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今井 澄

いまい・きよし
1939〜2002


◆wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%BE%84

◆「東大医学部。医学連を経て、共産同ML派、ML同盟に。六九年の安田講堂攻防戦では防衛隊長を務めた。長野県の公立諏訪中央病院に赴任していた七七年に、安田講堂事件の判決が確定し、靜岡刑務所に服役した。そのとき、刑務所に向かう今井を病院スタッフ一同と多くの患者が駅で見送り、花束を贈ったエピソードはよく知られている。出所後、八〇年に諏訪中央病院院長。九二に社会党から参議院議員選挙に出馬し、当選した。その後民主党に移り、二〇〇二年に死去するまで議員の職にあった。」(市田・石井[2010:100])

『理想の医療を語れますか――患者のための制度改革を』【著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)】
参議院議員。1939年中国東北地区(旧満州国)ハルビン生まれ。東京大学医学部卒業。佐久市立国保浅間総合病院勤務を経て、組合立諏訪中央病院に勤務、1980年に同病院院長に就任する。1991年同病院を退職。1992年に参議院議員当選(長野県区)を果たし、現在にいたる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■著書

◆今井 澄 19920110 
『豊かな明日への暮らしと医療――高齢化社会と地域医療』,鳥影社,346p. ISBN-10: 479525172X ISBN-13: 978-4795251724 1835 [amazon] ※ a06.

◆今井 澄 20020405 『理想の医療を語れますか――患者のための制度改革を』,東洋経済新報社,275p. ISBN-10: 4492700811 ISBN-13: 978-4492700815 [amazon] ※ a06

■言及

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※

◆江田 五月 2003/07/25 「今井澄さんを偲ぶ」
 http://www.eda-jp.com/satsuki/2003/imai-0307.html

  「今井澄さんに最初に会ったのは、多分、1961年だったと思います。その前年、日本中を揺るがした安保闘争の最中に、私は郷里の高校を卒業して上京し、ひとりの東大生として、デモやストに参加していました。当時、今井さんは既に自治会幹部でした。従って、接点が出来たのは、翌61年の晩秋、私が学部自治会の委員長に当選してからです。今井さんは、当時たしか自治会中央委員会議長、つまり、10学部の全自治会の統合組織の最高責任者だったと思います。
  私とは、学生運動の派閥も違うし、キャンパスも、本郷と駒場で別々なので、日常のお付き合いは深くはありませんでしたが、腹のすわった、穏やかな、しかし怒るときは烈火になる、無類の好人物という印象が、今も鮮やかです。
  翌62年、全学上げての大学管理法反対闘争で、私たちの自治会はストライキで本郷の安田講堂前の全都学生集会に参加し、私は退学処分となりました。1年後、再入学を許され、私は通常の学生生活に戻ったのですが、今井さんはその後、全共闘運動の中ではなばなしく活動されました。それからの私たちは、全く違った道を歩み、接点もありませんでしたが、風の便りに、今井さんが12年かかって卒業し、医者になったと聞き、その粘りに感心していました。
  次に会ったのは、今井さんが長野県から参議院に立候補されたときです。私は、社民連代表をしており、こちらから長野に押し掛けて、一緒に選挙カーの上に立ちました。見事に当選された後のご活躍は、皆さんご承知のとおりです。
  1998年、私が参議院議員に復帰して、私たちは30数年ぶりに同じ場所で仕事をすることとなりました。気心も知れており、何でも相談できる仲間として、本当に心強く思っていました。一昨年には、今井さんらに担がれる形で、私が会派の役員選挙に出たり、党内の役員選挙であれこれやったり、ちょっと年は取りましたが、学生時代に帰った気分でした。
  その今井さんと、こんなに早くお別れするとは、夢にも思いませんでした。昨年の通常国会での今井さんの姿は、壮絶でした。命を縮める論戦を、誰も止めることはできませんでした。誰もまねの出来ない迫力でした。私には、1977年の私の父の姿が、二重写しに見えました。
  日本も世界も、ますます怪しげになってきました。今井さんの思いを大切にし、不屈の闘志を燃やして頑張ります。」

◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

 「インターン闘争と銀杏並木は並行してます。時間的にも考え方も。古賀たちの世代が本郷に上がってきて、その連中と我々が一緒になって、東大のまず社学同を再建して、それで都学連再建って方向に走り出す。そのときには責任上、都学連には医学部から今井澄(14)を委員長として出さなきゃいけない、となったんです。
 キ学連再建大会は六三年一月です。しかしあのとき、理論もなにもないんで、もうみんな無責任でさ。」(市田・石井[2010:61])

註14 「東大医学部。医学連を経て、共産同ML派、ML同盟に。六九年の安田講堂攻防戦では防衛隊長を務めた。長野県の公立諏訪中央病院に赴任していた七七年に、安田講堂事件の判決が確定し、靜岡刑務所に服役した。そのとき、刑務所に向かう今井を病院スタッフ一同と多くの患者が駅で見送り、花束を贈ったエピソードはよく知られている。出所後、八〇年に諏訪中央病院院長。九二に社会党から参議院議員選挙に出馬し、当選した。その後民主党に移り、二〇〇二年に死去するまで議員の職にあった。」(市田・石井[2010:100])

 (これ=「ゆきぐに大和病院」)「これに対し諏訪中央病院のほうは、元々外科医師連合系だったということもあり、連中は、今井を別にすれば医療思想として特に左翼的ということはなかった。ただし、今井の近代派ブ・ナロード路線は佐久総合病院などの長野の病院運動を引き継ぐものとはして、病院全体を牽引していたと言えます。先端医療を田舎へ移植しようという発想だな。東京からその手の連中を連れてくるんだけど、ある意味では大学病院のコピーを作ろうとしたんです。病理やなんかも東大から引っ張ってきた。研修重視の姿勢も僕なんかより先に強く打ち出してます。だから、<0231<大学に対抗して医局う作る路線だと言ってもいい。東大での医局解体路線がそういうかたちに”止揚”された。それと、外科は手術するんだから、病院でないとやれないでしょう。在宅だけでは立ち行かないんです。
 近代派ということで、徳洲会も途中から来てるのよ。」(市田・石井[2010:231-232])

◆立岩 真也 2011/01/01 「社会派の行き先・3――連載 62」,『現代思想』39-(2011-1): 資料


*作成:北村健太郎 *作成協力:天田城介
UP:20080219 REV:20101211, 14
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