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黛正氏インタビュー・6

20220522 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀

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黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

 ※いくつかに分けた記録の6です。
黛 正 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)(本頁)
黛 正 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022c インタビュー・3 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022d インタビュー・4 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022e インタビュー・5 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022f インタビュー・6 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
黛 正 i2022g インタビュー・7 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
黛 正 i2022h インタビュー・8 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館

◇文字起こし:ココペリ121 20220522黛正(於:新潟市総合福祉会館)_169分
〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)




立岩:黛さん、昨日いっぱい働かせてしまって。ぼくは6割がた。

黛:そうね、話をすることもほとんどなくなったんだけどさ。

山口:年表を。

黛:あ、これは入ってたな。これはね、佐渡に移る時にかな。佐渡に移る時に新潟の運動をちょっとまとめて、話し手がないかっていって、まとめたときの年表っていうかな、じゃないかなと思うんだけどね。

立岩:ちなみに「まゆずみ」は一字の黛で、「ただし」ってどういう字なんですか?

黛:ただしは正月の正。

立岩:あ、じゃあ二字で名前終わりっていう人か。

黛:うん。

立岩:だいたいきのう、なんで、っていうあたりで、その医学部時代から、はまぐみ学園っていう話はだいぶうかがって、わたし的には謎が解けたので、けっこうぼくは満足してます。きょうはちょっと。

黛:だからね、ずーっとね、だからおれはまじめにこういう…、まじめにっていうかな、運動やってきたっていうよりはボランティア、ここらへんでもそうなんだけど、ずーっと夏のキャンプだとかさ、そういう篠田とか田村とか、あと千草の舎に関わるのを個人的にやってきたんだよね。
 うん、そうだな、昨日話はしてないけど、それがね、すこし限界に達したわけよ。そういう障害者仲間だけでね、ごちゃごちゃやっていてもなかなか広がらないなっていう時に、これね、84年、「けっとばせトマホーク、許すな軍拡、定例デモ」ってのをね、これは集会があって、そのあとじゃあ定例で毎月定例のデモをやらないかっていうのでね、少ない時は3、4人で、多い時でも10人ぐらいのメンバーだったんだけど、それをこう始まったわけ◇。
 で、そういうのにかかわっていれば多少はボランティアやってくれる人が増えるかなあと思ったんだよね。そういうグループ…、平和運動だとかそういうのにかかわってる連中だったら障害者問題にも関心をもってくれるだろうかというので、この定例デモなんかに参加して、あといろんな市民運動をして、85年ぐらいからあれだよね、X(エックス)デー関連のいろんな天皇制のことにからむグループみたいなの出てきたりとかね、そういうのがいろいろあったりして、それをずーっと原発問題から平和問題から天皇制の問題から、みんなあらゆる市民運動に顔を出していたんよ。だけどぜんぜん、まあおれがそういう市民運動に顔を出すけれども、彼らがこっち側に入ってきてはくれなかったっていうかね。うん。
 で、ちょっと悪口的になっちゃうんだけども、新潟で言うとさ、ちょうどそのメンバーに武田貞彦☆っているじゃない? まあ今、

栗川:あれ、議員もやりましたっけ? ひところ。

黛:県議をやっていたね。

参加者:ジーパンかなんかの人。

黛:うーんちがうちがう。それは山田、山田達也。

立岩:たけだかずひこ?

黛:たけださだひこ。

立岩:たけは、たけ?

黛:うん、あの、たけ。

立岩:武士の武に、彦。はいはい。[00:04:25]

黛:ほいでね、彼は今、医療生協っていうかな、NPO(エヌピーオー)で介護事業やってるんだけどね。まあそのころは自治労の事務局っていうかな、自治労に勤めていて、で、いっしょにやっていたんだけれども、そのころはぜんぜんだから福祉なんかね、関心持ってなかったわけ。ほいで、商売に、まあその自治労辞めてから議員をやって、議員も落選してから仕事がないからっていうので今その介護事業なんかに関心を持って今やってるんだけれども。だからそういう意味じゃ、「なんでだよ、おまえら金になるときには福祉に関わるけれども」っていう気はするんだけれども。
 で、一時期だから、武田貞彦なんかが、市民新党新潟ってのを作ろうってね、地方政党を作ろうっていって、そして声かけられたんだけれども、まあおれは政治には興味ないよっていうかね、って言って参加しなかったんだけども。ほいで代わりに広島さんがその市民新党のメンバーに入って、いろいろ福祉の部分での提案みたいのをしてくれていたんだけれどね。
 それとか、今新潟の市議やってる中山均☆。彼なんかも、「けっとばせトマホーク 許すな軍拡定例デモ」なんかのメンバーだったんだけれども。

立岩:なかやま?

黛:中山均。

立岩:ひとしは?

栗川:ひとしはどういう字書くのかな?

ようこ:均一の均。

黛:彼は歯学部出て、おれよりいくつぐらい…、ちょっと下なのか。

栗川:ぼくと高校同級生だから、

黛:あ、そう。

栗川:1959年ぐらいです、たぶん。同期っていうか、クラスは同じことになる、同じ時はないですけど。

黛:だから、彼らは、だから武田貞彦にしても中山均にしても、政治が好きなんだよね。だからまあおれは「政治が好きだ」っていうより政治っていうのはあくまでも現場っていうかね、福祉とかそういうものを動かすツールだろうと思っていたから、うん。あんまりそういう意味では政治にね足突っ込んでもしょうがないなあと思っていたんだけども。

栗川:そういうデモとかのときは、篠田さんたちもいっしょに行って、

黛:うーん、篠田なんかが出てきてない。うん。だからほんとうに、だからおれがそこに行って、ボランティアになってくれそうな人がいないかなあって漁っていろいろ市民運動ね参加していたころだから。

立岩:そうか、思い出した。たぶん大学院生かそのころで、知り合いに誘われて横須賀まで見物に行ったよ。で、そしたら警察に職務質問されてさ、っていうのはちょっと思い出した。

黛:だから85年でしょ。で85年からね、京都で日の丸・君が代の全国の調査があって、それからこういう学校にいろんな締め付けがあるようになったりしてるんだ、うん。それで新潟で「天皇制を考える新潟県連絡会」ってのができて。そして、まあいろんな党派っていうかなあ、新左翼系のいろんな人が入ってきていて、まあおれがいちばん中立だってことでいちおう代表させられたりとかね、して。それで天皇制の問題とか、あと沖縄とかかわりだしたのが87年ぐらいかな。87年に、人間の鎖っていうのがあってね、嘉手納基地を人間の鎖で包囲しようってのが、イベントがあって、それに行ったのが沖縄とのかかわりのはじめごろだね。で、そのあと知花昌一が日の丸焼いて裁判になったりして、その支援する会を作ったりってのが。で、だからずーっとそれでまあ、あとXデーまでね、89年の、それぐらいまでほんとにいろいろと市民運動かかわってきたけれども、ほとんど人が障害者問題には関心を持ってくれなかったからね。
 だからそれであきらめたっていうのは変な言い方だけども、だからまあ、あの人たちはしょうがない、じゃあ勝手にやってくれよ、おれもまあつきあえるところはつきあうけれどもね、障害者の問題を自分たちだけでやらざるをえないだろうっていうので戻ってきたような感じでね。
 だからた武田貞彦だとか中山均ちゃんなんかにしてみれば、黛正っていうのは障害者問題にかかわってる医者っていうよりはさ、市民活動家だと思われているっちゅうかね。[00:10:42]

立岩:80年代のなかば、後半って、東京とかだとけっこう自治労とのつながりはあって、彼も話聞いたほうがいいな、八柳さん☆って、ちょっとした障害持ってる人なんだけど、自治労の建物とか使わせてもらったりとかしながら、あそこは養護学校とのからみで自治労と共産党系の組合とがちゃがちゃってのもあったし、そんなんで、東京はその80年代5、6年で、「障害者の10年を考える研究会」☆みたいなのがあって、私はそれの末席というか見物客で出てったんですよね。
 で、国会議員やった石毛さんとか、その自治労の系関係者とか、何年かしてなりますけど、二日市安さん(1929〜2008)とか、おもに二日市安さんの世田谷の砧のお宅で研究会っていうか、をやってた時期ですね。そういう意味で東京のある部分は組合っていってもほぼ自治労ですけど、自治労の一部とかかわってたっていうのは記憶にありますね。
 平和運動って意外と接続悪い感じですね。障害者のこととね。

黛:うん、だからまあ障害者もあまりそういうのに関心なかったしね。

立岩:そうかもしれないなあ。けっこう関東のほうだと三里塚あるじゃないですか。三里塚に自ら行ったと言えるのか、それともほだされてっていうか、かつがれてっていうか、そういう障害者系の人が行ったりとかっていうのはあった☆。

黛:桐沢★なんかはだから、新潟の中核に連れられてちょこちょこ行ってたけどね、三里塚に。で、中核の人たちが中心になって桐沢の介護体制作っていたんだけどね。

立岩:党派でもそうですね、中核と解放、四トロ、まあそのへんがちょっとかかわって。私なんかものちに立川で自立生活センター・立川の関係者とわりと長いことつきあってますけど、そのやっぱり初期のずっといっしょにやってた人っていうのは、三里塚で泊まりこんでっていう、そういう経歴の持ち主だったんでね。わたし的にはそのへんのなんかごちゃごちゃつるんでる感じあるけど、そっちのほうがたまたまだったのかもしれないですよね。
 ほんでさ、そうやってそっちのほうはいろいろやってたけど、そんなに障害者がらみだと接続しないっていうか。

■和田博夫

黛:しなかったよね。あ、そうそう、それでね、きょうちょっと話(はな)しとこうかなと思うのは、おれの記憶のなかでさ、障害者の人のこういう死んでるのって、まあ死んだ人にね何人か会ってるんだけれども、一つはね、その千草の舎で、おおのくんっていう人がいてね。で、彼はいわゆる痙性麻痺っていうかな、脳痙性四肢麻痺の人なんだけれども、ひざでひざ歩きみたいなのをして移動していた人なんだけどね。でその彼がね、東京でさ、国立の障害…、新宿にあった国立障害者センターだったかな、の移転闘争に反対をした和田〔博夫〕★ていう医者いるじゃない? [00:15:15]

立岩:はいはい、います、医者で。

黛:和田、何ていったかな、で、千草の舎のね、本間さんっていうおばさんが、その和田先生のファンだったわけ。ほいで、そのおおのくんを診察した和田さんは、「いや手術すりゃあ歩けるようになるよ」って言って手術を勧めたわけ。でちょうどおれがね卒業して医者になった最初の…、医者になったばかりの4月か5月ぐらいにその、【真岡】(00:15:57)のね、何園だったかな【真岡】(00:16:02)に、えー、施設があるんだよね、うーんとなんとか【れいうん】(00:16:12)。ちょっと名前忘れちゃったけれども。

栗川:いや、増田さんの論文を見ると出てくる可能性も。

立岩:はい、移転闘争ありました。それこそ二日市さんの本があって、『私的障害者運動史』(1979)っていう、たいまつ新書とかいう、それこそ新左翼系の新書ですね。

黛:ああ、新書ね、小っちゃいのあるね。

立岩:赤い表紙の。

黛:それでね、そこでその和田さんが手術をするのをおれ、そのいっしょに手術に入れてもらって、どんな手術をするのか見せてもらったことあるんだけれども。あー、今思うとあの人の手術ってポリオの人に対する手術なんだよね。ポリオのこう麻痺があって硬縮をしていた筋肉を、それは切り離しまっすぐにすれば。でまっすぐになれば、ひざが曲がってね、硬縮があるまんまだと歩けないけれども、ひざがまっすぐになれば歩けるはず、この人は歩けるはずだ、みたいなことで手術をやってね。まあおれは最初の一回だけ見て、「いやこれちょっとひどいな、こんなで歩けるようになるのかな」と思っていたんだけれども、そのあとね3回ぐらい手術を続けてして、そして、あの、発熱して死んでるわけ。

立岩:和田さんとこで手術をした。

栗川:で発熱して。

黛:うん。

立岩:和田博夫ですね。博士の博に夫の。

黛:そいでね、だからそれはね、ずーっとそのあとおれがはまぐみで自分が手術することになった…、側に立ったときにもずっと引きずっていたんだけれども、ちょっと…ね、脳性麻痺の人に対する手術としてはお粗末だったかなとずっと思っているんだけどね。

立岩:そうなんです。でもけっこう一時期信奉者っていうか、信者みたいな人がけっこういたんよね。

黛:で、その神様みたいにさ、思われていた時期。で、もうあの人も死んだよね。

立岩:と思いますよ。国立身体障害センターか、そこで手術やってて、センターがどういう理由かくわしくは覚えてませんけど、手術をやめさせるっていう話になったときに、そこにいた人たちが、いやその…、まあ信者たちっていうかね、が手術続けろってことで闘争があった。そのあとの障害者運動みたいなのとはかなり異質な部分もありますよね。「手術をしろ」っていう、そのため座り込みだからね。

黛:ただね、たしか二日市さんの『私的障害者運動史』っていうかな、あれなんか読んでみてもね、けっこうずるい動きしてんだよね、和田さんてさ。自分が医者としての自分の主張を通すために、自分の患者さんを使ったりとかさ。そんな感じだよ。

立岩:戻りますけど、亡くなったかたっていうのは、もういっぺん名前が?

黛:えっとね、おおのひろむだったな。[00:20:08]

立岩:ひろむってどういう字?
 何年ぐらいに手術したとか、何年ぐらいに亡くなったとかおわかりですか?

黛:えっとね、おれが医者になった77年か8年ぐらいじゃないかな。

立岩:なんか書いてある。

山口:「私が大学卒業して医者になった…」

立岩:この人がそうなんですかね? O(オー)さんっていうのがここの、

黛:ああ、そうね。

立岩:ここに出てくるOくんっつうのがおおのさんなんだ。

黛:おおのさん、おお、うん。

立岩:はいはい。
「ちょうど私が大学を卒業して医者になった年に彼はどうしても自分の足で歩けるようになりたいっていうことで手術を受けるわけです」と。「最初の手術を…」栃木の施設か。この栃木の施設が…ちょっとあとで調べてときますわ。「受けるんですが、それを見せてもらい」っていうのは、実際に黛さんがここに行ったってこと?

黛:うん。

立岩:手術室に?

黛:手術室入ってだから、だから彼が主治医、執刀医で、でおれは助手で入って。

立岩:じゃあもうたんなる見物人ではなくて、手術の助手っていうかたちで。

黛:うん。

立岩:それは具体…、足ですか?

黛:足。膝をね、膝が伸びなかったからっていうので、膝のハムストリングっていうね筋肉を切るんだけどもさ、それをばさばさって切ってさ、「えー、こんなに切っていいの?」って思うぐらいさ、「思いきって切らないとだめなんだよ」みたいなことを言いながらさ、やってたんだよね。

立岩:ちょっと待てよ。黛さんが医者になった年。一浪して、学校入って一年留年して、一年国試に落ちて、でけっきょく何年に?

黛:77年に国家試験受かったんじゃないかな◇。

立岩:77年にその手術に立ち会ったっていうことになんのかな?

黛:うーん、だと思う。で、まあおれその時にね感じたのは、「あ、障害者の人っていうのはこんな自分の命をかけてまで治療しないとだめなのかな」っていうのを感じたんだよね。彼の死でっていうかな。
 それとあともう一人ね、そういうおれとしては反省しなきゃだめだなあと思っている人っていうのがやっぱり千草の舎で亡くなっている人で、じゅんちゃんっていうのがね、何じゅんちゃんだったかね、「じゅんちゃんじゅんちゃん」って言ってたから、なんばじゅんこだったかな? うん。あの…、その彼女は重度の重複障害の人でさ、で、咀嚼っていうかな、飲み込みが悪くてさ、いつもぜいぜい言っていた子なんだけどもね。で、おれはまぐみに勤めはじめてはじめのころだったかな、79年から80年ごろだと思うんだけれども、じゅんちゃんは咀嚼の訓練をしたらいいんじゃないんかってね。で、ただいつもぜいぜいいいながら食事をするのはたいへんだから、すこし訓練をして、もうすこし咀嚼がうまくなったほうがいいんじゃないんだろうかなと思って、はまぐみの言語療法士にオーダー出して、で、そういう咀嚼の訓練をしてもらったわけ。で、まあそれはね、多少食べさせ方が良くなって、ぜいぜいいうのはすこし少なくなったんだけれども、でその子をね、養護学校の訪問の担当していた先生がさ、日曜日連れだしてさラーメンを食べさせて、それでのどにつかえて、上手に食べられるように少しなったからっていうのでラーメンを食べさせて、それをのどにつかえて死んでしまうっていうのがあってね。
 だから手術も問題があるし、その訓練もやっぱり限界があるんだなあっていうかね。それをね、その二人の死んだのってそこにも書いたはずなんだけれども、おれにとってはこういうショックで、だからおれ流に言うと医療モデルっていうのは捨てないとだめなんだなっていうかね、っていうのを考えさせられたできごとなんだけれどもね。[00:25:53]

立岩:おおのさんていうのはじゃあ77年にね、黛さんが医者になって、その年に手術があったわけでしょ。ここには「3か月のあいだに数回の手術を受け、最後は高熱を出して亡くなりました」って書いてあるんですけど、77年、その年に亡くなっちゃったんですかね? 78年かもしれない?

黛:うん、ごろ。年を越したような気がするんだね。

立岩:ほんとに手術のことはわかんないですけど、今でもけっこう、腱とか足のところが硬縮っていうか、それをゆるくするために手術したって、もうそういうのってすたれたのかなって私は思ってたんですけど。

黛:うん。いや今でもやっていると思うよ。

立岩:やってるんですよね。で30代の、京都にいたこともある、今仙台で活動してる脳性麻痺の男性と酒飲んでる時に、ぶらんぶらんして、けっきょくけっこう結果的には不便になっちゃってさ、っていう話を。けっこう若い男性だったんで、「えー、まだやってんだ」って思いました。

黛:だからね、その和田さんがやったころの手術と今でもやられている手術とは多少目的が違うと思うんだよね。で和田さんなんかはもう単純にさ、ポリオの手術をずーっとあの人もやってきた人で、で硬縮でね、こうすじが短くなって動きを止めてしまっているんだからそれを介助してやればもっと思うように動くようになるだろうっていう、そういう発想なんだよね。
 で、今の人が手術をやるのは、とくに脳性麻痺の人の場合は、いちおう脳性麻痺っていうのは全身の病気だから、かならず、たとえば曲げる筋肉をいじると、それと反対のこういう伸ばす筋肉とのバランスでね、そのバランスが微妙に変わるので、気をつけて手術をしなければならないというふうに今は言われていて。で、だから訓練士なんかと相談しながら、訓練をするときにどうもこの筋肉の緊張が強すぎて多少問題があるから、少しそれをゆるめるっていうようなそういうかたちの手術に変わってきてるはずなんですよ。うん、やるにしてもね。でもやっぱりね、けっこう、けっきょくは筋肉を、こういうすじを少し切ってゆるめるから、力はどうしても弱くなってしまうっていうかね。弱くなってもそのバランス的にそのほうが歩行だとか手足の動きが良くなることにつながるんであれば、手術もやむをえないだろうという考えが今の考えだと思うんだけどね。

立岩:そうですね。ほんとに手術したら歩けるようになるみたいな、わりとシンプルなストーリーで、でまあ実際短期間であれ何であれそういうふうになったと、あるいはそういうふうに感じた人もいて、そのへんがやはりコアの支持者っていうか、そういうことになってたんでしょうね。
 そのあとその和田さんってたなかさんって人とセットになってるんですけど、ちょっと方向がちがうんだけれど、埼玉のほうに【転身】(00:29:45)っていうかしてて、そこでまた活動を続けるっちゃ続けるんだけど、そこで八木下とかとけっきょく袂を分かつっていうか、ごちゃごちゃあるんですよね。それを増田さんってていう埼玉障害者運動おたくみたいな人がいま調べてて、やれやれって言ってるんですけど。
 いやあ、手術もさ、そういう整形外科的なやつもあれば、いま小井戸さんっていうのが調べてるのは脳定位手術なんですよ。[00:30:17]

黛:ああ、順天堂のね。

立岩:順天堂のとか、そのへんでこう、やっぱいちおうわかんなくなってるんで、そこを調べようっていったんですけどね。
 和田さんのことは、あの人何だったんだっていうのはみときたい。
 これ群馬って書いてあるけど、所沢、栃木って書いてあるけど、所沢ではないですか?

黛:栃木のね。いや栃木。栃木で、最初の手術は栃木でやって、ほいでね、2回目、3回目は埼玉でやってるはず。

立岩:今その所沢の、今国立障害者リハビリテーションセンターっていってるとこかな? ちがうかな?

黛:じゃない。もうちょっと小っちゃな、和田さんが関係してるこういう診療所みたいなさ、そういう小っちゃなところのはず。

立岩:ああ、そうか、なるほど。それがこのOくんというのとJ(ジェイ)ちゃんっていう人だ。



黛:それとね、あと死んだ人で思い出すのはね、とくに午後から、午後から話す桐沢なんかに話をするとあいつ怒るかもしらんけれども、あべさんって人がさ、千草の舎で自殺してるの。そいで、その理由がさ、なんかステレオ機能のあるラジカセみたいのね、それをあべくんてのが買いたいと言ったのに対して、そのころうちらも千草の舎と袂を分かっていたんだけれども、桐沢は親父が刑事をやっていて、うちに帰りたくないからっていって、それで千草の舎に残っていたんだけれどもね、一人。で、その桐沢とかほんまさんが、前日までさ、「なんでそんなぜいたくをするのか」って彼を問いつめてるわけよ。うん。ほいで、その翌日あべくんが避難用のこういう窓の外にあるすべり台に首をつってさ、死んで。
 だからその時にね、「あべくんを殺したのはおまえじゃないか」っていう文章、文章っていうか冊子を作ってさ、その後千草の舎から出た人たちがさ、そういう冊子を作って、やっぱりそんな家族的家族的って言ったってさ、そんなものでしかないんではないんかっていうことで、障害者の自立っていうのはもっとちがうかたちであるべきじゃないかっていうので追及をしたことがあるわけ。それ以来桐沢とはちゃんと話ができてないっちゅうかな、なんだけれども。

立岩:あべさんていう方はどういう障害の人だったんですか?

黛:脳性麻痺の人。

立岩:脳性麻痺の男性。
 あれでしょ? 右と左にスピーカーがある、真ん中にカセットテープがちゃってやる、そういうやつですか? ありましたよね、そういうのたくさん。ステレオラジカセ。そんなでもめちゃ高いっちゅうほどのもんでもないんじゃないですか?

黛:ねえ。いやだからさ、あべくんは親からのこづかいもらってね買おうと思ったんじゃないの? でそれに対して、ほかの千草の舎に残った連中がさ、それはぜいたくだってさ、言う話で。

栗川:もうその時は篠田さんたちはじゃあ、

黛:篠田なんかはもう出て。

栗川:コーポ大竹?

黛:コーポお大竹はまだスタートしてないんじゃないかな。

栗川:じゃあ別のところで。[00:34:49]



黛:うん。で、コーポ大竹…。あ、そうそう、それとね、あともう一人死んだ人間で思い出すのは、そのきのう話をした田村。田村よしたかって、彼がね新潟では最初にいわゆる自立生活っていうかね、を家庭からも出て施設からも出て、一人暮らしを始めた最初だと思う。平島っていうね新潟のちょっと…。今ある、今だとジャスコか、があるちょっとはずれのあたりで、それこそ介助者が来ないとさ、キャベツを生のをかじったりしながら生活していたのが、でも体…、そんな無理してたから体をこわして。ほいで彼に絶交されたのって話をね、きのう、おれが「おまえら気楽だよな」っていう話(はなし)してね、彼に絶交されたあとに彼が、彼のところにも桐沢と同じように中核の人が入っていたのかな、介助にね。
 でも田村は中核べったりではなくて、かなり個性的なやつだったから、そういう学生を入れたり、おれなんかもかかわったりしながら自立生活っていうか家を出て生活していたんだけれども。ほんとにたいへんでね、介助者がいなくてたいへんで、それでちょっと栄養失調みたいなので、それこそ吹き出物みたいのが体、全身にねこう出たりして、で、一時的にはまぐみは子どもの施設だったんだけれども、ちょっとたいへんだからっていうので入院してもらってね、したりしたんだけれども。けっきょくね彼なんで死んだんだろうかな。うん、やっぱり死んじゃうんだよね。無理はたたっただろうと思うんだけれども。

立岩:新潟で最初のって言う人はさ、そうやって一人暮らしっての、きっかけとかいきさつとか、そういうの聞いたことあります?

黛:うんとね、彼は、彼はとにかくね、お母さんとうまくいかなかったんだよね。うーんとね、実の親のはずだなあ。うん。実の親なんだけれども母親とうまくいかないで、はまぐみから退院して家に帰らなきゃならないときでも家に帰りたくないからっていうので千草の舎に行ったりとか。で、その千草の舎はうちらといっしょにほんまさんのやり方に反対していっしょに出たんだけれども、出て、そのしみずさんの家に居候して。で、そのあとだね、そのあとに一人暮らしをはじめて。そのころにコーポ大竹がアンリさんが平島に作ったわけ。でそのコーポ大竹の近くで一人暮らしを始めて、でアンリさんなんかも田村の介護に入ってるわけ。

立岩:よしたか?

黛:うん。

立岩:正義の義?

黛:うんとね、よしたかは、うーん、好きに、すきのよし。たかはね、どういう字だったかな? 篠田に聞くとわかると思うんだけれども、字はちょっと忘れちゃったな。たかはこうかな(じっさいに書いてみている)考えるっていう、よしたか。よしだかだと思ったな。

立岩:どっちかというとそのやむえず、親との関係があって、やむにやまれぬっていう。なんかどっかでこういうのがあるよっていうんで、それを目指してっていうんでもなくて、わりと仕方なくって感じだったんですかねえ? [00:39:55]

黛:仕方なくなのかなあ。まあそれとね、彼が、彼は非常に繊細な人間でさ、詩を書いたりしていて、あんまり人付き合いは誰とでも合うっていう人じゃなかったよね。で自分が非常にがんこで自分がこうだって決めたらぜったいにそれをゆずらないっていうかね。



立岩:もうなんか死んだ人4人ぐらいでちゃいましたね。
 それで市民運動のほうとの連続性っていうのはそんなうまくいかないと。ぽつぽつと亡くなる人も出るというのが70年代の終わりから80年代のなかばぐらいですか? そうして、でそんなこんなで医者をはまぐみで7年っておっしゃいました? 8年っておっしゃいましたっけ?

黛:8年だね、8年。うん。だから79年から、辞めたのが87年だから◇。

立岩:で、こんどは何? 巣立っ子(たちっこ)診療所ってのは黛さんの診療所ってことでいい?

黛:そう。今、今ってかね、今うちの息子が住んでるその沼垂で。

立岩:で、きのうおっしゃってた器械とか買わなきゃ、ローン、金借りなきゃまあ何とかなるんだぜっていうんで、往診? そのうちせちがらくなってくんだけど、まあ往診主体でまあまあなんとかなってたよ、っていう話を、まできのうお伺いしましたけど。でまあ自分のその診療所の仕事はそんなの。
 でもあれでしょ? 7、80…、まあまあけっこう79、87年だから、もうそこそこ。

黛:87年からね、だからたしか2000年前後ぐらいまで新潟で活動していて、で、そのころはだから風呂入れだよね、ほとんど。毎日5、6人の人風呂入れて、そうすると往診料で1人1万ぐらいになるわけよ。そうするとそれでめしが食えたっていうかね。うん。

立岩:87か。


UP:20220821 REV:
黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動  ◇声の記録(インタビュー記録他)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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