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広島 幹也

ひろしま みきや

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last update:20220605

■年表

1953年9月1日
生。
1972年3月
新潟高校卒業。
1973年4月
明治大学政経学部入学。
その後、政経学部自治会委員長、学生会中執副委員長を歴任
学生運動の指導者として、様々な闘争を指導する
1978年3月
明治大学を除籍退学。学費の未納のため。
1980年4月
社会福祉法人更生慈仁会青松学園就職。
1982年
結婚。
1989年
反天皇闘争に参加。
1995年7月
CIL新潟(自立生活支援センター新潟)が設立。
1996年
青松学園退職
1997年4月
CIL新潟入植。
2002年
スペースBe、CIL新潟を母体として設立
2006年
スペースBe、「地域活動センター」として独立。
2008年
CIL新潟を退職。
2010年
・スペースBe、NPO法人スペースBeとして独立。
・NPO法人スペースBe理事長に就任。
2011年
スペースBe、就労継続支援B型に移行。
2012年6月20日
死去。

■資料

障害者問題との出会い
"私が「障がい者問題」と出くわしたのは、ひと回り違い(同じヘビ年)で産まれた妹が、ダウン症だったということからです。十二歳まで一人っ子でしたから、妹の誕生はそれはそれはうれしいものでした"(p.1)

"私が「障がい者問題」に関わるにあたっては、二つのターニングポイントがありました。一つは浪人時代に見たTV番組です。そして、もう一つは一九七七年の全障連第二大会です。"(p.2)

"友人の下宿でNHLの『七〇年代われらの世界』という番組を見た時です。[…]しかし、その番組の終わりに脳性マヒ者のインタビューがありました。障害で聞き取れませんでしたが、下に流れたテロップを読んで僕は愕然としました。頭をハンマーで殴られた思いで、何も言えずに固まってしまいました。"(p.2)

全障連〜会田きよみ
"一九七六年に大阪市立大学でその結成大会が行われ、翌年、明治大学で第二回大会が開かれたのでした。その時、僕はまだ明治大学に在学中でした。七七年と言えば僕が二四才の年ですから一体何年生だったのか?よほど勉強が好きだったと見えます・・・?当時、僕は政治経済学部学生会(自治会)の委員長でした。そして、ちなみに明治大学の全学部を網羅する全学学生中央執行委員会の副委員長でもあったのです。つまり、その全障連大会を受け入れる側であり、その中心的な位置にいたわけです。そこで初めて障害者運動と遭遇することになります。当時の障がい者運動、とりわけて脳性マヒ者の団体である「青い芝の会」の主張は強烈でした。その過激な主張と行動はニュースや運動的な噂では見聞きしていたものの、実際に接することでのインパクトはまた違ったものでした。"(pp.2-3)

"その大会報告集を読むと、分科会の発言者の中に新潟からの参加者がいました。「新潟外に出よう会」と記された発言者は、その内容からすると会田きよみさんに違いありません。喫茶「けやき」の会田きよみさんはご存じですよね。会田さんとは、まゆずみさんを通して、障害児の普通学校への就学運動で知り合い、もう三〇年近いおつきあいです。"(p.3)

"そして、その発言の中に「近所にある精神病院と重度精神障害者の施設があり、そこの職員にもっと障害者の立場をとらえて、その職業にあたれというような呼びかけをして何回か交流会を持ちやっと会をつくった」という内容があるのです。その施設とは十字園のことです。そして、「そこの職員」とは誰だと共いますか?それは、実はMさんなのです。"(pp.3-4)

成田闘争
"そして、一〇日未明には、その「報復」として臨時派出所(※ママ=山口)警備の警官一名がゲリラに急襲され死亡するという事態になりました。私は勿論その渦中にいました。"(p.6)

"二月の要塞攻防戦の後、三月開港実力阻止のために、要塞に籠城し徹底抗戦する部隊を支援の全党派で編成することになります。私は、自分もその一人に入るものだと思っていました。当然逮捕は覚悟の上、下手をするれば命が、ということなのですが、当たり前のこととして徹底抗戦部隊に入るつもりでいました。しかし、思わぬある事情から、その籠城メンバーから外れることになります。でも、それで良かったのです。もしその部隊に入っていたら、私は妹の死に目に会えなかったのですから…。"(p.7)

新潟
"前回お話しした通り、僕は明治大学を除籍処分となりました。ですから、僕は自分の学歴の話をする時は、主に「最終学歴は新潟中央自動車学校卒」ということにしています。"(p.11)

労働組合と障害者運動 "当時の私の目論見は、まず確固とした障害者運動を確立し(自立生活センター)、それを柱としてそれに連帯する福祉労働者の組合をつくること(福祉ユニオン)。そして、そうした障がい者運動と福祉労働者の共同した取り組みを地域政党(市民新党にいがた)が政策として、市政・県政に反映させて行く、という考えでした。
 その目論見のための体制作りは、おおよそ順調に進んでいましたが、「福祉ユニオン」の結成は、なんとも情けない事情で頓挫してしまいます。その理由とは、私が「市民新党」のメンバーであることを明かしたからです。社民党支持の自治労の幹部の皆さんには「市民新党」のメンバーが中心となる労組の結成はお気に召さなかったようなのです。私がそのことを明らかにした途端の自治労幹部の態度の変わりようといったら、ただ呆れるばかりでした。何と根性の小さいことか!自治労まであんな「セクト主義」だったとは意外でした。お粗末な話です。"(pp.21-22)

"後々考えれば、あれこそ私の”持ち場”であったはずの、「障害者解放闘争に連帯する福祉労働運動」を作り出すことに、私は、組合結成という目論見としては失敗してしまったのです。"(p.22)

"ところが、その立ち上げから1年ほど経った頃、介助スタッフと障がい当事者のとの間に軋轢が生じ始めたのです。その頃私は、頻繁に篠田家に顔を出し様々な相談に乗っていました。篠田家の二人の子どもの愛慈報幾円への送迎をうちの子どものついでに行ったり、まさに家族ぐるみの付き合いでした。しかし、その相談事の中身がCIL新潟の運営に関することが多くを占めるようになり、ついには「やめたい」とまで愚痴をこぼすようになてしまったのでした。こればかりは何としても思い止まらせなければなりませんでした。何といっても私の活動の中心軸をなすものだからです。
 これまで述べてきたように、私の福祉行かいへの参入は「福祉」をやるためではなく、「施設解体」を目的としたものでした。"(p.22)

◇広島幹也 20120922 「『世直し』の中心に『障がい者問題」を置いて −こしかたを振り返り、『未決の問い』に向き合う−」, 『広島幹也さんを偲ぶ』, 広島さんを偲ぶ会.

◇立岩真也 「0519〜0522・東京〜新潟・6:黛正」

■言及

黛 正 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)

「黛:それとね、あと、そのころは、だから90年代は、だから広島〔幹也〕さんがさ、あの人が健常者だったんだけれども、心臓、拡張型の心筋症でさ、一級の障害者になって、めでたく、「やっとおれ障害者になれたわ」ってふざけて言っていたんだけれども。だから、それで彼がスペースBをね、うん、頓所さんがいちおう立ち上げたけれども、スペースBを彼がやって、共同連的な発想でやっぱりスペースBを運営していけないかってだいぶ話(はなし)してたんだけども。それで新潟に斎藤縣三なんか来てもらって話をしたりとか、あと共同連大会やったりとかね。
立岩:その時はたぶん両方いらしたな。青木さんにもお会いしたし、頓所さんにもお会いして。でぼくその新潟で何して…、よく覚えてなくて、きのう自分のページ検索して。2000年になんか少し話させていただいてるんですよ。それは何か自立支援、その、CIL(シーアイエル)っほい名前のところ。で、2003年にもう一回、それはいま名古屋市立大に行ってる樋澤さんっていう、PSW(ピーエスダブリュー)ですけどね、もともとね。その人とかといっしょに、青木さんも出てたらしいんですよ、でその時が2003年で、でそのあとがだいぶ飛んで共同連の大会が新潟であった★。
★立岩 真也 2000/10/21 「普通に暮らす――利用者中心の福祉とは」,自立生活支援センター・新潟 講演会
立岩 真也 2003/05/24 「(基調提言+)」,第3回にいがた自立生活研究会シンポジウム「障害学は何を主張するのか」
★立岩 真也 2013/08/24 「共同のためにも国家を使う」,第30回記念共同連全国大会新潟大会 於:新潟市
黛:で2000…。2000年ごろ?
立岩:うん、2003に。
黛:2000年ごろってそのころは広島さんが生きていたんじゃないの? まだ。
立岩:そっか、もしかしたら会ってる。
黛:だから広島さんとね、広島さんとおれが呼んだのがそれが最後じゃないの? CILの名前で。
 ねえ、2012年に、ふーん。[01:25:21]
立岩:広島さんは2012年に亡くなってる?
黛:2003年に来てる?
立岩:うん、最初に新潟で話させてもらったみたいなんです。
黛:あ、最初ね。でそのあと何回か、2、3回来てもらってんじゃない?
立岩:2000、2003、それから共同連の時。
黛:共同連の時ね、うん、だから、三回ぐらいね、おれとか広島さんの関係で立岩さんの話(はなし)してもらおうっていうので呼んだ記憶がある。
立岩:共同連はだいぶ飛ぶんですよ。2013年とか。
黛:13年。」


UP:20220605 REV:20220821
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