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黛正氏インタビュー・4

20220521 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀

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黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築

 ※いくつかに分けた記録の4です。
黛 正 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022c インタビュー・3 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022d インタビュー・4 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)(本頁)
黛 正 i2022e インタビュー・5 2022/05/21 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
黛 正 i2022f インタビュー・6 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
黛 正 i2022g インタビュー・7 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
黛 正 i2022h インタビュー・8 2022/05/19 聞き手:立岩 真也栗川 治山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館

◇文字起こし:ココペリ121 20220521黛正(於:新潟市・魚沼釜蔵ぼんしゅ館)_205分 〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


■はまぐみ学園に勤める

黛:いや、もうそのころはまぐみもう勤めてた。79年から勤めて、だから、

立岩:79年に勤め始めた。それはもう正規の医療職というのか、医者として、

黛:医者として勤めた。
 おれが全国の運動ってのに関心を持ち始めたのが、79年に止揚学園が養護学校の義務化に反対をして、500キロ行進ってのをやってんですよ。滋賀県から東京まで、文部省まで歩いて。その受け入れを篠原〔睦治〕さんなんかがやってるわけ。あの和光大の。篠原さんが受け入れたり、あと金井康治さん(1969〜1999/09/11)なんかも、康治くんなんかも問題があったから、それと関わってるのかな。
 その時に、「おれははまぐみに勤めたてで休めないから」っていうので、うちのおくさんに代わりに行ってもらったの、その集会に。それぐらい全国の動きには関心がなかったっていうかね、情報がさ、それも止揚学園の側から入ってきたぐらいで。

立岩:「これから東京行くよ」って。「行進するよ」って。

黛:うん。できたら東京に来てくんないかって言われたけども、

立岩:自分は行けなくて、

黛:そうそう、うちのおくさんに。

立岩:ちなみに、その時にもう結婚しちゃってたんですか?

黛:結婚してた。

栗川:学生結婚?

黛:おれはね、学生結婚で。6年生の時に結婚したの。6年生の夏に結婚して。「来年の春には卒業してちゃんと医者になって、多少給料入るから」って言って結婚強行したんだけれども、留年したわけ(笑)。
 だからね、そのころまでほんとに全国の動きってのとはぜんぜん関係なく自分たちでやってたわけよ。

立岩:でもさ、その前に、何年かに富山から何か人が来て何か吹き込んでいったとか、そういうのは多少はわかるわけじゃない。

黛:それはだから、あとになっておれ聞いたのよ。

立岩:あとか、そっか。じゃあもうその時はそんなにリアルにわかるっていうほどわかってもいなかったって感じなんだね。

黛:そうそう。

■反天皇制/キリスト教

立岩:黛さんさ、たぶん最初に出会った時に「天皇制反対」ってTシャツ着てたと思うんだよ。白地のTシャツに黒で。それしか覚えてないんですけど。だからなんかもう最初からごりごりの、

栗川:活動家。

立岩:かなあ? って。

黛:だからみんなそう言うけどさ、「黛さん大学生のころヘルメットは何色だったの?」とかさ、「頑張っていたんでしょ」って言われるけども、ほんとにノンポリでさ。なんもそういう問題には関わっていなかったけどな。あえて言うならね、そのころおれ入った69年ごろかな、靖国法案の問題っていうがあって。ほいで、おれ、いちおうキリスト教だったから、それまで…、

立岩:そうなんですか?

黛:うん。

立岩:今もそうなんですか?

黛:今も…うん。今もキリスト教だって自分では思ってる。

立岩:「いちおう」「いちおう」って言っちゃいけないんだ。ちなみに何派っていうか、そういうのあるんですか?

黛:プロテスタントの。ふつうの日本キリスト教団っていうとこ。

立岩:なんで教団? 親の関係ですか? [01:25:00]

黛:親の関係でずーっと。だからおれはね、そのころ69年ごろは、それまではまじめなクリスチャンだったわけよ。ほいで新潟に来たらさ、「キリスト者平和の会」ってのがあって、で、そのキリスト者平和の会ってのが、靖国問題があってね、これに反対しなきゃだめだからっていうことで、「お前学生だからちょっと事務局に入れ」ってさ、ほいで、いちおう記録だとか書記みたいなことやらされていたわけ◇。69年、70年、72年ぐらいまでかな。だから、そのキリスト者平和の会っていうのがあってね、その代表をやっていた人が小泉毅っていって、新潟でずっと小児精神の問題をやっていたわけ。

立岩:医者なんですか?

黛:医者。その人がさ、おれ大学に入った時に、「大学の授業なんてみんな十人一律のとこ同じだから、おれがとったノートをぜんぶあげる。あなたにあげるからね。教科書もぜんぶあげるから、大学なんか行かなくてもいい」って言われてさ(笑)。ほいでそれをごっそりぜんぶもらって、その代わりに社会勉強しろって言われてさ。靖国問題を一緒にやろうってやり始めたのかな。それが政治的な問題っていえば、そのころその靖国の問題に関して関心を持ったぐらいかね。

立岩:日本キリスト教団って、私らからすると、やっぱりキリスト教の各集団っていうか、わりと社会的なところに方向があるところね。たとえばぼくは大学の時、渋谷に近いところに2年半ぐらいいたんだけど、山手教会ってあれ、たぶん教団の教会で、

黛:うん、山手教会ね。よく集会やってるよね。

立岩:そこでそのセクトの連中とかもふくめて、まあ何やかんやで政治集会やるときに山手教会けっこう使わしてもらってたんです。だから教団っていうのはわりと親しみじゃないんですけど、それはありました。ぼくらはありました。

黛:そう。教団どうしようもないけどね。

立岩:そうですか(笑)。

黛:ほいでね、その小泉さんっていう人が小児精神科をやり始めて。あのころ自閉症ブームだったわけよ、第一回目の、最初の。

立岩:それが70年代のいつぐらい?

黛:70年のはじめ。

立岩:70年ぐらいか。入学したてなんだ。

黛:72年、1、2年ぐらいじゃないかな。だからおれは最初にボランティアっていうかな、はまぐみ始めたころに、その小泉さんが自閉症とおぼしき子ども集めて、児童相談所でグループセラピーっていうのやってたわけ。5、6人の子どもをこう遊ばしておいて、ほいで自分たちは、心理屋さんだとか小泉さんは鏡の、ミラーのこっち側で見てるわけ。で、「黛さんは子どもと遊ぶほうをやってくれ」つって、で、子どもと遊ぶボランティア。

立岩:遊ぶ係やってるのを鏡ごしに見てるって。

黛:ぼくは見ていてさ、その終わったあと、この時のこういう働きかけはおかしかったんじゃないかとか何とか、そういう話をしていたんだよね。だから、今の自閉症スペクトラムみたいなことが言われる前、ずっと前の。

立岩:それけっこう謎で。60年代に「自閉症」って言葉自体が社会に出て、定着してきて、施設ができて何やかんやっていう、あの歴史もけっきょく謎だという。今それを植木っていうちょっと謎な院生が、調べてるんですけど。いいっすそれは。[01:30:02]

黛:それはおそらくね、小澤っていたよね。小澤勲★って。彼がね、「自閉症ってのはつくられたもんじゃないか」って本書いてるわけ、昔。

立岩:そうです。すごい本です★。

★小澤 勲 19841100 『自閉症とは何か』,悠久書房,584p. 4800→20070720 洋泉社,577p.

黛:あれは広がらなかったけども、いわゆる自閉症が非常に狭い範囲で論じられてしまったけれども、もっと広い意味でね、それは知的障害の人にだって自閉的な傾向、そういうのある。だからそもそもその自閉症っていう一つのくくり方がおかしいんじゃないかって言っている本があるんだけどね。だから、もうだからそのころにいわゆる自閉症の子どもとも付き合ってるわけ。
 ほいで、そのあとそのプレイセラピーに参加するだけではなくって、2、3人の子どもも家に行って子どもと遊ぶことなんかもしてるんだけどね。だから、

立岩:キリスト教団の絡みのその靖国とかそっちのことは、ちょっとあとで。だから、その小泉さん、小泉さんのいちばん下の名前から漢字で、

黛:こいずみたけしっていうさ。たけしさんってね、こう「たつ」こういう字があるじゃん。

立岩:こくふくのこく? じゃないか。

黛:こくふくのこくではないな。

栗川:毅然とする「毅」みたいな。

黛:あ、毅然だね。

栗川:立つ書いてした書いて、右側になんか役所の「役」みたいな。

黛:それでね、彼はうちの結婚したりする時に仲人になってもらったぐらい親しくはしていたんだけれども。

立岩:それは開業というか、自分で病院、医院をなさってたようなかただったんです?

黛:じゃなくて、ずっと児童相談所をやって、最後は県の精神衛生センターの所長までやった。それで定年になって、あの何だ、盛岡が実家で、盛岡に帰ってみて、今むこうの家を処分してこっちへ戻ってきてるけども。

立岩:まだご存命でいますか。そうですか。それでまたこう戻すとさ、基本実は意外とみんなが誤解してるけどノンポリだったと。意外とそうだったとしてですよ、79年晴れてお医者さんになり、はまぐみに常勤っていうか、ちゃんと勤めだしたと。それが79年4月で養護学校義務化の年で。そのことと、それからの黛および、日本中で起こってたこととの接点っていうか、接触の度合いっていうのはそれからどうなったんですか?

黛:だからね、それから、おれしばらくそういう全国とのつながりってのはけっこう遅いんよ、うん、障害者運動はね。で、79年に養護学校の義務化の年にはまぐみ4月勤め始めてるのね。で、まだ81年、その国際障害者年のころは、そういう障害者の人だとかさ子どもを集めてさ、車いすのジョギング大会をやろうとかさいってさ、だからそんなレベルでずっと動いてるわけよ。
 ただね、おれが8年はまぐみに勤めたんだけれども、そのころはね、ボバース法だとかさ、ボイタ法の障害者の早期発見・早期療育ってのが言われていたわけ。で、そのはまぐみの小児科の医者、新田っていうのが中心になって、で、その保険、

立岩:新田? [01:34:43]

黛:新田。保健所を総動員してそういう体制作りをしようというふうに動いていたわけ。で、まあおれなんかもその後、そのころからだな、佐渡とか検診に行ってたわけよ。だけどさ、ようするにわれわれがさ、だって脳性麻痺の人がね、1000人にあのころ1人ぐらい生まれるだろうといっていたのにさ、その10倍ぐらいの人を拾い出すわけよ。そうだな、20倍ぐらい…拾い出しちゃってたのかな。だからそのころおれ、佐渡に検診に行ってるんだけども、佐渡で年間の出生率が1000人ぐらい、1000人いなかったぐらいかな。だからそのなかで1人脳性麻痺の人が生まれるか生まれないかさっていうぐらいなのに、10人とか15人だとかさ拾い上げるわけよ。そしてはまぐみに通わせるわけよ。
 それはおかしいっていうかな。今考えるとね、それは肢体不自由施設を…。だからそれは全国的にどこでもそうなんだけれども、肢体不自由の子ども…、不自由児施設ってのがだんだん子どもが減ってくるわけよね。うん。でそうすると入所者が減ってきてるわけよ。で、それをさ、経営的に維持するために外来でそういう人たちを受け入れていたわけ。だから、10倍、20倍の人を通わせてさ。
 で、その半年ぐらいでさ、「ちょっと発育遅いかもしらんから通いなさい」っていって、ほいで月1回ぐらいね、6回ぐらいさ、1歳すぎまでさ診ればさ、12回診るわけよ。じゃあ「ああよかった」「何ともなくてよかった」っていうことがほとんどで。でもさ、その12回分の収入が施設に入るわけよね。
 だからね、おれはそういうことがあったんだろうなあと思うんだけれども、だから、小児科のその新田さんとは議論したわけよね。で、その、そんなに一生懸命その検診体制を作らなくたってね、そもそも母親がさ、自分の子どもが発育が少し遅ければみんな心配して相談に来るわけでね。で、そのころのさ、ふつうの医者っていうのがね、みんな、「ちょっとよくわからんから、じゃあもう少し経ったらね、また連れてきなさい」とかさ、それとか「歩けるようになったら」なんだ、「しゃべれるようになったらじゃあ訓練してあげるから連れてきなさい」みたいなことを言っていたわけよね。だから、そういう体制をなくして、そういう心配な親に丁寧に付き合えたら、こんな検診体制そんなに一生懸命作らなくたっていいんじゃないの? っていうことで、考え方が違ってきたわけよ。
 でまあ新田さんの考えっていうのはその、あのころの県とか国のね考え方と同じだから、それはずーっとそういう体制を作ろうということで動いてるわけよね。でおれはその足を引っ張るわけよね。引っ張るのと、あとそこでおもに小児科の新田さんが見つけてくる障害を持った子どもが小学校の1年生に入るころになると、おれが診ている重度病棟に入ってくるっていう。入院して。訓練が必要だっていうんでね、入院して入ってくる。で、おれはなるべく早く子どもを返してあげようと。で、家庭に帰してあげようということで半年だとか1年ぐらいでなるべく子どもを帰す。でそれも養護学校じゃなくて地元の学校に帰すっていうことをやっていたら、新田さんが怒っておれに患者を回さなくなったわけ。それでだんだん仕事がなくなって。

立岩:それって入職、もう最初79年からですか?

黛:うーんとね、最初の年はまあいちおうまじめに1、2年は検診付き合ったよ。

立岩:で次の年ぐらいからだんだんそのへんが顕在化してって。新田さんってのは管理職的な感じの人だったの? [01:39:49]

黛:まあ管理職…ではないんだろうね。小児科。でね、そのころ、だから彼女なんかはけっこう早く…。それまでさ、肢体不自由児ってのは脳性麻痺の人ってみんな整形外科が診てたわけ。で、新田さんは小児神経っていうかな、を診る医者としてはかなり早い時期に小児科の医者が入ってきてるのね、はまぐみに。だからそれまでおもにはまぐみっていうのは整形外科医が常勤の医者だったけれども、小児科医としては、その新田さんが初めてじゃないかな。
 で、まあその倉田さんって人もね、前の所長も、これからは整形外科的に診るよりは、小児神経のね発達の過程を診ていくことが必要だからっていうことで、考え方を変えてるわけよ。でおれも小児神経ってのは半年ぐらい勉強してるんだけどね。
 トイレ。

立岩:行ってらっしゃい。
 下何かあんの? おれそれ知らなかったんですけど。

ようこ:かくれていました。

立岩:山口さんってさ、おかあさんやおばあさんたちが***(01:41:55)そんな話ってのは子どもの時に聞いてた?

山口:ぼく行ってましたよ。だから、あのー、見たこともあるし。なんかプレイルームみたいなのがあるんですよ、1階に。

ようこ:ありますね、広いのが。玄関すぐのところに。

山口:広くて、ボールとか、なんかこう歩行の補助具みたいな。そこでこう野放しにされてたんですね。ほっとかれてたんです。

栗川:山口さんがじゃあまだ小さい時に? じゃあ一緒に遊んでたって感じ?

山口:【そんなことないっすなんか】(01:42:25)、清掃の掃除のバイトをしてたりするんですよ、入所者って。ちょっと軽い人っていうのか。

栗川:動ける人がね。

山口:ちょっと動ける人が、ちょっとお仕事してて、そういう人とはしゃべった記憶があるんです。しゃべったというかなんか、しゃべったのか何かちょっと「怖いなあ」と思ったんかわかんないですけど、ちょっと***(01:42:50)。

立岩:山口さんちからはまぐみって歩いて行ける距離だったんですか?

山口:いや、歩いてはいけないです。おばあちゃんの実家からは歩いて行ける。

■手術

立岩:そのへんのさ、整形外科。今うちで院生で、脳外科の手術、脳性麻痺に対する。それがある時はあったっていうのを明らかにしようっていう。

黛:ああ、あの定位脳手術っていうの。

立岩:そうそう、定位脳手術。

黛:あれもね、だから、あれは順天堂か、でやってるよね。
 うちのさ、大家さんってもう亡くなったけれども、その人がその定位脳手術受けてんだよね。

立岩:受けた?

黛:うん、受けた。

立岩:実際に。楢林さんっていう順天堂にいて中目黒に自分の医院を開設する人。やった。

黛:やった。矢野さんっていう人なんだけどね。で彼は親父さんが新潟大学のドイツ語の先生だったのかな。で、おれがあの…、今でもそうなんだけど、新潟で借りているところに家を建てたんだけど、その土地の持ち主っていうのがね、その矢野さん、っていう人で。で、その人がその施設に入っていたんだけれども、正月だとかさ、お盆に帰ってくるときに介護をしてくれるんだったら安く、土地代安くしとくからってんで、それでうん、借りて、今でもずっとそこで土地代ね、同じで借りてんだけれども。

栗川:じゃあ今夜もそこに泊まる。

黛:うん。

栗川:***(01:44:55)

黛:***(01:44:57)

立岩:あー、そうか、そういう資格持ってんだ。

黛:うん、んで。[01:45:00]

立岩:その矢野さんってかた自身が脳性麻痺なんですか?

黛:えっとね、矢野さんじゃなくてね、矢野さんは妹さんだな。で、中山しゅんすけっていうのが脳性麻痺の人で。その人ね、89までかな、けっこう長生きしたんだね。で、ほとんどね言語的には言葉は通じなくて、こういうさいころみたいなさ、字をさ「あいうえおかきくけこ」ってのをそれをさ、並べてね、ほいで話をしたりとか、それとかまあ詩を作ったりとかね、してた人なんだけどさ。
 で、何で手術っていう話…。

立岩:その人が定位脳手術したって。

黛:不随意運動が強いからっていうことで、したって言ってた。

栗川:その中山さんに? 順天堂で。

黛:うん。だから東京まで行ってさ。で、それでどうだったの? って言ったら、良くならなかったって言ってた。

立岩:それは、

栗川:小井戸〔恵子〕さんは喜ぶぞ。

立岩:いやあ、でもまあその本人が長生きしたけど亡くなられたってことね。

山口:飲みますか? ラストオーダーまで4分あります。[01:47:00]

(飲みものを選ぶ)

■茨城

黛:何さん言ったっけ?

山口:山口〔和紀〕です。

黛:山口さん。山口さんは、すっと何も考えなくて京都に行って、それで立岩さんに会ったわけ?

山口:なんかぼく茨城いたんで、茨城青い芝の里内さん★っていう。山に最後までいた人。

黛:ああ、いわゆるマハラバ?

山口:マハラバ村の大仏空(おさらぎ・あきら、1930〜1984/07/07)、直系のいちばん最後の人です。あっちの、***(01:49:35)の直系の最後の人です。

黛:今さ、マハラバ村ってあれはもう解散して何もないんだろ? 何かあるの?

山口:いちおうあるんですけど、お寺はなんかちょっと敷地を売ったんだかなんだかってこう敷地の争いがちょっとあって、でもそれとはちょっとおかまいなしに、大仏さんの息子が住んでるんだか何か、若者に説法をしたいとか何かで、月に1回なんか集まって、山口さんもこんど来ない? とか言われたりもした。行ってないんですよ。大仏さんっていう人の、大仏の息子がなんか今***(01:50:16)。さらに***(01:50:19)なことに、そのマハラバで若者に説法をしたいとかなんかで。[01:50:26]

栗川:今もね。

山口:今も。

黛:なんか残ってるわけね。残ってるちゅうか、一度、碑でも建っているんだったら見にいってもいいかなと思ってんだけども。

立岩:碑はたぶん建ってない。彼が書いたちょっと摩訶不思議なものってそこそこ残ってて、それまあネットで見れたりもするんですけど、それはするんですよ。

黛:あの人の仏教観ってのはね、はちゃめちゃというか。

立岩:はちゃめちゃっちゃあ、はちゃめちゃですよね。キリスト教って、カトリックでもあった的な人でしょ?

栗川:浄土真宗じゃないんですか?

立岩:浄土真宗じゃないですよ。みんな浄土真宗だと思うんだけど、実は違うってとこが。

栗川:カトリックが。

立岩:カトリック…プラス天台宗?

山口:なんか、***(01:51:22)天台宗でてて、社会党のなんか***(01:51:25)みたいなのを、ひっちゃかめっちゃかみたいな…、

立岩:親鸞とかいったら浄土真宗とかみんな思うじゃない。でも意外とそうじゃない。ちょっとした謎があるんです。まあそれもまた深い…、深くはないけどでも深いらしくって。で、まあいいや。今日はもう黛さんにお酒飲ませてずっとしゃべらしちゃおって思って、ぼくはこれだけでお得感満載なんですけど。

■手術・訓練 続き

立岩:その脳外科あって整形外科あって、それではそれはだめなんだ的な、で、ある意味そうじゃないですか。それでその、なんとか先生が入ってきて、それも違うよなって黛さんが入職1年目か2年目で思うわけじゃないですか。それで、その先生とちょっとぶつかったりして、どうなんですか?

黛:だからさ、おれははじめ、その手術ってのはあんまり好きでなかったからね、なかったんだけれども、確かにね、あのころに訓練を少し進めるために軽い手術をするっていう傾向がさ、ちょうどあった時期なんだよね。で、うーん、おれもそれも必要かな、ぐらいのことでやっぱりやったことはあるんだけれども。そしたらさ、ずいぶん子どもに嫌われてね。

栗川:手術ってどこにやるんですか? 足のところに、

黛:足だとか、そこ筋をさ、緊張のある筋を、まあ切るんじゃないんだけれども、その硬い部分をリリースするちゅうんかな、そういう手術ってのは流行った時期があって。で、おれも自分としてはずいぶんと慎重に選んだつもりでいるんだけどもさ、でも、その子ども側からすれば「黛先生と目が合うと手術されるから」とかさ、そういう時期もあったんよ、正直。
 ほんでね、それをね、やっぱり、あんまり、うーん、よくなかったっていうかな、確かに。

立岩:もう時間終わった? さっきの4分の。もうないの? 注文できないの。終わった。
 それで、じゃあけっこう子どもたちはわりといやっていうか、戦々恐々的な。

黛:してた。だから、まあ少なくともね、おれは、手術をした結果はやっぱりちゃんとみようと思ってたわね。だからほんとに、よくなければやっぱりやめようと思っていたから。で、最終的にねやっぱり手術で治すもんじゃないなって思った。うん。で、そりゃ、その後の訓練っていってもさ、訓練ってのはあれなんだよね、PT・OTのやってることっていうのはさ、子どもの虐待と同じよ。
 で、はまぐみを辞めるころは、まあはまぐみ辞めるころっていうかな、で、おれね、佐渡の姫津でね、のかあちゃんがさ、すごいでぶのさ、松井まさしっていうのさ、連れて来る…、おんぶして連れてくるわけよ。それでさ、あいつまだ生きてれば岩の平園に行くと思うんだけどさ、朝ね、4時半に起きてはまぐみにね連れて来るっていうのは。[01:55:43]

立岩:島から連れてくるってこと?

栗川:佐渡からね。

黛:だから朝ね。朝4時半に起きてさ。まあおれも今はそうだよね、5時半の船に乗ろうと思ったら4時半ごろ起きないとさ。

立岩:すいません、どうもありがとうございます。まあそうだよね、でもそうだよね、わかります、そりゃ。

黛:だからさ、ほいでさ、自分より体重思いような子どもさ背負ってね、通ってくるわけよ。で、あの…、でー、ろくな訓練でもない、つったらおかしいけどさ、1か月に1回訓練なんかやったってさ、意味ないわけよ。でもさ、はまぐみに通ってきてるの見てね、で、やっぱりこれはやっぱどっかおかしいなって。まあおれふつうの人だったらそう思うと思うんだけれども、おれはそう思った。
 で、うん、やっぱりこれはおかしいんじゃないんかっていうことで。だから少なくともね、そのはまぐみが県で今唯一あるけどね、で、こういう体制じゃなくって、新潟県だったら長岡とか上越に、あー、何だ、

栗川:出張所みたいなあの?

黛:いや、上越はあれあるよね? 犀潟。犀潟があるしさ。だから、そういうところにやっぱり医者が分散していればね、そんなお母さんが苦労してさ来る必要ないんじゃないんかとかさ、思ったこともあるし。それからそういうの提案した。で、あのー、津南からさ、津南から来てるその子どもの親がさ、津南から面会に来るってなればさ、それはもう朝早くから起きてこなきゃだめなわけじゃない。そうするとさ、で、はまぐみに来てさ寝てるわけよ、親がさ。

栗川:ああ、もう朝早くからね。

黛:早くから来てるからさ。そうするとさ、その看護婦はさ、まあ今看護師なんだろうけど、そのころ看護婦はさ、職場にいればさ、「面会に来ても寝てばっかりいる」とかさ言うわけよ。ねえ。でもさ、それはさ自分たちの体制の問題なんじゃないかなっちゅうのをね考えるようになって。で、それもさ、ろくな治療もできないでさ、おれははまぐみにいるその後半っていうかな、それは医学の無力さっていうかな、うん、それは手術してもよくなるわけでもないしさ、訓練してもそんなに変わるわけでもない。で、それを感じて。
 で、新潟で87年かな、辞めて、開業する時にはさ、で、基本的にはね、もう、その、あ、お風呂に入(はい)れないっていう人がいたときには、お風呂に入るための訓練。じゃあこういうふうに歩けるようになればね、お風呂に入(はい)れるようになるしとかさ、歩けるようになれば学校に行けるし、とかいうのじゃなくって、それは、歩けない人であれば、それは車いすに乗せて学校まで送り届ける人がいれば、それは普通の学校で通用するじゃないか。で、風呂に入れない人だったら、じゃあ入れてあげればいいじゃないかっていうのね。そういうふうな、今でいう社会モデルだよね、医療モデルじゃなくって。医療は治せない。で、治そうとすると患者っていうかな、本人を縛る。だからそうじゃなくって、本人と一緒にどうすれば問題が解決するかっていう方向を考えたほうがずーっと楽だし、で、こっちも楽なわけですよね。まあ風呂入れてあげるぐらいね、そこいって手伝えばいいわけで、変なわけのわからん訓練を1時間もやるよりはね。
 で、だからそういう感じではまぐみで、まあはまぐみではその、検診のことでぶつかったのと、あと、まあおれが子どもを帰しちゃうから、入院数がどんどんどんどん減っている。それで、だんだん仕事がなくなってくる。だからそういうことがあって、あのころね、それでもずーっと我慢していればさ、所長になれたかもしらんけどさ、あのころまだ若かったから、もうちょっと何か、外に飛び出せば何かできるんじゃないかっていうんでね、それではまぐみは辞めた。[02:00:58]

立岩:それ聞けりゃあもうこれで6割ぐらい聞いたような感じですよ。酒を飲ませると称して働かせるっていう、非常にいい感じの、私の***(02:01:09)。
 だからもう残りのは、まあ聞きたいですけど、でも追加して聞くとね、たぶん、ちっちゃい話とおっきい話と、開業ってふつうに大変じゃないですか?


UP:20220821 REV:20220830
黛 正  ◇新潟県における障害者運動/自立生活運動  ◇声の記録(インタビュー記録他)  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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