HOME >

ホロコースト holocaust




(以下、「ホロコースト」を主題としない文献において「ホロコースト」に言及している部分の引用)

◆Sedgwick, Eve K. 1990 Epistemology of the closet(=1999, 外岡尚美訳『クローゼットの認識論――セクシュアリティの20世紀』青土社).
(p108)
 王はアマンの民族虐殺計画に不本意ながら従い、エステルは従兄弟であり後見人でありユダヤの良心であるマルドケ(モルデカイ)によって、彼女が秘密を明らかにする時が来た、と告げられる。このとき、彼女をめぐる不安の独特な作用は、ホモフォビックな両親に対してカム・アウトしようとしたことのあるゲイの人間だったら、誰にでも理解できるだろう。「もし私が死ぬとしたら、死ぬのだ」と聖書の中で彼女は言っている(「エステル記」4章6節)。彼女が秘密のアイデンティティを公言することに測り知れない力が潜むだろうことは明らかだ、というのがこの物語の前提である。残るは、この強力な圧力のもと、彼女の種族に対する王の「政治的」敵意が彼女に対する「私的な」愛を破壊するか、それともその反対であるか、を見るのみである。王は彼女を死んだも同然と、それともむしろ死んだ方がよいものと宣言するのか?それとも近所の書店で、レジの店員に気づかれないように願いながら、『ユダヤ人を愛して』なる本を買う彼の姿がほどなくして見出されるだろうか?
 結末を知っているからこそ*11、ホロコースト的なるものと私的で親密なるものとがはかりにかけられるのを読むことに耐えられるのだが、聖書の物語とラシーヌ劇は、カミング・アウトの特殊な夢またはファンタジーが演じられたものである。その際、エステルの雄弁は、夫による意義申し立て、あるいはショックを表す、わずか5行によって、抵抗を受けるのみである。本質的に、彼女が秘密を明らかにした瞬間、彼女の支配者もアマンもともに、反ユダヤ主義者が負けたことを悟る(「アマン、独白。『身体が震える』」(1033)。親密な愛の場でアイデンティティが明らかにされることによって、自然と不自然、清らかさと穢れとの公的分類法が全て、やすやすと覆されるのだ。物語が奇妙に心に訴えるのは、主人の愛と好意とを失うリスクを冒すエステルの小さな個人的能力に、彼女自身の生命のみならず、彼女の民をも救う力があることだ。
(p128)
 *11 聖書の物語がやはり大量殺害で終わることは、当然思い出すに値する。ラシーヌの王が彼の命令を取り消す(1197)のに対して、聖書の王は命令を逆転させ(「エステル記」8章5節)、ユダヤ人に彼らの敵「7万5千人」(9章16節)を、女、子供を含めて(8章11節)殺害する許可を与えるのである。


◆Herman, Judith Lewis 1992 Trauma and recovery, Basic Books(=199612, 中井久夫訳『心的外傷と回復』みすず書房).
(p79)
 正常な児童の発達においては、肯定的(積極的)な自己像の上に次第に向上する有能性とイニシアティヴをとる能力とがつけ加わってゆく。有能性とイニシアティブとにかんする正常な発達的葛藤の解決が不十分であると、その人は罪悪感と劣等感とを起こしやすい。外傷的事件は、これはほとんどその定義のようなものであるが、イニシアティグを駄目にし、個人的有能性をくつがえす。被害者がいかに大胆で才能にめぐまれた人であっても、その行動は災厄を排除することには十分でなかったわけであるから、外傷的事件の余波期において被害者が自分の挙動を回顧し反省する時、罪悪感と劣等感とが及ばない部分はほとんどない。ロバート・ジェイ・リフトンは、戦争、天災あるいは核爆弾によるホロコーストの生存者には「生存者罪悪感survivor guilt」がごくふつうにみられる体験であることを発見した。レイプが与える打撃も本質的に全く同じであり、加害者でなく被害者が罪悪感を覚える。罪悪感を覚えるのは何と加害者ではなく被害者なのだ。罪悪感とは、災厄から何らかの有益な教訓を引き出し、力とコントロールとの感覚をいくらかでも取り戻そうとする試みであると解することができるかもしれない。もう少しうまくやれたのに残念だと空想してみることは、自分は全く手の打ちようがなかったという、完全な孤立無援感に直面するよりもまだましかもしれないのである。
(p128)
 「背骨が折れる」―第一段階では「ロボット化」あるいは人間でない生命形態への退化によって生きのびようとする。この段階は可逆的である。一般にこの過程には二つの段階がある。第一段階に達するのは被害者が生きのびるためにおのれの内的自立を、世界観を、道徳律を、他者とのつながりを犠牲にする時点である。感情に、思考に、イニシアティヴに、判断にシャッターが下りる。ナチのホロコースト犠牲者の治療を行った精神科医へンリー・クリスタルはこの状態を「ロボット化」と名づけた。この心理状態をとおりぬけて生きのびた囚人はしばしば自分は人間でない生命形態に退化したと述べている。
(p131)
 慢性外傷を受けている人の身体は落ち着きやよい気分を基本状態として持つことがなくなる。自分の身体がいつも自分に刃向っているような感覚がする。不眠と昂奮に限らず多種類の身体症状を訴える。緊張性頭痛、胃腸障害、腹痛、背部痛、骨盤痛がきわめて広くみられる。身体がふるえるとか息がつまるとか脈が速く打つと訴えることもある。ナチのホロコーストの生存者の研究を眺めれば心身症的反応は実際上万人が起こすものであることがわかる。同様のことは東南アジアの強制収容所においても観察されたという報告がある。長期監禁の生存者はそのダメージを一次的に身体言語によって概念化するということがある。時には自分の状態に馴れっこになりすぎて、身体症状とこの症状がつくられた場の恐怖の雰囲気との問のつながりがわからなくなる人もある。
(pp141-142)
 どのような出会いであっても基本的信頼は旋問祝される。解放された捕囚の人にとって芝居の脚本は一つしかない。残虐行為という脚本である。配役も数が限られている。たしかに「加害者」にはなれる。「何もしない目撃者」にもなれる。あとは「味方」と「救済者」である。新しい対人関係であろうと昔からのであろうと、ある質問を心に秘めて被害者はそれに近づく。すなわち「あなたはどちら側か、敵か? 味方か?」と。被害者が軽蔑する最大のものはしばしば加害者でなく何もしない目撃者である。ここでもまた強要されて売春婦となったラグレースの声を聴こう。彼女は介入してくれなかった人たちの弁解を斥けてこう言っている。すなわち「私は何も言わないから、私がどれだけしん底軽蔑しているかはたいていの人にはわかっていない。私がしているのは単純にリストの中で彼らのところに×をつけることである。永遠に。あの男たちは私を助け出すチャンスがあったのに動こうとしなかった」。これと同じ苦痛と見捨てられ感は政治犯であったティメルマンが表現するところである。すなわち「ホロコーストは犠牲者の数によって理解されるのでなく、口をつぐんでいた者たちの数の大きさによって理解されるようになる捕ろう。そして今私の心をもっとも重くするものは口をつぐむことが今もくり返されていることだ」。
(pp143-144)
 もっとも重い場合には、被害者は基本的な生命維持の水準にまで引き下げられた捕囚の非人間化されたアイデンティティすなわちロボット、動物あるいは植物という自己規定のままに生きる。精神料医ウィリアム・ニーダーランドはナチ・ホロコーストの生存者調査の際に、「生存者症候群」に必ずある特性の一つは個人のアイデンティティの改変であるという観察を記している。患者の大半は「私は今は別人になってしまった」と訴えたが、もっとも重い傷を負った者はぶっきらぼうに「私は人間でない」といった。
基本的信頼のゆるがない人は稀有である。―神よりの見捨てられ体験―
自己と対人関係とにおけるこのように深刻な改変があれば、それが信頼の基本的条件を疑問視させるようになることは避けられない。拘禁の厳しい試錬に耐えることができる強固な信念体系を持っている人間もいて、解放されてみると信念はいささかも傷つかず、いっそう強固になっているということもありうる。しかしこれは例外的な極少数者である。大半の人間は神に見捨てられたという苦い悲哀を味わう。ホロコーストの生存者ユリ・ヴイーゼルはこの悲表に表現を与えた。すなわち「私は決して忘れないだろう、私の信仰を焼きつくし永遠に還らぬものとしたあれらの憎を。決して忘れないだろう、生きようとする願いを永遠に私から奪った夜の沈黙を。決して忘れないだろう、私の神を殺害し私の魂を殺し、私の夢を塵ほこりとした瞬間瞬間を。決して忘れないだろう、あれらのことを。かりに神がいます限り生きつづけなければならないという呪いを受けたとしても―。決して」。
(pp145-146)
 このようにかつて捕囚となったことのある人は、捕えた側の人への憎しみを解放後も身体につけて持ち歩き、時には迫害者の破壊的な目的を彼らに代わって自分の手で実現してしまう。解放後良い歳月が経っても強制的コントロールの下に置かれた人々には捕囚生活の心理学的癒痕が残っている。そういう人々は典型的なPTSDに悩むだけでなく、神と、他の人々と、自分自身との関係の深刻な変化に悩んでいる。ホロコースト生存者レゲイの言葉を借りれば「われわれが学んだことはわれわれの人格は脆いものであって、生命よりもはるかに危険に脅かされていることである。老賢者たちはわれわれに〃おまえはいつかは死なねばならぬ身であることを忘れるな”と教えてくれてきたが、それよりもわれわれの人格を脅かす、このいっそう大きな危険を指摘してくれたほうがずっとありがたかったであろう。(ソ連の)ラーゲリの中から外へと自由な人々に宛てたメッセージがにじみ出すことができたとすればそれはこうなったであろう―ここでわれわれを苦しめているものにきみの家庭の中で苦しまぬように気をつけよ―である」。
(pp181-182)
 極度の恐怖に長期間暴露された経験がなく、また人間を強制的に屈伏させ操作する各種の方法の恐ろしさがわかっていない第三者は、自分ならば、そういう情況におかれようとも、彼女よりは勇気を示し、彼女よりはしっかりと抵抗できるといわれなく思い込む。被害者のほうにも落ち度があるのであって、彼女の行動は人格あるいは道徳性に欠陥があるせいだとする一般的傾向はここから来る。洗脳を受けた戦時捕虜はしばしば反逆者あつかいされる。誘拐犯に屈した人質はしばしば公衆の手で徹底的にむしられる。人質が生き残った場合、誘拐犯がしたよりもさらに過酷な虐待を社会によって受けることさえなくはない。たとえはパトリシア・ハーストという無残な例がある。彼女は拘禁状態で犯した犯罪に対して法の通用を受け、実に誘拐犯たちよりも長期の刑を受けたのである。被虐待関係からの脱出に失敗した女性、拘禁状態において売春を余儀なくされた女性、同じくその子を売らざるを得なかった女性は限度を越えた厳しい詮索を受け非難を浴びる。
 ホロコーストにおいてさえ「ユダヤ人」側の欠陥があげつらわれた―
 被害者の欠陥探しを行うという自然的傾向は、政治的集団虐殺の場合にさえ現れる。ホロコーストの後にはユダヤ人の「なすがままの受け身性」とか、(ユダヤ人には)その悲運の「共犯者性」があった、いやちがうという果てしない議論が起こった。しかし歴史家リュシー・ダヴィドヴィッチの指摘するとおり、「共犯者性」とか「協力」という言葉は自由選択が可能な状況に限って使う言葉である。自由剥奪状況において同じ意味を持つことはありえない。
 誤ったレッテル貼りとなる診断―これが研究者に被害を受けやすい人格的欠陥を重視させている。しかし加害者の研究のみが一義的結果に達している―
 被害者に非ありとするこの傾向は心理学的問診の向け方に決定的影響を与えている。研究者も臨床家も加害者の犯行を被害者の性格によって説明しようとする。人質ならびに戦時捕虜の場合、もともと洗脳されやすい人格的欠陥を想定して、これをつきとめようとする試みは数々あるが、一義的な明快な結果を得たことはないに等しい。
(p188)
 多くの経験に富んだ臨床家が単純性PTSDよりも広い診断名が必要だと唱えている。ウィリアム・ニーダーランドは「外傷性神経症の概念では」ナチ・ホロコーストの生存者にみられる症候群の「臨床症状の多岐性と重症性とをカヴァーするのに足りない」ことに気づいている。東南アジア難民を治療した精神科医たちも診断概念の拡張が必要だということを認めている。それは重症、長期、広範囲の心理学欄外傷を含むようにせよということである。ある権威筋は「外傷後性格障害」概念を提唱している。
(pp208-209)
 これは治療者の技術的中立性のことで、それは道徳的中立性とは同じでない。犠牲者となった人たち相手に働くということは道徳的には断然一つの立場に立つということである。治療者は犯罪の証人(″目撃者″)となるべき使命を授けられた者である。治療者は患者と連帯する立場であるというはっきりした態度決定をしなければならない。これは「犠牲者は悪をなしえない」などという単純なお人よし的なことを言っているのではない。そうではなくて、それは「外傷的体験の本質的理不冬性・不正性を理解していること」また「ある程度の正義の感覚が向復されるような解決を求めたい欲求を持っていること」という意味合いを含んでいる。この態度決定は、治療者の日々の実践において、その語る言葉の中に、また何よりもまず、逃げ口上やごまかしなしに真実を告げるという倫理的拘束性の中におのずと表れるようにこころがけてほしい。ナチのホロコーストの後に生き残った者相手の仕事をした心理学者ヤエル・ダニエリは、家族歴を取るというルーティンな過程においてもこの道徳的姿勢を取った。生き残った者が「死んだ」親戚のことを話した時には、彼女は「殺されたのですね」と駄目を押した。「生き残った者の家族を調べる治療者と研究者は、ホロコーストによって正常な意味での世代と年齢のサイクルがわからなくなっている人たちを相手にしているのである。ホロコーストは彼らから自然な、一人一人の死というものを奪い、今なお奪っている。(中略)だから、正常な服喪をも奪っているのである。生き残った者の一族や友人や地域社会の運命を ″(自然)死″ という言葉を使って述べるのは、ホロコーストのおそらくもっとも残酷な現実が ″殺害″であるということを認めたくないための防衛であるように思われてならない」。
(pp213-214)
 外傷を受けた患者は治療者の人格の成熟した統一性とさまざまな問題に対処できる有能性とを信頼してこれに頼りたいと思うのだが、実際にそうできないのは、信頼するという能力が外傷体験によって損なわれているからである。これ以外の治療関係においては、ある程度の信頼関係が最初からあって当然とされるが、この前提は外傷を受けた患者の治療の場合には決して保証されない。患者はあらゆる軽惑と不信とにさいなまれつつ治療関係に入る。一般に、治療者とは自分を助ける能力がないか助ける気がないという、いわれのない仮定を置いている。そうでないことが証明でもされるまでは、被害者は、治療者が外傷の真実の話を聴くのに耐えられないと仮定している。戦闘参加帰還兵は、治療者が戦争の細部にわたる真相を聴いて耐えられる人であるということを納得するまでは信頼関係を作ることができない。レイプ後の生存者、人質だったひと、政治犯、被殴打女性、ホロコーストの生存者は皆、治療者の聴く能力に同じような不信感を持っている。ある近耕姦の後を生きる人の言葉を借りれば「治療者たちは何にでも答えを持ち合わせているようなことを言うが、ほんとうのひどい話を聴くと後じさりして逃げてしまう」のである。
(p218)
 外傷性逆転移は生存者および外傷的事件それ自体に対する治療者の情緒反応の全スペクトルを含むものである。ナチのホロコーストの生存者の治療に当たった治療者の情緒反応にはほとんど非個人的な一様性があったとは、ダニユリの観察である。彼女はこの反応の一次的起源は治療者あるいは患者の個々の人格よりもホロコーストそのものであるのではないかと述べている。この解釈は治療者と患者の間の関係には加害者が影の存在として現存していることを認識させてくれ、逆転移も、転移と同じく、単純な二者関係の枠外にまでその起源を跡づけようとするものである。
(p223)
 治療者はまた、深い悲しみの体験を介して患者と同一化する。治療者は自分自身が喪の状態にぁるかと思う。レナード・シェンゴールドは生存者との精神療法が「悲しみの道」(イエスが十字架を背負ってゴルゴタの丘の処刑場まで歩いた道―訳者)であると言っている。ナチ・ホロコーストの生存者の治療を行った治療者たちは「痛みにのみこまれ」あるいは「絶望の淵に沈んだ」。治療者がこの悲しみを担えるだけの適切十分なサポートを得なければ、証人となるという公約を果たすことができなくなり、治療同盟から感情的に撤退してしまうであろう。精神科医リチャード・モリカは彼の主宰する「インドシナ難民クリニック」のスタッフが患者たちの絶望に圧倒され屈伏してしまいそうになったさまをこう述べている。すなわち「最初の一年間の主な仕事は患者の孤立無援感に負けないようにがんばることであった。希望喪失感は極度に伝染性が高いことをわれわれは身を以て知った」。事能宗改善しはじめたのは、スタッフが自分たちが患者の物語る内容によって圧倒されつつあることに気づいた時であった。「われわれが経験を積むにしたがって、愛情とユーモアという自然な感覚がわれわれと患者との間を通い合うようになった。お葬式のような空気はついに打破されたが、それは患者の一部が改善してきたのを認めた後ばかりでなく、スタッフがわれゎれの患者の多くがその希望喪失性をわれわれに伝染させていることを認識した後にも起こった」。
(pp294-295)
 服喪追悼の中に深く降りてゆくことは回復のこの段階においてもっとも必要な作業であるが、同時にもっとも恐ろしい作業である。患者はしばしばこの作業を乗り越えて向う側に出られないのではないか、いったん悲しみを解き放ったら永遠に止まらないのではないかと心配する。ダニユリはナチのホロコーストを生きのびた七十四歳の寡婦のことばを引いている。すなわち「失った人一人一人の喪を悼むのに一年かかるとして、私がかりに百七歳まで生きるとして[それで私の家族全員の悼みはすみますが]あとの六百万人のことはどうしたらいいのでしょう」。喪の作業に対する抵抗とその価値転換による転導生存者はしばしば服喪追悼に対して抵抗する。それはただ恐ろしいからだけではない。自尊心に由来するものもありうる。悲しみを意識的に拒否することは加害者の勝利を否定する一法でありうる。この場合には患者の服喪追悼の位置づけを変えて、みじめな屈従のしるしではなく勇気を証しする行為であるとすることが肝要である。患者が悲しめなければ、自分自身の一部とのつながりが切れ、自分の癒しの重要な部分が脱け落ちてしまう。悲しみも含めて、感情のすべての幅を感じる能力をとりもどすことこそ、加害者の意図に屈することでなくこれに抵抗する行為であると納得してもらわなければならない。ただ失った一つ一つを悼むことを通じてのみ、患者は不壊の内的生命をみつけることができる。


◆Conrad, P. and J. W. Schneider, 1992, Deviance and Medicalization: From badness to sickness, Temple University Press(=2003, 進藤雄三監訳『逸脱と医療化――悪から病いへ』ミネルヴァ書房).
(pp475-477)
 ここでは現代における悪とはどのような形態であるのかを見極めることはできないが,読者にはどのようにして逸脱の医療化がわれわれの視点から悪を締め出してしまうかを知っていただきたい。何を悪と解釈しようと(たとえば,破壊,苦痛,孤立,搾取,抑圧),少なくとも二つの一般的な悪の類型があると言える。その二つとは「悪意」と「悪い結果」である。「悪意」とは法でいう犯意(mens rea)という概念に似ていて,文字通り「邪悪な心」である。悪の中には特定の一連の行動により意図的にもたらされるものがある。一方,「悪い結果」は行動の結果である。悪を行う意図や動機があったかどうかということは「悪い結果」とはまったく関係がない。これは「地獄への道は善意でできている」ということに喩えられる。逸脱の医療化によって,「悪意」と「悪い結果」の両方から目が逸らされることになる。ある行動は病気と表現されると悪意を含まないもののように聞こえる(Mills, 1940)。医療化によって「悪い結果」が自動的に善に変わってしまうことはないとしても,悪い結果が「病んだ」心や体のために起こるとされると,「悪い結果」は「事故」のようなものとみなされるようになる。
 たとえば、ヒトラーは近代において最も酷い大量殺人を行った。しかし、ユダヤ人(及びその他の者)に対する虐殺をヒトラーの意思によるものではなく、個人的な病理学的状況のせいだと考える者もいる。そのように考える人々にとって、ヒトラーは病気だった。しかし、これはホロコーストの恐怖を個人の病理として描写してしまっている。トーマス・サズはこのことについて、医療化は人間に対して行われた非人道的行為を直視することの妨げとなっていると指摘した。サムの息子(Son of Sam)[訳注:米国での連続殺人犯の通称]、チャールズ・マンソン(Charles Manson)[訳注:女優シャロン・テートを殺したことで有名な連続猟奇殺人犯]、キング牧師やケネディ大統領の暗殺者、ウォータゲート事件を起こしたリチャード・ニクソン、リビアのカダフィ大佐、また身近な例では児童虐待者はみな病気なのだろうか。多くの人は困惑するかもしれないが、われわれはこのような医学的な動機の語彙を考えだしたところであまり得るところはないだろうと言いたい。*16それどころかこうした語彙は物事を決断するときや、社会構造をつくるとき行動を起こすことについての人間的な要素を理解することの妨げとなっている。ハンナ・アーレントは、悪の陳腐さについての優秀な研究において、ナチの戦争犯罪人であるアドルフ・アイヒマンは病気というよりも、「恐るべきまでに素晴らしく正常であった」と述べている(Arendt, 1963:邦訳『イェルサレムのアイヒマン』大久保和郎訳,みすず書房,1969)。
 スーザン・ソンタグは、私たちが文化的レベルで悪について述べる時に「病い」という隠喩を用いているということを述べている(Sontag, 1978)。「癌」はこのような時に特によく用いられる隠喩で、スラムやポルノグラフィーの販売店は、「街の癌」と呼ばれることがある。
(略)社会問題の医療化によって、現実世界を覆っている悪をわれわれは直視することができなくなっているのだ。


◆Singer, Peter 1993 Practical Ethics, 2nd Edition, Cambridge Univ. Press(=19991025, 山内友三郎・塚崎智監訳『実践の倫理 新版』昭和堂).
(pp258-259)
 したがって、大量殺人を犯すことのない正常な人々からナチスを区別するのは〈生きるに値しない生命がある〉という立場ではない。それでは正常な人々からナチスを区別するのは何だろうか。ナチスが消極的安楽死の範囲を越えて、積極的安楽死を実行したことだろうか。ロールバーと同様に多くの人々が懸念しているのは、安楽死計画によって非人道的な政府の手に絶大な権力がわたってしまうのではないかということである。この懸念は無視できるものではないが、誇張されるべきものでもない。非人道的な政府は医師によって医学的根拠にもとづいて行われる安楽死よりも、政敵を排除するためのいっそうもっともらしい方法をすでにその権力の内部に持っている。「自殺」に見せかけることもできる。「事故」を起こすこともできる。必要なら、暗殺者を雇うこともできる。このような事態が起こらないようにする最善の方法は、政府を可能な限り民主的で開かれたものにし、政敵を殺してしまいたいと真剣に考えることのない人々の手にゆだねるように我々が全力を尽くすことである。いったん政敵を殺してしまおうという願望が真剣なものになれば、政府は安楽死が合法的であろうとなかろうと、そのために何らかの方法を見つけるだろう。
 それどころか、ナチスには言葉の本来の意味での安楽死計画はなかった。彼らのいわゆる安楽死計画は、殺される人の苦しみに対する関心を動機としたものではなかった。もしそうであったとすれば、どうしてナチスは彼らの計画を秘密にし、殺された人の死因について近親者をあざむぎ、退役軍人や安楽死計画に関与した者たちの近親者など、いくつかの特権的な階層を計画の対象から除外したのだろう。ナチスが行なった「安楽死」は決して自発的安楽死ではなかったのであり、非自発的安楽死というよりはむしろ反自発的安楽死である場合のほうが多かった。「慈悲殺」というよりも「ごくつぶしの抹殺」―「安楽死」計画の担当者が用いた言い回しである―のほうが「安楽死」計画の目的をよく表している。出身民族と労働能力が殺される患者の選択において考慮された要因のなかに含まれていた。いわゆる安楽死計画とその後のホロコーストの両者を可能にしたものは、純潔のアーリア民族―単なる個々人の生命よりも重要だと考えられた、いくぶん神秘的な実体―を維持する重要性に対するナチスの信仰であった。これに対して、安楽死の法制化の提案は自律に対する尊重と無意味な苦しみを避けるという目標にもとづいているのである。


◆Frank, Arthur W., 1995, The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, Chicago: University of Chicago Press(=2002, 鈴木智之訳『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』ゆみる出版).
(pp140-141)
 混沌の物語が聴き取りがたいものであるのは、それがあまりにも脅威的なものだからである。この種の物語が引き起こす不安が、聴くことを禁じてしまうのだ。多くの人々と同様、私も病いの混沌とした一面を見たのであるが、それをそれとして認識するまでに何年もの時を要した。私は、そこで何が語られているのかを聴き取るために、距離をとって、私自身の経験ではない、それも病いという話題から外れた出来事を語る他の物語を聴くことを必要とした。私が最初に始めたのは、ホロコーストの物語とこれに関する評論の中に、混沌の語りを聴き取ることであった(1)。ホロコーストの目撃者によって語られた物語の中に不可避的に存在しているのは、埋めることのできない、あるいはラカンのメタファーを用いるならば縫いあわせることのできない、語りに穿たれた穴である。物語は、傷口の縁をなぞり、ただその周囲を語ってまわることしかできない。言葉は痛みの生々しさをほのめかすものの、傷はまさに身体のものとしてあり、その屈辱と不安と喪失感を言葉は決してとらえることができない。
 混沌の物語の語り手は、まぎれもなく傷ついた物語の語り手である。しかし、本当の混沌を現に生きている人々は言葉によって語ることができない。混沌を言語化された物語へと転換させるということは、それを何らかの形で反省的に把握するということである。物語の中で語ることのできる混沌は、すでに距離を置いて位置づけられており、回顧的に反省されている。自分自身の生に対するそうした反省的把握を行おうとする人にとって、距離を取るということは不可欠の条件である。その人の生きた出来事を語る中では、出来事は語りによって媒介される。しかし、現に生きられている混沌においては、媒介(mediation)は存在せず、ただ直接性(immediacy)だけがある。身体は、その瞬間ごとに満たされない欲求にとらわれている。混沌の語りを生きている人は、自らの生に対して距離を取ることも、それを反省的に把握することもできない。生きられている混沌が、反省を、したがってまた物語の語りを不可能にするのである。
(pp144-145)
 混沌の一部分がどうにかして語られている時でも、人は誰もそれを聴こうとはしない。ローレンス・ランガーは、ホロコーストの口承史の記録を研究する中で、インタヴュアーが、生き残った証人の語ろうとしている物語をどれほど削り落としてしまっているのかに着目する。ごくさりげない形で、インタヴュアーは証人を導き、「人間の精神の強靭さ」を示す別の語りへと導いていく(5)。人間の精神は確かに強靭なものかもしれない。しかし、ランガーがそこで読者に示しているのは、証人が言わんとしているのはそのことではないという点にある(*2)。ナンシーが、母親との間のさまざまなトラブルについて語る時にも、私たちはそこに人間の精神の強靭さを聴き取ることができる。しかし、ナンシー自身が求めているのは、彼女の生のまったくの混乱ぶりに対する認知なのである。
 混沌の語りに相対する上での課題は、ランガーの示したインタヴュアーがホロコーストの証人に対して行っているように、物語の語り手を語り手自身の感覚から引き離す方向へと誘導したりしないという点にある。課題は、ただ聴くことにある。聴くことが困難なのは、聴き手が語られている事柄を、容易には自分自身の生の可能性または現実として受け止めえないということだけによるものではない。同時に、混沌の語りが多くの場合に深く身体化された物語の形式を取るがゆえに、聴くことが困難になるのである。混沌の語りが、傷口の縁の上で語られているのだとすれば、それらはまた発せられた言葉の縁の上で語られているものでもある。つまり、混沌とは、言葉が見通すことも照らしだすこともできない沈黙の中で語られるのである。
(p150)
 度重なる中断によって、目的を追求するプロセスは切り崩されてしまう。もしそこに目的の感覚が残っていたとすれば、物語はやはり混沌へと至らなかったのであろう。ランガーは、インタヴュアーたちがホロコーストの物語をいかに引きだしていくのかを分析する中で、話を自分たちにとって受け入れやすいものに保つための技法のひとつとして、証言を、収容所経験の終了時とインタヴュアーが見なしているもの、すなわち解放の時点へと方向づけるということが行われているのだと論じる。解放は恐怖を贖いうる[物語の]目的に重ねあわされる。しかし証人たちは、インタヴュアーとは違って、解放を自らの経験の領域を分かつ明確な境界線であるとは考えていない。最も印象的なのは、ランガーが引用する一人の証人の事例である。解放の時にはどんな風に感じたのかという問いに答えて、彼は「その時、私にとっての困難がまさに今始まろうとしていることが分かったのです」と言う。ランガーは、この発言が、「伝統的な歴史の語り」の中で確立された期待を裏切るものであることを指摘している(10)。
(pp152-154)
 自分自身の癌の治療の過程でも、私は病院を嫌いながら、何度となくそこが自分の居場所を持てる唯一の空間だと思ったものであった。化学療法は、私に混沌をもたらす源泉そのものと言ってもよいものであったが、それ自体が生みだす問題に対する一種の解決策でもあった。しかしその解決というのは、治療を終了させるという点にあったわけではない。解決は[混沌の経験を]理解しえなかった、理解しようともしなかった世界から隔てられているという点にあった。病院から解放される時というのは、一方でそれを歓迎しながらも、その人にとって本当の困難が始まる時でもある。その困難とは、世界が要求する目的の感覚を作り直すことの困難である。
 パーソンズは、病む人々が必要と判断される以上に「病人役割」にとどまる時には、「二次的利益」を求めているのだと決めつけた。その利益とは、人々の関心を集めたりケアを受けたりすること、その他の責任を逃れるための口実となることなどである。健康な分析者によって病む人に適用されるこの種の説明は、止まってしまった時計がそれでも一日に二度は正しい時間を指し示すのと似ている。何かが説明されてはいる。しかし、「説明する」という考え方そのものが、行動に目的に押しつけている。多くの病者の行動は、解釈者を自称する者が、目的をなくした世界に想像力によって入っていくことができた時にはじめて理解されるものである。ランガーが描きだしたインタヴュアーたちは、[収容所からの]解放を、自分の聴いている物語とその物語の語っている恐怖の、目標とは言えないまでも明確な終結点として、押しつけようとしたのであった。この語りの押しつけに抵抗するホロコーストの証人は、解放に終結を見いだすのは不適切であることをインタヴュアーに教えることで、語りの秩序を覆そうとするのである。
 ホロコーストの証人が混沌を決して過去に置き去りにすることができないのに対して、サックスは、その混沌の瞬間を文章の中にとらえる時、そこから十分に距離を置いて書いている。サックスの物語は混沌の瞬間を呼びおこす。しかしそれはおよそ混沌の語りではない。サックスは、次々と生じる中断―まずはじめに事故、次いで手術後の脚の感覚の欠如、そして屋根の上での冒険のしそこない等―について語る。けれども、これらの中断は、安定した記憶のパターンの中に吸収されていく。サックスの物語においては、ひとつのものごとがまた別のものごとを導いていく。こうした語りの秩序が、明確な起源をもって始まるものとして見いだされ語られうる間は、その物語は身体を混沌から守っているように見える(14)。起源の感覚は、その後に語りの秩序をすえつける。先行する何かが、後にくる別の何かへと帰結するのである。
 ホロコーストの物語もキャンプヘの収容の瞬間という明確な歴史的起源を持っていることだろう。しかし、その後に生じるすべての出来事の深みの中で、この[起源の]瞬間は、説明の起点としての語りの力を喪失してしまう。ナンシーのそれのような混沌の物語においては、そのさまざまな困難の起源が、それらの重層的な規定関係の中で見失われてしまう。病い、経済的問題、家族内の問題―その中で何が最初にくるのかを選り分けることはできないのである。混沌の物語における起源の欠落は、これに対応する形で、未来の感覚の欠如をもたらす。したがって、混沌の語りはカーの考察(第三章を見よ)、すなわち一貫性を持った全体には未来と現在と過去という三つの要素のすべてが互いに依存する形で備わっていなければならないという考察の正しさを示す。ナンシーのそれのような物語においては、欠落するものが、語りえぬもの―過去であれ未来であれ―に先行している。
(pp158-159)
 私は本章においてすでに、比べようのない種々の苦しみの間に、あまりにも多くのアナロジーを導いてしまったかもしれない。燃えかす噛みと違って、ナンシーは自分の慢性的疾患や母親のアルツハイマー病やその他の諸問題に対処していく中で、ひとつの発達段階を経過していくわけではない。しかし、その燃えかす噛みを受け入れる余地のある社会であったならば、ナンシーの状態に対してもっと共感を示し、彼女の欲求にもっと応えることができたであろう。そうした社会の中では、ナンシーは承認された場所を得たことであろうが、私たちの社会では彼女は居場所を持たない。現代の人間は、医療者であれその他の人々であれ、彼女の混沌を想像すること―混沌を自分たちの正常な生活と隣り合わせにあるものとして迎え入れること―を許容できない。したがって、現代人はただ、彼女の上にさらに多くの病人ラベルを重ねていき、彼女をますます混沌の深みへと送りだしていくのである。
 ここでもやはり、臨床的問題は、より大きな社会的論点を反映している。臨床家たちが混沌を迎え入れることができないのは、混沌が臨床の仕事の近代的前提に対する潜在的な批判だからである。いま一度、ホロコーストの証人が解放について語った、挑発的で、禅の公案にも似た一言を考えてみよう。「その時、私にとっての困難がまさに今始まろうとしているのだということが分かったのです」。この言葉によって覆されているのは、歴史的な語りが前提とする期待ばかりでなく、同時に、個人史であれ社会史であれ歴史というものを進歩と見なそうとする近代主義的な理解である。インタヴュアーは証人を解放の時点へと導くことによって、進歩という近代主義的な回復の物語を再構築する。私自身が若かった頃に経験した近代主義[的な語り]のよい例は、日本とドイツの復興という「経済的な奇跡」と、ある意味ではこれと対をなす現象としてのイスラエルの建国であった。アウシュヴィッツとヒロシマの後で、これらの現象は近代主義のプロジェクトに対する信仰を取り戻させたのである。
 多くの知識人―テオドア・アドルノ、モーリス・ブランショ、エトモンド・ジャベス、ジャン=フランソワ・リオタール―が、アウシュヴィッツの後でいかに書くことができるのかを問うてきた。しかしおそらくは、もうひとつの問い、アウシュヴィッツの前にはいかにして書くことが可能であったのかが問われねばならない。そもそも近代とは、いかなるナイーヴさによって形作られてきたのか。この問いが当面の問題とじかにかかわってくるのは、その同じナイーヴさが混沌の物語を抑圧し続けているからである。臨床におけるケアの提供者たちは、患者を医学による解放へと導いていく。治療計画、リハビリテーション、正常機能、ライフスタイルカウンセリング、そして寛解。こうした言葉は、似たようなその他の言葉とともに、回復の語りを再構築する。私が意図しているのは、混沌をロマンティックに見ることではない。混沌は恐ろしいものである。しかし近代は、生というものが時にはまさに恐ろしいものとなるということを、たとえ一時的にせよ受け入れようとしない時代である。ここから生まれる混沌の否認は、その恐怖を一層深めていくだけのことである。
 その恐怖とは、ただ向き合うことができるだけであって、決して解決することのできない謎である。治療計画を実施し、寛解状態への到達を追求することは、それ自体の視角においてはよき英雄的な行為である。しかし、重要な問題は、ザスマンが例示した集中治療室の医師たちに代表されるこの近代的な英雄行為が、「燃えかす噛み」に当然の場所を与えうるような悲劇的な意識と、調和をもって実現されうるかどうかにある。この悲劇的な意識とは、それらの人々に対して、治療を必要とする者としてではなく、今あるがままの姿において敬意を払おうとするものである。
 脱近代性―アウシュヴィッツの後でいかに書くことができるのかという問いにとりつかれた―とは、多くの場合、近代主義のテロスを破棄しながらも、近代性の中でさらに維持し続けることのできる部分を実現しようとする闘いである。この[近代主義の]テロスにおいて、回復の語りがヘゲモニーを要求する。それは、混沌が否認され、混沌の身体が「抑え込まれる」こと、またそれによって修復可能なものとされることを要求する。近代の臨床医学には、「圧倒的な混乱と苦しみの生を生きる」者というカテゴリーは存在しない。しかし、そうしたラベルを用いてはじめて、もがきながら台所を歩き回っているナンシーや、ホロコーストの証人や、癌の再発につぐ再発を経験していくジルダ・ラドナーや、自分の脚を見てもそれを自分の身体の一部と見なすことのできないオリヴァー・サックスのような人間たちを描きだすことができる。
(pp189-190)
 探求の物語に伴う危険性は、不死鳥のメタファーに伴う危険性に通じるところがある。それらはいずれも、燃焼のプロセスがあまりにもきれいにすべてを焼きつくし、そこから完全な変貌が可能となるかのごとくに語ってしまうし、自らの灰の中から立ち上がることのできなかった者を暗黙の内に蔑視してしまう。病む人々の多くが、自らの経験を描きだすために不死鳥のイメージに訴える。しかしメイは、このメタファーに対して、重要な留保を示している。不死鳥は、その前世について何ひとつ記憶していないのに対し、身体的外傷の犠牲者―メイは、ここでは特に火事でやけどを負った人々について書いているのだが―はそれを覚えているのである(37)。メイの示したこの留保は、ホロコーストの証人に関するローレンス・ランガーの記述によって補われる。
 ランガーは、シャルロッテ・デルボのアウシュヴィッツの回想を引用する。彼女は、自らの殻を脱ぎ捨てて「真新しいぴかぴかの」姿を現わす蛇のイメージを用いている(38)。問題は、そこでの再生が決して完全なものではないということである。「脱皮をすることで蛇は元どおりの姿をとどめるかもしれない。しかし、彼女の身に同じようなことが起こるとしても、それは外見上のことにすぎないのだと彼女は知っているのである」。
 結局のところ、彼女の経験は、蛇のメタファーで語るには、そしておそらくどのようなメタファーを使うにしても、あまりにも複雑なものである。「アウシュヴィッツの記憶を覆っている殻はとても固い」とデルボは書いている。「けれども時としてそれは破れ、中身を露出させてしまう」。彼女は、身体化されたアウシュヴィッツの記憶が、どのようによみがえり、夢の中で彼女にとりつくのかを語っている。彼女は自分自身が「冷たいものに刺し貫かれ、けがされ、すさんでいる」と感じる。「その痛みは、あまりにも耐えがたく、私があそこで経験した痛みそのままである。私は再びそれを体で感じる。私は体中で再びそれを感じとる」。
(pp192-193)
 ショシャナ・フェルマンの描くところによれば、証言とは、「理解の中にもまた想起の中にも定着することのないところの出来事によって圧倒されてしまった記憶の破片と断片によって構成されるものである。それは、知識として構築することも、十全な認識へと吸収することもできないところの行為。私たちの準拠枠を超えたところに生じる出来事である(2)(*1)」。「…ところの(that …)」という言葉を反復するこの文そのものが、決して完全には語ることのできないものを後追いしているかのようである。フェルマンの言葉は、とりわけそれを声に出してみると、それ自体が圧倒されているかのように思える。証言は、それ自らが圧倒されている時においてさえ、他を圧倒することができる。
 フェルマンの記述は、現代の証言が持つ脱近代的性格に目を向けさせる。私たちは今や「真実」が語られている時でさえ不確実性を見いだす。証言の中にあってさえ、意識はそれ自らの経験を統治する力を得るために苦闘する。フェルマンの著作は、証言に対する現代のアカデミックな関心の一例をなしている。これに対して、アート・シュピーゲルマンの『マウスT・U(3)』のような本や、『シンドラーのリスト』のような映画は、ポピュラーカルチャーにおける証言を例示している。しかし、証言の一形式としてとらえる限り、ホロコーストを題材とする語りの増殖も、さまざまな形での「回復(リカヴァリー)」をめざすセルフヘルプの運動に比べれば、まだ小さなものに見えてしまう。
(pp197-199)
 ゲイルは健常者たちや白衣の人たちが彼女を見ることを望んでいる。この[見るという]言葉を選ばざるをえないところに、彼女のいきあたる限界が存在する。しかし、その選択は重要である。交通裁判所での証言においては、証言書があれば十分であろう。しかし[病いの]苦しみを証言するためには、その身体がそのまま見られることが必要になる。なぜなら、身体に具現化されていることが証言の本質をなしているからである。ゲイルの知識と、それによってもたらされる意味は、彼女が痛みを覚える場所から発している。それが彼女の知識の源なのである。彼女の証言は彼女の身体であり、結局のところ身体は、他の身体の諸感覚を通してしかとらえることのできないものである。
 ゲイルのような証人に対して、あなたは何を証言しているのか、と問いただすことはできない。問いただすということは、目撃されたいという証人の欲求の中では、ほんのわずかな重要性しか持たない。ゲイルの証言を受け取ろうとする者は、彼女をそのまま受け取らねばならない。彼女がその証言として存在しているからである。かくして、証人は他の証人を生みだす。この証人という言葉の持つ特別な性格は、それが外に向かって同心円状の運動を引き起こすという点にある。誰かが他の誰かの証言を受け取った時には、その人が次の新たな証人となっていく。
 アート・スピーゲルマンの『マウスT・U』は、この同心円的な性格をよく示している。この本のサブタイトル「ある生存者の物語」は、両義的な形で、アートの父親でありアウシュヴィッツの生存者でもあるヴラデック・スピーゲルマンと、母親の自殺後を生き延び、ホロコーストで死んだ兄との比較にとりつかれて少年時代を生き抜いてきたアート本人とを同時に指し示している。この本は、父親の記憶を超えて生き延びようとするアートの闘いを語っている。『マウスT・U』は、ホロコーストの生存者たち自身の物語であると同時にその生存者の子どもたちにホロコーストがもたらした影響についての物語でもある。そして、その次に生まれる証人たちの輪、すなわち読者たちの輪に対してこの本がもたらす影響は、まだ未知数のままにとどまっている。
 アートの生存の物語が与えるひとつのメッセージは、私たちは誰しも、他の証人に対する冷ややかな観察者ではありえないという点にある。アートは、父の証言を引きだし、記録し、解釈し、最後にはそれを読むさらに多くの証人たちに向けてさしだすことによって、父親との間に折り合いをつけていく。証言を受け取ることへの要請は脱近代的なものであるが、それは脱近代に固有のものではない。脱近代の時代に特徴的なことは、証人が何を受け取っているのかが不確実だという点にある。アートは、その父親に対して終始強く両義的であり続ける。その証言を尊重しながらも、彼は父親の行動を魅力的ではないものと見なし、それを戦時中のトラウマによるものとして正当化しうるかどうかを問うている。彼がどれだけ証言の責任をさまざまなレヴェルに選り分けようとしても、意識は決して経験を統制しきることができない。確かなことは、彼自身が証言の円環の中に逃れがたく位置を占めていることである。証言は、単にそれを受け取る人に影響を与えるだけでは終わらないという点で、その他の報告から区別される。証言は、それが証言するものの中に他者を巻き込むのである。
 このような証言行為の相互性は、単独の伝達する身体だけでなく、複数の伝達する身体間の関係を必要とする。法廷をモデルとして考える通常の語りは、証言するということがあたかも孤立した行為であるかのごとくに、「証人の姿」を描きだす。しかし、証言行為は常に関係をうちに含んでいる。私は常に私自身に向けて物語を語っているのであるが、私一人に向けて証言することなどできない。物語を証言に変えるひとつの要素は、その証言を受け取るようにと他者に向けてなされる呼びかけである。証言は、その証言の証人となる者に、いまだ私たちがそうなりえていないもの、すなわち伝達する身体となるように呼びかける。ヴラデックとアートが、それぞれに生存者と芸術家として、ホロコーストの証言を分有した時、彼らは互いに伝え合い、そして彼らだけの分かち合い(コミュニオン)の機会を持ったことだろう。
 その証言において、伝達する身体は他者に対して、互いに開かれた関係に入るよう呼びかける。同語反復的あるいは循環的な言い方をすれば、証言という行為の形(アクティヴィティ)が伝達する身体を定義づけるのである。ゲイルは、伝達する身体であるがゆえに、自らの病いの証人となる。しかし同時に、彼女はその証言を通じて伝達する身体となるのでもある。伝達する身体は、私が第二章で描いたあまりにも整然とした図表の中の、独立した一区画を飛びだして、他の身体を要求する。支配する身体もまたその枠を飛びだすが、それは支配する身体となるために従属する他者を必要とするからである。これに対して、伝達する身体は、互いに分かち合う(コミューン)ために他者を必要とする。
(pp241-245)
 苦しみが他者に対して開かれたものとなる時、[身体―自己の]再生(remaking)が始まる。エマニュエル・レヴィナスは、私が個々に閉ざされた自己の囲い込みと呼んだ苦しみについて、きわめて沈鬱な見方を示している。痛みは、「それ自体を意識のうちに孤立させ、あるいは意識の他の部分を吸い取ってしまう」ので、苦しみは文字通り行き止まり(デッドエンド)となる。「無用で、『何のためにもならない』……こうした根本的な無意味さの感覚」にとらわれることになるのである(13)。しかし、まさにこの深みにこそ、新たな鼓動の前提条件がある。レヴィナスは、その再生を次のように描く。
 「苦しみのもたらす悪―一方的に受身の状態、無力、自己放棄、孤立―とは、同時にまた一人では担いきれぬものであり、半ば開かれたものとなる可能性を生むものではないだろうか。より正確に言えば、嘆き声や叫び声、うめき声やため息が発せられるところではどこでも、手助けと治療者の援助と、その他者性と外在性が救済を約束するような他の自我からの支援を求める、原初的な呼びかけが存在することが可能となるのではないだろうか。人と人との間で、本質的には無意味で出口なしを宿命づけられている純粋な苦しみの超越が生まれるのである。」
 レヴィナスが人と人との間と呼ぶ方向性は、まさに、名前のない苦しみの世紀の終わり」という歴史的契機において可能となる―あるいは、私が第一章において示したように、再びそれが新しいものとなるのである。レヴィナスは数え上げる。「二つの世界大戦、両翼の全体主義的体制、ヒットラーイズムとスターリニズム、ヒロシマ、グラーグ(*1)、アウシュヴィッツとカンボジアにおける大量虐殺」。そして彼がそれを書いた後にも、リストは増え続けている。意識が、「正当化しがたい」苦しみによって圧倒されてしまうような歴史的契機において、苦しみの感覚は分裂するのである。
 そのひとつの側面は、上述の引用においてレヴィナスが呼んだ「担いきれぬもの」としての苦しみである。私はこれを、個人が自分自身のものとして引き受けることのできない苦しみを指すものと取る。個人は、自分自身の苦しみに何ひとつ意味を与えることができず、他のいかなる人物もその個人にかわってこの苦しみを引き受けることができない。この「他者のうちなる苦しみ(suffering in the Other)」は、ただ「見過ごしがたいもの」として目撃されるだけなのである。この苦しみは「私を請い求め、私に呼びかけ」、私のうちに「苦しみのための苦しみ」を呼び起こそうとする。ここに、苦しみの第二の領域が始まる。それは、「他者の正当化されえぬ苦しみのための、私の中の正当な苦しみ」である。この正当な苦しみは意味を担うことができる。その意味は、「他者に対する注意(attention to the Other)」、レヴィナスが言うところの、「至高の倫理的原理にまで高められた人間的主観の紐帯そのもの」である。
 こうして、道徳的な闇の奥底から、新たな光―仮に古い倫理が放つ新たな光であるとしても―が発せられ始める。苦しみは、他者に対して「半ば開かれたもの(half opening)となる可能性」である。私がレヴィナスを読む限りにおいて、この開かれていくということは、名前のない苦しみに意味を与えるものではない。しかしながら、苦しみもまた無用のものにとどまるわけではない。意味と正当な苦しみは、証人によって経験される。もともとの「担いきれぬ」苦しみは、証人たちをこうした倫理的感覚へと呼び寄せる上で有用なものとなる。ただしレヴィナスは、それによって苦しみが軽減されると信じるには、あまりにも冷徹な認識の持ち主なのである。
 レヴィナスの議論は、混沌の語りと探求の語りの間の強い結びつきを示唆する。混沌の語りは、担いきれぬもの、名前のない苦しみである。混沌の苦しみは、混沌の物語が語りえぬもの、反―語り、非―自己―物語であるがゆえに「無用のもの」である。探求の語りは、正当な苦しみである。レヴィナスはそれを、「私自身の苦しみの冒険」と呼んでいる。しかし、冒険あるいは旅は、当然のことながら私一人のものではない。旅は英雄自身のものとして始まる。しかし、英雄が旅を通して学ぶのは、自分が他者のために苦しむということである。その恩恵として与えられるのは、人と人との間に立つ視点(vision of the inter-human)である。帰還した英雄は、この「至高の倫理的原理」を体現する。仏陀とキリストはともに帰還する。そして、それぞれの帰還は、世界に対するその愛の尺度となるのである。
 多くの英雄たちは、レヴィナスに対して呼びかけたと思われるような他者の苦しみの認知によってではなく、自分自身の苦しみによって探求へと駆り立てられていく。旅は、自分自身の苦しみが他者の苦しみに触れ、かつ他者の苦しみによって触れられていることを学ぶ過程である。「人と人との間」は、苦しみが自己と他者とにかかわる呼びかけと応答になる時、開かれたものとなる。
 私がこの本を書いていく中で思い悩んだことのひとつは、病いとは別種の苦しみ、とりわけホロコーストの苦しみをここに含めて論じてよいものかどうかにあった。そうした病いとは別の苦しみを論じるためには、共通性あるいは比較可能性がなければならない。痛みの水準、無力さや自己放棄の水準、あるいはレヴィナスのふれている叫び声やうめき声やため息の水準では、比べものになりようがない。病いとレヴィナスのあげている名前のない苦しみの間で、さらにはさまざまな病い相互の間で、比較を行うのは無理である。
 苦しみは、どんな人の苦しみも他の人の苦しみに比較しがたいがゆえに無用のものとなる。それが、今ある以上の何ものでもないがために、苦しみは意味を持たないのである。他のものと同列に置くことのできない苦しみを比較することは決してできない。しかしここで、議論は自ずから反転を起こす。ひとたび苦しみとは比較しえないものであることが理解されたならば、その時こそ、さまざまな苦しみを同一の物語の中で語ることができるようになる。なぜなら、そこには比較が成立しないからである。比較可能性を超えて、苦しみの「実存的普遍性」が、さまざまな形の語りがなされることを要求する。比較が成立しないところには、換喩的な負荷が生じる。それぞれの苦しみは、より大きな全体の一部分である。それぞれの苦しんでいる個人は、他者の苦しみに対する証人として、その全体に向けて呼び寄せられるのである。
 同時に私が認識しているのは、病いと名前のない苦しみとを同一の著作の中で論じることへのためらいの幾分かは、私自身の身体化されたパラノイアの一側面なのだという点にある。私は、病いとは常にケアされるもの、少なくともケアされるべきものであり、したがって苦痛を与えるために人が意図的にもたらした苦しみとは比較することができないと考えている。しかし、すべての苦しみにおいて、身体―自己は解体させられる。苦しみが、それ自らを意識のうちに孤立させ、意識の他の部分を吸い取ってしまう痛みであるとすれば、病院の中で生じる苦しみと収容所の中で生じる苦しみとの間に本質的な違いがあるわけではない。違いは、その叫びに耳を傾ける者がある苦しみと、それ自体の無用の状態に放置される苦しみとの間にある。ここでも議論は、もともとの論点へと立ち返ることになる。確かに、さまざまな苦しみの中で見れば、病いにはしばしばそれに応えてくれる者があり、収容所からあがる叫びは封じ込められてしまうことだろう。
 レヴィナスの最も重要な教えは、苦しみが語り、その苦しみによって「他者」とされてしまったすべての者に対して、おそらくは証人になるという行為によって、名前のない苦しみを開かれたものとすることができるという点にある。苦しむ者は常に他者であり、衰弱し、孤立している。何であれ苦しみの物語を語るということは、人と人との間に対して、何らかの関係を持つことを要求する。すべての証言は、名前のない苦しみの半ば開かれた状態への応答である。


◆Hacking, Ian.1999.The Social Construction of WHAT ?.Harvard University Press(=2006, 出口康夫・久米暁訳《何が社会的に構成されるのか》岩波書店).
(pp9-10)
 相対主義の持つさらなる危険性としては、歴史修正主義がある。ホロコースト、すなわちナチスによるユダヤ人大量虐殺を否定しようとする、かの悪名高い一連の宣伝工作の次なる一手として、さしずめ『ホロコーストの社会的構成』というタイトルの本が出版され、その中で、ナチスの死の収容所などというものは誇張に過ぎず、ガス室なんてのは作り事だという主張が展開されるというのは、案外、笑えない冗談である。そして、「そのような書物も、少なくとも書かれている事柄の真実さという観点から言って、他のどんな書物とも肩を並べる」などと得々と語る相対主義など、誰もが願い下げであろう。ただ私には、このような事柄を相対主義とからめて論ずる必要はないように思われる。歴史修正主義が提起している問題は、いかに歴史を叙述すべきかという問題である(5)。一方、バーンズとブルアが明らかにしているのは、彼らのような相対主義的な社会学者は、自分たちの信念や行為を分類し整理することが仕事なのだが、その際、批判的に見直されたものであっても、他ならぬ自分たちの文化に備わった基準を用いるしかないということにすぎないのである(Barnes and Bloor 1982, 27)。またファイヤアーベントが彼の最後の著作で力説したことは、すべての文化は数多くの文化のうちの一つの文化にすぎず、われわれは、それがどの文化であっても、特定の文化による抑圧に反対しなければならないということであった(Feyerabend 1994)。さらに、かつて私は、合理性と相対主義についての論文集に寄稿した際に、最晩年のサルトルが「なぜユダヤやイスラムの伝統が彼の思想に影響を与えていないのか」を説明した言葉で論文を締めくくったことがあった。サルトル曰く、「なぜ、それらの伝統が私の思想に影響を与えていないかという理由は単純です、つまりそれらが私の生活の一部ではないからです」(Hacking 1983)。これらには、思想や社会科学の営みは文化に相対的であるとか、文化の相対性という主張はあっても、歴史記述の問題は直接には含まれていないのである。


◆Young, Jock 1999 The Exclusive Society : Social Exclusion, Crime and Difference in Late Modernity,SAGE Publications, London(=20070310, 青木秀男・伊藤泰郎・岸政彦・村澤真保呂訳, 『排除型社会――後期近代における犯罪・雇用・差異』洛北出版).
(pp299-300)
8 最後に、マスメディアや大衆が個人を美化する場合、その過程は細かいところまで怪物化のそれとほとんど同じなのだが、取りあげられる内容がまったく逆になる。したがって、同じ過程から怪物と聖人、魔女と聖女の両方が生みだされる。たとえば、ダイアナ妃の死亡事故への反応がそのいい例であろう。彼女の欠点はすべて忘れられ、完全無垢の女性というイメージだけが彼女に投影されている。
 このようなプロセスをつうじて、「われわれ」は邪悪な性質から無縁であるとされる。そして邪悪さは、怪物とみなされた他者の特徴とされる。他者に責任を負わせようとするこうした態度はそのまま、普通の人々が悪魔の所業を企てたホロコーストの時期にもみられたし、「英雄」たちが罪のない人々に爆弾を落とし、無差別に焼き尽くした総力戦の時代にもみられた。そのような時期には、人間の欲望やセクシュアリティがしばしば残忍で奇怪な形態をとる。ルワンダやボスニアで民族浄化の名のもとにレイプや大量虐殺がおこなわれたのもその一例である。正常人/怪物という二分法を受け入れてしまえば、「われわれ」に残忍な性質が潜んでいることを否定することができる。つまり、攻撃性や性欲の暗い側面は私たちと無縁なものになるわけである。
 しかし、これらの怪物を人々の内面の投影として説明するだけでは、つまりマイケル・クライトンのSF小説『スフィア―球体』のように、かれらを私たちの暗黒面が抽出された存在として描くだけでは、まったく不十分である。問われなければならないのは、次の点である。「私たちがそのような投影を、しかも特定の時期に必要とするのはなぜなのか?」「その投影は、どのようにして起こるのか?」「他者を本質化し、非人間化する心理的機制はどのようなものか?」もちろん、次の問いも見逃したり忘れたりしてはならない。「怪物とされた人々は、どのような理由から残虐な行為をするようになったのか?」しかし、私はこれらの問いはそれぞれ独立したものではないと考えている。つまり「社会はどのように怪物たちをつくりだすのか」という問いは、これは「私たちは怪物たちの表象をどのようにつくりだすのか」という問いと併せて考察されなければならない。さらに、これを「どうしてかれらはそのような残虐な行為ができたのか」という道徳的な問いにしてしまうと、かれらを「正常」な世界の外側に置き、私たちとはまったく無縁な存在にしてしまうことになり、ますます本当の理解から遠ざかることになるだろう。


◆菅原和孝, 20000730, 「語ることによる経験の組織化――ブッシュマンの男たちの生活史から」やまだようこ編《人生を物語る》ミネルヴァ書房:147-183.
(pp176-178)
 出来事とは、けっして一枚の画像のようなものではありません。それはつねにある時空的な広がりをもちます。いくつもの小さな場が重なりつらなりあい、組み変わって、大きな「出来事の場」をつくります(図1)。このような場の折れ重なりあいを、語り手=目撃者が、おのが目に見えたかぎりにおいて、叙述しなおすとき、私たちが漠然と「リアリティ」とよぶものが生まれます。もちろん語り手=目撃者は、当事者=犠牲者が閉じこもっていた小屋の内部で起きた現実を直接知覚することはありませんでした。けれど、災厄のあとに当事者が反復する語りに耳を傾け、そこでの「身体のかかわり」をみずから再演することを通じて、目撃者もまたこの出来事を内的に経験しなおし続けるのです。直接知覚されることのなかった身体のかかわりは、知覚されたかかわりと連結されることによって〈具体的に〉理解され、さらにそのような理解が語りという新たな身体のかかわりの場を経由して受け渡されていくのです。
 本章の探究は、グイと同じように「語る身体」として生き続ける私たち自身に対してなにをもたらすのでしょう。Qが調査助手タウーカをまきこんで行なった実演は、私に大きな衝撃を与えました。その衝撃についてくりかえし考えているうちに、「身体のかかわり」に基づいて現実を具体的に理解する能力はひょっとしたら「私たち」において衰弱しているのではないか、という疑いがわきおこりました。私たちがこの能力を真剣に活用するのは、せいぜいセクシュアリティの経験と向きあうときぐらいではないか。けれど、本来、この能力は、私たちが経験するあらゆる出来事(その極限値としての戦争、革命、強制収容所さえ)をも理解する可能性にむかって開かれているのではなかろうか・・・ そう考えたとき、私は、ナチのユダヤ人絶滅計画をインタビューのみから描きだした映画『ショア』に登場した「床屋」のことを思い出しました。インタビュアーでもあるクロード・ランズマン監督は、ガス室送りになる女たちの髪を切る役目をさせられた床屋に実際に散髪をやらせながら、「女たちはすでに部屋にいたのか、それともあなたのいる所へ彼女たちが入ってきたのか」といったことを執拗に問いただしていたのです。
 ちょうどそのころ『ショア』に関する高木光太郎の卓抜な論考に出会い、驚愕しました。高木は、ランズマン監督が企てたのは「身構えをとおして、ホロコーストを直接知覚可能なものとして示すこと」であると言いきっていたのです。私は、高木とはまったくべつの経路をたどって、きわめて類似した結論に達していたのです(高木、1996)。


◆岡真理, 20000918, 『彼女の「正しい」名前とは何か――第三世界フェミニズムの思想』青土社.
(pp19-22)
 私たちパレスチナ人は、と彼女が言ったときも、パレスチナ人が自らをパレスチナ人と呼ぶことに当時は何の不思議も覚えなかった。そして、これがエルサレムだと言って、私に指し示したことも、外国人旅行客にたいする観光案内という、それもまた一種のホスピタリティの発現であると同時に、自分が生まれ育った街に対する愛着の表現として私は受け取っていた。それは、初対面のエジプト人が二言目には必ず、エジプトは気に入ったか、と訪ねるその臆面のない故郷への愛情表現と同種のものであるのだろうと。要するに、私にとって彼女は、アラブ的歓待の精神に富み、自分が生まれ育った街を愛し、歴史的な街を故郷とする自分を誇りに思っている一主婦だった。エジプトで私は、そのようなエジプト人に数多く出会ってきた。彼女はたまたまパレスチナ人であったにすぎない。だが、パレスチナとパレスチナ人がおかれた歴史的、今日的状況のなかに、彼女の語りを位置づけてみるならば、彼女のまったく別の姿が浮かび上がってくることになる。
 かつてゴルダ・メイア・イスラエル首相は「パレスチナ人などという民族は存在しない」と語った。そのことばから半世紀後、たとえば数年前、世界的に大ヒットし、アカデミー賞を多部門にわたり受賞したスピルバーグの映画『シンドラーのリスト』において、パレスチナ人はどのように描かれているだろうか。あるいは、1988年のアカデミー・ドキュメンタリー賞を受賞したアメリカ映画『祖国へ・ホロコースト後のユダヤ人』では、どうだろう。ナチの強制収容所から解放されたヨーロッパのユダヤ人が、イスラエル建国までの3年間に歩まざるをえなかった苦難の道のりを描いたこの『祖国へ』という作品において、パレスチナ人はいかなるものとして表象されているだろうか。いずれの作品においても、まさに「パレスチナ人などという民族は存在しない」のである(後者には、1回だけ、パレスチナ人について言及したくだりがある。それは、ホロコーストの犠牲者であるヨーロッパのユダヤ人に対する贖いとして、パレスチナにユダヤ人国家を建設するため、1947年、国連がパレスチナの分割決議を採択するや、パレスチナ人がテロを仕掛けてきた、というナレーションである)。
これは、もう一つの「ホロコースト」、言説的な民族抹消政策ではないのだろうか。「私たちパレスチナ人は」と彼女が敢えて語ることの意味、彼女の発話の遂行的な性格は、パレスチナ人という民族的存在を抹消するような言説が世界的に流通しているコンテクストのなかにおいたとき、何よりも鮮明になる。そう、それは、証言なのだ。イスラエルの建国以来、パレスチナ人の身にふるわれてきた暴力、パレスチナの土地と記憶に根ざして、生を営んできたパレスチナ人を透明化し、不可視の存在としてしまう圧倒的な暴力に抗して発せられた、「私たちは存在する」という証言なのだ。だが、「パレスチナ人」とは誰のことか。それは、世界的規模で流通する民族抹消の言説が、この世に存在しない者たちとしてこの半世紀、一貫して名指し続け、その存在の痕跡を拭い去ろうとしてきた者たちのことにほかならない。
(pp119-122)
 私は、女性に対するほかのあらゆる暴力同様、性器手術を許しがたい暴力であると考える。そう考えるがゆえに、性器手術について「女性の性器切除を文化と呼ぶなんて、言語道断です。強姦、子供の虐待、奴隷制度を文化と呼ぶ?性器切除もそれと同じこと。文化などであろうはずがない。女性に対する暴力、まさに拷問よ」(Walker 1995b)と語るウォーカーの、「すじだてもおもしろく読めるように、ミステリー仕立てにしたのよ」というようなことばにはこだわらざるをえない。そこには、他者の表象、「真実」の表象という問題に対する度しがたい鈍感さ、安易さがあるように思われてならない。それは、ホロコーストを「感動的」に描いてみせたスピルバーグの鈍感さ、安易さに通じるものである。『喜びの秘密』とスピルバーグの『シンドラーのリスト』に共通するのは、他者の表象、真実の表象の(不)可能性という問題に対する、致命的なまでの問題意識の欠如である。
 ショアー(ホロコースト)すなわちナチス・ドイツによるユダヤ人殲滅とは、それを記憶し、証言する者さえも存在しないという体験、体験者を自己表象不能な他者とせしめる体験である。したがって、ショアーの記憶として語られることばはすべて、実はショアーを体験「しなかった」ということの証言である。そして、ショアーもまた、当事者こそがことばを奪われているという点において、フライデイの口と言えるのではないか。ショアーの真実とは、表象不可能であるがゆえに、同時に、いかなる表象も可能にしてしまう表象の絶対零度のトポスである―事実、ショアーなど存在しなかったという言説さえ、そこでは可能なのだ。
 こうして、ショアーの「真実」をシンドラーの物語として語ることも可能になる。しかし、ショアーとは死者の真実であり、『シンドラーのリスト』が描いているのは、生き残った者たちの物語であるという点において、それはショアーの真実とは決定的に隔たった世界に属している(シンドラーの救出リストに載りながら、誤ってアウシュビッツに送られた女性が口走る「何かの間違いよ、私たちはここに来るはずじゃなかったのよ」ということばは、間違いなくそこに来るはずであった者=死者となるべき者、すなわちショアーの体験者と、「私たち」が決定的に異なる者であることを自ら明らかにしている)。にもかかわらず、それをショアーとして表象するという行為は、実は、ショアーの真実とショアーの犠牲者の尊厳に対する鈍感さ以外のなにものでもない。
 映画のクライマックスのひとつは、誤ってアウシュビッツに送られた女性たちが、髪を切られ、衣服をはぎ取られて、ガス室と思われる大きな部屋に送られる場面である。
 閉じこめられ、明りが消える。天井から突き出た注ぎ口を凝視する目。一瞬なにかが放出され、悲鳴があがると、そこからはただ冷水が吹き出している。本当はシャワーだったという転倒である。このどんでん返しは、実のところ『インディージョーンズ』のそれとどこが違っているのだろうか。(岩崎 1994:180)
 同時に、ショアーをこのようなものとして語ることは、ショアーなど存在しなかったと語るのと、どこが違っているのだろうか。
 ショアーの真実とは、それを「真実」として語った瞬間に消失してしまうものである。したがって、私たちにできることは、その暗い深淵のまわりを永久にまわり続けることで、そこに表象不能の真実があることを示唆することだけだ。クロード・ランズマンのドキュメンタリー映画『ショアー』において、延々と走り続ける列車は、そのような運動性を表わしていよう。殲滅されるべきユダヤ人を載せてアウシュビッツヘと向かう列車。しかし、彼らは本当にアウシュビッツヘ到着したのか。もし、到着したのなら、それを証言する「当事者」は存在しない。だから、列車は走り続けねばならない、永遠に辿り着かない真実に向かって。列車のこの運動性だけが、その先に真実があることを保障するのである。
 スピルバーグの『シンドラーのリスト』は、ショアーの表象不能であるはずの真実を、表象可能なドラマとして描くことで、ショアーの真実に関して決定的に誤解させるものである。にもかかわらず、まさにその安易な表象のゆえに、大量の観客動員を果たし、風化しつつあったホロコーストの記憶を世界的に呼び覚ましたという点で、高く評価されている。それと同じように、ウォーカーの『喜びの秘密』も、アフリカ女性の表象をめぐる、その根源的な間題にもかかわらず、性器手術の問題に対して世論を喚起したことで評価されるのだろうか。しかし、『喜びの秘密』をそのようなものとしてしか見ないならば、それは、結局のところ、性器手術の「野蛮さ」を訴える、単なるプロパガンダ的テクストにすぎないということになる。
(p153)
 被害者であることが自己の加害性を相殺するなら、パレスチナ人から祖国を奪ったイスラエルの加害性は、600万とも言われるユダヤ人のホロコーストによって相殺されるのだろうか。事実、イスラエルは、自国の占領政策に対する批判を、その内実を問わずに、「反ユダヤ主義」(その言葉は、ホロコーストの記憶と否応なく結びついている)として、逆に批判してきた。ドイツはユダヤ人に対するナチズムの犯罪ゆえに、イスラエルを一貫して支援し、歴史的にユダヤ人を差別し、迫害してきた過去をもつ他の西欧諸国も、イスラエルに対する批判には積極的ではない。だが、そうした態度は、結果的に、イスラエルによるパレスチナ人の迫害を容認することで、これに加担することになる。自らの歴史的加害性を十全に認識しながら、しかし、私たちはなお、他者を批判しなければならない。そのとき私たちは、どのように言葉を紡げばよいのか。私には分からない。だが、少なくともそれは、黒か白かの二者択一を暴力的に迫るものではないだろう。そして、おそらくその言葉とは、被害性と加害性が分かちがたく輻輳する人間という存在の深奥に触れるものであるだろう。
 「文化」についての語りをめぐる、発話者の位置という問題は、日本社会のマジョリティにおける思考(あるいはその欠如)のありかたの一端を垣間みせてくれる。それが、この国の「文化」の今日的状況の否定しがたい一部であることは間違いない。
(pp250-251)
 ハイファに戻って」―カナファーニーが暗殺される三年前に書いた、彼の最後の中編作品。イスラエル建国によって、故郷ハイファの自宅に生後まもない赤ん坊を置き去りにしたまま難民となってしまった一組の夫婦―サイード・Sとその妻―がいる。20年後、再び戦争が勃発し、電撃的勝利をおさめたイスラエルは、夫婦が難民として暮らしていたヨルダン川西岸地区を占領する。昨日まで分断されていた、帰るにも帰れなかった故郷が、イスラエルによる新たなる占領という事態によって、今や地続きになってしまう―人間が国境を越えるのではなく、国境の方が勝手に人間の頭上を通り過ぎていってしまったのだ。故郷ハイファに戻って息子と再会するという夫婦の20年来の悲願は、夫婦が思ってもみなかった形で、ある日突然、実現されることになる。20年前、国境を越えたのが夫婦の意志ではなかったように、今日、ハイファに戻るということも、ある意味では夫婦の意志ではない。それらはいずれも、敗戦と占領という事態がもたらした帰結である。そして、夫婦は、20年ぶりに戻ったハイファの自宅で、20年ぶりに再会した成人した長男から、そのことの意味を突きつけられることになる。夫婦の長男ハルドゥーンは、ホロコーストを生き延びたポーランド系ユダヤ人の夫婦によってドゥーフと名づけられ、ユダヤ人として育てられ、今やイスラエル軍の兵士として、パレスチナ・アラブ人である夫婦の前にたち現われたのだった。
 私が現代アラブ文学について講義していたある大学で、現代アラブの小説作品を読んで「実践的主体として」論評するという課題を出したことがあった。提出された300通のレポートのいくつかは、この「ハイファに戻って」を取りあげていたが、一人の学生の次のようなことばに触れたとき、私は虚を突かれる思いがした―僕は、高校時代に自分が韓国人であることを初めて知った。そして、それ以来、歴史というものを考えるたびに混乱している…。


◆大澤真幸, 20001130, 「資本主義化/民族化――ファシズム生成の規制」栗原彬・小森陽一・佐藤学・吉見俊哉 編, 20001130, 『装置:壊し築く (越境する知・4)』東京大学出版会:23-67.
(pp65-66)
 では、あらゆる価値や理想において決して受け入れられることなく、必然的に否定されてしまうこととは何か?無論、それは、世界の全的な破壊、自己自身を含む全的な破壊にほかなるまい。ナチスが、最終的に、世界の破壊自身を一個の救済として提示したのは、そのためである。要するに、ナチスは、世界を焼き尽くす「火」を愛さずにはいられなかったのだ。
 そして、こうした自己を含む世界の全的な否定の究極の形態こそが、ホロコーストだったのである。ユダヤ人とは、ある意味で、ドイツ人のもうひとつの姿だからである。誰もがその核の部分に抱えている内的な〈他者性〉が、ここに論じてきたようなファシズムの機制を媒介にして、外部に投射されて、切り離された姿がユダヤ人なのである。ユダヤ人が選ばれたのは、彼らが、〈資本〉の隠喩と見なされたからである。


◆千田有紀, 20010220, 「構築主義の系譜学」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房:1-41.
(pp26-27)
 上野が構築主義という言葉で指摘しようとした問題群について、その存在をそもそも否定してしまうような頑迷な客観主義者は、おそらくそうはいないであろう。歴史学においても、為政者の言説とも制度化された知とも違う、普遍的な歴史叙述には容易に現れてくることのないひとびとの歴史である社会史が、大きな位置を占めるようになってきている。むしろ、実証主義と構築主義とを、公文書中心主義とオーラルヒストリーとにそれぞれ重ねあわせる議論の妥当性(注4)、そして客観主義を批判している上野が、構築主義と言うよりは相対主義に陥ってしまっているのではないかという疑問が、残されている。
 真の争点は、「歴史の事実が構成されているか否か」という点にあるのではない。南京大虐殺で殺戮された被害者の数をめぐって争うと同時に、歴史修正主義者は、「当時はホロコーストという概念が存在しなかったのだから、ホロコーストは存在しない」、「慰安婦という言葉の存在しないところでは、慰安婦は存在しない。それは現在の地点から過去を振り返って、つくりだしたひとつの現実にすぎない」といったたぐいの構築主義の領有も頻繁におこなっているからだ。
 構築主義の視点を選択することは、歴史叙述のさいの出発点にすぎない。重要なのは、実際にどのように歴史を叙述していくのかということである。「現実」は現在から構築されたものであるとしても、その構築の「もっともらしさ」をめぐって、つまりより事実に近いものをめぐって、闘争はおこなわれざるを得ない。闘争の場から降りることは、不可能なのである。スペクターとキツセ流の構築主義的アプローチを選択するならば、特定の「歴史の真実」がどのような動きのなかで構築されてきたのか、その権力配置をあきらかにすることこそが、構築主義の課題となるともいえる(注5)。


◆荻野美穂, 20010220, 「歴史学における構築主義」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房:139-158.
(pp150-151)
 歴史学において「言語論的転回」と関連してもうひとつ議論を呼んでいるのは、歴史相対主義または懐疑主義の問題である。もしも言語の外側に実体的なものが何ら存在せず、歴史家が史料であれ証言であれテクストの解釈を通じて客観的「事実」や「真実」を回復することは原理的に不可能であるとすれば、それが含意するのは、過去についての多様な見方の問にそもそも「正しさ」に関しての優劣はつけられないということである。歴史家も読者も、ただ自分の好みに合わせてある解釈を自分にとっての「真実」として選びとるのである。
 しかしこうした考え方が具体的な歴史上のことがらに当てはめられた場合、ただちに厄介な問題が発生することになる。例えば、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行ったユダヤ人の絶滅作戦、とりわけアウシュビッツのガス室における大量殺戮は戦後に捏造された虚偽の告発であるという、いわゆる「アウシュビッツの嘘」を主張する人々が、ドイツにもアメリカやフランスにも少なからず存在している。彼らはアウシュビッツはたんなる捕虜収容所であり、毒ガスはシラミ駆除のために使用されただけだったと、「証明」しようとするのである。彼らの主張する歴史の「再審」もしくは「修正」は、収容所の生き残りの人々の記憶やホロコーストについての従来の解釈と原理的に等価とみなされるべきなのだろうか(バスティアン[1995])。あるいは、アウシュビッツのガス室の存在自体を否定するのではないが、「最終解決」もしくはショアーについて叙述したり表現しようとする際に、どのような表象の仕方(たとえば喜劇として)にも無限定に道は開かれているのか、それともホロコーストのような現象に関してはある「真実」に基づく特定の「マスター・ナラティヴ」を保持していくことが政治的に正しいと考えるのか(フリードランダー編[1994]、鵜飼・高橋[1995)。さらにまた、一九三七年に南京で日本軍が行ったことに関して、犠牲者の数について得られる証拠や証言が断片的でそれぞれ限界を持つものであるからといって、「大虐殺」は存在しなかったと主張したり、あるいはこうした残虐行為は古今東西、戦争にはつきものという一般論に解消することで問題の相対化や楼小化をはかることに対しても、異なる価値観や利害を持つ人々が同じ現象から異なる結論を引き出すのは避けられないと、多様な「解釈」を並記すれば良いのだろうか(注8)。


◆北田暁大, 20010220, 「<構築されざるもの>の権利をめぐって――歴史的構築主義と実在論」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房:255-273.
(pp.266-267)
 【3】明白な反実在論を掲げる[存在論の認識論への還元]わけではないにせよ、(C2)(b)のように実在性への問いを留保したり、余剰なものとして無化しようとすること[存在論の解消]。こうしたHCの議論の方向性は、「語り得ぬものは存在しない」ではないが、「語り得ぬものについては語り得ない」というきわめて近代的な認識論中心主義─認識するもの/されるものの関係をめぐる技術的処理への関心、人間の意味構成"志向性の外部を否認する人間主義的教理。「裏返しの実証主義(ギンズブルグ)」─を体現してしまっているとはいえないだろうか。おそらく、《ホロコースト》という認識が頓挫する極限が我々に突きつけてくるのは、HC(Historical Constructionism)が暗黙のうちに前提する《認識論による存在論の抑圧》に対する実在からの抵抗、《存在の金切り声》とでも呼ぶべきものの頑強さなのであり、歴史家(構築主義者であれ実証主義者であれ)はそれに応答する責任を持つのである。この歴史家の責任=応答可能性について、再びかの《悲劇》に即して考えてみよう。


◆森岡正博, 20011110, 《生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想》勁草書房.
(p379)
 まとめると、優生学の中心テーマは、歴史的に見て、(1)イギリスの自発的断種の優生学、(2)アメリカで登場した強制的断種とナチで開花したホロコーストの優生学、(3)70年代に登場した選択的中絶の優生学、(4)21世紀に予想される遺伝子操作の優生学の、四つの時期に分けられる。現在は、(3)から(4)への移行期が始まったところである。


◆伊藤勇・徳川直人 編, 20021010, 《相互行為の社会心理学 (ニューセンチュリー社会心理学5)》北樹出版.
(p100)
テーマによっては常識批判によって人びとの認識の根拠があやうくなってしまうこともある。たとえば、「ホロコーストはなかった」といった常識やぶりの言説によって、たいていの人は自分で真偽を確かめることのできない史実についての議論に引き込まれてしまう。チョムスキー(Chomsky,N.)は、ホロコーストの実在を否認する人びとの主張も言論の自由だと容認したが、「私としてはガス室はあったと信じる」と書いた。彼にとって歴史の明白な事実だったものが、個人的な信念の問題になってしまったのである。この場合、ホロコーストの実在を認める人びとにとっては、言論の自由と過去への反省という、かつては両立していた2つの価値が、対立図式に持ち込まれてしまったことになる。こうしたジレンマに直面した場合、その人びとがとりうる戦略は「論争忌避」である。つまり否認派の主張を無視し、論争からおりることである。この点、「沈黙」も高度に論争的な行いなのである。


◆中島道男, 2002, 「バウマン道徳論の解釈をめぐって――批判的検討]《奈良女子大学文学部研究年報》46:59-72.
(pp68-69)
 バウマンの道徳論は、デュルケム道徳論への批判というかたちで構想された。もちろん、そこには、バウマンのホロコースト研究が介在していたことはいうまでもない。ホロコースト批判を可能ならしめるような道徳論こそがバウマンの求める道徳論であり、その点、バウマンからすれば、社会を道徳の源泉ととらえるデュルケム道徳論は批判されるべきものであった。これが、バウマン道徳論の中心にある、前社会的なものとしての道徳(性)という論点がでてきた脈絡であった。しかし、この論点を正確に理解することはそう容易ではない。前社会的とは何か。――これが、バウマンへのさまざまな誤解を生じさせることとなった。本稿が中心的にとりあげてきたのは、まさしくこの問題であった。そして、この問題を理解するにあたっては、societalとsocialを区別しなければならない。この点を、われわれは一貫して主張してきた。バウマンが前社会的といっているのはpre-societalということであって、pre-socialだと言おうとしているのではない。ただし、誤解をもたらしたのは、バウマンの責任でもある。バウマン自身、この区別について一貫して明確であったわけではなかったのである。


◆片桐雅隆, 20030210, 《過去と記憶の社会学――自己論からの展開》世界思想社.
(pp.iv-v)
 今日、過去や記憶、あるいは歴史についての議論は盛んである。それは、典型的には心理学や歴史学に見ることができる。心理学においては記憶論は従来から主要な研究領域であったが、トラウマや多重人格(解離性同一性障害)など記憶にかかわる問題がブームとなる中で、記憶論はますます注目されるようになってきた。とりわけ、本論でも紹介しているような記憶についての構築主義的な議論が出てきてからは、(わたしの関心の中で)それは社会学とも接点をもつようになった。一方で、歴史学では、「ホロコーストや南京大虐殺はなかった」というセンセーショナルな言説に象徴される歴史論争の中で、過去や記憶が大きなテーマとなっている。そこでは、「ホロコーストや南京大虐殺はなかった」という観点から歴史の書き直しが試みられる一方で、歴史的な物語に上らないマイノリティや、ホロコーストの体験のように「語りえないもの」をいかに扱うかといった論点がテーマとなっている。また、一般に歴史学における記憶のテーマは、B・アンダーソンの「想像の共同体」論に根差した、国民国家やナショナリズムの成立と記憶の関連を問う作業の中にも見ることができる。心理学や歴史学でのそれらの過去や記憶をめぐる議論は、別々に展開されているのだが、実は多くの接点がある。換言すれば、本論で指摘されているように、個人誌あるいは自己の物語の構築と歴史的な物語の構築のあり方には、多くの共通性がある。この本は、わたし自身の過去や記憶への関心に根差していることは言うまでもないが、社会学的な自己論の立場から、自己の物語と歴史的な物語との接点を求めることも大きなテーマとなっている。
(pp43-44)
 自己は物語に還元できるのかという争点において取り上げられるのは、「語りえないもの」のもつ問題である。典型的には、その問題は、ホロコーストや被爆の経験を語らないこと、あるいは語りえないとすれば、自己物語論はそのような語りえないものをいかにその中に位置づけられるのかという問いに見いだすことができる。それは、ホロコーストや被爆という固有な経験に限られない。一般に、トラウマと呼ばれる経験は、語りえない経験の一つと考えられる。トラウマの経験は、自己の同一性の物語を解体する経験でもある。ひとが物語を構築することは、過去の自己と現在の自己との何らかのつながりを求めることであり、逆に、そのような同一性や一貫性を確保しえないことは、ギデンズが指摘したように、「生きているという一貫した感覚」をはばみ、「自己の感覚」を阻害する。トラウマ経験が語りえないものとすれば、それは自己の同一性を常に脅かす存在と〈7〉なる。
 本当の自己に最もふさわしい物語とは何か、物語を紡ぐ自己とは何か、あるいは物語は語りえない経験を排除するといった論点は、物語という考え方から自己を問う際の問題点や限界として指摘されて〈8〉いる。この問題を、自己を物語に還元しようとする構築主義に忠実な立場から解くことは難しい。そして実は、この困難な問いは、自己物語論に固有なものではなく、自己とは何かを問う際に不可避的に伴うものでもある。ミードは、自己をIとmeに区分し、meを反省され言語化された自己の側面とし、Iを反応や作用の側面と位置づけた。物語と自己の関係もこれに対応する。つまり、物語は反省され言語化されたmeに対応し、その物語の紡ぎ手がIに対応すると考えられるからである(第四章第一節〈9〉参照)。
(pp60-61)
 全体的組織としてのナチの強制収容所への収監というトラウマ的な経験が自己の同一性の危機をもたらすことを、心理学者のC・R・バークレイは次のように指摘している。「人々が一貫した物語を時間的に組織化することができなくなるがゆえに、トラウマ的出来事は(記憶の障害などの)影響力をもたらす。つまり、トラウマをもった人々は、トラウマ的な経験についての順序や配置の感覚を失い、その経験が何を意味するかを解釈するための物語の働きやそのための情報への感覚を失うのである。……ホロコーストの生存者が言うように、『皆殺し(extermination)を説明する言葉はありえない』」(Barclay 1995 : 113)。つまり、ナチの強制収容所のような全体的組織への収容は、従来の自己のあり方を根底的に変更する経験であるがゆえに、その経験を、従来築きあげてきた同一性の物語に位置づけることができず、それを表現する言葉を探しえないのである。すべての全体的組織への収容が、このような根底的な同一性の解体を引き起こすわけではないとしても、われわれが収容の特徴として指摘した四つの契機は、過去や自己の同一性の解体の契機としての問題的経験と考えることができる。
 全体的組織論は、過去や自己の同一性の解体論として読むことができることを指摘してきた。しかし、そこには過去や自己の同一性の解体が、いかに作為的にもたらされるか、あるいは自己の同一性がいかに脆弱なものかの指摘はあっても、過去の書き換えの具体的あり方についての指摘を見ることは難しい。ゴフマンの扱った全体的組織やナチの強制収容所は、宗教的な教義や政治的なイデオロギーを強制したり洗脳したりするような全体的組織ではないからである。後者のような全体的組織は、解体した過去や自己の同一性をふまえて新しい自己やリアリティ像をいかにもたらすか、つまりはいかに過去を書き換えるかという大きな課題を抱えている。
(p114)
 記憶論は、すでに指摘したように、近年、歴史学、心理学などの分野で盛んに論じられている。歴史学の分野では、ホロコーストや広島・長崎の記憶の風化の中でのその伝承の問題や、一方で、ホロコーストや南京大虐殺はあったのかという言説に示されるように、戦争の記憶をめぐる問題が争点となっている。一方で、心理学では、戦争体験や災害の体験、あるいはレイプや暴力を受けた体験などによって引き起こされた「心の苦しみ」をトラウマ体験として位置づけ、そのことをとおして現在の心の苦しみを解釈する視点が注目されている。
 しかし、歴史学においても、また心理学においても、記憶の問題はこのような話題にのみ還元できるものではない。歴史と記憶をめぐる問題は、政治性を帯びる争点に限られず、そもそも歴史的な事実とは何か、あるいは歴史的な事実と言われるものも記憶の一形態ではないかといった問題につきあたる。一方で、心理学においても、記憶論はその主要な研究分野であったが、記憶=記録という従来の記憶論の図式が今あらためて問われようとしている。
 両者に共通して見られるのは、記憶の構築性という視点である。戦争体験をどう解釈するかという体験に基づく記憶の問題を越えて、歴史的な事実と言われるものも、とりわけ学校教育をとおして知識として記憶されることによって共有されていくものであるし、トラウマ体験も、現在の心の苦しみを解釈するための出来事として作り上げられる側面があることが指摘されている。
(pp135-136)
 今日過去の事実、とりわけ戦争の事実をめぐってさまざまな歴史論争が行われている。それは、ホロコーストはあったのか、あるいは南京大虐殺はあったのか、という論争に典型的に示されていた。これらが示す大きな問題は、歴史は客観的な事実なのか、それとも解釈の所産なのかという歴史をめぐる基本的な対立である。
 この対立は、一般に「出来事としての歴史」と「記述としての歴史」の対立として説明される。(略)
 この二つの見方の対立には、歴史(的過去)とは何かを越えて、事実とは何かという大きな問いが潜在している。事実はそれを見る主体と独立にあり、それを見る視点と独立にとらえることができるという見方と、事実は見る主体の観点をとおして初めてとらえられるものであり、そのような観点を離れて「客観的な」事実はありえないと考える見方の違いに、その対立は対応している。後者は、広く構築主義と呼ばれる立場を意味している。われわれはすでに、シンボリック相互行為論などの基本的な見方が、主体性論ではなく、構築主義的な視点に立つことを指摘しその視点を支持してきた。その見方に立てば、歴史的な事実は、現在における観点をとおして解釈されたものであり、したがって、出来事としての歴史観ではなく、記述としての歴史観を支持することになる。
(pp141-143)
 ここまで、第一に物語の歴史的な記述は特定の関心に基づいて行われること、第二に歴史的記述が物語であること、第三に、その物語は共同化され、構造化されたものであることを指摘してきた。では、歴史は物語に還元できるのだろうか。そのような問いは、歴史の構築主義に対して常につきまとう問いでもある。そして、その問いは、(第二章でも言及した)自己は物語に還元できるのかという問いとも関連する。
 歴史の構築主義的な見方への問いは、主に二つある。第一の問いは、典型的には、語りえないもの、抑圧された物語、あるいはマイノリティの対抗的な物語などの言説に示されている。ホロコーストのような体験は、深いトラウマ的な傷のゆえに言説化すること自体が不可能であり、言説化されたものとしての物語はそのような体験を扱うことができるのだろうか。それが、「語りえないもの」という表現が提起する問題であった。また、抑圧された物語や対抗的な物語という論点は、女性や民族的なマイノリティによる歴史的な物語の書き換えの運動に象徴的に見られるように、特定の人々のアイデンティティを「真に」表出しうる物語とそれを抑圧する物語があることを意味している。それは、自己の物語の構築性においても指摘したように、自己物語が「本当のアイデンティティ」を表出するものか否かという論点に対応する。
 これらは、一般に物語の外に歴史的な現実(あるいは事実)はあるのかという問題を意味しており、そして同時に、われわれがすでに論じた、出来事としての歴史と記述としての歴史をどう考えるかという問いにも関連する。
 自己が物語に還元しうるかという問いに対して、自己が物語に還元できるというラディカルな構築主義の立場に立たず、語りえないものを認める一方で、自己の同一性の確保において物語ることが不可欠であり、いかに自己が物語によって構築されるかに注目するのがわれわれの立場であることを、第二章において表明した。そのことは、歴史的物語への見方においても共通している。語りえない歴史的な出来事の重みを無視するものではない。それは物語の書き換えを求める「力」として常に潜在している。このように、歴史がすべて物語に還元されるとする立場には立たないが、しかし一方で、物語という言説化をとおしてしか歴史的な過去は人々にとって意味あるものとして立ち現れてこないという事態にわれわれは注目したい。
 もう一つの歴史の構築性をめぐる論点は、歴史が物語であるとするなら、物語はどのように構築されてもいいのかという問いである。この論点も、「歴史と(ノンフィクションとしてのルポルタージュなどの対概念としての)フィクション」の区別や、「歴史は科学か」などの問題としてさまざまに議論されてきた。


◆上農正剛, 20031020, 《たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識》ポット出版.
(p19)
 (注4)「忘却の穴」とは政治哲学者ハンナ・アーレントHannah Arendtが主著『全体主義の起源』みすず書房(一九八一)第三巻第三章に記したことばである。ユダヤ人の絶滅が意図されたホロコーストのような状況では、せめてもの抵抗は、生き残った者が死者に関する記憶を保持し、証言することなのだが、全体主義的支配はその「記憶」さえ「忘却の穴」深く消し去ろうとする徹底した苛酷さ(暴力性)を持っていたことをアーレントは指摘している。「記憶」を語る(証言する)ことばを抹殺することで、その事実さえなかったことにしようとする極限の抑圧がここにある。私たちはことばを奪われることで愛する者と共に過ごしたかけがえのない時間に関する記憶を奪われる。それは生きた証を奪われるということに他ならないのではないだろうか。そして、これはホロコーストの問題に限ったことではないだろう。「ことばを奪われる」ということの辛さは、正に聴覚障害児たちが医療や教育の中でこうむった問題でもある。本書終章「障害認識論とヒルバーグ的立場」参照。
(p471)
 (注6)二〇〇三年五月十八日、「新生児聴覚スクリーニング検査を考えるシンポジウム」が国立オリンピック記念青少年総合センター(東京・代々木)で開催された(準備委員代表/木島照夫・東京都立大塚ろう学校教員)。そのシンポジウムの事前学習会を前年十二月二十六日、二十七日に実施した。準備委員であった筆者はその席で優生思想という観点を踏まえ、以下のような発言をおこなった。「今回のスクリーニングのことを私たち教育関係者や親や聴覚障害者が知ったのはつい最近のことであった。しかし、改めて確認してみると、厚生労働省では数年前より医療関係者と行政担当者が実施に向けての計画を練り、事態は着々と水面下で進んでいた。つまり一部の人間だけで計画は立案決定され、実行に移されていたという事実。最も切実な影響をこうむる親や聴覚障害者および教育関係者はまったく何も知らされていなかった。気付いた時には検査は既にもう実施されており、それを阻止することは事実上、不可能な状態であり、やむなく容認、追認せざるを得ないという状況に立ち至っていた。出来ることはせめてものこれからの条件整備という消極的意見提示くらいである。しかし、歴史は常にこのように進んでいくのではないだろうか。ある日、ある部屋で、一人の人間の頭の中に一つの計画が思いつかれる。それは一枚の企画書となり、数人だけの会議を経て、認可され、予算がつき、実施へ向けて動き出す。しかし、そのことを一般の人間が知り得るのは遥かずっと後で、その時はもう既にその動きは止められない。優生思想に抵触したナチスのホロコーストもこのように密やかに着実に進められていった。」筆者にはヒルバーグの『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』を読んだ際の感慨とまったく同じものが感じられたからである。


◆渋谷望, 20031110, 《魂の労働――ネオリベラリズムの権力論》青土社.
(pp81-87)
 このような新たな世界地図に、〈第四世界〉で苦難にあえぐ悲惨な人々(レ・ミゼラブル)と、世界の残り部分でそれなりの暮らしをしている人々(われわれ?)の関係という問いが倫理的、道徳的な問題として今あらためて浮上していることは驚くべきことではない。NGOの実践に見られる人道主義は、"われわれ"と"彼ら"の―"ここ"と"あちら"の―関係をダイレクトに構築しようとするものとして理解できる(ここでは「人道主義」をそのようなものとして広く押さえておく)。すでに見たように〈第四世界〉の存在が、従来の政治的チャンネルでは問うことができない―あるいは問うことが許されない―問題系だからである。彼らの苦難や苦痛の声は構造的に封じ込められてしまっている。とすれば、われわれは、政治的な含意やしがらみ抜きに、実在する苦難、貧困、悲惨にダイレクトにアプローチすべきではないだろうか。苦しんでいる人々の存在を認識すること、そして彼らの声を聞き届けることが緊急の課題であるのは確実である。ではこのアプローチはどこまで有効なのだろうか。ここではさまざまな留保を認めつつも、基本的に人道主義的なスタンスを保つスタンリー・コーエンの議論を参照してみたい。
 コーエンの議論は、人々に他者の苦難や苦悩を情報として報道し、彼らにその事実を知らしめるだけでは不十分だという認識を出発点に据える。つまり知識としての事実だけでは、人々の関心を引きつけ、彼らを抗議行動にコミットさせ、あるいはそうした行動を支持する文化を創出するには無力だというのである。彼の場合、インティファーダ[占領下パレスチナでイスラエル軍に向けられた大衆蜂起]に対する軍隊の残虐行為を、イスラエルの側にいながら告発したときの経験が核にある。
 彼は他者の苦難に関する情報に接する際、その出来事の十全な認知―彼の言い方では「承認 acknowledgement」―を阻むような障害がさまざまなレベルで発動していることを問題化し、この障害を「否認 denial」と名づける。世界における―現在および過去の―さまざまな苦難や残虐さにかかわる情報を、オーディエンスは無害化し、否認する。たとえばユダヤ人強制収容所の近隣の住民たちは、そこで何がなされているのか、「うわさ」では知っていたが、実際に見ていないという意味で知らなかったと主張する。アムネスティが新聞の全面広告で、家族が殺され悲嘆にくれているアルジェリアの女性の写真を載せ、その惨状を訴えるとき、読者はこう反応するかもしれない。「ショッキングな見出しはもはや心に訴えかけない。われわれは心を動かされない。われわれは操られることに憤慨する。経験はこう教えてくれる。これを読んだらぺージをめくって忘れよう。なぜならそれこそあなたや私たちが口やかましい抗議広告の対処の仕方としてならってきたことだからである」(Cohen 2001 pp.2-3)。これが「否認」である。
 たとえばホームレスの苦難を考えてみよう。彼らを否認し、その苦しみの傍観者となるにはいく通りかのやり方がある。まず、ホームレスの存在それ自体を否定することができる。あるいは「ホームレス」の定義を都合よく改変したり、より安心できる呼び名を与えることによってそこには何も問題はないと装うこともできる(「ストリート・ピープル」)。あるいはホームレスの存在を率直に認めるものの、さまざまな口実をつけて、ホームレスの問題が自分たちにとって含意するものを過小評価する(「私には手を差し伸べる義務はない」、「自分とは無関係である」)(*6)。
 コーエンはさまざまな否認のパターンを検討し、「なぜわれわれは目を閉ざすのか」と問題を立てるよりも、「いったいなぜ目を閉ざさないのか」と問題を立てたほうが、承認の条件を見つけるのに適しているとし、さまざまな事例を検討していく。黒人差別の悲惨な状況に気づかされた南アフリカの白人女性、ボスニアでのムスリム女性への性的虐待を知り、ボスニアの女性のためのNGOを起こしたイギリスの女性、アメリカ軍のベトナム村民殺戮を告発したアメリカ軍兵士……。しかし彼はこうした事例の検討によって援助者や救助者たちに何も特別なことがないことをむしろ確認することになる。彼ら彼女らはこう言う。「わたしには何も特別なところはない。わたしと同じ立場にいたら誰でも同じことをするだろう」(ibid. p.263)。また彼らは合理的選択によって動いているのでもない。では否認から承認を分かつものは何か。
 コーエンはこの問いに対して解答を用意するというより、むしろ問題を投げかけているように思える。彼らの「普通さ」はポジティヴなものとしてとることができよう。つまり特別な資質を必要とせず誰にでもできることだという意味で。しかし現代の状況をみると、いっそう両義性は先鋭化し、「否認の文化」が勢いを増していることを否定しきれない。九〇年代に入り、グローバルな人道主義への関心が高まり、テクノロジーの進歩に助けられ、遠く離れた場所の悲惨な状況を報道するメディアが増えてきた。しかし、他方で個人主義的な市場イデオロギーが八〇年代以降高まり、九〇年代後半に入ると援助者たちのあいだに「同情疲れ」、「燃え尽き」などの用語が示すようなある種のペシミズムも広がり始める。さらに、コーエンは「脱構築」という商標の「歴史の否認」の手法が、ホロコーストの否認などを正当化するための格好の道具として利用されている点を指摘し―正当にも―、「特定の苦しみの固有性を表象できないという感覚から来る絶望」と、「現実的なものの虚構性」のような安易なスローガンとを峻別しようとする(ibid. p.284)。
 このようにコーエンの議論は、いわば他者の苦しみを「普通の人々」がいかに自分自身と関連づけるかという問題がはらむさまざまな困難を扱っている。しかしこのような問題の立て方はある種の抽象化に陥る危険がある。アパルトヘイト時代の南アフリカの白人と黒人の関係と、ナチス支配下のドイツ人とユダヤ人の関係をどこまで同じものとして扱ってよいのだろうか。人間性一般の倫理的問題として議論する限りこれは妥当かもしれない。ただしそこで求められるのは人間一般に妥当するきわめて抽象的な解である。しかしこれを現代固有の問題として論じる場合、先に見たようなポジティヴな要素とネガティヴな要素が入り混じったアンビバレントな結論は避けられない―人間はそもそもそのような存在なのだから。コーエンは「アンダークラス」の問題を現代的な否認の例として提示している。
(略)
 ここでもコーエンは「アンダークラス」の社会的排除を「否認」一般の問題として捉えようとしている。そしてこのような問いの立て方のなかに見出すことができるのは、すでに見たように「否認」を「承認」と対置し、不都合な情報から目をそらさず、これを直視することによって、排除の実践に対する何らかの効果的なアクションが生まれるという前提である。つまり、われわれの立場は受難者に対する、無関心な傍観者のそれであり、何らかの障害によって、われわれは受難者に対する関心や同情の発動が妨げられているということである。またそれゆえ、この障害を突破しなければならないのである(*7)。しかし、われわれが隔離や排除に反対するアクションを起こさない―あるいは、そうしたアクションを支持しない―場合、それはわれわれが排除や隔離を否認しているからなのだろうか。こう疑うべきかもしれないのだ。われわれは、たんなるニュートラルな傍観者としてではなく、もっと確信犯的に「敗者」や「余計者」を敵視しているのではないだろうか、と。
 コーエンは否認の議論を「心理学的な言語」で語っていることを自ら認めている。そして、いつか誰かが「否認の政治経済学」を書いてくれるだろうと期待もしている(Cohen 2001 p.xiv)。「否認の政治経済学」があるとすれば、それはおそらく、否認/承認という二項対立的な人間の認知(倫理?)モードないし尺度からはみ出るような変数(パラメーター)を扱わねばならないだろう(*8)。

 Cohen, Stanley 2001 States of Denial: Knowing about Atrocities and Suffering, Polity.


◆Kass, Leon R, ed., 2003, Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics, New York: Dana Press (=200510,倉持武監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』青木書店).
(pp272-274)
 真実の記憶を持つということは、単なる個人的な問題ではない。奇妙なことに、我われ自身の記憶は単に我われ自身だけの記憶ではなくて、我われが生きている社会という織物の一部になっているのである。耐えがたい記憶を引き起こす残虐行為の体験者や目撃者の例を考えてみよう。たとえば、ホロコーストの直接の経験者である。そのような苦い記憶を鈍麻させるならば、その人の人生には役立つことも十分考えられるが25、そうした人道的な介入が広く行われるようになるとすれば、深刻な問題が生じてくるだろう。全体としての共同体、人類に寄与するものが、何かこの恐ろしいが失ってはならない記憶の大規模な鈍麻から生まれてくるだろうか。災いに苦しんでいる人たちは、彼らを脅えさせているまさにその恐怖を我われ全員が忘れないようにするために、それを記憶し、証人となる義務があるのだろうか。それほど苛烈なものでなくても、こうしたディレンマの例となるものはいくらでもある。恥をかいた記憶は、恥ずかしさに苦しむ他の人たちにとっては共感の種になる。愛する人を失った記憶は、同じような喪失を体験した人たちにとって共感の源になる。確かに、過酷な体験を持つ人に、我われ残りの者のために苦しい記憶に耐えぬくよう強制することはできないし、また強制すべきでもない。しかしながら、その義務が課せられるのは、不当にもそうした出来事を一番じかに体験した人たちに偏っているとさえ言えるかもしれないが、共同体としては、その成員に記憶しておく義務を課するような出来事が存在するのである26。ホロコーストを覚えて「おこう」としなくなったり、またホロコーストが引き起こす苦しみをひたすら消し去ろうとするようになったら、我われはどんな人間になってしまうのだろう。そしてまた、そんな恐ろしい記憶に耐えることができている我われや、とりわけ、そのような恐怖を直接体験した上でその記憶に耐えることができている我われの仲間は、どのような社会に、その一員として生きているのだろうか。
 その答えの一部には、恐ろしい事件に苦しんでいる人たちには自らの悪い記憶に1人で耐えることはできないし、彼らが1人で耐えなければならないようなことがあってはならないということが含まれる。我われには、社会の一員として、何らかの恐ろしい事件をありのままに覚えておく義務があるのだから、我われにはまた間違いなく、そうした事件を体験した人たちがその最悪の記憶となんとか折り合いをつけていけるように手助けする義務もある。もちろん、まさに悪い記憶の心的苦痛を和らげる目的で開発される新しいバイオテクノロジーの力を、そうした連帯の指標だと考える人がいるかもしれない。それは、おそらくきわめて辛い事柄を記憶している人たち、我われのために証人となる人たちの助けになるという義務を果たすための新しい手段になると考えるわけである。しかしながら、結局、そのようなかたちの連帯は誤りであることが分かるだろう。というのも、そうした連帯は、記憶している人と共苦するという義務、文字通りには、何らかのものを共に受難し、共に苦を感じるという義務を、我われに免れさせてしまうからである。そうした連帯は、我われが彼らの記憶の真実を堅持し続けることを求めない。その代わりに、そうした連帯は問題を、そしてそれとともに問題になっている経験の真実を消してしまおうとすることなのである。


◆桜井厚, 20050131, 《境界文化のライフストーリー (千葉大学人文科学叢書)》せりか書房.
歴史のポストモダン的相対主義は、歴史修正主義の台頭と、それを警戒する側から相対主義の行き過ぎを戒める批判のために、ファシズムへの脅威と相対主義的ディレンマをかかえこまざるをえないことを認めて、やがてくだんの勢いを失った。結局、歴史学そのものは「史実」と「真実」を志向する伝統をいまもなおしっかりと保持しつづけている10。ポストモダニズム的相対主義の代表的論者であるヘイドン・ホワイトの「歴史のプロット化11」は倫理的次元と認識論的次元から批判されている。ライフストーリーもまた、インタビューの場において個人の過去の経験をプロット化することである。そこで、人びとの経験がプロット化されて物語へ構築される際の特質を、その限界を考えるためのヒントをえるために、歴史のプロット化批判の認識論的次元についての議論を参照してみよう。ペリー・アンダーソンは、『ふたつの崩壊』(A・ヒルグルーバー)におけるホロコーストに関する見方を分析して、ナラティブの限界を指摘している。
 第一に、証拠によってある種の絶対的限界が設定される。体制とその罪の存在のいずれかを否定することは明らかに除外される。事実とみなされているものに対抗してもちだされることがらも、それ自体、証拠のルールの統制に服するのであって、このルールは、いまのばあいがそうであるように、それらのことがらのうちのいくつかを排除するであろう。ナラティヴの戦略は、説得力をもつためには、つねにこの種の外的な限界のなかで機能するのである。だが第二に、そうしたナラティヴの戦略は、その一方では二重の内的な限界に服する。一方で、ある種の証拠はある種のプロット化を排除する。最終解決〔〔ナチスによるユダヤ人絶滅政策をさす(引用者注)〕〕は、歴史的には、ロマンスやコメディとして描かれてはならない。他方で、いかなる一般的なプロット化も、証拠の選択を決定するさいには、わずかな力しかもたない。ヒルグルーバーは、東プロイセンの終焉を悲劇として描写する正当な理由をもっていた。しかし証拠によってゆるされるその選択は、それ自体として、かれの見解を構成する一連の独特の経験的判断を命じるものではない。ジャンルと台本のあいだにはおおきなギャップがある。同一の事件についても他の異なった悲劇的叙述が可能である。そうしてこうした叙述は、美学的にみて同一基準では比較できない表現形式となったり、フィクションとなってしまうのではなく、真実に到達するための認識論的に識別可能な試みになるであろう。……諸科学と同様、歴史学においても、真実の深さは、通例、証拠のどれだけ多くに関与して説明をおこなうか、という広さの関数である。かくて、ナラティヴは、けっして過去にたいして全権を委任されるものではない12。


◆倉島哲, 20070210, 《身体技法と社会学的認識》世界思想社.
(pp273-276)
 観察者は、自分自身が何らかの有効性を追求するさいに依拠している身体的ディテールしか、行為者の振る舞いに認めることができないこと―したがって、観察者が異なれば、行為者が依拠している身体的ディテールの認識も、それによって追求される有効性の認識も、享受される身体的リアリティの認識も異なってしまうこと―を認めることは、方法的な態度としてきわめて重要だろう。いいかえれば、観察者は、行為者の振る舞いに認めた身体的ディテールを手がかりに相互身体的判断を下しつつ、異なった相互身体性のレベルにおいて別様の判断が下された可能性を留保しておかねばならないのである。このような方法的態度が潜在しているのを認めることができる研究をいくつか紹介しておきたい。
 発達心理学者の高木光太郎は、過去に経験したことを語ることで想起するかわりに、過去の経験における「身構え」を再現することで過去を現在のものとして直接経験する可能性を指摘する。このような「反-想起」による過去の現前は、クロード・ランズマン監督のホロコースト(ナチスによるユダヤ人絶滅作戦)についてのドキュメンタリー映画『ショアー』に顕著である。この映画の冒頭では、絶滅収容所の生存者であるシモン・スレブニクが、小舟で小川をのぼりながら歌っている。ランズマン監督は、スレブニクとのインタビューにおいて、彼が収容所に囚われていたときにのぼらされていたまさにその小川をのぼりながら、歌わされていたまさにその歌を歌うよう求めたのである[高木 1996: 227-228]。高木は次のように述べる。
 「ランズマンは変わらない現場と、変わらない身構えが出会うことによって「絶滅作戦」を直接知覚可能なものとして顕在化させようとしている。幼い子供であっても、スクリーンの向こうで動いている人のシルエットを見るだけで、その人が重いモノを持っているのか、軽いモノを持っているのか、あるいは、柔らかいモノを持っているのか堅いモノを持っているのかをすぐに見て取ることができる。われわれは他者の身構えを知覚することによって、他者が向かい合っている対象をも同時に知覚できるのである。スレブニクが歌うこのシーンでは、ホロコーストの現場と再会した彼のシルエットつまり身構えを通して、ホロコーストを直接知覚可能なものとして示すことが目指されている。」[ibid: 229-230]
 スレブニクは、当時と同じ環境において、同じ身構えをとることによって、ホロコーストという出来事を想起するのではなく、それを現在のものとして直接知覚するのである。そして、スレブニクの様子を見ている映画の観客もまた、スレブニクの身構えに同じ出来事を直接知覚することができる。
 だが、小舟の上で歌うスレブニクの身構えは、すべての観客に同じようにホロコーストの直接知覚をもたらすのだろうか。観客個々人のホロコーストについての経験や知識、そして、歌ったり小舟を操ったりする技を身に付けている程度に応じて、身構えの知覚が変化することは否定できないだろう。本書の用語を用いれば、映画の観客は、スレブニクの身構えという身体的ディテールを手がかりに、この身体的ディテールに依拠してスレブニクが追求している有効性を相互身体的に判断することができるが、別様の判断がなされた可能性はつねに残るのである。高木は、このような可能性を踏まえているからこそ、ランズマンによって「目指されている」ものを分析していると思われる。
 生態人類学者の菅原和孝は、南アフリカのボツワナで狩猟採集生活を営むグイ・ブッシュマンの調査を行い、かれらが過去の出来事を語るさいに、当時の身体の配置をそのつど執拗に再現すること、そして、出来事の語りの継承が身体の配置の継承と不可分であることに着目し、「身体配列」の概念を提出する。身体配列が再現されることで、過去の出来事を語る言葉は神話化された記号の反復であることをやめ、生き直された出来事における「身体化された思考」の表現へと変化するのである[菅原 2002, 2004]。
(略)
身体配列は人間どうしの共同性の身体的な根源であると同時に、この共同性を分裂させる他者性の契機としての身体的ディテールを、それ自体のうちに胚胎していることになる。
 引用部分に続いて、菅原は自分が経験したような「身体の直接経験」を語り合うことのできる共同性を創り出すことの必要性を指摘し、その具体例として、アルコール依存症や摂食障害などの自助(セルフヘルプ)グループをあげる。これらのグループは、身体配列の共同性に回収できない身体的ディテール―アルコールや食物との関係におけるそれなど―を自らの振る舞いのうちに発見した人々が、自分の抱えている身体的ディテールを新たな身体配列の共同性のなかに組み入れる試みとして位置づけることができるかもしれない。


◆Kevin, Robins, Interrupting Identities: Turkey/Europe, Questions of Cultural Identity(=20010110, 松畑強訳, 「トルコ/ヨーロッパ、干渉するアイデンティティ」宇波彰・柿沼敏江・佐復秀樹・林完枝・松畑強 訳《カルチュラル・アイデンティティの諸問題――誰がアイデンティティを必要とするのか》大村書店:109-150).
(pp117-118)
 これらの視点によるなら、遭遇において問題となるのは、帰属不明者であるにせよ、よそ者であるにせよ、トルコ人の方であり、これこそがひとえに問題となる要素なのである。あとで論じることだが、こうした視点が表わしているのは、ヨーロッパ的態度の文化的傲慢さだろう。これはトルコ社会が遭遇した「西方問題」として、七〇年前にアーノルド・トインビーが描いたものの発展形と見なせるかもしれない。新しく生まれつつある共和国への西洋人の無関心と軽蔑について、彼はこう言及していた。「他の民族にほとんど何ら興味も関心も持つことなく、他の民族の生活にかくも大きな影響を与えるこの連携」(27)。この傲慢な態度は、今日ではトルコがヨーロッパに加わりたいと渇望することに向けられた、西洋人の冷淡さのなかに顕れている。トルコはヨーロッパの価値や基準を消化吸収すべきだという要求がある一方では、いかにそれを試みようとも、彼らは決してそれに成功することはないだろうという確信もまたあるのである。イヴァイロ・ディチェフはこれを、ヨーロッパの中心がその周縁に向ける基本的な態度だと見なしている。これらの文化は「普遍的文化の一部となるよう要求されているとともに、決してそれができないだろうと言われている。ヨーロッパは犠牲を要求しつつ、なおかつそれを受け入れることはないのである」(28)と、彼は論じる。トルコの場合、この捉えどころのない普遍約文化をどれほど追求しても、しかしなお物笑いにされ、いかに拒絶されるかを単純に示しているわけである。
 さらに悲劇的なことにこれはまた、文化的な傲慢さが文化的な憎悪へといかに変わり得るかをも示している。他者とは克服できない特殊性を刻印された者であり、それゆえ決して同化(改宗)されることがないと宣告されたとき、われわれは人種差別の根拠を得ることになる。多くのヨーロッパ人からトルコ人はこのように見られるにいたった。ドイツではいわゆる〈外国人労働者(Castarbeiter)〉はオスマン(イスラム)によるヨーロッパ攻略の一種の継続(この場合は経済によるものだが)と見なされてきた。外国文化に攻略されつつあるという感覚があるのだろう。クロード・マグリスは一六八三年のウィーン解放を祝ったナチの記念碑について述べながら、破れたトルコの旗には三日月ではなくダヴィデの星があったとしている。「トルコ人とは単に敵とされた人々のことにすぎず、これはつまりユダヤ人のことでもあり、こうした偽造によって今日では出稼ぎ外国人労働者に対する、排外的な態度が悲劇的にも爆発する危険を犯しているのである」(29)。トルコ人は「パーリア」として扱われたのである。「ホロコーストのおかげでユダヤ人の場合タブーとなったことは、トルコ人の場合にはまだタブーではない。彼らの他者性のゆえに、まるまるひとつの集団がスティグマとなっているのである」と、ザフェル・シェノジャック(30)。ネオナチによってトルコ人労働者が犠牲になった都市、ゾーリンゲン、メルン、ロストク、ホイェルスヴェルダ――。


*頁作成:植村 要 増補:立岩 真也 
UP:20080511 REV:20221019

TOP HOME (http://www.arsvi.com)