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黛正氏インタビュー・2

20220521 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀

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黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

 ※いくつかに分けた記録の2です。
黛 正 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)(本頁)
黛 正 i2022c インタビュー・3 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022d インタビュー・4 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022e インタビュー・5 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022f インタビュー・6 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
黛 正 i2022g インタビュー・7 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
黛 正 i2022h インタビュー・8 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館

◇文字起こし:ココペリ121 20220521黛正(於:新潟市・魚沼釜蔵ぼんしゅ館)_205分 〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。




立岩:黛さんって何年生まれですか?

黛:おれ49年生まれ。

立岩:49。じゃあ50より手前なんだ。そうすると40、ほんとに団塊世代。[00:25:05]

黛:うん。だから団塊の世代の終わりかね。

立岩:49年何月何日?

黛:49年12月22◇。

立岩:高校3年間で新潟大学に入ったんですか?

黛:高校で、1年浪人して入った。

栗川:黛さんって群馬でしたっけ?

黛:群馬、もともとは。

立岩:じゃあもともと新潟ローカルってわけでもないんだ。

黛:ああ。で、大学入ったけどそのころはもうみんなバリケード封鎖されてたじゃない? だから、大学っていうのはめしを食いに行くところでさ。それ以外は、ぷらぷら。

立岩:まだバリ封ってやってた? 新潟も?

黛:うん。やってたから、おれなんか入学式なかったよ。ほんで夏休みの前にちょこっと機動隊が入ってバリケード封鎖解除されて、それで授業みたいなの始まったけどすぐ夏休み入って。それでもう2学期はまたバリケードに使われて、授業なくて。

立岩:もう一回作っちゃった。

黛:うん。

立岩:群馬だったら群馬大の医学部もあるじゃないですか。新潟、入りやすかった的なことだけだったのか、何かあったんですか?

黛:うん。そうそう、それだけ。

立岩:それだけ。群馬大のほうが難しかったですか?

黛:群馬大…。いや、そうじゃないんだけどね、新潟大学って数学が200点だったんよ、その時。細かい話だと。おれはどちらかというと数学が得意で、語学とか、英語だとか国語だめだったから。

栗川:ほかのが100点なのに数学が200点。

黛:うん。だから郡大よりは新潟のほうが入りやすかったっちゅうかね。

立岩:新潟でなんかちょっと勉強できると「新潟大学の医学部に行け」って言われるよね。言われるんだよ、新潟県民は。私もちょっと言われて、「やだ」つって。医者なんかやるのはやだって。

黛:それとね、東京には行きたくないと思ったよ。浪人してるときに一度自宅浪人してたんだけども、夏休みに夏季セミナーとかいうので新宿行ったことあるんよ。そしたら歩行者天国でさ、人がわさわさわさーっと動いてるのを見て気持ち悪くなって、ほいで帰ってきてしまったんだけどさ。で、東京は、

栗川:都会は無理だなって。

立岩:群馬ったって大きい街もあるじゃないですか。群馬のさらに田舎ですか?

黛:群馬の田舎。群馬の田舎で、おれびっくりしたんだけど、タヌキだとかサルが出るところだからさ。

立岩:今は何市? あるいは何町っていう、

黛:安中市で。軽井沢があるじゃん、軽井沢でさ、峠の上は涼しいけれども、峠の下に住んでたわけ。いちばん関東平野のどんづまりで暑いところ。だからほんとにやっぱり、田舎だよね。でも田舎だけれどね、やっぱり今ときどき実家に行ったりすると、ずいぶん違うなと思うのは、やっぱり陸地続きだからすごい東京の衛星県なっちゃってるよね。

立岩:今はね。

黛:おれ、佐渡がいいのはね、そういうのがなくってさ。おれがまだ子どもだったころの雰囲気が残ってるのはいいなと思う。人の関係っていうかな、それのいやなところも含めてね。

立岩:あー、そうですね。じゃあ群馬の真ん中か。

黛:うん。

立岩:群馬の田舎か。

黛:うん。

栗川:高校ってどこだったんですか? 安中の高校?

黛:高崎まで出た。

栗川:高崎高校。それは電車か何かあんの? 

黛:電車で30分ぐらい。

立岩:それで高崎まで出るの?

黛:昔はね。今は電車の数はずいぶん減ったしね。

立岩:そっか。かえって昔のほうが便利だったぐらいですかね。

栗川:信越本線ですか? 安中って。

黛:信越本線がずーっと続いていたのを。

栗川:横川とか、

黛:横川線いま、

栗川:切れちゃってるけど。

黛:うん。切れちゃったじゃない、なくなって。

栗川:それのもうちょい軽井沢いったとこですか? 横川でしたっけ? [00:30:02]

黛:横川の先。だから軽井沢まで行けば涼しいんよ、夏。でもその碓氷峠にさ、サルの集団がいるんよ(笑)。で、「餌くれ」「餌くれ」言うてさ、車なんか通るとね。おれたちが子どものころそんなサルいなかったんだけどね。

立岩:話戻すと、とにかく1年浪人して新潟大学入りました、でもバリストで、まあ解除されたけど、秋行ったらまたバリケードだった。暇っちゃ暇だったってこと?

黛:うん。だから暇でさ。それでね、おれは大学に入ったらね、自分の好き勝手にやれると思ってたわけよ。あのころまだ文学少年だったからさ。

立岩:はいはいはい。田舎の人の持ちがちな幻想ですね。ぼくもそうです。

黛:でさ、『伊豆の踊子』じゃないけどもね、学生はさ、大学生ちゅうのはさ、マントをしてぷらぷらぷらぷらしてたら女の子が寄ってくるだろうって思ってたわけよ(笑)。そしたらさ、ぜんぜん違うじゃん、雰囲気が。で、バリケード封鎖が解除されてから授業始まったらさ、出席なんかとってんだよ。だからそれでちょっと幻滅して。
 そもそもね、最初っから医者になろうとは思ってなかったっていうかね。たまたま「医学部入れるよ、入れるかもしれんよ」っていうのでこっちに、新潟に流れてきたんだけどさ。医学部って潰しがきがないじゃない? 医者になるしかないつうかね。ほんで早い時期にね、医者になるかどうかちょっと決めないとまずいなあと思っていた時に、福井達雨★っていうるじゃん? 止揚学園のね。あの人の影響ちゅうかな、あの人の本を読んでわざわざ滋賀県まで会いに行って。

立岩:行ったんですか? 福井さんのところに?

黛:うん。ほんで、最初福井さんと会った時にはけんかして帰ってきたわけよ。ジーンズのさ、ぼろぼろの切れたような、すり切れたようなやつ、かっこして行ったらさ、「お前みたいな汚いかっこして来るな」って言ってね。知的障害の人ったらさ、影響を受けやすいから。で、「お前みたいな汚いのが来ると、この子らすぐ影響受けるから」ってね。ほいでまあいろいろね、「何言ってるか! わざわざ新潟から来たんだぞ」とか、何かいろいろ議論したんだけどね。
 ▽彼が別れ際に言ったのが、「お前な、わざわざこの滋賀くんだりまで来なくっても新潟にだって障害者だっているわけで、それを、ほんとにお前が障害者の人と付き合いたいんだったらね新潟で付き合えばいいじゃないか」って言われて、それで新潟へ帰ってきてはまぐみ学園に行って、ボランティアになったわけよ。▽

立岩:それって覚えてるんだったら、医学部の何年生だったんですか? 1年生? 2年生?

黛:2年生。それはよく覚えてる。

立岩:福井さんとこ行った季節とか覚えてる?

黛: 2年の、2年になる春。4月ごろ。

立岩:もう1年終わって、2年目の2年生になったぐらいの時に福井さんのとこ行って、服装のことをとがめられ、帰り際に「地元でやれ」って言われた。それでだけどさ、だからってはまぐみ学園知ってるってことにはなんないじゃないですか。

黛:ん? だっておれ、そのころぜんぜん障害者の人、地元じゃ知らなかったわけよ。それで、施設っていったら新潟だったらはまぐみ学園だったわけよ。

立岩:そういうもんだったの? 新潟市的には?

黛:ああ。だから、新潟でいわゆる「障害者の相談」に乗ってるっていうところはあそこだけだってことで。
 それでね、高橋芳子っていうさ、ボランティアの。

栗川:ボランティアの母みたいな人です。高橋芳子さん。

立岩:新潟の?

栗川:ボランティアセンターの初代の所長。

黛:そうそう。だから新潟の福祉の…、

立岩:ヨシコって名前覚えてる? 名前の漢字。「ヨシ」ってどういう字?

黛:ヨシってのはね、「芳」。

栗川:かんばしいですね。くさかんむり。

立岩:かんばしいのほうですね。[00:35:00]

黛:ほいでね、おれ昔…、

栗川:まだ元気かもしんない。

黛:もう死んだ。

栗川:死にました? 芳子さん。

黛:去年の暮死んだ。ほんで、今、高橋マサコさんって知ってる?

栗川:マサコさん、娘さん。

黛:え、娘っていうか。

栗川:娘婿っていうか。

黛:ああ、婿ね。チヒロの。

栗川:息子の嫁さん。マサコさん。

黛:うん。おれ、冗談半分にさ言ってるだけだよ。アンリさんってインタビューしたことある? 

立岩:インタビューしてないけど、篠田さんと話してたら、これこれこうでああでこうでっていう話をほぼ初めて聞いて、「へえー」って。

黛:新潟の福祉をだめにした三人の人っちゅうのはさ、だから、アンリさんと高橋芳子とおれ。障害者甘やかしすぎてさ。

栗川:だめでしたね、三人ね。ある意味じゃ一生懸命支えた人たちってことですよね。

黛:健常者の側から一生懸命支えすぎて、だめにした。

栗川:ぼくもだから失明した最初、伊勢丹のわきのとこに新潟市ボランティアセンターっていうのが昔あって、そこに高橋芳子さん所長でいて。最初見えなくなった時に「どうしたらいいでしょうか?」って相談に行って、朗読ボランティア紹介してもらって、みたいなのがスタート。

黛:栗川さんいくつぐらいで失明したの?

栗川:20代後半かな。1987年とかですね。で、アンリさんと芳子さんね、みんなクリスチャン。全員クリスチャン、三人とも。

黛:おれ新潟来たのは69年だから、じゃあその時。

立岩:じゃあはまぐみで、それで、じゃあ地元でやれって言われて、それももっともだと思って、で、新潟市だったらはまぐみ学園だってことになって。

黛:これは?

立岩:あとで。もし持ってなかったら差し上げます。

黛:これ持ってない。もらっていい?

立岩:はい。差し上げるために持ってきました。あとで***(00:37:37)。
 じゃあもう2年生のはじめぐらいにはまぐみ学園に行ってみた?

黛:うん。だから、おれがね、あの…。何? これはもう明日の話のあれなの?

立岩:もういいの。だから、今日終わる分は今日終わってもよくて、明日なんにもすることがなければ、だらだらして、

黛:ああ、わかった。
 うーんとね、え? 何だっけ?

立岩:はまぐみ学園行きました、で、何だったんですか? って聞いてる。

黛:あのころの医者でさ、園長やっていたのが【倉田久介】(00:38:37)といってさ。新潟大学の助教授までやったのかな。整形外科でさ、いっぱい手術をして。で、はまぐみに来た時には、もう手術はあんまりよくないと反省していた医者なんだけれども。

栗川:手術って何の手術ですか?

黛:昔はいちおうはまぐみ学園っていうのは、肢体不自由施設だったから。だからポリオの手術をやったんだろうと思うのね。で、ポリオはもうおれがはまぐみに付き合い始めたころはもう終わっていたから。

立岩:そうですね。

黛:で、脳性麻痺の人のがだんだん増えてきていた時代で。で、その時にね、篠田ともう一人、もうこれこいつ死んだけれども、田村っていうさ、ちょっと変わった…。

ようこ:亡くなりましたよね。田村さんなくなりました。

黛:うん、亡くなった。その田村ってのが小学校の5年、6年で、ちょうど思春期を迎える時期だってね。で、その時にさ、おれその園長と話をしてボランティアさしてもらうときに、「もしボランティアに来てくれるんだったら、その田村と篠田がちょうど思春期を迎えて、ほいでいろいろ悩んでるみたいだから、それの話し相手になってくれないか」っていうことで。もうふつうのね、どういうかな、ガーゼ畳んだりとかそういうボランティアとぜんぜん違って、そういう、どういうのかな…遊び友だちみたいな感じで入ったわけ。[00:40:27]

立岩:じゃあもう園長さんに、その、倉田?

山口:きゅうすけですか?

黛:うん。載ってる?

山口:いや、論文の何か著者にちょっと出てくるだけ。

立岩:「クラ」はあのくらね? 倉敷の倉で田んぼの田で、久しいに介。

黛:そう、うん。
 そいでね、その人はずいぶんおれに期待をしてくれたっていうのは変な言い方だけども、「医学部を出て、ゆくゆくははまぐみ勤めてくれないか?」みたいなことを言っていて。おれはまぐみの院長になる予定だったよ。

栗川:あー、なるほど。

黛:それ乗っとったら、うん。

栗川:そのルートに乗ったわけですね、そのルートに。

黛:いや。ほんでそのはまぐみ学園の園長になったら、なんかけっこういろんなことできるんじゃないかと思ったんだけどさ。うん。まあそれはそうじゃなくなってしまったんだけどさ。
 で、そこで篠田とか田村と付き合い始めたのが、はじめでね。

栗川:田村さんって下の名前何ていうんですか?

黛:田村ヨシタカ。

栗川:ヨシタカ。やっぱ脳性麻痺?

黛:脳性麻痺。

栗川:篠田さんと同じ年?

黛:彼が半年ぐらい上だったのかな。

立岩:はまぐみって、ちなみにその子どもから大人までいるような施設だったんですか?

黛:じゃない、児童施設。

立岩:18未満までって。

黛:うん。

立岩:だけど…ってよくありがちなやつは、18過ぎてもほかに行くとこなければそこにまだいるっていうんで、

黛:いや、そうじゃなくって、そこはあくまでもやっぱり病院だったわけ、基本的に。で、病院で、そのころは2、3年かな。病気によっては養護学校に行くまで5、6年いた子なんかもいるけれどもね。基本的には「治療して帰す」っていうね、「帰すべきところに帰す」というのがそのはまぐみの…、[00:42:53]

(料理についての会話)

[00:44:04]

立岩:長期間いるところではない?

黛:長期間いるところではなくてね。だから篠田、田村も1年か2年ぐらいですぐ退院してる。

山口:篠田さんは18年に入って、一回家戻って、70年にまた来たって感じです。

黛:68年?

山口:68年に来て。

黛:そんなことまでわかんの?

山口:本に書いてあったんです。

黛:ああ、本に。
 だからそのころさ、まあもうあれだな、田村死んだからいいけどもさ、言っても。小学校6年生ぐらいでさ、「何々先生が好きだ」とかさ(笑)。

栗川:女の先生?

黛:うん。そいでさ、[00:45:01]

栗川:恋心がね。
 じゃあそのころって…。今はまぐみって養護学校じゃないですか? 今は「はまぐみ養護学校」。

黛:いやだから、あのころは、あのころも病院と養護学校っていうかな、の分校が。

栗川:はまぐみ分校があったんですか?

黛:うん。昔分校だった。今は独立した。

栗川:けど当時では、「新潟養護学校のはまぐみ分校」。病院にくっついてるという。

立岩:併設であるパータンだね。国療とかそんな感じだもんね。

ようこ:何年ぐらい前まで分校でした?

黛:おれが辞めるころはまだ分校だったのかなあ? 90年ぐらいじゃないですかね。本校ちゅうか。

ようこ:***(00:46:03)私高校生の時にボランティアで行ったんですよ。最初、なんか子どもたちと一緒に遊んだり、指人形劇みたいなのやったり。意気揚々と行ったら高校生の時に、先生に、

黛:学校のほうに行った?

ようこ:そうそう。うちの子どもたち目が肥えてるから、「生半可なもん作ってくるなら来ないでくれ」って言われて、すごいショックで。でも、それでもう一回次に行ったら、「がんばってきたんだね」って言われて。「はい」って言ったら、褒めてくれて。そういうのすごく思って。そのあとはそれじゃなくって、行って子どもたちとちょっと遊ばせてもらったり、何か畳むの手伝ったりとか。2年ぐらい行ってました。

立岩:それってどういうルートでそういうとことつながるんですか?

ようこ:とつぜん行ったんですよ。

立岩:とつぜんって何? ちょっと意味わかんないんだけど。

ようこ:はまぐみ学園の近くの、

栗川:この人は新潟中央高校っていう、

黛:ああ、中央高校ね。

栗川:ちょっと海のほうへ行くとすぐはまぐみがあるんだ。

立岩:近い? 物理的に近いんですか?

ようこ:それで、「どこかに行って、誰かの役に立ちたいよね」っていう話になって。

立岩:それが中央高校の諸君が、何人かそういう、

ようこ:「新潟子どもの会」っていう会を作ったんです。立ち上げたんです。

立岩:自分で?

ようこ:三人で。

立岩:同じ高校の?

ようこ:そうそう、三人で。

黛:サークル。

ようこ:サークル。

立岩:女子高生。

ようこ:そう。「新潟子どもの会」っていうの作ったんです。それで、「あんたたちはどういう、どの部だ?」って言ったら、「新潟子どもの会です」「そういうのあった?」「作りました、昨日」みたいな。で、「どうするつもりだ」って言ったら、「はまぐみに行って何かお手伝いできることはないか」って話を聞いて、そこで一回は玉砕したんですけど、二回目はそうやっていろいろやってもらって。

立岩:受入れられて、それで入り始めたのは何年だったっていうのわかります?

ようこ:ちょっと待ってくださいね。

立岩:現役の高校生だった時?

ようこ:高校2年生の時。

栗川:高校2年生だから、1955年生まれだから、

ようこ:しゃべっちゃった。

栗川:プラス17だから、

ようこ:そんなもんです。

栗川:1972年ぐらい。

ようこ:そんな感じです。

栗川:黛さんが行きはじめたぐらいのちょっと後ぐらいかな。

黛:おー、じゃあ同じぐらいだね。

立岩:ちょっと***(00:48:42)ぐらいの感じですね、72年だから。

山口:そのころって学校は町にあったんですか? ***(00:48:47)今のところにあったんですか?

黛:ずっと今のところ。

ようこ:あのころはまだ、教養課程もぜんぶ同じとこでやってましたよ。

栗川:新大3はね。

ようこ:新大の教養課程。

黛:教養課程は移転闘争をやっていたんだよね、ちょうど。

ようこ:うん。途中で五十嵐のほうに移って、ほかの学部も移って。

立岩:わかんねーわー。でもあれ、共通一次試験って、ぼく新潟大学行って。だから、

栗川:ぼくはね、共通一次の1年前だからそれ通らずに済んだけど、立岩先生たちが一期生だもん。

立岩:ぼく共通一次の第一世代。船に乗ってさ、みんなで団体で。

栗川:佐渡でやってないんですか?

立岩:佐渡その時会場なかった。みんな新潟大学行って、みんなで。なーんか前の晩酒飲むやつはいるわ…。

栗川:で、マークシート?

立岩:マークシートですよ、マークシートやりましたよ、私。

ようこ:私、会場の設営やりましたよ。あのころ大学の職員だった。

立岩:あ、そうなんだ。
 それで、そっちはそっちでそのあと続いたんですか? その、はまぐみ。だいたい「はまぐみ」っていうのは何なの? 言葉としての意味は。[00:50:05]


UP:20220821 REV:
黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動  ◇声の記録(インタビュー記録他)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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