◆Frank, Arthur W 1991 At the Will of the Body: Reflections on Illness, Boston: Houghton Mifflin Company. ISBN-10: 0618219293 ISBN-13: 978-0618219292 [amazon] ※=19960520 井上 哲彰 訳,『からだの知恵に聴く――人間尊重の医療を求めて』,日本教文社,ISBN-10: 453108098X ISBN-13: 978-4531080984 1631 [amazon] ※ sm.,
◆Frank, Arthur W 1993 “The Rhetoric of Self-Change: Illness Experience as Narrative," The Sociological Quarterly, 34: 39-52. ISSN: 00380253
◆Frank, Arthur W 1995 The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: The University of Chicago Press. ISBN-10: 0226259935 ISBN-13: 978-0226259932 [amazon] ※=20020215 鈴木 智之訳,『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』,ゆみる出版,ISBN-10: 4946509291 ISBN-13: 978-4946509292 2940 [amazon] ※ sm.
◆Frank, Arthur W 1997 "Enacting Illness Stories: When, What, and Why," H Nelson ed., Stories and Their Limits: Narrative Approaches to Bioethics, 31-49, New York: Routledge. ISBN-10: 041591910X ISBN-13: 978-0415919104 [amazon]
◆Frank, Arthur W 1997 "Illness as Moral Occasion: Restoring Agency to Ill People," Health, 1: 131-48.
◆Frank, Arthur W 1998 "Just Listening: Narrative and Deep Illness," Families, Systems & Health, 16: 197-212. ISSN: 07361718
◆Frank, Arthur W 1998 "Stories of Sickness as Care of the Self," Health, 2: 329-48.
◆Frank, Arthur W 1998 "Bodies, Sex, and Death,” Theory, Culture & Society, 15: 417-25. ISSN: 02632764
◆Frank, Arthur W 2000 "Illness and Autobiographical Work: Dialogue as Narrative Destabilization," Qualitative Sociology, 23(1). ISSN: 01620436
◆Frank, Arthur W 2004 "Emily Scars: Surgical Shapings, Technoluxe, and Bioethics," The Hastings Center Report, 34(2): 18-29. ISSN: 00930334
◆Frank, Arthur W 2004 "Asking the Right Question about Pain: Narrative and Phronesis," Literature and Medicine, 23(2): 209-25.ISSN: 02789671
◆Frank, Arthur W 2004 The Renewal of Generosity: Illness, Medicine, and How to Live, Chicago:The University of Chicago Press. ISBN-10: 0226260178 ISBN-13: 978-0226260174 [amazon] ※
Frank A W : Illness as moral occasion: restoring agency to ill people.Health,1,131-148,1997.
Frank A W : The wounded storyteller: body,illness,and ethics.University of Chicago Press,Chicago,1995.(鈴木智之(訳):傷ついた物語の認り手:身体・病い・倫理.ゆみる出版,東京,2002.)
Frank,A,W.,1991"From Sick Role to Health Role:Deconstructing of Parsons,"R.Robertson and B.S.Turner eds.,Talcott Parsons:Theorist of Modernity,London:Sage,205-216.(=1995,中久郎・清野正義・進藤雄三訳「病人役割から健康人役割へ」『近代性の理論――パーソンズの射程』恒星社厚生閣,272-89.)
Frank, Arthur W., 1991, For a Sociology of the Body: An Analytical Review,” The Body: Social Process and Cultural Theory, eds. Mike Featherstone, Mike Hepworth, and Bryan S. Turner, London: Sage Publications, pp.36-102.
――――, 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press.(=2002,鈴木智之訳,『傷ついた物語の語り手』ゆみる出版.)
◆後藤吉彦, 20070730, 『身体の社会学のブレークスルー――差異の政治から普遍性の政治へ』,生活書院.
(pp4-5)
社会学に準ずる研究領域として、身体の社会学が登場したのは一九八〇年代である。それは、社会学および社会理論が伝統的に心身二元論(精神と身体のはたらきを二分したうえで、人間の活動として前者を重視し後者を軽視する発想)によっていたことを反省し、学問に「身体を取り戻そう(Bring the body back in)」(Frank 1990)とする動きであったといえる。
(p26)
身体への関心を牽引した要因として次にあげられるのは、消費社会の出現と同時代にあたる一九六〇年代に台頭し、その後大きなうねりをもって展開することとなったフェミニズム運動の影響である(Frank 1990, 1991; Shilling 1993; Turner 1992)。
(pp32-33)
ここまで、身体の社会学の成立をうながした現代社会の動向について考察してきた。だが、身体の社会学の成立を、社会学者が社会の動きに反応した結果としてだけでとらえることはできない。なぜなら、ターナーのいう「身体社会」ほどには、中心的な位置をしめていないにしろ、過去にも身体が社会的な関心の対象となることは幾度もあったのだが、それにもかかわらず、実際には社会学者たちは身体を研究対象としてこなかったという事実があるからである(Shilling 1993; Turner 1992, 1996; Williams and Bendelow 1998)。たとえば、一九世紀のアメリカ合衆国やイギリスでは、富裕層のあいだの過食や肥満、そして貧困層の栄養失調が社会問題となっていた。また別の例として、第一次世界大戦時の合衆国では、若者の健康状態に関するデータの悪さが、社会の大きな関心を集めていた(Shilling 1993: 29-30)。そしてよく知られているように、二〇世紀のナチズムやファシズム支配下の国家では、国民の身体の健康やかたちが重要な国家問題とされていたのである(Proctor 1999=2003)。しかし、E・ゴッフマンやP・バーガーの著作など少数の例を除けば、社会学者が自分の研究のなかで「身体」に重要な意味を与えることはほとんどなく、社会学理論は伝統的に身体への視座を欠いた、いいかえれば、「脱身体化された(disembodied)」理論であったのだ。A・フランクは、社会学理論の古典のなかに、その傾向が如実にあらわれていると指摘する。すなわち、G・H・ミードの著作は『身体・自我・社会』ではなくて『精神・自我・社会』であり、E・デュルケームの『自殺論』は、自殺を抽象的な数字としてあつかい、生きた身体が死体になるという観点をもちあわせていないのである(Frank 1991: 36)。
(pp35-36)
そして最後に、社会学が身体へ関心をはらわなかった要因として、主要な社会学者たちがみな男性であり、社会学の理論もすべて男性からの視点に偏っていたことが指摘される(Frank 1991; Shilling 1993)【注6】。“男性的な”社会理論は、女性としての身体をもつことからくる経験を取り上げなかったり、あるいはそれを無頓着に無効化・中性化(neutralize)したりすることによって、社会にある男性支配の実態から目をそむけがちであった【注7】。
(p38)
(7)数少ない例外としては、G・ ジンメルがその著作のなかで、フェミニスト的視点でみた理論の可能性について書いたものが、また、ウェーバーが個人的な見解として、女性の社会的状況にふれたものがある(Frank 1991: 41)。
(p41)
まとめれば、一九七〇年代以降、社会学の認識枠組みの見直し作業がすすみ、そのなかで、従来の社会理論が身体への視座を欠いていたことも反省され、社会学に「身体を取り戻そう」(Frank 1990)というスローガンも聞かれるようになった。そして、前節でみておいた社会一般における身体への高い関心に呼応するように、次第に社会学の内側から、身体への関心が押し出され、一九八〇年代以降、社会学研究のあらゆる場面で「身体」が言及されるといった状況が生まれ、社会学のサブジャンルとして身体の社会学が成立するにいたったのである。
(p49)
(10)注1で言及したオニール(1985=1992)、ウィリアムズとベンデロウ(1998)、ターナー(1992)による各研究のほか、A・W・フランク『傷ついた物語の語り手――身体・病・倫理』(Frank 1995=2002)などがこのアプローチによる研究の代表例である。
(pp49-50)
現在のところ反‐社会決定論がよりどころにするのは、現象学的な観点を取り入れた研究アプローチか、人間が動作や振る舞いなど身体動作を身につける過程(身体化)に注目する研究アプローチである場合が多い。現象学、とくにM・メルロ=ポンティの現象学(Merleau-Ponty 1945=1982)からの影響を受けたアプローチは、人間の知覚や主観にとって本質的な役割を果たすものとして、身体を取り上げる【注10】。このアプローチは身体を、客観的な身体(モノとしての身体)と、主観的に経験された身体(「生きられた・経験された」身体)に分けて考え、後者についての考察を行う。その内容としては、病気や事故に直面した身体が、いかに自己アイデンティティを変容させるか、あるいは、その経験が語りをとおして他者と共有されることでどのような変化をもたらされるか、といったものがある。これらの研究は、身体的経験の個別性を強調することで、社会決定論とは対極的な位置に立つ。ただその反面、ややもすれば身体的経験を社会的文脈と切り離された“秘儀的な”ものとしてあつかってしまう危険性をはらんでいる。
(p58)
身体の社会学のできることは、そのような身体と社会が複雑に絡み合う、だまし絵のような構図を省略によって損なうことなく分析することである。その分析は迂回や矛盾や両義性を孕んだものとなるだろうが、その歯切れの悪さも身体の社会学の特徴の一つといえる。それは「現実とは混乱したものであった(Truth was a mess)」(Frank 1990: 159)ということを反映している。
(p191)
人間の「身体」が、社会学が考慮に入れなければならないものとして体系的に論じられるようになったのは一九八〇年代以降である。このことは、当時、哲学や文学など、あらゆる学問領域で身体論が一種のブームとなっていた流れとも呼応するものである。この身体論のブームの背景としては、消費社会のなかでの見せる/見られる身体への関心の高まりや、反‐?近代合理主義思想の盛り上がり、あるいは、女性の身体の抑圧を問題にしたフェミニズムの活躍、そして、医療化や高齢化といった問題への意識の高まりなど、学問内外で起こっていたいくつかの要因が指摘されている(Shilling 1993; Frank 1991; Turner 1992)。いずれにせよ、社会学においても「身体の社会学」という領域が立ち上げられ、以来、身体に言及する多くの研究論文が発表されている。
Frank, A., 1990, “Bringing Bodies Back In: A Decade Review,” Theory, Culture & Society, 7(1): 131-62.
――, 1991, “For a Sociology of the Body: An Analytical Review,” M. Hepworth, and B. S. Turner eds., The Body: Social Process and Cultural Theory, Sage, 36-102.