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本間康二氏インタビュー

20170915 聞き手:立岩 真也斉藤 龍一郎

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◇文字起こし:ココペリ121 「20170915本間康二.MP3」 00:00:00〜04:23:28(263分)
聞き取れない箇所は、***(hh:mm:ss)
聞き取れるけれど自信のない箇所は、【きこえたおと(hh:mm:ss)】
と表記しています。
本間 康二  ◇『月刊障害者問題』


---------(00:00:00)---------
本間康二さん(以下、本間):【マツヤ(00:00:00)】もそうだろ? あっちも知ってんの?
斉藤龍一郎さん(以下、斉藤):そっちは、だから書店にときどき姿見せた。
本間 あそこが焼けたんだよ。
インタビュアー:(以下、―― )書いてありますよね。家事で焼けたってね。
斉藤 そうそう。あのへんは不審火がもろに。とか、あのへん住友不動産のビルばっかり建ってる。
―― そうなの?
本間 銀行はあそこを駐車場にしたいので、あそこを売ってくれって言ってたんだよ。大家にさ。結局ダメで、ずっとあれしていた。それで、燃えたでしょ? それで、俺はだから言われたんだよ。銀行と俺とぐるじゃないかって(笑)。
斉藤 あっちこっち、あの当時、書店の一区画向こうかなんかでも家事が出たし。
本間 なんたって、あのとき500、600万出たんだから。
―― 立ち退きのときに?
本間 いや、立ち退きじゃないよ。火災保険。
―― 保険がね。
斉藤 けっこうだね。
本間 満額出たんだ。満額。満額のほかに、掃除、片付けたり(笑)。だからね、***(00:01:35)のやつがいて、半分よこせとか言ってね。それは冗談だけれど、保険なんていうのは半分も出ればいいところだったの。俺、だから600万かけていたけれど、どうせ300万しか出ないと思っていたのよ。満額出たでしょ。もうね、舞い上がっちゃって。300万の宝くじに当たった人間の気持ちが。
―― 300万大きいよね。
本間 大きいよ。絶対大きいよ。俺、だってあのあと精神衛生上おかしかったのは、車椅子ででかけるたびに上から何か落っこってくるんだよ。
―― それ、何年くらい前?
本間 80何年だよね。83年か。その頃だよね。
---------(録音について 00:02:27〜00:02:35)---------
斉藤 今の話は置いておいて。今の話は、ちょっとあまりにも(笑)。
本間 それが一番面白いんだよ。俺、みんなに保険入れ、保険入れって進めてさ。
―― 83、84年の東上野?
本間 東上野。
―― 東上野に住んでおられて、それがなぜか焼けた。
本間 なぜかじゃなくて、本当に焼けたんだって。なぜかっていうと、なんか俺が(笑)。隣のばあちゃんが汚いんだって、部屋が。もう紙くずだらけで。それで、線香の火を、種火か何かで火をつけていた。もう燃えるに任せたっていう感じ。あっという間だよ。12月7日かな、乾燥しているときだから。
―― それで、東上野に住んでいたのが焼けて、保険金もらって、それでこっち来たんですか?
本間 そうそう。
―― それ以来? このへん。
本間 だから、ずっとね。いや、大変だったよ。もう12月だから見つからなくて。それでなくても車椅子で、家事で来たなんて言ったら、みんな間違えて、お前が火つけただろって。驚いた、あのとき。おふくろが、居候しなきゃならないでしょ、焼け出されて。おふくろに電話したんだよ。そうしたら、もう家事で焼け出されたって言ったら、お前何やってんだって。
―― 母さんに言われた?
本間 おふくろがさ、俺がつけたんだと思って(笑)。だから、他人が言うのは当然だと思ったのは、次の日、松が谷福祉会館っていうのが近くにあるんだけれど、そこに居候に行こうと思ってあれしたら、ちょうど旅行行っていたんだよ、***(00:04:36)不動産って、不動産屋。管理のね。向こうから夫婦で来て、いやいや、私は前から思っていたよ、あんたが失敗するだろうと。ひどいよ。俺、がっかりしたんだよ。

□小学校・佐渡
―― 僕、今日、佐渡の出身だっていうのはわかっていたんですけれど、ホームページだーっと最初から読み直して。小学校同じだってわかったんですよ。
本間 立岩さんって、どちら?
―― 梅津ってわかりますかね。鷺野っていうあたりですよ。
本間 斉藤さんがこっちだ。
斉藤 俺は熊本。
―― 斉藤さんは九州なんですよ。本間さんは51年生まれ、僕60年生まれ。だから、9つは違うので。だけど、小学校まで同じだとは今日まで気が付かず。加茂小学校って書いてあるでしょ。
本間 小学校一緒だったの?
―― そうみたいです。
本間 だけど、俺小学校のとき全然覚えがなくて。
―― ちょっとしか行っていないですよね。
本間 行っていたのかな。それで、何かっていうと、うんこたれて、そのままなんか嫌な思いばっかなんだよね。何もしてもらえなかったのかなと思ってさ。
―― そのあと新潟に移られたんですよね。
本間 そう。養護施設にね。書いてあるか。
―― びっくりして。佐渡の加茂小学校の校区というか、あのへんだと、お生まれはどこだったんですか? 両津市ですよね。今は佐渡市だけれど。
本間 加茂歌代1238番地だよ。俺、番地まで覚えてる(笑)。
―― それで、ホームページ見ていると、ちょっと不思議だったのは、そういうわけで、もともとはご両親佐渡の人じゃないですか。本間っていうので、そう思ったんですよ。本間って全国あるけれど、佐渡多いですよね。
本間 多いんだよ。
―― 全国にそんなに多くない苗字なんですよ。
本間 大体ね、今ちょっと違うかもしれないけれど、ある時期まで、東京で本間って言われると、あんた佐渡でしょ?っていうと、大体当たってた。
―― そうなんですよね。本間は佐渡に妙に多いんですよ。わりと由緒ある苗字らしくて。
本間 由緒あるかどうかはわからないよ。
―― 能舞台とか、そういうのを持っている名主さんっていうの、そういう人なんかの系列も。こっちの本間さんがどうだったか知りませんけれど。
本間 【サカタ(00:07:28)】の本間はすごいらしい。佐渡の本間なんてのは、みんな貧乏人ばっかり(笑)。
―― お父さんが、ホームページによれば、お酒でって書いてあって。牛乳屋さん?
本間 牛乳屋。だから、うちは酪農やっていたのよ。牛。
―― 牛飼っていたの?
本間 そうそう。牛2、3頭いたんじゃないかな。ホルスタイン牛ね。佐渡村史、村史に出ているよ。
―― 牛乳ビンで売っていたっていうだけじゃなくて、牛乳のもとを飼っていたの。
本間 乳搾りも見てたしね。
斉藤 そうか。まだそういう時代のやつね。加熱して消毒して、洗ったビンにつめて、近所の人だとビンにも入れずに(笑)。
本間 どうなんだろうね。だから、こんな輪っかの、ぽんって叩くとふたができる、うちにあったの。
―― ふたをする機械みたいなやつね。
本間 厚紙にあれして、型のか。
―― なんとか乳業とかってやっていたんですか? 会社の名前。
本間 愛康舎だよ。それで、俺自分で愛康舎ってつけてやったんだよ。自営するのに。だから、愛康舎っていうんだよね。つまり、愛康の康は、俺の本間康二の康。だから、愛着っていうかな。やっぱりかわいかったっていうかな。
―― お子さんが生まれたからつけた、店名なんだ。
本間 そうそう、たぶんね。愛康舎から康二をとったのか、そのへんはわからないね。
―― 私も小学校上がる前くらい、近所の鶏飼っているところに卵買いに行くとか、おつかいで。そういうのは覚えているけれど、牛乳、いたんだね。
斉藤 それはさすがに、***(00:09:51)に、コジマヤ牛乳店っていうのが、まだ看板が残っているんだよ。そういうのとか、僕が行っている病院、日大病院の近く、あのへんが昔の牛乳屋さん地帯。
―― 牛がいたの?
斉藤 だから、やっぱり牛飼って。
―― 東京で?
斉藤 東京で。だから、最初の頃はそうよ。タンクローリーじゃないけれど冷蔵トラックが走るようになったのは、まだ60年とか50何年とか。
本間 今の話は何年頃の話?
斉藤 それはもっと前だけれど、うちも酪農やっていたの。うちは、完全に田舎で牛を飼って。だから、牛乳が25リットルだか50、あれに牛乳入れて、まずは冷やしておくと。それを、朝、酪農組合の集荷場に届けると。そうすると、係が開けては、ひょっとすくって、品質検査やるわけ。
―― 斉藤さんところ農家だっていうのは聞いていたけれど、酪農やっていたのか。
斉藤 だから僕は、牛舎の掃除っていうのをずっとやっていた。
―― 子供のときね。
斉藤 僕が小学校に入ったくらいから牛を飼い始めて、最初は2頭か3頭やね。十何頭になって、十何頭までは家の隣の。
本間 そんなにいたの?
斉藤 そうそう。
本間 すごいじゃない。本格的じゃないか。
斉藤 完全に酪農でやるって決めて、僕が中学に入ったときに、30頭飼える牛舎を別に建てたわけ。山を開いて、斜面を造成して、その下に際路をつくって、その下に畑を集めていた。
本間 それは東京?
斉藤 それは熊本。
―― 51年お生まれでしょ。ちなみに、たぶん斉藤さん55年だよね。
斉藤 55年生まれ。

□ポリオ
―― 51、55、60。大体そんな年格好なんですよ。ちょうど60年くらいだと、ちょうど同じ年くらいで、ポリオで最後の流行、日本で。そのあとなくなるじゃないですか。62、63年くらいになると。たぶんね。だから、私の同じ年代くらいまではポリオの人っているんだけれど、まだ50年代はけっこういらっしゃっていますよね。
斉藤 隣の隣の家の同級生の弟、4つ下が、やっぱりポリオだった。思い返すとそうなんだけれど、隣の家の弟はダウンで、1軒隣は、今度はポリオで。
―― たぶん51年って、はやった年なのかもしれないんですよ。
本間 移るの?
斉藤 ポリオはウイルスだったの。
―― ウイルスです。
本間 移るんだね。
斉藤 だからワクチンがあるんです。
―― それで、本間さんがホームページでくさしていた松山善三とかね。正しい批判だと私は思いますけれど(笑)。松山さんとかが、ポリオはこんな大変だと、ワクチン供給しろみたいな原稿を雑誌に書いたりするのは、たぶんその頃。
本間 そんなことやっていたの?
―― そうなんですよ。この人、わりとそういうのに長く関わった人ではあって。映画監督でもあったんだけれど、ライターみたいな仕事もしていたんですね。
本間 じゃあ、「われ一粒の麦なれど」っていうのも、あの人なのかな。
―― どうなんだろう。あとで、ちょっと調べてみます。それは、たぶん違うな。
本間 ポリオのそういったあれの、***(00:14:11)のある話ですよ。
―― 映画なんですか?
本間 だから、ポリオの悶絶じゃないけれど、ワクチンを広めてみたいな、確かそんな映画だったと思う。
―― ソ連からワクチンを輸入しろって、そういうことが。
本間 共産圏だから、難しかったらしいんだよ。
―― そうなんですよね。それで、政府に訴えた。それは、本当に51年のリアルな話だから、そのときは0歳、1歳なので、知っているはずはないってことですよね。それで、私と同じ加茂小学校には入られたけれど、2、3年くらいいますね。まだ木造の、覚えていらっしゃいますか? 校舎。覚えていないですかね。
本間 大体どこにあったんだっていうのもさ。
―― わりと海沿いの道沿いにあったんですよ。木造の校舎で。それが、僕が小学校5、6年のときに壊して、山のほうっていうか、ちょっと後ろのほうに鉄筋の建物に変わったんですよ。だから、数年、ほんのちょっとだけいらっしゃったとすれば、前の木造の校舎にいらしたと思うんですけれどね。私も、でも昔のことはほぼ何も覚えていないわ。
本間 だから、1年いたのかいないのかわからないもんね。
―― そのくらいの感じですよね。新潟に、そのあと。
本間 ほとんど学業は新潟行ってからだよね。はまぐみだっけ。
―― 新潟に行って、施設に行って、新潟養護学校?
本間 新潟のはまぐみ学園ってところ。それが、手術したよね。機能訓練やったりしたんだけれど。養護学校が、はまぐみ学園につながってできちゃったみたいな。
―― 併設みたいなことだね。
本間 だから、純粋な学業の部分を養護学校にしたのかな。そこは、手術とか治療をやっていたから。
―― 施設があって、隣に養護学校が。
本間 治ったらそっちへ行く、みたいな。俺は、だからその校舎だったの。
―― そこは、ポリオの人多かったんですか? いろいろですか?
本間 俺ね、ポリオしか知らないな。いたんだろうけれどね。切断とかもいたし、いたと思うんだよ。
―― でも、50年代のはじめだったらはやっていたかね。数多かったでしょうね。
本間 だから、最後の***(00:16:54)って言ってたでしょ、あなたが。だから、やっぱりそのへんの兼ね合いもあるだろうね。わからないけれどね。
―― リハビリ痛かったって書かれていますよね。リハビリ拷問だったって。
本間 あれ、ギブス巻いて固めるんだよね。そうすると、3カ月もあれすると、もう曲がらなくなっちゃうんだよ。それを機能訓練で曲げるんだけれど、痛いんだよ。だから、もう理不尽だよね、本当に。
―― それって、そのあともやられたんですかね。痛い話はよく聞いて、私は今調べているのは、60年代の筋ジスの青少年たちが、それは国立療養所なんですけれど、やっぱり小さいとき、大体小学校に入る頃とか、大体発症はその頃じゃない。
本間 筋ジスなんて悲惨だよ。つまり、運動しなければ、どんどん退化していくから、無理してでも運動しているんだよ、あれね。
―― 良くなることはないんですよね。
本間 ないのにね。でもやらないと、もっと。言ってたよ、【電話(00:18:16)】だか何だか知らないけれど、そう言っていたよね。
―― 効果があったかというと、なかったんですよね。でも、痛いは本当に痛かった。
本間 俺、だから映画見て、悲痛だったもんね。
―― 映画見た?
本間 だから、あの山田富也さんだっけ。あの人がつくったんじゃない? 僕の夜となんとかとかって。
―― 「ぼくのなかの夜と朝」だっけ。
本間 なんかそんなのだったな。見たけどさ、なんか悲惨だったっていうか。
―― あれは、柳沢さんっていう映画監督が、岩波映画系のノンフィクションの映画撮る人が、仙台の山田さんたち、山田3兄弟っていうのが同じ国立療養所にいて。富也さんは一番下なんだけれど。彼のところに、柳沢さんっていう、けっこう福祉の映画って言われていたのを5本くらい撮っているんですけれど、その人が撮りに来たんですよ。映画を。最初、協力するって言っていたんだけれど、それを、結局山田富也さんが気に入らなかったんですよね。勝手に撮られている、みたいな。自分たちが意図しない部分を撮られているみたいな、そういうので。柳沢さんの映画は映画でできたんですよ。できて、実際に放映もされたんだけれど、でも富也さんはそれが悔しくて。それで、自分たちで撮ろうという話になって。
本間 じゃあ、夜と朝は富也さんのあれじゃないんだ。
―― どっちかがどっちですね。一応調べますけれど。柳沢さんとか撮ったものと、それに抗ってというか、それが嫌だって言って自分たちが撮ったのと、たぶん両方あるんですよね。
本間 たぶん夜と朝が最初のほうだと思うよ。
―― 確かそうです。夜と朝が先です。
本間 そのタイトルを大体知って、俺、あれのこと知った。
―― それは、柳沢さんの映画。
本間 山田富也さんのは、確か違うと思ったよ。
―― 「車椅子の青春」は、詩集の名前かな。話飛びますけれど、本間さんの介護録の中に、カツヤさんっていう、筋ジスの青年が出てくるんですよ。
本間 勝矢さん知っているの?
―― 知らないですけれど、カツヤさんって、ワカバヤシカツヤさんっていう脳性まひの人はいて、最初その人かなって読んでいたら、どんどん違うなと思って。
本間 勝矢は苗字。
―― 勝矢っていう苗字なの?
本間 勝矢光信っての。
―― 勝矢光信は知っていますよ。
本間 知ってんの?
―― わりと有名な、ありのまま舎系ですよ。
本間 ありのまま舎系なの? あの人。
―― 勝矢光信はそうですね。勝つ負けるの勝に、矢って書いて、光るに信じるですよね。
本間 そうそう。名前だと思ったの?
―― そっちじゃなくて、本間さんが知っている女性が結婚したいって言ったんだけれど。僕がホームページで読んだのは、克服の克に成りっていう字の克成さん。
本間 それは違うんだ。
―― それはまた違う人?
本間 違う人。それは名前のほうだね。
―― それで、新潟の施設におられて、僕がリアルだったのは、1964年の新潟地震のことが書いてあって。あれは、ぎりぎり私の最初の記憶くらいなんですよ。64年だから4歳くらいで、僕は。
本間 新潟地震のときはどこにいた?
―― 佐渡にいたんですよ。佐渡にいて、保育園か何かがたぶん終わって、家に戻ってきて、うちは両親共働きだったものだから、うちにいた。午後だったかな。昼間ですよね。
本間 10歳違えば、全然違うわな。俺が小学6年生だから。
―― でしょ。12、13歳じゃないですか。
本間 あなた、ずっと下だから。なんであれがわからないかなと思って。
―― 初めの記憶ですよ。小さいがきで、おばあさんと、揺れだしたから、うちの庭の前が竹やぶだったの。竹やぶって、竹の地下茎がなっているから、地震のときに強いっていいますよね。だから、おばあさんと竹やぶに隠れて座っていたっていう記憶はあるんですよ。あのときは、佐渡もけっこう波がきて、けっこう海辺のところが。僕の同級生というか、畳の上魚が跳ねていた。
本間 そうそう。魚が道路に打ち上げられたでしょ。俺、ちょっと信じられないような光景だなと思って。
―― あのときは、橋が落ちたんですよね。萬代橋って。
本間 萬代橋は落ちなかったんだよ。昭和大橋とか、あとからつけた新しい橋が全部落ちた。それで、萬代橋は残った。
―― 残ったほうなんですね、萬代橋は。
本間 そうそう。古い橋は残ったんだよ。
―― ただ、あれは大き地震だったけれど人は死ななかったんだよね、確か。
斉藤 いや、13人。
―― 死んでいますか?
本間 うん。だけど、13人って言ったら悪いけれど、13人は少ないよね。
―― 大きい地震ですからね。
本間 地震では何千人と死ぬのにさ、あれは不思議だったよね。だって、あれ本当に13人か?と思った。
―― 時間帯も良かったんじゃないですか?
本間 13時2分。
―― ちょうど昼が終わったんですよね。
本間 確か6月16日火曜日の13時2分。俺、よく覚えているんだ。火曜じゃなかったかな。火曜っていえば、9.11なんだけれど。
―― 昼飯が終わって、朝方に。
本間 ちょうど、昼休みが終わって、そろそろ昼の授業が始まるぞっていう頃に来たんだから。
―― みんな起きているから。寝込み襲われたりするとさ。阪神のときなんかそうでしょう。
斉藤 あと、火だからね。
本間 火が来たんだよね、あれね。すごかったよ。俺、本当忘れもしない。うち、養護学校って言ったって、野原の真ん中に建ったような。ひどいんだよ、みんな地盤の悪いところを、ああいう養護学校とか。土地がなくて買ったらしいんだけど、それでも***(00:25:03)で、あれしちゃって、見たら、空にきのこ雲が。昭和石油の爆発。
―― タンクが燃えたんですよね。
本間 そうそう。爆発しちゃった。なんであれがすごかったかっていうと、6月16日っていったら夏だよね。暑かったんだよ、それまで。太陽が消え去って、夕方みたいな暗さになって、毛布かぶって震えていたんだよ。ニュークリア・ウィンターって、核の冬ってよく言うじゃない。あれ本当だなと、あのとき俺思ったよ。
―― そういうことが起こるんだと。
本間 そうそう。本当に太陽が隠れちゃうと、あんななっちゃうんだね。
―― そのとき、もう12、13ですよね。
本間 オリンピックの年だ。
―― そうですよね。東京オリンピックですよね。
本間 それで、あのときは国体がやっていたんだよ。新潟国体が、16日か15日に終わって、その間もなくなんだよ。
―― 国体がどうとか、親が言っていたような気がするな。
本間 俺はうれしくてね。うちに帰れるから。
―― 国体が?
本間 地震で。
―― 地震でね。
本間 そうそう。俺は10月までいたよ。みんなさっさと戻ったのにさ。
―― そのときは、お父さんもお母さんもいらして。ご兄弟はあったんですか?
本間 おやじは死んだんじゃないかな。おやじは、はまぐみに入ったときに死んだ。おやじが死んだのが9.11なんだよ。9.11の日に死んだの。
―― あの日に?
本間 あの日じゃないけれど。
―― 9月11日にってことね。
本間 だから9月11日っていうのはなんとなく意味のある日で。あの日も、おやじの供養でもやろうと思って、そうしたら、帰ったらあのニュースやっていたの。
―― おやじさん、酒でってホームページには書いてあったけれど。
本間 酒だと思うよ。肝臓痛めて。だから、わからないんだよね。病院にも連れて行ってもらえなかったから。縁が薄いも何も、俺ずっとはまぐみだったんだ。
―― 新潟に行っていたから?
本間 そう。はまぐみに行って1年か。つまり、死んだんだけれど、教えてもらえなかったんだよ。
―― 死んだことを?
本間 ショックなんて受けないよ、子供でさ。
―― 葬式に行っていないっていうね。
本間 そうそう。1年経ってから、実は父ちゃん死んだんだよって聞いてさ。そんなもの悲しみも何もないよ。だから、俺みんなに言いふらしてたよ。俺の父ちゃん死んだんだよって、1年前だぞって。そんなもんだよね。
―― そうやって体を悪くしているお父さんをリアルに知っていたというか、見ていたわけではないんだね、たぶんね。
本間 ほとんど見ていないよね。
―― そのときは、もう新潟にいて、親子離れていたわけだ。だけど、たぶんというかなんというか、最後肝臓悪くして亡くなったんですよね。病気っちゃ病気か。
本間 わからないけれどね。がんじゃないと思うよ。
―― 飲んだっていう記憶はあるんですか? 父ちゃんよく飲んでいたなっていう。
本間 飲んでいたよ。おふくろなんて、髪引っつかんで引きずり回していたっていうのも見て。
―― おやじさんがおふくろさんを?
本間 おふくろっていうのは、つまりうちは複雑っていうか。うち牛乳屋でやっていて、本当の母ちゃんは手伝いに行っていたのよ。新潟のどっか、手伝いに。それに手つけちゃったの。だから、本妻っていうのはいるの。それで、俺は、その本妻をずっとおばあちゃんだと思ってたの。祖母だと思っていたの。
―― 父ちゃんの連れ合いというか。
本間 だから、母ちゃんの母ちゃんだと思っていたの。
―― 思っていたけれど、違くて。
本間 本妻と妾が一緒にいたっていうこと。
―― そういう話か。
本間 昔はそういうことがあるんだなと思ってさ。わからないけれど。
―― それで、お父さんはそういうので、よくはわからないけれど。さっきの話も、お父さんが乱暴していたっていう話ですか? つかんで。
本間 そう。お母ちゃんにね。本妻じゃない。
―― 本当にお母ちゃんに?
本間 そうそう。そうだと思うよ。
―― それで、新潟市にだいぶ長いこといたあと、東京に出られるわけですよね。新潟の次は東京でいいんですか?
本間 卒業して。養護学校卒業して、もうすぐ。俺は、いつの【時期(00:30:17)】っていうかわからないけれど、佐渡は捨てているから。
―― ですよね。ほとんど覚えてないでしょ。
本間 覚えてないし、あんなところに帰ったってしょうがないでしょ。俺、そういうこと言うと怒られるんだけれど、新潟なんか、地方に残っている障害者が不思議でしょうがないよ(笑)。東京は便利だもんね。
―― 佐渡だと、やっぱり知的障害っていうジャンルの人たちはいましたけれど、身体の重いっていうか、車椅子の人とか***(00:30:58)を見かけた記憶はないですね。
本間 佐渡いた?
―― 知的障害はどこにでも一定の割合でいますから、それはありますね。
斉藤 肢体不自由っていうか、要はこういう感じで出歩くっていうのがね。僕も子供の頃はほとんど覚えがないもん。熊本でもいない。
―― さっきの火事の話に戻りますけれど、火事のときにお母さんに電話かけたんですか? お母さんに電話をかけたって言っていたじゃないですか。この***(00:31:25)も、お母さん東京に住んでいらっしゃる形?
本間 おふくろは、いつの頃からかな、もう板橋に出てきていて。
―― 島のほうはもうやめちゃってという。
本間 立ち食いそば屋で働いていたのよ。任されている感じ。ほとんど店長みたいな感じで。
―― 人の経営するものではあるけれども、責任者っていうか。そば屋を。
本間 そうそう。それで、兄貴も出てきて、佐渡はもう、今あるけれど。
―― ほとんどもうたたんで、みたいな状態?
本間 いやいや、うちはあるから。借家していてから。今も借家しているのかな。
―― 貸していた?
本間 人に貸していた。
―― 貸したまま部屋を置いておいて。ご兄弟っていうのは、お兄さんがいらした?
本間 2人だけ。
―― お兄さんと康二さんとお母さんが、東京に。
本間 おふくろが東京に出て来て、だから佐渡には誰もいなくなっちゃったんだけれどね。うちはある。今、兄貴が帰っているのかな。これから帰るのかな。
―― お兄さんはまだいらして。
本間 うちは残すみたいよ。だから、年に何回か帰ったら、いろいろ片付けだのなんだのして、大変だよね。うちなんか。大変だと思うよ。俺、全然タッチしていないからわからないけれど。
―― 私も、帰って5年にいっぺんとか。親が、去年母親が亡くなったりとか、そういうこともあったので、ちょっと去年あれでしたけれど、そうじゃなければ、そんな帰らないですね。
本間 そうだよね。健常者ですらそうだもんね。
―― 東京で印刷の会社に?
本間 だから、俺の人生は、仕事歴っていうのは、製版の歴史みたいな感じで、最初ガリ版切りでやっていて。
―― 印刷の技術の発展とともに。
本間 それから和文タイプで。写植はやらないけれど、いきなりワープロからパソコンにいっちゃったけれど。
―― ガリ版やって、ワープロタイプやって、次はパソコン?
本間 パソコンで。ワープロがあったね。
―― 最初は勤めたけれども、勤め先がああやこうや?
本間 つぶれたの。
―― つぶれたって書いてありますよね。
本間 それで、1年かな、しばらく遊んで。それで、いつまでこんなうじうじしていてもしょうがないっていうので、1年発起して自営。もう一間借りて。あの東上野は知らないんだよね。
斉藤 焼けちゃったところは行ったことないんだね。
本間 解放書店っていうのは、あそこにはなかったんだっけ。
斉藤 あそこに10年くらいいた。
本間 あったよね。でも、来ていなかったんだ。
斉藤 僕は、84年から。それで、5年くらいで移ったね。今戸にね。
―― ちょっと待って。斉藤さんは、大学出たのが。
斉藤 80年の11。
―― 大学出て、すぐ解放書店でしたか?
斉藤 ううん。最初にちょっとバイトやって、2年コンタクト屋で仕事して。本郷の。
―― それ、知らなかった。
斉藤 それで、保険屋を1年やって、ちょうど84年にタカハシヒデトシが死んで、【シュウネン(00:35:16)】が死んで。
―― タカハシっていうの、僕、大学の同級生。溺れて死んだんだけれど。
斉藤 それで、ちょっとこのままここでこういうのもなんだなと思っていたときに、解放書店、解放同盟の都連がやっているんだけれど、人探しているけれどやらないかっていうので。
―― それが84年?
斉藤 4年。
―― そのときに、解放書店は東上野にあったの?
斉藤 そうそう。東上野に、その4年くらい前、80年くらいに。都連の事務所はずっと今戸にあった。それと別に、発送所って、新聞の発送所だよね。最初は、解放奨学生って、同和対策の奨学金で大学に行っている、そういうののバイト先みたいな。
―― 新聞配りみたいな?
斉藤 新聞配りっていうか、それぞれの支部で支部員に渡す。
―― 支部に持って行くほう?
斉藤 だから、その手前の、支部で何部必要っていうので、とりまとめをして支部に渡す分、あと、個別に郵送する分っていうのをやっていて、そういうのを出していた。
―― じゃあ、そのあと解放書店のあとは、アフリカ日本協議でいいの?
斉藤 書店20年いたからね。
―― 20年もいたの。84年から。
斉藤 2004年までは、メインの仕事は解放書店。
―― それで、その20年の間に、解放書店は東上野からどこかに移るの?
斉藤 今戸。
―― 移ったのは何年だか覚えている?
斉藤 ちょうどバブルの直前くらいかな。バブルの真っ最中かな。
―― その時期、一部が、仕事場が東上野にあった時期とかぶるってことか。
斉藤 最初の頃は、わりと近くにいたので、ちょくちょく本間さんも書店に姿を見せていたわけ。
本間 東上野の近くにいたんだよな。
斉藤 だから、近いからよく来ているなと思って、見かけていたわけ。まだその頃、『月刊障害者問題』出していたから。
本間 あそこが焼けたんだよね。
斉藤 『月間障害者問題』を解放書店でも売っていたわけ。
―― 斉藤さんは本間さんを、『月間障害者問題』をつくっている人っていうふうに知っていたの?
斉藤 それは、そういうので知っていた。
本間 だって、持って行ってくれたもんね。
―― 扱ってくれたっていうふうに言っていたからね。
本間 印刷したやつは、全部うちにさ。
斉藤 最後は、書店から移転したときだったかそのあとだかに、古いのを片付けなきゃいけないっていうので、預かりものをどんどん整理したときに、本間さんのところにも、『月間障害者問題』の随分古いバックナンバーもあるし。
―― それを返しに行ったみたいな。
斉藤 返す。それで、ここへ届けにきた。
本間 俺は、そのときここだった?
斉藤 だから、それが上だって。当時は、まだ本間さん、同じビルの。
―― 東上野からこっちに移ってくる。だから、間が挟んであるわけだね。
本間 俺、ここへ来たのは2008年。
斉藤 だから、その前は、ずっとこのビルの。
本間 80何年から2008年までは上にいた。
斉藤 そこが、仕事場があったんだよ。
―― 自営で始めたのが何年ですか?
本間 それは、だから東上野だよ。
―― 場所がね。印刷屋さんがつぶれる、しばらくぶらぶらしている、そのあと。
本間 だから、ここへ来たときには、パソコンだったのかな。
斉藤 さっきワープロって言っていたじゃない。
本間 ワープロは、その前に終わっていると思う。だから、パソコンはどこだったかな。
―― 私の記憶だと、昔話だけれど、ワープロっていうのが、我々ものを書く人間に普及しだしたのって、85年くらいだったんですよ。
斉藤 もうちょっとあとよ。
―― ぎりぎり85年。俺、修士論文っていうのを出したのが85年だったんですけれど、それ、手書きだったんですよ。手書きだったんだけれど、その次の年からワープロでも出してもいいよみたいになって。ちょうどそのへんが、富士通のオアシスとかキャノワードとか、そういうのが出だしたのが、85年、86年くらいじゃないかな。
本間 だんだんわかってきたぞ。つまり、ワープロは入力仕事なんだよ。それで、あんなものは、俺みたいな手が不自由なやつがやったって、ダメなのよ。
―― 入力だけだとね。それはそうですよね。
本間 そうそう、入力だけだと。あんなものは、内職屋がするような仕事なんだから。それで、俺は、たぶんここでだと思うけれど、ワープロ使って、あれをやったんだな、連載で。デスクトップ、DTP。イラストレーターとか、フォトショップ使って。
―― たぶん、イラストレーターとかフォトショップとか出てきたの、だいぶそのあとでしょ。
本間 DTPっていうのは、いながらにして、【だしつけた(00:41:09)】ようなあれをつくっちゃう。あれで、いい金とっていたんだから。最初わからないから、言い値でやれたんだわ。
―― けっこう今、自分でやっちゃう人いるからね。
本間 そうそう。今ダメだよ、もう全然。もう二足三文だよ。
―― でも、今でもその商売というのはしておられるんですか?
本間 今、やっていない。全然やっていない。
―― でも、だいぶ長いこと、DTP関係で食っていた。
本間 そうそう。でもあれ、誰でもできるっていうけれど、やっぱりセンスがいるからね。
―― それは、明らかにある。それはある。
本間 あるかどうかわからないけれど、センスがね。誰でもできないよ、絶対に。
―― あれ、誰でもできない。
本間 ただ、その好みによるよ。俺のあれがいいっていうのもいるけれど、やだっていうのもいるから、好みだから、合う合わないはわからないよ。
―― でも、その仕事をなさってきて、『月間障害者問題』をつくり出すのが、76?
本間 76年。
―― ですよね。それは、駅で乗車拒否みたいな、それで憤ってみたいなきっかけがあったみたいな、そういう話になっているんですよ。
本間 今ね、せっかくだから。
―― どこかに何かあるんですか? 一式みたいな。どこかには。
本間 あるよ。だけど、どうしたものかな。急ぐわけじゃないでしょ。
―― 急ぐわけじゃないんです。
---------(資料探し 00:43:15〜00:44:23)---------
―― 僕も、障害者会館とかで断片的に見たんですよ。こういうのあるんだって思ったのは覚えているんですけれど、通しとかでは拝見していなくて。
斉藤 もうちょっとメジャーなのだと、公安にあるのかもしれないけれど。
―― あるかな。
斉藤 何年か前に公安がやってきて、東大福祉研っていうビラ見たぞとか言うから、そうか、やっぱりあるんだなとか思って。
本間 ちょっとさ、斉藤さん、それ全部出してくれる。
斉藤 黄色いこれが、『月間障害者問題』。
本間 75年に、俺、台東区に来たのかな。世田谷の施設から、用賀技能開発学院というところへ行って。その前に、世田谷の施設の1年目に、小田急に乗車拒否されて、小田急問題っていうのがあったんだよね。あれが、火付けの始まりっていうか。だから、あれが原点だよな、つまり。運動の原点というか。
斉藤 乗車拒否っていうのは、混雑時なの?
本間 混雑時じゃないよ。
斉藤 これで乗ろうとしたら、それで。
本間 普通の車椅子。電動じゃないよ。混雑時じゃないよな。つまり、日曜日に新宿に行こうと思ったんだよ。朝。それで、付き添いつけろって言われたのよ。しばらくやっていたんだよな。そうしたら、通行人がけっこういるじゃない。やっぱり見るに見かねて、私が付き添いに行ってもいいですよって言ってくれる人が出てきたんだけれど、こっちも引っ込みがつかなくなっちゃって、それで、ふざけんなっていうことで。でも悔しくてさ、昼間からラーメン屋で飲んでいたよ。やけ酒。
―― 何駅から新宿?
本間 千歳船橋。千歳船橋っていうのは、***(00:47:42)何か、あの近くですよ。
斉藤 千歳船橋って、フツカイチさん家の近く。
本間 そうそう。フツカイチさんは砧。祖師ヶ谷大蔵かな。
斉藤 そうそう。祖師ヶ谷大蔵か。
本間 フツカイチさん知っているの?
斉藤 僕も、昔よく会いました。
本間 そうなんだ。
―― 私は、80年代の半ばくらいに、まだ大学院生だったときに、フツカイチさんまだ世田谷の砧の自宅におられて、仁木悦子さんはもう亡くなられて。でも、あとで調べたら、亡くなられて1年後とか2年後とかそのくらい。そこで、障害者の10年研究会っていうのをやっていたんですよ。私はその新参者だったので、***(00:48:32)みたいな感じで、北村小夜だとか、石毛えい子さんとか、ああいう人たちと集まってやっていたんですよ。
本間 フツカイチさんに会いたくてね。本当に会いたくて、なんでもっと会っていなかったかなと思ってね。最後は。
―― 頑固だって書いてありますよね。
本間 なんかちょっとね、付き合えないような感じのさ。こっちも、もっとへりくだいたらよかったんだけれど、こっちもこっちだからさ(笑)。あんな大先輩なのにさ、こっちがってこと言うことないんだけれど。
―― 亡くなっちゃいましたよね、確かにね。
本間 そうそう。
―― 仁木さんのことも書かれているし、フツカイチさんのことも書かれていますよね。
本間 あの家にはけっこう行ったし、世話になったし。
―― 私もあそこで、たぶん飲み倒れて、フツカイチさんのところに泊めてもらったことがあります。だから、覚えているんですけれどね。
本間 フツカイチさんは、酒を飲むと席を外しちゃって歩き出すからね。CPは飲むと調子いいんだよね。
―― 多いですよね。
斉藤 そういう人多いんだよね。人に会う前に。
―― 飲むと調子が良くなるCP、けっこういますよね。
斉藤 緊張を和らげるために。
本間 緊張がとれるんだろうね。
斉藤 アテトーゼの人が特にとか言っていたね。
本間 だけど、誰でもというわけにはいかないだろうな。
斉藤 人によりけりだからね。
本間 余計なこと言うなって怒られて(笑)。
―― その千歳船橋から始まったわけじゃないですか。それが、ちょっと不思議なのが、本間さんの場合だと、何か大きい組織に属してうんぬんっていうそういうタイプじゃない。
本間 ダメだね。
―― ちょっとインディペンデント系だと思うんですよ。でも、けっこういろんな人を知ってもいるじゃないですか。そのへんの人のつながり方っていうの。
本間 キノシタさんがいたからだな。キノシタヨウジってのいたんだよね。
―― 名前は知っているな。
本間 堤愛子の旦那さんだけれどね。
―― そうか。堤愛子さんの旦那さんが、キノシタさんか。
本間 周りが良かったのよ。つまり、つなげてくれる人たちがいっぱいいて。放っておけないのかな(笑)。
―― 本当こういうものがあるっていうのは、80年代知っていて、もう終わってはいたんだけれど、障害者福祉会館から、そういうところへ行けば、そろいではないけれどもいくつか見れて。特に、今久しぶりに見てびっくりというか、ああ、そうだったなと本当思いますけれど。創刊号で、いわゆる【アクセス(00:51:38)】の話もあるけれども、カレン事件の話は既に創刊号に出ていますよね。
本間 これは、朝日新聞の都内版に出た、最初で。
―― 出たときに報道されたやつですね。
本間 俺は、そのときにさすが朝日だと思ったのは、都内版なのに、出た晩に電話がひっきりなしでかかって、そのときの読者っていうのが、ずっと長くあれしてくれていたよね。
―― けっこう大きい記事ですよね。写真も入っているしさ。
本間 これね。ひどい顔なんだけれど。顔はしょうがない、顔が悪いんだから(笑)。カレンのあれがどこかいっちゃったよ。これだ、これ。
―― ちょうど76年であったんですね。
本間 だから、それがきっかけだよね。創刊の。
―― 何か言わなあかんって最初に思ったのは、千歳船橋の駅のことでもあるけれども、ほぼ同時期にカレン事件が。
本間 だって、それ出ていない? 第1号の。
―― 出ています。だから、第1号の2ページ目に、この話が出てきていて。
本間 それが原点だもん。
―― これが、5月15日。朝日新聞に載るのは、4月の1日だから、一月っていう感じですよね。
本間 死ぬ権利ってなんだよな。これ、死ぬ権利じゃないじゃん。せめて、死なせる権利って言ってほしいよね。親が勝手に切ったんだから。
―― そうですね。彼の場合は、もう意識がなくなっているわけですもんね。
本間 こういう朝日新聞の記者っていうのは、戦わないのかね。こういうあれで。
―― 朝日新聞って、ちょっとそういう問題に鈍感なところがあるんですよね。
本間 ダメだね。俺、最近もう全然見損なったっていうか、勘違いしていたね。朝日が硬派だとか、左翼がとか言っていたけれど、うそだね。イラク戦争のときで、一斉に右になっちゃったもんね。
―― ここ10年くらい、とりわけ芳しくないような気がしますね。
本間 そう。イラク戦争が契機ですよ。
―― 76年にこれを見て、これはやっぱりおかしいって思われて。本人死にたいって言っていないのに、みたいな話ですよね。言ったら、周囲が死なせてっていう話ですよね。
本間 しばらくずっと生きていたよね。
―― そうです。呼吸器を外したんだけれど、自発呼吸は実はあったっていう、そういう話なんですよね。そのあと、だいぶ長いこと生きましたよね。
本間 かなり生きていたよ。
―― これ、けっこう重要な事件なんですよ。そのあと、この学者たちも、何十年か経って本を書いたりしているんです。私の同業のものも。だけれど、障害者が障害者運動の文脈の中でこういう事件を取り上げたっていうのって、僕は、たぶん本間さんが最初じゃなかったかなと。
本間 たぶんそうだと思うよ。というか、俺は、ずっとあれから、今も腹立てているのは、この間19人殺されたでしょ。あの事件、俺、【ハコイワ(00:55:30)】さんのあれ、昨日読んだんだけれど。本当に障害者が自分のこととして、つまりどんなふうに捉えているのか、見ている? 俺、知らないんだ。
―― 自分たちがってことですよね。
本間 恐らく自分のことじゃないと思っているよ。つまり、あれは、要するに知的障害で意思がないんだから。だけど、俺、それは大間違いだと思った。あの事件を自分のものにしない限り、障害者は浮かばれないっていうか。正しくは、俺は、そんな障害者みんな死んでしまえと思うね。俺、何が嫌いかって、一番嫌いなのは障害者。障害者くらい、自分のことしか考えていないやつはいないよ。
―― それも書かれていますよね。けっこうしつこく(笑)。
本間 そう。83年っていうのは、節目なんだよね。俺、なぜか。というのは、83年に島田療育園の斉藤秀子さんの問題で、出す出さないっていう問題の、俺、あれでしくじったって言われていることもあるんだよ。つまり、変節したって言われているんだよな。ある部分に。俺は、あそこでやっと自分は正しいところに戻ったと思うのに、本間さんそれはほかの人がやることでしょっていう。
―― それ、ちょっとわからない。実は、6月の22、23日に、私、多摩のほうに行って、石田圭二さん、あの方と、その連れ合いの方に話を聞いてきたんです。そのときも、本間さんの名前とか出て。今でもお付き合いがある?
本間 ないんだ。ちょっと、どうなった?
―― 何かおっしゃっていましたよ、本間さんのことを。
本間 俺のことじゃなくて、考え方はどうだった?
―― 僕は、あの事件がどうなったかっていうこととか、そのあとにあまり報道とかもなかったし、あれは一体何だったのかっていうことを知らなかったので。
本間 何だったのかっていうのは、今でもあるよ。
―― そういう、ことのてん末というか、そういうのをまずお聞きしたくて聞いたんです。聞いたところによれば、とにかく前後にいろんな事件が起こっていて、プールで園生が亡くなったりであるとか、職員の不祥事であるとか、山ほどいろいろ起こっていて、それをいろいろ隠してきた。園の側も隠してきた、労組もそれとつるむみたいなところがあって、ぐちゃぐちゃになっていたと。
本間 ぐちゃぐちゃだよ。
―― 本間さんが関わった斉藤秀子さんの事件があったあとに、どうもこれのままだとあかんということで、厚生省、厚労省が、園長の首を付け替えて、ちょっとごりごりっとやれるような女の経営者っていうか。
本間 それで、女のあれに変わったのか。フジナミさんに。
―― その人が入って来て、ばばばっとやった。つまり、基本には重心の施設じゃないですか。重度の知的の言葉が出ない、みたいな。そういう場所に、斉藤さんみたいな、どこかに行きたいとか、こうしたいとか、ああしたいっていう人が混ぜこぜになっているから、こういうことにもなるんだっていうような考え方で。一理はあると思っていますけれど。それで、行きたい人には行きたいところに行かせる。行きたいところっていったって、やっぱり施設なんだけれど。斉藤さんの場合は、埼玉かな。その療護施設の。
本間 日野療護園かな。
―― 日野じゃないですか。東京じゃなくて。
本間 清瀬か。府中か。
―― だから、東京だとそうじゃないですか。清瀬、日野あたりじゃないですか。東京じゃなくて、埼玉。埼玉のところに行って、彼女はわりと、そこはまあまあ、島田に比べればでしょうけれど、だいぶ気に入ったということがあって、それから亡くなられる数十年というか、十何年というのは、ときどき石田さんたちも会いに行っていたっていうようなことは聞きました。
本間 亡くなった?
―― 亡くなられたそうですね。
本間 そう。知らなかった。
―― というあたりの話は、たぶん直接に関わられた方しか知らないでしょうし。でも、あれはどうなったんだろうって気にもなっていたのでっていうことですよ。石田さんが職員として、そのてん末っていうか、きっかけみたいなのはいろいろ聞いたんです。本間さんが、言ってみれば直接に関わりがあるわけではないじゃないですか。どういういきさつで、事件に関わられたのか。
本間 ちょっと問題があるんだけれど、俺の彼女が職員だったの。
―― 本間さんの彼女が、島田の職員だったの?
本間 そうそう。ということで、ちょっと放っておけないなという。
―― その当時の彼女が、斉藤さんがこういうことを言っているよ、みたいなことを本間さんに伝えたということですか?
本間 職員も、秀子さんに関われないみたいな。思想調査みたいなのもやるからね。意識的に意識の高い人間は近づかないようなところがあるから。だから、そんなこんなで、突破口で風穴を開けてくれ、みたいなことで。
―― 彼女から、そういう情報というか、話を聞いて。
本間 そうそう。石田さんはもうよく知っていたし。石田くんは、そのときに知ったのかな。
―― その事件のね。
本間 あれ、だって考えてみれば、変な話っていうか、無責任な話だよね。親元からかっさらって。でも、それくらいのことをしないとダメだっていうあれはあるんだよね。
斉藤 なんとなくわかるような。
―― それで、誘拐したみたいな話にされて、それで園の側が戻して、石田さんたちを園の側が訴えるみたいな裁判が起こるっていう、そういう流れですよね。裁判の話はちょっと置いておいてもいいと思う。この間、石田さんにだいぶ聞けて、わりとわかったので。でも、斉藤さんは結局施設の中にずっと。面会とかもできなくなってしまうと。そういう状態のときに、七人委員会っていうんでしたっけ。
本間 そのときは、それで運動っていうことになるでしょ。
―― そうですよね。そのときに、七人委員会って。でも、7人なんですね、本当にね。
本間 7人しかいなかった(笑)。
―― それで、年末に行って、でも膠着状態続く、それで八代英太出てくるみたいな、そういう流れなんですよね。冬ですよね。
本間 2月だ。確か。
―― 正月の手前くらい始まって、正月またいで、みたいな話ですよね。まだ寒い頃。
本間 寒かったよ、本当に。
―― そのときに、本間さんが書かれているのは、そのときは、運動っていうと、とにかく健常者が入ってきて、どっちか主体だかっていうような、前に出ているのかっていうのがあったけれど、あのときは、とにかく介助者以外は後ろに炊き出しというか、そんな感じにして、前面に出るのは障害者でかためたんだっていうことをおっしゃっていたけれど。それは、誰彼となくというか、みんながそういうムードだったんですかね。
本間 あれは、どこの時点でそうなったかわからないけれど、向こうは、つまり健常者に操られて、みたいなことを言っているわけだから。
―― 向こうがね。施設の側がそういう。
本間 どうせ障害者がそんなことできるわけないのに、いわゆる左翼の学生どもがさ。
―― 言われますよね、あの頃。確かにね。
本間 そういうことよ。だったら、もう全部切っちゃえということで。
―― 別にそういう話じゃないと。
本間 そうそう。あれは、だけれど面白かったね。結果はともかく。成り立ちのプロセス。
―― 今日、私電車の中で、ほとんど解説はないんだけれど写真はあるっていう。本間さんのホームページには。
本間 写真があるって。
―― 写真、出しますね。
本間 どういうこと?
―― そのときの。
本間 だけど、考えてみたら、俺も従来通りのものってのはやりたくなくて、何か違うことをいつもやりたいっていう意識で、今までとはちょっと違う、今まで通りじゃ嫌だなっていう。
―― 車椅子の人、3、4人撮って、写真になっていたりしますけれど、1人は明らかに三井絹子さんなんですよ。若かりし頃の。真ん中写っているのは、たぶんこれは本間さんなのかな。そういう写真があって。勇ましいんですが。じゃあ、あれは、七人委員会の誰かが特に中心というわけでもなく、なんとなく。いろんな人がいますよね。神奈川の青い芝の小山さんであるとか、三井絹子さん、本間さんとかが。混成というか。なんとなく思想心情的には、確かに一緒にはなれるだろうなっていう人たちではあるけれども。
本間 でも、偏っているよ。
―― 偏ってはいますよ。
本間 共産党はいないからね。
―― 共産党はいないです。
斉藤 時代だわね。
本間 これね、今思い出したけれど、有名人路線でやったんだよな。これ、山田典吾でしょ、勝新太郎でしょ、山田太一でしょ、八代英太、手塚治虫、これ太田典礼。
―― これは、笑っちゃいけないけれど笑えるというか。これも出てくるんですよ。
本間 この人どうしたの?
―― とっくに死んでいますよ。
本間 安楽死で?
―― 安楽死じゃなくて。
斉藤 しないよ。最後までしぶとく生きて(笑)。
―― こういうやつに限って安楽死しないんだけれど、正月に何かをのどに詰まらせて死んだ。
本間 餅?
―― 餅じゃなかったかもしれない。でも、長生きしたんですよ。85くらい。
本間 俺、人のこと言えないんだよ。この間、餅菓子食ってさ、詰まりそうになった(笑)。
―― でも、それこそ有名人路線っちゃそうだけれども、リアル太田典礼。やっぱり、太田典礼の野蛮さがよく出ているインタビューっていうのがあって、これすごい貴重だなと思って。
本間 言っちゃうんだよね。
―― いや、こいつ本当野蛮ですよね。
本間 普通言わないよね、あれは(笑)。
―― もう年取ってぼけたら死ね、みたいなことを言っているのよ。本当にそんなやつなのよ。こいつ自分年寄りなのに、何言ってんだっていうやつなんだけれども。でも、貴重ですよね。かなりいっぱいものを書いて、同じことを書いているので飽きるんだけれども、同じことをいっぱい書いていて。でも、人にしゃべったっていうのは、新聞とかにっていうのもあるんだけれど。でも、けっこう長いですよね。本間さん聞いたの。あれが、ちょうど安楽死協会を立ち上げた頃、わりと生々しいあたりのインタビューで、けっこう貴重なんですよ。やっぱりあのままで言っているよ、こいつ、と思って。
本間 不思議なキャラクターだったよね。普通言わないよ。あそこまで。
―― こいつが死んだあと、こういうこと言っていったらやっぱり世間的によろしくないって話になって、尊厳死協会に名前変えて。典礼はずっと、俺は安楽死がいいって言い張っていたんですよ。尊厳死は嫌だと。安楽死協会のままでいたいって言っていたんだけれども、やっぱりそれじゃあ、ナチスだなんだって言われるだと。
本間 ナチスだとは言わないけれどさ(笑)。
―― そういう話になって、もうちょっと穏便にことを進めたい人たちは、尊厳死協会になって、今も大繁盛ですけれどねっていう話のしょっぱなあたりなんですよ。だから、本間さん76年でしょ。だから、やっぱり昔っちゃ昔じゃないですか。40年前でしょ。そのときで、尊厳死協会がちょうど始まる、カレン事件でこういう。もちろん、古典的な意味での森鴎外の何とかとか、ああいうのは昔からありますけれど、今の時代の安楽死、尊厳死っていうのが問題にされ始めるしょっぱなくらいで。しかも、障害者運動っていうのは、最初はそういうものとダイレクトにつながらない、世界的にも。例外的につながったのは、これも本間さんが雑誌出していますけれども、『しののめ』、ハラダシュンチョウさんとかね。そのあたりなんです。
本間 ただ、俺は愛ちゃんみたいに頭良くないから、論理的ないろいろ。
―― これは堤さんか。
本間 そうそう。
―― そうですね。若かりし堤さん。
本間 だから、俺、何とか論的なのは全然書けないのよ。
―― それ、いいと思うっていうか、良し悪し別で、本間さんの文章ってけっこう小気味いいわけ。ばっさばっさっていうか、嫌いなものは嫌いだ、みたいな。明らかに読んでいてわかるの。僕もけっこう映画を見ていた時期があるので、読んでいけば読んでいくほど、本間さんのこっち側に行く好み、こういうの好き、こういうの嫌い、みたいなのあって、わりとあっている。
本間 それのときの機関紙は、もう立て板に水で、しゃべるじゃないよ、ものが書けたね。
―― 本間さんがね。
本間 うん。原稿が。あんなことがあるんだね。俺、神様がよく書かせているって言うじゃない。
―― 降りてくるとかいいますよね。
本間 あんま感じだったね。ものすごい早かったよ。



―― 俺、今回ちょっと雑誌に島田のことを書くっていう流れになっちゃって、いつの間にか。書いて、石田さんのところに行って、本間さんが書いたもののコピーとかももらって。なんか根性が入っている、勢いがあるというか。本当に怒っている。
本間 不思議だったね、あれは。あれ、初めての経験。それまでなかったもん。どんなものを書いても。
―― なんか畳み掛けるっていうか、本当に起こっているっていうか、そんな感じ。
本間 起こっちゃいけないんだけれどね、本当はね。
―― でも、私はどっちかっていうと、よく言うんですけれど、光栄だと。後ろのほうにいて、じみじみやっていると。でも、前に行ってわーわー言うっていうか、あるいはけんか売るとか、そういう役目の人って必ずいるので。そういう、わーわー言ったりとか、気分で言っちゃうとか、そういう人がいないと盛り上がらないし。
本間 俺は特攻隊なのよ、だから(笑)。だけど、あれ、書くことで、あそこまで書いたって、書けていたかどうかわからないよ。
―― あの文章、書けていますよ。やっぱり勢いあるっていうか、ストレートなこと。
本間 恥ずかしくて、見れないね。あれはね。
―― あれはいい文章だと、私は思います。
本間 これだよ2。
―― これが、三井さんですよね。
本間 そう。
―― これ、誰か覚えていらっしゃる方いますか?
本間 全部覚えている。
―― 誰がどれか全然わからない。
本間 この人たち、一緒に住んでいるんだ。千葉の検見川で。それで、【マツモトさん(01:14:04)】っていうとこなんだけれど。この人たちは、石田さんじゃないんだよな。だから、また違うグループっていうか。
斉藤 何年?
―― 82年の末とかですよ。82年から83年。
本間 これは、83年じゃないの?
―― 83ですか?
本間 3年の2月か1月か。
斉藤 千葉だと、鈴木利子さんとか。
本間 知ってる?
―― 鈴木利子さんっていましたね。
斉藤 一時期は鈴木さんの車の後ろにぞろぞろっと、施設から出たばかりの人が引きずられて歩いていましたっていうのを覚えている。鈴木さんの介助をやっていたのは、けっこう知っているんだよ。
本間 千葉の検見川のあれは出てこないよ。
斉藤 そのへんにいたからな、鈴木さん。
―― 7人っていうのは、神奈川青い芝の井田さんっていう方。それから、中野の宇都宮〔辰範、1953/06/04〜1984/02/20〕さん。中野の宇都宮さんって、よく出てくる。
本間 宇都宮辰範ね。
斉藤 宇都宮さんは、ストレッチャーの上で寝ていた。
本間 そうそう。寝たきり障害者。
斉藤 宇都宮さんが、あそこに行ったの? 戸山町の都営住宅。
本間 戸山町だった? 宇都宮さんは自宅だよ。中野だよ。
斉藤 じゃあ、あそこに行ったのは、もう1人誰だっけ。名前出てこない。
―― とりあえず言っておきますね。神奈川青い芝の井田さん、中野の宇都宮さん。それから、障害者の地域生活を保障する会、小林敏彦さん。
本間 それは何なの?
―― 七人委員会の7人。それから、神奈川青い芝の小山さん、これは知っている。それから、千書房の千田さん、これも知っている。
本間 千田さんは名前だけだけれどね。
―― 『月間障害者問題』本間さん。府中療育センター闘争、三井さん。僕は、直接存じ上げているのは、三井さん、本間さん、千田さん、小山さんですね。宇都宮さんは、わりと伝説上の人物なので、名前はよく知っている。でも、あとの2人はちょっとわからない。井田さん、神奈川っていうのはわからない。
本間 井田さんっていうのは、あれじゃないかな。千葉の検見川の。
―― そうですか。井田さんっていうのは、神奈川青い芝って書いてある。
本間 神奈川か、違うか。
―― 小林敏彦さんっていうのも、ちょっと。
斉藤 小林くんっていうのはいたけれど、随分前に死んじゃったけれど。
本間 ちょっと忘れちゃったな。千葉のあれは入っていないか。
―― ちょっとわからないですけれどね。
本間 あとかもしれない。それは、何のときだっけ。七人委員会って。
―― 島田療育園を告発する障害者七人委員会っていう。82年12月15日付けです。ここです。これですね。
---------(資料の確認 01:17:30〜01:18:07)---------
―― 僕は、この写真でわかるのは三井さんだけなんですよ。
本間 三井さんね。三井さん写っていた?
―― これ、三井さんでしょ。
本間 うん。
―― これ、本間さん?
本間 そうそう。
―― 三井さんも、なんか怖いですよね。三井さん迫力ありますよね。
斉藤 だからさっきの、乗り移っている頃だから、やっぱり乗り移ってんだよ(笑)。
本間 乗り移ってはいないけれど、このとき寒かったし、緊張してんだよ。
斉藤 あと、やっぱり乗り移ってんだよ。見ると、目から火を出さなきゃいけないと思うような連中がいるからさ。
本間 漫画みたいだね(笑)。
斉藤 それって重要でさ、確かに。



―― 有名人路線、確かに有名人。でも、突撃系ですか?
本間 突撃のつもりだったんだけれど、もうなあなあでね。遠慮しちゃってさ。そりゃそうだよ。タダで会ってもらって(笑)。
―― 勝新太郎とか。
本間 勝新太郎は京都まで行ったんだよ。
―― 京都まで行った?
本間 俺が。
―― ロケか何かやっているときに?
本間 ロケか何かやってるかどうかわからないけれど、俺、京都行ったんだよ。勝新太郎に会いに行ったのかな。なんかのついでに会ったのかな。そんなことないな。
―― 今日、うちの同業の長瀬修っていうのがいるんですけれど、何聞いたらいいですかっていう。
本間 同業って何なの?
―― 僕は、立命館っていうところに今勤めているんですけれど、長瀬さん、それの非常勤みたいな感じなんだよ。斉藤さんもそうなんですけれど。うちは、生存学研究センターっていうのをやっていて、そこのスタッフなんですよ。
本間 生存学ね。なんとか史あったでしょ。あれに俺が載ってたんでさ。
―― 年表ね。
本間 びっくりしたのよ。あの関係なのね。
―― 私、あれをつくっている人です。
本間 今、初めてつながった。どういう人なのかなと思ってたの(笑)。
―― こういう人です(笑)。
斉藤 佐渡の生まれだった。
―― 佐渡の同郷ってメールに書いたけれど、北一輝しか知らないんですよ。北一輝以外は本間さんしか知らないんだよ。
本間 この間、たまたま、また読んだんだ。『昭和史発掘』松本清張。2・26事件。あれ、しばらくぶりに読んで、北一輝がいっぱい出てきたから。
―― 北一輝って変なやつだったみたいね。かなり変なやつだったみたいね、北一輝。
本間 変な人でしょ。
―― 神様からお告げがあった。それ系だった。
本間 そうなんだ。奥さんとね。だから俺、佐渡の人って知らないのよ。佐渡の人って大丈夫なのかなと思ってさ。
―― みんな普通なんですけれどね。
本間 あなたは普通だけれど、なんか北一輝とか変なのがいるからさ(笑)。
斉藤 熊本もなかなか大変で、麻原某っていうの。
本間 麻原某ね。
斉藤 年が1つ上の熊本盲学校出なの。
本間 あれ熊本なの?
斉藤 熊本。
本間 そう。あっちこっちにいるんだ(笑)。
―― 北一輝、ある意味好きですけれど。嫌いじゃないんですけれど。それはいいんですが。でも、佐渡には、前からよく言うんだけれど、どんな悪人でも、地元だったら地元の人は偉人なんだよね。だから、やっぱり北一輝、2・26で銃殺刑になるけれども、北一輝先生の碑っていうのが、ちゃんと両津市の真ん中あたりにでっかい石碑が立っている。大体そういうものだよね。郷土の人って。別にいいことやっても、悪いことやってもいいんですよ(笑)。でも、麻原になるとちょっと違うか。
本間 北一輝からも麻原からも離れるけれど、佐渡ね。佐渡、5万人もきるんだって?
―― そうですよ。だから、僕が小学校あがったときくらいが8万人くらい。
本間 だって、市でもなくなっちゃうんじゃないの?
―― だから、昔は市が1つ、町が5つ、村が1つとかだったんですよ。それが、平成の大合併で佐渡市っていう市になって。
本間 佐渡市になっちゃったんだよ。それが、だから市でもなくなっちゃうんだよ。
斉藤 市はそのまま残るんだけれどね。
―― いっぺん市になれば、当面大丈夫なんじゃないですか。当分大丈夫、市は大丈夫。
斉藤 今は、天草も市が2つくらいになっちゃったのかな。市2つ、町1つかなんかで。
―― でも、さっき本間さんがおっしゃっていた「車椅子の青春」、山田富也、そういう取材とかもありますね。
本間 それ、取材したのかな。電話か何かで話聞いただけだったりして。
―― けっこう自分で売り歩いたとかでしょ。1個100円で、街に行って。
本間 街に行ってやったんだよ。俺、新宿のバス放火があった西口で、1人で叩き売りやったんだ。度胸ついたな、これで(笑)。本当に。叩き売りやったんだよ。1時間かな。1人で。スピーカー持って。
―― なんでしょうね。その頃のその情熱っていうか。
本間 それで、そんなことがあってやったから、俺、ヒッチハイクやろうと思ってさ。ヒッチハイクなんてとんでもないよね。あんなものさ、ひどいものだよ。だって、車椅子をまず降りて、上げてくれ、車椅子もたたんで運んでくれって、こんなヒッチハイクある(笑)? 1人だけ乗せてくれた。
斉藤 乗せたほうは印象に残るんだよ。やったっていう気分になるんだよ。やったーって(笑)。50年経っても、自慢話をするんだよ。
本間 ずっと年賀状もらっていたよ。
―― 小さい個人誌って言ってもいいような小さいメディアじゃないですか。そのわりにはって言うとなんですけれども、けっこう取材しているんですよね。それは不思議なんですよ。だって、手間かかるし、時間もかかるし、だって、京都まで行った。
本間 俺の話?
―― そうそう。この『障問』の話だけれど。これ、何人かでやっておられたっていう感じですか?
本間 何人っていうか、ほとんど1人だったから、あとは愛子ちゃんがそのあとやってくれたけれど。
―― 堤さんは、あとのほうでは。
本間 カメラマン1人連れて行って。あれも障害者だったけれどね。
―― 堤さん、ちょっと手伝ってくれた時期もあるっていう感じですよね。
本間 出かけるわけじゃない、電車に乗って。要するに、行く間にもいろいろあるわけだし、車椅子で電車に乗って行こうとすると、必ず何かあるからね。それがまた1つネタになるし。ヒッチハイクなんていうのはさ、ネタがなくなったから出かけて行ったの(笑)。【サンゴ(01:26:33)】新聞ってのはよく言ったもので、【サンゴ(01:26:35)】出すと、ネタがわからなくなって。ネタなんていっぱいあるんだけれどね。
―― かえって機関紙とかの場合だったら、内輪で書けるっていうか、自分たちがやってることを書けばいいっていうところがあるじゃないですか。これは、やっぱり外にいって、だって僕、太田典礼とかに会うの嫌ですよ。私は(笑)。そのあとの尊厳死協会の会長とかとは、議論何回かしたことあるんですよ。だから、喧嘩もしていなくはないんですけれど。とにかく怖い人じゃないですか。怖いっていうか、野蛮。とにかく、その取材力っていうか、やっぱりそれなりにっていうか、随分時間をかけて、手間かけてっていう記憶はありますか?
本間 別の話をしようと思って、そのことを言おうと思ったんだけれど、同じことだと思うのは、思い入れが違ってくるんだよな。つまり、それだけ時間をかけたり手間をかけたりすることによって。そうか、黒澤の映画だ。黒澤明の予告編見たのか。予告編がすごいなと思った。つまり、あの人は、いろんなことをさせるっていうか、役者に。わざわざしんどいことをさせるんだけれど、それで、フィルムにならないところまでちゃんとやらせるのね。というのは、あれ、全部その人にその世界に入ってもらいたいために、時間をいっぱい使うんだよね。それは同じことだと思う。だから、車椅子で出かけていくときに、やっぱり苦労して出ていけば、それだけちゃんとして書こう、変なものは書けないぞという気になるんだよね。それだと思うよ。でも、それ、83年までだな。そのあとは、もう本当にダメ、惰性でさ。ほとんど、たった1年の栄光くらいだったな。2年後、3年後っていうのもあったけれど。芝居をやったっていう。そのあたりはダメだもんね。人の使い回し。二次使用だからさ。そういうことをやるようになっちゃ、もうダメだね。
―― 今ぱらぱらって見ているんだけれども、例えば、いわゆる全障研の集会も取材しているし、全障連結成っていうのもやっていると。両方は同じ面に出ているっていうような紙面なんですよね。
本間 そのへんは、たぶん行っていないな。向こうに書いてもらったんだと思う。そういうふうになっちゃうんだ。
―― そのときのスタンスっていうのは、僕はやっぱり貴重だなとも思うのは、斉藤さんもそうかもしれないけれども、どっちかっていって、私も学生のときから、共産党系かそうじゃないかっていったら、そうじゃないほうのサイドですよ。今もね。そういう意味で言えば、全障連とかそっち側なんだけれども。ただ、本間さんが独自の位置っていうのは、差別の糾弾みたいなことをやったときに、それはちょっと違うよ、みたいな。
本間 差別の糾弾やると、全障連から怒られるから(笑)。違うよって、どっちが?
―― 違うよっていうことを本間さんが言っている。つまり、全障研がやっているような、批判の仕方。
本間 それ、どっちなんだろう。
―― それ、微妙だと思います。微妙だと思うけれども、でも僕は本間さんの主張に一理あると思っているんですよ。絶対正しいとは思わないし、全障連なら全障連も論理はあるとは思うんだけれども。ただ、その運動論っていいの?っていう言い方を、最初からけんかすることを決めている全障研の連中であるとか、そういう人じゃない人が言うっていうのは、やっぱり運動の多様性とか、必要だと思うんですよね。
本間 今、思い出した。俺、何を今日しゃべろうと思ったかやっと思い出した。障害者って、今、弱者でも何でもないのね。強者なのよ。それで、俺は成り上がり者だと思っているのね。それの典型が乙武。だから、俺それで、かなり誤解を恐れずに言うけれども、成り上がり者じゃダメだし、障害者もういっぺん差別されている時代に帰ったほうがいいと思う。原点回帰だよ。それで、俺はその当時何が良かったかっていうと、差別されている中で、社会状況がしんどい中で、そのときに近付いてきてくれる人が本物だと思っている。今、それが見えなくなっていると思うよ。みんながみんな同じような感じで。
―― その言わんとしている気分は、私もわからんではない。ただ、例えば乙武なら乙武が出てきたときに、私もコメントとか書いたことがあって。中身はちょっと略しますけれど、でも、やっぱりああいう人もいてもいいのかもしれないけれど、ああいうのが代表だっていう、障害者の代表面されるのはちょっと違う。
本間 代表面しているの?
―― 一時そういうときありましたよね。政治家になるとか、そんなことも含めて。あれは確かに重度の障害者かも。
本間 重度は重度だろうね。
―― 重度は重度なんだろうけれども、手足がない健常者みたいな感じもするでしょ。顔は、なんとなく美男子系だしさ(笑)。だから、あれは健常者社会にとって危険じゃない障害者。
本間 白人、黒人みたいな。
斉藤 金の話で面白いのは、やっぱり孟母三遷じゃないけれど、移った先がみんな運動があったとかじゃない。世田谷でずっと育って。
―― 何の話?
斉藤 乙武。生まれは江戸川か何かなのね。でも、やっぱり世田谷が条件がいいって。今40くらいだっけ。
―― もうちょいいってんじゃない? わからないけれど。
斉藤 金井康治なんかよかも、もうちょっと下くらいで。そして、やっぱり目黒、世田谷っていうのは、すごい運動があったから、やっぱり地域の学校に入れるし、普通に高校に行くっていうのがあって。そういう流れの中で、中学行って、高校行って。高校は富山だけれどね。富山も、そういう意味ではすごく良かったみたいね。
―― よく知っているね。
斉藤 だって、昔読みましたよ、『五体不満足』。読んでいるとすごく感じるのは、孟母三遷じゃないけれど、移った先が。さっきの佐渡島にいたら、彼はこうはならないよ。ああはならないよ。熊本や佐渡島では、やっぱりああはいかないもん。だから、世田谷にいて、都内で、富山高校だったから早稲田っていう。
本間 俺も確か読んでいるんだよ。『五体不満足』。何か不満足なのは、シャレ言うわけじゃないけれど、何か違うんだよね。
斉藤 だから、もうすごい条件がそろったあとなんだよね、彼。だから、彼にとっての原点は、もう行ったら小学校も。だから、やっぱり世田谷の教組なんかは、けっこう運動をやっている人間がいて、どうやって一緒にやりましょうかって。
本間 俺ら、組合から差別されたんだから。組合が乗せるなって言っているんだから。
斉藤 金井闘争なんか典型じゃん。
―― 今日ここにとじられているのは、78年までということで、実際には83年まで80号出たっていうことなんですけれど。その後期っていうか、80年代の『月間障害者問題』っていうのは、どこかにあるんですか?
本間 80年代はもうダメだろう。
―― というか、今、本間さんの手元にはある? これが、いつまであるかっていうと、30号までありますね。30号まであって、本間さん自身の記述によると、これは80号まであったと。あと50分、どこかにあるんですか?
本間 つなげてはないと思うな。あれ、もう1回出してくれる。
―― どれですか?
本間 それ、全部。その上何があるかな。変なのが出てきたら嫌だな。
―― ちなみに本間さんは、今でもやばいサイトっていうのはやっているんですか?
本間 やっていないよ。
―― もうやめた?
本間 だって、同じものじゃない。今、だいぶ昔よりおとなしくなっちゃって、見るとこない。何号から何号までって。変なもの出てくるけれど、ちょっと覚悟して。その上から、ちょっと出してください。
---------(雑誌探し 01:37:42〜01:38:50)---------
―― あった。ありました。
本間 全部ある。俺、どこかで見たと思ったんだよ。最近、忘れているから。どうでもいい、過去の栄光だから(笑)。
斉藤 じゃあ、ちょっと1回まとめてどこかにコピーとるか何かしないとダメだね。
―― コピーとります。うちの研究センターにきちんとファイリングして。
本間 悪いけれど、俺の分も1部ずつ。
―― もちろん。ファイリングしたやつがいいでしょ。ファイリングしたやつを贈呈いたしますよ。
本間 それ、誰かに頼みたかったんだ。こんなにしておくと、どうかなっちゃうからさ。
―― 印字の品質もあるので、やっぱり学校に行って、時間をかけてきっちりやらないとダメですね。
斉藤 それで、とじ込むものはとじ込んで。
本間 うしろのほうは何も書いてないけれどな、本当に。
―― でも、これ今そろいであるところは、ないんじゃないかな。
本間 ないと思うよ。ないでしょ。ないはずだよ。だって、出ていないはずだもん。
―― 私もいくつか見たことがあって。
本間 どかに置いてあるやつを1部ずつとっていってくれれば、そこまでやってくれればね。
―― きれいにとって、ファイルして、ファイルをお送りします。必ず。国家図書館に納品しました?
本間 だから、それがわからないんだよな。
―― あれは、つくっている人が納品しないと。
本間 そうだよね。
―― 本間さんが。
本間 俺、やっていないと思うよ。
―― やっていないから、たぶん国家図書館にないんじゃないかな。
本間 ないかな。
―― だって、普通に本屋さんで売っている本だったら自動的に入ると思うけれど、そうじゃない自費出版系って、出版しているサイドが図書館に送れば図書館は保存しますけれど、そうじゃないと、たぶんないと思うんですよ。
斉藤 1組は、つくったら納品というか。
―― 必ずしますね。
本間 これ、大きさがまちまちなんだよ。
―― 斉藤さん、コウジくんは今とかもあるよ。
本間 それ、俺書いたのかな。違うか。誰かが書いた記事を。いい加減だよ、本当に。あとのほうは。惰性っていうか、自分の***(01:41:44)話だけが書いてある。
―― あの堅いフツカイチさんも、『そよ風』では、ちょっとえろいの書いています。別の筆名で。連載で。
斉藤 逃げた園長。
本間 それ、島田のね。
―― これで正編っていうのは、そういうことか。さっきおっしゃっていたやつね。
本間 島田は、ちょっとね。力入れてやっているんだ。そこのあたりから。
―― 【セキネコウセン(01:42:32)】なんか覚えている。これが、80年代に入ってですね。でも、まだやっていいますね。81年が最初。島田の事件が82年だから、その頃ですね。
本間 それだよ。
―― これだ。ある女子職員の言葉っていうのは、ある女子職員は彼女ってことね。
本間 そうそう。知的障害者運動だな。これは、俺、たぶん自信作だよ。島田の一連の文章は、たぶん。今さら読んで見る気はあまりないけれど、たぶん力入れて書いていると思う。
―― そうですね。一気に書いている感じですね。でも、これ本当に4ページずっと島田の話を本間さんが1人で書いておられますね。これのごく一部しか見ていないんですよ。
本間 そう。それ見たんだ。
―― ごく一部です。だから、この間多摩行って、一部をコピーされているのをいただいたので、全部は持っていません。
本間 じゃあ持っているんだ。
―― いや、全部は持っていないです。
本間 多摩になかったの?
―― これだけのものはなかったです。探せばあるのかもしれないけれど、僕自身は。
本間 そこにはなかったのか。
―― ご自身も、この頃に集めたものって、あるはずだけれど、でもない。
本間 けっこう時間がかかっていたんだよな。一般のじゃないんだ。2、3年は経っているんだ。
―― 2、3年っていうか、おおむね1年なんだけれど、82年から始まって、本間さんたちが座り込んだのが82年の12月ですね。
本間 なんか短い間にいろんなことがあったんだよね。ということは、やっぱり。
―― 同時に金井くんのやつをやって、斉藤さんは金井さんのところに関わっていた。
本間 これだよ、これ。これが、一気に書いたやつ、たぶん。
―― これは、宇都宮さんですね。これはそうですね。
本間 そうそう。これ、写真誰だったのかな。イワタじゃないんだよね。誰か、カメラマンというか。
―― ここでは、荘田さんって、これは本を書いた人ですよね。『同行者たち』っていう本を。イドカワさんっていうのは。
本間 イドカワっていうのは、写真をやっていた。いい写真撮ってくれたよ。これなんかいい写真だろう。俺は、車椅子で良かったと思ってんだよ、変な話。なんでかっていうと、黒澤明の映画でも何でもそうだけれど、カメラの位置は大体車椅子なんだよね。ちょっと見上げた感じなの。加藤泰なんかだと地面にやっちゃうけれど、大体この角度で人間を見るっていうのが、立っている人間を見るのが一番かっこいいんだよね。本当に。
―― 加藤泰、私好きです。
本間 知ってる?
―― 知っています。
本間 あの人はローアングルだよね。
―― そうですよね。
本間 あの人はもっと下なんだけれど、それでなくても大体車椅子のあれなんだよね。だからね、悔しいけれど、健常者みんなかっこいいんだよな、車椅子から見ると。電動はダメだよ。電動は。車椅子ね。この位置。
―― 実際、筋ジスの人で、仙台の療養所で、さっきの話の流れですけれど、柳沢さんっていうと映画を撮る。映画を撮るときにスチールを入所者にやってくれないかと。スチール写真。それで、写真を覚えた入所者ってのがいて、どの件の流れというか、ああいうのなんだけれども。それで、実際車椅子にカメラ。やっぱりだんだん重くなるから。
本間 入所者に撮らせたの? どういうこと?
―― 写真集出ているんですよ。
本間 スチールは、だってあれ、専門家が撮るんじゃないの?
―― 普通はそうなんだけれど、その柳沢さんっていうのが撮った、それがあって。それがきっかけで、写真を撮るようになった。でも、だんだん筋力が落ちてくるじゃないですか。筋ジスだから。そうすると、やっぱりカメラを支えられなくなっていって、結局車椅子のところにつけて写したっていうのが、写真集になっていて、出てはいるんですよ。けっこういいんですよね。
本間 車椅子って電動じゃないよね。それは。
―― その頃は、そうですね。これが、終刊号が。83年。
本間 だから、そのあとじゃない? 島田は。
―― いや、島田はひと段落ですよ。これって、終刊にあたってとか書いていないじゃないですか。終刊に寄せてとか。この間、『そよ風のように街に出ようって』っていうのは、91号で終刊したんです。
本間 それはね、もうぼろぼろ。
―― これは、80でやめるつもりじゃなかった?
本間 もうなんかいつの間にかやめたっていう感じだよ。そういや、まだやめてなかったなっていう感じだよ。でも、それ、そうしたら何か書くんだよね。
―― 81号は、つくるはずだったんだけれど出なかった、みたいな感じ? だから、とにかく80号に、もうこれでやめるよって書いていないから。
本間 83ってあったのかな。
―― わからない、どうなんだろう。
本間 たぶんそれで終わりだろうな。
―― 本間さんが書いているのは、80号が最後だって書いてあるんですよ。
本間 でも、これ違うんだよな。これ、78年頃だもんね。
―― いやいや、違う。これ80号だから。
本間 この、芝居は。
―― 芝居はね。でも、出たのは83年の5月って書いてあるんですよ。
本間 じゃあ、なんで芝居の台本が出ているのかなって。
―― 芝居の台本?
本間 見開き。
―― これですか?
本間 そう。
―― それは私に聞かれても、私はわからない。本間さんしか知らない。
本間 おかしいよな。
―― これ、自分で企画したやつでしょ、つくったやつでしょ。それが、***(01:49:55)見開きですよね。これが、2ページ目と3ページ目で。
本間 これ、全部じゃないでしょ。抜粋でしょう。
―― でしょうね。これで1つ劇が終わっちゃったら大変ですよ。ほんで、これ、2ページ、3ページで、反差別映画祭ノミネート作品でっていう。でも、80で終わったっていうのは確かなんですよね。実は、どこかに81があるとか。
本間 わからないんだよな。そう言われると。
―― でも、たぶんないでしょう。
斉藤 出した本人も忘れちゃうという(笑)。
―― そういうことありますよ。
本間 忘れちゃうよ。もうどうでもいいんだもん。いや、本当どうでもよかった、最後は。
―― それが83年だとして、でも、それからでもう93年。だから、もう30年くらい経っているわけじゃないですか。その次の30年というか、最近の30年というか、本間さん的にはどんな30年だった?
本間 だから、燃え尽き症候群。
―― 燃え尽きた感じ、やっぱりなんか疲れた、みたいな感じありました?
本間 確かやめたときは、3日くらい寝込んでいたな。それはあったよ。
―― もう疲れた、みたいな?
本間 脱力感だね。やっぱ重かったんだな、たぶん。
―― けっこう背負っている感じもあったのかな。
本間 ほとんど1人だったもんな。本当はみんなとやれば良かったのにさ、協調性がないから。
―― でも、こういうのって本当にまれですよね。
本間 まれ?
―― まれですよ。だって、機関組織ができれば、組織が必ず機関紙つくるじゃないですか。それは、別に不思議じゃなくて、組織が続く限りは大概続きますよね。そういうのはあると。それから、あとは例えば、鉄道弘済会とか、リハビリテーション協会とか、あるいは全社協とか、そういう福祉系の団体が、『リハビリテーション』とか、『【われら人間(01:52:11)】』とか、『月刊福祉』とか、あまり面白くないですけれど、みんなね。そういうのをつくるでしょ。あれも、商売、仕事じゃないですか。だから、あれも自動的に、面白くても面白くなくても続いていくわけですよ。
本間 共産党系が『みんなのねがい』だかなんだか、あったよね。
―― そうですね。『みんなのねがい』。
本間 共産党はね。あれも面白くなかったな。
―― ああいうのは、職業団体であったり、福祉団体であったり、***(01:52:41)団体は団体でやるから、ある意味自動的に続くわけじゃないですか。その中で、僕はよその【国(01:52:50)】のことはほとんど知りませんけれど、そういう個人誌に近いものが、なんだかんだいって80号続いたっていうのはまれですよね。ほかに例は知らないんじゃないかな。
本間 そうかね。そんなに続かないかね。
―― 思い出してみますけれど。
本間 そんなことないだろう。80号でつぶれるほうが大変だよ。いくらでもあるんじゃない。
―― そういえば、小さいメディアの話で、ちょうど島田のあたりで、本間さんが、それはこの間多摩で見せてもらって、僕は全然そういうのを知らなかったからびっくりしたんですけれど、『記録』っていう雑誌があって。
本間 『記録』っていうのがあるな。
―― その『記録』っていう雑誌のことを、本間さん何か覚えていらっしゃることはありますか?
本間 『記録』は、俺何回も書いているよ。
―― そうだって書いてありましたよね。原稿依頼で書かされたら、けっこう直させられて、このやろうって思った。
本間 編集者が友達だったから。
―― 友達だったんですか? 東京の人ですよね。
本間 千葉。千葉のヨコスカっていうんだよ。ヨコスカって名前なの。
斉藤 編集者がね。
―― ヨコスカさんっていう人と友達で。
斉藤 どこかで顔くらいは見ているような気がするけれど。
―― 僕が多摩で見せていただいたのは、『記録』っていうのに載っている島田療育園の。
本間 『記録』はうるさかったな。
―― 原稿うるさかったって書いてありますよね。
本間 あんなうるさいやつはいなかったよ。
―― それは、どういう媒体だった? 何を考えて【そういう人たち(01:54:33)】。
本間 だけどね、俺は勉強になったよ。あれで力ついたな。つまりあいつは、例えば、俺火事にあったじゃない。火事にあったら普通火事のことを書くよな。火事のことを書くなって言うんだよ。極端な話よ。そんなこと言っていないよ。つまり、その男は火事のことは書くなっていう人間なんだよ。火事のあとの話をして、火事を書けっていうような人間なんだよ。俺ね、それで黒澤明の映画を思い出したんだよ。「生きものの記録」ってのがあるんだけれど、あれで、工場が丸焼けになったって。要するにキチガイになっちゃって、火をつけちゃったんだけれど、火事の場面出さないのよ。丸焼けになったところを、すごい広いあれなんだけれど、それを出すのよ。ああ、これかと思ってね。つまり、それを見ただけで、どんなにすごい火事だったかっていうのがわかるんだよね。
―― そういうふうに書くと。
本間 そうそう。
―― そのヨコスカさんっていう人は、自分でも書く、編集者みたいな、ライターですか? 編集者?
本間 『記録』って、庄幸司郎さんって、有名な人らしいんだけれど。
―― 庄幸司郎?
本間 庄は、あの庄ね。
斉藤 何かの会社をやっている人がお金を出してやってたって。ヨコスカさんは。
本間 よく知っているね。
斉藤 『記録』も扱っていたんだよ。
本間 そうか。『記録』も持ってきたんだ。
斉藤 だから、ヨコスカさんっていうのは、ヨコスカシュンヤって。
本間 そうそう。
―― それで知っているのか。庄?
斉藤 庄さんっていうのは、庄建設だっけ。
本間 庄建設。
―― 庄って、どういう字の庄?
本間 庄は、庄やの庄。
斉藤 庄やさんの庄。
本間 床っていうようなのに似てる。
斉藤 何だれっていうんだっけ。あの中に土だよ。
―― 本間さん、庄やっていう居酒屋チェーン知っています? 庄やって今でもある?
斉藤 あるある。
本間 庄やってチェーンなの?
―― いっぱいある。
斉藤 でも、あんま最近。
―― あんま聞かないよね。
斉藤 あれは、大庄チェーンって今言うね。ああいう、業態変更いしてるんだよ。だから、大庄の一番【人気がある店(01:57:23)】が何だろう。
―― 何が言いたいかと言うと、たいしたことなくて。あそこの社長さんは佐渡の人。あの人が始めた。何人か、だから。
本間 俺、佐渡見直したよ。
―― これも、じゃあコピーさせてもらいます。ちゃんとお返ししますので。
本間 これ、すごいでしょ。
―― これですか?
本間 これ。署名なんだって。4500が、こんないると思う? いるんだろうな。そうだ、もう1つ見せたいんだな。どこにいったかな。
---------(資料探し 01:58:22〜02:00:05)---------
―― 今、さっきいただいたのが、掲載誌っていうやつで、さっきのが、イラクのときのやつなんかも含めて掲載誌っていう。
本間 本当に?
―― だから、カレン事件のやつも含めて、それがありました、さっき。あとは、これはバックナンバーですよね。
本間 まあ、いいや。
―― どういうものがありそうだったんですか?
本間 面白いものを見せたかったんだ。
―― そうだ。それで、長瀬さんが、山田太一のことを聞いてこいって言われているんですけれど。どういういきさつでっていう、そういう話です。何か覚えてらっしゃることありますか? 山田さん、今病気なんですか?
本間 病気なの?
―― 長瀬がそう言っていましたけれど。
本間 本当に?
―― なんか、よくなればいいのに、みたいなこと。
本間 歳だからな。
―― 本当いい歳ですよね。
本間 90じゃない?
―― そこまで。
本間 いや、90だと思ったよ。
―― そっか、うちのおやじより3つ上だったから。
本間 山田さんもあれだよ、ばかにしちゃってさ、こんな奥行っちゃったよ(笑)。これか。これこれ。
斉藤 「車輪の一歩」。
―― 俺、鶴田浩二好きなんですよね。
本間 そうなの? 鶴田浩二ってあれだよね、見るからに右翼だよね。
―― 顔はね。
本間 顔はっていうか、態度もそうよ。
―― 特攻隊だったんでしょ。
本間 特攻隊じゃなかったんだけれど、特攻隊に行きそびれたんだよ。
―― 行きそびれってやつですよね。特攻隊に行くはずだったって人でしょ。
本間 あの人、整備士だったの、やっぱり。整備士。
―― それは知らない。
本間 鶴田って、山田さんがそんなに書いているんだよね。「戦場は遥かになりて」。「男たちの旅路」の番外編で撮っているんだよね。
―― こういうのより、私は基本的にはヤクザ映画が好きなので、ヤクザ映画の鶴田浩二が好きなんですけれどね。
本間 「シルバー・シート」ある?
―― あります。
本間 「シルバー・シート」のときに、山田さんに会ったんだよ。会ったでしょ、インタビューの。
―― 出ていますね。待って、順番からすると、「シルバー・シート」があって、できたのを見て、それで山田さんに会おうと思って。
本間 会って、車椅子のできないかなって聞いたんだよね。それで、それから1年経ったのかな。「車輪の一歩」ができたの。
―― こういう話ですよね。「シルバー・シート」を本間さんがご覧になって、こういうテレビドラマつくるやついるんだ、みたいな。わりと本間さんテレビドラマにからいじゃないですか。というか、テレビそのものにからいじゃないですか。基本ですよ。おおむね、大ざっぱに言うと。な感じだけれど、これはけっこう。
本間 ミーハーっていって。
―― 山田やるな、みたいな感じに思われて、それで、山田さんにインタビューを申し込まれて。そしたら応じてくれて。インタビューのあれは、僕はWebで読んだんです。
本間 書いたよね。
―― Webで再録されているのを見た。
本間 あれ、全部書いたのかな。
―― それは、あとでチェックさせてもらいます。それで、初めて会ったら、山田さんが車椅子を押したいって言い出して、押したら。
本間 怖かった。俺、落とされた。そんなことも言ったの?
―― 書いてありますよ。本間さんが。
本間 自分で書いたのか(笑)。いや、まいった、あのときは。
―― 転がっちゃって、みたいな。
本間 本人は、珍しいから面白がってやって。
―― でも、本間さんはけっこう山田さんの、そのとき会った印象がすごく良かったっていうか。
本間 良かったというか、会ってくれたんだからね。若かったよ、あのときは。
―― 山田さんが?
本間 うん。
―― そうそう。写真見ても若い写真だもん。
本間 ツサカなんとかっていう、あれそっくりなの。俳優でいるでしょ。山田さんのドラマに出るんだけれど。
斉藤 ***(02:05:17)コウジ?
本間 いや、ツサカなんとかっているじゃない。つの坂になんとかって。国の、横っちょのない国のような字で書いてある。その人に似ているんだよな、山田さんが。山田さんに会ったときに、車椅子で何か書いてくれって言ったんだよ。書いてくれって言ったかどうかは知らないけれど。
―― あの映画を見て、番組見て、良かったと。そういう車椅子が出てくるドラマつくってくれないか、みたいなことを言ったと。それで、山田さんは、そういう『月刊障害者問題』ってやっているっていうことを知って、バックナンバーくれって。
本間 そうそう、30号全部見せて。
―― くれって言って、これ面白いとか言って。
本間 あれを見て。それで、その中に男の劇場っていうのがあるんだな。男の劇場で、トルコに行く話があるんだよ。それが、山田太一さんの「車輪の一歩」のトルコに行く話になっているんだよ。
―― それが元ネタっていうか。
本間 でも、こっちのあれは全然違うよ。
―― そうなの?
本間 俺、野坂昭如の『エロ事師たち』を読んで、ものすごい感激して、あの文体をまねできないかと思って(笑)。
―― でも、ちょっと似ていないですか? べらんめえ調っていうか。
本間 関西弁でやるのよ。あれの男の劇場を見て、絶対にそれだから。どこまでまねされているか、まねがうまくいっているか、それもチェックして(笑)。俺、それが書きたくて男の劇場書いたんだから。そしたら、泣きの涙のようなドラマにしやがってさ。俺は泣いちゃいねっていうんだよ。泣けたかもしれないけれど。
―― 「シルバー・シート」が77年の11月。
本間 齊藤陽介がトルコ行って、鶴田浩二にかつがれて、泣いちゃったんだよ。
―― 「車輪の一歩」が79年の11月。その間に2年あるんですね。77年に「シルバー・シート」が11月放映だそうです。
本間 77年でしょ。
―― 77年。それを、確実に本間さんが見て、それでインタビューに申し込まれて。
本間 「車輪の一歩」いつ?
―― 「車輪の一歩」が、79年の11月24日です。
本間 じゃあ2年も経っていた。
―― 2年。だから、たぶんそれから撮り出すわけですよね。
本間 それで、本当は「車輪の一歩」の前にか、終わるつもりだったらしいんだよ。それで、山田さんに会って、「車輪の一歩」の話はしていないよ。だから、車椅子も出ないかって言ったら、「車輪の一歩」をつくるために1部余計につくったんだよ。
―― そうか。第3部っていうのは、最後が77年12月だから。
本間 それで、まだ話があるんだよ。それで、ドラマ見たあとで、また俺インタビューか電話か何かしたんだけれど、あれは障害者が1人で差別されてどうのこうの。1人でもない、いろいろいるんだけれど。障害者、結婚とか、そういうの出てこない。それでそのときに、障害者でも健常者とうまくいっているような者もいるよって言ったの。そういうのも出してほしいみたいなことを言ったんだよ、俺な。そうしたら、それのもう1つ別のバージョンとして、「戦場は遥かになりて」っていうので、岸本加世子の兄貴になって出てくる、大麻やったやつ。
―― 清水健太郎?
本間 清水健太郎、そうそう。シミケン。あれが、出てきてさ。あれが、だからつまりそれだよな。そこで、整備士の話を書いたんだよな、たぶんな。それが、特攻隊の話で。だから、鶴田さんなんかからもいろいろ聞いているんじゃないかな。山田さんが、そういう経験を。それで、「戦場は遥かになりて」っていうのが、また新たにできた。だから、俺の話でっていうか、俺が頼んだことで、ドラマが2つできているんだよね。別に得意になっていないよ(笑)。
斉藤 今日は語る、ちゃんと録音を。死んだ頃には、ドラマを2本つくらせた男って(笑)。
―― 第2部、第3部は両方とも77年に出ているから、第4部まで2年空いていて。だから、放っておくと第3部で終わったかもしれないんだけれども、そういうことがあったので、間をあけて、2年してやったのね。
本間 それは、確か山田さんどこかで書いていたと思うよ。
―― 「男たちの旅路」の鶴田が好きかっていうと、私、あまりそうではないんだけれど。私は、とにかくヤクザ映画なので(笑)。
本間 鶴田さんは、やっぱりかなり保守だ。この方が本間さんですってディレクターが言ったら、上から見下ろして、ああ、そう。あの通りのやつだよ(笑)。
―― かもしれない。たぶんそうだったんだと思う。
本間 ヤクザだ、ヤクザ。ヤクザか特攻隊って感じだよ。
―― 「日本侠客伝」とか、【昭和3兄弟(02:11:44)】とかいいんですよ。マキノ雅弘とかね。
本間 【昭和3兄弟(02:11:45)】、うちにある。
―― 今、Amazonプライムっていうので、けっこうタダで見れるんですよ。僕、毎日見ていますよ。
本間 タダでって何を? 普通のあれを? 市販のやつを?
―― 年間3000円とか払うと。
本間 年間3000円も払うの?
―― 年間3000円払うと、1年に300本とか、僕1日中見ていますから。
本間 そんなに見るの?
―― 僕はうらやましいと思ったのは、本間さんずっと映画を見続けていて。
本間 見続けていないよ。
―― 映画評みたいなのをちゃんと書いているじゃないですか。それは、僕は、85年くらいにちょうど、言えばこの雑誌が終わって2年後くらいですけれど、だんだん忙しくなって、映画、85年までめちゃくちゃ見ていたんですよ。1年に300本とか、映画館で。でも、このあとやったら身がもたないというか。だって、金も稼がなきゃいけなかったし、結婚したり。これは、映画見ながら学者やっている暇はないと思って、きれいさっぱり映画見るのをぱぱっとやめて。でも、それまではずっと見ていた。
本間 それは正解だよ。俺、それを書いていたんだよ。必ず書くって義務付けて映画見ていたの。1年に72本見たのかな。俺、あれで燃え尽きて、二度と嫌だって思って。あんなもの、書くために見るっていうのは、邪道も邪道でさ(笑)。
―― 大変ですよね。
本間 あれで、俺すっかり。あれで書けなくなったんじゃないかな。今、本当に。よく書いている人いるじゃない。うまいなと思ってね。
―― 僕、そういう才能があったら、そっちの、社会学とか暗い***(02:13:40)じゃなくて、そっちにいったかもしれないんだけれど、やっぱりそっちの才能はないと思った。映画見るのは好きだけれど、映画について書くっていうのは、また違う才能ですよ。
本間 あれ、全然違うよね。あれ、本当にうまいと思うよ。どんなにあれしたって、まねできないもん、俺。
―― 僕は、やっぱり淀川さんっていうのはえらい人だったと思いますよ。
本間 あの人はしゃべるんだからね。しゃべりながらやっちゃうんだから。しゃべっちゃうんだから。
―― ちょっと特異の才能。あの人は、でも1カット1カット覚えているんだからね。僕は、そういう才能全然ないから。そういう記録の才能ないから。
本間 だから、映画の見方が違うんだろうね。
―― でも、けっこう僕は、本間さんの映画評は楽しめましたよ。
本間 あれは、もうごめんだね。はっきり言って。
―― 明らかに、これ好きだったな、わかるわかる、みたいな。こういうの好きなんだ、わかるわかる。
本間 本当に好きだってわかる?
―― わかりますね。
本間 俺、あんな普通なもんないな、本当にさ。絶対嫌だな、もう。
―― こういう映画嫌いなんだろうな、こういう映画好きなんだろうなっていうのは、かなり。大体一緒じゃないけれど、8割型かぶって。わりと好み似ていると思います。
本間 俺は、けっこうミーハーだよ。
―― だと思うけれど、でもありますよ。ちょっと傾向違うんですけれど、8割はかぶらないな。何割かはかぶる。
本間 見て、あのボックス。
―― 最初に見ました。あるなと思って。
本間 あんなの、ミーハーもいいところじゃないの。普通あんなの持っていないよ。あんなこと書いていたらさ。
―― 「003」いっぱいありますね。
本間 そう。あれ、1箱買ったから。
―― 「007」そろいですか?
本間 「007」は普通だったな。あれは、つまらないのけっこうあるからね(笑)。
―― つまらないのあります? 「007」は。
本間 そう思って見たんだけれど、けっこうつまらないのある。大体ドクター・ノオなんてひどいからね、あれ。核の扱い、あんないい加減な。
―― けっこうめちゃくちゃ見ていました。日本のやつが出てくるやつ。日本が舞台のやつ。
本間 あれね、浜美枝のね。
―― 浜美枝が出てくる。
本間 ***(02:15:59)。
―― あれも、けっこう笑える。
本間 そうそう。つっこみどころ。
―― でも、「ダーティハリー」もあるし。
本間 「ダーティハリー」あるんだよ。意外ものだろう(笑)。
―― 「ダーティハリー」殺しまくってやばいですけれど、僕は好きだな(笑)。
本間 「猿の惑星」とかね。「猿の惑星」は、前のほうが良かったね。新しいやつは確かにCGがすごいけれど、それだけで、やっぱり「猿の惑星」って、最初のあのインパクトっていうのが、最初のね。
斉藤 僕は何も見ていない(笑)。
―― 「猿の惑星」あんまり見ていないんですよ。なんでだろう。なんかちょっと、それも途中からだったかもしれないんだけれど、あまり好きになれなくて、たくさん見ていないんですよ。
本間 「猿の惑星」は、おかしいよ、あれ。
―― 「ハメット」見たな、俺。
本間 「エイリアン」今やっているんだよな。今日、「エイリアン」見なくちゃ。「エイリアン」の新作が撮れたよね。「エイリアン」は見ないんだ?
―― とにかく30年忘れていましたので、間が空いたので。最近って言っても、やっぱり見る時間がやっぱりないんですよ。だから、バックグラウンドで映画をつける。映画バックグラウンドミュージックみたいにして、見ない(笑)。
本間 岩波とかも見ない?
―― あんま見ないですね。というか、見れないんですよね。
本間 岩波は見れないな、俺。岩波はきれいだけれどね。画面が小さいから。
―― 映画館ってことですか? 神保町の。
本間 そうそう。今まだあるの?
―― あります。
本間 画面が小さいから、きれいなんだよ。
―― 映画館行ったのは、遠い昔で。
本間 岩波っていうのはいいよ。
―― 80年代の半ばにこっちはやめちゃうわけじゃないですか、新聞は。それっきり、障害者ものっていうのも変ですけれど、そういうので関心持ったりとか、書いたりとか、付き合ったりっていうのはないんですか?
本間 全然ないね。だから、わからないんだよね。つまり、島田のときもそうだけれど、ああいうことをやろうとすると、つてがないんだよね。
斉藤 さっきのある女性職員に誘われて、みたいなのがないと。
本間 そうそう。全くなかったね。
―― それからは、淡々とDTPをやって、飯の分稼いで、こういったところに。
本間 あとは、若いやつにやってもらおうっていう感じだね。もう年寄りは下がってさ。
―― でも、そうではあるけれども、過去のものを引用っていうか、収録したりしながら、ホームページとかだと、私が見ているのは大体2007年くらいからなんですけれど、それでいったら10年前じゃないですか。そんなに昔じゃないですか。やっぱりでも【おじさん(02:19:16)】言っているわけですよ。一言、二言っていうか、もっとたくさん。それは、一応言うことはあるぞっていう感じなんですかね。
本間 なんか、過去の栄光なんかいくらやったってしょうがないので、なんか今の人に、今の障害者でもそうだけれど、ためになるようなことをやりたいよね。残したいっていうか、つまり残したいんじゃなくて、ためになることをやりたい。伝授したいっていうかな。
―― それは、ためになるのはわかるんだけれど、もうちょっと言うと、具体的っていうか、例えばこういうのとかありますか?
本間 それは漠然として、また話が全然飛んじゃうけれど、この間、なんだっけな。だから、ちゃんとメモしておいてとっておけばよかったんだけれど。ネトウヨっていうのはそうなんだなっていうのを、それを読んで思ったんだよね。だから、俺、障害者は強者だと思うのは、やっぱりあの人、要するにネトウヨとか言っている連中は、弱者って言ったら変だけれど、本当に弱者のあがきのような気がして。だから、俺、立岩さんの文章を今日読んだんだけれど、ちょっと違うなとは言わないけれど、そんなに、ネトウヨとかああいう勢力は、力無いよ。全然ないと思う。ムードとしてあるかっていうと、それもないと思う。それで、植松、あれが出てきたのは、ほんの突然変異だと思うよ。ああいう流れは、俺ないと思う。確かに、あと1人か2人同じようなやつは出るかもしれないけれど、それは影響されたっていうよりも、ほとんど突然変異であって。つまり、そういうヘイトクライムの動きが加速されてっていうことにはならないと思うよ。
―― その件で言えば、実際に十何人殺すようなやつっていうのは、それは出ないと思いますよ。これからもずっと出ないかもしれない。あれは、八つ墓村って昔あったじゃないですか。あのとき、以来らしいです。いっぺんに1人の人間が、あれだけたくさん人を殺すっていうのは。
斉藤 戦後最大っていうか。
本間 それと、ちょっと聞きたいんだけれど、話の途中で悪いけれど。ああいうこと、日本以外で今まであったんですか?
―― ああいうタイプはないんですけれど、あるのは、それこそ本間さんが最初に関心を持った、安楽死、尊厳死の絡みでいうと、ある種の使命感みたいなもの。こういう人たちを生かしても仕方がない、みたいなことを思っちゃった看護師であるとか、そういう人が自分の勤め先のやつを、ああいうふうに切ったりはしませんよ。
斉藤 薬を。
―― 薬だとか。
斉藤 ついこの間、ドイツで、判明したのが7人だか8人だかで、よくよく確認してみると、何年がかりかで80人。
―― あいつみたいに野蛮にナイフでっていうのは、あまりないですよ。だって、体力もいるしね。だけど、そういう薬を盛るとか、何かを外すとか、そういう意識にかられちゃう、看護だの医療だの福祉だのって人は、僕はいると思う。僕は、ネトウヨとかはそんなにかぶせているつもりはなくて、一緒に本を書いた杉田くんは、わりとそっちに世代的にもシンパシーがあるので、その話にかぶせて書いていますけれど、僕はそっちではないですよ。今日、本を差し上げるために持ってきたので、置いて帰りますけれども。そこの中に、実は、さっきの何をするかって言ったときに、人はいろんなことをできると思うんですけれども、相模原の本で書いたのは、82年に島田療育園から出ようっていうことがあって、それが止められたっていうことがある。その島田っていうのが何でできたかっていうのには、それなりのあって、そういうことの込み込みで、今まで施設のことが動いてき、脱施設の話が途中で止まりっていうふうになっているんだと。だとすれば、やっぱりそういうことがあったよとか、そのときに戦った人がいるよとか、そういうことをちゃんと言う。次の世代っていうかね。というのは、1つの使命っていうか、だと思っていて。そういうこともあって、本間さんが82年の、神が降りてきたか何かわからないけれど、もう乗っちゃっているというか、しょうがないから書かざるを得ない意味で書いている。
本間 彼女に押されたんだと思うよ(笑)。
―― やっぱりそういうことは大切ですよ。
斉藤 今日一番の重要な(笑)。
―― 真面目に大切には思っていて。そういう意味で、こういうふうに、そういうときの戦い方っていうのもあるわけじゃない。そのときに、健常者はみんな後ろに下げて、7人基本出てやったとかね。そういうことがある。
本間 そうだと思うよ。人間の関係性だと思うよ。植松だって、ちゃんと話し合えるようなやつがいたら、あんなことはなかったと思う。
斉藤 だから、一番最初に彼が書いているのに、やっぱり本気で怒ったのかっていうのは、すごくわかる。
本間 本当に怒った?
斉藤 普段仕事をしているときに、ぽろぽろっと言うわけじゃない、彼が。親は、最後は追い出すような感じで別居しているわけね。
―― 植松のね。
斉藤 親は教員やっていて、大学入って背中に紋を入れたあたりから、話ししきれなくなっちゃったんだね。彼は出て。そういう意味では、さっきの話のある種の劣等感というか、疎外感というか。だから、ぽろぽろっと強がりを言うか、この背中を見てみろってやるか、そのときにきちんと話をするっていうのが、やっぱりなかったんだろうなって気がしますよね。
―― そういう正面からも横からもいろいろあると思うんですけれど、誰かが、さっき切り込みっていうか、特攻って言ったけれど、誰かが正面からちゃんと当たって、けんかを売るみたいなことも必要だろうし、後ろからねちねちやるやつも必要だし、そういう話しだと思うんですよ。学者っていうのは、私は、基本後ろにいてねちねちやるやつらだと思っているんです。だから、それはそれ。でも、いないよりはいたほうがいいこともあると思っている。だけど、やっぱりそれだけじゃ派手じゃないので、楽しくもないので。やっぱり、そういう正面から行って、がちんと言うとか、さけぶとか、そういうことだと思うんですよね。そういうのを、今よく言っているんですけれど、そういうのの合わせ技じゃないと、もう勝てない。学者だけでも、辛気臭いと思われてそれで終わりだし。ただ、だからと言って、跳ね返っているだけだとやっぱりというのもあって。やっぱりそれぞれ持分みたいなのがあって。そういう意味で言えば、本間さんたちっていうのは、70年代終わりから80年代にかけて、やっぱり跳ね上がったっていうか、突撃したっていうか、それもやっぱり意味があって。それも、組織としてっていうよりは、もうちょっと遊撃隊というか、そんな感じでいろんなところに飛び回って、ちょっと有名人にあたって、みたいなことがあったと思うし。それはそれで、やっぱり意味はあったんですよ。だって大手のメディアは、いろいろ不祥事が起こったときは、島田のことについて報道はしていますけれど、そのあとに何をやったかとか、その内情っていうのは、ほとんどわからなかっただろうし書いてもいないんですよ。そのときに書いて、今記録に残っているっていうのは、本間さんのメディアなんですよ。それによって、我々ようやく島田にあったことを知ることができて。それから、30年が経つわけだけれども、また、じゃあもう1回聞こうみたいな感じで、石田さんに会いに行ったり。そういうことだと思うんですよ。
本間 でもメディアって言っても、立岩さんがこうやって来ているけれど、その他の何千万っていう人はわからないわけで。
―― わからない、そうなんですよ。何百ですよね。マックス何百みたいな感じでしょ。
本間 そうだよ(笑)。
―― だけど、でもやっぱり僕は、今はこうやってしゃべっていますけれども、80年代の終わりも、これが【週刊誌(02:28:51)】されて、5年後くらいに、5年は経っていないかな、そういうことを調べ出すんですけれど。そのときに、品川田町間の障害者福祉【会(02:29:05)】が、あのへんであったのを見かけたりとか、そういうので、カレン事件、こういうのをちゃんと障害者の問題として捉えているというか、そういうのあるんだとか、覚えていたんですよね。そういうので、誰かは覚えていて。今は、やっぱりいいと思うのは、本間さんが、過去のやつをかなりの分量、ホームページで読めるようにしているじゃないですか。あれは、非常にいいことだと思っていて。それでも、見る人は多くはないと思いますよ。それはしょうがないじゃないですか。私も、そうやって、毎日しょうがないなと思って本を書いていますよ。誰も読まないんだろうなと思いながら書いていますよ。だけど、でもやらないよりはいいんです。思うことにしているんです、しょうがない。そうじゃないと自分をなぐさめられないから。
本間 なぐさめているの、結局は。
―― なぐさめていないですけれど、しょうがないやと思ってやっているんですよ。
本間 なんか脱力するな(笑)。
―― もしよろしかったらだけれども、ああやってせっかくホームページ出ているのを、こちらでコピペさせてもらってテキストにして、復刻版ではないけれども、こういったものを全部やるのは大変ですけれども、ある部分、再録みたいな形で。
本間 俺も、やろうかなっていう気はしたんだけれど、あれだけ入力するのは。
―― 大変ですよ。それは、1人で、ほかにもなんなり。だけど、僕らたまたま、今年、来年、再来年、文科省のお金が多少取れたので、そういうところに使えるので。
本間 少なくとも、俺がせっかく入力したら、立岩さんのところでもやっていたなんていうことのないように(笑)。
―― まず、ちょっとこちらで、今本間さんところに再録されている部分を整理してもらって、スタッフに。何かします。
本間 苦労して、手傷めて、次の日にネットにあげてみたら、立岩さんのところに同じものが。ダウンロードすれば済んだって(笑)。
―― 二度手間はかけないようにします。1つお願いしたいのは、僕けっこう本間さんに連絡取るの大変だったんですよ。
斉藤 とにかく電話をかけないと。
―― 最終的に電話でなんとかなったんだけれど。ニフティのアドレスでメール差し上げたら、見たよくらいでいいので、返信していただけるとありがたい。
本間 見たよって?
―― 例えば、今度これあったので、この号のこの部分を掲載しましたとか、とにかく何か連絡したときに返信があると、本間さん見てくれているんだなって。
本間 何も知らなかったよ、俺。
斉藤 じゃあ、メールが。メールアドレスが書いてあるんですよ。
本間 メールは来たけれど、どういうこと?
―― 2カ月くらい前にメール差し上げている。
本間 それは、あれでしょ。
斉藤 話を聞きたいと。
本間 話を聞きたいっての?
斉藤 そうだよ。
―― いいです。とにかく。
本間 それは、ホームページにはじゃないの?
―― 3種類くらいやった。追録やられていますよね。
本間 俺が見たのは、この間のアメリカのあれ。
―― そうそう。それが追録のやつで、それは最近。
本間 俺、それしか知らないよ。
―― そのほかに、メールと、フェイスブックも最近なんですけれど。まあ、いいです。でも、ちゃんとここ数日つながっているから。
本間 俺、それちょっと心配だったんだよ。なんで来ないっていうことがあるかなと思って。
―― あり得ますよ。僕もときどきあるもん。誰かからのメール届かない。
斉藤 スパムに入っていたり。
本間 俺がやったあれが、ログに残っていないっていうのもあるんだよな。おかしいのかな。
―― ありますよ。わけのわからないことが。
本間 いるって? あるってこと?
―― とにかく、これから、本間さんの雑誌の何号分のここのところを載せましたっていうので。
本間 載せたのがわかれば、どこかにあるの?
―― これからそういうことがあったら連絡差し上げますっていう。
本間 今、ホームページはないんでしょ?
―― 今のは、これが本間さんのついているページですよ。
本間 どこにあるの?
斉藤 開いてもらったほうが早いんじゃない?
本間 あれじゃない? この間言ったさ。
―― これが。
本間 これ、知っているよ。
―― これが、僕らがやっているページなんですけれど、これが僕の名前で。一応これの責任者なので。自分のページに行くんですね。例えば、本間さんであれば、ここを検索してもらっても出るのですが、たぶん本間康二で検索すると、普通に検索しても、僕らのページにあるやつはトップに出ます。例えば、ここで人っていうのがあるじゃないですか。人で、あいうえお順になっていますよね。それで、こういくじゃないですか。本間康二っていうのは、10年前からあって、本間さんのページっていうのは。本間さんのやっているページと、僕がつくっているんです。
本間 変わっているんだ、更新されて。
―― そうなんです。昨日の夜、ちょっと更新しまして。今から15年くらい前から、ときどき本間さんのものを引用したりしているんです。
本間 ここに全部出すわけじゃないでしょ。
―― 例えば、こういう感じですよ。
本間 ***(02:35:11)。
―― あるじゃないですか。これは、本間さんがご自身のページに掲載されているので、URLを貼っている。
本間 出ているわけだ。URLたって、ないって。
―― これ、確か読めますよ。
本間 あれ、あったかな。そうか、忘れてた(笑)。
―― そうですよ。ホームページがなんでいいかっていうと、自分が書いて忘れたのを思い出せるんですよ。僕も昨日、本間康二で検索したら、僕が15年くらい前に書いたので、こんなこと書いていたんだって出てくるんですよ。だから、いいんですよ。忘れていることも出ているから。
本間 新しい仕事よりも、まずこれをやらないとダメだな、俺は。自分がどこにどれだけ出しているかって。
斉藤 それは、周りが見ていると、だんだん重なってくるわけ。あとは、さっきの資料みたいな感じで、紙になるとき、また一言二言、言ってもらうといいんだよ。
本間 ここで全部やってくれるとありがたいな。
―― やりますよ。やっていいですね。じゃあ、お知らせしますので。
本間 これ、見ながらやるよ、俺。ただ、今何をやっているかっていうのはわからないから。
―― それをお知らせします。それは、ときどきメール差し上げますので。だから、僕は、これまではカレン事件のこと、それから島田のこと、それを本間さんがやっているっていうので。
本間 そうだよ、こういう人いるんだなと思ってさ。
―― それから、ブラック・ジャックのやつ。
本間 神様だよ、俺にとっちゃ。書いたって残らないんだから、こっちは。
―― でも、ホームページって、誰かが管理してくれれば残るものなので。
本間 ホームページで出していればね。
―― それを増やそうと思うんですよ。それを順番で見れるような形にして。
本間 そうだ、この間気が付いたんだ。俺も出していたっていうことは、初めて気が付いた。
―― そうなんですよ。本当にものを書いていると。
本間 ひょっとしていると、あっちこっち浮いているかもしれないな。忘れちゃうんだよね。
―― そうなんですよ。自分がやっていることを忘れるんですよ。僕、しょっちゅうあって。
本間 それやろうと思っているのよ。つまり、全部本間図書館ってあるんだよ。あったんだけれど、それにちゃんとまとめて、リンクして貼ってと思うんだけれどね。いざやろうとすると、どこに焦点が(笑)。
―― 本間さんのやつは楽しめるんですよ。映画の話しとかあって、楽しめるんですよ。だから、あれはあれでいいんですよ。ああいう順番で長くてもいいんですけれど、僕らとしては、順番、76年から77年、78年っていうふうに順番になっていると。
本間 俺、昨日見て反省しているんだよ。なんだよ、映画の話ばっかりじゃないかと思ってそれで、この間、10何号までしかホンマタイムスがね。あれ、もっと俺書いているんだけれどなと思って、おかしいなと思った。なんか別のあれとか見たら、ぞろぞろ出てくるんだよな。やっぱりそうだと思ってさ。どうなっているのかな、全然わからないな、インターネットの仕組みがいまだにわからない。
―― そうなんですよね。だんだんごちゃごちゃしてきて、自分でもわからなくなっちゃうんですよ。
本間 そうそう(笑)。
―― よろしかったらといいますか。こういう付箋紙になっているところが、本間さんの文章に言及している部分で、カレン事件のことで。カレン事件、最初に取り上げたの、本間さん最初じゃないか、みたいなことを書いてある本で。これは、相模原の。
本間 これもいただけるの?
―― 差し上げますよ。
本間 ありがとうございます。
―― これは、七人委員会の話が書いてあります。
本間 わかりました。じゃあいただきます。ありがたい。
―― これは、『生の技法』っていって。これは、障害者のことをやり出した最初のものなんですが。
本間 これ、難しそうだな。
―― でも、難しくないところもあります。
斉藤 アサカさんのインタビュー。
―― アサカさんという福島出身の人がいて、その人と社会学者が3人で書いた。
本間 じゃあ一生懸命読みます。
―― そういうので置いておきます。
本間 これ、面白いね。段々になっている。
―― これ、もともとは大きい本だったんです。安くしようと思って文庫本にしたんです。文庫本にしたら、3000いくらのやつが1200円になった。そういうことをやっているんですよ。さっき、山田太一の話は面白かったです。
本間 書いて食ってんだな、すごい。
―― 書いて食えてはいないです。やっぱりもうからないです。大学から食わせてもらっているんで、生きていますけれど。
本間 それで、さっき何か言っていたね。山田太一さんの。
―― 山田太一さんの話は面白かったんですけれど、もう1つ言えば、島田の事件の始まり方はなんとなくわかったんです。自分的に、あれは自分的にはどう終わったとか、そういう記憶とか、そういうのはありますか?
本間 あれは本当に傷みたいなものだよね。秀子さんが出たっていうことでいいんだろうけれども、あれでいいのかなっていうところは。八代英太が国会質問して、それで終わっちゃったから、疲れたっていうのもあるんだよね。それで、いいのかなっていう感じで。段階的前進っていうのか、よく政治的な言葉で言うけれど、それで終わっちゃいけないんだろうけれどね。
―― どういうふうに持っていくかっていうのが、なかなか難しいなと思ってっていう感じですかね。
本間 結局、やっぱりもうやめちゃったんだよね。
―― 争点とかいろんなものが見えにくい、見えにくくなってしまった闘争だったのかもしれないですね。
本間 そのときに最初に言われたことがよみがえったんだよね。本間さん、これはあなたのやることじゃないよっていう。
―― それは、誰に言われたんですか?
本間 いろんな人に言われたよね。今まで運動していたメンバー。
―― 本間さんとしては、どういう意味で。
本間 知的の問題だからだろうな。だから、やっぱりいい意味にとれば、専門外だからさ。やっぱりわからないもんな、だんだん、あれすれば。どこまでやっちゃっていいのかっていうか、どういう問題があるのかっていうのもわからなかったし。それで、こういうこともあったの。集会を開いたときに、施設の女の職員、それこそ俺の***(02:42:51)ような人が、私も施設の職員なんですけれどもって発言したら、それまで一緒にやっていた、千葉の検見川の健常者の旦那が、どういう立場でやっているんだとか、どういうふうに考えているんだとかって、吊るし上げみたいになっちゃって、ちょっとそれは違うんじゃないかって俺は言って、慌てて止めたんだけれど。ああなっちゃうんだね。だから、もうとことん突き詰めるような形になっちゃうんだよね。新左翼的運動っていうのかな、ああいう。立岩さんがどっちかわからなかったから、ちょっと俺微妙なところだったんだけれど、ここで俺も追求されるかなと思って(笑)。
斉藤 でも、さっきの話じゃないけれど、施設の中のことって、大体施設の職員が問題にするんだよね。昔、やっぱり高崎コロニーから出てきて、立教のすぐ近くに住んでいた人がいたけれど、外に出るので、本当に手引きするのは施設の職員で、いつもいる人間だからその人も信用する。それで、出て、施設との兼ね合い見ながら、最後は振り切るような感じで。
本間 出るってこと? 完全に。
斉藤 それは、高崎コロニーで、あの人も脳性まひだったからね。
本間 完全に自立生活するの?
斉藤 それで、ちょうど金井闘争の真っ最中だったので、行った先ごとに会うわけよ。介護者集めて。ちょっと落ち着いたら、話し相手がいないって、周りにいる人間は自分より10歳くらい歳が違うし、若くて、発想の原点が違う。
―― それは誰?
斉藤 ハヤセさんって、もう亡くなって。ちょうど僕が書店に入る前くらいに死んじゃって、そのあと2年かけてみんなで集まって、書けなかった介護者ノートっていうので、この間部屋を片付けたら出てきたので。施設の職員がいないと、大体施設の中を出れないんだ。新田さんの書いているのも大体そうですよね。一番基本的なところで。やっぱり施設側で受け入れの窓口をするやつがいて、いろんな若いボランティアとか、訪問とか。
―― 斉藤さんの場合は、ある意味、斉藤さんがまあまあ満足できる、埼玉の、つまり多摩から言えばかなり遠いところに移っちゃったので、多摩で支援している人たちも、石田さん夫妻、かなり濃い関係だった人たちを除けば、ある程度切れちゃったんだろうね。それが、例えばすぐ在宅じゃなくても、島田から出て、多摩のそこらへんになっていれば、そこがまた次の展開っていうふうになったんだろうけれども。
本間 俺も自信がないんだけれど、それこそ三井さんとか新田さんとか、そういった人たちと一緒にやっていれば、【ケア(02:46:39)】の部分で、出たあとでつなげていけたんだけれど、それをやらなかったからな。とにかく今すぐ出ちゃってっていうことで、あれは失敗だったんだよ。失敗って言えば失敗なんだけれど、でも、やらないといつまででもやれないっていうのもあって。だから、本当はそうだよね。つながっていれば、できないことはないんだよね。同じようなやり方でも。
―― 僕が見るには、たぶん施設側、行政側の、ある意味かしこいっていうか、自体の収集さみたいなものが、ある種功をそうして、最悪の状況から斉藤さんは脱することができた。ある程度、斉藤さん自身が満足しちゃった。満足しちゃえば、周囲も強くは言えないじゃない。ここからもう出たほうがいいとか、言う必要もないじゃないですか。
本間 満足っていうのは、別の施設に行ってってこと?
―― そうです。
本間 そうか。
―― 埼玉の、もう少し開放的で、外出とか出入りが自由で、面接も自由で。
本間 だったら、それはそれでいいんじゃないか。
―― そうなんですよ。そういうところに行っちゃったので、ある意味そこで終わったというか。だから、最悪の結末じゃなかった。ただ、そのときに、多摩で、それこそ後方で炊き出しをやっていたみたいな人たちは、それが何かのきっかけになって、今でも多摩でそれなりに地味に地域の活動をやっていたりするので。
本間 そうなの?
―― そうなんですよね。終わったわけじゃない。
本間 でも、斉藤さんは別の地域に行ったんでしょ。
―― 斉藤さんとはつながってはいない。だけど、斉藤さんのときにというか。石田さんたちというかな。石田さんとけんかもした人もいれば、一緒にやった人もいれば、とにかく多摩という地域で始めた、既に始めていた人たちっていうのは、そのあとも、特に学校の教育の問題が大きかったって言っていましたけれども、そういうところでやったり、居場所みたいなのをつくったり。
本間 そういうところに障害者がいるの?
―― いますね。たこの木クラブっていうのがあったりして、そういう居場所みたいなのをつくったりとか。
本間 じゃあ、根が育ったんじゃないか。
―― ルーツまでいかないけれども、やっぱりそういうのは1つきっかけで、多摩の。
本間 そういうのを聞くと、俺もやっと安心するんだけれど、あれどうなっちゃったのかなっていうか。
―― だから、斉藤さん自身の人生はそういうふうに終息していったんだけれども。全体としてというか、それこそさっき種っておっしゃったり、根っておっしゃったけれども、それが育たなかったわけではないと。
本間 それ、初めて聞いたようなものでさ。
―― そのあとの関わりも、多摩って、ちょっと東京でも、今はモノレールってあったりとか、南北の交通があるけれど、昔ってみんな***(02:49:45)にしか電車がなかったから。多摩って、例えば中央線族に言わせると、陸の孤島的なところがあって、多摩の人もそう言っていましたけれど。だから、僕だとやっぱり中央線の国分寺、国立、八王子、立川、三鷹、あたりまでは一体だったんだけれど、そこからちょっと離れて。でも、意外と頑張ってやってきたということを、多摩の人も言っていたし、僕もわりとそういう印象は持ちましたね。面白かったですよ。だから、そういう地道な地域の、人の居場所つくったりだの、学校の進学のことであるだのっていうのもあるし。それから、もうちょっと華々しいのもあるし。やっぱり両方必要だと思うし。僕は少なくとも、あのときの7人プラスアルファっていうのは、やることをやってくれたと思いますね。それは、もうちょっと記憶にとどめるというか。逆に、あのときああいうことがあったのに、30年経っても、25年経っても、そんなに変わっていないところもある。いろんな意味で継承してもいいことだとは思っていて。今日、だいぶ伺うことができて面白かったというか、ためになりましたっていうのと同時に、さっき、たかがっておっしゃったけれど、でも、200でも300でもいいんですよ。だって、何千万人読んでいる新聞だってろくでもないというか。別に3000万人がすごい濃度で読んでいるわけじゃないんだから、それでも数は多いほうがいいとは思いますけれど。
本間 だから、どこまであれしたかとか。だから、有名人路線っていうのは、スケベ根性があったんだよね。そのあたりから、広げて。
―― それが唯一の策だとは全然思わないけれど、でも、例えばそれで山田太一さんがああいうものをつくるであるとか。あとは、本当に無謀だなと思うところもありますが、太田典礼突撃とか、生典礼の差別発言を引き出すとか、そういうのは、僕はいいなと思いますよ。やっぱり悪いやつじゃん、こいつ、みたいな。ダメじゃん、こいつ、みたいな。
本間 知らなかったな。あれ、しかしどこで会ったんだっけな。太田典礼と。どこへ呼び出したんだったかなと思って。よく来たよね(笑)。
―― あいつは、障害者運動が大嫌いなやつだったので。
本間 そうなの?
―― うん。
本間 でも、俺、障害者運動じゃなかったからね。やじうまだったから。
―― あいつは左翼だったの。治安維持法とか引っかかって、それを一生の自慢話にする、みたいな。
本間 最初左翼だったんだよ。
―― 労農党とかだったんですけれど。
本間 そんな歳なの?
―― そうですよ。だって、戦後。
本間 労農党なんて。
―― 労農党というか、戦後直後の政党がいくつかあったじゃないですか。社会党にやがて吸収されてくる。そういうところから、国会議員1回出ていますよね。
本間 障害者発掘の世界だよ。松本清張の(笑)。
―― ちょっとそんな感じありますよ。それこそ、【ムサン(02:53:24)】医師医療運動とか、京都でね。京都は、わりとそういうのが盛んだったんですけれど。でも、医師のオールド左翼とかリベラルとか、ああいう類いのやからいますよね。
本間 いやらしいのがいるよね。
斉藤 オールド左翼って、基本がエリート路線だから。
本間 いやらしいのがいるよ。
斉藤 完全にエリートの時代の。
―― エリートで労働でしょ。だって、トンカチ持っていたりしないとダメなんだから。そういう労働者崇拝みたいな。エリート主義と労働者っていうのと掛け合わせると、ああいうふうになりかねない。
斉藤 仕事ができる、まさに能力主義っていうのかな。
本間 働かざる者食うべからずって。
斉藤 それが、これも20何年前だか、八木下浩一、北朝鮮旅行記、北朝鮮に行ったら障害者を見ない、どうしたんだって聞いたら、生まれてこないんですって言われたって(笑)。
本間 本当なの?
―― 本当だったみたいですよ。
斉藤 生ませないっていうのでやっていたんじゃない、やっぱり。
―― そういうのを、わりと早いんだよね。八木下さんがそういうレポートを書いたりとか、本間さんがカレンのことを書いたりとかっていうのは、けっこう早かった。
斉藤 八木下のレポートって、***(02:54:56)で、80何年か。
―― それは、俺、どこかで引用していると思うわ。それは、それも何度も書いていますけれど、わりと世界的に障害者運動っていうのが、生命倫理って今は言われているようなところに関心を持ち出すって、けっこう遅い。70年代とかじゃないんですよね。もうちょっとあとなんですよね。それに比べると、本間さんであるとか、もっとさかのぼれば、ハラダシュンチョウさんとか、『しののめ』であるとか、青い芝につらなるような流れですよね。というのが、ある種先駆的だったと思いますね。それも僕はメディアが関係あると思っていて。本間さんは本間さんで、ああいうメディアをつくられたわけだけれども、あの人たちだって、別に学校行っているわけじゃないし。でも、文芸サークルみたいなのをやって。『しののめ』っていう雑誌だって、あれだった何百ですよ。そんなに売れた雑誌でもない。たまたま安楽死のときは、それこそ本間さんに似ているけれども、朝日新聞とかに取り上げられて、そのときは注文殺到して、なくなって増刷とかあったみたいですけれど。普段は、本当に地味な、みんな俳句とか短歌とかをやっているあれですけれど。でも、そういう独自の、自分たちのメディアみたいなのを持っていて、好き勝手言えるっていうのを、やっぱり60年代から日本の。でも、運動って意識もなかったと思いますよ。それは、本間さんもなかったんでしょうけれど。運動っていうよりは、なんか自分たちが言うとか、そういうある種の伝統っていうのかな。これは、けっこうユニークだし。あと、障害者がやたら本を書くっていう現象も、けっこう日本っぽいかなと思って。けっこうみんな、そんなに学術的なっていうのじゃなくて、自分のことを書くじゃないですか。自伝みたいなやつ。
本間 障害者は、口で言うと言語障害ではっきりしないから、書いていたほうがいいかもしれないな。
―― そういうのもありますね。僕、『ASL』っていう本を書いたことがあります。ALSって難病なんだけれど、それは本当に何もしゃべれなくなるから、コンピューターとかで書くんですよ。あるんですけれど、そうすると、文字打つのだけが生活みたいになって。そうすると、けっこうそういう人たちの中で自叙伝みたいなのがあって。それを、ネタに本を書いたりしたんですけれど。それが、今やっぱり活字だけじゃなくて、ブログであるとかホームページに出るので知れますよね。だから、逆にヨーロッパとかのほうが、ある種のエリート主義みたいなのがあって。本っていうのはアカデミックなものであるとか、プロのジャーナリストが書くものだみたいな、そういうところで出ているのがある。日本は、メディアっていう意味で言えば、健全なアマチュアリズムみたいなのが、けっこうあるのかなと思って。
本間 日経読むのが好きらしいね。
―― それの、そういう伝統があるのかもしれないですね。そういう徒然なるままにみたいな、ああいう。
本間 なんか日経が売れるみたいよ。
斉藤 今ね。
―― ああいう、これって何?みたいなものを書いて読むみたいな、伝統があるのかもしれない。だから俺みたいな、あんなのがどこが面白いのかなと思うけれど、あれなんだよね。
―― そこに、批評的なものであったり、***(02:58:28)的なものであったりするわけじゃないですか。そういうのがあっていいと思うんですけれどね。
本間 昔のあれはそうでもなかったんだよな。「もうひとつの青春」っていうのがあって。
―― 「もうひとつの青春」って何? ここにある連載みたいな話?
本間 そっちにあるでしょ。合本の。それは、「男の劇場」もそうだけれど、そっちが。
―― 『障問』で書いていた、自分で持っていた連載みたいなもの?
本間 そうそう。合本があったでしょ。それ、なんとかならないかね。
―― しますよ。
本間 ぼろぼろになっちゃって。
―― とにかく、まずきれいなファイルにします。
本間 ぼろぼろになっちゃって、空中分解しちゃった。
斉藤 でも、30年経ってちゃんと立派に残っているところがすごいな。僕、さっきの書けなかったっていうのは、全然触っていなかったから、きれいに出てきました。
本間 一番後ろ。これ、だって、山田太一さんの「もうひとつの春」だか、なんか同じようなタイトルなんだよ。それ、パクったんだ。それが書きたくて出したっていうところもあるんだな。秋葉原の会社に通っていたんだから。手こぎの車椅子で。毎日だよ。だから、朝と晩と40分かけて。これで、1年。
―― どこからどこまで、何線で通っていたんですか?
本間 三筋ってそのへんにあるでしょ。
斉藤 三筋って、台東区の。
本間 このすぐそばだよ。ここから秋葉原のちょっと手間のほうに通っていたと思えば。
―― 昔は何線?
斉藤 手こぎで路上行くわけ。
―― 手こぎって、最初から最後まで手こぎで行くわけ? 電車とか乗らないの?
本間 乗らない。
―― それは大変だ。
本間 40分。
斉藤 でも、あの頃の都バスって乗りづらいんだよね。
本間 都バス乗れなかったよ。バスなんか出ていたかな。
斉藤 学生の頃に、初めて。
本間 俺、いまだにバスは乗らないよ。バスなんで嫌かっていうと、立たせるでしょ。あれが嫌なんだよ。
斉藤 車椅子のやつと一緒に都バスに乗ろうとしたら、あの頃はとにかくステップが高いから。
本間 そうじゃなくて。中の客が、それまで座っていると立たせるじゃない。それが、優先席なんだけれど、車椅子を使わないと使うじゃない。それで、お客が立たせられるわけじゃない。車椅子が乗ると。それが嫌なんだよ。なんか嫌だな、あれな。見るからに特別扱いという感じでさ。バスは嫌だ。だから、バスは。バスに用はないんだけれどね。バスは乗る気しないな。だいぶ前にアメリカのシアトルに行ったときに、運転手席に乗って、反対側の扉にリフトがついていて、上がるとそのまま運転手席の隣のスペースに車椅子乗るって言ったね。できるんだな、簡単にっていう話よね。
本間 それは、空いていると誰か座っているの?
斉藤 だから、スペースが空いているのよ。あれと一緒よ。新幹線の車椅子スペースってあるじゃない。だから、もちろん座るんじゃないんだよ。
本間 普段は空いているわけね。
斉藤 空いているわけ。
本間 ずっと空いているんだ。それならいいのよ。
斉藤 都バスは、確かに乗るといちいち席を2つ倒して、ロックしないと動き出さないからね。
本間 それが嫌なんだ。立たせるのがさ。
斉藤 あんなことしなくたって、別にそんなにね。
本間 最初から空けておけばいいじゃんね。1人くらい乗せたって乗せなくなったって関係ないもんね。あれで、1人分もうかるのか。
斉藤 そういうんじゃなくて、まだ少ないからよ。これでもっと乗るようになったら。
本間 車椅子が乗ったら返すのかね。あの金(笑)。
斉藤 でも、これからまたどんどん増えるわよ。いやが応でも、これだけ年寄りが多いと、すごい外に出て見かけるじゃない。
―― イワタモリオさんって、写真撮られる方いらっしゃいますよね。今、どこで何ってご存じですか?
本間 今、どうしているんだろうな。彼も、大変だろうな、もう。CPだからね。
―― CPなんですか? 僕は、名前は知っていて、彼が撮った写真はいろいろ見ているんだけれど。
本間 あの写真はどうなの?
―― いいと思いますよ。
本間 そう。俺わからないから。
―― 生写真とかネガとか。だから、文字も大切ですけれども、文字はなんだかんだいって、こうやって読めれば、また新たに入力するなりすればなんとかなるけれど、写真のコピーって、やっぱり元のほうがいいに決まっているわけじゃないですか。ネガとか。というときに、やっぱり文字も大切だけれども、やっぱり映像も大切ですよ。映像とか画像とか。そういうときに、オリジナルがどこにあるのかって話になるわけ。NHKだったら、NHKに行けばライブラリーであるかもしれないけれど、例えばイワタさんなんかが撮られた写真。
本間 イワタは、自分のところに全部あると思うよ。
―― イワタさんって、どこにお住まいだったか覚えていらっしゃいますか?
本間 イワタは、東久留米かな。イワタの写真がほしいの?
―― イワタさんに限らないんですけれど、やっぱり文字の力もあるけれども、写真の力とか。
本間 イワタの写真が見たいわけ?
斉藤 というか、保存をするのに。
―― イワタさんに限らず、この頃の動画とか画像が、やっぱり記録として残したいんです。
斉藤 だから、ネガがあったら、もう1回ちゃんとネガをそのままスキャンして。
―― ネガだったら、きれいに***(03:05:19)から。これをコピーするってなると、やっぱり品質が落ちるじゃないですか。
本間 今、俺どこかにあったんだよな。
―― イワタさんってCPなんだ。知らなかったな。
---------(資料探し 03:05:36〜03:08:39)---------
―― イワタさんっていうのは、どこでどういうお付き合いというか、知り合いだったんですか?
本間 イワタモリオ。
―― 本当だ。ありがとうございます。
本間 東久留米?
―― このデータだと、横浜市の磯子区です。
本間 横浜だ。奥さんのところだ。
―― 2350036。
本間 オオヌキミドリと結婚してさ。
―― オオヌキ?
本間 実家か。ミドリさんの実家だ。横浜だ。
―― オオヌキミドリさんという方がお連れ合いで?
本間 イワタが横浜になっているのね。
―― 横浜市磯子区中原4の6の16ですね。
本間 じゃあ、それそんなに古くないわ。もっと古いのだとばらばらだから。
―― イワタさんに限らず、写真を持っている人。写真いいと思うんですよ。さっきの写真、車椅子3台並んでいるのかっこいいじゃないですか。かっこいいと思うんですよ。島田の前で。
本間 あれ、違う。あれは、イノカワヒロユキって違う。
―― 誰がっていうのじゃなくて、誰が撮ってもいいんだけれど、写真があると、こんな感じだったんだってあるじゃないですか。
本間 イワタの写真はどこにあるかね。
―― イワタさんの、僕、わりと古いから見ていると思うんですよ。
本間 俺、わからないんだよな、写真はな。
―― でも、プロじゃなくても、誰が撮ったものにせよ。
本間 ぶれてもいいんだというわな。
―― ぶれててもいいし。あと、今バスジャックにしても何にしても、言葉で書くのと映像で見ると、やっぱり迫力違うんですよ。だから、僕はもっぱら文字だけれでも、でもやっぱり映像が残っていたり、画像が残っていると違うから。
本間 そういうことで言ったのね。
―― それがほしいと。映像全般、画像全般がほしいってこと。
本間 それはそうだ。イワタの写真残してあげて。そういうのって、もういないかな。
―― 誰でもって言ったらなんだけれども。
本間 急にスケベ根性が出てきて、あれもこれも(笑)。
斉藤 そのあれもこれもは思い立ったときに。とりあえず出してもらうと、さっき言ったように、この3年くらいは予算がついているから。
本間 予算?
斉藤 お金。こうやって、彼も交通費がないとここまで来ない。会いに行ったり、場合によっては、さっきのスキャンをしたり、製本をしたり、そういうお金が今ついているわけ。3年分。その間に思い出して、あれもこれもっていうのは言ってもらったほうがいいわけ。
―― そうなんですよ。だから、ここに出てくる人のフツカイチさんも、イマオカシュウゾウさんも、いろんな方がお亡くなりになっているので。
斉藤 だから、ちょっとあとで思い出したら電話なり。
本間 この間、テレビに出たのがあるんだよ。昔の。山田富也とか、横田さんとか、みんな死んじゃって、生き残っているの俺だけ(笑)。
―― だから、そういうのもあって、僕は横田弘さんとは生前3回対談させていただいているんです。それで、もったいないなと思って、去年対談をさせてもらったのを本にして出してもらったり。そういうので、新田功さんとも対談させていただいたのがあって。
本間 映像はどうするかね。
―― 映像は、今Webで見れるようにできますからね。うまい具合にやれば。
斉藤 YouTubeとかで。
本間 いや、ないよ。
斉藤 あと、焼いてもいいじゃない。
―― だから、あるもの。フィルムでもいいし、なんでも、どういう媒体でもいいんだけれども。
本間 フィルムをどうするの?
斉藤 だから、一番基本はデジタル化するんですよ。
本間 だから、DVDに焼けばいい?
―― そういうことです。だから、そのフィルムをもらって、それはやっぱりお金もかかるじゃないですか。フィルムでもらえば、僕らがDVDにして、僕らのところに1つ、それから返すときに、DVDとフィルムの現物を返すとか、そういうやり方もできるんですよ。
本間 立岩さんに、斉藤さんには見せていないよな。あれ、見せていないよな。芝居のやつ。あれのドキュメンタリーになったやつがあるんだよ。
―― 今、そういうので、僕だと70年代に青い芝とテレビ東京とか、そういうので見せてもらったことはあるんですけれどね。
本間 何で?
―― たまたま知り合いの知り合いがそのテープを持っていて、それの上映会をやるから来るか?って言われて来たとか、そういうことはありますよ。
本間 これは何なの?
―― それは、70年代のテレビ番組の録画。でもそれは、僕がテープをもらったわけではないので。とにかく画像はいいと思うんですよね。
本間 そうでしょ。俺、残したいんだよ。
---------(資料探し 03:14:54〜03:16:05)---------
本間 これ見せてやる。これ、初めて見るでしょ、これ。これはすごいぞ。
―― なんだそれは。筋ジストロフィーの女性? 78年ですね。
---------(映像上映の準備 03:16:21〜03:17:17)---------
本間 これ芝居なんだけれど、これ、ここしかないんだよな。中日映画社のWebページにあるんだけれど。ようするにアーカイブ。
―― YouTubeに入っているんですね。
本間 YouTubeっていうか、そうそう。中日映画社のホームページで、アーカイブで。これ、どこかで見てくれる?
―― URL教えて、でも検索すれば出てくるか。
斉藤 コピーして、メールで送ってもらうのが早い。
本間 そうだね。
―― これが、売っていた頃のやつですね。
本間 そうそう。さっきのところで。これ、最後まで見て。すぐ終わるから。これ***(03:18:20)だね。本物の。
―― これ、本間さんの文章に出てくるサガさんという方ですか?
本間 そうそう。こいつめくらだから、俺が右だ左だ言って、車椅子押して。これ、本当にこの通りなんだよ。劇でも同じような場面になる。***(03:19:04)まで、俺が乗せられて、それを引っ張って、右だ左だって。これは***(03:19:12)。3000人入るところだからね。
―― これが、78年くらいってことですよね。
本間 そうそう。
―― これ、中日映画社は、取材させてくれって言って来たわけですか?
本間 だから、それはあとで言うけれど。これ骸骨、いいよ、これ。***(03:19:43)。こんなことやったんだよ。俺、骸骨(笑)。
―― ***(03:20:29)。
本間 笑ってもらいたいんだけれど、誰も笑わない。
―― ちょっと笑えない、ちょっと笑いにくいシチュエーションだよね。
本間 ***(03:21:05)だよ(笑)。これ、78年か。
―― 78って書いてありますね。78年10月の中日ニュース。
本間 これ、「野生の証明」映画、あれの最初に出たの。
―― 「野生の証明」は知っていますけれど、「野生の証明」って映画の。
本間 一番最初に出た。昔、映画の前にニュース映画やったでしょ。
―― ニュース映画か。
本間 あれでやったの。俺、あれ見たいために「野生の証明」の劇場をはしごしたことある。今新宿に見たら、次は池袋って感じで(笑)。これは、この話をしたいのは、ものすごいメディアっていうか、マスコミっていうか、これ何を言いたかったかっていうと、座頭市で、いつの頃からか、どこ行くんだ、このめくらって言うのが、口パクになっちゃったでしょ。俺、あれで頭にきて。テレビでなんとかこれをいっぱい言う手はないかと思って、それで、これをやったのよ。そうしたら、中日映画社来たでしょ。録音とっているんだよ。松が谷福祉会館の小さいところで稽古やったんだけれど。本間さん本間さんって声かけて。もうちょっとめくら、かたわっていうのを、回数言ってくれないかなって。ものすごいフラストレーションというか、要求不満状態っていうか。すごいのね。だから、これは全部の新聞に出たよ、記事。
―― そういうことがあったんですね。差別語関係。
本間 俺、これもいろいろやったけれど、これをやったのは俺人生の快挙だね。ざまあみろと思ったな、あのときは(笑)。
―― これが、78か。まだ、それこそ佐渡にいた頃だ。
本間 佐渡にいたの?
―― 79年に僕は出てきたので。
本間 なるほど。ちょうど、じゃあ78年。あれから、成り上がり者になっちゃった。
―― でも、78年はまだちょうど雑誌をやっている頃の真ん中くらいですよね。
本間 そうそう。もうあれだよ、カス。最後の惰性。惰性でもなかったのか、78年だと。
斉藤 随分なメンツの芝居じゃない。
―― 数が多い。
斉藤 松が谷で練習したっていうのは、台東区のそういうつながり?
本間 そうそう。松が谷福祉会館っていうのが、たまり場みたいなものだったよね。俺が、台東区に来て初めて。俺、共産党だったんだよ。民青でさ。ヤギヤマ企画印刷って会社が、社長が共産党なの。俺、共産党がらみで嫌だろうと***(03:25:37)技能開発学院に、そこがまだ訓練所だったの。3年間訓練。それで、タイプを習ったんだけれど。とにかく就職率の高いところだったんだよ。それで、なんでそんなに就職率が高いかっていうと、みんな金を持って自営しちゃうわけよ。
―― 自営?
本間 だから、就職できないやつらは、自営しちゃって仕事しちゃうから。
―― どういう商売?
本間 印刷よ。タイプ。タイプはあまりいないけれど、印刷所とか勤めたり。あと写植が多かったな、写植。写植は200、300万あればできるわけだから。それで、俺は金がなかったの。貯金なんかないんだよ。それで、なんだかんだいって、それまでに貯めるんだとかいって、それでなんとかねじ込んで入ったんだよ。東京技能開発学院。それで、出るときいなって困った。よし、じゃあ、求人広告か何かダメもとでやってみようと思ったの。赤旗とっていたからさ。赤旗ならひょっとしたらと思って赤旗の求人に電話したら、オッケー出すんだよ。
―― 学校出て、自分は金がなかったから、自分で開業っていうわけにはいかないと。どこかに雇われなきゃいけない、就職しなきゃいけない、赤旗とっていた。赤旗の印刷のところで雇ってくれませんって、そういう話なんですか?
斉藤 赤旗に載った広告。
―― 赤旗に載った広告ですか?
本間 赤旗じゃ無理だよ。たぶん活版であれだから、【工程(03:27:44)】が無理だからさ。
斉藤 赤旗に載った求人広告を見て電話したわけだ。それで、秋葉原の。
―― 電話したら、雇ってくれるってなって、入って、そこが1年でつぶれたんですか?
本間 それからの話聞いて。この話がすごいんだから。つまり、兄貴が東京に出てきていたから、そんな車椅子のかたもんが、一般の会社に就職できるわけがないだろっていうんだよ。そんなの雇うっていうのは、なんかたくらんでいる証拠だって、俺が見に行ってやるってさ。
―― お兄さんがそういうことを言われて。
本間 俺が言われて。
―― お兄さんが、本間さんにおっしゃったんでしょ。
本間 言った。そんなの信用できないからやめろって。
―― お兄さんが会社に行った?
本間 だから、俺が行って確かめてやるって言って。兄貴、そのとき失業していたんだ。車運転して、秋葉原まで行った。それで、なんだよお前、意気込んでいくから、何かやるのかと思ったら、なんだかんだって聞いて、そうですかこうですかって言って、よく聞いたら、タイプはあるんだよ。タダさんって変なおばちゃんが。和文タイプあるんだよ。あるんだけれども、それとは違って。俺が、世田谷の施設で習ったのは、モトヤのタイプレスってやつなのよ。タイプレスっていうんだよ、偉そうにさ。タイプじゃないんだって(笑)。それで、なんでかって言うと、タイプっていのは、タイププレスっていうのは、丸くなっている、こうなっていて、ドラムのところに打つわけでしょ。ぽーんと。そうすると、活字は真っすぐだから、ドラムのところの活字を打つと、上下がかすれちゃうわけだよ。断面にぴったり貼らないから。それを、モトヤは、鶏が先か卵が先かじゃないけれど、モトヤは断面に合わせて活字を。
―― わかった。理解した。
本間 それで、ものすごいきれいなのよ。ぱちーんと。つまり、写植で打ってもわからないくらいの。それで社長は、あとの話だけれど、写植だって言って出したらしいんだな。社長がやったタイプで打ったやつを。
―― タイプなのに写植だって言って。
本間 それで、モトヤのあれを先に入れてあったんだよ。それで、それをぬぐわせる人間がほしかったわけだ。それが俺だったわけ(笑)。それで、兄貴が行った、秋葉原だから6階があったんだけれど、入口も大変だった。これくらい、段が30センチ以上あって、とてもじゃないが車椅子で上がれないからっていうので、そこに板を。前はまだ腕力があったから、ちょっと急な坂でも上がれたから、社長はそれをやっていたの。掛け合って、道路使用料ってけっこう大変らしいんだけれど、何かやったんだな、うまいこと。つまり、そこの倉庫を使うっていうことで、倉庫の中歩いてさ。それで、それはなんなく解消したんだけれど。そんな感じで通っていたの。
―― それ、いっちゃん最初に勤めのところが、そういう感じの馴れ初めというか、いきさつで。
本間 そうそう、そういうことよ。
―― 会社の名前がなんて言った?
本間 ヤギヤマ企画印刷なんだけれど。
―― ヤギヤマ企画印刷?
本間 ヤギヤマってのは、あっちのほうにあるらしいんだよな、たぶん。仙台かどこかに。それで、ヤギヤマはそっちの出だろうって言われるあれらしいけれど。その前に、40分、つまり2キロくらいある、うちから。
―― それはさっきの話ね。
本間 最初に、俺は2キロっていうふうに考えていたんだよね。通えても2キロだから。車も運転できないから。そしたら、2キロのところだったから良かったんだけれど、その前に、もし通えなかったら大変じゃない。毎日なんだから。毎日、朝晩。それで、決まったのが2月なんだけれど。だから、2月に馬事公苑があるんだよ、うちの。馬事公苑の周り測ったら、ちょうど2キロなんだよ。
斉藤 ぐるっとね。
本間 それで、要するに施設を出て、朝と晩、通勤練習をしようと。
―― 手こぎ車椅子の。
本間 そう。2月だよ、2月。寒いときだよ。俺、というのは、前に新潟地震のときなんだけれど、新潟地震起きて良かったなっていって、家にしばらくいたんだよ。そしたら、そのとき松葉杖ついて歩いていたんだけれど、家にいて怠けていたら歩けなくなっちゃって。
―― かたまっちゃったって、書いてありましたね。お母さんに叱られたって。
本間 それは新潟地震の前なんだけれど。お母さんに叱られたのは別なんだけれど。それで、2キロちょうどあったので、あれしたんだけれど。だから、寒いじゃない。一度雪が降ってさ。雪でもあるだろうっていうので、遭難しそうになっちゃってさ。雪の日はやめろよって(笑)。
―― 俺よくわからないですけれど、脳性まひだとけっこう二次障害とかあるじゃないですか。ポリオってだんだん重くなるものなんですか? 一般に。
本間 重くならない。重くならないけれど、軽くもならないよ。だから俺は、よく今言うんだけれど、痩せているから良かったんだよな。これでもし60キロもあったら、体重と一緒に体力があれしないからね。機能ないんだから。痩せていて良かったと思うだよ。
―― そういうのはあるかもしれないですね。
本間 あの当時は、だから、手こぎでもまだ力があったから、秋葉原くらいまで。
―― 俺、全然土地勘っていうか、ないから。ここから秋葉原まで2キロで行けるっていう感じがよくわからないんですけれど、でも、2キロで行けるんだね。行けることは行けるか。
本間 2キロくらいで行けたと思うけれどね。
斉藤 あそこの新徒町のちょっと。
本間 どう言ったらいいかな。江戸通りまっすぐ行くとどこ行く?
斉藤 江戸通りまっすぐ行ったら、蔵前通りにぶつかって。
本間 秋葉原にぶつかるのは何通り?
斉藤 秋葉は、蔵前通り行くと、ちょうど秋葉の一番北側。
本間 蔵前通りか。だから、こういう感じで行けばいいんだよね。直角に。
斉藤 このへんは、川沿いにずっと行って、蔵前通りにちょっと行ったあたりに。
本間 川沿いじゃなかったけれど、中入ったけれどね。
斉藤 昔の三筋からっていうのはね。ここは、もう少し外側だから。三筋は、もう1本、2本くらい山手線側。
―― そうやってうまいこと就職はしたが、そこは、でも会社つぶれちゃったんですよね。
本間 つぶれたんだよね。
―― そのタイプを写植に見せるような技術を持っていたにも関わらずつぶれたんですか? その会社が。
本間 そうだね。業績が悪かったんだろうね。
―― あまり仕事が来なかった?
斉藤 さっきの、和文タイプから写植への切り替わり時期とか。
本間 写植はやっていない。
斉藤 だから、やっていないところはどんどんつぶれる時期だったとか。
―― そういうことなのかな。
斉藤 そういうのって、時期がきちゃうと、うまく転換して生き延びるところと。
本間 何が原因だって言っていたかな。
―― その会社は、ざっと何人くらいの***(03:37:17)ようなところ?
本間 10人くらいじゃないかな。それで、そのときに兄貴が失業していたので、ところでお兄さん何をやっていますか?って言われて、運転手できるかって言ったら、じゃあ一緒に働いて営業やってくれって言われて。俺よりも先に兄貴の。
―― 就職した?
本間 そう(笑)。
―― ちなみに、赤旗っていうか、共産党っていうかっていうのの付き合いはずっと続くんですか?
本間 付き合いっていうか、俺はほとんど何もやっていなかった。
斉藤 というか、民青に入ったりするのは、何かで誘われたわけですよね。
本間 それは、さっき話の途中だったけれど、ヤギヤマが、社長が共産党で、共産党の仲間って集まりがあるじゃない。その中に松が谷福祉会館の職員もいたわけ。それで、赤旗つながりで、松が谷福祉会館を教えてもらったの。それで、松が谷福祉会館に行ったら、モリさんという、反共、共産党大嫌いな新左翼くずれが。その人と俺が仲良くなっちゃって。だから、全然共産党には接触しようがなく終わっちゃったわけ。
斉藤 さっきの赤旗の求人広告を見て、ヤギヤマに行ったんでしょ。なんで赤旗見たの?
本間 だって、赤旗とっているんだもん。
斉藤 なんで赤旗をとっていたの?
本間 だから、松が谷福祉会館よ。
斉藤 その手前じゃない。松が谷はヤギヤマに行って、ヤギヤマのつながりで、台東区にあるから、松が谷は。上野の駅の近く。だから、世田谷にいて、就職先を探した。
本間 ちょっと間違えた。松が谷が先だ。
斉藤 世田谷にいて、就職先を探して、秋葉原にあると。
本間 それもあるんだ。
斉藤 その前に、秋葉原の就職先っていうのは、赤旗を見て知ったわけじゃない。だから、なんで。
本間 だから、秋葉原の就職先から、赤旗関係で松が谷を知ったわけよ。
斉藤 だから、秋葉原でヤギヤマに勤め始めたら松が谷を知った。
本間 松が谷に行ったらモリさんがいて、モリさんが反共の新左翼で。それで、モリさんと仲良くなっちゃったら、共産党は関係なくなった。
―― そこまではよくわかったんですよ。今、斉藤さんが言っているのは、そもそも赤旗の新聞広告を見て就職したとすれば。
本間 それは、世田谷の施設に熱心な共産党がいたのよ。鼻つまみ者でさ。ちょっと杖をついて歩く男なんだけれど。オカヤマさんって。その人が、すごい人で。
斉藤 でも、その頃の用賀って、今だと半蔵門線があって近いけれど、その頃はバスか何か? 
本間 どこって?
斉藤 用賀の施設にいた頃って、交通機関。
本間 だから、千歳船橋までこれで行って、小田急だよ。新宿に。
斉藤 じゃあけっこう遠いわね。
本間 新宿だよ、新宿。新宿までけっこう時間かかったよね。
斉藤 千歳船橋だと、東京農大のわきとかに。
本間 40分はかからないか。
斉藤 世田谷通りを真っ直ぐ行くわけじゃん。
本間 だって、もうすぐ川崎だもんね。
斉藤 反対側はね。
本間 そうそう。もうちょっとで川崎だよ。
斉藤 用賀、桜新、どっちが先か順番忘れたけれど。
本間 だけど、俺、あそこにもいたんだよな。和泉多摩川にも。和泉多摩川だから、終着駅になっちゃうけれど、そのときはひどかったんだよな。それで、結局は血圧計の組み立てで、***(03:42:01)まできているのにさ。
―― その前後関係で言うと?
斉藤 和泉多摩川で仕事をしたが、もっと先なわけ? 新潟から東京へ来ました。東京へ来て、すぐに用賀の。
本間 用賀じゃなくて、その前、就職して、新宿の身障センターに行ったの。そこで、センターから就職したんだけれど、それが、和泉多摩川で、血圧計のあれで。それがダメで。
―― 次が和泉多摩川ね。血圧計で、ダメで。
本間 それがダメで、取手の【ときわえん(03:42:57)】に。
―― 取手?
本間 取手行ったかな、そのときだろうな。それで行って、そこは3カ月もいて辞めちゃって。それから世田谷に行ったのか。
―― 【ときわえん(03:43:14)】っていうのは、何か仕事ですか?
本間 授産所。そこもすごいんだよ。授産所で、奥さんが、付属して診療所があるんだけれど、保険証を全部ね、医療詐欺。全部入院していることにして。【ときわえん(03:43:42)】の入所者のね。すごいでしょ。
―― 全員の保険証を取り上げて、その保険証を使って受診していることにして、金を自分のところにっていう、普通にあるやつね。
本間 なんでもありだよ(笑)。
―― その授産所は辞めて。
本間 そう。そこは辞めて、それでいったんうちへ帰って。それから、世田谷か。
―― ご実家というか、お母さんとお兄さんと3人の住まいはどこに?
本間 板橋宿のアパート。ニシダイアパートって。それで、そこから行ったんだよな。世田谷に。世田谷3年いたんだよ。そんなにいなくたっていいんだけれどね。1年で訓練終えて。
―― 3年のうち、1年訓練して。
本間 あと、2年授産。
―― そこの施設の中の授産で働いて。
本間 稼がされたよ。こき使われた(笑)。
―― 私はわりと、大学院生のときに立川で障害者運動っていうか。それも、やっぱり写植で。
本間 立川でやっていの?
―― そういう人を知っている。最初に、まずそういう仕事から始めて。
本間 小林敏彦って知っている?
―― 小林敏彦って、さっき出てきた人ですけれど。七人委員会の1人ですけれど。
本間 それは知らないのか。
―― それは知らない。その人立川なんですか?
本間 あれ、立川だよ。立川って誰か知らない?
―― 僕が知っているのは、ノグチさんっていう筋ジストロフィーの人と、タカハシオサムっていう人と。
本間 タカハシオサムだ。タカハシオサム知っている。
―― 僕はすごい親しかったです。
本間 タカハシオサムって佐渡じゃない?
―― 新潟、長岡です。
本間 佐渡じゃなかった?
―― 佐渡じゃない。オサムさんは、僕ずっと付き合い長くて、15年くらい。
本間 タカハシオサムって、佐渡って聞いたよ。
―― 新潟の長岡です。田中角栄って言っていたもん。
本間 ちょっと待って、本当に?
―― 本当。僕は、だから、CIL立川っていうところで、新潟市出身の人と、長岡のタカハシさんと、佐渡の僕で、3人で新潟県人会ってやっていました。
本間 タカハシオサムって、クラッチついている人でしょ?
―― クラッチ? 車椅子に乗っていました。
本間 車椅子乗っていた? いつの話?
―― 僕が知っている限りはずっと。80年代半ばから99年に亡くなったのかな。
本間 亡くなったの?
―― そうです。
本間 違うな、それ。
―― 僕が知っているタカハシさんと違うかもしれないな。
本間 違うかもしれないな。あ、コバヤシオサムだ。
―― コバヤシオサムっていう人がいたんですか?
本間 いるんだよ。コバヤシオサムっていったら少年探偵団だけれど、それと同じ名前で。
―― コバヤシオサムさんっていう佐渡の出身の人たちが、立川に住んでいる、杖をついている。障害名は何になる?
本間 ポリオ。
―― ポリオつながりみたいな?
本間 そうそう。ポリオつながりっていうよりも、はまぐみつながりなんだけれどな。はまぐみ学園。
斉藤 新潟のね。
―― 新潟ってときどきいるんだよね。TPI日本会議の代表やっている事務局長、彼は新潟の施設にいたって言っていた。今度聞いておきますわ。どこだったか。この間、TPIの全国大会があって、私もちょっと出て。そのあと、新潟の施設のときの同級生とこれから飲むんだとか言っていたから、そういう人もいるんだなと思いました。
本間 あと、本間ってのが、佐渡。それ、言ったっけ。
―― 本間は佐渡です。本当に多いです。本当それは思いました。
本間 なつかしいな、いろいろな。
―― でも、ありがとうございます。今日は、なんと4時間ですよ、4時間。すごいよ。
斉藤 あのあとの、映像の話とかは、気がついたときに、忘れないように。写真とか。
本間 4時間って何?
―― 今17時だから、13時から。
本間 4時間って今日の話? そんなに話していたの?
―― そうみたいですよ。僕もちょっとわかっていなかった。
本間 13時だもんな。
―― 13時からだから。もうそろそろ、あと5分で4時間。
本間 なんかろくでもない話しかしてない。
―― それは全然いいんですよ。
斉藤 こういう貴重な(笑)。
本間 ちゃんと言ったの?
―― なんか思い出したら、また聞きます。
本間 それじゃないんだよ(笑)。
―― これじゃないのがある。
本間 なんでこれで出したんだよ(笑)。だから、ホンマタイムスで、検索わからないんだよな。なんだったっけな。
―― 私もどこにファイル置いたかわからなくて。検索しても出てこないときありますよね。この表紙の絵はどうしたんですか? 自分の似顔絵みたいなの。
本間 あれは、俺が描いた。
―― 自分で描いたんだ。
---------(動画探し 03:49:52〜03:51:58)---------
本間 これ、見せたかったな。今、あれが、シナリオが、これ見せたかったな。『たそがれ清兵衛』って知っている?
―― 見ました。
本間 見た?
―― はい、見ました。
本間 見たって何を?
―― もとは、藤沢周平の小説でしょ。
本間 そうなんだけれど。これだ。
斉藤 ホンマタイムスの***(03:52:38)。
本間 見た?
―― 今、見たんですよ。
本間 そうじゃなくて。見ていないよね。
―― 『たそがれ清兵衛』は見ましたよ。
本間 これだよ。
―― 78年(テレビ)労働されるさまざまなドキュメントと***(03:52:55)。
本間 これだ。こんなの書かれてあるのか。あれ、これおかしいな。でもこれが映っているってことは、こうだよな。ここからか。
斉藤 新国劇国定忠治【外伝(03:53:57)】。
本間 これが、本物の***(03:54:03)。
―― 先天性緑内障、全盲。
本間 これ、テレビ朝日でね。
―― マツガヤって読むんですか?
本間 松が谷福祉会館。
―― 松に、カタカナのケに、谷ね。
斉藤 立て直して何階だったか。昔はたまり場っていうか。
本間 松が谷行ったことある?
斉藤 松が谷の紹介で、親の会が借りていた家を借りたことがある。
本間 これ、クマザワカズオの語りでさ。これはわかった。これ、ドキュメンタリーをね。これが本番っていうか、テレビのね。人に見せるものじゃないよ(笑)。
斉藤 同じものやっている。
本間 同じものをやっているの?
―― これは、テレビ番組?
本間 これが本番。
―― そうなんだけれど、これが映っているのは番組ですか? テレビ?
本間 そう、さっきの番組。「国定忠治外伝予告編」っていう番組。
―― それは、どこかで放映されたんですか?
本間 テレビ朝日。だから、ドキュメンタリーの感じのあれなんだけれどね。それで、予告編ってのを当日にやったのかな。とにかく本番の直前にやった、放送を。かなり、おかげでこれを見て来た人もいるよ。これ、口が合わないでしょ(笑)。
―― この人、なんでこんなに痩せているの?
本間 この人って俺だよ。
―― 今出ているの? 今出ているの、ご本人?
本間 そう。
―― あらま。
斉藤 骸骨って言っていたのが、この人の顔だよ。
―― ちょっと待ってくださいよ。さっきの全盲の人は何役なの?
本間 あれは座頭市。
―― 座頭市が彼か。
本間 そうそう。
―― 座頭市と忠治って、どうなっているんだっけ。
本間 忠治が出る座頭市もあるよ。
―― 忠治が出る座頭市ってあるんですか? これは両方出てくるんですか?
本間 座頭市は出てくる。これは、全然その映画とは違うよ。
―― 忠治の話の中に座頭市が出てくる。そういうこと?
本間 そういうふうに絡めちゃったんだよ。
―― だんだんわかってきた。すいません、こんがらがっています。
本間 これは大変だったんだよ、これつくるのに。国会図書館まで行って。
―― 忠治のことを調べたんですか?
本間 そうそう(笑)。NHKの女のディレクターに連れて行ってもらって。イケダエリコって知らないだろう。今、NHKの重役だよ。きれいな人で、自分が出たほうがいいくらいの人で、それがディレクターだって言うんだから(笑)。なつかしいよ。なんだ、俺じゃないと思ったの?
―― 思った。
本間 さっき見たじゃん。そこでね。
斉藤 フィルターがかかっていて、こんな鮮明じゃないんだもん。
―― なんか、えー?みたいな。めっちゃ元気ですね。
本間 このときはいくつかな。
―― 78年ということは。
本間 51年だから、27か。
―― 若い。26だ、26。
本間 遅生まれだから。
―― 若。
本間 歯が欠けてんだよ、嫌だな(笑)。これ、骸骨、鶏がら。
―― 素朴な疑問なんだけれど、これくらい手荒に取り扱われても大丈夫なんですか?
本間 手荒ってこともないんじゃない?
―― そうでもないの?
斉藤 人によりけりなんじゃない? これまた。
本間 あの腕一回転しているからね、さっきね。どこまでやったかな。ここで、なんせ1回だったからね。段取り悪くて、後ろ安定しちゃって、幕しまっちゃうんだよ(笑)。まいったよな、あれ。
―― 幕しまったら嫌ですね。
本間 ほら、幕しまっちゃったでしょ。これ、アドリブで乗り切っちゃったよ。
―― そういう話なの? これ。
斉藤 すごいな(笑)。
本間 ここはこうやっていたけれど、なんだよこれはって感じでさ。あれはうまかったよ。なんたって1回きりだからね。
―― これ、場所どこでやったっておっしゃっていました?
本間 浅草公会堂。斉藤さんに見せていないよね。
斉藤 初めて見た。
―― この謎の人たちは、学生さんとかどうやってもってきたんですか? この人たち。
本間 松が谷にいろんなボランティアが出入りしていた。
―― センターに出入りしていたような人たち?
本間 そうそう。みんな素人。あのおまちさんは、どさ回りしたことあるんだわ。素人劇団。
―― 素人劇団がどさ回りしていた。
本間 中に入っていた。
―― どさ回りって、佐渡回りがひっくり返ったっていう話聞いたことあります?
本間 本当に?
―― 本当はかどうか知らないんです。誰かから聞いたことあるんですよ。
本間 それは違うだろう。俺も調べてみる。そうなの?
―― 違うかな。僕、その話、誰か人に聞いたのかもしれない。
本間 ネットで調べていないの?
―― 調べていない。だって、久しぶりに思い出したもん。座頭市が恩義がある、なるほど。
本間 あそこが切れているのか。これは、本番のやつだけ入れ替えている。ちょうど順序がそのままになっているとありがたいんだよな。これは、本番の音だ。
―― この人は何? 今しゃべっていた青年。この人は、これが全障連がやっていたあと? 全障連が差別語問題をやっていた。
本間 あとだと思う。
―― あとですかね、やっぱり。
本間 だって、あれに反発して差別語入れている。
―― そういうことだよね。そうだよね。
本間 だから、そっちの人だったら怖いなと思って、今日は警戒している(笑)。
―― そっちの人っちゃそっちの人なんですけれど。
本間 大丈夫?
―― 大丈夫ですよ、それは大丈夫。
本間 大丈夫?
―― それは全然大丈夫です。
本間 さあ、どうかなんて言わないでよ(笑)。なんか、俺、あの人たちは好きじゃないよ。
―― 灘元さんっていう、京都の大学でやっている同業者がいて、彼は部落解放のほうから入ったんだけれど。
本間 「橋のない川」が、なんで上映禁止になったかっていう論文ね。俺も、だいぶ前に読んだよ、それ。俺、こんな人がいるのかと思ってね。
―― 灘元さんは、うちの論文の審査とかで来てもらったりしたことがあって、それで知り合いになったんだけれど。わりと、そういう差別語のこととか、部落差別。
斉藤 オノダくんもいたんだ。
本間 オノダって知っている?
斉藤 オノダのところの息子はどうしているんだ、今。
―― 全然ローカルの話ついていけないんですけれど。オノダって何?
斉藤 オノダっていって。
本間 津野田だよ、津野田。
斉藤 津野田。『マリコいろにそまれ』っていう、あの真理子の連れ合いになった。一時期。
本間 イワセ真理子だっけ。
斉藤 そうそう。
―― 津野田真理子の連れ合いになった男が。
斉藤 津野田っていうのが男のほうで、イワセ真理子は結婚したくて結婚して。
―― 津野田と結婚して、津野田真理子になった。
斉藤 アラシっていう息子を産んで、アラシが2歳か3歳のときに別れたっていうか。
―― 『マリコいろにそまれ』っていう本は読んだ。本は読んだけれど、本人には会ったことないです。僕はね。こっちはあるんですか?
斉藤 ちょうど80年代半ばに、ほとんど出てこなくなっちゃった。
本間 過激な女だよ。
斉藤 過激なっていうか(笑)。
―― 本は読んだので、その雰囲気はわかります。
本間 殺されるよ、そばにいると。
斉藤 だから、さっきのハヤセヨウコさんっていうのと、イワセ真理子っていうのは、あっち行って会う、こっち行って会うって。
―― 80年代の半ばは、そういうことがあったの?
斉藤 前半ね。80年代から、80年代の2、3年くらいまで、本当、あっち行って会う、こっち行って会うって、イワセさんが先に立教のそばに住んでいたの。そしてハヤセさんが来て、なんで私のところに来るのよ、みたいなやりとりがあって(笑)。
―― イワセさんっていうのは、高崎コロニーからって。
斉藤 ハヤセさんが高崎コロニーから。イワセさんはどこから出たのか、僕は詳しく知らない。
本間 府中じゃない?
斉藤 府中かな。
本間 どうなっているのかな、イワセって。
斉藤 さっき顔みたら、若かりし津野田の顔が出て。
本間 津野田出ていた?
斉藤 出ていたよ。
本間 あれね、紛争する前のね。ちょっと出るよ。
―― その津野田っていう男の人は、そのあとどうなったの?
斉藤 だいぶあとに、ばったりどこかで出くわしたことがあったけれど、とにかく子供は置いて行っちゃったから、子育てして。
本間 本当の夫婦なの? あれ。
斉藤 とりあえず、子供は津野田が育てていたからね。アラシと一緒に、荒川区に、そういう運動体つながりの印刷屋があって、そこに配達か何かで来たときにばったり会ったのが最後だな。
本間 ハウスキーパーじゃないけれど、運動***(04:11:33)でつながっているっていうか、そうじゃないかっていう人もいるくらいだからな。偏見だと思うんだけれど。
―― でも、女強くて、夫介助者あがりっていうか、そのパターンの夫婦って何組かあるよね。
斉藤 三井さんのところも。
―― 三井さんのところのトシアキさんだっけ。
本間 トシアキさんか。
―― でもあれも、もう銀婚式だか金婚式、とにかくなんか郵便きたよ。なんか服みたいなの着ている、めでたい式の写真が。
斉藤 娘もでかくなって。
―― 娘でかいよ。娘宝塚。
斉藤 宝塚に入った娘も。
本間 娘なんて言ったかな。
斉藤 なんかえらい昔に、堤さんとかに誘われて、三井さん一家プラス***(04:12:32)とディズニーランド行ったよ。随分昔の話だよ。
本間 津野田、今出た。これ、これ。これ、手塚治虫が描いたの。
―― 描いたって何を描いたんですか?
本間 似顔絵。忠治の似顔絵。手塚さんが描いたってことになっているんだ。事務所に頼みに行って、描いてもらった。あそこで、***(04:13:24)が飛んじゃって、本番で。
―― ビージーズが出るあたりが、時代を感じさせますね。『Stayin' Alive』じゃないですか。ずっとかかっている音楽は。
本間 あの当時はやっていたんじゃないかな。
―― はやっていました。やたらはやっていました。
本間 おかしいでしょ、これ。
―― これ、結局どうなった? 安楽死とか言っているよ。
本間 言っていないよ。
―― 今、言った。
本間 だから、あそこでは言っているけれど。こんなこと言っているけれどさ、建前だよ建前。よく言うでしょ(笑)。恥ずかしい。
―― これは、今どういう媒体で入っている? ディスクに入っているの?
本間 これは、DVDかな。DVDに入ってる。
―― もしお借りできるなら。
本間 いいよ。
―― これ、結局どうなるんですか? 最後の最後は。この劇のいっちゃん最後。
本間 これで終わりだよ。
―― 今何が起こった?
本間 ***(04:15:53)に囲まれて、山を降り出そうとして、***(04:15:57)と忠治が山を降りていく。よくあるじゃない、映画で。座頭市。これ、***(04:16:18)してあるけれど大丈夫?
―― 大丈夫です。
本間 余計なのが入っているけれど。「黒沢【予告編(04:16:23)】」、これ面白いよ。
―― 黒沢好きですね。黒沢いいと思いますよ。ありがとうございます。
本間 いやいや、どうもね。
―― 面白かったです。4時間半、俺けっこう新記録かもしれない。4時間半のインタビュー。
本間 俺も知らなかったよ。どうするんだよ。
―― こういうのって、ビラまきました、街頭宣伝やりましたって言われてもわからないもんね。どんな横断幕、画像がないとわからないところありますよ。
本間 何の話?
斉藤 立て看もなくなったし。
―― 立て看とか横断幕とか、そういうものを立てましたとか書きましたとかいっても、やっぱりわからないじゃないですか。物がないと。やっぱり今そういう画像が出ているから、それが大切だっていう話なんです。
斉藤 いろいろ出てきた。まだ出てくる(笑)。
本間 あれを見せてやろうと思ったのにさ。『たそがれ瀬兵衛』の。
―― 『たそがれ清兵衛』って、藤沢周平の原作と小説かつ映画じゃないですか。
本間 朝日新聞じゃなかった?
―― もとはですか?
本間 自分の家?
―― 私の家は、毎日新聞。
本間 違うのか。朝日新聞の全面広告。『たそがれ清兵衛』の映画の全台本。
―― が?
本間 広告だったの。朝日新聞の1ページがあると思うでしょ。それを全部台本で埋めているの。
―― そういうことか。
本間 それの現物があったんだけれどさ。
斉藤 切り抜きっていうか、さっきの署名。
本間 それを見せたかったんだよ。署名じゃないよ、ちゃんとしたやつだよ。すごいよ、あれは。
―― 一面びっちり使えば、できなくはないのかもしれないですね。
本間 俺、それを入力したんだよ。全部。それないね。どこいっちゃったんだろうな。またそのうち。
―― 見つかったら、またお知らせします。また整理して、なかなか複雑な話だったので、また思い出したら。これ、必ず返しますので。
本間 同じやつがいて、スキャナーして出していた、ネットで。
―― スキャンして文字化したってことですか。
本間 あれは、でも文字化できないな、小さくて。とにかくでかいんだから。あれ、どうやってとったんだろうな。コピーだって。なんかあった?
―― これ、続きですよ。
本間 あれ、大丈夫なのかな。北朝鮮。
―― 大丈夫ですよ。
本間 大丈夫?
―― 大丈夫、大丈夫。
本間 ミサイル撃つって言っているけれど。
―― ミサイル撃つけれど大丈夫。
斉藤 そんなたくさん持っているわけないじゃない。1発撃ってさ。
本間 今、最悪なトライアングルっていうか、安倍晋三にトランプに。
―― 確かにあのへんは困りますよね。
斉藤 なんかハンギョレ新聞に、キムなんだっけ、ありがとう安倍【カタル(04:20:44)】とか、そういう漫画が載ったらしいけれど。
―― 確かに、ああいう人たちを見ていると、心配の元はありますよ。でも、ミサイル***(04:20:54)あれがどうなるっていう心配は、安倍やトランプ***(04:20:59)。大丈夫だと思います。
本間 そんなのいいけれど、俺は、あんなひょっとした拍子に起きそうだからさ。
斉藤 ***(04:21:08)。必ずこうなるんだから。
本間 だから、それが江東区へ。
斉藤 だから、こう落ちたらわからないけれど。
―― でも、佐渡は拉致が。
本間 佐渡もあったの?
―― ソノさんだっけ。女の人。
本間 曽我さん。
―― 曽我さん。戻ってきた人ね。あの人、佐渡の真野っていって、僕らは新潟に面したほうに生まれたわけだけれども、真野っていって反対のほうに向かっているほうに住んでいた人がさらわれて、戻ってきて、今。
本間 佐渡から拉致されたの?
―― そうそう。
本間 佐渡もあったの?
―― 僕全然知らなかっただけれど、戻ってきてから、その話を知って。ちょうど僕と同じ年くらいなんですよ。同じ年か1つ違いくらいで。今、アメリカで捕まって、知り合ったアメリカ人の人と佐渡で暮らしていますよ。
本間 拉致され者同士ってこと?
―― みたいですね。そのアメリカ人の人は、佐渡で英語を教えているとか。けっこうニュースになっていた。曽我さんは、看護師か何かの資格取ってっていう、ちょっと有名になった人ですね。
本間 そうなると、普通の男と女の関係じゃなくなっちゃうのかな。
―― わからないけれど、けっこうアメリカ出身のおじさんは、けっこうお年の。
本間 拉致された者同士で連帯しちゃうのかな。
―― わからない。でも、そういうので、日本海に浮かんでいる島ですので、半島と関係がなくはない。ということで、本当に今日は4時間半ですよ。すごい。
本間 それ、とにかくちゃんと返してね。
―― 返しますよ。これは命にかけて。
斉藤 貴重な。
―― ちゃんとお返ししますので、ぜひ一時お貸しください。どうも、本当にありがとうございました。
---------(04:23:27)---------


作成:20180123
UP: REV:20190917
本間 康二  ◇『月刊障害者問題』  ◇声と姿の記録  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇立岩 真也 
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