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高橋 修

たかはし・おさむ
1948/07/25〜1999/02/27



 高橋 修(たかはし・おさむ)
 東京都立川市
 三多摩自立生活センター 代表・利用会員→三多摩在障会→
 〔聞 86.7.7 86.9.28 87.11.20〕『CILSニュース』5:4, 6:1,2, 8:2
 自立生活センター・立川代表 等々

◆高橋 修 i1997 インタビュー 1997/11/** 聞き手:石丸他 於:東京 [voice]:

◆立岩 真也 2022/08/31 「集め収め示す」,『遡航』002

立岩 真也 2019/12/24 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』,青土社,536p. ISBN-10: 4791772261 ISBN-13: 978-4791772261 [amazon][kinokuniya] ※

第9章 高橋修 一九四八〜一九九九
 1 動きを捉える
  1 その動きは今もおもしろい
  2 間にいるが片方に付くこと
  3 集め収め示す
  4 集め収め示す・続
 2 一九四八〜/立川で
  1 新潟・長岡から静岡を経て東京・立川へ
  2 七〇年代からの厄介さを継ぐ
 3 道を作る
  1 空白だったと語る時期に動いている
  2 有償ボランティア的なものからは逃げる
  3 やんちゃな部分を合流させる
  4 分裂した一方に付く
  5 落としどころができるまで、考える
 4 後を継ぎ、答を出し続けてみる
  1 やがて難しくなる
  2 青天井でいけなくはない
  3 足りているから、もっと余裕だ
  4 そのうえで基本を確認し譲らない
  5 供給・支援
  6 もらったから報いようとする

立岩真也『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術 増補新版』表紙

[表紙写真クリックで紹介頁へ]

第9章 高橋修 一九四八〜一九九九
 1 動きを捉える

 「高橋は一九八〇年代、九〇年代の運動家だった。本人が言うには八一年に始めた。九九年に亡くなった。その人は忘れ難い人だったと、多くの人が言う。  千葉大学の学生たちの調査報告書の終わりに収録されている、調査の後・報告書が出る前の座談会で、調査を一緒に担当した奥村隆が「この人に会ってこんな印象を持ったっていうふうな素朴なレベルの感想は何かないですか」と聞いて、当時学生だった上條達雄と石井雅章が話している。」

 […]

 6 もらったから報いようとする
 「高橋は、一九九九年二月十六日、腹部の痛みで病院へ。大腸破裂と診断され、手術。集中治療室から個室に移って、いったんもちなおすかと思われたが、翌朝、様態急変、心不全により二十七日に死去した★38。私は、高橋のことを書いた二〇〇一年の文章を次のように終わらせている。

 先に(○頁)引用した「説得しようとして、エネルギーがでてくるわけよ」の後、「そういう面じゃあ、さびしい人生だと思うわけよ」と続き、実際ほんとにそう思っていたと思う。彼はしょっちゅう人のことをけなしたり、皮肉ったり、自分のことを茶化したり、というよりまじめに落ち込んだりしながら、「義」のために、多分けっこう自分に感動したりしながら、しかし冷静に、二〇年に満たない間、活動した。  高橋は、苦労を知っている世代、怒りの大きな世代の人だった、だからもうあんな人は出ない、だろうか。私はそんなことはないと思う。「のんべんだらり」の人生はよい人生だが、実はこれもなかなか難しい。彼のように、考え迷いながら、怒りを奮い立たせて現実を変えようとやっていく人生は、大変でもあるがおもしろい。このことを高橋のまわりにいた人はみな知っている。だから高橋の後の人たちは必ず続くと思う。([200105:261-262])★39

 つつがなく生きるために力を使わねばならないことがある。それば面倒なことだが、それもまた楽しいところがある。それだけのことを言っている。そして、その様を描くことについて。「ただたんに書けばよい」とたしかに私は書いている([201909d])。実際そう思っている。ただそれは、最初に書かれるものの場合だ。また同じ短文で、一人の人について書いてもよいとも述べている。しかし、それも、やがて幾人かが交差したりくっついたり別れていく様をみることによって、この社会に何が起こってきたか、起こっているのかを考え、書くことができる。そういう仕事をしようということだ。
 そこにたしかにまず共感や感嘆があったりはするが、受け継ぐためにも、そこに構図を見出そうとする。二つある片方に加担してしまっていると中立を保てないとか言われることがある。しかし、そんなことはそんなにたいしたことではない。まず一つ、二つあるうちの一つを取ることに問題はない。むしろときにはその選択と、選択のための思考がなされた方がよいことがある。ならば、もう一つ、きちんと道を定めるためにも、また定まった道を行くためにも、公平であろうとする。まともに相手の論を考えようとする。それは必要でありまた可能だ。
 ものを書く人は、そうして、すくなくともそのように努力して、行動・行動者たちからもらったものにいくらかでも報いようとする。」


*2001年に現代書館から出る本に、立岩が高橋さんのことを書いた文章が載ります。出たらお知らせいたします。
 →出ました。
◆立岩 真也 20010501 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」
 全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]※
 ※全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.

 *この文章を使い大幅に加筆して、「高橋修 一九四八〜一九九九」を書きました。

*1999年5月1日の追悼集会での参加者の挨拶・発言が
 自立生活センター・立川のホームページ
 http://www2u.biglobe.ne.jp/~cilt/
 に掲載されました。ご覧ください。


  新潟県生
  自立生活センター立川代表,他,
  DPI(障害者インターナショナル)日本会議
  全国自立生活センター協議会
  等,様々な組織で,場で活躍されました。
  『生の技法』147頁(第6章の扉)で
  車椅子を口で加えて自動車の後部座席に投げ入れるというかつての特技を披露
  しているのは10年ほど前の高橋さんです。
  (ついでに:267頁(第9章の扉)の下の写真で阪神大震災のカンパを呼びかけて
     いるのが,自立生活センター・立川 前・事務局長,新・代表の
  野口俊彦さんです。)

19480725 新潟県長岡市に生まれる。
1954   就学免除となり小学校に入学できず、公教育を受けず自宅で独自に学習する。
1975   国立伊東重度障害者センター(静岡県伊東市)入所。
197806  あかつきコロニー(武蔵村山市)入所 和文タイプの仕事をする。(〜1983)
     自動車の運転免許をとる。
19810409 「立川駅にエレベーターを設置を要求する会」発足。
     イラストレーターの宇都宮辰範君(故人 骨形成不全症)と知り合い影響を受ける。
     金井康治くん(故人)の就学闘争支援と、東京都教育委員会との交渉に参加、都内の闘う障害者の人々と知り合いになる。
108106  あかつきコロニーで仕事をしながら、武蔵村山市内で自立生活を始める。[1997による]
19810601 立川市公民館講座から発展させた「障害を考える会」を作り、立川で障害者問題を考え、行動していく基礎を作る。
     「遊ぼう会」「食べる会」などを作り立川の障害者の人たちの交流を始める。
     全障連大会に参加を始める。
1982   優生保護法改正反対の運動に参加。
1982秋  介護保障運動として☆三多摩在障会を立ち上げる。
19830422 立川市のアパートに転居。
19830911 ☆三多摩自立生活センター(CIL・S)発足。世話人代表を務める。
1985   障害者の働く場をつくる会「ワークセンター」(国分寺市)を前沢昇さんとともに作る。
19860308 THE NEW YORK TIMESの取材を受ける
198604  立川市在宅障害者の保障を考える会「アス」設立。代表に就任。
19860407 THE NEW YORK TIMESに取材記事が載る
     (「THE NEW YORK TIMESに載りました」『CILたちかわ通信』第35号(1996年7月発行))
1987   ケア・センター「やわらぎ」設立。代表に就任。
198803  香港旅行(リハビリテーション協会主催)。
19880401 東京都の介護人派遣事業が脳性マヒ者に限定されていたものを全身性障害者に拡大する交渉に、全都在障会と奔走。
198806  自立生活体験ツアーで米国へ。
198808  ヒューマンケア協会 第1期ピア・カウンセリング集中講座を受講。
198809  公的介護保障要求者組合結成。書記長に就任。
1989   自立生活センター・ハンズ世田谷の運営委員となる。
1990   参議院議員 堀利和氏のブレイン集団の一員となる。
199006  DPI日本会議常任委員となる。
199006  『われら自身の声』編集長・事務局員を務める。
199010  「誰もが使える交通機関を求める全国行動」に主要メンバーとして関わる。
19910401 ★自立生活センター・立川(CIL・立川)設立。代表に就任。
199108  公的介護保障要求者組合の副委員長に就任。
199109  共同連大会を立川で開催。
19921122 全障連大会を立川で開催。
19921104 多摩更生園(現多摩療護園)オンブズマンを始める。
199306  JIL副代表就任
19930913 Nさんの都バス乗車拒否事件で、都庁泊り込み抗議行動
19941009 交通アクセス全国行動における京王帝都電鉄運転士の差別発言をきっかけに京王電鉄本社に対する抗議行動を行う。
199412  「障害者政策研究集会」実行委員会事務局長を務める。
19950526 JIL事務局長就任。
199509  公的介護保障要求者組合委員長に就任(〜199709)
19960401 ヘルプ協会[たちかわ]を設立。全国初の民間任意団体として立川市よりホームヘルプ事業を受託。
19970325 社会福祉法人・幹福祉会設立。理事長に就任。
19970827〜0904 英国に行く
199810  自立生活センター・昭島設立。代表に就任。
199812  自立生活センター・日野設立。
19990227 死去。

  ◆自立生活センター立川
  ◆全国自立生活センター協議会

◆高橋 修 19890925 「全障連第十四回全国交流大会に参加して」
 『季刊福祉労働』44:142-147

■聞き取り調査・報告書・等々より

◆1948〜
 「ひととなり…。うーん。1948年生まれ。あのー、25年間、新潟の3区、長岡市、田中角栄」(19860707)

 「ひらがなってどうやって覚えたのかな。「赤胴鈴のすけカルタ」で覚えたんだ。近所のこどもたち、同じ年代、ちょっと下くらいの子たちが遊びに来てくれたのね。カルタとるじゃない。だんとつ勝てて勝ち抜いてたわけだよ。あんまり負けるの好きじゃないし。とつじょ負け出したわけよ。なんで負け出したのかと思ったから、みんな小学校に上がったから、字で覚えてくるわけよ。こっちは絵で覚えているから。絵なんて大差ないわけよ、そんなに。向こうは字で追ってくるわけよ。「きょうも元気なあかどうすずのすけ…」で、「き」で入ってこれるわけよ。こっちは最後まで言わないとわららないわけよ。そこで勝てっこない。負けてくないなと思ってさ、それであいうえおを練習した。」

◆197806  あかつきコロニー(武蔵村山市)入所 和文タイプの仕事をする。

 「高橋さんとの出会いは、武蔵村山市にある「あかつきコロニー」で、1977年頃だったと思います。当然仕事をする為にやって来たんだけど、障害の重さから、誰が見ても”はたしてできるのかな”と思っていました。その時の仕事の内容は、今ではまったく見かけることもなくなった「和文タイプ」です。その当時は、高橋さんやら私ぐらいの障害者にとっては、職種として和文タイプしかなかったと言っても過言ではありません。そんな中で、高橋さんのタイプ机は足を15センチ位短くすることによって、上にあがらない腕をカバーしていたのです。そんな姿を見ていると案外出来るもんだなあ、と思いました。
 その後まもなく、仕事は順調に出来る事を証明したら、次に車の運転免許の取得に力を入れる事になります。」(伏見知久「高橋さんとの想い出」,『追悼文集』p.80)

◆1981

19810409 「立川駅にエレベーターを設置を要求する会」発足。

「運動的から行きゃさ、81年に駅の改善運動を始めたわけよ。エレベーター運動ってのがあって……。会(「立川駅にエレベーターを設置を要求する会」)を作って、はじめて障害者運動というのに自分が関わりだしたわけよ。」

大沢豊「それまで、立川では障害者運動はなく、僕も、国立・国分寺・中野・世田谷に行っていた。81年になってエレベーター運動の話がでてきて、高橋さんと出会う。立川を核に障害者運動ができるようなった。」(20000329)

大沢豊「エレベーター運動当初は、高橋さんはあかつきコロニーに入所していた。夜遅くまで会議で門限までに帰れない。門限を過ぎたため、高橋さんをかついで非常階段から部屋に戻った記憶もある。」(20000329)

「1981年になって、立川駅舎の改築の問題を「あかつきコロニーとして取り組もう」との話があり、下調べを御園氏がやり、その後をケースワーカーと高橋さんと私の3人で進めていくなか、高橋さんは精力的に外部の人とも接触を持ち、輪を広げていったのです。やわらぎの石川さん、鈴木さん、市議の大沢さんら。」(伏見知久「高橋さんとの想い出」、『追悼文集』p.81)

高橋「田舎の新潟で母が危篤にあり、その時電車で帰ろうと、駅に行ったところ、付き添いがいないとダメだと言われてもめたあげく、友人の車で行ったのですが間に合わなかったんですよね。」(19810714市長交渉での発言)

大沢「エレベーター運動は議会に誓願を出した。3万名を越える署名が集まり、これは今までになかった数だと思う。毎週土曜、駅前で署名、カンパ活動をした。車いすの人が10名くらいとその介護者が活動した。
 誓願は採択されたが実現までは遠かった。僕自身はエレベーター運動が長くなった方が、障害者運動が育つと思っていた。密かに(すぐエレベーターが)できなければいいと思っていた。」(20000329)

◆請願書「立川駅エレベーター設置に関する請願」
 (19810605提出 19811019立川市議会本会議採択)
 「…すでに西部線所沢駅ではエレベーターが設置され、国鉄町田駅、西武線小川駅にも設置が決定されています。しかし、こうした既設の駅舎にエレベーターを取りつけるのではなく、設計の段階からすべての人々に最も利用しやすい所にエレベーターを設置するという全国でも初めての試みを、この立川駅舎改築という大事業の中で達成するために、国鉄に強く働きかけ、また市当局が積極的に努力していただきたく右の私たちの請願をいたします。」(『10周年記念誌』p.30に引用)

◆1981 あかつきコロニーで仕事をしながら、武蔵村山市内で自立生活を始める。

 大沢「あかつきコロニーをでて、武蔵村山のアパートで暮らすことになる。村山に住みながら立川にきて、運動をやっていた。その後、立川に移ってくる。大沢さんが兄弟ということで保証人になった。
 立川で自立を始め介護者が必要になってくる。高橋さんは魅力的な人で、介護者は比較的集まった。制度が出来始めた頃で、介護者に交通費を払うようになっていた。介護料をどういうふうに扱うべきかは、最初は微々たるものだったのでそんなに問題にならなかった。」

◆19810601 立川市公民館講座から発展させた「障害を考える会」を作り、立川で障害者問題を考え、行動していく基礎を作る。

 大沢「エレベータがなかなかつかないという状況の中、「障害を考える」という公民館の企画があった。そこに、高橋さんを初めとする身体障害者や知的障害の親が集まってきた。そこで、いろいろな問題提起がされた。そこで集まった人たちが公民館の講座が終了した後、”障害を考える会”という会をつくった。障害と社会を検証していく活動するということで、まちのバリアフリーをチェックしたりしていた。その中で野口(俊彦)さんと知り合う。」

 野口「私は、エレベーター運動が一段落した頃、障害を考える会の最後の頃、高橋さんと知り合った。
 役所からは在宅は不可能と言われていて、施設をすすめられていたが、自分では施設にはいきたくなかった。当時ヘルパーにきてもらっていて、その人から三井さんや高橋さんのことを知り、私から高橋さんへ会いたいと電話をした。高橋さんは、自立?周年のパーティをホマレヤ(CIL立川事務所近くのレストラン)でやった時期、2回目の吐血をしていた頃だったような気がする。
 高橋さんは、女性問題や昭和記念公園反対、交通行動などの運動をやっていた。荒木、新田、薄羽・佐藤(練馬介護人派遣センター)、加部(新田さん介護者)さんらを中心に介護保障研究会を作っていた。それに誘われて高橋さんと一緒にいくようになった。
 すでに新田、荒木さんが厚生省と交渉して、生保他人介護加算、大臣承認ができていた。  都では都知事と話して作った脳性麻痺介護人派遣事業があり、行政の既存の制度としては緊急一時保護があった。
 高橋さんが介護保障に踏み込んだとき、練馬区や北区では派遣事業の区の上乗せがあった。それをどう使うかを介護者会議で使い方を決めていた。」(20000329)

◆1983?

 「駅の改善運動を通して、なんのためにやるのかな。障害者が、イコール施設じゃなくて、みんなといっしょに生活するために作ったわけでしょ。駅の改善運動を通して、自分は武蔵村山のアパートに引越したわけでしょ。81年の6月だったかな。それから、運動の中で、親が介護できなくなって施設を行かんきゃだめだとか、逆に施設を出たいという、いろんな人が応援に来てくれたわけよ。その中で、なんのために運動をやるのかなというのがあって、それはやっぱり駅の改善だけじゃなくて、やっぱり介護の問題やらんきゃだめなんだなあと、介護者確保しなきゃだめなんだあと思って、83年くらいから介護の運動に関わり出したわけよ。」(1997)

◆1984?

「野口:〔野口さんが高橋さん〕本人にあったのはそのあとですね。その、だから中央線点検の時が初めてぐらいの、ぐらいだったかな。で、その八代さんとの、いろいろとうまくいかないっていうことで、何度目かの胃潰瘍になってまた入院しちゃって、みたいな。
立岩:高橋さんが?
野口:さんが、うん。
立岩:そうか、じゃあ消化器系のことは、もうすでにそういう時も、
野口:そうですね、2回目ぐらいの胃潰瘍だったのかな、なんか…。」
※八代が自民党に移ったのは1984年。https://ja.wikipedia.org/wiki/八代英太

「野口:記憶に残ってるのはやっぱりいちばん、高橋さんの、JRと、当時国鉄との東京駅の交渉ですよね。東京駅まで行って、ちょうど新幹線の切符売り場の前で段差があって、「入れねえじゃねえかよ!」みたいなね。それでそこで座り込み始めて、みたいな。
立岩:それは何、当時の野口さんからするとちょっとびっくり感というか、はあった?
野口:びっくりでもなかったですけどね、すごいなっていう、気持ちがあって。私も座り込もうかどうかって悩んでたのを覚えてます。
立岩:で、けっきょくどうしたんですか?
野口:けっきょく、周りでほかの人と同じように見てた。
立岩:座り込んだのは何人かいたっていう記憶?
野口:いや、一人だけです。高橋さんだけだよね。
立岩:高橋さんだけ座り込んで。そっかそのスタイルはもうそのころから変わんなかった、終生そうだったって感じなんですかね。
野口:高橋さんに教えてもらったのは、「交渉は人数じゃないよ」って。うん。あの人は一人で切り拓いていく人なので。人が多くいると、逆に交渉ってのはテーマが曖昧になったりとか、話がまとまらない、散漫になったりしてくるので。
立岩:うんうん、そうかもしれないですね。[…]」

◆1985 障害者の働く場をつくる会「ワークセンター」(国分寺市)を前沢昇さんとともに作る。

 「あかつきコロニーってのが、基本的に訓練生なわけよ。訓練生なんだけれども仕事はさせられる。和文タイプなんか知ってるかねえ。昔は和文タイプだったわけでしょ。1字1字印字してたわけよ。それを例えば1日8時間労働やって、終わらなければ残業して。11月から3月なんて、とくに2、3月なんてのは年度末だから、みんな年度中にやらんきゃだめなわけでしょ。だから残業100時間だとかやったって、時間給は150円ぐらいなわけよ。なんか馬鹿くせえなと、あなたたちは訓練生なのよ、労働者じゃないんだよと言われながらも、ねえ、じゃあいいかげん仕事していいかってはなしじゃないわけよ。ねえ。責任だけは言われんだけど、賃金はでない。こんなのばかくせえねって、いつか自分たちで始めたいねって言ってて、友だちといっしょに作ったわけよ。」
 「やっぱり仕事がどんどんあるわけじゃないしさ。維持するのが精一杯だよね。ああこのままじゃあ維持するのが大変だなと、やっぱり自分たち障害者だけじゃどうしようもないじゃない。だから健常者の職員をなんとかしなきゃだめだねって話になって、いわゆる作業所として申請しようってなってきたわけよ。補助金が出るじゃない。補助金が出るんだけれども、障害者は通う人なわけよ。そこで健常者の職員が指導するというのにお金が出るわけでしょ。障害者には金は出ないわけよ。だから、障害者に金を出すようになると、こんどは通ってる人間が足りなくなる。何人以上通ってないとだめとかさ。」
 「(ワークセンターをたたんだ)直接のきっかけは、いっしょにやってる頚損のやつから。俺は生活保護に対してこだわりはぜんぜんなかったし、特別国家公務員という意識あったからさ、活動してるし、という。でも、そうじゃない人間もいるじゃない。経済的自立をしたいと言ったときに、この経営の中では無理なわけよ、構造上。給料払うほどの生産性はないわけよ。はっきり言って。きれいごとじゃなくて生産性の問題なんだからさ。金稼がなくちゃ。それでまあこういう活動ももうだめだなっていうのがあって、そのへんはもうがたがたね。生活形態も。維持するために1日10時間時間ぐらい働いて。駅の改善運動も大変だったけどね。」(1997)
 「障害者運動に関わるならば、一回、日本はなんたって資本主義だからさ、いっかい、資本主義の中でさ、見てたから関わった方がいいよね。やっぱり福祉業界というかこの業界にいるとさ、やっぱり変だよね。変になっちゃうよ。よっぽとの賢い人じゃないと。」



 「だから、空白時期があるわけよ。83年から、とくに86年から89年に関しては。それはちょっと。いまは話せない時期。いまはこの場では。そういうねえ、いやな時代というかさ。
 田舎にいる時の話をできるようになったというのは、しんどいとこを話せるようになったというのは、その部分を受容できるようになったから話せるようになったわけでしょ。プラスに変えられるというようなさ、気持ちになった時に話せるようになったということでしょ。よく言えばさ、傷が癒されたと。悪く言えば、やけくそになったと(笑)。でもまだ86年から89年は、まだだめなんだよ。」(1997)

◆高橋修 19860707
 聞き取り調査のテープ起こしより(テープ起こし:立岩)

 「だから自分の中でさ、優生思想のさ、そのー、はっきりしてないわけ。だから、その中で、できない。
大沢 いやー、そんな、すぐはっきりするもんじゃないと思うなあ。
高橋 最低限さ、青い芝というかね、障害っていうのが問題じゃないんだ、それを差別する社会なり、環境が悪いんだと。だから、健全者が変わりね、まちが変わり、変わるんだというのとさ、水俣みたいなかたちの中で、医療的な中で、このからだを返せというさ、そういう思想、考えかたの、そのなんていうかな、つきあげというかさ、その絡みがいまいちはっきりしないのね。それの中で今ちょっと今、いろいろ調べようと思っているんだけどね。それを頭の中で整理しない限りは、自分でもね、どこまで医療がいいのかっていうのはあるわけよ。ねえ、ある面ではさあ、羊水チェックとさあ、なんだ、フェニルケトンだか。ね、かったぽは直るからいいのか、あるわけよ。フェニルケトンだったら直るから、いいっていう感じのさ、羊水チェックはさ、あれは発見した時に、障害児とわかった時に、中絶する、障害者を抹殺する論だから反対なんだというさ。だけど、基本的には90何パーセントって言ったって、障害者が産まれないための社会を作るための一つのチェック・ポイントなわけでしょ。その、関係っていうのが自分の中の頭で整理できないから、なかなか対外的に話できないっていうね。」

◆19860928
 聞き取り調査のテープ起こしより(テープ起こし:立岩)
 「あのほら、東郷健って知ってる? 雑民党のさ。あれがさ、言ったの。弱い者はね、なんだかんだとね、論理を言ってね、分裂していく。でもね、強い者はね、欲、肉というかね、権力とかね、金の力とかね、その点で一致する。だからね、分裂しないと。だからね、言い方が違う、考え方が違う、ね、あいつは気にくわんていうだけで分裂していく。なんにもないからやってね。いいこと言うね、あれ、おれ、語録に残しておこうかなって(笑い)、ほんとに思ったね。その話聞いてたらほんとに思ったね。考え方が違うだけで分かれていくんだもん。考え方なんかみんな違うよ。安積さんと俺だって全然違うよね。なに言ってんだ。」

◆198607〜09

 この時点でヒューマンケア協会の活動が始まっている。一九八六年六月一日発足。  サービスの提供について、九月をめどにしていること、会員は五〇人からを目指しているけれど、介助サービスの利用者十、提供者十で始めることを考えていた。(この聞き取りに同席していた安積、他)。

 「あそこの問題点はさ、安上がり福祉といかに調和するかだね。あのパターンだとさ、ひじーょうにこわいね。
 問題性を認識している部分がそこにいて。ところが、だんだん人の輪が広がることによってその辺がぼやけてくるわけ。そういうときに、まったくその分ばかりいいとことられちゃうなという意識が、持ってるうちはいいけど、その部分が一人歩きしだすと。
 俺なんか、もうずっともう、3年くらいそのことを考えていたんだけども、なんていうかな、決断がつかない、うちにずるっと3年間いたわけじゃない。そのなかで、ちくしょやられたと思うところと(笑い)、その中でひがみ半分、があるからさ、日本の安上がり福祉に協力するなんてよくないとかさ、いや、俺もそう思ったけれど、ぐっと引き締めたのは正しい路線であるとかさ、自分に対する納得をさ、いやおかしいな。」

 この形態では、介助者が一時的に集まっても、やめていってしまうことがあるのではないかと心配していた。
 「基盤となる金がなければさ、ヒューマンケアだって成り立たんわけじゃない、ねえ。あの制度だけで、もしかさ600円でもなんでもやってやるとしたらさ、お金持ちの障害者しか自立できないわけじゃない。そうでしょ。お金を行政に対してさ、一番嫌な役だからさ、行政に対してさ、金出せの、ねえ、一番しんどいとこじゃない。その一番しんどいところを逆に言うならば、それがあってはじめてさ、行政の障害者に対する対応ってするわけじゃない。…ただ、お金があります、それに対してボランティアじゃなくって有料介護者を紹介しますっていうだけならさ、なんにもないわけよ。安上がりにならないように、施設にいるだけの金が必要なんだっていうことを行政にぶつける、その部分の活動がなければさ、ほんとに安上がり福祉になる。だって行政の腹痛まないわけだからさ。…時給800円か900円になったってさ、週5日働いたってさ、14・5万にしかならないわけじゃない。そういう面じゃやっぱり、金取り虫だって言われたってやっぱりそうせざるをえないというかさ。」(19860928)

 「きのうも横浜のヘルプ協会とかね、登録した人間が1年で3分の1やめたんだって。やっぱり600円ぐらいじゃやっぱりきついわけよ。それでどういう理由で、みんながさ、やっぱり500円じゃやるわけねえや、600円じゃやるわけねえや、でもそれだけじゃねえんだよっと。そういう1点だけを批判するじゃなくって、どういうかたちでそうなっかたのをやっぱり自分たちの側でもやっぱり研究しなきゃ。ただ、ざまあみろと、そりゃそうだよとって自己満足じゃしょうがいないって言ったのね。それなりの原因があるわけだからさ。それは話を聞いて研究してさ。お金出しても来てほしいという人間はぼんぼん増えているってというのね。需要の方は。ところが供給が間に合わない。…ヒューマンケアだって、50人なら50人になった時に発足すると言ったらさ、50人集めた、発足した、やめる人の補充に追われるよ。
 おれなんか最近さ、ヒューマンケア的なものも含めてね、三段階方式で、支援、ヒューマンケア方式、それに専従の三本柱的でやろうって言ったら、みんなに白い目でみられちゃったりして、安上がり福祉に協力するのかって言われて(笑)。ちょっと孤立ぎみななのね。でもおれは言ったのね、やっぱりね、障害者に対してね、いろいんなメニューを出してね、どれが一番いいのかを…。その中に一番需要があるところがやっぱりおれたちがやるべきところじゃないのかって。」

◆1987

 石川「やわらぎを立ち上げるにあたっては、専従介護の人たちから、ものすごいいきおいで、糾弾されたんですよ。でも、ボランティアでは介護者が続かなかったっていうことと、それにその時にね、高橋がずっと精神科に通っていたんですよ。で、私はずっとにしの木クリニックに連れて行ってたの。どういうことかというと、ボランティアの人たちがいなくなってきたということが一つ。もう一つは、専従介護人とのやりとりで疲れてきているんだよね、高橋が。専従介護人と高橋のどっちが介護の中心なのか、わからなくなってきているわけよ。
 高橋は、エレベーター運動をやり始めて、地域に出てきた。そして、いろんな人たちと広がりができて、夢のような時期、高橋としてはのってきた時期があった。だけれども、安定的に自分の生活が回るような状況になっていないわけですよ。地域に出てきて、専従介護人やボランティアで、自分の生活のペースをなんとか作ってきたけれども、活動もしなきゃいけないし、ボランティアの人たちや専従介護人の人との馴れ合いっていうかな。だから、自分の生活のペースと専従介護人のペースとの折り合いをつけるのに、ずいぶん疲れてきて、という状況の中だったんです。
 そして、とにかく人が確保できなくて、その時、高橋は胃潰瘍をわずらったんですよ。で、精神的にちょっとおかしくなってという状況の中で、なんとかきちんと人がくる仕組みをつくらなければ、どうにもならないねって、高橋に言って。
 その1年前に、ヒューマンケア協会が、有償・有料のサービスを始めていたの。それで、高橋と私で中西さんのところに行って。それでやわらぎをつくったわけ。私はヒューマンケア協会には、2・3回行ったかな。で、高橋は高橋の思いがあって、私は私で仕組みにしないとね、と言って。だけど、やわらぎをつくるにあたっては、障害者をとりまく人たちにずいぶん糾弾されましたよ。それで、すごく悩んだ。
 ヒューマンケア協会の他にも、練馬のくらしの助け合いという会にも見に行って。それで、私と高橋くんと相田くんとでお金を出し合って、マンションの一室を借りて、準備会を立ち上げたんだすね。というのが、本当のやわらぎのはじまりですね。」(『10周年記念誌』p.42)



 「なんだかんだ言って中西さんの影響は大きかったね。行くようにと言われたのは、こういう活動もあるよって遊歩に言われて行ったんだけどね。活動が自分では見えなくなって。制度とかぼんぼん勝ち取ってきたよ。前は脳性まひだけだったのが全身性に変えてきたしさ。それはテーブル叩いてさ。それは一番きびしい、みんなおそれられた。…」(1997)

 「一番人生荒れてたころだよね。86年ぐらいは荒れてるというか。89年にヒューマンケア協会に行って、中西さんに会って。共鳴するのは、要求運動は今でもやってるわけだけれど、サービスなんだというのね。障害の種別をこえてサービスを提供するんだと。サービスは、よりよいものを作っていかなければ買い手はないわけだからさ。中西さんみたいに理論的には言えないけどさ、考え方わかるじゃない。いやなものはこっちも売り込めないし、買い手がないわけじゃない。」(1997)

 「その運動形態っていうのは、全部個人なわけよ。……まあ恩義の、義理人情の世界だから。……だから、個人の家に相談に行ったりするわけよ。そういう中では、個人の考え方って色濃くでるわけよ。その中で、俺も行き詰まって。その時に、たまたま、安積さんに紹介されて、ちょっと顔出してみなよっていわれて、ヒューマンケア協会に行って。どうもアメリカかぶれは好きじゃねえなあと思いながらも、ね。まあ、十あるもんなら、三、四はいいところがあるわけよ。外来語でねえ、プログラムね、障害者が個人の家に行って飯の食い方、介護者の云々やるよりも、集団的にやらなきゃダメだなあと、そう思ったわけよ。」(『10周年記念誌』p.120)

 「集団的にやらなきゃダメだし、その中で障害者運動を一緒にやってくれる仲間が欲しかったわけよ。仲間、後輩を育てなきゃダメだというのがあった。自分がガンガン七年間やっても、八年くらいやって体壊してやってもさあ、仲間がいるかなあと思うと、いないよ。そんな若い人がいなかったわけよ。」(『10周年記念誌』p.121)

 「むかしの東京の活動って、介護もそうだけどみんな全部個人の関係だったのよ。みんな関係性って、なんていうかな、個人のめんどうみなのよね。個人的な応援体制なのよ。遊歩だってあるよね。遊歩にしたってくるうららだって。そういう面じゃあうららだってそうでしょ。おれ、個人のネットワークっていうのは意味がない。意味がないというか、それでは限界があるんだと。組織としてきちっとやるべきだし、個人としての関係じゃなくて、自分がいつまでもやれるわけじゃないから、いいとこもわるいとこもみて、障害者自身育ってほしいな、それは個人の運動でどんなにがんがんやったって無理だと思ったわけよ。遊歩がどんなに個人的に障害者に関わったって、個人で終わっちゃうわけ。そうじゃなくって組織として関わることによって、高橋組が形成されることがないわけよ。国立って基本的になになに組です。安積組、三井組、なになに組でしょ。自立生活運動ってのはそうじゃないわけよ。
 中西さんに言われたときに。仕事として割るんだと、割り切っちゃうんだと、全体的な、実際問題として、個人的魅力のある人間なんか介護者確保できるわけよ。どんなかたちでも。ほんとに自己主張できない、知的障害があるとか、精神障害があるとか、そういう人たちが、サポートがなきゃ自立できないんだ。一人暮らしできないんだと。それは個人では無理である。そういったときに、中西さんのその、サービスという。それと障害種別をこえて応援するんだというところ。」

◆1989?

 「修さんはその頃、国分寺市のワークセンターという作業所の副所長という立場でしたが、うまくいっていないらしくウツウツとした様子でした。…
 半年ほどたって……しばらくたってから……「障害者の情報センター的なものをやりたい」といわれ、……
 しかし、あちこちまめに動きまわるわりには心の整理がつかないらしく、いつまでたっても事務所づくりがスタートしません。……彼の方はあいかわらずウツウツが続いていたのです。……
 初めの情報センターは、世田谷のCILの立ち上げに刺激をうけたのか、いつしか自立生活センター構想に姿をかえていきました。」(堤秀明「十年前の修さん――『CIL・立川』設立裏話」、『追悼文集』pp.68-70)

◆1991 第1回自立生活プログラム

 高橋さんがリーダー。野口さんも菊池さんも参加。


◆1993 Sさんの自立を支援

 野口「施設も親も全部反対という中で、Sさん自身も何度も自立に挑戦して失敗したりして、反対する人は、あんたは絶対に自立なんかできないと、どうせ自立生活センターに行ったって、自立できないし帰ってくるだろうと言われていた。実際に本人が自立っていう選択をした時に、猛反対が出て。そういった中で、自分たちはどの立場に立つべきなのか、一歩間違うと誘拐罪になりかねないという緊張状態におかれた時に、どうするのかと。やっぱり、当事者の側につくべきだと。その時、事務局会議で、高橋さんが、ここで自立生活センターとして、組織全体の命運をうけてでもやるべきだ、と言ったんです。実際にSさんが自立しはじめて、Sさんもがんばったし、お互いに支え合うことができたのが、 自分たちの大きな自信になった。」(『10周年記念誌』p.107)

 高橋「きっとよそでは見捨てるだろうなあという感じの動きの中とかも含めて、センターの中でちょっと違うなあと思うのは、Sさんの自立の時っていうのは、結構、勝負どころだったと思う。…刑事事件になったら、組織として致命的になる可能性があるわけよ。そういう面があったよね。だから、気持ちの中では引きたいっていうのがあったよ。でも、引けないな。引いたら、自分は何のために、1981年から障害者運動にかかわってきたんだというはなしになるわけよ。で、そう、やっぱり引けない、と思ったよ。だから、Sさんが出てきたのは、それはもう喜びであって。そりゃあ、もう、自分のあらゆるものを使って支援したから。弁護士に相談したり、県から福祉事務所に何とか指導してくれって言ったり、厚生省に電話入れたり。あらゆる交渉の内容は全部テープとったよ。」(『追悼文集』p.127)

◆小山雄一郎・石井雅章 1994 「3つのCIL」より
 (千葉大学社会学研究室『障害者という場所――自立生活から社会を見る(1993年度社会調査実習報告書)』第3章)

 このような社会、とりわけ行政に対する明確な志向性は、具体的な行政との関係で見てみると、組織の各事業のための助成金の獲得において顕著に見られる。CIL立川は、今回訪れた各センターの中では、最も多額の助成金を市から受けている。この背景としては、立川市の組織に対する理解が得られたことは言うまでもないが、その理解を得ることができるだけの綿密な理念や計画を組織が持っており、それに基づいた活動を行なってきたこと、そして行政側を説得できるような交渉のテクニック(もちろん内容も伴っている)を身につけてきたことが大きい。代表の高橋修さんは次のように語る。

 「ある面で行政の下請け的なことをやっているわけよ。うちの介助時間が年間2万5千で、立川市のヘルパーが全部やったって、きっと1万時間いってないよ。ほとんど5、6千時間だと思うよ。で、9人の市の職員雇うのにどれくらい金が必要か、ていうような話を、そうするとうちの方が安上がりだから、っていう話なんだけど、何気なく言うの、向こうに。だから、『ヘルパーを増やせ!』って言っておいて、『いや、ちょっと』って(向こうが)。(そうしたら)『じゃあ、何で増やせないんだ、うちらの介助をどうやって増やしてくれるんだ』って言うと、『いやあ、金出しますから何とかしてくださいよ』って向こうから言うよ。それを『こっちでやるからこの辺の金くれない?』って言っちゃだめなの。だから高く売らなきゃ、自分たちを(笑)。」

 ……

 そして交渉のテクニックも必要だ。高橋さんはCIL立川の設立以前から立川駅へのエレベーター設置要求運動にも関わっており、そこで積み重ねてきたノウハウを持っている。
 「交渉をするときに、ぶっつけ本番で、『さあ、殺せ』でやっちゃいけないって。するっていうと、どういう流れのなかで、交渉をするか。『今日は、獲得点はここである』、と。のんべんだらりで、『みなさん今日は』で、『僕たちこれの要望書を提出します』じゃ、そういうのは、ほとんど、将来に見込みのない連中の自己満足的なものです。本当に成果をとろうと思ったら、今日の落とし所はどこだか、頭に入れておかなければ。落とし所がないときは、落とし所ができるまで、自分で考える。で、一応、予定として、計画をたてておかなければならない。」

◆1999

 「その世界に入っっちゃうわけよ。こういうあれがあるから、こういうふうにこうやってこうやっていって、やりたいっていうわけよ。そういうときは、説得しようとして、エネルギーがでてくるわけよ。…そうするのが、世のため人のためじゃないけど、みんながよくなるんだという信念なのよ。自己満足と言われるかもしれないけど、そういうのが出てくるわけよ。…説得したいというか、到達点がさ、これから乗ってくるだろうとかさ、それが見えてくるわけよ、すーっと。その到達が見えてくると結集するわけよ。エネルギーを。どうやったらいい、どうやったらいい、どうやったらいいって…。」(1997)

◆石政信一郎「働く「声」を聞く」より
 (千葉大学社会学研究室『障害者という場所 ―自立生活から社会を見る(1993年度社会調査実習報告書)―』第8章)

【インタビュー:Dさん(CIL立川代表)】
質問者「一般の企業に行く考えとかはなかったですか?」
Dさん「あまいっ!(笑)行けるものならいいけど、雇ってくれると思う? それはそうでしょ。だって 1.6%の雇用率を達成していない企業、今年企業名出なかったじゃない。実際の雇用率、今年度で1.34だったかね。達成してない会社で、日本経済新聞に障害者のみなさん働きたい人来て下さい、なんて応募出しても、積極的な努力をしたということで企業には好評価、免れるっていうことがあるのね。……上肢に障害がなければね、組立班とかね、オペレーターとかっていうのは、就労場面があるんだけれど、脳性麻痺だとか、上肢に障害があるとか、アゼトーゼがあるとか、いわゆる知的障害があるとかね、知的障害でも、3度とか4度とかならいいけれども、2度とかそうなったらほとんど就労場面がないでしょ。だから、今全国で、20何万人の、働きたいなあと思う重度の障害者がいるんだけれども、なぜ残っているかと。働きたいと職業安定所に登録している人が20何万人まだ働く場がなくているわけだよ。働きたくても、『あんた無理だよ』と言われるのが、ほとんどの職業安定所の今の状況なのね。『更正相談所で働く能力があるかないか判定してきて下さい』。ところが、更正相談所の中に行くと、『あんたは知的障害があるからダメだよ』といって、働く力がありませんと。一般就労では、ほとんどそういう…。アゼトーゼで、あんたは無理だよ、っていうかたちになる。だから、そういう面からいけば、そういう人っていうのは、何十万人まだいる。だから、そういう部分からいくと、一般就労なんて、私にはほとんど不可能。その上に就学免除じゃねえ。健常なところは口だけとかね。顔と口だけ、これじゃあ無理だよね。俺が、雇用主だったら、こんな口の悪いやつは…。」
質問者「障害者の労働なんですけど、数人の人に話を聞いてきまして、やっぱり、お金になんなくていいから、やれることをやろうっていうふうに考えているっていう方向なんですけど…。」
Dさん「え、どんな奴がそんなこと言っているの? そんな奇特なこと言う。」
質問者「かっこいいことですよね。」
Dさん「かっこいい、かっこいい。(笑)」
質問者「本音のところどうです?」
Dさん「本音のところはやっぱり、それは少し、働く意識とか、働く意義とかいってさ、それはもらうもんよ。もらう量よ、それはやっぱりそうだと思うよ。」
質問者「お金ですかね、やっぱり。」
Dさん「いやまあ、でもね、例えが悪いけれども、こういうのも1つの仕事なのね。家でわーとテレビを見ててね、『あー、6時だなあ、みんな飯を食う時間だなあ。』と思ってね。これは俺の意見だよ。俺の関わっている連中からすると、『お前は裏切りもの』って言われることもあるけれども。『あー、今日、5時に仕事が終わった』と。で、帰りにみんなでビールの一杯でも飲もうかとかさ、家に帰ってさ、ビールをくーッて飲んだときに、『あー、おいしかったな。』と、そういうことと、テレビずっと見てて、時間だから、ビール飲もうかなっていった時の、どっちがうまいかっていうのは、これは、ゴロゴロ…、まあ、ゴロゴロもいいよ。それも仕事で、労働と認めることも、俺もあるけれど、個人の気分としては、やっぱり、体動かして、いいじゃない、一日、外でさ、車椅子、電動でぐるぐるまわっていたっていいじゃない。それが仕事だ、って。立て看板付けてまわったっていいし。そういう仕事あるじゃない。夜ね、いかがわしい…(笑)あるんだよね、電動車椅子、こうやってぐるぐるまわってさ、いいじゃない。あれは生産性あるとはあんまり思わないもんね。」
質問者「能力的にも同じようなもんですよね。」
Dさん「そうでしょ。ティッシュペーパー渡したっていいでしょ。あ、でも受け取らないっていう奴もいるか、気持ち悪いあんな手じゃとかいう奴(笑)。だから、そういう面でさ、あれやってさ、ああ終わったなって、思ってさ、で、ビールでも、コーヒーでもいいんだけどさ、ずっと家にいてさ、『なんか俺、なんのために生きてんのかなあ』って思いながらビール飲むのとは違うでしょ。これは、気分が、でも、これは自分のなかで思うことであって、人に『おまえは、働け、これは有意義なんだって、だから、やれ』って『でも、8時間働いて、でも、給料(月給であろう)は5000円だよ』って。『ああ意義があるかな』とは…。」
質問者「体を動かしたあとのビールはうまいっていうわけですね。(笑)」
Dさん「そりゃそうだよね。」
(中略)
質問者「健常者が例えば10の仕事をするときに、障害のある方が半分しかできなかった。とすると、やっぱり、社会に貢献したといったら、負けちゃうわけですよね。」
Dさん「だから、ものを生産する限りから言えばね。生産性じゃない労働っていっぱいあるわけでしょ。」
質問者「あ、そういうのを含めて。」
Dさん「だから、パソコンならパソコンをバーって打ってると。Jさん(Dさんの知人で、自宅でワープロの入力をしている方)かなんか、行ったらわかると思うけれども、Jさんが打つのと健常者が打つのとじゃ、スピードが違う、2倍、3倍違うわけね。……だから、特に生産性っていうかね、ものを作り出すとか、印字するとかいう部分で、比較されると、きつくなるし。」
質問者「あと、スピードもありますよね。」
Dさん「そうそう。電動車椅子の競走なんていいと思うんだけどね(笑)。俺ね、考えたんだよ、車椅子の競輪みたいのをやろうかなと思って(笑)。で、ハンデをつける、タイヤ5本付けるとかね。頚椎(損傷)の奴にはなんにも付けないとか…。馬にだってあるじゃない、砂袋いれるだとか、ハンデ付けるじゃない。それとおんなじで。それを賭博にやってね、ひと儲けできないかなって(笑)。これは、あくが強すぎて誰も賛同する奴はいないね。ちょっとえげつない(笑)。でも、障害者プロレスってあるんだよ、知らない? この間大阪でやってたよ。この間大阪に行ってたのね。もう5つの会こなして頭痛くなっちゃった。で、書いてあったの。障害者プロレス。障害者がプロレスするわけ。そういうの見に行く奴の気がしれない、あんな、みにくい姿見てさ、金払って行くなんてさ(笑)。だから、結構、競輪じゃなくて、車輪とかね。絶対俺は当たると思ってるんだけどね。」
質問者「で、あの、そろそろまとめに入ろうと思うんですけど。(一同爆笑)…」

◆ 「座談会――調査を終えて」より
 (千葉大学社会学研究室『障害者という場所――自立生活から社会を見る(1993年度社会調査実習報告書)』

奥村 どうだろう、この人にあってこんな印象を持ったっていう風な素朴なレベルの感想は何かないですか。
石井 立川のスタッフのAさんに会って、初めて障害者の人に圧倒されました。自分たちが8人でインタビューに行って、1対8で、1が勝つんですよ。障害があることを感じないとかじゃなくて、迫ってくるんですよ。そのぐらいのパワーがある。やってる人によってCILのノリも変わるし、それは当事者の側もわかってるんじゃないか。
上條 僕がAさんに会ったのはアポ取りの時でした。その前に町田に行ってスタッフの人と会ったんだけど、すごく穏やかな人でお互い恐縮して「うちでは自立生活に重点を置いてるんですよ」、「自立生活の体験室があって、こういう場所を設けて障害者の自立生活に役立ててるんですよ」って言われて。そうなのかと思って、立川に行くと、Aさんが電話でがーっと話していて、どこか行政の人と話してたみたいだけど、ちょっと間が空くと電話で話して。「部下のことをさん付けで呼んでやがる、なってねえ」とか言って、また電話して。こわい人だなあと思った。(笑)

 ……

立岩 今回の調査で面白いのは、一つのことをずっと前のほうに押し出してるっていうところだけが面白いんじゃなくって、ちょっと読んだり聞いたりしたその時点ではわかんなかったかもしれないけど、例えばテープを起こしてみて、きっちり読んでくと、すごく複雑なことっていうかなあ、何か出てくるって気がするんですよ。
 で、Aさん、まあパーソナリティーの話をしてもしょうがないんだけど、わりと強烈な性格だけれども、彼は繊細な人でもあるわけですよ。例えば、働くってことについて彼いろんなことをしゃべってて、すごく、両方のこと考えてるっていうかな。つまり一つには、ちゃんと働ける、だけどこの社会の中で働けないのがおかしい、もっと働けるようになんなきゃっていうことがある。それと同時に、でもやっぱり、じゃあみんな同じように働けるかっていうと、それはそうじゃなくって、いろんなことを整備しても働ける度合って人によって違うわけですよ。で、そういう人のことも知ってるし、間近に見てるし、考えて来た、それはちょっとじゃなくって10年も20年も考えて来たと思うんですよね。両方を見ながら、何を言ってくかっていうことを、考えてるんですよ。実際に読んでみるとね。そういう面白さっていうかな、それはものを考える面白さっていうことでもあるんだけれども、そういうのが、わかってくれたらよかった。Dさんっていう人もね、彼もある意味ではすごく能力あるわけじゃん。英語なんて僕なんかよりずっとできるしね。翻訳なんかやってるわけで。だけどやっぱり、自分が能力があって、そういう人がどんどん雇用されてって、っていうことだけ考えてるわけじゃなくって、同時にもう一つのことを考えてる。
 どっちのことを言おうか、どっち向いて考えたらいいか、って迷うっていうかなあ、考えなきゃいけない場面っていうのが、本当は、働くってことの他にもいろんな場面にあると思うんだけど、僕らは普段あんまりそんなこと考えない、だけどああいう人達はいろんなものの境目みたいな所にいるからすごく繊細になる。現実に対して繊細になってくるっていうのかな。そういう面白さが、僕はあると思う。それは面白いことだなと思うんですよね。だからまあ、逆に言うと、この人たちがやってることは大変なんだけどね。そういう気が一つするな。

 

■1997?

 *以下で組合とは全国公的介護保障要求者組合

           委員長辞任に向けて一言

                             高橋 修

 1988年の組合発足以来、介護保障運動に全力で取り組んできた。この間、一時でも重度障害者の事を忘れたことはなく、そのための介護保障を求めて、まず立川で登録ヘルパー制度を勝ち取り、その後、都内から全国へ制度が広がるよう努力してきた。現在、一定の条件整備ができた時点で、後進へ道をゆずりたい。

 何故、自立生活運動に共鳴したかを以下に述べる。
1.障害者自身の活動である当事者性。
2.障害種別を越えて、サービスを提供する。
3.個人の運動ではなく組織として活動ができ、民主的運営ができる。また、若いリーダーを育てることが最も可能な体制であると確信している。

 今後に向けて、草の根の運動を大切に、自立生活センターの活動の中でどんな重度の障害者でも、地域で生活をしていける社会を作っていきたい。そのためには、全国的に自立生活運動しかないと感じている。
1.介護保険に向けて、障害者側の提案を含めた全国的な展開を目指したい。
2.これからは人的介護保障の体制整備が必要であり、24時間必要な人には必要な量の人的介護保障を求めていく。
3.国の動きに対抗できる障害者当事者を中心に、草の根の全国ネットワークの組織化に全力で取り組みたい。

 最後に、9年間私を育てていただいた先輩の方々及び仲間の皆様へ、御礼申し上げます。

 

■19999227

謹 啓  余寒の候,ご清祥のことと拝察申し上げます。

 突然でございますが,当団体代表 高橋修儀去る二月一六日
の朝,急激な腹痛で国立病院東京災害医療センターに運ばれ,
一時持ち直しましたが,二月二十七日六時十二分,心不全のた
め帰らぬ人となりまりした。享年五十歳でした。
 何事にも精力的に取り組み,最期までエネルギー溢れる日々
を送りましたので,それはそれで充実した人生であったと思って
おります。
 生前頂きましたご厚情に心より感謝し,謹んでご通知申し上げ
ます。
 なお,故人の意志によりお花料(香典)等はご辞退申し上げ
ます。

 記

故人の意志により,キリスト教による送別の会を内々にて先の
通り相営みます。
一  日時 前夜祭(通夜) 三月二日(火曜)午後六時〜
        安息集会(告別式) 三月三日(水曜)
                  午前十時半〜十二時半

場所 セレモアつくば 玉川上水会館
    東大和市桜が丘二−二〇八−一
    TEL 〇四二(五六二)一一二一
    立川駅北口下車。モノレール乗り換え
    玉川上水駅または桜街道より徒歩五分

  一九九九年二月
             喪主 高橋 義一郎


一 自立生活センター立川を中心とした関係団体の皆様とは
後日,故人を偲ぶお別れの会を,盛大に行いたいと思います。
日時・場所等については改めてご案内申し上げます。

                  自立生活センター・立川
                    事務局長 野口 俊彦

■19999227

 Osamu Takahashi passed away.
Sat, 27 Feb 1999 16:22:11 +0900
From:JIL
To:研究所/長瀬 , t-oka@gb3.so-net.ne.jp,
tae01303@niftyserve.or.jp, AMHughey@aol.com, judy_heumann@ed.gov,
winterkuwana@erols.com, NickDan@compuserve.com, jtuscher@paraquad.org

It is with great sorrow that we have to tell
the sad news of the sudden and untimely
passing of our director, Mr. Osamu Takahashi.

He left remarkable results in the area of
the disabled movement and meant a lot to
IL Movement in Japan.

We are very sad to think that we can not
see him again.

Masako Okuhira
Japan Council on Independent Living Centers

■19990303

立岩真也 弔電

あなたの10数年を知りえたのは私の幸せです。
ほんとうに大きな仕事をなさった。
私たちはあなたをけっして忘れない。

■19990319

 立岩「高橋さんの死を悼む」

■199903

 『CILたちかわ通信』51:1

―悲しいお知らせをすることになりました―

 突然ではありますが、当団体発足時より代表を務めてきました高橋修が、2月27日に心不全のため帰らぬ人となりました。
 経過を簡単に申し上げますと、2月16日早朝より、腹痛の痛みを訴え病院に運び込まれました。
 検査の結果、大腸に穴が開いていることがわかり、緊急手術を行いました。手術前に医者から「時間がかなり経過しており、生命の保障はできない」と言われ、関係者一同不安に包まれながら、手術が終わるのを待ちました。5時間もの大手術は無事終わりましたが、感染症や合併症に注意する必要があり、依然として危険な状態であるということでした。
 手術後はICUで治療を受けておりましたが、翌日には意識が戻り、日増しに顔色も良くなり少しずつ意思を表し始めるなど、ご家族の話を伺う限りでは順調な経過と思われ、私どもも安心しておりました。また、26日昼にはICUを出て外科病棟に移ったのも明るいニュースでした。
 しかし、27日朝、突然様態が急変し、かけつけた友人数名が見守る中、6時12分に臨終を告げられました。詳しい原因は不明ですが、心臓機能が手術とその後の治療の負担に耐えきれなかったのだろうという説明でした。ただ、直接の原因はどうあれ、長年の身を削るような活動の結果、心身ともに疲弊していたのだと思います。
 葬儀は本人が強く信仰していたキリスト教形式で行われ、3月2日18時より前夜祭(通夜)、翌3日、10時30分より安息集会(告別式)が行われました。突然のあまり、こちらの連絡も不十分な中、多くの弔電が寄せられ、斎場には入りきれないほどの弔問の方にお越しいただき、故人の交流の広さと障害者運動に捧げた人生の一端を垣間見る思いでした。また、当団体の状況を案じ、励ましのお言葉をかけてくださった皆様、誠に有り難うございました。

 今後、自立生活センター・立川は高橋の遺志を引き継ぎ、残された運営委員、職員一同一丸となって活動を続けて参る所存です。尚、3月9日に臨時の運営委員会を開き、代表−野口俊彦、事務局長−菊地洋子の体制で新たに出発することになりました。今後とも皆様のご支援、ご協力を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。また、5月1日に故人を偲ぶ追悼集会を立川の地で行う予定です。詳細につきましてはおってご連絡致します。

■19990413

 高橋修さん逝去
 『共同連NEWS』73:14(差別とたたかう共同体全国連合)

 自立生活センター立川の代表であった高橋修さん(50才)が2月27日(土)早朝,心不全で亡くなりました。2月16日(火)突然の入院,緊急手術は成功し,回復の方向へ向かっているとのことで安心していたのですが。
 あまりにも突然の,あまりにも早すぎる死。3月2日,3日には彼の障害者運動における幅広い交友や大いなる業績を反映して多くの人が詰めかけ,同じ立川の野口さんの送別の言葉に対し場内にはすすりなく声があふれていました。
 改めて障害者運動団体による追悼集会が5月1日に東京都立川市中央公民館にて行われます。
 いくつもの障害者関係団体等の呼びかけで,下記のとおり追悼集会が行われますので,参加いただきたいと思います。

■19990413

 「編集後記」,『共同連NEWS』73:15(差別とたたかう共同体全国連合)

 みんなの大好きな,おさむちゃんが逝ってしまった。関係者は,運動面の影響をよく口にしているが,そんなことより,おさむさんという人がいなくなったことがとても悲しい。悲しくて,つらくて・・・。そのせいか,なぜかみんな体調を崩した。そして,遅れに遅れたニュースの発行。これが届く頃には,選挙は始まっているのだろうか。名古屋では,もう桜が咲いていた。滋賀はまだ寒くて,つぼみも堅い。この滋賀の桜が,散る頃に選挙は終わる。障害者の声が,政治に届くために,一人でもたくさんの人が当選しますように。高橋さんが望んでいた,社会に一歩でも近づけるように。それが,残された私たちが出来ることなのだから。

■199904 高橋修さん追悼集会のご案内

 拝啓 陽春の候,皆様にはいかがお過ごしでしょうか。
 私たちの友人であり,障害当事者運動を先頭に立って引っ張ってきた高橋修さんが突然の病気で帰らぬ人となってから,一ケ以上が過ぎました。高橋さんは病気に倒れる前日まで,障害種別を越えてすべての障害者のために日夜戦い続けた人だけに,大切な仲間を喪った無念さはことばに言い尽くせません。
 つきましては,多くの障害当事者運動を取りまとめてきた高橋さんの業績をたたえ,遺徳をしのぶべく下記により追悼集会を開催することになりました。
 ご多用とは存じますが,ぜひご出席くださいますようご案内申し上げます。
                                 敬具
1999年4月
                     「高橋修さん追悼集会」実行委員会
                     事務局 全国自立生活センター協議会
                       電話 042−529−1169
                       FAX042−525−4757

 1.日時:1995年5月1日(土)12時より 受付並びに献花
              13時〜16時 追悼集会
 2.場所:立川市中央公民館 講堂
 3.資料代:1000円

■199904

拝啓 陽春の候 皆様にはますますご清祥のことと拝察申し上げます
先般の当団体代表 高橋 修 の安息集会に際しましては丁重なる弔慰を賜り心より御礼申し上げます
故人は 立川の地域で初めての障害当事者の自立生活運動を開始してから一七年 当団体の設立から九年の長きにわたり活動の中心であるととも 多くの仲間を支え 勇気づけたかけがえのない存在でした
突然のことに戸惑い 悲しみに沈んでいましたが 故人の遺志を引き継いで当団体を発展させていくことが故人に対する慰めと考え 代表 野口 俊彦 事務局長 菊地 洋子の体制で新たに出発することになりました 故人の業績 エネルギーの大きさにはとても及びませんが これからも故人の残したものを大切に育て 地域の中で活動の根をはっていきたいと思っております
生前故人に賜りました皆様のご厚情に感謝いたしますとともに 当団体に今後も変わらぬご支援 ご協力を賜りますうよろしくお願い申し上げます
なお 故人を偲ぶ追悼集会を別紙の通りとりおこないます

 一九九九年四月
                        自立生活センター・立川
                        代表 野口 俊彦

■199904 高橋修さん追悼集会

 私達の大切な仲間であり,共に自立生活運動をしてきた高橋修さんが,2月16日に大腸破裂で緊急入院し,長時間にわたる大手術に耐え,危篤状態は脱したのですが,喜びもつかぬ間,2月27日未明他界されました。本当に残念で,つらくて,仕方がないのですが,現実は受け止めなければならず,悲しみのなか3月3日にご兄弟や教会関係者を中心としてお別れ会がもたれました。
 高橋さんが関わっていた全国組織や立川を中心とした地域組織や個人が呼びかけ人となり,下記のように高橋さんを偲ぶ会を持ち,高橋さんの想いを確認し,今後へつなげるエンパワーメントの時間として,みんなで共有したいと思います。

 日時:1995年5月1日(土)午後1時〜4時
 場所:立川市中央公民館 1階講堂
    立川市柴崎町1−1−43(電話042-524-2773)
 会費:1000円

◇呼びかけ人
 (個人)石毛えい子,堀利和
 (団体)大沢豊,石川治江(立川駅にエレベーター設置を要求する会),野口俊彦・野上温子(CIL立川),横山晃久・増留俊樹(障害者介護保障協議会),近藤秀夫(全国市町村障害者生活支援事業連絡協議会),山田昭義・三澤了(DPI日本会議),中西正司(障害者政策研究集会実行委員会),斎藤懸三・門脇謙治(共同連),矢内健二(全障連),二日市安(障害者総合情報ネットワーク),木村英子(全国公的介護保障要求者組合),樋口恵子(全国自立生活センター協議会)

 ◇事務局:全国自立生活センター協議会
  190-0022立川市錦町1−3−13−102
  電話 042−529−1169
  FAX042−525−4757

■19990501

 追悼集会

■199906(19990516執筆)

 立岩「あればいいってものではない―知ってることは力になる・8―」
 『こちら”ちくま”』13(発行:自立支援センター・ちくま)

 

■- 介護保障をめぐる歴史 -

 介護保障関係の説明をするとき高橋さんがよく使っていた資料です(蔵本さんより)。

 介助保険の歴史は、1年9ケ月にも及ぶ都庁前の座り込みなど文字どおり命をかけた東京−府中療育センター移転阻止闘争に端を発した。(1971年)
 しかし、障害者の自立運動は、いざ地域に出てみれば、介助の状況はボランティア以外にはその生活を支えてくれるものが何もないという厳しい現実に直面した。そのため当初より社会的に介護保障をどう作り出すかということが最重要課題のひとつと位置づけられ、行政に対しても公的介護保障の必要性が訴えられ、行動されてきた。
 74年脳性マヒ者等介護人派遣事業を月4回、1回1,760円で発足させる、厚生省には他人介護人加算の特別基準を設定させる等の成果をあげながらも、75年厚生省から大きくストップをかけられることになる。
 「24時間介助の保障がなければ、重度障害者は生きていけない」という声に対して厚生省が応えた[厚生省社会局保護課通知35号](以下、社保35号)「1日半日(4時間)以上他人介護の必要な者は、その処遇を施設によって講ずることをすべきである」
 その後、79年養護学校義務化阻止に運動サイドは大きく流れていくことになるが、それが終決していくころ、[社保35号]を越えていくために、それまでの東京中心の運動から脱皮した全国運動の必要性が語られるようになる。
 全障連の第6回大会ではその基調の中で「障害者が自ら運営する介助派遣システムの建設と、その基盤を勝ち取るための介護料要求者組合の結成」が呼び掛けられるが、まだまだ「介護を金でするなんて…介護は人間関係で…」という空気が強い時代の中で、実現はしていかなかった。
 折しも国際障害者年の始まった81年、この年の11月の厚生省交渉では以下の4点を保護課と確認する。
@重度の障害者が地域で自立していきたいと要求した場合、その人の意志は尊重されなくてはならない。
A24時間介護を必要とする重度の障害者においても同様である。
B原則として重度の障害者にとって介護は必要である。
C厚生省として、24時間介護を保障を行う方向を立場として今後も交渉を行う。
 しかし、先にも書いたように、公的介護保障を、という立場の基盤のなさ、また82年のヘルパー制度の改「正」が待ち構える中で、この確認は生かされることなく、国際障害者年のお祭り騒ぎが終わるころには、厚生省の立場もいつしか[社保35号]のそれに戻ってしまうのでした。 
 それが85年、行財政改革が世をあげて言われる中で、東京でも先の介護人派遣事業の縮小を都=福祉局から打診される。それに抗するため、都内で自立運動を行っていた5団体(最終的には8団体)の共闘を結成させた。
 結論だけ言えば87年には、介護人派遣事業の対象をそれまでの脳性マヒ者だけから、
他人介護の必要な人すべてに拡大させ、88年には「在宅障害者で真に他人介護を必要とする者の31日介護について、その実現に向けて努力する」という確認書をかわすという
前進を見た。

 資料 他人介護加算の推移 [略]

 

■文献

◆松浦 郁子 19900910 『羽ばたけオサム』,発行:はまゆう企画,発売:かいらく企画,105p.,932円
◆自立生活センター・立川 2000 『ともに生きる地域社会をめざして――CIL・立川10周年記念誌』
◆大沢 豊 20000329 「立川市における障害者運動の経過」,未公刊
◆立岩 真也 20010501 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]※
 ※全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.

■インタビュー

◆1986年7月(聞き手・立岩他)
◆1986年9月(聞き手・立岩他)
◆1993年8月(聞き手・千葉大学学生、報告書『NPOが変える!?』に一部掲載)
◆1995年6月(聞き手・圓山里子さん、『追悼文集』に収録)
◆1997年11月(聞き手・石丸偉丈さん他)

■言及

◆立岩 真也 1999/06/30 「あればいいってものではない――知ってることは力になる・8」,『こちら”ちくま”』13(発行:自立支援センター・ちくま

◆立岩 真也 20010501 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]※
 ※全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.

◆立岩 真也 2012 『私的所有論 第2版』、生活書院

◆立岩 真也 2014/03/01 「生の現代のために・1――連載 97」,『現代思想』41-(2014-3):-

 『現代思想』41-(2014-3):-
 「直接に話をうかがおうとすれば、既にその時が終わってしまっている場合もある。これまで幾度か紹介し、賞賛してきた本に大林道子の『助産婦の戦後』(大林[1989]、cf.立岩[2001-2009(8),2001]等))があるのだが、この本も出版されてから二十五年になる。著者は、戦争直後の様々を知る助産婦――当時八〇歳台・九〇歳台といった方々もおられた――に話を聞いてまわって、この本を書いたのだが、もう今はそうした仕事はまったくできなくなっている。これからも多くのことがそんなことになっていくだろう。できることはしておいた方がよい★01。
 「☆01 これまで幾度もそのことを思ってきたが、その初期に、高橋修(一九四八〜一九九九)の突然の死があった。障害者運動を支え進めた高橋は自らものを書くことをほとんどしない人だった。彼に私たちは三度のインタビューを行なったことがあった。もう一つ、別になされたインタビューの記録も使わせてもらった。それで、ようやく「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」(立岩[2001])を書くことができた。」

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

■引用

◆尾中[1990→1995→2012]

「だってそれじゃ施設と同じ、って話になるじゃない。一番頭にきたんだけどね、危険だと。一般のプールに行くのが危険だと。だから健全者を締め出したプールがあってもいいんだと。これには俺もかっときて、じゃあなに、障害者専用を認めるのかっていう話になってきちゃって、そいじゃあね、施設を認めることになるじゃない、一番安全だよ、施設、ねえ、そういうのが一番安全だよねえ。それには俺も完全に頭にきてねえ」(障害者向けスポーツ施設の健常者の利用を認める必要がないという意見に対しての発言)。

■本の文献(26→52)

◇(匿名)★ 2016 「長期入院患者の生き辛さと苦悩、自己の存在と生存を懸けて」「互いに殺し合う存在」「発病から入院」「小学生の頃の入院生活」「誰にも明かせない胸の内」,http://www.arsvi.com/w/a.htm [122]
安積 純子 1990 「<私>へ――三〇年について」,安積・岡原・尾中・立岩[1990:19-56] [135][136]
◇安積 遊歩 19931120 『癒しのセクシー・トリップ――わたしは車イスの私が好き!』,太郎次郎社,230p. ※ n02. oi.
◇安積 遊歩 19990920 『車椅子からの宣戦布告――私がしあわせであるために私は政治的になる』,太郎次郎社,198p. ※ n02. oi.
◇安積 遊歩 20100115 『いのちに贈る超自立論――すべてのからだは百点満点』,太郎次郎社エディタス,190p. ※ b02. n02. oi.
◇安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店 [121][131][135][136][145]
◇―――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第2版』,藤原書店 [121][135][136]
◇―――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版 [118][121][131][135][136][145][146+]
古込 和宏 201609 「病院からの発信」 ※ [133]
◇―――― 2016/10 「地域移行に際し医王病院と新潟病院の副院長宛て挨拶としての紹介文」
◇―――― 2017/02 「「この問題」」
◇―――― 2017/03/24 「皆様へ」
◇―――― 20170401 「伴走者とともに」 ※ [133]
◇―――― 20170430 「Re: 素朴な疑問」,[inclusive society:0865] [134]
◇―――― 2017/12/30 [インタビュー 2017/12/30 聞き手:坂野久美]、於:石川県金沢市 [146]
◇―――― 2018/01/30 [インタビュー 2018/01/30 聞き手:立岩真也]、於:石川県金沢市 [146]
◇―――― 2018/03/17 「あたり前の生活を取りに行く」,障害と人権全国弁護士ネットシンポジウム in 金沢 [146]
◇橋本 広芳 1984 「地方における取り組み――うつみねの会」,仲村・板山編[1984:279-285] [136]
◇廣野 俊輔 201303 「府中療育センター闘争をめぐる新聞報道」,『福祉社会科学』1:49-90(大分大学大学院福祉社会科学研究科)  [131]
廣野 俊輔 201303 「府中療育センター闘争をめぐる新聞報道」,『福祉社会科学』1:49-90(大分大学大学院福祉社会科学研究科)  [131]
◇―――― 201312 「府中療育センター闘争の背景――なぜ,この施設で闘争は起こったのか」,『福祉社会科学』2:33-55(大分大学大学院福祉社会科学研究科)  [131]
◇堀 智久 2014 『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』,生活書院 ※ [118][120]
◇市野川 容孝・立岩 真也 1998 「障害者運動から見えてくるもの」(対談),『現代思想』26-2(1998-2):258-285→立岩[2000:119-174] [98][124]
◇自立生活情報センター 編 1996 『How to介護保障――障害者・高齢者の豊かな一人暮らしを支える制度』、現代書館 [121]
自立生活センター・立川 1999 『高橋修と共に過ごした日々――高橋修さん追悼文集』,自立生活センター・立川,130p. [134]
◇―――― 2000 『ともに生きる地域社会をめざして――CIL・立川10周年記念誌』,自立生活センター・立川,120p. [134]
岸田 典子 2017 「関西における障害者解放運動をけん引したある盲人の青年期――楠敏雄を運動へ導いた盲学校の経験」、『Core Ethics』13 [131]
◇楠 敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房,222p 1600 [131]
◇三井 絹子 20060520 『抵抗の証 私は人形じゃない』,「三井絹子60年のあゆみ」編集委員会ライフステーションワンステップかたつむり,発売:千書房,299p. [131]
◇定藤 邦子 20110331 『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』,生活書院,344p. ※ dh. ds.[118]
◇白石 清春・橋本 広芳 2018 [インタビュー 2018/03/16]、於:福島県郡山市
◇高橋 修 1986年7月(聞き手・立岩他)
◇―――― 1986年9月(聞き手・立岩他)
◇―――― 19890925 「全障連第十四回全国交流大会に参加して」,『季刊福祉労働』44:142-147
◇―――― 1993年8月(聞き手・千葉大学学生、報告書『NPOが変える!?』に一部掲載)
◇―――― 1995年6月(聞き手・圓山里子さん、『追悼文集』に収録)
◇―――― 1997年11月(聞き手・石丸偉丈さん他)
立岩 真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226→1995:165-226→2012:258-353] [121][131][136][145]
◇―――― 1990b 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」,安積他[1990:227-284] [136][145]
◇―――― 1995 「自立生活センターの挑戦」,安積他[1995:267-321→2013:414-498] [121]
◇―――― 2000/10/23 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p. [98][124]
◇立岩 真也 20010501 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]※
◇―――― 2012/12/25 「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」,安積他[2012:499-548] [131]
◇―――― 2012/12/25 「共助・対・障害者――前世紀末からの約十五年」(第11章),安積他[2012:549-603] [121][146+]
◇立岩 真也・小林 勇人 編 2005 『<障害者自立支援法案>関連資料』、Kyoto Books [131]
◇立岩 真也・定藤 邦子 編 2005/09 『闘争と遡行・1――於:関西+』,Kyoto Books,120p. (1000円+送料→終了) 45字×50行×120頁 MS Word 646k bytes→800円:gumroad経由[97][118]
◇渡邉 琢 20110220 『介助者たちは、どう生きていくのか――障害者の地域自立生活と介助という営み』,生活書院,420p. ※ d00sm.
土屋 葉 200707** 「福島県における障害者自立生活運動の生成と展開(1)――「福島県青い芝の会」創設期〜発展期を中心に(1973-1978)」『文学論叢(愛知大学)』136: 334-313.ISSN: 02870835 [136]
◇矢吹 文敏 20140325 『ねじれた輪ゴム――山形編』,生活福祉社,307p. ※ d00sm. n02. oi.
◇山下 幸子 20080930 『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』,生活書院 [145]
◇横山 晃久 20010501 「不屈な障害者運動――新たな障害者運動を目指して」,全国自立生活センター協議会編[2001:263-270] [146+]
◇全国自立生活センター協議会 編 20010501 『自立生活運動と障害文化――当事者からの福祉論』,発行:全国自立生活センター協議会,:発売:現代書館,480p.

 文献として、『羽ばたけオサム』(松浦郁子著、発行:はまゆう企画、発売:かいらす企画)/『ともに生きる地域社会をめざして――CIL・立川十周年記念誌』(自立生活センター・立川、二〇〇〇年)/『高橋修さん追悼文集 高橋修と共に過ごした日々』(二〇〇〇年)/大沢豊「立川市における障害者運動の経過」(二〇〇〇年、未公刊)