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篠田隆氏・篠田恵氏インタビュー

20191104 聞き手:立岩真也 於:新潟市・篠田氏宅

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篠田 隆・篠田 恵 i2019 インタビュー 2019/11/04 聞き手:立岩真也 於:新潟市・篠田氏宅
◇文字起こし:ココペリ121 20191104篠田隆氏・篠田恵氏_140分

みやうち:お茶よかったら、どうぞ。

立岩:ありがとうございます。あの、そろそろ。篠田さんのことは存じ上げてはいて、あと栗川さんがうちの実は大学院生っていうのに去年からなってまして。

篠田隆:ああ。

立岩:僕は京都の立命館大学っていうところの大学院っていうところで仕事をしているんですけれども、そこの大学院生になって。それで話をしてたら「新潟だったら誰に話を聞いたらいい?」って聞いたらば名前を挙げていただいて、それで篠田さんと青木さんとそれから遁所さんと3人挙げていただいて。今日連絡、昨日の今日でほんとに失礼なことだったんですけれども、連絡がついて応じていただいたということで篠田さんにお願いしました。

篠田隆:はい。

立岩:で、海を隔ててあっちとこっちっていうこともあるんですけど、意外と歳変わんない、1959年の生まれですよね。僕は1960年なので1年しか違わないということがわかりまして。だからどうってこともないんですけれども、ほぼ同世代、ほぼほぼ同世代で。あと栗川さんが本の中で篠田さんのこと一章書いておられますよね。で、それ読んで、そしたらお子さんが二人いらっしゃるって。1988年と92年に二人生まれたって書いてあって、うちのがちょうどその真ん中の90年なので、だからだいたい同じような時を生きていて、それで子どもが、だからもう30とかでしょ、上のほうは。

篠田隆:31。

立岩:ね、そんな感じですね。うちのが29ですから。たぶん結婚したのも2年ぐらいしか違わなくて。だからどうってこともないんですけれども、なんか意外とというか近い時に。あれ〔壁に貼ってあるポスター〕も山口百恵ですからね、森昌子もいるしみたいな、そんな感じでほぼそんな時代の人だなあと、私とおんなじだなあと思っています。それで、栗川さんもかなり丁寧に篠田さんたちのこと書かれているので、それはそれで見せてもらっていいんですが。そうだな、非就学というか不就学というか、まだそういう世代ということですよね。

篠田隆:はい。

立岩:59年生まれで80、

篠田隆:最後ぐらいです。

立岩:そうですね。全入なんだかんだいって良し悪しは別というか、そうですよね。ですからそれで70年で学校行かないってここにいて、でも人によってだいぶ違うなと思ってね。今日、青木さんに話聞いて◇、青木さんが66年生まれかな? だから篠田さんだと7つ、僕だと6つぐらい下なんですけど。彼なんかは逆にっていうかなんていうか、小学校は普通学校で、中・高と盲学校で、そのあと京都だって知らなかったんですけど、京都の外語大にいてて、だからなんかいろんなこと、もちろん知ってたんでしょうけど障害者運動であるとかそういうものには大学卒業するまでも、ほとんど全く知らなかったみたいなんですね。
 ほんでアメリカに2年行って、で、その時別に運動してたわけじゃないんだけどなんか影響というか気持ちが変わって、で、日本にやって来てっていうことなんだよね。かえってっていうかな、そういうこう日本にあった運動とかをご存知ないまま20代後半みたいなね。[00:05:07]ていう、そういう人もいるんだな、それもそれで不思議じゃないなと思ったんだけど。で、篠田さん、その栗川さんの文章の中で、わりと早い時期から新潟の動きっていうか運動に関わられたっていうふうになってて。どこからいこうかなと思うんですけど、青い芝っていうのが出てきて、で、私、青い芝のことけっこう人に聞いたり書いたりしてる人間なんですが、新潟に青い芝の人たちというかなんかそういうものが入ってきたっていう話ってほとんど聞いたことなくて、それってなんなのかなっていうのが一つ。それから見知った人の名前がいくつか出てくるんですけど、黛さんが医学部生だった時に知り合ったっていうのもちょっとびっくりして、僕はもうおじさんになったあの怪しい感じ、大人になったほんとに怪しい感じの黛さんしか知らないので、医学部生の黛さんってもう全然なんかピンとこなくてっていう人とか。あとそれは出てきませんでしたけど、僕は高橋修っていう長岡の人ですけどずいぶんお世話になって、新潟っていうと高橋さんなんですけど。そのへんのことを思い出すままにというか、お話ししていただければありがたいなと思って参ったしだいです。
◇青木 学 i2019 インタビュー 2009/11/04 聞き手:立岩真也 於:新潟市総合福祉会館

篠田隆:実は私もおこがましいんですけど本を出したいなと思って。それほど豪華な本でなくていいから。

立岩:本出したいってことですよね。

篠田隆:そこのタブレットに入ってます。タブレットにもう書いてあるんですけど。

立岩:もう書いてある。書いたのがある?

篠田隆:ある。

立岩:どこにある?

篠田隆:タブレット。

立岩:タブレット。

宮内:これは?

篠田隆:これは、

宮内:これ正確だよ。

立岩:これね。はいはい。

篠田恵:違う違う。

宮内:このタブレットにあるのはわりとこうざっくりしてるんですけど、タブレットのをより正確にしてあるのはこちらですね。

立岩:これはあれですよね。僕もこの本◇にはちょっと関わっていて、さっき言った高橋〔修〕さんの章◇は僕が書いてるんですけれども。
◇全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』全国自立生活センター協議会,発売:現代書館,480p. ISBN:4-7684-3426-6 3675 [amazon][kinokuniya] ※ d00h
全国自立生活センター協議会編『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』表紙
◇立岩真也  20010501 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]

篠田恵:はい、そうですね。

立岩:ええ、そうなんですよね。これが2001年だから。なんだかんだ言ってこの本も出てから18年も経つんですよね。

篠田恵:そうですよ。

立岩:これまた、ああ、そうか。しばらくこれ見てなかったので、また家帰って、

宮内:そうですね、細かいところまでかなり、

立岩:篠田さんの章◇あらためて拝見、拝読しますが。で、そのタブレットにあるやつって、これね時々この頃いろんなところ行って話を聞くと、そういう話を聞いて。こないだ福岡のほうで中山善人さんに話聞いた◇時も「実は書いてるんだ」と、「書いた原稿があるんだ」ということで僕もそうやって話聞きに行くまで全然知らなかったもんだから、その場で渡されて見せてもらったりしながらっていうんで。その方の場合は長いこと青い芝の全国の代表をされてた方ですけれども、地元の福岡の、地元の大きいわけじゃないけど出版みたいなことをやってるところが友達でいるから、そこからっておっしゃってましたけれども。篠田さんもそういう形で自費出版なりなんなり紙の冊子というかそういうものにしたいっていう、そういうことですか?
◇篠田 隆(自立生活支援センター新潟) 20010501 「新潟市における障害者の運動の歴史」,全国自立生活センター協議会編[2001:081-088]
◇中山 善人 i2018 インタビュー 2019/08/25 聞き手:立岩真也 於:福岡県久留米市・久留米市役所内

篠田隆:はい。

立岩:それ、だいたいその分量としてはどのぐらい?

篠田隆:どんぐらいだろう。

篠田恵:すごい少ないです。

立岩:少ない。この『自立生活運動と障害文化』っていうこの18年前に出た、

篠田恵:これは私がほとんど書いたんです。

宮内:編集なさってたんです、奥様が。

立岩:聞き書き的な?

篠田恵:聞いて文章にしてるのは私です。

立岩:話を聞いたりしながら文章にまとめていったっていう、そういうことですか?

篠田恵:はい、そうです。

立岩:なるほどね。この本ってわりと本人が書いた章もあるんですけど、そういう章のほうがたぶん少なくて。僕の関係も含めてみんなインタビューに行ってそれを文章にまとめて本人に見てもらって章にするっていう、そうやってできた章が実は多いんですけど。そうか、そういうことでしたか。たぶんね、これが原稿用紙でいうとね、僕の章ですけど、高橋さんのこと書いた章が40枚ぐらいなんですよ。

篠田恵:そうですね。

立岩:40枚だと字数、行数をどのぐらいで設定するかによるんですけど、だいたい20ページとかそんなもんなんですわ。だから例えば篠田さんが人に配るっていうかそういうものを書くって考えているとしたら、分量的にはそれのもうちょいあるといいんですよ。

篠田隆:いいんですね。だからなんとか膨らませる。

立岩:膨らませる、そう、膨らます。例えば、

篠田隆:したいんだけどなかなかできないんだ。

宮内:これからスタートです、これから。

立岩:いいんじゃないでしょうかね。だからこれはもとの土台にはなると思うんです。だけど短いですよね。

宮内:そうそう、そうです。事実はしっかりしてる。

立岩:そうするとそこを書き足していくっていうか、書き足すというよりは話し足すっていうんですかね。だから聞いてもらって話し足していって。それでこれは18年前で終わってますから、そのあとの18年、19年、何してきたのかっていうようなことを書いてくと、そこそこの分量になるんじゃないですかね。

篠田隆:わかりました。

立岩:だからこれもほんと私思うんですけど、やっぱり私らみたいに字を書くのが商売っていう人間はむしろ非常に特殊なので、普通はそんなめんどくさいことはしないので、喋ってっていうことだと思うんですよ。もしね、もしよろしければですよ、今日、帰りの時間なんかもあるので、それから篠田さんご自身の、篠田さんたち自身の体力っていうかそういうこともあるでしょうから、そうたいした時間そんなに長々ってことにはなんないと思うんですけど。例えば今日僕が聞いてお話をいただいたとして、で、それの記録っていうのは例えばそれを使っていただく。で、それにまた足していくとか、そういうことはもう全然していただいて構わないというか歓迎というかですので。そこは僕自身はどこまでできるかわかりませんけれども、何か協力、助力というかできることあると思いますので。またあの、そういう時にもできれば誰かを経由してでいいので、メールでやり取りができると楽は楽です。

篠田恵:一番いいのは私。

立岩:あ、大丈夫?

宮内:大丈夫です。

立岩:ならOKです。エージェントというか代理人というか、それでそうしてもらえると楽でいいです。じゃああとでアドレスを教えてもらって。じゃあそういうんで今日の話もこれからのいろいろもそういうものでお知らせします。ほんとに今1950年代から60年ぐらいに生まれた人たちが、生まれてこれまでやってきた人たち、実際僕も同じようなこと思っていて、一人一冊というか振り返ったようなものって、一人一つぐらいあったほうがいいなって私も思っているので、何かできる部分についてはと思います。はいわかりました。それでさっきの話、話始めの話にいくわけですけど。

篠田隆:青い芝の。

立岩:ですね。それが新潟に誰がどうやって持ってきた?

篠田隆:あの富山のなんとかっていう、富山のなんていう、

立岩:富山? 富山県の富山? 平井〔誠一〕さんですか?

篠田隆:平井さんが。私、施設に入ってたんですよ、「千草の舎」◇っていう。そこに平井さんが来て、
http://tigusanosya.com/

立岩:平井さんがその施設に来た。

篠田隆:来て、そいで、「こういうのやらねーか」って言ってきたんです。青い芝の会ってことで。私は、でも他の人は他のセクトのほうに行っちゃったんです。

立岩:自分? 誰が?

篠田隆:俺の友達が。

立岩:同じ施設にいた?

篠田隆:はい。

立岩:ああ、セクトって新左翼のセクトってことですか?

篠田隆:はい、中核とか。

立岩:中核とか。その友達はどっちに行ったっていうか何色の?

篠田隆:中核。

立岩:白い、白いほう、白いメットの人たち。

篠田隆:はい。

立岩:それはおんなじ施設の同僚というかそういう人で活動しそうだった人が二人はいたっていうか、そんな感じだったってことですか? 



篠田隆:三人なんだけど、一人は手術で「歩けるよ」って言われたんだけど、熱出して、1年に3か所も切られて亡くなっちゃったの。

立岩:三人のうち一人は。やっぱり脳性麻痺は脳性麻痺ですか?

篠田隆:はい。

立岩:その話もけっこうこの頃50年代生まれぐらいの人から、脳性麻痺の人から話聞いてて。さっき名前出しかけたのは、青い芝の福岡で長いこと全国の会長やってた中山善人さんに聞いたんですけど、やっぱり50年代60年代生まれの人って脳性麻痺を治すみたいな、そういうことにけっこう子どもの頃に巻き込まれてっていうかなんていうか。

篠田隆:私も巻き込まれそうになりました。

立岩:そうなんですか。なんかちょっと似てますね。中山さんもね三人だった。三人、福岡で親が連れ立って三人、千葉って言ってたな、の順天堂大学病院つったかな、に行くと治すなんかあると。そういうんで親がそれに希望を持って行ったんだそうですよ。で、彼の親は、もうお祖父さんも田畑売って手術のお金にするんだっていう話になったんだそうですよ。だけれどもけっこうぎりぎりのところで、どうもちょっと危ういとか怪しいっていうか親が思ったみたいで中山さんはやんなかった。だけど三人のうち一人の人は手術したんだけどかえって状態が悪くなって。で、今も施設でずっといるんだっていうこと言ってて。そういう話ってあったんだなと思って。

篠田隆:あるんです。

立岩:その三人のうちの一人っていうのは脳性麻痺で、篠田さんより上? 下?

篠田:上。

立岩:上。

篠田隆:4つ上。

立岩:4つ上。そうすると59だから55年生まれぐらいの。男性? 女性?

篠田隆:男性。

立岩:男性。で、どんな手術をしたとかって記憶にあります?

篠田隆:足の膝とか腿も。

立岩:足のほうか。なんか今でもっていうか、そのあとも足の腱を切るみたいなそういう手術がさせられたみたいな人は現にいますよね。

篠田隆:います。

立岩:その人もそんな感じだったんですか?

篠田隆:たぶん。それでその千草の舎という施設の院長が、院長っていうか責任者が勧めて、

立岩:院長が、そこの長がその手術を勧めたんですか?

篠田隆:はい。それで親もその気になって。親が金持ちだったから、で行っちゃったんですね。まあ何週間後に死んだって連絡があって。

立岩:ええ。でも足の手術で死ぬってなんだったんでしょうかね?

篠田:熱。

立岩:熱が出た。

篠田:熱出た。

立岩:高熱が続いてみたいなことですか?

篠田隆:はい。

立岩:なんなんでしょうね。手術の過失、失敗みたいなことですかね?

篠田隆:そうだと思いますよ。

立岩:僕はその福岡で聞いた話っていうのはあれですわ、頭に電極刺してそれで治すみたいな、脳手術みたいな話だったみたいですね。でもまだ70年代生まれぐらいの、僕が仙台でこないだ会った人なんかも足の腱を切る手術して、確かに緊張でこうなったり曲がっちゃったりっていうのはないけど、とにかくだらっとなったままで全然不便っていうか困ったもんだって言ってましたけどね。で、その方、その4つ上の男性の方はそれで亡くなる。で、三人のうちのそれが一人ですよね。そうすると残りが二人でその白いほう〔中核派〕ていうのが一人ですか?

篠田隆:はい。

立岩:その方も男性?

篠田隆:男性。

立岩:脳性麻痺?

篠田隆:はい。俺と同じです。

立岩:歳が。

篠田隆:俺のいっこ上。

立岩:それで、その人が同じ施設に暮らしていて、

篠田隆:いて、中核が入ってきて、

立岩:中核が入ってきて、

篠田隆:それで、その責任者が「あんたたち、私たちの言うこと聞かないなら出ていけ」って言われて。

立岩:責任者っていうのは施設の責任者? 

篠田隆:はい。

立岩:…がそういう連中と付き合ってるようなってことですか?

篠田隆:いやいや、付き合うのはいいんですよ。その人は残ったんです。

立岩:その人は残った。その二人のうちの一人は、

篠田隆:残った。私は職員のほうに付いたので。

立岩:どっちに付いたって?

篠田隆:職員のほう。俺はあの責任者に付かないで。

立岩:施設の責任者の、

篠田隆:労働者のこと。

立岩:…のほうじゃなくて労働者と一緒っていうか、の側に立ったっていう、そういうことがあったってことですか?

篠田隆:うん、そう。

立岩:それが何、施設側の気に入らなかったっていうかそういうことですか?

篠田隆:うん、そう。

立岩:ああ、なるほど。それで「出ていけ」と言われて。

篠田隆:それで私もよく考えたんだけど、「こんなとこにずっといてもしょうがないしな」と思っていったん家へ帰って。

立岩:その家っていうのが実家というか。

篠田隆:はい、実家。

立岩:ご実家がどちら?

篠田隆:新潟市の江南区の割野ってとこで。

立岩:それがそこに書いたかもしれないけど、あとで点検しますが。そうやって施設と揉めて出たのが何歳、あるいは何年だったかってことは。

篠田隆:昭和56年。

立岩:昭和56年っていうことは1981年ですね。ちょっと見せてください、すみません。ちょっと予習が。予習がっていうかこれ、だいたいこの文章、篠田さんこの本に出てるっていう記憶自体が私失われてました、すみませんどうも。

宮内:17、8でって書いてありますね。

立岩:ですよね。たぶんだから…、結婚87でしょ。千草の会青年部。あ、ここですね。

宮内:76、7年か。

立岩:はいはいはい。ここに。なるほど。このさっき言った、残ったっていう、中核派と付き合ってたっていう人が田村さんっていう人ですか?

篠田隆:いや、桐沢。

立岩:きりさわ?

篠田隆:はい。田村っていうのは、4人いたんだ。4人いた。いたんだよ。

立岩:4人いたうちの1人が田村さんで、篠田さん、それから、

篠田隆:桐沢。

立岩:ちょっと待てよ、こんがらがってる。えっと、ここに出てくるのが田村さん、それから桐沢さん、篠田さん、

篠田恵:大野さん。

篠田隆:あと大野さん。亡くなった。

立岩:亡くなったのが大野さん。そもそもその4人がその施設の、

篠田隆:みんな一緒やったんです、小さい時。「はまぐみ学園」。

立岩:はまぐみ学園なんか聞いたことあるなあ。ちょっとこれ昨日、こっちじゃなくて栗川さん書いたのに出てくるじゃないですか。一つは今日タクシーで来る時に。ありません? 途中に。違う?

宮内:あれは違う。あれは「十字園」。

立岩:いや、あのもっとずっと向こうよ。

宮内:学校町。

篠田恵:はい、あるある。

立岩:いやいや、ごく近くのほうじゃなくて、真ん中ぐらいの。真ん中かどうかわかんない。

篠田恵:あれ。

立岩:あれですか?

宮内:あれは違うんじゃない? はまぐみです?

立岩:って書いてあったと思ったよ。看板っていうか矢印みたい、看板みたいなのがあった。あれですか?

篠田隆:この道路通って行くとすぐ行きます。

立岩:じゃあそうなんですね。

篠田隆:そこでみんな出会ったんです。

宮内:恵さんともそこで知り合われたの?

篠田隆:はい。

立岩:なるほど。そうか、俺これチェックしてこなかったな。僕もこれ〔本〕若干関わったんですけど、ほんとそのまんまにしといたんで。68年でしょ。はまぐみ学園に入園68年だから9つとかそんなもんですよね。

篠田隆:9つ。

立岩:ええ。74年新潟全障研ができた。関係者がいた。はい。78年にそっち系の人が作業所を作った。なるほど、うん。ああここか、「1977年富山から青い芝の会の人が来て新潟でも作ってみないかということで何度か来てくれた」、で、横田〔弘、1933〜2013〕さんところに行った。で、この富山の人っていうのが平井誠一でいいんですかね?

篠田隆:はい。

立岩:僕、去年平井さんにインタビューしたんですよ。3時間ぐらい話してくれたんですけど、そういうことおっしゃってましたね。でも具体的に篠田さんに出会うっていうふうにはたぶん聞いてないので今日まで繋がらなかったんですけど、そうですね。平井さんはもうそれよりちょっと前、75年とかそのぐらいの時にあれこれあって、彼もけっこういろいろあれこれあったみたいなんですけど。それで、そっか。だけどさ、ここに書いてある「富山から青い芝の会の人が来て」、来てはいいんだけれども、で、「新潟にも作ってみないか」っていうときに、これはちょっと不思議でね、あてっていうかさ、新潟広いじゃないですか、いろんなところにぼつぼつと脳性麻痺の人たちがたくさんいるだろうし。その時に平井さんがなんでその篠田さんたちのところにやって来たかってなんか覚えてます? 決め打ちですよね。決め打ちっていうか。

篠田隆:たぶん俺が横田さんのとこへ行ったからかな。

立岩:どっちが先だかわかる? 横田さんところに行ったことがあって、

篠田:この近くにあいださんという人がいるんですけども、その人がちょっと怪我で目が片っぽだめになっちゃって。

立岩:目が片っぽだめになったっつったの? あいださんね。

篠田隆:はい。その人がもともと青い芝の会をもってきたの。

立岩:あいださんっていうのは、篠田さん、あいださんの知り合いっていうか、

篠田隆:知り合いですね。

立岩:それ何? 近所の知り合みたいな感じ?

篠田隆:違う違う。千草に来てボランティアで。

立岩:その会にやって来るボランティアとして最初来てた人が、

篠田隆:それで青い芝は来たんです。

立岩:その方がなんか青い芝のこと、それはもともと新潟の人ですか?

篠田隆:いや、あー、新潟。すぐそこの。

立岩:すぐそこの。住んでんのは近所っていうか。

篠田隆:はい。

立岩:で、その人がなんかでその、

篠田隆:富山に行った。

立岩:富山に行った。その人が富山に行って新潟には篠田さんがいるっていうことを平井さんに言ったってことですかね?

篠田隆:私だけじゃなくて桐沢、田村、あとは大野。

立岩:そのさっき言った4人が同じところでっていうことを平井さんに言った。そういう順番らしいってことですよね。それでそれを受けて平井さんが「新潟でもやんないか」ってう話で。

篠田隆:はい。

立岩:それで、そうか。「何度か来てくれた。私も横田さんのところに行ってよく聞いたりしたんだが」と。でもその時は一緒にやれるっていうふうには思わなかったっていうことですね。ちょっとこんな過激にはできないって思ったっていうことか。少なくともその時はね。

篠田隆:その時に桐沢と田村が中核のほうへ行った。

立岩:桐沢さんも田村さんもそっちに、白いほうに行った。

篠田隆:はい。大野さんは亡くなった。

立岩:大野さんはその手術の失敗かなんか、とにかく手術のあと亡くなってしまった。なるほど。例えばここではわりとあっさりとなってますけれども、活動…行動としては「そりゃちょっとついていけないわ」っていうことだったと思うんですけど、それでもわざわざ神奈川ったって昔はもっと遠かったかもしれないじゃないですか、横浜まで行くのって大変じゃないですか。でも行ったわけでしょ。それはなんでしょうね、なんでそんな、

篠田隆:たまたま千草に勤める約束をしていた人が、

立岩:勤める? そこに勤めるはずだった人ってことですか?

篠田隆:はい。結局勤めたんだけど、勤める前に神奈川に住んでたんです。

立岩:職員になった人がね。

篠田隆:はい。だったら一緒に行ってくれっていうふうに。一緒に連れてってくれって。

立岩:一緒についてく。その職員にあとでなった人と篠田さんは知り合いで、その人の実家というか地元が神奈川だった。で、その職員が「じゃあ一緒に来る?」みたいなことで一緒に行ったっていうか。

篠田隆:うん、そうそう。

立岩:その当時のことでね、今、覚えてらっしゃる、活動としては青い芝作ってまでやる気にはならなかったってことだと思うんだけど、何かその当時のことで覚えてることっていうか今思い出せることっていうのはなんかあったりしますか?

篠田隆:自然と、まあできないけどさ、自然と障害者とか健常者とか関係なく生きていくのがほんとじゃないかなあと思って、俺はその道を選んでいます。

立岩:うん、その道を選んでいると。横田さんとか、まあ平井さんでもいいや、なんか覚えてるっていうか記憶に残ってる、なんかありますか?

篠田隆:今はわかりますよ。健常者という、そういう差別者だっていう。

立岩:健常者、差別者だっていうことを強く、

篠田隆;今やっとわかりましたわ、障害者運動の主張が。

立岩:ああ、そっか。今はそういうことを言ってた気持ちっていうか、今のほうがその時よりわかるっていう。

篠田:わかります。

立岩:ああ、そういう感じでね。でもその時はそういうふうにあいつら言ってたけれども、ちょっと一緒にはやれへんなっていうか、そう思ったってことだ。結局さ、新潟…、富山は青い芝できる、一時期はできるでしょ。それから石川もありますよ。で、山形はまたちょっと特殊で、秋田も白石〔清春、1950〕さんって福島の青い芝の人が入ってちょっと作ろうとしたりとかなんかごちゃごちゃあるんですけど。新潟って結局あったんですかね? 新潟青い芝っていうものは。

篠田隆:なかった。

立岩:結局なかったんですかね。うん。それで、その、ごめんなさい、ほんとにこの本をもう一回ちゃんと読まなきゃいけない。で、亡くなった人、その残りの二人はその中核派と一緒っていうか、なった人たちはそのあとどうなったんですか?

篠田隆:そのあと、田村っていうんだけど半分自殺行為で、こんないいベッドで寝らんなくて。寝るのも布団敷かないで掛布団だけかけて自分で寝たりして。要するにあの頃ヘルパー制度はよくないんです。そういうことで自分から拒否して死んじゃったっていうか。

立岩:その人はその施設から出た?

篠田隆:出た。

立岩:一人暮らしだった?

篠田隆:うん。出なかったのは桐沢だけ。

立岩:桐沢さんは出なかった。一人は亡くなった。

篠田隆:でもあとに出た、桐沢。

立岩:桐沢さんはあとで出た。で、その今の方はそうやってヘルパーもいない中で一人暮らしってことですかね。で、健康の管理というか身体のからだのほうが、して。かたちとしては病死みたいなもんですかね?

篠田隆:そうです。ていうか栄養失調ですね。

立岩:栄養失調。食うもんもちゃんと食ってなくてっていう。その当時の例えば中核の連中っていうのは? 富山も、ああ、あれは解放区、まあどうでもいいんですけど、けっこう関わりがあってそれの関係で党派の人たちが支援というかそういうものに入ってた時期がある。東京でもそういうことありますけど。

篠田隆:それはありますよ。

立岩:その中核派のほうにというか一緒にやった二人は、その前後っていうかそのあとも中核派の人は出入りしてなんか介助のようなことをしてた時期ってのはあったんですか?

篠田隆:あったようです。

宮内:隆さん、お茶はどうですか?

篠田隆:あ、いいですよ、置いといて。

立岩:この時のこれ〔「新潟市における障害者の運動の歴史」〕のファイルっていうかパソコンのファイルってありますかね?

宮内:ない、消しちゃった?

篠田恵:ない。ないです。

宮内:あ、ないですか。こちらのほうがパソコンよりもずっと詳しくて。

篠田恵:フロッピーディスクが使えなくなってたから。

宮内:そうかこの本のね。

篠田恵:はい。

宮内:ああそっか。なるほど、ごめんね。

篠田恵:移してなかったです。

立岩:2の4の5の、8ページ分ぐらいあるわ。あのね、これよくあるんですよそういうの、もう20年前のファイルだから。これでもね、スキャナーつって文字を読み取る機械みたいなの使って、そうするともう一回そのパソコンのファイルにできるんですよ。

篠田恵:はい、わかります。

立岩:そうすると、これもとになるじゃないですか。

篠田恵:やりやすいですよね。

立岩:僕やってもいいですよ。僕っていうか、誰かやらしてもいいですよ。そうすると手で打つより早いですわ。日本語なんで英語みたいにきれいには文字読み取れないんですけど。でも読み取れるから、それを使ってこれを元手にして。で、そこに、それをもっと詳しく書くみたいな、そういうことをするとこれが何倍かになっていくから。それでさっき篠田さんおっしゃってたような自伝っていうかな、そういうものができていくんじゃないですかね。これちょっと私も、すみませんほんと手抜かりで。この本私持っていて、けっこういろんな他のとこで褒めたりしてるにもかかわらず、ここの部分を忘れていたので。すみません、ほんとに。
 で、栗川さんのほうにも出てくるアンリさんが関わってきて、それで暮らし始めてっていう流れになるのか。アンリさんって外国の方ですよね?

■アンリさん

篠田恵:ここ〔壁にかかっている写真〕にいる。ここに。

立岩:あ、ここ?

篠田隆:写真があるんです。

立岩:ああ、どれ? どれっていうか。

篠田隆:真ん中。

立岩:真ん中の何、きちんとした背広着てネクタイしてるこの紳士っぽい。

篠田恵:そうです。

立岩:ああそうか、だいたいなんか、誰がどれだかわかってきた。あの右側にいる怪しいのが黛さん★でしょ。青い服着たあの髭生やしてんの、違う? 

篠田恵:はい。

立岩:だんだん見たらわかってきた。その横、あれ青木〔学〕さんじゃないですか。これいつ頃の写真ですか?

篠田恵:2年前です。

立岩:2年前。じゃあそんなに昔ってわけじゃない。アンリさんっていうのはまだご存命っていいますか、

篠田隆:すぐそこにいますよ。

篠田恵:すぐそこにいます。

立岩:いますっていうのは暮らしてるってこと? 

篠田隆・恵:はい。

立岩:これは何、これはなんかの記念の会みたいなもの?

篠田隆:アンリさんが在日50周年。

立岩:50周年のお祝いの会ってことですか? 

篠田隆・恵:はい。

立岩:アンリさんってなに人?

篠田恵:ベルギー人。

立岩:ベルギー? ベルギー人。ベルギーの人が何しにつったら変ですけど何しに新潟まで来たんですか?

篠田隆:カトリック。カトリックの教会の。

篠田恵:宣教師みたい。

立岩:ああ、日本にまあ言うたらカトリックを広めに派遣されて来たみたいなことですかね。それだけれども、それ栗川さんの本にもちょっと書いてありましたけど、いろいろ関わりが深くなっていってけっこう支援してくれてっていうのは僕もそれはちょっと見ましたけど。なんかきちんとした、それはお祝いの会だったからかもしれないけど、なんかきちんとした格好しはってますね。

篠田恵:そうです。お祝いの会だからきちんとしてる。

立岩:いつもそんなきちんとしてるわけでもない。

篠田恵:はい、そうです。

立岩:ああそうですか。でもまあカトリックの神父さんってわりとそういうカトリックな服、黒い服とか白い詰襟とかしてません?

篠田恵:全然着てません。

立岩:そうなんですか。

篠田隆:だからカトリックの中では変わってるの。

立岩:カトリックの中では変わったカトリックですか。

篠田恵:はい。お仕事の時だけはちゃんとしてますけど。

立岩:教会みたいなのは持ってる? 持ってるっていうかその場所はあるわけ?

篠田隆:あります。

立岩:例えば日曜日にミサというかそういうのやるんですか?

篠田恵:やります。

立岩:でもそん時はちゃんとした黒い服着たり。

篠田隆:白いのだな。

篠田恵:白いときも。

立岩:ああ、修道士みたいな。

篠田恵:はい。

篠田隆:黒は見たことない。ただ私もアンリさんから結婚式をしてもらったんです。

立岩:結婚式、何? アンリさんから、

篠田恵:結婚式を挙げてもらいました。

立岩:アンリさんに結婚式、じゃあカトリック式でやったわけですか?

篠田恵:はい。

立岩:もう今はお二人カトリックとかそういうことは別にないんですか?

篠田恵:全然ないです。

立岩:結婚式の時だけカトリック式にやってもらったっていう。日本人にありがちな、宗教ないけどチャーチでチャペルみたいな、チャペルで結婚式的な。

篠田恵:はい。

立岩:そんな感じなんだ。ああ、いるよね、そういうカップル、いやいや、日本人それ普通ですけど。日本人めちゃくちゃですからそういうの。ああ、そういうことね。でもアンリさんはカトリックの中でもちょっと改革派みたいなのちょっといるよね。そういう流れの人なのかなあ?

篠田隆:たぶん。

立岩:じゃあまだお元気で、お近くにお住まいで。

篠田恵:はい。

立岩:なるほど。

篠田隆:この次の通りです。

立岩:ああ、ほんと近いんだ。アンリさんに会ったのは、うーんと、ここ〔〔「新潟市における障害者の運動の歴史」〕〕だとわかるようなわからんような。

篠田隆:私がはまぐみに入っている時に、ああいう施設とかは看護婦しかいなかったですよ。看護婦しかいなかったから、友達が欲しいから男の人連れてきてくれって。

立岩:ああ、いた時にね。

篠田隆:うん、園長に言ったんですよ。そしたら来たのが黛さんとアンリさんなんです。

立岩:なんか頭がくらくらするな。不思議な感じですけど。ああ、そうか。施設で誰か男の友達ていうか男と話もしたいからって言ったらその二人が来た。

篠田隆:はい。

立岩:アンリさんはそっか、50周年だから2年前が50周年とおっしゃったよね。ということはその頃はまだ日本に来てからそんな経っちゃいないってことですかね。

篠田隆:はい。

■黛さん

立岩:でもそれが縁で、か。あとでまたアンリさんの話はお話したらと思いますけど。その時来た時は黛さんって、ちょっと調べたっていうか調べてもあんま出てこないんですけど、たぶんあの人1950年ぐらいの生まれじゃないかな。違うかな。

篠田隆:うんと、俺と11歳違います。

立岩:10歳。そんなもんでしょ?

篠田隆:11歳。

立岩:11歳違う。ていうことは48年とかの生まれってことかな。ほんとに全共闘世代ですね。僕は新潟の人で最初に知ったあたり。だからたぶん2、30年前。20何年前とかに黛さんになんかでなんで会ったのかよく覚えてないんですけど会って、それ以来っちゃそれ以来なんですけど。ああ、あの人今佐渡にいる。何を考えて佐渡なんかにって思いますけどね。

篠田恵:一回立岩さんが新潟に講演会に来てくれたんです。その時会ってると思いますよ◇。
◇立岩真也 2000/10/21 「普通に暮らす――利用者中心の福祉とは」,自立生活支援センター・新潟 講演会

立岩:ああ、黛さんにはなんかで会うんです、よく。よくっていうほどじゃないんだけど。一回会うとなんか忘れない的な人じゃないですか、派手っていうか目立つから。だから、そんなに何度も会ったわけじゃなくて30年の間に何度会ったかな、時々会っていて。で、「今、佐渡にいるから、佐渡のばあちゃんたちにお前の話させるから来い」みたいな、「来てくれ」みたいなことをもう何年か前に言われたから「それだけはご勘弁を」つって。「佐渡のおばあちゃんたちに喋るって一番つらいわ」つって、「勘弁してください」つってそのままになってるんですけど。でも、その時はまだ黛さんが医学生だったってこと?

篠田隆:22歳。

立岩:医学部の3年生とか4年生とかそんなもんですかね。僕はあの人は天皇制反対のTシャツ着てるとか、あと障害者にちゃんとした診断書を書くとか、そんな人として、で、調子がいいっていうか酒飲むとなんかとか、そういう人としては知ってるんだけれども、あの人はなんで新潟の運動というか人たちにっていうのを、篠田さんに聞いてもしょうがない気がしますが。そのうち黛さんに一ぺん、酒飲むと話ぐちゃぐちゃになるから、ちょっとしらふのときに聞いてみようかな。なんかどうですか? 篠田さん、お二人でいいんですけど、黛さんについてというか、初期黛さんみたいのでなんか覚えてることってないですか?

篠田恵:私は結婚する前に紹介してもらってるから。

立岩:黛さんを紹介してもらったんですか? それは誰に?

篠田恵:この方〔隆さん〕に。

立岩:この方に紹介してもらった。

篠田恵:はい。その時の印象はお医者さんだけれど、お医者さんじゃないみたいな。

立岩:ああそうですね、うん、確かに。もうすでにあんな、だいたい。

篠田恵:はまぐみにいる時は医者の格好はしてるけど、言うことがむちゃくちゃでほんとにこれでも医者なんですかって思いました。

立岩:ほんとだよね。はまぐみに医者として来てたこともあるっていうこと?

篠田恵:あるよ。

立岩:その施設の担当というか、お医者さん。だから常勤じゃないわけでしょ?

篠田恵:常勤です。

立岩:常勤なの? あの人があそこに勤めてたことがあるってことですか?

篠田恵:あるんです。

立岩:そこから月給もらってたと、そういうことですか?

篠田恵:はい。

立岩:ああ、そうなんですか。いつ頃? 

篠田隆:俺が千草入ったくらい。

立岩:いつ頃だろ。だからお二人が結婚するのは私の間違いじゃなければ1987年ぐらいだと思うんですよ。

篠田恵:87年の3、4年前かなあ。

立岩:その3、4年ぐらい前にその結婚することになる人に黛さんを教えてもらった?

篠田恵:違う違う。私が電動車いすを知って使いたいけれど誰に診断書を書いてもらったらいいか。

立岩:車いすを使いたいと、それにあたっては診断書がいると、誰にやってもらおうかと思ってたと。

篠田恵:言ったら、この方が「黛さんだったらすぐ書いてくれるよ」って言われました。

立岩:それが電動使い始めた頃だよね。だから、それがいつ頃か思い出せます?

篠田恵:私が21くらいの時だから。

立岩:21?

篠田恵:はい。

立岩:ちょっと待って。いろいろちょっと予習が足りずにですね、頭がこんがらがってるんですが。何年生まれですか?

篠田恵:1962年生まれ。

立岩:62年生まれね。62年で僕より2つ若い62年生まれの人が21歳っていうことは、1983年って話だね。で、87結婚だからその4年前。だいたい辻褄合いますよね。

篠田恵:はい。

立岩:その頃に初めて診断書を書いてもらわないかん、誰がいいかってなった時に教えてもらって黛さんと。黛さんはその時はもうはまぐみ?

篠田恵:はまぐみのお医者さんです。

立岩:あの人そこに勤めてたんだ。月給もらってたんだ。へえって感じですね。

篠田隆:7年ぐらい。

立岩:7年ぐらいそこに勤めてた。しかしなあ、ずっと後年ですけど黛さん、わざわざ佐渡に来てやるってどういうことだと聞いた時思いましたけどね。それもあんま人がいないようなところですよ。佐渡って全体田舎ですけどあの島は、あそこの中でも小木ってまあ田舎ですよ。ようまあそんな変なことしたなと思いましたけどね。で、そういうかたちで車いすやそうやって診断書を書いてもらうっていうパターンはほんとにもう20年前、30年前、最初に会った頃からそういうふうなことで聞いてたんですけど。こっちはそうか、友達がとにかく話す相手みたいなのを所望したらアンリさんとあの人が来て、それ以来ってことですか?

篠田隆:はい。

立岩:そん時はそうか、そん時はまだ医学生。新潟大学の医学部の3年生とかってことだったってことですか? 

篠田隆:はい。

立岩:で、やがて彼はそれで卒業し医者になり、

篠田隆:医者になるとすぐはまぐみ

立岩:医者になった就職先がそのはまぐみ。

篠田恵:はまぐみだったらしいです。



立岩:らしいと。そういうことなんだ。はい、わかりました。で、そんなふうにさっきのを繰り返しますと、たぶんこれ10ページだからやっぱこれの何倍かはほんまは喋ることあるはずなんですよ。今聞いてもやっぱりそうだから。だからスキャナーで読み取ってファイルにして、で、それに例えば今日喋っていただいたのもファイルにして差し上げますので、そういうものをどんどん間に入れていく。そういう作業はなさいます?

篠田恵:はい、できます。

立岩:そうすると増えてっていいと思いますね。で、あとね、ここをやっぱちょっとまだ僕、パーッと今さっと見たところ遠慮してるじゃないですか。人の名前をあんまり出さんとかさ。そういうような部分でなんかね、時間が経つとよほどのことがなければけっこう実名とか出しても大丈夫というかむしろそのほうがいい。で、本人もそれを望む場合が多いんじゃないかなと思いますわ。ですからそういうこう、ここの中ではちょっとぼやかしてる組織の名前であるとか人の名前とかも、可能であればもう具体的に記すことにして、足していくと一代記というかそういうものができていくんじゃないかと思います。
 それで青い芝からの誘いは受けたけど、その時は「ちょっと違うぞ」っていうふうになり、で、そういう人たちアンリさんと付き合いを始め、で、アンリさんと暮らし始めたっていうのはここにも書いてあるし昨日読んだものにも書いてあるのだが。この「一軒家を買って」って書いてあるんだけどさ。

篠田隆:教会が買ったの。

立岩:教会が買った。アンリさんはカトリックの組織というかそういうものに属してはいるんですよね?

篠田恵:いる。

立岩:そこでそういう家を買い上げるようなかたちで、そこに一緒に住んでたっていうのは二人で住んでたっていうことですか?

篠田隆:アンリさんと私、おんなじ家。

立岩:1+1で二人で暮らしていたと。

篠田隆:1年半。

立岩:1年半。ああ、ここ入ってますね、2年生活をしてたと。「というと酒飲みが二人ほどいて夜中に帰ってきて大騒ぎになったり、結婚したり、結婚を前提にして付き合ってる人がいるということもあり」っていうのは、いいんですよね?

篠田恵:はい。

立岩:違う人だったりすることはないんですよね。それは大丈夫なんですね。

篠田恵:はい。

立岩:で、「解散してドンキホーテを建てた」。

篠田隆:すぐそこに。

立岩:87年。これさ、コーポ大竹っていうのが、そうか、コーポ大竹と別に家が一軒あってそこで二人で暮らしてたということですよね。

篠田隆:はい。

立岩:そこは二人で暮らしてた。

篠田恵:違う、違う。コーポ大竹はコーポ大竹であって、そこの近くに一軒家を買って、

立岩:コーポ大竹つうのは…、そうか、コーポ大竹には、栗川さんちょっと書いてあったな。何人かの人が暮らしてたっていうこと、でいいんですよね?

篠田恵:はい、そうです。

立岩:何人ぐらいだったか覚えてます?

篠田隆:障害者が4人、健常者が3人ぐらい。

立岩:健常者が3。ちょっとごめんなさい。栗川さんの本だとここに書いてあるようなことなんですけどね、「酒飲みがいて夜中に帰ってきて騒ぎになったり」。だからそのわりとプライバシーっていうの、そういうのが保ちにくい場所で、ちょっとそれが大変だったんでそこをたたんで一人ずつ、一人一人個室というか自分のところに住めるようなタイプの、今でいえばグループホームですかね。

篠田隆:コーポ大竹をやってみたけどそれがなんちゅうの、やってみたけどだめでドンキホーテを作ったんです。ドンキホーテは一個一個部屋がある。

立岩:コーポ大竹っていうのは完全に民間のアパートみたいなものですか? 大家さんが持ってて、一部屋一部屋の家賃を一人ずつ払うみたいな。

篠田隆:うん、そうそう。

立岩:で、それだったら普通は一つ一つ別々のスペースっていうか部屋があって、それなりにプライバシーっていうかそういうものが保てそうな気がするわけですけど、そうじゃなかったっていうのはどういう感じだったんですか?

篠田恵:食事のときだけ一緒に食べてたみたいなとこがありましたね。夕食だけ。

立岩:夕食がみんな同じ部屋に集まって食べる的な?

篠田恵:あったようです。

篠田隆:結局、いや、ほら、健常者の方って出たり入ったりが多いから、そこでコーポ大竹っていうのはプライバシーが守れなかったから、そこを改善して。

立岩:その守れなかったっていうのは、まずその3人いたっていう健常者は何者?

篠田隆:普通の。アンリさんと、あと手伝ってくれた親父さん、女の方と、あと家具屋さん。いろんな人出入りしてるんですよ。

立岩:この時期ね、80年代の初めとか。去年僕、筋ジストロフィーで療養所に暮らしてた人で20代とかに出た人のお話も含めて本を書いたんですけど、その頃って介助者とそれから障害者が一つ屋根に暮らす的なそういうのってあったんですけど、これはその4+3っていうのはそういうわけじゃない。3はもう全然別に暮らしている人っていうことだったんですか?

篠田隆:別。

立岩:その家具屋さんは家具屋さんの。家具屋さんって言ったんだよね?

篠田隆:やました家具店。

立岩:やました家具。家具屋さんに勤めてる人ってこと?

篠田隆:はい。

立岩:じゃあそうか、別々やったらでも別々なんちゃうか。僕はね、なんかこうイメージしてるのは埼玉で福嶋あき江さん★っていう人が自立するわけですよ。

篠田恵:ああ、わかります。

立岩:わかります? 

篠田恵:はい。

立岩:彼女とかそれから高野岳志さん★っていうやっぱ同年代の筋ジスの人が、彼の場合は千葉ですけど、福島さんは埼玉ですけど。やっぱりなんだろな、いわゆる、いわゆるっていうか普通の一軒家というかアパートというかそういう部屋で、部屋も3部屋とかね、そんな感じで日本の家屋だからあそこも、ふすま隔てると次の部屋みたいな。なってて、その隣の部屋にけっこう健常者っていうかそういう人がいてて、それでプライバシーが守れなくて両方疲れるみたいな。それで、それじゃあちょっとずっと続かないからっていうんで、一人一人別々のドアがあり鍵があるみたいなところに移ってくみたいな、そういう話はちょっと聞くんですよ。

篠田隆:そういうことがあって、コーポとは別にそういうのをやめてドンキホーテを作って。

立岩:コーポ大竹はでもどうなの? 普通のアパートやったら一個一個鍵はかかってそうな気がする。そうでもないの?

篠田恵:そうでもなかった。健常者の人は2階に住んでて障害者の方は1階にいて、真ん中に台所があってそこで夕食とかを。

立岩:アパートつっても今僕らが普通にイメージする、一部屋一部屋ドアがあって鍵がかかってっていうのと違うんですか?

篠田恵:違うんです。

立岩:一軒家の一つ一つの部屋にいるに近い?

篠田恵:はい。

立岩:ああ、なるほどね。それでいろんな人が出入りして酒飲む奴もいる、ごちゃごちゃしてて落ち着かないしみたいな。

篠田恵:お酒飲む方は歩けたので2階にいたんだと思います。

立岩:誰が?

篠田恵:お酒飲みの方は2階に住んでたんだと思います。

立岩:この「酒飲み二人」ってここに書いてあるのは誰? 誰っていうか障害者?

篠田恵:障害者。

立岩:障害者で、けっこう酒盛りを始めちゃうみたいな。

篠田恵:脳卒中で。

篠田隆:脳卒中とか交通事故で障害者。

立岩:で、障害者になった人ってことか。

篠田恵:はい。

立岩:脳性麻痺じゃなくて中途障害?

篠田恵:はい。

篠田隆:あと筋ジスもいました。

立岩:筋ジスの人もいた?

篠田隆:はい。それが何年前だろ。3年前亡くなった。

立岩:亡くなった。なるほど。それでそうなって、それでドンキホーテか。ドンキホーテっていうからさ、カーサっていうからさ、スペイン語じゃないですか。なんで、なんとなくですけどアンリさんってそっち系の人なのかなって一瞬思って、一瞬じゃなくて昨日とか思ってたんですけど、彼はじゃあベルギー人でカーサ・ドンキホーテってドンキホーテの家ってことでしょ。スペイン語ですよね。

篠田隆:変わった人のお家。

立岩:そうですよね、ドンキホーテ、変な人っていうか。それの命名は誰だったんですか?

篠田隆:アンリさんと小林さんっていう。

立岩:小林さん、小林さんっていうのは?

篠田隆:建ててくれた人。

立岩:何を建てた?

篠田隆:ドンキホーテを。



立岩:ドンキホーテを建てた。なるほどね。じゃあこれが78年ぐらいか。で、ヘルパーの話はこれも栗川さんの話に書いてあった。それで87年、ああ、ほぼ重なりますね。僕は87年っていうのは東京にいて、で、こういう自立生活運動とかそういうことに調査しだしたのが85、6年なんですよ。85、6、7ぐらいにインタビューして、で、機関紙とかそういうの読んだりして、本が出るのが90年なんですけど。ですからこの87年、お二人が結婚された年に高橋修さんにたぶん2回インタビューしてるんですね、だから32年前ってことじゃないですか。で、そういうので、ただ新潟のことはほとんど耳に入ってこなくて。でも修さん長岡の人なんで、僕が佐渡出身じゃないですか。で、修さんが長岡で。で、ご存知かなと思いますけど圓山里子さんっていう、

篠田恵:はい、私の職場介助者でした。

立岩:そうなんですか。ちょっと待って。それっていつからいつのなんの職場の介助者だったんですか?

篠田恵:自立生活センターの職場介助者でした。

立岩:ああそっか、そっちのね。その時圓山さんは学生? 大学院生? え、なんだ?

篠田恵:立教大学の契約が終わったから。

立岩:立教の契約が終わって、

篠田恵:はい、新潟に帰ってきて。

立岩:ああ、しばらく新潟に帰ってたよね。その時に、

篠田恵:私の介助をしていました。

立岩:ああそうなんだ。僕はだからその前ですね、圓山さんと僕と高橋さんと県人会だとか言ってましたよ。だから87、8、9あたりってけっこう高橋さんと僕付き合いがずーっとあって、で、自立生活センター立川作るって。で、作った時に「運営委員になってくれ」って言われて運営委員になって、で、NPO法人になって理事になってみたいな。だからそれが90年ぐらいだから、それから彼が亡くなる99年まで9年間ぐらいはNPOの理事だったり運営委員だったりなんかして、ずっと付き合いあったんですよね。じゃあほぼ僕は高橋さんに話聞いたりなんかするのとほぼ同じ頃にか、そうか。はじめ黛さんを通じて付き合っていたが、高橋さんと親しくなった。そりゃそういうことか。じゃあ黛さんは高橋さんのこと知ってたってことですよね?

篠田隆:はい。

立岩:なんで知ってたんだろ、黛さんは。黛さん、なんだろ? 高橋さんも25ぐらいまでたぶん家からほとんど出ないような暮らしで、

篠田恵:そうですよね。

立岩:で、そのあと関東のほうに行って。だから新潟の人との直の付き合いって、っていうか例えば黛さんってなんで知ってるんだろ?

篠田恵:彼は、この方は、黛さんに連れられて85年くらい大阪の集会で、

立岩:85年に集会に行った?

篠田隆:共同連。共同連。

篠田恵:出会ったっていう。

篠田隆:そこで出会ったの。

立岩:どこで会ったって?

篠田隆:そこで、大阪の共同連の、

立岩:大阪で共同連の集会があって、

篠田恵:黛さんと。

立岩:黛さんと一緒に行ったってこと?

篠田隆:はい。そこで高橋さんと。

立岩:なるほど。そこで高橋さんに会った。ちなみにその時に黛さんはその前から高橋さんのこと知ってたのか、そこで会って、

篠田隆:いや、そこで会って。

立岩:で、会って話したら高橋さん実は長岡の出身でみたいな、新潟県人だってことがわかったみたいな。

篠田恵:私が聞いてたのは、その前に黛さんは高橋さんと会ってて、

立岩:共同連の前に?

篠田恵:はい。高橋さんに会わせたくって共同連の集会に連れてったみたい。

立岩:そうすると黛さんはその共同連の集会の前に高橋さんのこと知ってて、知っててっていうかもう付き合いがあったってことか、すでに。で、篠田さんに会わせたいと思って共同連の大阪集会に行った。その類っていうかそれに関することっていうのはとにかく「俺も新潟から出たわけだから新潟にやっぱセンター作らなあかん」っていう、作ってやってもらわなあかんみたいなことは、いつ頃からやったかなあ、90年代入ってからやったと思いますけどけっこう言ってましたね。そういうことかな。篠田さんにとって、たぶんね、僕ほんとに篠田さんたちというか二人ででもいいと思うんですけど、なんかそれ書いたらいいと思うんですよね。その時にやっぱりこれだと修さんの話にしてもあっさりじゃないですか。でもやっぱり一人一人についての何か思い出とかさ、今言ったようなことですよ。例えば黛さんは前から知ってて、こういう目論見があってみたいなことを書いてくとやっぱ長くなってきますよね。で、それが貴重だと思うんですよ。

篠田恵:はい。

立岩:それで聞きますけど、お伺いしますけど、篠田さん…隆さんにとっての高橋さんっていうことで何か思い出せることとか記憶に残ってる、両方でなんかありますか?

篠田隆:よくあそこまでやるなと思ってた。

立岩:何を言われたっていうか、ていうのは覚えてますか?

篠田恵:私はなんか高橋さんが亡くなってから高橋さんの追悼文集を書いてくれって言ったから頼まれて、聞き取りして、こちらの

立岩:こういう話? 隆さんが追悼文集に文章書くのを頼まれた時に、隆さんに聞き取りというか話させてっていうか、それをこう、

篠田恵:私がまた文章にまとめて、

立岩:文章に編集というか、したわけだね。

篠田恵:はい。その時に私は、私が27、第一子がお腹にいる時、妊娠7ヶ月の時に、黛さんが高橋修さんを新潟に呼んで講演会を開いたんです。

立岩:それいつだったか覚えてますか? たぶん調べりゃわかるはずだな。

篠田恵:88年の2月か3月くらいです。

立岩:じゃあ結婚した次の年みたいなことですか?

篠田恵:はい。

立岩:88、ちょうどそうか。僕らがインタビューした年とかその次の年とかだな。完全に重なってますね。で、修さんはその時何言うたか覚えてます?

篠田恵:その時はなんか東京で生活保護を受けてて、えらいお金持ちで(笑)、えらいなんか活動的にしてた印象があります。

立岩:他人介護加算はあの人たちは積極的に取ってたから、たぶん介護の費用だけとったら何十万円とか、大臣承認っていうのはそのぐらい取れてましたもんね。そういうことかな。そういうふうにやったら介護を使えるよみたいな。

篠田恵:そうです。

立岩:生活保護取る覚悟があるんやったら。で、ある時高橋さん組合でしょ、介護保障要求者組合でそういう書類出して大臣承認とかでたくさん介護費用をみんな取らせようっていう運動の先頭に立ってた。

篠田恵:やってましたね。

立岩:そういうことをできるよって言いたかった、言いに来たっていうことだったのかな。たぶんそうだよね。

篠田恵:そうですね。

立岩:彼がそうか、まだその時に88年じゃないですか。で、あれですよ、ヒューマンケア協会は86年なので、もうできてるわけですよ。だけど僕はインタビューした時に「あれもいいけどどうなのかな」みたいなことをずーっと言ってはって、修さんは。で、だいぶためらいながら、やがて自立生活センター立川立ち上げるんですけど、その頃ってどんな感じやったんやろな。でね、いったん立ち上げてからは、あの人たちはというか、各地にそういうものを作るっていうことを熱心にやってるんですよね。ただ私の記憶だと88年の時はまだそういう踏ん切り、だから「生活保護取れ」と、「取って地域で暮らそう」と、「それで他人介護加算取れるからそうやって暮らそうぜ」っていうのははっきり言ってたと思うんですけど。

篠田恵:言ってました。



立岩:うん。でもまあ「自立生活センターを新潟で作れよ」みたいなことは言ってた? いつ頃言い出してたっていうかそういう記憶ありますか?

篠田恵:それは「新潟で障害者が作れるよ」って言って、自立生活センターを作ったわけじゃないんですよ。健常者の人が自立生活センターを作れば介助派遣ができるから、自分たちもお金が入るから作ろうよって言われて作ったんです。

立岩:それいつだ。95?

篠田恵:95年です。

立岩:95年ですよね。それって今となっては健常者っていうのが誰だったとか言えるんじゃない? 言えるっていうか。

篠田恵:あべさん。

立岩:あべ? 

篠田恵:はい。

立岩:あべさん。なんか名前知ってるような気がするなあ。

篠田恵:要するに黛さんが診療所を作る時に雇ってた看護婦さんたちなんです。

立岩:看護婦さんがあべさん?

篠田恵:はい。

立岩:黛診療所のそこで勤めてた看護婦さん。

篠田恵:看護婦さんが関わってたんです。

立岩:その人たちがけっこうリードしたっていうかそんな感じだったんですか?

篠田恵:はい。

篠田隆:でも、それも空中分解して、俺たちだけが出て自立生活センターを作ったんですよ。

立岩:え? もう一回。

篠田隆:「たんご」ってところを作ったんだけれど、そこはやっぱり障害者本位じゃないの、なくなったっていうか。だから、ひろしまさんって知ってますか? ひろしまさん。

立岩:ひろしま、はい、ひろしまが?

篠田隆:一緒にたんごをやり始めたんです。そして遁所さんと一緒に始めたんだけど、結局はちょっといざこざがあって、で別れて、今うちは…俺は介護派遣だけやってる事務所をやってます。

立岩:今ね?

篠田隆:はい。どうしてもね、健常者のペースになっていくっていうか。

立岩:そんな話よう聞きますけどね。新潟もそういうふうになっちゃったっていうことですか?

篠田隆:そうです。

篠田恵:ただ、立ち上げた時に高橋さんが1ヶ月に1回ずつ新潟に来てくれて、自立生活センターのことを教えてくれてた。それが4ヶ月間くらい続いてて。

立岩:ひと月にいっぺん、そうやって新潟に来て話して、それが4ヶ月とか、だから4回とか3回とかそういうことか。

篠田恵:はい。

立岩:それはたぶん90年代に入ってからだ。

篠田恵:95年の終わりから6年。

立岩:自立生活センター新潟を立ち上げてからっていうこと?

篠田恵:からです。

立岩:できる前っていうよりはできた後にというか、スタートをどういうふうにうまくやっていくかみたいな、そういうことで95年に来た。その話とさ、その黛さんとこの看護師さんたちが音頭取ってたっていうのはどういう関係になるんですかね?

篠田恵:黛さんたちの看護婦さんたちは、自分たちも意見が言えるんではないかと思って自立生活センターをやろうって言ってたんだけれど、高橋さんの話を聞けば聞くほど障害当事者が中心になってやるところのなかで、健常者はほんとに後ろでお手伝いをするだけの人ですって言われて、それだったら私たちはやりたくないみたいな感じになりました。

立岩:それは95、6年でもう一応かたちとしてはできてからってことでいいんですか?

篠田恵:はい。

立岩:なるほどね。始まりかけの時はそういう人たちが自分たちもこう主体的にというかやれるかなっていう思いもあって一応始めてみたんだが、だけど高橋さんなんかが新潟やって来て健常者は基本的に後ろで手伝う役割やということで「それだったらあんまりやりたないわ」っていうんで引いたって感じですかね?

篠田恵:はい。

篠田隆:グループホームみたいなことやってます。

立岩:それはまた別の動きというかかたちで、それは今でも続いてるんですか?

篠田隆:はい。

立岩:ああ、なるほどね。それで95年できるじゃないですか、始まるじゃないですか。それは、今は基本的に介護派遣事業の部分を引き取ってというかここでやってはる、それはわかるんですけど、でも95年からだったらだって25年も経ってるんですよ。だから最近のことはまた別にお伺いいったりすることもあるだろうけども、その95年にそんな感じで思惑が違ったりもしつつ、CILだから障害者がやるんだよと一応そういう話で始まって、それはやがてどういう運命というか道を辿っていくことになるんですか?

篠田隆:遁所さんとか一緒にやったんだけど、これもまた遁所さんと私の意見が違って、結局俺が追い出されて。

立岩:ああ、篠田さんのほうが出るかたちになったんですか?

篠田隆:はい。

立岩:それはまあ僕はいろんな喧嘩というか、喧嘩はもう世界中でっていうか日本中でいくらでも起こっているのでたくさん見聞きしてきましたけど、それはどういう食い違いというかどこが違ったっていうふうに篠田さんは思われてるんですか?

篠田隆:あの人は中途障害者じゃないですか。

立岩:中途だよね。

篠田隆:俺は初めから。そこの違いなんだろうな。

立岩:それは違いがあるし、けっこう違いが大きいというのは僕も感じることはありますけど、それは組織を運営するとかそういう時にどういうふうに現れてくるんですかね?

篠田隆:俺よりも頭がいいっていう。

立岩:遁所さんが? 遁所さんは遁所さんのほうが頭がいいって言う? 思う? そういうこと?

篠田隆:思わせるとか。

立岩:それはなんとなくわかるんですけど、それでどうなんですか?

篠田隆:別れた。

立岩:いやいや、そうなんだけどさ。でもほら組織をやる時にやり方が違うとか、もうちょい具体的に言うと「俺はこうやり方やりたかったのに、彼は違うようにやりたかった」とかそういうのって。

篠田恵:だから遁所さんは勉強してるから理屈が上手に言えるじゃないですか。こちらは理屈が言えないからそこで負けちゃったというか。

立岩:わからんことはないけど、理屈言いたけりゃ言わしとけってこともあるじゃない。

篠田恵:あるけど、そこまでこの人は自分の意見を言えなかった。

立岩:これをどういうふうにこの組織を切り盛りしていくっていう時に、こっちは右に行くとこっちは左に行くっていうようなそういう具体的な対立というか違いってものはあったんですか?

篠田恵:あって、いろいろありすぎて何がなんだか。

立岩:なんか一つ二つないですか? ここで全然こう意見が違ったとかさ。

篠田恵:あのね、どうなんだろ。私は一応自立生活プログラムとかピアカンをやってたので、やってて遁所さんが来た時に、「そんなのしなくても自立できるんじゃない」なんて言われたことがあります。

立岩:それは頓所さんに言われた?

篠田恵:はい。

立岩:それで、それはどうかなったんですか?

篠田恵:それでひろしまさんっていう人がどっちかっていうと私たち寄りで、私たちの考え方を尊重してくれてるかたちで、「これは絶対遁所さんがわかんないだけで必要なことなんですよ」みたいな。

立岩:遁所さんはわかんないかもしんないけど、これ必要なんだってことをひろしまさんが言った。

篠田恵:はい。

立岩:ああ。それで、結局っていうかほんとに新潟、修さんがいなくなったりとかそういうこともあって、西のほうに行っちゃったところもあって、その新潟がどうなってどうなったのかってほぼなんにも知らないんですけど。さっきその出たっていうのは聞きましたけど、全般にその今どんなことになって。いや、あそこ〔篠田さん宅〕に車があって、介護派遣ね、それの車があったのは見たんで、そういう仕事は僕はここでなさってるんだろうなっていうのはわかったんですけど、その全体的に、今新潟はどうなってるんですか?

篠田恵:何もないです。

篠田隆:運動はないです。

立岩:それは青木さんもそう言いはってたな。事業所はあんねんけど、なんか運動がって言ってたのはそういうことですか。遁所さんは何してんの今?

篠田恵:遁所さんは何もしてないです。

立岩:何もしてない、そうか。

篠田隆:会ってきたんでしょ。

立岩:いや、会ってないんですよ。今回は青木さんに午前中に会って、で、今日はここで、で、帰らないかんので会ってない。ていうか、たぶんメールのアドレスが違ったのかもしれないんですけど、メールの返信とか来てなくて。だから連絡がついたかどうかもちょっとよくわかんないです。そのうち機会があればとは思ってるんですけどね。

篠田隆:だから結局、遁所さんは私を追い出したっていう感じ。

立岩:追い出して、追い出してやってりゃまあ。

篠田恵:追い出したつもりではないんですけれど。

立岩:潰れてはいない。組織が解散したとかそういうことはないわけだね。だけど活発に活動してはいないってそういう話ですか?

篠田恵:はい。

立岩:なるほどね、いろいろ難しいことあるけどね。
 今日ね、青木さんとも話してたのが、これから日本海側をどうやっていくかということでして。例えば富山なら富山で、それこそ平井さんとか八木さん、八木勝自さんとかそういう人はいるんですよ。そういう歴史はありつつ、なかなか厳しいものがある。今僕2016年ぐらいから金沢、石川の金沢のことに少し関わってて。国立療養所って新潟にもありますけど、そこに1960年代ぐらいから筋ジストロフィーの人が収容されていくんですよ。その人たちがもう40とかになって、もう30年も施設にいてっていうようなことが今あるんですよ。で、今それなんとかならへんかっていうので動いているんですけど。そのきっかの一つでもあるんですけど、古込さんっていう人が医王病院っていう金沢の病院から出たいっていう。で、それの支援みたいなことに僕ら関わってて。その流れで結局、結局っていうかな、やっぱり出て暮らすときの、彼らは筋ジストロフィーとか、あとALSとか要するにほんとに24時間介助ないとやっていけへんみたいな人たちが、やっぱり具体的に言えば重度訪問の制度が富山、石川、新潟、たぶん山形もそうだと思うんですけど、やっぱり非常に薄いという中でかなり苦労をしちゃうよねっていう話で。で、金沢の場合はもう0だったんですよね、重度訪問。あの80万だか60万だかいる町にもかかわらず。で、その時は古込さんが出るということで、どうしたらいいかねっていうんで弁護士とかも入って金沢市と直に交渉して、で、金沢市は始まったんですよ。みたいなことの過程の中でやっぱりその新潟にしても、山形、秋田もたぶんそうですよ、秋田、山形、新潟、富山、石川、福井辺り。もっと南もそうでしょうけど、西もそうだと思いますけど、その辺りをやっぱもうちょいなんとかならへんとこれはあかんよねっていうときに、やっぱりそれをやれる、そういうことを交渉も含めて、あるいは制度が取れたら取れたで派遣するその事業所みたいのがやっぱ裏日本っていうのもなんか言葉としてよろしくないでしょうけど日本海側、そういうところがないと苦しいよねって話をしてて、それは今でもなんとかならへんかなと思ってるんですけどね。

篠田恵:はい。

立岩:その話を青木さんにも今日して、なんていうかな、全然今までとは違う、別のなんか新しい人でもなんでもいいんですけど、なんかこう新潟なら新潟で、ちょっといろいろあったんでしょうけどちょっとこう停滞というか止まっちゃったところが動きが出てくれないかなって私は私で思ってるんですけどね。どんなもんですかね。なんかないですかね。

篠田恵:社会福祉法人を…遁所さんが社会福祉法人を作るっていうから、自立生活センターの…

立岩:センターの?

篠田隆:特色が。特色が薄くなった。

立岩:センターの特色が、

篠田恵:薄くなってきて、

立岩:薄くなってきた。で、社会福祉法人っていうのは作るっていったけど作んなかったの?

篠田恵:作った。

立岩:それは今もやってる。何をしてる社福なんですか?

篠田恵:補助金とか。

立岩:そりゃ補助金はもらえる。補助金もらうためには事業せなあかん。なんの事業して補助金もらってるんですか?

篠田恵:ヘルパー派遣。

立岩:ヘルパー派遣、いや、僕ねヘルパー派遣ほんとちゃんとやってくれるんやったらどこやってくれてもいいと思ってるんですよね。ただそれをやれるとこっていうか、そういうものを例えば行政にちゃんと時間なら時間を交渉するようなところがないと苦しいな。実際金沢とか富山でやっぱけっこう一人暮らしの重度の難病っていう、難病っていっても実質上障害者ですよね、たちがほんまけっこう困ってて、なんかうまいことならへんかなって。それでね、その古込さんっていう金沢の人が出る時も、平井さんとかも手伝ってくださったんですよ。で、僕らも一緒に話し合ったりしたんですけど、ただやっぱりあの世代はあの世代で運動の先鞭っていうか先駆けでいろいろ大切なことしたとは思うんだけど、その次の世代というかな、そういうところが出てこないとあるいはやっぱなかなか難しいなっていうの思ってて。うん、そっか、新潟どうですか? なんとかならないですかね。そっか、どこに行ってもやっぱ若い人はいるけどな。

篠田隆:みんな落ち着いてしまって。

立岩:まあそうなんやろうけどさ。

篠田隆:私も、

立岩:今はここはヘルパー派遣はやってる?

篠田恵:やってます。

立岩:それはその自立生活センター新潟がやってるってかたちなんですか?

宮内:NPO法人、CIL。

立岩:NPO法人CIL新潟?

篠田恵:名前だけはCIL。

立岩:うーん、ちょっと待ちや。それ以外のCIL新潟っていうのは存在する?

篠田恵:あります一個。

立岩:あるわけね。それはその最初に一緒にやってたところ?

篠田恵:最初にではなく、その人は魚沼から出てきた人がいて。

立岩:どこから出てきた?

篠田恵:魚沼。

立岩:魚沼。それじゃあその今ずっと話してた話の系列とは違うってことか。

篠田恵:はい。

立岩:じゃあもともと95年にできたものは、

篠田恵:なくなってます。

立岩:ほんとになくなった?

篠田恵:はい。

立岩:それの95年のセンターはもうなくて、で、同じ名前の全然別のものはちょっとあると。で、同じ名前は使ってるけど、でも別組織であるところのここが派遣をやってる。そういう地図っていうか、ことでいいんですか?

篠田恵:そうです。

立岩:ちなみにここはどのぐらいっていうかどういう派遣をなさってるんですか? どういう対象者とかどういう制度を使って。総合支援法の居宅とかですか?

篠田隆:居宅はあんまりなくて。重度訪問。

宮内:あとは知的障害の方たちの移動支援とか。

立岩:ガイドヘルプか。

篠田恵:移動支援と、

宮内:プールへ連れてったりとか。

立岩:ああ。ガイヘルってやつですね。

篠田恵:有償運送。

立岩:利用者は何人ぐらい? それヘビーユーザーとちょっとしか使わん人とだいぶ違うやろうけど。

篠田恵:私、直接関わってない。

立岩:そうかそうか。どんな感じです?

篠田隆:20か30。

立岩:そうかそうか。今、けっこう人手不足だってどこでもみんなぶーぶー嘆いてますけど、そうですか?

篠田隆:人手不足です。

立岩:じゃあそうか、わりと知的の人とかそういう人もこの頃多い?

篠田隆:多い。

立岩:そうだね、どこでもそういうとこあるかもしれない。例えばほんまに24時間要るという人が、で、医療、まあその3号研修とかそのいわゆる医療的行為ができるようにするっていう研修は例えば京都なら京都で、僕もNPO法人一つやってて、そこで研修自体はこっちでやってきてもらってもいいんですよ。だからそれはこちらで、東京でも京都でも用意できるんですけど、そういうふうに仮にそういう研修をやるとなったときに、例えばここで24時間いるっていう、こうALSならALS、筋ジスなら筋ジスの人に、

篠田隆:私もだいたい24時間。

立岩:自分は取ってるっていうか。

篠田隆:はい。

立岩:それは例えばもう一人お客さんが増えたら、それはそれでその人手不足の中でなんとかできますかね?

篠田隆:今のままじゃできない。

立岩:そうでしょ、厳しいよね。人手が調達できたらできるかもしれないってことですか?

篠田隆:はい。

立岩:やっぱりヘルパーの人がおらんっていう。

篠田隆:うん、そう。



立岩:わりとどこでもそうですよね。わかりました。ちょっともうだいぶ聞いたんで、ちょっといったんあれで。ていうか、ここから新潟駅ってどうやって行ったらいいですか? 電車乗ればいいですか?

宮内:どうすればいいかな? 電車に乗れば。ここから一番近い駅ってどこでしょうね、隆さん。

篠田隆:寺尾。

立岩:寺尾って歩いたらどんぐらいかかる?

篠田恵:15分。

立岩:15分で寺尾駅に行ける。

篠田恵:はい。

立岩:それやったら。ざっくり言って新潟駅までどのぐらいかかりますかね?

篠田恵:バスで30分。

立岩:バスで30分で行ける?

篠田恵:はい。

篠田隆:電車では20分ぐらい。

立岩:電車は乗ってる時間が20分ってこと?

篠田恵:はい。

立岩:電車乗ってる時間が20分、で、駅まで行くのが15分? ていうことは35分とか、乗り換えなしで35分とかそのぐらいか。わかりました。ちょっとだんだん考えんと家に帰れないので、はい、わかりました。たぶん、僕もちょっと頭っていうか今日、ほんとにミスったなと思ったのがこの本のこのパートを忘れてたのでちょっと復習というかちょっと勉強、ちょっと頭整理し直してまたお伺いすることがあるかなと思うんですけど。とにかくなんか作るといいと思います。冊子というか。一人一つはいいと思うんですよね。二人っていうのはないんですか? 二人で書くっていうのは。

篠田恵:二人、嫌なんです。

立岩:嫌なんですか?

宮内:私は。あ、ここで私が言ってもしょうがない。

立岩:お名前よろしいですか?

宮内:はい、宮内と申します。で、最初どなたもいらっしゃらなかったら「私がやろか」とか言ってやってたんですけど、それ。

立岩:どれを?

宮内:篠田さんの伝記。

立岩:ああ。

宮内:うん、それでなんかいろいろお話したら、まず出生の時がドラマチック。だからそこらへんから入って、それからこの二人の出会いっていうのもすごくドラマチックなので。

立岩:そうですよね。

宮内:うん。デートなさったり。それからこのお二人の状況で子どもさん二人儲けたっていうのもドラマチックなので、そこをなんか重点的にあれしながらやると。

立岩:そうですよね。それ膨らませたら膨らみますよね。

宮内:はい、すごく膨らむと思ったんです。その時に出会いみたいなところで恵さんのほうの生い立ちも少し紹介するっていうかたちにすればまたいいんじゃないかなとかって思ったんです。恵さんは恵さんでまるっきり別途っていうんじゃなくて、その本の中で恵さんの生い立ちも紹介するみたいなかたちだと、

立岩:うん、僕それいいと思うわ。

宮内:いい。私もそれがいいなと思ったんです。篠田さんの伝記の中で恵さんとの出会いの中で恵さんのことを紹介する。

立岩:恵さんは何? 端的にそれは恥ずかしいんですか?

宮内:大丈夫、大丈夫、大丈夫。

立岩:ほんとは大丈夫なんですか? 言ってるだけなんですか?

篠田恵:恥ずかしいのもあるんだけど、結局いつも篠田隆を、

宮内:篠田隆さんの奥さんってことになるから?

篠田恵:なるから嫌なんです。

宮内:そんなことはない。

立岩:だからかえって完全に対等で二人名前出したりしたらいいんじゃないですか? だめですか、それ。

篠田恵:はい。

立岩:共著っていうか。

宮内:それもいいよね。

篠田恵:はい。

立岩:僕、それいいと思いますよ。

宮内:ものすごくなんか知的だし自立心があるし根性のある方です、だから。篠田さんはね優しい方。ほんとうに心根が優しい方で、恵さんはどちらかというと恵さんのほうが男っぽいかもしれない。根性あって強くて、ね(笑)。

立岩:僕の知り合いのCPの女性ってそういう人けっこういるわ。なんでやろう、不思議やな。なんか旦那さんのほうがのんびりした感じ。なんやろ、あるよなそういうのって、なんか不思議やね。

宮内:よく物事わかってらっしゃるし達観してらっしゃるし、やっぱり素晴らしい方だと思います。お互いこの方たちは対照的な方ですけど、でもお互いをちゃんと。

立岩:それ、どっからどういうふうに出すとか考えてらっしゃるんですか?

篠田隆:なに?

宮内:ほんとはだから大学の先生なんかがいらっしゃるといいですねとか言ってたんです。だから「まあ!」とか思いました。ラッキーだと思いました。

立岩:いやいや、うん、使うものは使ってもらっていいと思うんですよね。それでね、たぶん紙は紙で大切なんですよ。で、形になるっていうのはやっぱりいいと思うんですよ。だから紙の形で冊子にするのもいいけれども、でもそれってやっぱり何百ですよね、刷ってね。で、その近所っていうか知り合いの人に配るでしょ。それはそれでいいんですけど、僕ら今やろうとしてるのは、そういうものってほんとにそんな出回るものじゃないから集めてとっとくっていうのは一方でやるんですけど、でももっと読んでほしいっていうときは紙は紙で紙と同じものを、中身的にはね、それをホームページにもう載せちゃってどっちでも見られるようにするっていうのは、特に後者のほうはお手伝いっていうか、例えば許可してくだされば一冊分とか、実際それはやってるんですよもう、そういうことはね。やってるので、これから何年かの間に。ほんでね、ホームページがいいのはだんだん足していけるんですよ。紙のもんて完成させなきゃだめじゃないですか。で、いっぺん出したらそんな簡単に改訂版とか出せないじゃないですか、めんどくさいから。だけどホームページって増やしていけるでしょ。だからバージョン0.0みたいなやつから始めて0.1、0.2みたいにバージョンアップしていけるんですよ。だから全部が完成するまで0ですっていうのが紙の世界じゃないですか。だけどホームページはそうじゃないので、また思い出したこととか新たに出てきた資料とかそういうのどんどん足していけばいいから、僕はけっこうお勧めですよ。で、僕らがやるのは例えば高橋さんなら高橋さんで大きいファイルあるんですけど、それ結局いろんな、例えばこれをさ、さっき言ったけどスキャンして、で、全部一つの文章にして、ほんでそうだな、例えばこれを基にこれを使いながら、ほんとに一番簡単なやりやすいのはやっぱ順番に書くんですよね。生まれて学校行けへんでとかあるいは学校に行ってとか、なんかそれでああなってこうなってこうなってっていうのを年表、年表だけだとつまんないんですけど、

宮内:つまんない。それとあとその職業の、職業っていうかその運動の歴史だけでもやっぱちょっとつまんなくなっちゃうから。

立岩:そうだと思うんです。だからそういうところに、でもいっぺんこの年表的な何年に何したっていうので頭に入れといてというかそういうのはそういうので、目次みたいなもんですよね。そういうのを作っておいて、あと肉付けしていく。で、肉付けはたぶん文章書くよりも、こんな感じで誰が誰にいつ聞いてもいいわけですよ。聞いた話をそれぞれのときにこう起こして、でそれをこうバシャバシャと貼っていくと、それなりにいろんなことが周りにあった。それからやっぱり周りの人の話ね。やっぱりそういうこう群像劇っていうかな、大河ドラマっていうか、いろんな人が別れてはとか、別れたり消えていったりとか喧嘩したりとか、そういうのも書くと僕はいいと思いますよね。でもまあそれは力点はいろいろだと思うんですよね。

宮内:難しいですね。はまぐみのことでも一言で言えない部分があるかもしれないから、はまぐみとはどういうところで、どういう人たちがいて、で、またその時に隆さんはどのようにはまぐみの中で過ごしたかみたいなものは、やっぱりすごい大変なことになるなと。ほんとに細かいことをずっと調べていったらすごい大変とか思った(笑)。

立岩:大変なんですよ。大変なんですけど、大変だと思うと人間やらないので、ちょっとずつやる。

宮内:だから何年もかかりますよとか言って。

立岩:だから何年もかかる間に、その全部できるまで0にするんじゃなくて、ちょっとずつ足してく。それがコツですよね、こういうもののね。

宮内:そうですね。

立岩:僕はやっぱりこれ読んだら知りたいと思いますよね。その施設の規模であるとかどういう建物であったのかとか、そういうような、

宮内:どういう人たちがいたのかとかね。

立岩:うん、そうですよ。だからそういうときにやっぱ写真とか、図面とか、図面ないかもしんないですけど、そういうものがあると具体的にわかりますよね。ほんでね、写真とかをふんだんに入れたいけど、するとやっぱり印刷するときは金かかるんですよ、ね。でも、それこそホームページ、基本ただですから、[02:10:03]

宮内:「えらいことになるよね」とか言って。「私できないわ」とか。

立岩:いやいやちゃんとやると大変ですよ。だからちゃんとやらない、ちゃんとやらないっていうか、だんだん足してく。それのお手伝いはできますよ。だから我々のところのサイトでよいのであればそこを場所にしてやって。

宮内:でも先生のようにかなりこう、最初から障害者福祉みたいなことに関わってらしたんですよね、きっと。

立岩:運動ですね、どっちかというとね。それでずっとまあ、だからそういう意味じゃ付き合いは付き合いっていうか、

宮内:全国飛び回ってらっしゃるみたいですよね、お話伺ってると。

立岩:いやそんな、まあまあでも、どっか行くとき、こないだ仙台行ってついでに。全国集会とかだと全国から来ますやん。だからあれはすごい楽っていうか、だから仙台に行って沖縄の人の話聞いたり鹿児島の話聞いたり岡山の話聞いたり。そんでまあ全国実は飛び回ってるわけじゃないんですけど、そういうズルをして全国の人のお話を聞いて回ってるっていう感じですね。

宮内:なるほどね。

立岩:もう一人じゃ身が持たないので、ちょっと人を増やしていってということは今ちょっと画策中で、

宮内:それこそ学生さんたち、ゼミの学生さんたち、

立岩:そうなんですよ、大学院生。僕は大学院しかやってないんですけど、まあ大学院生とかそういうのやってもらってね、っていうのはほんと思ってます。

宮内:そういう方たちがまた社会に戻るっていうか社会に入っていけば、同じように障害者の方たちに対する目線っていうのが違ってきますしね。

立岩:僕、千葉大ってとこに2年いましてね、その時の学生さんにやっぱりインタビュー、それこそ立川とかって修さんとかインタビューさせるっていうかして、みんな高橋さんのことよう覚えてんのよね。そりゃあすごいみんなよく覚えてて、とかね。そういうこともあり、ただまあ根掘り葉掘りの話ってやっぱりある程度事情を知ってないとっていうのがあるじゃないですか。

宮内:そう、だからちょっとこう触れられたくない部分にも触れなきゃいけないことがあるかもしれませんよみたいな感じで、ちょっとお話するようなかたちになっちゃうんですけどね。そうしないと、ね、「いいよ」とかっておっしゃる(笑)。まあだからそこがすごく興味があるところなのでお聞きしたいなみたいな部分もあるのでね。そんなかたちですね。どちらかというと出生の時もものすごく興味あったし、なるほどね大変だったねみたいなところがあるし。皆さん障害者の方はやっぱり出生時に障害負われてる方ってけっこういらっしゃるみたいなので、

立岩:まあ脳性麻痺って基本的にそういうものですから。

宮内:ね、脳性のものってね。だからその時のあれとかもいろいろお聞きして、すごく興味深いなと。で、この方、二人の出会いとかっていうのもすごい興味深いなと思うし。それこそもう大変なところまで、触れちゃいけないなと思うところまで触れながらみたいなかたちになりますので、けっこう面白いですね。私は初めてこのヘルパーになってからいろんなこと知ったんですけれども。

立岩:もう一回フルネームで言うとどういう、

宮内:宮内ゆかこと申します。

立岩:ゆかこってどういうゆかこですか?

宮内:幽霊の幽に香りの香に子どもです(笑)。

立岩:幽霊はほんとですか?

宮内:ほんとです。気に入ってます。

立岩:幽霊の幽に香りの香に子どもの子。へえー、わかりました。

宮内:(笑)別になんにもしてませんので。

立岩:ここのヘル、え、何?

宮内:ヘルパーになって、

立岩:ヘルパーなんですか?

宮内:うん。もうほんとに初めて障害者の方っていう。障害者の方と接することになって。

立岩:長いんですか?

宮内:いやいやまだ始めたばっかりなので。

立岩:最近ですか?

宮内:最近なんです。

立岩:最近ってどのぐらい最近ですか?

宮内:6月です、この。

立岩:ああそりゃほんとの最近だ。

篠田恵:すごい最近。

立岩:そらめっちゃ最近です。

宮内:ほんとに最近です。で、もうひとかた重度の方がいらして、その方まだ34、5なんですけどちょっと統合失調症も持ってらして、初めてその方のところで。この方たちはいいんです。頭も普通でいらっしゃるし、お話も普通にできるので会話もできるので楽しいんですけど、もうひとかたはやっぱり統合失調が現れるのでもうメチャクチャになっちゃうときがあって。で、しかも全身動かないのでもうオムツ換えから全部リフトでやらなきゃいけないっていう。

立岩:両方あるっていう。

宮内:すっごく大変。

立岩:統合失調症うちにもいますけど、うちにもっていうか。まあ大変なときは大変だけど、大変じゃないときもあるけど。

宮内:うん、いいときはいいんですけどね、初めて出会った時びっくりしちゃって、だんだん「もうやだー」って思ったんですけど、やっぱり障害者の方たちのことを知らないっていうのもすごく大きいので知りたいなと思ったんです。そして話したらなんかちょうど隆さんが伝記書きたいっておっしゃるから。[02:15:23]

立岩:いや、書いてくださいよ、ほんとに。

宮内:ねえ。

立岩:まあ、さしあたり今日の話とそれからこれと、編集できるかどうかわかんないですけど、ある程度やってお見せする。それであの、アドレスとかありますか? ていうかどっちでもいいんで。あとでメールを直にいただければその時にアドレスがわかるからそれでもいいんですけどね。

宮内:そのほうがいいと思います。ゆっくりなさる。

立岩:あの、3人に1枚ずつ名刺を差し上げます。

宮内:立岩先生。

立岩:立岩と申します。

宮内:なんかお話伺ってると佐渡に、佐渡出身でいらっしゃるんですか?

立岩:そうです。新潟の出身ですか?

宮内:新潟っていうか上越、新井のほうです。

立岩:新井ですか。

宮内:雪深いところです。そこ出されますか?

立岩:ほんとどうやって帰ろうかなあ。帰ろうかっていうか新潟駅まで着こうかな。どういう手がいいかな。

宮内:あ、これ取りましょうか?

立岩:はい、ありがとうございます。

宮内:これですか?

立岩:はいはいはい。これね? Yahooね。はい、じゃあちょっと書き写します。

篠田恵:Outlookもあるけど、OutlookあるけどYahooのほうがよく見ます。

立岩:わかりました。これは大文字ですか? 小文字ですか? 小文字でいいんですよね、たぶんね。

篠田恵:小文字でいいです。

立岩:謝金の処理とかあるので、それ使わせていただいてやりとりさせていただきます。たぶん話し出すとまた再開するときりがないことになると思うので、いったん家へ帰ります。

宮内:あとあれですか、ちょっと質問したいなと思って。今、あのほら、『こんな夜中にバナナかよ』(『こんな夜更けにバナナかよ』)っていうのありますよね、あれはどう思われますか?

立岩:映画は観てないんですけどね、本はいい本ですよ。

宮内:ああ、じゃあよかった。あれはあの身障者に対するすごく新しい目線っていうか。

立岩:でもええ? あの本が出たのもずいぶん前だからね。

宮内:ああそうですか、ああほんと。

立岩:あの本、日本で最初紹介したのたぶん僕ですよ◇。
◇立岩真也 2003/05/25 「『こんな夜更けにバナナかよ』」(医療と社会ブックガイド・27),『看護教育』44-05(2003-05):388-389(医学書院)/2003/06/25 「『こんな夜更けにバナナかよ』・2」(医療と社会ブックガイド・28),『看護教育』44-06(2003-06):(医学書院)

宮内:ああそうなの。何年前です?

篠田恵:15年くらい前です。

宮内:そんなに前なの? 私、全然知らなかった。

立岩:そうです。2003年かなんかですよ。

宮内:やーだー。だから時代はかなり前ですよね、確かにあれね。

立岩:そうなんです。もうとっくに鹿野さん亡くなられてて。映画は大泉がやってるよね。

宮内:じゃあ立岩さんはあれに関わられていたんですか、わりと。

立岩:いや、直接に関わったわけじゃなくて、本が出て、著者からもらって、で、紹介したりとか。こないだ渡辺さんていう筆者、原作者に会いました。で、いい感じのライターですわ。

篠田恵:私も会いました。

宮内:障害者のことを知りたいって言ったら恵さんが『こんな夜中にバナナかよ』(『こんな夜更けにバナナかよ』)がいいよって言うから。

立岩:これはいいですよ。いい本。映画は観てないのでちょっとノーコメントですけど。

宮内:映画も観ました。本買ってまず映画の台本になった本を読んで、それから映画観て、これからほんとの本見ようかなと。


UP:20200111 REV:
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也 
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