■主著
1974 Myself Must I Remake: The Life and Poetry of W. B. Yeats. Crowell.
1987 In Other Worlds: Essays in Cultural Politics. Methuen.
・内容を見てみる→amazon
=1990 (鈴木 聡・大野 雅子・鵜飼 信光・片岡 信 訳)『文化としての他者』紀伊國屋書店
[原書の序文,第3,4,6,12章を省略して訳出。12章の出典は、Selected Subaltern Studies. Introduction の出典と同じ]
◆1988 "Can the Subaltern Speak ?", C. Nelson & L. Grossberg eds.Marxism and the Interpretation of Culture, University of Illinois Press=19981210 上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』,みすず書房,148p. \2300 ISBN4622050315 C1310 [bk1]
1990 The Post-Colonial Critic: Interviews, Strategies, Dialogues. Sarah Harasym ed. Routledge.
・内容を見てみる→amazon
=1999[1992年版の改訳] (S. ハレイシム 編集、清水 和子・崎谷 若菜 訳)『ポスト植民地主義の思想』彩流社
1999 A Critique of Postcolonial Reason: Toward a History of the Vanishing Present, Harvard University Press.
=20030425 上村 忠男・本橋 哲也 訳,『ポストコロニアル理性批判──消え去りゆく現在の歴史のために』,月曜社,619+49p. ISBN:4901477064 5775 [amazon]/[kinokuniya] ※ *f
2003 Death of a Discipline. (The Wellek Library Lectures) Columbia University Press.
・紹介を見てみる→amazon
2003.9出版予定 Other Asias. Blackwell.
■共編著
1988 (with Ranajit Guha) Selected Subaltern Studies. (Essays from the 5 Volumes and a Glossary) Oxford University Press.
・内容を見てみる→amazon
[この本の抄訳ではないが、この本に収録された5つの文章の訳を含むものとして]
=1998 (R. グハ, G. パーンデー, P. チャタジー, G. スピヴァック著、竹中 千春 訳)『サバルタンの歴史』岩波書店
■翻訳
Derrida, Jacques. 1976 Of Grammatology. Johns Hopkins University Press.
・reprint 版の内容を見てみる→amazon
Devi, Mahasweta. 1995 Imaginary Maps: Three Stories. Routledge.
・内容を見てみる→amazon
Devi, Mahasweta. 1997 Breast stories. (The selected works of Mahasweta Devi) Seagull Books.
Devi, Mahasweta. 1999 Old women: Statue and the Fairytale of Mohanpur. (The selected works of Mahasweta Devi) Seagull Books.
Devi, Mahasweta. 2003 Chotti Munda and His Arrow. Blackwell.
■日本語で読めるその他の文章
1983 "Displacement and Discourse of Woman." In Mark Krupnick, ed., Displacement: Derrida and After.
pp. 169-195. Theories of Contemporary Culture, (Center for Twentieth Century Studies, University of Wisconsin-Milwaukee), 5. Indiana University Press.
=1986 (ガヤトリ・C・シュピヴァク, 鵜飼 哲・武内 旬子 訳)「転位と女のディスクール」"現代思想" 13(1) (1985年1月) pp. 220-245.
=1997 (長原 豊 訳)「置き換えと女性の言説」"現代思想" 25(13) (1997年12月、特集=「女」とは誰か)pp. 172-207.
1984 "Marx after Derrida." In William E. Cain, ed., Philosophical Approaches to Literature: New Essays on Nineteenth- and
Twentieth-Century Texts. pp. 227-246. Bucknell University Press / Associated University Presses.
=1985 (山崎 カヲル 訳)「デリダ以降のマルクス」"思想" 732 (1985年6月) pp. 1-23.
1987 "Speculations on Reading Marx: After Reading Derrida." In Derek Attridge , Robert Young, and Geoff Bennington, eds., Post-Structuralism and the Question of History. pp. 30-62. Cambridge: Cambridge University Press.
[抄訳]
=2000 (福井 和美 訳)「概念-隠喩としての貨幣: マルクス『経済学批判要綱』を読む」"環" 3 (2000年10月、特集: 貨幣とは何か) pp. 100-121.
1988 "Can the Subaltern Speak ?", C. Nelson & L. Grossberg eds.Marxism and the Interpretation of Culture, University of Illinois Press.=19981210 上村 忠男 訳,『サバルタンは語ることができるか』,みすず書房,145p. ISBN:4-622-05031-5 2415 [amazon]/[bk1] ※ *f
1992 "Acting Bits/Identity Talk." Critical Inquiry (Summer 1992), 18(4) pp. 770-803.
Issue is entitled "Identities," edited by Kwame Anthony Appiah and Henry Louis Gates, Jr.
=1993 (小野 俊太郎 訳)「断片を演じる/アイデンティティの話」"みすず" 1993年7月号、10月号
◆Judith, Butler 1990 Gender Trouble : Feminism and the Subversion of Identity, Routledge(=19990401, 竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社).
(p271)
(*18)仮装に関するフェミニズムの文献は広範囲にわたる。ここでは、表現およびパフォーマティヴィティの問題群との関係に限定して、仮装を分析する。つまりここで論じられる問題は、仮装は本物や真正さと理解されている女性性を隠蔽しているものなのか、それとも、女性性やその「真正さ」に対して疑義をはさむ手段なのかということである。仮装概念をフェミニストが応用することについて詳細に論じたものとして、以下の論文と著作が挙げられる。Mary Ann Doane, The Desire to Desire: The Woman’s Film of the 1940’s (Bloomington: Indiana University Press. 1987) [邦訳メアリ・アン・ドーン『欲望への欲望―1940年代の女性映画』松田英夫監訳、勁草書房、1994年], “Film and Masquerade: Theorizing the Female Spectator,” Screen. Vol.23, nos.3-4 (September-October 1982), pp.74-87; “Woman’s Stake: Filming the Female Body,” October, vol.17 (Summer 1981). ガヤトリ・スピヴァクは以下の論文で、ニーチェとデリダに依拠して、偽装としての女という挑発的な読みを提起している。 Gayatri Spivak, “Displacement and the Discourse of Woman,”in Displacement: Derrida and After, ed. Mark Krupnick (Bloomington: Indiana University Press, 1983). また次の論文も参照のこと。 Mary Russo, “Female Grotesques: Carnival and Theory” (Working Paper, Center for Twentieth-Century Studies, University of Wisconsin-Milwaukee, 1985).
◆Hacking, Ian 1999 The Social Construction of WHAT ?, Harvard University Press(=20061222, 出口康夫・久米暁訳 『何が社会的に構成されるのか』岩波書店).
(pp16-17)
初期の女性解放運動の闘士たちは、男女間の権力関係を改革する必要があると確信していたが、一方で、性(セックス)の違いは、その権力関係が不可避のものだという印象を与えていることも承知していた。そこでフェミニストたちは、「ジェンダー」という言葉を動員したわけである。ここで、先の(1)から(3)までのテーゼに出てくるXを「ジェンダー」で置き換えてみよう。フェミニストは、まず、(1)「ジェンダーにまつわる属性や関係は、かなりの程度偶然の産物である」と、われわれに納得させる。そのうえで、フェミニストはさらに、(2)「それらの属性や関係は、ひどいものだ」とか、(3)「現行のジェンダー的属性や関係が、まったく無くなるか、少なくとも根本的に変えられたならば、女性は特にそうだが、さらに言えば人間はみな、いvまよりも大分ましな人生をおくることができる」といった主張を行うのである。このような仕方で、確かにジェンダー論をかなり見通しよく、まとめることができる。だが問題はそう簡単ではない。(1)から(3)までの一連のテーゼは、物事をかなり単純化しているきらいがあることも認めざるをえないのである。たしかにフェミニストと言ってもさまざま。構成というアイディアを真剣に用いているフェミニストもいれば、それを単に弄んでいるフェミニストもいる。だが、いずれにせよ、そのようなフェミニストの間にも、実は理論的な立場の違いが数多くあるのである(*9)。
(pp81-82)
(*9)この点に関しては、エリザベス・グロスが具体的な名前を挙げている(Grosz 1994, 15-19)。彼女は関連する論者たちを三つのグループに分ける。そして、第一のグループは平等主義者、第二のグループは社会構成主義者とそれぞれ呼ばれる。ここでの社会構成主義者に入るのは、「おそらく、今日[1994年のこと]のフェミニズムの理論家の過半であろう。すなわち、ジュリエット・ミッチェル、ジュリア・クリステヴァ、ミッシェル・バレ、ナンシー・コドロウ、マルクス主義的フェミニストたち、精神分析的フェミニストたち、ならびに主観性の社会的構成という概念にコミットするすべての人たちである」。「平等主義と社会構成主義とは対照的に、第三のグループははっきりとそれと識別することができる。このグループに所属するのは、ルース・イリガライ、エレーヌ・シクス、ガヤトリ・スピヴァク、ジェーン・ギャロップ、モワル・ガーテンス、ヴィッキィ・キルヴィ、ジュディス・バトラー、ナオミ・シュール、モニック・ウィティツグ、その他大勢である。彼女らに言わせれば、女性の心理的、社会的存在のあり方を理解するには、身体というものが欠かせない。しかし、その身体は(歴史を持たず、生物学的に与えられた、文化による影響を受けない対象)とは、もはや見なされていない。彼女らが問題にしているのは「生きられた身体」、すなわち、ある特定の文化において、一定の仕方で表現され、用いられている限りでの身体なのである」。
◆竹村和子, 20010220, 「「資本主義はもはや異性愛主義を必要としていない」のか――「同一性の原理」をめぐってバトラーとフレイザーが言わなかったこと」上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房:213-253.
(p222)
したがって「同一性の原理」の遵守は、たとえ同一性が社会構築されたものではあっても、同一性を成立させている関係機構を固定化することによって、つまり同一性に不安を与える「外部」を設定しない─あるいは「構造的外部」にしてしまう─ことによって、同一性を社会的な「本質主義」に擦りかえていく(4)。ひとは一過性の出来事として異性に惹かれる、あるいはたまたま偶然に死ぬまで惹かれつづけるのではなく、すべての人間が異性愛者であること、ありつづけること─異性愛へのアイデンティフィケーション(同一化)─を自然化し、本質化しなければ、異性愛主義は崩壊する。したがって異性愛主義を遵守する制度においては、社会構築主義と本質主義は相反的な関係にあるのではなく、共犯的な関係に形態変容していると解釈することができるだろう。
(pp247-248)
(*4)ジュディス・バトラーは"construcyionism"と"constructivism"を区別して、前者を擁護し、後者を退けている(Bodies That Matter)。バトラーによれば、後者(constructivism)の見解では、たとえ人間主体を文化や言語によって社会構築されたものと考えていても、その構築を固定したものとしてとらえるので、結局は「言説的な一元論や言語中心主義」に帰着する。いわば、文化や言説や権力による決定論になってしまうと言うのである。同様のことをガヤトリ・C・スピヴァックは、社会構築主義は現在の資本主義社会を本質(社会一般)とみなす一種の本質主義だと批判している("Subaltern Talk")。
(pp229-230)
だがわたしたちは、まだそれがどこへ向かって進んでいくのかを見定めることはできない。それが資本主義が経験する「恐慌」と同様に、異性愛主義を早晩、潰滅的に崩壊させていくのか。だが「恐慌」にしたところで、少なくとも一九二〇年代末から三〇年代にいたる世界恐慌によって資本主義は壊滅させられたわけではなく、せいぜいがケインズ流の社会資本の導入がおこなわれた程度で、マルクスが言うような「〔資本主義とは異なった〕あらたな生産様式」や「国民的な規模の協同組合企業の拡張」(Marx[1959-61,3:431])へと変容していったわけではない。むしろ資本主義は、ガヤトリ・C・スピヴァックが批判しているように、南北問題と性差別と異性愛主義を複雑に交錯させたさらに巧妙な搾取をもたらしていると言える(*8)。
(p248)
(*8)第三世界とフェミニズムの問題をマルクス主義の再考で論じた興味深い論文に、Spivak, "Ghost Writing"がある。これはJaques Derrida, The Specter of Marxへの応答でもある。