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黛正氏インタビュー・7

20220522 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀

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黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

 ※いくつかに分けた記録の7です。
黛 正 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)(本頁)
黛 正 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022c インタビュー・3 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022d インタビュー・4 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022e インタビュー・5 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022f インタビュー・6 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
黛 正 i2022g インタビュー・7 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館(本頁)
黛 正 i2022h インタビュー・8 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館

◇文字起こし:ココペリ121 20220522黛正(於:新潟市総合福祉会館)_169分
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)


広島幹也

立岩:山口さんなんか? 何かつっても困るか。

山口:ぼくこの広島さんの更生慈仁会ってあるじゃないですか。ぼくんちの…、よく行ってたんですよ、この青松学園。青松学園にボランティア行ったことがありますね。

黛:青松学園とか十字園だとかね。いくつかかたまって。

山口:保育園、ぼくそこ行って。

黛:ああ、あの近く。

山口:更生慈仁会の保育園出てて、友だちのお母さんが園長だったりとか、そんなんで。広島さん***(01:51:05)更生慈仁会に16年いたと。なんか…。
 あとカサ・ドンキホーテとかきのう調べて。
 あと新田初美先生。はまぐみにいた新田先生っているらしい。

栗川:あ、新田初美。今は吉田擁護かなあ。

山口:なんかぼくのお母さん、

黛:もう定年になってんじゃない?

栗川:定年になりました。

山口:母親がなんか知り合いか何かで、なんかお姉ちゃん、なんかの誕生日かなんかに新田先生からもらったんだ、とかなんか。そんなようなこと。
 なんか質問とかじゃないんですけど、謎のつながりがありました。

黛:なんか広島さんは妹さんがダウンだったんだよね。ほいで最初ね、広島さんよりは広島さんのお父さんが広島せいいちっていうんだけども、でその人が小鳩会っていう新潟県のダウン症の親の会の会長さんやっていて。でそのおやじさんがあれだな、おれがときどき福井達雨を呼んで講演会開いたりしたときに彼が来ていてね。ほいでそのお父さんと最初に知り合いになったんだけれども。

立岩:幹也、なかなかさすが出てこないね、検索してもね。プロ野球選手とかだと出てくる。

栗川:広島幹也?

立岩:うん、ドラゴンズかなんか出てくる。明治大学…。

黛:広島いっぱいいすぎるのかな。
 あ、明治大学のね、えー、あの彼明治だったよね? ほいでね、明治で全障連のさ、二回大会が明治かなんかでやるじゃない? そのころから彼は全障連につきあっているみたい。

山口:78年【に除籍退学】(01:54:08)。新潟に帰ってくるのが79年で、更生慈仁会就職、1982年。

栗川:何、そこに広島さんの年表みたいなのがあるんですね? その追悼文集みたいなやつ。

山口:文集の中に広島さん年表が。

黛:で彼は三里塚にいたんだよね。

立岩:そう書いてありますね。

黛:うん、でそのブントのね、彼はブントだっていったんだな。で、その当時の仲間がこれを発行したみたい、まとめて。広島さんの書いてるね文章を。

栗川:広島さんはでもずーっと篠田さんとほぼいっしょに動いたんですか? 途中でやっぱりわかれたみたいな? [01:55:12]

黛:うーんとね、いや、篠田、家が近くだったからさ、よくいっしょに風呂入れ手伝ったりとか、あといっしょに飲んだりとか、それは広島さんけっこう亡くなる前はやっていたよね。

立岩:私の記憶だと明治大学が解放、社青同解放派の拠点になってた。だったらかな? 広島さんて人自身。

黛:いやあ、本人はブントだって言ってたよ。ほいで今新潟のさ解放同盟の県連の執行委員長やってる長谷川均っていうのが、彼がちょっと後輩なのかな? でも大学でいっしょだったってのはね、言っていた。だから関西と同じようにやっぱり解放同盟と障害者運動がいっしょになってやらないとだめだよなって言ってたんよ。

栗川:そこの接点もほぼないですもんね、新潟は。ねえ。

立岩:そうね、やっぱ関西だよね、解放同盟とつながりが強いのは。東京なんかでもあんまりないよ。

黛:東京はね、だから。おれはどちらかというと関西が好きでさ、天皇制の運動なんかでもそう、関西のよく行ってたんだけれども、関西の運動のほうがおもしろいよね、体が先に動くっちゅうかさ。

立岩:はいはいはい、その感じはわかります。

黛:ねえ、ほいで東京ってのはさ、いろいろ議論していて動かないっちゅうかさ。だからあんまり東京…、まあ東京っておれあんまり好きじゃなくてさ、関西のほうにちょこちょこと出かけていってたんだけども。

立岩:ああそっか、広島さんってかたはまだ全障連の第二回大会のとき学生で、その経済学自治会の委員長で、ほんで大会の受け入れ側っていうか。

黛:うん、受け入れ側。取りしきったみたいなことは言っていた。

立岩:当時の自治会の委員長だったら、で明治だったら、ふつうはセクトだと思うんだけどなあ。そんなこと今さらどうって。
 でも良し悪しべつにしてっていうか、良し悪し込みでもいいんですけど、それなりにやっぱ中核とか解放とかがやったことっていうのはあるのは事実認めないと、それはやっぱり事実とちがうので。で、革マルはあんまり関係してないっていう、なんとなくそういう感じ。ただ革マルも、ものを読むとたまに出てくるとこあって、あ、そっか、何もしなかったわけでもないのか、とかね、組織としては動かなかったけど、革マルのメンバー、たとえば仙台とかそういうところで入ったりとかしてるの「へえー」みたいな、あるはあるんですよね★。
 あ、黛さん出てきた。その広島さんのやつで、13ページ。

立岩:その広島さんのやつで、13ページ。
「黛さんとの出会いは彼が主催した講演会に参加したことでした。市報新潟の催し物案内の欄に共生がどうだという講演会の***(01:59:25)目にしたのです。」
っていう、あ、そうか、そのときに篠原、和光の篠原さん★は呼んだということだと、で、だそうです。
 でその時はまだ、そうか、はまぐみにいて、白衣姿でやってきた。

栗川:え、白衣着てたんですか?

黛:着てなかったと思うけどな。

立岩:「ぼくが黛さんの白衣姿を見たのは、後にも先にもその時だけです。」

栗川:ああ、じゃあやっぱほんとに着てんだ。[01:59:56]

立岩:「また、黛さんが何者かもわかりませんでしたから、あの風貌で白衣を着られると、どう見ても新興宗教の教祖にしか見えませんでした。そんな記憶があります。」
(笑)。おかしい。
 人の名前出てきますね、さっきからきのうとかも出てきた会田きよみさん? とか、そういういろんな人がレアな、ぜんぜんこんなものがあるのまったく知りませんでした、っていうなかにぼちぼちと出てきますね。それもその、篠原さんが新潟にいらしたの何年とか、調べたってぜんぜんわかんないもんな。
 ふーん。ああ、なるほど。
 で彼は、広島さんは、「新潟の自立生活運動の軌跡」きせきって軌跡ね。「を記録に残せないかと思っていました。」で、えっと「2005年のCIL新潟の設立10周年に合わせて、10周年機関誌を発行し…」、あ、「という企画を立てていたのです。しかし残念ながらそのタイミングでは実現できませんでした。」ってなってて。

黛:10周年記念誌って出てないよね、おれの手元にないんだけれども。

立岩:たぶん出てないんだと思う。

栗川:企画は立てたけどできず、っていう書きっぷりですよね、それね。

立岩:ああ、修さんも出てきますね。
「上記のように高橋修さんの動きを追うように我々も進んできました。まあ簡単に言えば、広域自立集団高橋組系篠田組といったところです。」
って書いてありますね。
「1991年、在宅障害者の餓死事件でした」
それさっき出てきましたね。

栗川:上越のね。

立岩:で、えっと、
「そのことに対する行政責任を追及する糾弾闘争から具体的な障害者の自立生活への行政の支援策を求めていく取り組みへとつながっていったのでした。新潟では篠田さんを中心にというか、私と黛さんが篠田さんの背中を押して(と言うとまた聞こえは良いですが、背中を押しながら尻を蹴っ飛ばすっていったほうが)介護保障を考える会というものを作り、それがCIL新潟の母体となっていったのです。」
だそうです。

栗川:なるほど。その資料はじゃあすごい貴重ですね。

立岩:この資料貴重ですね。

黛:うん、だから、広島さんなりのまとめ方をしてくれているし。

立岩:あれ? 「立岩真也氏の論文」つうの出てますよ。今たまげました。「1970年」★っていう昔に書いた。
 「ぼくがたいへん気にいってる論文ですが、その書き出しはこうなっています。」っていう時点でたまげましたね、今。

★19980201 「一九七〇年――闘争×遡行の始点」、『現代思想』26-2(1998-2):216-233→立岩[2000:87-118]
立岩 真也 2000/10/23 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p.

山口:いやぼくも驚いたんです。

立岩:読んでんだ。

黛:彼はね、広島さんはいろいろ本読んで、とくに病気になってからね、体動かせなかったからよく本を読んでいて、「これおもしろいから黛さん読んでみたら」とか言われた本が何冊かあるけどね。

立岩:これなんか、どういうふうにこう…。あんまり考えてもしょうがないと思うんですよ、こういう話はね。でも断片断片で一つひとつの事件とか、ほっときゃもう誰も知らない話になるに決まってるじゃないですか。だから、ぼくはなんか、まとめるだの何だのってそんなに考えてもしょうがないので、いっこいっこわかってることを引用したりして、でもとりあえずネットに載っけるっていうのでいいと思ってるんですけどね。
 ただなんか筋ができるのが、ある種こうまとめみたいなのができるならできてもいいのかなということは思いますけど。なんだろ?福島は福島でそのストーリーができちゃうんですよ。で、あそこは郡山養護学校っていうのがあって、良くも悪しくもそこに一時期人がかたまるんです。そこには5人とか…、5人以上10人未満みたいな、のちにいろいろ担っていくような連中が一時期凝縮されていて、それがいろんなところで発動し、ほんで震災も起こり原発も、みたいなことがあって、やっぱり波乱万丈なところもあるし。やっぱり中心人物がやっぱりそれなりに長生きしてくれて、で書いたのもしゃべったのもあるので、ある種、あらすじっていうかな、ストーリーができちゃったところがあって、それで何人かに声かけて追加調査してやったんですけどね。

山口:戻りますけど、この広島さんが寄稿してる文が載ってるんですけど、そこらに「共産主義者同盟首都委員会【活動要員】(02:05:07)たんばむねはる名で寄稿」と書いてますね。[02:05:09]

栗原:じゃあブントだね。

立岩:共産主義者同盟だとブントですよね。

山口:ブントのなんか機関誌とかなんかわかんないですけど。

黛:だから、広島さん死んで、うん、それ発行してからさ、東京で集会っていうかな、追悼の飲み会があって、ほいで「黛さんも出てきませんか」っていって行ったことがあるんよ。その時は「広島同志は…」って(笑)。

山口:「広島同志、自分史を語る」とかって。

黛:そのメンバーに天皇制のことなんかいっしょにやって新潟に来たっていうことのある人なんかがぽつり、一人いたかな。
 だから、新潟の場合は篠田が単独でさ動いていて、グループができなかったんだよね、障害者の人のグループってのが。だから田村とは友だちでずっといっしょではまぐみなんかもいっしょだったけれども、やっぱりやり方がちがって、自立をしたりするのはべつべつにやっぱりやっていたりね、してたし。

栗川:桐沢さん★もけっきょくそういうこと。

黛:桐沢もね。
 だからみんなばらばらで。うん、ほいでおれなんかは篠田を軸にして、えー、だから、篠田を軸にして、あと新津だとかさ、三条だとか、そういういろんなところに声をかけて、その交渉したりするときにはわっと集まったりしたけれども、それがグループと、障害者の当事者のグループとして持続しなかったっていうかね。

栗川:そうですね、だから自立生活センター新潟みたいなかたちでそこで新しい人も入ってきてそこがどんどんこうやってくって、そういうことにはならず、かえって逆にこうそこがばらけて。今はたぶんもうないんですかね、どうなってるんですかね?

黛:ないわね。あと新潟だと新津にフロント★の人たちが中心になってさ、やっぱりグループを作っていたんだ。そしてそのころは、そのやまもりくんっていうのなんかが県の交渉にはこう出てきていたんだけれども。今それも空中分解してしまって、一部は武田貞彦なんかのねNPOに協力をしたりとかしてやってるみたいだけれども。
 だから健常者がまずかったのかな? 健常者がねけっこう裏でさ、まあおれもそうだったのかもしれないけど、篠田を使ったりしてさ、それでやってはいたんだけれども、障害者どうしがいろいろくっついたりねはなれたりするのがどうも実現しなかったっていうかな。篠田は黛派だとかさ、なんか桐沢は中核派だとかなんか、みんなばらばらにさ、させられてしまって。

★ https://www.wikiwand.com/ja/フロント(社会主義同盟)

栗川:でそれぞれがもう自分の介助問題は自分のグループ作って制度使ってみたいな感じで、まあまあなんとかなりますからね、けっきょくね。

黛:その点ね、日共系はそうじゃなくって、障問研とか障医研だとかそういうボランティアを使いながら障害者のグループとしても3、4人やっぱりかたまっていて、うん、ほいでむろはしだとかにしやまくんだとかたにくんだとか、そういう人たちが中心になって、でしろやま作業所を立ち上げたのね。それでしろやま作業所に行ってさ、にしやま君なんか所長って言ってるからさ、「おまえ給料もらってんのか」って言ったら「いやもらってない」って。職員は給料もらってるけどね、「だっておまえ所長だろう」つってさ、所長が給料もらわないでどうするんだって、いやそれは健常者の人が食ってかなきゃならないからさって言い訳していたけれども。
 それもあれだよね、彼らが関われなくなったら健常者の人がNPOとしてやっちゃってるからね、今ね。[02:10:41]

栗川:まあまあお飾り的にはね、きっとあれなんでしょうけれど。
 そういう人たちもはまぐみには来てた人たちですか? そうすると。子どもの時は、むろはしさんたちとか。

黛:むろはしくんなんかも、うん、来ていた。だけども、もうおれがはまぐみに勤めているころはもう彼らはけっこういい年してたからさ。二十歳近くなっていたんじゃないんかな。だから、まあ会って議論をしたことはあるけどね、あんまり。

栗川:お風呂入れにいったとかそういうことはないわけですね、じゃあ。

黛:むろはしくんは入れにいってたかな。にしやまはあれごちごちだから、おれ嫌われていたし。たに君も風呂入れに行っていたな。

栗川:新潟の脳性麻痺の人たちとか、そういう人たちを幅広くつながったのは黛さんなんだ。

黛:うん、それとかね、だからあと、新潟はさそれと別なグループっちゅうかさ、があったわけよ。そういう運動にはあんまり関心がなくって、でも施設に入っていたけれども結婚して施設を出て市営住宅に住んでいたっていう人なんかがね、ひろかわさんだとかまるやまさんとか、アンリさんの影響だろうな。

栗川:わたなべこういちさんとかね。

黛:わたなべこういちは独身だったけどね。だから、でもそういう運動にはかかわらないで独自に自分たちの生活を守るっていう人たちがいたよね。よしいさんだとか。

立岩:一つ何とかなるといいなと思ってるのは、国療…、旧国療、新潟病院がね、あそこけっこう筋ジスの元お兄さんっていうか、もうおじさんみたいな人いっぱいいて。ただぼくそこの院長まあまあよく知ってるんですよ。で、ほんとは院長もべつに、ずっと引き止めときたいわけじゃなくて、今けっこう国立病院機構って国から責められてるっていうか、削減の傾向があってっていうんで、そこは、

黛:「出たい」っちゅうやついるの?

立岩:いやいますよ。いるし、なおかつやっぱり新潟に限らず、ちょっとしばらくそこの病院で面倒みてほしい、みたいな人がいるんですよね。だから回転っていうか、出たい人は出て、しばらく居たい人は居るっていうふうに使えれば、新潟病院なりの存在意義もあるみたいな話もできるし、こういう地域移行のこと実際やってますよって話ができると思うんですけど。たぶん、それ中島〔孝〕っていうんですけど、新潟大学で新潟大学の医学部出て、

黛:いくつぐらいの人?

立岩:えっとね、ぼくと二つぐらいちがう。だからたぶんかぶってはいない、黛さんとひと世代あとっていうか。で新潟大学医学部出の神経内科の医者が、今わりと長いことその病院長やってるんですよ。でわりと昔から知ってる人で、なので、なんかそこがひとつの入り口かなんかわかんないけど何かなってくれたらいいなあっていうのが、その運動が、運動ってまあ必要があるからあるもので、なけりゃなくてもべつにかまわないわけじゃないですか。ないならないでね。だけど実際に今…。
 ぼくはさっき言ったその金沢の古込さんっていう筋ジスの人は医王病院っていう金沢市にある旧…、そこの病院出る人の話で。で、それの支援を何年かかけてして、ようやく出たけど次の年亡くなられたんですけどね。だけど、金沢も難しかったんですよね、その受け皿っていうか、しょうがないから彼の場合は自分で始めて、それを京都であったり、兵庫西宮だったり、そういうところのCILとかが応援したみたい、そういう構図だったんですよ。
 だから新潟でそういう動きがちょっとでも出ると、それを周辺の東京であったりがバックアップするみたいな態勢をとれるんだがなあ。ちょっとそれ考えてみようかなあ。
 そんなにゆっくりもしてられないじゃないですか。やっぱり筋疾患で筋ジスだとやっぱり心臓弱くなっていくから、そういう意味であの…。でなおかつわりとこう弁舌というか、しゃべるみたいなことができる人たちじゃないですか。だからそういうんで、今けっこうそういう古込さんの話がとっかかりになって全国の国療の中から出ようとか、出そうとか、あるいは入院環境良くしようとかっていうのが全国規模で起こってるんですよね。で、新潟病院は、なかではましだって言われてる病院なんですよ。で、院長もまあ知ってる人だから、なんかそこらへんが何かひとつできるといいかなあ、というのをちょっと思い出したっていうか。[02:16:47]

黛:筋ジスだとね、新潟の神経内科だとね、ふく…、ふくい…、ふくやまじゃない。

ようこ:ほりかわ先生。ほりかわ先生。

黛:ああ、ほりかわ先生もね、いっしょうけんめいだったけれども、ほりかわ先生は筋ジスじゃあなくてね、筋ジスのことを専門にやっていたやつが、さいがた療養所に行っていたんだ。その院長なんかをやった人が、でもその人は筋ジスを専門にやっていたっていっても、いわゆる基礎医学みたいなね、針さしたりとかさ、いろいろ筋肉とってきて顕微鏡でのぞいたりとか、そういうことをいっしょうけんめいやっていた医者が、えっと、ふく何たらってのがいたんだな、ふくやまではないか、ふくいではないな。じゃあそのあとの世代なんだな、その中島ってのは。

山口:中島さんは1983年に新潟大学出てるかたです。

黛:出た? 卒業したってこと?

山口:はい。

黛:83年。

山口:58年卒業です。

黛:おれはね、88年ごろ神経内科半年ぐらい行っているんだけれども。じゃあそのあとなんだな。

立岩:そうだね、ぼくよか2年上ってことか。58年あたりの生まれじゃないのかな。
 なんかそこは今までのことは今までで大切なんですけど、たとえばその古込くんのときも、そんなに平井さんとか話持ってったんですけど、でほんでぼくもその絡みでインタビューしたんですけど、やっぱりそんなにこう動けたわけじゃなくて、ちょっと別の歴史と由緒のある運動家だっていうのとはちょっと別口の動き。でもまあそれでもたどってたどって行くと、それこそ高橋修たちの組合からはなれた部分、介護保障協議会つったり、広域協会つったり、そのへんの資金的なものも含む、かなり強力なバックアップがあって。でその流れと、その何だろ、一人ひとりが根性出してなんかこう個人的に作り上げていく縁(えにし)みたいな、そっちの流れが大きく二つあって。なかなかその新田さんなんかもどっちかというとそうなんですよ、根性派なんですよ。ほんで、それなりに「出るんだったら自分で苦労しろ」的なところがあるんですよね。で、「そんなこと言ったら根性なしは出られないじゃないか」っていう正論も一方にあって。けっきょく高橋さんはそっちを選んだんだけど、それを引き継ぐような人たちが今そのシステムとか、システムとか言うと嫌われる人には嫌われけど。でやってて、でそれもでも古込さんの時はかなり力を尽くしたし、実際力になったんですよ。なんかちょっとそういうところが、切れてるけど実は切れてないっていうところがこれから、でもほんとに新潟病院も必要だな、そういうちょっと支援勢力というか。[02:20:42]

黛:そうね、いやだからさ、確かに病気によっては、いざたとえば風邪をひいたりしたときにちょっと逃げ込めるようなね、場所が必要だったり。あと、最近精神科がやっぱりそうじゃない? 精神科、いつもパニックに陥っているわけじゃなくて、落ち着いてるときってのはふつうに生活できる人っていうのはかなりいるわけでね。だから、おれ「べてる」はまだ行ったことないんだけど、べてるはあそこで、えっと日赤? の医者がいて、ほいで「いやいつでも調子悪くなったらもどってくればいいさ」っていうかたちで地域に出してるじゃない? だから、イタリアがそういうやり方をおそらくしてるんじゃないかなと思うよね。地域の保健センターみたいなの作って、でそこが一時的な避難場所になったりとか、必要があれば入院ができたりっていうふうなことをして、ほいで精神病院をなくしてしまったっていちおう言われているよね。
 だから、まあ医療費で言うとおかしいんだけれども、そういうふうにしたほうがずっと安上がりだとおれは思うんだけどね。安上がりだからそういうやり方をやるっていうんじゃなくて、だからほんとうにやっぱりサポートする、が必要なときにはするっていうね。

立岩:ほんとそうなんですよ。で脳性麻痺なんかでもね、二次障害とか出る前だったら、そんなに体は頑丈だから、へたに医者とつきあうと手術されたりして、ね、って感じだけど、たとえば筋ジスとかさALS(エーエルエス)とかさ、ああいう人たちってやっぱりかなりひんぱんにからだの状態悪くなったりするから、ちょっとしたときにかかりつけのところに行けたらよくて、だから新潟病院だって使い道あるんですよ。で、その新潟病院は新潟病院でちょっとしたときにね、すぐ、だってやっぱり呼吸悪くなったら10分とかね時間だって惜しいわけだから、ほんとに近所に住んで、いざとなったら。だってもう言葉だってコミュニケーション難しいわけ。だからその呼吸がぜいぜいいってるときにもともと言葉がしゃべれない人が担ぎこまれたらふつうは対処のしようが難しい。でも常時かかりつけっていうか知ってる、であればすぐに何かできるじゃないですか。そういう意味で、そのさっき名前出した古込さんっていう人もね、医王病院って大嫌いだったんですよ。だから出たい出たいつって30年ようやく出れたんだけど、だけどやっぱり体の不安がある。その医王病院とけんか別れはしきれない。やっぱり医療とのつきあいを続けていかざるをえないっていうとこがやっぱり脳性麻痺の蹴っ飛ばす、蹴っ飛ばして出ちゃうっていうのとちょっとちがうところですわ。

黛:脳性麻痺はなかなかしぶといからね。なかなか死なない。

立岩:そのへん転がしてもそう簡単には死なないじゃないですか。でもあの人たち死ぬからね。

黛:あ、そういえばね思い出した。はらくんっていうのがさ、はらひろみちくんっていうの。

栗川:筋ジスでしたっけ? ALSでしたっけ?

黛:うーん、まあALSに近いんだけれども、うーんとね、ちょっとめんどくさい名前のミトコンドリア筋症だったかな、なんか症状はALSと同じようなんだけれども、高校くらいから入院して、でずーっと二十歳過ぎまで市民病院に入院していたんだけれども、彼がね、病院を退院してさ生活をしたいって言いだしたわけ。で人工呼吸器をつけていてね。で、その主治医がおおにしようじっていって、まあおれのちょっと知り合いの医者なんだけれども、神経内科の人でね。で、彼が退院したがっているんだけれども、ほいで黛さん、いざっていうときには…、あ、主治医になってくれって言われたのね。で主治医になるのはかまわないけれども、おれも商売で往診であっち行ったりこっち行ったりしてるから、連絡つかないときがあったりするしね、ほんとに救急の場合は市民病院で受け入れてくれるっていう、そういうバックアップ病院がないと引き受けるのはちょっと無責任だから、ちゅう話をしている時に、彼はときどき上新栄町にさアパートを借りて、ほいで週末だとか外泊をしたりしていたわけ。でそんな話をしている時に亡くなっちゃったんだけどね。[02:25:56]

栗川:はらさんいましたね。

黛:はらひろみちってね。で彼の本さ、おれ預かってるんよ。今でもさ、はらくんがね、だからもう二十歳前後ぐらいでさ難しい本読んでるんよ。

栗川:文学少年ぽかったですね。

黛:小説っていうかな、童話を書いたりねしていて。ほいで新潟日報から彼の本を出しているんだわ。で、彼がいわゆる20代くらいでね、自分の人生を考えるために読んだ本てのがさ、ほんとに年寄りが読むような本がぞろぞろっとあるのでね、これは、ああはらくんが若いうちからこんな自分のね、生きるっていうのはどういうことだろうかっていうようなことを考えていたんだなあっていうので、それで、三、四百冊あるのかな、本箱に一つさ、本棚にね一つねあるんだけれども、それを処分してしまうって言ったからさ、もったいないなあというので、ALS協会やっていたわかばやしさんにさ、「これどうにかならんか」って聞いたら、「いやそんな場所がないから」って言われてさ、言われて、しょうがない、おれじゃあ預かっていくからっていって今でも預かってるんだけどさ。

栗川:沼垂の家に?

黛:佐渡に持っていってる。ほんとはね、佐渡図書館にそれ寄贈して、ほいではらくんは「のはら文庫」って命名してたんだよね、自分の本をさ。で、その「のはら文庫」ってのを佐渡の図書館の一画にそういうあれを作ってくれないかって言ったら、それはできないって、みんなほかの本とまぜちゃっていいんだったらそれを受け付けるけれどもって言われてね。それまぜちゃったらあまり意味がないなあと思って、で今でも持ってんだけれども。

栗川:いましたいました。なんかぼくのなかではこう、はらさんとやざわおさむが何かちょっと重なるところがあって、「ひかるさま」っていう詩集を書いた、あの***(02:28:27)、あれは何だったっけな? 結核ですかね? やざわさんは。

黛:うーん、おれはやざわさんに会ったことはない。本は誰かにもらって読んだけど、

栗川:文学少年っていう感じで。

山口:のはらひろみちですか。

栗川:はら。ただの「はら」。

山口:字がわかんない。

立岩:で、その、きょうの午後のかたは、

栗川:はい、桐沢さん。

立岩:どういう移動。タクシーに乗ってく? タクシーに乗ってって。

栗川:そうですね、じゃあそろそろもう11時半なので終わりにして、でお昼どこかで食べて移動って感じでどうでしょうかね? [02:29:18]

(このあとのスケジュールについて、雑談、黛さんの差し入れを飲みながらの休憩等)

[02:33:13]

栗川:じゃ、そろそろこれでだいたい、***(02:33:16)でありがとうございました、ほんとに。

黛:はいはい。

栗川:ありがとうございました、ほんとに。

立岩:えらい長い時間拘束しましたね。

山口:きのう借りた資料ですけど、いちおうコピーさせていただいた。

黛:じゃあいらない? あと。

山口:そうですね。いちおうコピーをこちらにぜんぶとりましたんで。

立岩:もう帰っちゃうですか?

黛:ん? きょうはもう帰って、船に乗って、もうこれから帰ると12時、ああ12時30分ぐらいだから、それで3時ぐらいに着くから。

立岩:じゃあ両津に着いてから、どうやってその松ヶ崎。

黛:いやいや、船。あ、船じゃない、車。だから駐車場に車をとめてあって。

山口:お返しします。

黛:はいはい。

立岩:じゃあもう広島さんのやつもぜんぶコピーした。

山口:あ、広島さんのもコピーしました。

黛:でね、やっぱりね、まとめるのは、あの、篠田を中心にしてまとめるのがいちばんいいんじゃないかなと思うんだけどね。それとかそのおれだとか広島さんがそれを補って、うん。で、いちばんやっぱり【会って聞けるのは】(02:34:36)やっぱり彼だと思うからね。で、残念なのは、その彼しかいないっていうところが新潟のね、うん…。で篠田も結婚したら守りに入ったな、あいつも。[02:34:57]

立岩:両津港に、こう回るんですか? 帰り。

黛:うーんとね、帰りはまあ海をずーっと行ってもいいし、畑野からトンネルを越えて、

立岩:ああ、そういう道もあるんですか。

黛:それがいちばん早いかな、道もいいし。

立岩:佐渡って立岩って家たぶん二軒しかないんですよ。

黛:あそう。ふーん。

立岩:で、うちと、うちももう絶えそうですけど、と、それから親戚の家があって。柿野浦っていう、に、そのもう一軒の立岩があるんですよ。
 と、もう父親も死んだし母親も死んだし、ぜんぜんどういう経路というか、わかんない。

黛:じゃあその実家には弟が今いるわけね。

立岩:実家は弟夫婦いて、子どもはいるん…、甥っ子一人いるんだけど、それ知的障害おとこで、で、これからどうすんのかなあって感じ。

黛:ああ、そうするとまあ弟は継いでるんだと、帰ってきて追い出すわけにもいかないわけか(笑)。

立岩:そりゃあもういてくれるだけでありがたいっていうか。おれも、親も最後の数年そこそこたいへんだったんですけど、まあ面倒みてくれたのは弟夫婦だし。まあ私は京都で。
 そうなんですよ、大学院生もたまって、人によったら10なん年いるしね、そういうのをかたしてりゃきりないし、あとさっきの資料を集めたり整理してるから、ぼくやると、自分の身、ものを書くだけだったら自分の身ひとつで、どこへでも、そりゃ南極でも北極でも佐渡でもいいですけどね、なかなかそういうわけにもいかず。まあ京都、もまあ、もうしばらくいるんでしょうね。

栗川:そうですよ、だって今立岩先生にいなくなられたら、もうどうにも危うい。子どもたちが***(2:37:42)。

立岩:山口くんだってもう二年生になったんだけど、まあまだ前期課程をしゅくしゅくとやってるから、これから先もあると。

栗川:ぼくはなんとか立岩先生がいる間に博論を出したいと思ってんだけど。

立岩:まあ栗川さんは楽勝ですよ。

栗川:いやいやいや。もうなんか道草ばっかり食ってて。

立岩:でもなんか道草食ったほうがいいっていうかな、いろんな副産物を出しながら、だってそうむちゃくちゃ急いでるわけでもないわけでしょ?

栗川:ああはい、急いではいないです。

立岩:だからいいんですよ、今ぐらいのペースでいろいろ、新潟ローカルにはまったりしながら。

黛:ああそうだな、でもえらいなあ、また勉強しようなんていう殊勝な気持ちを。おれもう金輪際勉強もうしたくないと。

栗川:勉強というかなんかやっぱこう調べて発見していくっていうのはおもしろいですよね、だからね。
 あと、やっぱり記録を残したい、みたいなところもありますね。



黛:そうだね、記録を。それはね、おれもちょっと引っかかっているのがあって。新潟水俣病がさ、胎児性水俣病が一人しか、公式にはね。でもさ、ほんとに一人だったんかどうかっていうのが、何か探る方法はないかなと思ってさ。
 ほいで、できたらはまぐみ、まあある程度重症な人ってのはみんなはまぐみを通過しているはずだから、だからね、はまぐみのカルテをぜんぶひっくり返してさ、ほしてこういう新潟県でプロットしてみたら、阿賀野川流域で対人口比でさ、そういう障害児者っていうのが多いのかどうかっていうことを突き止めれば、何らかのかたち、そう疫学的な調査で「一人ではないはずだ」ということが言えないのかなあと。
 それとあと脳性麻痺とちがって、ちょっと胎児性水俣病の人ってのはふつうの脳性麻痺とちょっとちがうんだよね。だから症状的にそういうので裏付けられれば、と思うんだけどね。でもおれも73でしょ。だから。[02:40:41]

栗川:いやまだまだ。

黛:うん。でこないだちょっとはまぐみに久しぶりに行って、カルテが紙のカルテなのかもう電子カルテになっちゃったのかね、確認してきたんだけど、まだ紙のカルテでやってるっていうから。

栗川:で、昔のは保存してある?

黛:うん、あるはずというか、はまぐみはね、ぜんぶとってあるんよ。だから、もう開所した時から、ふつうの病院っていうのは、もうカルテは何年か分だけで処分してもいいことになってるけれども、はまぐみっていうところは、あそこはいろんなちょっとめずらしい病気の人だとかさ、そういう人がいるからね、カルテみんなとってあんの。

栗川:そうすっとじゃあ当時脳性麻痺というふうに診断された人でも、実は胎児性水俣病だったかもしれないみたいな。

黛:うん、だからそういう可能性はあるんだけどね。

立岩:なんとこっちに小林茂っていう、その『阿賀に生きる』のカメラマンのページがあった。たまげた。へー。
 佐藤真って監督の?

黛:うん、死んだね。

立岩:あれたぶん大学の先輩なんですよ。おれたぶん佐藤さん、駒場か何かで見かけてると思うんだよ。

黛:線が細い人だったけどね。

立岩:いや、それは直接にその話聞きました。うち小泉っていう義之っていう哲学のやつが同僚、今特任教授なんですけど、彼、駒場時代の佐藤さん知ってたみたいで、そういうこと言ってましたね。

黛:おもしろい映画の作り方していてね、で自分が撮ったラッシュフィルムってのをさ、それをこうみんなで観ながら、「あ、これおもしろい場面だね」とかいう議論をしながらあの『阿賀に生きる』って作った感じなんだけどね。

立岩:そうですよね。ずっと住みこんでね、っていう人ですよね。

黛:おれもね、そのラッシュフィルムを観る会に何度か顔を出して観てるんだけれども。

立岩:やっぱそうですよ。東大の文学部哲学科卒だから、やっぱり、うん、小泉がかぶってるっていうか、関係してますね。57年生まれか。小泉さんが55年生まれぐらいだから、2年後輩ぐらいかな。

黛:だからおれ『阿賀に生きる』って最初にまとまったねフィルム観た時に、何だこれ、水俣病の映画ちゅうよりは、たんなる過疎のさ高齢化が進む集落のね記録じゃないかって、そういうふうに思ったもんね。うん。ほいで、それと同じようなこと今佐渡でね、進行してるし。

立岩:うーん、そうそう。ちょっと病気気味の人で、けっきょく高島平で飛び降り自殺っていう人ですよ。2007年に高島平団地で、って。享年49歳ですね。たぶん学生の時からあんまり学校行かないで、哲学の勉強なんかしないで、水俣の人たち、映画の助監督とか、助監督じゃないか、して、で映画撮った人ですね。
 いたんだよね、ある程度ね、そういう水俣に入り浸ってるみたいな学生が、私の先輩とかでもぽつぽつと。そういう人の一人というか、ですね。
 はいはいはい、92年か。92年に『阿賀に生きる』って。
 よしきた。いやあ、今回ほんとに長時間。めちゃくちゃ長時間おつきあいいただき、まことにありがとうぞんじます。[02:45:22]



黛:いや、おれは、立岩さんに嫌われてるんじゃねえかと、ずっと気になっていたんです。それが、

立岩:嫌われてないです。でもなんか、なんかね、それがぜんぜん思い出せないんですよ。新潟となんかのことで、なんか飲んだか飲まされたかなんですけど。その時なんか言われたんです、いやべつにそれ以上でも以下でもなく、話は高橋さんとかかからいろんな話を聞いており、ここ数年インタビューしたなかに4回ぐらい意外なところで名前が出、っていうので気になっておったんですよ。でなんで佐渡かちゅうの。あ、それでゆきぐに大和までつながるっていうの、きょう発見でしたね。

黛:あとね、人間関係で気になったのは、佐藤聡がさ、どうもおれを避けてるみたいでさ。会うと「おまえなんで六日町帰ってこねえんだよ」って言うからさ、

立岩:え、何で言う? 佐藤さんが言うの?

黛:おれが言うの。「東京でそんなやってないでちゃんと地元に戻ってやれよ」ってさ。

立岩:言われるから避けるのかな? いやでもぼくは佐藤さんからインタビューした時そういう悪い感じではなかったです。彼はけっきょく関学で兵庫に行っちゃって、で関学の運動に染まってっていうか。あそこいっぱい頚損と脊損の先輩がいて、その人たちがメインストリーム協会。一時はほんとにメインストリームに骨をうずめるぐらいの気持ちだった、だけど呼ばれて、DPI(ディーピーアイ)に呼ばれて、しょうがなく東京に行って。
 まあDPIも若手ってそんないませんから、頼りにされ、覚悟を決めて。
 みんなそうですよ、尾上さん★って大阪にいた人も、大阪市大か、で、呼ばれて、事務局長になって、大阪のほうがほんとはいいわけですよ。で大阪行ったらもう20年か、辞められないっていうか。でようやくもう帰ってきて。でその代わりが佐藤さん。
 あれね、新潟に戻そうったって無理ですよ。やっぱ今もうほんと全国の重責を担ってるから、あれは無理。かわいそうに東京にしばられて、ストレスの多い仕事してんだと思うんですよ。
 そう佐藤、で富山の人二人とか、ぽつぽつ出てくるわけですよ。
 意外と暑いな、ほんとに。
 じゃあありがとうございました、ほんとに。

[02:48:28]音声終了


UP:20220821 REV:
黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動  ◇声の記録(インタビュー記録他)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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