが、21歳のとき世田谷の施設で電車への車いす乗車拒否を受け、障害者運動にめざめる。それからは就職しながらミニコミ発行などに精出すが、会社倒産後しばらくプータロー生活。やがて和文タイプで自営独立、現在のDTP製版にいたる。」


1951年12月 新潟県両津市(現佐渡市)に生れる
         幼くしてポリオ発病,四肢マヒ
1959年 4月 両津市立加茂小学校入学
1960年 9月 はまぐみ学園(新潟市)に施設入園
        (入園4日後、実父死去。ただし、その死は1年間知らされず)
         手術3回と機能訓練で(やっとの)松葉ヅエ歩行
1964年 6月 新潟養護学校に転校
         転校6日後、新潟地震発生。市内大被害
       *【新潟地震の思い出】
       *【わが青春のリチャード・キンブル】
1968年 3月 育ての親(実父の本妻)の死 新潟養護学校卒業
       *【愛康舎物語】
      4月 上京、国立身障センター(新宿区)施設入所
         松葉ヅエ歩行から車イスに完全移行
       *【センター橋、越えて】
1969年10月 医療器組立会社(都狛江市)に入社
1970年 5月 テレビ台本筆耕(ガリ版)会社(港区)に住み込み入社
1971年 2月 重度身障者授産所(茨城県取手市)に施設入所
         半年後退所
         一時、アパート住まいの実母宅(板橋区)に居候
1972年 4月 都技能開発学院(世田谷区)に施設入所、和文タイプ技術修得
1973年 4月 小田急線千歳船橋駅にて車イスでの単独乗車拒否される
         小田急闘争始まる
1973年11月 小田急闘争勝利
1975年 2月 印刷会社(台東区)就職決定
      5月 区内アパート三畳間に入居、車イスでの徒歩通勤始まる
       *【「こちらは『月刊障害者問題』デス」】
       *【もうひとつの青春/1 2 3 4 5】
1976年 5月 ミニコミ「月刊障害者問題」創刊
      8月 列島縦断車イス・ヒッチハイクに挑戦
       *【車いすヒッチハイク】
1977年 6月 印刷会社倒産、失業
       *【車イスとくらし 30年前のテレビから】
1978年 7月 アパート三畳間、改装を理由に立ち退き
     10月 浅草公会堂にて「深刻劇・忠治意外伝」上演
       *【「深刻劇 忠治意外伝」=台本】
       *【「深刻劇 忠治意外伝」特別編採録】
       *【茜の空の「座頭市」】
1980年10月 和文タイプ自営業開始
        (屋号の“愛康舎”は実父経営の牛乳屋の名を受け継いだ)
1983年 1月 重度心身障害者施設・島田療育園(多摩市)にて座り込み
       *【激闘・島田療育園】
写真:http://www008.upp.so-net.ne.jp/aiz/0000honma-top007_003.jpeg
     12月 ミニコミ「月刊障害者問題」廃刊
       *【「琴姫様」】
       *【「白馬童子」のように】
       *【どこから来たのか「黄金バット」】
       *【やっちゃん抄】
1986年12月 火事によりアパート焼け出され
         以後、現在まで(厩橋そば)賃貸マンション10階住まい
       *【ダウンタウン・ストリート】
       *【10階の窓/1 2】
       *【ホンマの年賀状 1982-1990】
       *【時代__俺のワープロ奮戦記】
1991年10月 台東区雑居同盟発足
1993年11月 EPO迎え、チャリティーコンサート主催
         雑居同盟解散
       *【雑居同盟、頑張る!】
1994年 6月 仕事にマック導入、和文タイプからDTPへと移行
       *【九月になれば】
       *【新・男の劇場__パソコン奮戦記】
1995年 5月 紙媒体版「ホンマタイムス」創刊
       *【ホンマの年賀状 1991-1995】
1997年 8月 ウェブ版「ホンマタイムス」開設
       *【大江戸線車いす漫歩】
2002年 7月 エッチサイト「××××××××」開設
       *【ネットで小説を書くということ】
       *【ネット創作の記】

■著述

『月刊障害者問題』

◆19760515 「一番大切なものは“生命=いのち”――「カレン裁判」をめぐって」『月刊障害者問題』1
 http://www4.famille.ne.jp/~aikoh/000honma-jidai-shyo_0252.html
◆19790515 「カレン裁判の全貌」『月刊障害者問題』37(創刊3周年記念特集)
 http://www4.famille.ne.jp/~aikoh/000honma-jidai-shyo_0251.html
◆19790515 「カレンがともす灯」『月刊障害者問題』37(創刊3周年記念特集)
 http://www4.famille.ne.jp/~aikoh/000honma-jidai-shyo_025.html

その他

◆「全障連の「差別糾弾」を斬る!!――「障害者解放」を叫び全てに背を向けるのか?」
 http://www008.upp.so-net.ne.jp/aiz/000honma-jidai-shyo_0882.html
◆「新潟地震の思い出」
 http://www008.upp.so-net.ne.jp/aiz/000honma-jidai-shyo_003.html

■言及

◆立岩 真也 20111201 「社会派の行き先・14――連載・73」,『現代思想』39-(2011-12):→立岩[2013]
 立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

「☆05 […]手塚治虫の『ブラック・ジャック』の一五三話「ある監督の記録」(一九七七年一月一日号、実際の発売は七六年一一月下旬)に対する抗議がなされたことがある[…]この事件は数々の「封印作品」をとりあげる安藤[2004]で取材され記録されており、その中には石川清、富田三樹生も登場する――以前紹介した東大の赤カレンガ病棟を占拠した人たちであり、石川は臺実験を告発した人である。また灘本昌久も取り上げている(灘本[1993])。灘本によればその粗筋は以下のようなものである。
 「日本映画界の巨匠で、かずかずのヒット作を生みだし続けてきた映画監督である野崎舞利(のざきまいり)には、十五、六歳になる脳性マヒの子どもがあった。彼は、この子どもの成長記録をフィルムに記録し続けてきたが、その最後のシーンを子どもの脳性マヒの治療でしめくくり、記録映画として世に出したいという夢があった。そして、すでに二人の脳性マヒ者を治療した実績のある無免許の天才外科医ブラック・ジャックに治療をたのむ。ブラック・ジャックは、脳性マヒは運動中枢の異常が原因だとして、頭蓋骨を開いて脳に電極を差し込み、電流を通して治療を行なう(これを、手塚治虫は「ロボトミー」と呼んでいる)。手術は成功して映画ができた。しかし、ブラック・ジャックを快く思わない日本医師連盟の会長が、映画にクレームをつけた。無免許の医師が執刀する映画を後援するわけにはいかないというのだ。そこへ、ブラック・ジャックが現われて、別のフィルムを出す。こういうこともあろうかと、親友である医師を助手として立ち会わせ、この親友が手術をしているように手術場面をはめ込んだ別の記録フィルムをつくっていたのだ。こうして、医師会会長のもくろみは崩れさる。」
 次のように続く。
 「この「ある監督の記録」に、脳性マヒの人たちでつくる「全国青い芝の会」、「ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会」などが抗議をした。まず、七六年末に出版元の秋田書店に抗議文が送られ、二回の話し合いがもたれた。抗議の内容は報道によれば次のようなものだ。
 「このマンガが問題なのは、まずロボトミーを美化、正当化していること。ロボトミーは主として精神障害者に行われる手術で、『興奮性』などを抑えるのがねらいといわれる。しかし人間の意志や感受性、喜怒哀楽など『人間らしさ』が失われる後遺症があり、各地で悲惨な結果が相次いだため、強い批判がでている。日本精神神経学会は昨年五月の総会で「医療としてなされるべきではない」と決議までした。
 「支援する会」の佐久間茂夫さんは「このマンガは、こうした野蛮な生体実験を、あたかも障害者にとって福音であるかのように美化しており、障害者差別を助長するものだ」と批判する。」
 秋田書店と手塚プロ・手塚治虫は全国紙に謝罪文を掲載する。そして灘本はその批判に批判的である。そこでは本間康二が出していた『月刊障害者問題』において本間が『ブラックジャック』を肯定的に評価していることにも言及している。まず、さしあたり、「ロボトミー」という語を間違って使っている(だけだ)と言うことはできよう。ただ、手塚や(とくにこの回が、というのではなく)『ブラックジャック』(を含むその作品)は一様に捉えられないところがあり、その評価については慎重にならざるをえないところがあると私は思う。どこかでふれることがあるかもしれない。」

◆立岩 真也 2012/10/31 「「ブックガイド・医療と社会」より」,立岩・有馬[2012]
 立岩 真也・有馬 斉 2012/10/31 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 2000+ [amazon][kinokuniya] ※ et. et-2012.

 「★01 この事件について翻訳された本として、コーレン『カレン 生と死』(Colen[1976=1976])、フィリス・バッテル『カレン・アンの永い眠り――世界が見つめた安楽死』(Battelle[1977=1979]、訳者あとがきによると本になる前に『週刊現代』『リーダーズダイジェスト』にも一部の翻訳が載ったという)がある。
 法学者による著作では唄孝一(〜二〇一一)の『生命維持治療の法理と倫理』(唄[1990])がこの事件やこの事件に関する報道(の誤り)について書いた文章を収録しており、非常に重要。
 『月刊障害者問題』という個人雑誌?を刊行していた本間康二のその雑誌の最初の号に「一番大切なものは“生命=いのち”――「カレン裁判」をめぐって」(本間[1976])があり、その三周年記念特集号の三七号には「カレン裁判の全貌」(本間[1979a])、「カレンがともす灯」(本間[1979b])が掲載された。HPで全文を読める。」(立岩[2012/10/31:228])

◆立岩 真也 2013/03/25 「もらったものについて・10」『そよ風のように街に出よう』84:36-41

 「もう一つ、(どうやら私と「同郷」の人らしいのだが)本間康二が出していた個人誌といってよいだろう『月刊障害者問題』(これも「レアもの」で、私のところにも何号分かのコピーがあるだけだと思う)で一九七六年、七九年とカレン事件のことが書かれている。[…]」

◆2016/10/01 「七・二六殺傷事件後に 2」,『現代思想』44-19(2016-10):133-157→立岩・杉田[2017]
 立岩 真也・杉田 俊介 2017/01/05 『相模原障碍者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社 ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 [amazon][kinokuniya]

 「一つだけあげておく。八二年に島田療育園から出ようという人がいて、それが阻まれることがあった。一月一六日に斉藤秀子(当時三二歳、脳性まひ)が施設を出る。家族は捜索願いを出し連れ戻される。「家出」を支援した職員は懲戒解雇処分になる。それに抗議した職員は訴訟を起こすが、その公判で施設側は斉藤に「意思能力」「同意能力」がないことを主張した。支援者は連れ戻された斉藤に会おうとするが拒絶される。尾上浩二が私たちに寄贈してくれたものの中から出てきたのは八二年一二月一五日付けの「島田療育園を告発する障害者七人委員会」による社会福祉法人日本心身障害児協会太宰博邦(花田の著書等でも肯定的に紹介されている業界では有名な人だった)宛の抗議書であり、そしてこの抗議に加わることを要請するビラだ。そこには斉藤の文章も付されている。その全文はまたHP上に掲載するが、七人は井田博士(神奈川青い芝)、宇都宮辰範◇(中野区)、小山正義◇(神奈川青い芝)、千田好夫◇(千書房)、本間康二◇(『月刊障害者問題』)、三井絹子◇(府中療育センター闘争◇)。面会は、国会議員の八代英太◇が太宰に談判して、ようやく実現する。その経緯は『同行者たち』(荘田[1983])に詳しく書かれている(がやはり品切れ)。」(立岩[2016])

 「一つだけあげておく。八二年に島田療育園から出ようという人がいて、それが阻まれることがあった。一月一六日に斉藤秀子(当時三二歳、脳性まひ)が施設を出る。家族は捜索願いを出し連れ戻される。「家出」を支援した職員は懲戒解雇処分になる。それに抗議した職員は訴訟を起こすが、その公判で施設側は斉藤に「意思能力」「同意能力」がないことを主張した。支援者は連れ戻された斉藤に会おうとするが拒絶される。尾上浩二が私たちに寄贈してくれたものの中から出てきたのは八二年一二月一五日付けの「島田療育園を告発する障害者七人委員会」による社会福祉法人日本心身障害児協会太宰博邦(花田の著書等でも肯定的に紹介されている業界では有名な人だった)宛の抗議書であり、そしてこの抗議に加わることを要請するビラだ。そこには斉藤の文章も付されている。その全文はまたHP上に掲載するが、七人は井田博士(神奈川青い芝)、宇都宮辰範◇(中野区)、小林敏彦(障害者の地域生活を保障する会)、小山正義◇(神奈川青い芝)、千田好夫◇(千書房)、本間康二◇(『月刊障害者問題』)、三井絹子◇(府中療育センター闘争◇)。面会は、国会議員の八代英太◇が太宰に談判して、ようやく実現する。その経緯は『同行者たち』(荘田[1983])に詳しく書かれている(がやはり品切れ)。」(立岩・杉田[2017:71-72])

◆立岩 真也 2016/10/08 「島田療育園を告発する障害者七人委員会」…井田博士(神奈川青い芝)、宇都宮辰範(中野区)、小山正義(神奈川青い芝)、千田好夫(千書房)、本間康二(『月刊障害者問題』)、三井絹子(府中療育センター闘争)(あれ一人足りない〜調べます)→https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1786050264995286

◆立岩 真也
Sent: Monday, February 20, 2017 8:04 PM
To: mlst-ars-vive@
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ml.ritsumei.ac.jp
Subject: 本間康二

とても限られた人しか知らないと思いますが
http://www.arsvi.com/w/hk09.htm
という人がいます。人によったら読んでおいた方がよいです
(面識はありません)。
きわめて稀に私と同郷ということにもなります。
あとは北一輝ぐらいです。立岩

◆斉藤龍一郎
Sent: Monday, February 20, 2017 8:54 PM
To: mlst-ars-vive
Subject: [mlst-ars-vive: 17315] Re: {spam} 本間康二

斉藤@足立区です。

立岩さん、皆さん

僕が以前働いていた解放書店が「月刊障害者問題」のバックナンバーを預かっていたこともあって、本間さんとは何度も会いました。
仕事をお願いしたこともあります。
4年ほど前、厩橋の近くを通った際に、彼の部屋を訪ねたところ、場所覚えていました。
その時は、ちょうど不在だったため、直接会ってはいません。

そんなことを思い出しました。

◆長瀬修
Sent: Tuesday, February 21, 2017 11:39 AM
To: mlst-ars-vive@
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ml.ritsumei.ac.jp
Subject: [mlst-ars-vive: 17317] Re: {spam} 本間康二

山田太一さんのテレビドラマ「男たちの旅路 車輪の一歩」(1979年)が生まれたのは本間さんたちが
山田さんにインタビューを申し込んだことがきっかけでした。クレジットに本間さんの名前も出ています。

戦後史証言プロジェクト
http://cgi2.nhk.or.jp/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100401_00000

長瀬修

◆立岩 真也 2017/03/01 「施設/脱施設/病院/脱病院――生の現代のために・19 連載・131」,『現代思想』2017-3

 「ただ、やはり、それだけのことでもない。事件についての本でも紹介したように(立岩[2017:70-73])、八二年に島田療育園からの「脱走」が起こった。本で全文掲載すると予告したビラはHPに収録した(島田療育園を告発する障害者七人委員会[1982])。それは、共闘して居住の場・同時に職場を護ろうとしてきた日患同盟、全医労といった流れとはいささか異なるものであり、その関係の書きものにも出てこない。そして事件の本にも記したように、経営者の苦労話や経営者を称賛する文献にも出てこない。」

◆立岩 真也 2017/09/05 「もらったものについて・17」『そよ風のように街に出よう』91:60-67

 「□島田療育園での脱走事件
 「拝啓」と座談会の約二〇年後(八二年一月)、その水上が公的な支援を訴えた島田療育園で、そこにいた斉藤秀子という人の「脱走事件」が起こった。とくに重症心身障害児施設の初期には、知的と身体の重度障害の重複する子どもが重症心身障害児という定義とは異なった人たちがかなりいた。斉藤は脳性まひの人で、発話に障害はあったが、作文を園の文章に載せたりしていた。サリドマイド児がかなりの数暮らしていたこともある。そしてかつて子どもだった人も、成人しても他に行くところもなく、施設にとどまっていた。斉藤は当時三二歳だった。その「脱走」を支援した施設職員は懲戒解雇された。その撤回を求めて裁判が闘われた。その中で施設側は、斉藤には知的な判断能力がないから施設を出る出ないの決定を本人がなすことはできない、勝手に職員たちが連れ出したのだといったことを主張した。島田療育園に連れ戻された斉藤には面会もままならないことになった。それに抗議した人たちがいた。本間康二『月刊障害者問題』)、三井絹子(府中療育センター→かたつむりの家)らが八二年十二月、施設の前で泊まりこみ、呼びかけた。そこまでのことは、『季刊福祉労働』(現代書館)と荘田智彦『同行者たち』(現代書館、八三年)に書かれているから、ある程度のことはわかる。そして尾上浩二からもらった資料の中にそのときの抗議書、ビラが見つかった。そしてそこらあたりまでのことは今回の『相模原障害者殺傷事件』の第一部第二章に書いた。なぜ書いたか。[…]」

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

 「小林は、「重症者」に対して悲観的ではあったが、それを愛が覆う、というような具合になっていて、力を尽くした。尽力したが悲観的だった。それは、第2節5(243頁)に紹介する白木博次といった医学者たちにも言えることを後述する。小林は、生まれたら(生まれてしまったら)救う、それは医師の義務だと言う。ただ、生まれなくすることには賛同している。ではそうしたこと、他を批判すればよいか。とても少ないが、直接小林に対してなされた批判もある★03。私も批判したらよいと思うところはある。優生保護法下の不妊手術について二〇一八年になって提訴があり、にわかに、ようやく、このことがいくらか知られるようになった★04のだが、小林は、そこからそう大きく異なる場所にいるわけではない。しかしそれでも私たちはうしろめたいのだ。つまり、この社会と私たち自身が否定的・悲観的であるという現実感はぬぐえない。である以上、その人たちの捉え方描き方が否定的・悲観的であると、本当に批判できるかと思う。しかも、そのうえで、小林は実践を行なった。他方、そんなたいへんなことはできないと思う私(たち)は何もしていないのだ。
 しかしそれでも、[…]」

 「★03 「文責本間康二――小さな媒体ではあったがカレン・クインラン事件を特集するなど重要な活動を展開した『月刊障害者問題』を主宰した――となっているビラには「他の園では発達保障を云々されているが、この子らには発達を与えることはできない」「運命的に死に移行しているので、この死にうまく移してやる」といった小林の文章が引かれている。[…]/なおこの文章(小林[1972])は、もとを確かめていないが、「全障研滋賀支部サークル」での報告であるらしい。滋賀県には近江学園・びわこ学園があって、全障研[…]の活動の発祥地のようにも言われる。しばしば二つ並べられる「重心」の施設、その関係者の考えの間にも差があるということである(とともに、島田はその滋賀で報告しているらしい)。加えると、本間は、その短いビラで、小林の他の場での断種手術を支持する文章を引いて小林をさらに批判している。」([201610→201701b])このビラは島田療育園を告発する障害者七人委員会[1982]△268 (HPに全文掲載)。了解を得て本間へのインタビュー(本間[2017])を公開する予定。」(立岩[2018:268-269])


UP:20071125 REV:20170220, 21, 0914, 20180312, 1231, 20190917
『月刊障害者問題』  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO
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