◇黛 正
◇新潟県における障害者運動/自立生活運動
◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
※いくつかに分けた記録の7です。
◇黛 正 i2022a インタビュー・1 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)(本頁)
◇黛 正 i2022b インタビュー・2 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◇黛 正 i2022c インタビュー・3 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◇黛 正 i2022d インタビュー・4 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◇黛 正 i2022e インタビュー・5 2022/05/21 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:魚沼釜蔵新潟店(新潟市・新潟駅隣)
◇黛 正 i2022f インタビュー・6 2022/05/19 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
◆黛 正 i2022g インタビュー・7 2022/05/19 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館(本頁)
◇黛 正 i2022h インタビュー・8 2022/05/19 聞き手:立岩 真也・栗川 治・山口 和紀 於:新潟市総合福祉会館
◇文字起こし:ココペリ121 20220522黛正(於:新潟市総合福祉会館)_169分
~このように表現しています~
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
■黒岩/「地域医療」
黛:うん。で、それでもうその2000年近くになると、一つはホームヘルパーサービスがふくらんできて広がってきたこととね、自分がもう体力がなくなってきたっていうこともあって。ほいで篠田なんかが90年代、あれCIL(シーアイエル)を立ち上げたのはいつだったかな? 91年ごろじゃなかったかな? と思うんだけれども。うん。そいであとは、あんたら自分たちで交渉してやれよ、っていうことで。
そいでおれは介護保険がねちょうどスタートする時期でしょ。スタートする時期で、老人のじゃあその地域医療っていうかね、それをやってみようかと思って、それで佐渡に…。まあ佐渡の規模がさ、ちょうどそのころ6、7万ぐらいの人口だったでしょ。ほいでね、そのころつきあってた人でゆきぐに大和病院ってのが浦佐にあって、黒岩卓夫ってね、だからあの人なんかが…、のところにもときどき障害者がらみでこう遊びに行っていたわけ。
ほいであそこのうち、黒岩〔卓夫、1937~〕卓夫さんのうちで話をしていることが直接さ浦佐の大和町のさ、町議会に反映するわけよ。だから、そうすっとあれぐらいの規模だとやっぱり個人の意見ってのがそういう反映していろいろ政策に活きていくんだなあと、いう感じをね、感触を受けていて。で佐渡がちょうど、その規模としてはちょうどいいんじゃないかなあと思っていた時に、ちょうどいろいろ【戦後扶助】(00:45:16)のことなんかでいっしょにやっていた坊さんが、「じゃあおれのところへ来いよ」っていうので宿根木に行ったわけ。[00:45:26]
立岩:そんなことがあったんだ。黒岩さんは京都に何かの集まりがあった時にいらして、京都でちょっと飲んだことありますね。あそこの息子が国会議員か何かなったっしょ?
黛:国会議員になって、今落ちてるけどね。だからあそこんちはずいぶん計画的というかさ、娘は弁護士をやっているし、ほいで今1人息子が【がんじ】(00:45:54)っていうのかな、が医者になってあとを継いでるしね。
立岩:もともとあれだよね、黒岩さん、男のほう、お母さんもなかなか目立った人ですけど、60年ブントの崩れだよね。
黛:そうそう。だからブント立ち上げたってんで、それを自慢してよく話してくれたんだけどさ。だからあれだってね、黒岩秩子さん(1940~)ってあの、奥さんは、なんか子爵か男爵か何か血筋が良さそうな、最近聞いたんだけどね。ほいで黒岩卓夫ってのはよく話をしているのはね、大学にいたときに60年安保で、ほいでその三池だとかあっちにね、オルグにまわったりして。で、あの時にね自分たちは権力を倒そうと思った、っていうんだよね。で権力を掌握できると一時期思ってたんだけれども、でも敗北をしたって総括するんだよね。で、中央では敗北をしたけれども、地方に入(はい)ってね、ちょうど戦時中に若月さんが長野に入(はい)ったのと同じようにね、地方を変えて地方から中央に攻めのぼるっていうかね。
立岩:だから医学部での黒岩さんであるとか、あと長野のほうで今井〔澄〕さんとかね、そういうのが地域医療のほうへ行くわけですよ。
黛:だからそれがね地域医療にかなり黒岩さんなんかもいっしょうけんめいになって、で、ある意味じゃ典型的なモデルを作るんだよね。で、あの人とおれ、意見がちがったのは、彼はね、だから地域住民を管理するために健康データ、それを全部ね、インター…入れて、ほいで管理をするっていうかな。それで冬場その雪が降ってね、家に閉じこめられてるときは施設に来て、で施設で生活をして、そしてまあ理想的なことを言えば田植えの時期だとかそういう雪がなくなったときには家に帰ってみたいなね、感じで診療所を運営していけばいいというふうに考えて。
で、黒岩さんなんかは、あれ、ゆきぐに大和病院って国公立の病院だったからね、病院としては赤字なんだけれども国保全体としては黒字を維持するっていうのを、そういうモデルを作って地域医療研究会っていうのを立ち上げたんだよね。
で、まあおれはそのころはまぐみで障害児の早期発見早期治療ってことで検診をしていたけれども、そういう個人データをぜんぶ管理をするってのはそれはおかしいんじゃないかってことで、カルテだとかそういう個人データってのはあくまでも本人のもので、そうすべきではないんじゃないんかっていうかね、そこらへんがちょっと意見がちがったところなんだけども。
立岩:黛さんと似たようなことっていうか同趣旨のことは山田真って東京で町医者やってる彼が言ったり書いたりしてますね。そういう疑問というかな、そこまでやっていいのかっていうのはあると思うんですよね。
でもそうか、黛さんが佐渡に来たのと、ゆきぐに大和が関係してるって考えたことなかったです。もっとぷらっと来たのかなと思ってたんですけど(笑)。[00:50:07]
黛:いや、いろいろおれだって考えることあってさ。それで、あと佐渡に行ったにしてもさ、だから「医者でございます」っていう、どういうんだろうなあ、佐渡に入るんだってさ、佐渡病院に勤めたりとかさ、すればいいっていうかな、そういう「医者でございます」っていう入り方と、ふつうの人でぷらっと行って、ほいで「実はあんまり役に立たないかもしらんけれども健康のためにはこういうふうにしたほうがいいよ」とか、そういう相談にのれるようなふつうのおじさんとしての医者っていうかね、そういうのをめざして。おれは後者で入ろうと思ってね医者じゃあなくって。どうせしばらく生活してればばれるんだからっていうんで、「天皇制反対」って書いてさTシャツを着て宿根木でぶらぶらしていたら。
立岩:ああ、佐渡島民としてはそうですね。不審だよな、やっぱりな。
栗川:ふつうのおじさん。
立岩:それふつうのおじさんでじゃねえっすよ。
黛:「おまえさん悪い人じゃないけども、まあだれも家は貸してくれねえなあ」ってことでさ(笑)。
それでどうしようかなと思っていたころに、今の松ケ崎に新潟で患者だったね脳性麻痺の人の親が、親の実家が空いてるからってんで貸してもらった。で貸してくれるってんでそこを借りたのが今の松ケ崎地区にね住みはじめた最初なんだけれども。
ほいでおれ、今何も機械も何もないしさ、薬もほとんど出してないから、出してるの看板だけだからさ、「たちっ子診療所」っていうね看板だけだから。
立岩:その診療所の名前は変わってないってこと?
黛:うん、ずっとたちっ子診療所。
立岩:たちっこで、「たち」がひらがなで「こ」が子どもの子で。
黛:ほんとはね、「巣立(すだ)つ子」と書く。
栗川:鳥の巣の巣。
立岩:とりのと…。
黛:「巣立ち」っていうね。それのさ、
栗川:こう漢字は書いて、
立岩:ああ、巣立つの立ち。巣立つの「す・だ」を「たち」ってやって、でひらがなで「っこ」ってなって診療所か。これは正式名称ですか?
黛:そう。だから、それは障害者が社会に巣立っていくっていうかね、そういう意味合いでずっとこの名前を使ってるんだけれども。
立岩:松ケ崎行ったらその看板はあるわけね?
黛:看板はある。
立岩:じゃあ松ケ崎行ったら発見しようかな。
黛:たいがいね、あれよ。いま松ケ崎はさ、町並み保存のさ、市の町並み保存の指定区域か何かになっていて、で、ときどき見学者が来たりしてさ、ほいでその案内をしている地元のやつが来てさ、看板がかかって、「これいちおうここは病院なんですよ」って言いながら前通っていくんだけどさ(笑)。
で、薬はぜんぜん出さないで、で基本的にね、おれ、今マッサージをやってるわけ。鍼を刺すのは痛いから、自分で刺して痛かったからやめたんだけど、マッサージは基本的に体が楽になったりするんでね。で腰が痛いとか膝が痛いだとかそういう年寄り、まあほとんど年寄りはそう訴えてくることが多いから、そういう人に対してマッサージを30分ぐらいしてあげているんだけれども。そうすると、だからおれはあそこの地域ではマッサージの人だよね。
立岩:うんうん。出てきた。「佐渡市松ケ崎918の5」。ここだ。[00:55:06]★
★https://opd.opendata-japan.com/facility_and_place_v5s?facility_id=GV-LU4F-FMC5-VYGZ
黛:え、写真家何か出るの?
立岩:うんとね、地図は出る。地図は出ますね。「黛正」、はい、出てきますね。へえー。
黛:まあふつうの民家。それと、あとさ、あのあたりって4、50軒…、4、50軒もうないな。うーんと、あの松ケ崎地区で38戸っていったかな? 今。総会なんか開いたりするとね。だから3、40軒の家がぽつんぽつんと松ケ崎、多田、うらのかわちだとか、浜河内だとか、丸山っていうふうに五つにわかれてるわけ。で、みんな1キロから2キロぐらいはなれているから、年の人なんてバスも通ってないからさ通えないわけよ。で、それでまあ多田だとか、ちょっと知り合いの家を借りて、そこで何人か来た年寄りを診てるっていうようなやりかたを今しているんだけどね。
立岩:佐渡のなかでも超不便なとこですよ。田舎中の田舎みたいなとこです。
栗川:旧何村ですか? そこは。合併する前は。
黛:合併する前は畑野町。
立岩:その「こさど」っていうそのいなりっていうか、南っていうか下のほうのこうなってるとこのど真ん中だな。佐和田から行っても両津から行っても、ね、海岸沿いずーっと行かないと着かない。どっちから行ってもちょうど真ん中ぐらいにある海岸の集落っていうか、
黛:ほいでさ、正面がさ海。ほいで右、赤泊に行くのも峠で、今はトンネルができたけどもね、トンネル。ほいでとなりは岩首って反対側に行く細い道がさ、峠を越えて、あって。ほいであと畑野町の中心部へはまた峠を越えてさ行かなきゃならない。だから三方がぜんぶ峠でさ、ほいで、今はそこに何人…、どれぐらいだろうな、200戸ぐらいあるのかな。200戸ぐらいで500人ぐらい、の集落がぽつぽつぽつって五つにわかれてあるわけ。
で、高齢化率は、高齢化率はすごいよ(笑)。だって、おれなんかまだ若いんだからさ、もう70過ぎて(笑)。80、90で畑やってんだもんな。
立岩:そうするとけっこうそんな障害者の運動なり活動なりは、もうおまかせっていうか、もう好きなようにやれよ、みたいな感じですかね、きっと。
黛:もうほとんど、ほとんど佐渡に行って障害者の人とはそんなにつきあってない。うん。でもね、おもしろいんよ、あの、うーん。
あれコピーしたの? ぜんぶ。
山口:あ、しました。
黛:昔ね、となりのうらのかわちっていうね集落がさ…、うらのかわちで…。うん、うらのかわちのこれだな。あの、鬼太鼓(おんでこ)やるじゃん? で鬼太鼓はさ、すけうちで子どもがいっしょに打つ村があるよね。ほいでそのうらのかわちっていうのはさ、そのすけうちで子どもが打つんだけれども、そこの集落はさ、もう彼は30ぐらいになってしまったけれども、子どもがさ、そのうらのかわちに彼しかいなかった、ダウンの。だけどお祭りが好きでさ、ほいでまあいっしょうけんめい練習して、その鬼のを打てるようになったんだけどさ。だから昔だったら子どもがいっぱいいる時期だったら、おそらく彼ははじかれてしまったんだろうと思うんだけれどもさ。で、その時期はね、いま彼は若衆をやってるって言うんだけれども、彼がいないとお祭りが成り立たないわけ。だから非常にねそのときはさいきいきしてさ、村に参加して、村のね、行事に参加できてるわけよ。で、それはまあそのお祭りだけじゃなくて、やっぱその集落全体がやっぱり彼のことを見ているんだよね。[01:00:47]
栗川:貴重な若者。
黛:今はさ、みんなでも若いやつは島外に出ちゃうわけじゃない。だからときどき犬の散歩して海ながめてぼーっとして、彼いるんだけどさ。さびしそうにちょっとね、そんな感じでしてるんだけども。
だから、佐渡の高齢化ってのはさ、それぐらいもう疲弊してるっていうかさ、障害者の人もはねられないぐらいさ。
立岩:それはすごいっすよ。そうですよね。
黛:だから弱いっていうかな、弱ってきたものがさ、みんなそれこそ肩を寄せ合うようにして生きてるっちゅうかさ。
立岩:なんかちょっと閑話休題ですけど、このごろぼく一日中アマゾンプライムじゃないや、NHK(エヌエイチケー)オンデマンドとかNHKの昔の番組とかつけてて、「よみがえる新日本紀行」ってのやってんだよ。1970年代ぐらいの、「新日本紀行」って昔あったじゃないですか、それの再放送して50年後どうなるかっていうやつやってるんですえんえんと。でそれけっこう見てて。なんかだいたいその地元のお祭りとかやってるお兄ちゃん、おじちゃんとか出てきて、やっぱなんかね基本健常者の世界だなっていうの。ぜんぜん出てこない、やっぱり。健常な頑強なおじさんたちとお兄さんたちと、それを支えるおばちゃんたちの世界だから、めったに出てこないね。それはでも日本だけじゃなくて、何だろ、「何とか紀行」みたいなのあるじゃないですか。ヨーロッパの石畳の街を歩くみたいなさ、ああいうのでもやっぱそうだね、めったに出てこないね。だからどうっていう話じゃないんだけど、ちょっと閑話休題。
黛:それでね、おれ…、あ、そうそう。宮本常一っているじゃない? 民俗学者の。彼がずいぶん佐渡に入れこんでね、いたんだけれどさ。彼の文章のなかで、まあ佐渡をちょっとまとめた本を何年か前に読んだんだけれども、ちょうど今おれ住んでる多田のね、あの地区で若夫人を集めてさ、懇談会やってるわけ。どっかの大学の先生と二人で来てさ女の人といっしょに来て。ほいで、そこでね出た意見ちゅうかな、そういうのを彼が記録に残しているんだけれどもさ。で、あのころのだからちょうどうちらが子どものころの親だと思うんだけれどもね。まあそれはおれも含めてそうなんだけれども、こんな佐渡の田舎で子どもを育てていてもしょうがないから、教育をつけさせて、ほいでその島外に送りだすっていうね。で、むこうで出世してくれればっていうことをさ、その親が言っているんだよね。ほいでさ、そう言ってみんな島外に送りだしてしまって、今は若い人が帰ってこないっていってさ、言ってるわけよ。
だから、おれなんかも次男坊、群馬の次男坊でさ、ほいで、おまえは財産分けてやるわけにいかないから、教育だけつけてあげるから教育費だけは出してやるから大学出たあとは勝手にやれ、ってことで、うちの長男、兄貴にさ、みんなそういうの集中して、でおれなんかはみんな送りだされたわけだよね。
だから、そういう感じでさ、みんな自分たちで送りだしてしまって、ほいで今若い人が帰ってこないで高齢化して困ってる困ってる、って言ってるけれども、そもそもあんたらがこういう種をまいたんだよと、いう話をときどきさ年寄りと会うとね、して、「そうだなあ」っちゅう話をしてるんだけれども。
立岩:私はかなり存分に聞きましたよ。余は満足みたいな感じなんですけど、あともうみなさん、栗川さん山口さん、ちょっといろいろ自分の関心のところとか聞いていただければと思いますけど。[01:05:35]
■名鏡高校
栗川:ぼくの印象だと、黛さんとは1990年代にわりかしおつきあいさせてもらって。
黛:え、90年代? もっと前じゃないの?
栗川:80年代後半ぐらいからと思いますけどね。ぼくはね、でもね、
黛:あ、そうそう、教育の話しなかったけど、名鏡高校★のあの事件がさ、2022/08/2181年だったかな、落とされたのが。あのころあれでしょ、高教組にいたでしょ?
★http://www.kamo-h.nein.ed.jp/
栗川:まだまだまだ。ぼくは教員になったのが84年で、で視覚障害になったのが87年で、で新潟盲学校に転勤してきたのが88年ですね。でそのあとですよ、いわば障害者として生きるみたいになったのは。
黛:81年にあの名鏡高校のあの事件があってね、で、それからいろいろな人に声をかけて、その教育問題考えないといけないんじゃないかっていうので、「共に生きる教育を求める連絡会」ってのを会田きよみなんかと作るわけ。で、それが82年? ぐらい。
で、そのころにさ、高教組は障害児学校部会ってのを作るんだよね。ほいで、そのあと委員長になった誰だっけな? が、その障害児学校部会の代表やっていてさ、ほいでけっこうおれは学校の先生からは敵視されていたんだよね。で、障害児学校部会で石川憲彦を呼んだりとかさ、北村小夜なんかを呼んでさ講演会やっても、おれなんかぜんぜん知らないところで行なわれたりしてたんだけれども。
それで、えー、その八十何年、そのあとだった?
栗川:そうです。
黛:おれそのころから栗川さん…。じゃあ栗川さんその障害児学校部会にかかわったのは?
栗川:はだから1988年に新潟盲学校に転勤して、そこでだから新潟高教組の新潟盲学校分会のメンバーだから、そこに障害児学校部、で途中で障害児教育部とかいうふうになったりした、そのぐらいのとこです。ぼくはね。
でそのへんで黛さんのことは知って。でなんか黛さんに声かけられて、「国連障害者の10年」の最終年イベントのヘンリー・エンズさん呼んだやつ。
黛:あれ中間年じゃない?
栗川:いや、あれ最終年。最終年だから1992年の佐渡汽船〔の隣の建物〕でやった、はい、あのへんからかかわって。でそのあとは新教組、新潟県教職員組合の教研の、
黛:ああ、助言者みたいなので?
栗川:助言者で何年間かいっしょの時ありましたよね。そのときはもう敵視されてないんじゃないんですか? 教研の助言者になってんだから。
黛:いや、それでも敵視されてたよ。だからね…。で、あの、あのころ高教組は高山さんがいてさ。
栗川:高山弘さん。
黛:うん、高山弘さんがいて、で彼がね、その間をよく取り持ってくれたんだよね、ずっと。
栗川:そうですね、だから名鏡高校事件とか加茂高校の事件とか、障害児がとにかく点数とってるはずなのに落とされるみたいなのがね、新潟の高校でつぎつぎとあって。
黛:だから加茂高校の問題にしてもそうなんだけどさ、高教組が入って、ほいで変なふうにこじれたっていうかさ、その内申点がどうのこうのとかさ。だからまあおれなんか正道でさ、正面からさ「なんで入れないんだ」っちゅうことでやればいいと思っていたけど、高教組なんかは「内申点、これをこういうふうに書いているのを差別なんじゃないか」とかさ、けっこう細かなやり方してたね、わたなべえいめいだとかさ。
なんかそういう意味じゃちょっと高教組とはちょっとちがったんだよね、いつもずれて。まあそれはしようがないけどね、組織だから。[01:10:40]
立岩:加茂高校の、名鏡高校のページ、山口さん最近作ったよね。
山口:そっちは。
立岩:そっちですよね。
山口:いや、加茂と名鏡が。
立岩:両方?
山口:両方は作ってないっすけど、加茂は作りました★。名鏡が81年で、加茂高校はここらへんですかね、86年だから。黛さんもここで、はまぐみの子たち、養護学校義務化の時にはまぐみの子たちをどうするかっていうので教育委員会で闘ってて、はまぐみの医者であるという特権をもう少しみせたかったって。とくに名鏡高校の***(01:11:41)。
★加茂高校事件 http://www.arsvi.com/d/e19-1989.htm
黛:だからね、あのころはまだあの、そういうまあ…。まあはまぐみの医者だというのを表に出してさ、活動をできたころなんだけども、その倉田さんからのりまつっていうね、沖縄大学の教授になったこういうリハビリの先生で行ったやつのころになったりすると、あんまりはまぐみの名前出して外で活動するなというふうに言われた時期もあったりしたんだけれども。
で、とにかくでも、いちおうはまぐみの医者ってのはそれなりの箔っちゅうかな、があったから、いわゆる教育委員会だとか学校に行ったりして、けっこう説得はしたりしてたんだよね。
ほいでおもしろいのは、今でも覚えてんのは、佐渡のさ、二見小学校ってところにさ、その、二見もちょっと町からはずれて過疎地だったんだよね。ほいで、子どもの数がさ少なかったんだな。何人だったかもう忘れたけども、そこに話しに行ったらさ、ほいたら、「いや、実は車いすの子どもも受け入れてほしい」っていうので話に行ったら、歓迎されてさ。その子入ってくれると先生の数が増やせるって言ってさ。ほいですごい喜ばれた時期があったりさ、こういう田舎っていいんだな、ちゅう感じは(笑)。だから、もうそのころから過疎地ってのはさ、だからそういうかたちでもう人を切れなくなっちゃってんだね。来れる人は誰でも呼び込むみたいなね。
だから、今それこそ松ヶ崎小学校、小学校・中学校がさ、三方が海と山に囲まれて、いや、山に囲まれて峠だからさ、あそこはさ、合併のしようがないんだよね。ほかのところに吸収合併されて、そしてスクールバスで通うっていうことができないで、今もう20人きってると思うんだけどなあもう、5、6年前で20人ぐらいだったから、17、8人だろうと思うんだけどね。そんな小っちゃな学校なわけよ。ほいで、こないだ聞いたら中学生が7人のうちの3人が山村留学ちゅうかな。だから、都会でさちょっと…、ちょうど学校給食やってるね、手伝いやってるおばさんがうちに来ていてさ、ほいでそのいろいろ話聞いてると、「うーん、食事の、給食の数作るの、誰それさんはお昼までいないみたいな話だからいくつぐらいで…」ってそういう感じで話をしているから、やっぱり都会では不適応を起こしたりしてる人がさ、入ってきてるんだと思うんだよね。で今松ヶ崎地区にはそういう家庭が二世帯入ってきているしね。一つ家庭は母親と子ども。ほいで、もう一つは家族で移り住んでいるけれどもね。だから、まあそういう感じで、もう問題っていうかな、課題があってもそういう拒否をできないで、誰も来る人があったら来てくださいよ、っていう、もうそうしないと地域が生き残っていけないっていうかね。
あ、あとそのうらのかわちのその子にしたってそうなんだけどね、ダウンの子にしたってそうなんだけど、人数がさ、20人ちょっとぐらい、彼がいたころもさ、それで複式でこうやっていたからさ、その彼だけ障害児学級作るわけにはいかないからさ、それで彼なんかもみんなといっしょにこういう授業を受けていてね、うん、それはいい雰囲気だなと思って。先生によってはなかなかね、はじいたりするような人もいたけど、まあそういう先生も娑婆だからつうんで、お母さんなんかとも話(はなし)したんだけどね。
でも、中学のニ年になったらさ、あの新星学園に移っちゃってさ。ほいで、親族会議を開いてさ、ほいで「なんで放っておくのか」つって、「ちゃんといい施設があるのに」って言われて、ほいでそこに入って中学二年の途中から三年、高等部と出て、で高校終わったらまた戻ってきたんだけどね。[01:16:58]
立岩:ぼくも、こないだちょっとむかし話しなきゃいけないシチュエーションで、佐渡の話で。そういえば新星学園ってあったって話をしたんですけど、あれ新しい星でいいんですよね? 漢字としてはね。
黛:新しい星だよね。
立岩:だけど、小学生だったぼくらにとっては、そこってなんか昔、なんか悪いことすると精神病院の車が来てさらっていくぞ的な都市伝説があるんですよね、日本中にね。黄色い車だか赤い車だか来て。それとちょっと似た感じで「新星学園に送られるぞ」的なそういうこう言葉、音として、なんか、そういえばそういう名前のものがあったなっていうのを何十年ぶりか思い出して、検索したら、「あ、ほんとにそういう施設が実在するんだ」って思ったりっていうのがあったね。新穂とか、
黛:新穂だね。
立岩:そうなんですよ。とかね。そうか、佐渡の話をこんなにするとは思いませんでした。はいはい。
■
栗川:で、話を80年代と90年代に話をもう一回戻して、90年代ぐらいのその篠田さんたちが自立生活センターやり始めたりしたあたりで、ぼくはなんか黛さんがいわば黒子というか、裏で動かしてる人なんじゃないかっていう、そういうイメージだったんですけど、それはまちがいですかね?
黛:それはまちがい。だから、篠田とか広島さんと個人的には意見交換っていうかな、したよ。でも、運営委員とか理事とかはいっさいおれは引き受けないよということで。
篠田がさ、あのころ、とにかくね、脳性麻痺のアテトーゼの人ってさ、無理すると首が頚椎症になってさ、首が効かなくなったりするんよ。で、あいつはさ80年代の終わりごろからさ、「黛さんといっしょに運動やってると首が痛くなる」って言われて、まあ彼の健康のためにもおれは手を引いたほうがいいってなって。
栗川:じゃあかげで応援してるっていう感じの。
黛:かげでね、応援もしなかったん…。だって、だってだんだんさ健常者のペースにさ、だからおれがせっかく手を引いてるのに健常者のペースで動かされてしまっていたからね。ほいで頓所さん★に代わったけれども、頓所さんはどっちかっていうと中途障害だから頭はさ健常者なんよ。で、まあいろいろばりばりとやってくれたのはいいんだけれども、やっぱりうーん、自立生活センターというのは変質していったよね。だからそのころ頓所さんとかはさ、おれ、風呂入れに行っていて、よく話したんだけどね。[01:20:20]
栗川:あ、頓所さんとこ風呂入れは黛さん行ってたんですね。
黛:うん、仕事として。
栗川:ああ、そうなんですね。
黛:ほいでずーっと頓所さんに話をしてさ、「とにかく篠田を持ち上げて、あいつを動かさないとだめだよ」って言っていたんだが、あいつは逃げよう逃げようとしていったからね。
栗川:え、篠田さんは? 逃げようとしてたのね。
黛:うん。ほいで、うん。まあそれは冗談だけどね、逃げようとしちゃったってのは。まあ逃げらんないわけだからさ。
でも、なあ、なかなか、うん、なかなかあれだよね、障害者どうし、まあそれはそうなんだろうなあと思うけれども、必ずしも同じ障害者だからいっしょにやろう、っていうことにはなかなかならないよね。頓所さんは頓所さん。篠田は篠田。青木学は青木学。みんなそれぞれね自分のやり方みたいなんがあって。
おれ一時期、おれ考えてたのはさ、篠田が、まあ青木学は何年かね、もう市議会やったから、こんど篠田が市議会入ってね、ほいで頓所さんが県議会入って、ほいで青木学、おまえ秘書をやれよって(笑)。そしたら少しは新潟の福祉も変わるんじゃないかって言っていたんだけどね。
栗川:なるほどそうだったんですね。ぼくはじゃあちょっとまちがった印象を持ってました。黛さんきっと裏で動かしてるんだろうとか思ってたから。
黛:それとね、あと、そのころは、だから90年代は、だから広島〔幹也〕さんがさ、あの人が健常者だったんだけれども、心臓、拡張型の心筋症でさ、一級の障害者になって、めでたく、「やっとおれ障害者になれたわ」ってふざけて言っていたんだけれども。だから、それで彼がスペースBをね、うん、頓所さんがいちおう立ち上げたけれども、スペースBを彼がやって、共同連的な発想でやっぱりスペースBを運営していけないかってだいぶ話(はなし)してたんだけども。それで新潟に斎藤縣三なんか来てもらって話をしたりとか、あと共同連大会やったりとかね。
立岩:その時はたぶん両方いらしたな。青木さんにもお会いしたし、頓所さんにもお会いして。でぼくその新潟で何して…、よく覚えてなくて、きのう自分のページ検索して。2000年になんか少し話させていただいてるんですよ。それは何か自立支援、その、CIL(シーアイエル)っほい名前のところ。で、2003年にもう一回、それはいま名古屋市立大に行ってる樋澤さんっていう、PSW(ピーエスダブリュー)ですけどね、もともとね。その人とかといっしょに、青木さんも出てたらしいんですよ、でその時が2003年で、でそのあとがだいぶ飛んで共同連の大会が新潟であった★。
★立岩 真也 2000/10/21 「普通に暮らす――利用者中心の福祉とは」,自立生活支援センター・新潟 講演会
立岩 真也 2003/05/24 「(基調提言+)」,第3回にいがた自立生活研究会シンポジウム「障害学は何を主張するのか」
★立岩 真也 2013/08/24 「共同のためにも国家を使う」,第30回記念共同連全国大会新潟大会 於:新潟市
黛:で2000…。2000年ごろ?
立岩:うん、2003に。
黛:2000年ごろってそのころは広島さんが生きていたんじゃないの? まだ。
立岩:そっか、もしかしたら会ってる。
黛:だから広島さんとね、広島さんとおれが呼んだのがそれが最後じゃないの? CILの名前で。
ねえ、2012年に、ふーん。[01:25:21]
立岩:広島さんは2012年に亡くなってる?
黛:2003年に来てる?
立岩:うん、最初に新潟で話させてもらったみたいなんです。
黛:あ、最初ね。でそのあと何回か、2、3回来てもらってんじゃない?
立岩:2000、2003、それから共同連の時。
黛:共同連の時ね、うん、だから、三回ぐらいね、おれとか広島さんの関係で立岩さんの話(はなし)してもらおうっていうので呼んだ記憶がある。
立岩:共同連はだいぶ飛ぶんですよ。2013年とか。
黛:13年。
立岩:おれね、だから2000年に呼んでいただいた時より前に何かで黛さんに会ってるんだと思うんだけど、思い出せないんだよね。あとはぼくは、その直接に会ったとかじゃなくて、
黛:そっかそっか、2013年の共同連は広島さんと準備してたんだけど、広島さん死んだから、追悼集会みたいな感じでやってた。
立岩:ああ、そんな感じだったんだ。ぼくは87年ぐらい、86年とか7年とかに、長岡出身の高橋さんと、に出入りしてたりとか、話聞いたり何度もして、その話のなかで新潟のその黛さんの話も出てきたし、それでなんかしてたんですよ。
でそのあと、で91年に高橋さんが立川で自立生活センター・立川作るんです。でそのあとばりばりいろんなところにこうのばしてって、で「新潟でもやんなきゃいけない」みたいなことはおっしゃってて、高橋さんと。で新潟行ってうんぬんみたいなところまでは聞いてたんですけど、それ以上、
■高橋修
黛:高橋修にさ、最初に立岩さん出した『私的所有論』、うん、あれをあげたでしょ?
立岩:高橋さんに?
黛:高橋修にやってるんだよ、一冊。プレゼントしてる。
立岩:かもしんない。
黛:うん、で、「これ難しくてわからねえや」っておれがもらってさ、今持ってるけどね。
立岩:重たい本があるわけだ。
黛:ほいで、それを読んだけどよくわかんない。
立岩:まあいいや、弁明してもしょうがないんで。
黛:いや、でも高橋修さんからしたら、いや話してみたらなかなかおもしろい人なんだけど、本読んでみるとあれわからない人だなって、そんな話はしてたことあるんよ。
立岩:ぼくはそうなんですよね。だから、高橋さんでも新潟にときどきは戻られて、新潟の運動をこう活性化っていうか、手を入れなきゃねっていうことは生前おっしゃってて、それはたぶん90年代の半ばとかじゃないかな。
黛:90ね、91年…。うーんとね、上越でさ、上越でね、ダウン症の人とその母親がさ…、えーっと、どっかに書き込んだはずなんだけどな。何だ、死んでる事件があるんですよ。餓死事件、上越のね、餓死事件で。そしてその時にさ上越市の障害福祉課の課長あたりがね、「施設に入ることを勧めていたけれども親が拒否をして施設に入(い)れないでこんな事件になってしまった」みたいなコメントしたわけ。で、そもそも施設に入(い)れないからっていうね、そういう発想がそもそもおかしいっていうのと、あとそんな、そのころだって施設なんていっぱいでさ、みんな待機させられていたわけじゃない? 入所。で、そもそも福祉の貧困が問題だし、在宅っていうかな、家にいる人たちの支援体制を作らなきゃならないんじゃないんか、っていうので篠田なんかと県に抗議に行って。で、それからあと高橋修さんなんかが、それこそ毎月あれだよな、障害福祉課と交渉するときには彼来て、参加して「交渉の仕方を教えてやるか」とか言って彼ね、やっていたわけ、新潟市で。
だから今、あそうだ、佐渡のさ、うちに、彼の、高橋修さんとその交渉している時の写真ね、カメラマンの『阿賀に生きる』を撮ったね…、なんだ、何しげるだ? [01:30:42]
栗川:小林茂。
黛:うん、小林茂が撮った写真がさ、かなりいいショットで撮ってある。それを拡大して飾ってあるけど。
山口:さっきの餓死のが91年だったみたいです。上越市の。
黛:だからその91年から1年間、県の障害福祉課と交渉した、篠田なんか中心にしてね。その時には三条だとか新津だとかから障害者の人が参加して20人から30人ぐらいで交渉した。
栗川:それ介護保障を求める会ですかね? ないっすか?
黛:えっとそのころは介護保障を求める会かなあ? なんかそんな名前をでっちあげた。
おれと篠田がやってきた会っちゅうのはさ、みんな行政と交渉するときにつける名前でさ、会費だとかそういうのはとったことは…、
山口:介護保障を考える会だった。
栗川:を考える会。
山口:たぶん栗川さんがつながってる会だったら。
黛:え、栗川さんもその交渉参加してない?
栗川:ぜんぜん覚えがないです。行ってんのかもしれないですけど。でもあのへんは盛り上がってきた時期ですよね。
山口:篠田さんとこに書いてる。介護保障を考える会。
栗川:それで高橋修さんとか来て、まあてこ入れっていうか、そういう感じですね。
黛:それでね、かなりいいところまで行ったんだけれども、うー、で、その92年ぐらいからさ、ホームヘルプサービスというのが国の事業じゃなくて各しょ…、あの…、県か、だから国の委託事業として県がやるんじゃなくて、各市町村にその権限が移されるかなんかしちゃったんじゃないかな。で、最終的には県はじゃあ各市町村にその旨を伝えますからみたいなことで、あとは各市町村と交渉してヘルパーを何にするとかね、そういうことは何時間派遣するとか、そういうことは、こまかなことは市町村と協議してください、みたいに逃げられちゃった、最後は。
栗川:じゃあそのあとから新潟市との交渉みたいな、実質的なヘルパーを増やすための。
黛:うん、実質的な話は。でまあ比較的そのあと新潟市だけは比較的ヘルパーの数をどんどん増やしていったけれども、あとそのほかの市町村はそれが進まなかったよね。
栗川:まあ交渉する人がいないっていうかね。新潟はだから篠田さんたちがどんどんやってたから。[01:34:03]
立岩:どこでもまあ人はいっぱいはいないじゃないですか、田舎は。だからもういないほうがデフォルトっていうかふつうで、そのうえで田舎でどうやっていくかっていう課題っていうかなあ、それが2000年越えたときの課題だったと思ってて、それのところで2日前に大野さん★っていう、全国にそういう制度を普及させる活動をもう30年ぐらいやってる人にインタビューしてきたんだけど、それやってたわけ。
で、高橋さんなんかはそれをどういう方法論っていうか運動論でやっていくかっていうのをだいぶいろいろ考えた末に、地元で、なんていうか、やってもそんなに広がらないっていう、全国的な情報、全国からこう、東京から全国に情報発信みたいな、そっちのほうについたんですよ。
で、だけど彼は99年に亡くなっちゃうじゃないですか。そうしたときに、たぶんなんですけど、もしかしてそれが高橋さんがっていうありえない仮定であれば、そういうつながり方で、たとえばその黛さんおっしゃったように、ある種自治体に任されちゃって、てことは自治体やる気なければ何もないと続くわけだけれども、そこの手練手管って実はまあいろいろあって、たとえば厚労省に直(ちょく)に電話して、「厚労省としては必要なだけ供給すべきだっていう認識でいる」みたいなところを障害福祉課長とかに言わせるんですよ。そうするとわりと動くんですよね。っていうその手練手管いろいろと仕入れるようなふうになってると、地元にそんなに人材がいなくてもまあまあいけるんですよね。
それでけっこうその、それこそ鹿児島の南、沖縄と鹿児島の間にあるような離島であるとか、そういうところでそこそこ制度がとれるようになってくるんですけど、そこがでも、そういうつながりみたいなのがいかない、そのまま残されていく、残されちゃって、たぶん新潟、それから富山、金沢っていうのが重度訪問っていう制度のいちばん取り残された県なんだよね。
それがぼくは金沢で古込さん★って筋ジス、デュシェンヌで亡くなられましたけど、それが金沢で最初にとれた、っていうのももう5年ぐらい前、最近のことですよね。っていうのでなんかほんとに偶然みたいなことを含めてなんかルート。それでも地元の力が弱いっていうのは当然じゃないですか、それはもう前提するしかなくて、そのうえで、じゃあどういうふうに制度を作って使っていくかっていう話だと思うんだけどね。
というあたりが、それってなんか小賢しくないとできないことあるんですよね、ある程度ね。だけど、それ全面的に賢い人間がそう田舎にごろごろいるはずはないので、でもぎりぎりそのぐらいの知恵がある人が1人ぐらいいると何とかなるんですよね。そこのところが新潟の場合どうだったのかなっていうのはちょっと気になってますね。
黛:そのころ90何年かな、介護保障要求者組合★って東京で結成されるでしょ。で高橋さんなんかに言われて、まあおれと篠田が、うーん、あのころは厚生省だったのかな、まだ。厚生省なんかに出かけていったんですよね。そして、それがさ介護人要求者組合から高橋さんが脱会するじゃない。
立岩:そうです、抜けるんですよ。
黛:だから高橋さんはねあのころに自立生活センター・立川を始めてさ、ほいで自立生活センターがヘルパー派遣事業をやることによって全国展開するっていうかね。だから、どういうんだろうな、ヘルパーを派遣してくれ派遣してくれって言うだけじゃなくて、自分たちでそういう実態を作っていこうというふうに踏み切ったと思うんだよね。
立岩:そうそうそう。
黛:それで新田★なんかと袂を分かつわけだけれども、でも今、じゃあ自立生活センターがそれやりきれてるかっていうと、やれてないよね。
立岩:制度、もうありていに言ってしまえば時間ですよね。時間をどうやって自治体から引っぱり出すかっていう話が片方にあって、でも時間ってったって実際にサービスに結びつかないじゃないですか。お金、時間をサービスにどう具体的に結びつけるかと思うと二つあって、いっこは黛さんおっしゃったように、まず制度のとり方ってのはそれなりにあるんです。力が弱くてもとれるとり方っていうのがあって。でその、じゃあ供給のほうをどうするかっていったときに、正攻法は自立生活センターをその地元に作るなんですけど。まあその二日前に話聞いた大野くんっていうのは、登録自体は東京にある組織のほうでやっちゃって、あとはもう利用者が一人ずつ自分の分をなんとかっていう、そういう仕掛けを今ここ何十年かで作ってきたんですよ。
そこらへんもやりようがなくはないんですけど。で、なおかつそういう意味で言うと、なんか小賢しさも必要なんだけど、そこがおおむねわかってくれればあとはこっちで頼んでくれればやるよ、っていう仕掛けが多々、まあまああって。そことの、そのまあ究極的…、なんつうのかなあ、これ富山で全障連やってた平井誠一っていう、さんにインタビューしたんだけど、なんかそこのわりきりっていうか、よくよく考えるとふつうに合理的なんだけど、なんだろ、「泥臭いところでやってきたおれたち」みたいな、なんかそういうプライド、プライドつうかなんかそういうのもあって、なかなかこう「東京のもんの言うことはようわからん」みたいな、そういうのがけっこう実はあるんでね。で、そんなにべつに怖い話でもないし、そのなんか儲け主義でやってるわけでもないんだけど、そこでなんか東京のもんがやってきてようわからんこと言う、みたいな、そういうのがちょっとある。富山はそれはあったな。
で、富山でもでも黛さんの話が。ぼく田中さん★って人と平井さん★って人二人インタビューしたけど、二人ともの話のなかに、なんか黛さん出てきて、久しぶりになんか思い出して。[01:41:32]
黛:平井さんとは「障害児を普通学校へ・全国連絡会」の彼は世話人をやったりしていて、それで何度か会ってさ、ほいで富山と新潟それこそとなり接してるんだからねもうちょっと交流しないとだめだなあ、とは言っていたんだけれども、交通の便が悪くなってね、けっきょく車で3時間、4時間かけて行かないと、ってことでなかなかそれ実現しなかったのは。
立岩:そうね、新潟ね長いもんな。新潟県、南に出るのってなかなかたいへんだよね、距離的にね。確かにそれはあるかもしれない。
栗川:だから新潟で今自立生活したい人は県内各地から新潟市に引っ越してくるみたいな。新潟市に来ればまあ時間もとれるし人もいるし、っていうことで、そういう感じですよね。
立岩:うん、それはあるよね。で、それがだんだん煙たがられるようになってさ、みたいなこともそのうち…、今起こってるかもしんないけど。
京都だって、こないだ受け入れた人って京都府だけど京丹後市の人であったり、次の人は福井県の人で、やっぱり事業所がないからっていうので京都に越してきたりとか。で、こんどたぶん6月にこっち越してくる人は沖縄の出身で、で沖縄から福岡に移ったんだけど、そこで暮らせなくて、けっきょく京都なんですよ。でなんかつまんないけど、今、京都市財政悪いじゃん。それちょっとびびりながらみてた。大丈夫かなと思いながら…、そうなんですよ。
■障害児を普通学校へ全国連絡会
栗川:その「障害児を普通学校へ」の世話人は、もうけっこうもう発足当時ぐらいからやってたんですか?
黛:発足…当時から、まあその何年か経ってからね。
栗川:たしか全国連絡会が81年じゃないかな。
黛:81年にスタートをして、途中からね、80…80年代のなかばぐらいからかなあ? 世話人引き受けていて。
栗川:まあ新潟はそのね、名鏡高校やら加茂高校やらの事件があったから、全国から注目はある程度されてるみたいな。
黛:注目はねされてなかったんだろうな。それよりはさ、80年代の後半ぐらいにその名鏡高校の問題があって盛り上がったじゃん。ほいでそれがね、だんだんぽしゃってきたんよ、80年の終わりごろ。ほいでその時に1991年かな、それまで2年に1回東京でさ全国交流集会ってのをさ開いていたわけ。[01:45:03]
栗川:あ、新潟でやりましたよね。
黛:うん。でそれをさ、こんどは東京じゃなくて地方で試しにやってみないか、っていうときにさ、どこも手挙げなかったからさ、「じゃあ新潟でだったら引き受けるよ」とおれが意外と気楽に考えて、あと、「共に生きる教育を求める連絡会」ってのもだんだん空中分解しつつあったからさ、最後にじゃあ置きみやげみたいな感じで、じゃあ全国連絡会でもやって幕を閉じるか、と思ってさやったのがその新潟交流集会で。そしたらさ、けっこう新しい人がかかわってきて、でその交流集会のあとに「ゆいまーる」っていう親の会を立ち上げてさ、ともに生きる教育を求める連絡会に代わってそのゆいまーるが活動を始めたわけ。
でゆいまーるは何代か中心になってやる人が変わりながら、こういう波はあったけれども、90年代の終わりぐらいまで続いたんじゃないかなあ。
栗川:そうですよね、全国連絡会の全国集会、たしか1993年からぐらいですね、たしか。
で、そうです、思い出したのが、十日町の春日あらたさんっていう視覚障害と知的障害のある子の小学校入学みたいなところも、あれですよね、黛さんと二人で行って十日町の市役所だかなんか学校でしたかね? あれ。
黛:学校ね、うん、学校に行って話。
栗川:あれもやっぱゆいまーるつながりとか、あとかすがさんやっぱ黒岩さん、黒岩秩子さんとかとのつながりとか。なんか黒岩秩子さんのところでは学習会か何かやってて、「あ、普通学校行っていいんだ」みたいな感じで。
立岩:「ゆいまーる」ってひらがなで「ゆいまーる」?
黛:うん、ゆいまーる。その命名はさ、おれが沖縄に凝っていた時代でさ、「ゆい」ってあるよね? こっちで。その「ゆい」みたいな組織が沖縄ではゆいまーるっていうんだよね。で、そのゆいまーるをちょっともじって教育委員会の悪口を言いまーるって(笑)、そういう会で、じゃあゆいまーると命名しようということになって。
立岩:その十日町は何っていう人の就学。
栗川:春日あらた。
黛:かすが、はるひ。
栗川:春日さんは春の日の、
山口:あらたは?
栗川:あらたは新しいひとつだったかなあ。どうやったか、女の子ですけども。
黛:あらたってひらがなじゃないかな。
栗川:ひらがなでしたっけね。
黛:のような気がした、おれは。
立岩:女の子。あらた。
栗川:あれもけっこういろいろ保育園の時からいじめられたりいろいろしてたんだけど、でお母さんの春日やすこさんっていう人が、もうぜったい地域でっていうことでがんばって。
でまあずっと中学…、高校どうしたの? 高校受けたけど落ちた?
黛:高校受けたけど落ちた。うん落ちて、そのころに障害者何だっけ、障害者オリンピックとかいうのがあるじゃない? そういう活動にねのめりこんで。ほいで長野あたりで最初やったのに参加したのかな。でそのあと黒岩さんなんかとその新潟で呼んだり、その障害者オリンピックをね、とか、だんだんそっちのほうに行って、最近は連絡ないけどね。
立岩:けっこう曇ってるの? 雨あがってますかね。蒸してるよ。[01:50:19]
栗川:蒸してますよね。窓開けてもらってちょうどよかった。