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『傷ついた物語の語り手――身体・病・倫理』

Frank, Arthur W. 1995 The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, The University of Chicago Press.
=20020215 鈴木 智之 訳,ゆみる出版,326p.

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last update:20150801

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■Frank, Arthur W. 1995 The Wounded Storyteller: Body, Illness, and Ethics, The University of Chicago Press. ISBN-10: 0226259935 ISBN-13: 978-0226259932 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ =20020215 鈴木 智之 訳,『傷ついた物語の語り手――身体・病・倫理』,ゆみる出版,326p. ISBN-10: 4946509291 ISBN-13: 9784946509292 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ sm

*2008/04/19 アーサー・フランク研究会第2回報告資料

■内容

・「BOOK」データベースより
 フランクの言葉は、自らの重篤な病いの経験に根ざしながらも、他の多くの病いの語りと呼応し、この時代の諸々の思考の流れと交錯していく。時にそれを取り込み、時にはそれに反発しながら、経験をひとつの社会的な思想へと結実させていくプロセスは、そのまま著者の闘いの軌跡でもある。

・「MARC」データベースより
 著者自らの重篤な病いの経験に根ざしながらも、他の多くの病いの語りと呼応し、交錯していく思考の流れ。病む人々を傷ついた物語の語り手として描き出し、それぞれの個人が自身の真実を自身の言葉で語る「声の倫理」。

■訳者略歴(「BOOK著者紹介情報」より)

 鈴木 智之(すずき・ともゆき)
 1962年東京都生れ。慶応義塾大学社会学研究科博士課程単位取得退学。帝京大学文学部講師をへて、法政大学社会学部教員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次

前言
訳語の選択について
第1章 身体が声を求める時大谷 通高
脱近代の病
寛解者の社会
脱近代的責任
本書について
第2章 病んでいる身体の諸問題大谷 通高
身体の諸問題
身体の四つの理念型
第3章 物語への呼びかけとしての病い植村 要
語りの難破
中断と目的
記憶と責任
自己を再請求する
語りの難破と脱近代の時代
第4章 回復の語り――想像界の中の病い大谷 通高) 回復のプロット
修復可能な身体
自己物語としての回復
回復の語りの力とその限界
第5章 混沌の語り――沈黙する病い阿部 あかね
プロットの欠落としての混沌
身体化された混沌
混沌の自己物語
混沌の物語に敬意を払うこと
第6章 探究の語り――病いと伝達する身体阿部 あかね
旅としての病い
探求の三つの顔
伝達する身体
自己物語としての探求
自己物語の三つの倫理
探求から証言へ
第7章 証言中田 喜一
脱近代の証言
身体の証言
苦しみの教え
語りの倫理
循環とリスク
第8章 半ば開かれたものとしての傷中田 喜一
苦しみと抵抗
解体した自己
身体‐自己を再生する
訳注
訳者あとがき
原注
索引

■引用

 「私は、病いについての支配的な文化的観念が、受動的なもの――病む人を病気の「犠牲者」、ケアの受け手として捉える見方――から、能動的なものへと移行することを願っている」〔Frank 1995=2002:3〕
 「病む人は、病いを物語へと転じることによって、運命を経験へと変換する。身体を他の人々から引き離す病気が、物語の中では、互いに共有された傷つきやすさの中で身体を結び付ける苦しみの絆となる」〔Frank 1995=2002:3〕

 
 
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第1章 身体が声を求める時

1章では、病いの物語を近代医療を記述媒体とせず、個々の身体を媒体として語るために、その基本的視座を確立させることが目的となっている。


病いにかかるということは、病いにかかる以前の生の「目的地や海図」を喪失すること。
⇒ 病む人が新たな生を生きるためには、新しい「目的地や海図」を必要とする。新たな目的地と海図を獲得するために、病む人は病いを物語る。
◆ 身体化された物語
病いは物語の主題としてだけでなく、物語の条件としてあり、それは傷ついた身体を通して語られる物語である。病む人が語る物語は、その人々の身体から現れ出るもの。
● 物語の個人的な側面――いかにして、病いの物語を、病める身体を通して語られたものとして意味づけることができるのか。
⇒ 物語の中に病む身体を表すことは、個々人に課せられた仕事であるが、物語は社会的なものでもある。
● 物語の社会的な側面――物語は他の誰かに対して語られるということ。
人々が自分ひとりの力だけではその物語を作り上げることができないということ。
本書の主題 脱近代の病い
近代と脱近代の分水嶺を越える旅として病いがある。
◆ 病いについての近代的経験
病についての近代的経験は、治療のための複合的な組織を含めた専門技術体系によって打ち負かされてしまうところに始まる。
● パーソンズの「病人役割」
病人に対して社会が向ける中心的な期待 ⇒ 医師のケアに身をゆだねること。
医学的ケアを受ける義務 = 語りの譲り渡し。
病む人間は、単に支持された医学的治療法に従うことに同意するだけでなく、同時に自らの物語を医学用語で語ることにも暗黙のうちに同意することになる。医学的問いかけは個々人の経験や感覚を医学的報告の中に位置づけられることを要求する。病む人の物語は医者が発した言葉の繰り返しに大きく依存。
医療従事者が、患者の病いの経験に医療の専門用語を押し付けることで、その経験を植民地化する。
◆ 病いについての脱近代的経験
病む人が医学的物語によって語りうる以上のものが、自らの経験に含まれているということを認識するところから始まる。病いの経験は、医学領域がおよぶ範囲に限定されて存在するわけではない。脱近代社会において、人々が自分自身のものとして認知することのできるような声を必要としている。
脱近代とは、自分自身の物語を語る能力が要求される時代。
近代では医学の物語が優越的な地位を占め、その他の物語は二次的なものとなる。脱近代の分水嶺は、人々の自分自身の物語が二次的なものではなく、自らにとって一義的な重要性を持つものとして語られるときに踏み越えられる。
⇒ 脱近代の病いは、一つの経験であり、身体と自己、さらには人生の海図が導いていく目的地について思いをめぐらせること。

寛解者の社会
● 寛解者:実質的には良くなっているが、完治したとはみなされない人々の総称。
何らかの癌を患った人、心臓リハビリテーションのプログラムで生きている人、糖尿病患者、アレルギーや環境への過敏反応があり自己規制が必要な人、舗装具や身体制御を身につけている人、慢性疾患患者、障害者、依存や嗜癖からの回復過程にある人、良い状態を保つことの喜びを共有する人たち、その家族。
近代医療の技術的達成が寛解状態を生きることを可能にしているが、病後を生きる意味にかんする人々の自意識は脱近代的なものである。
近代の社会では病気と健康の二項対立で捉えられるが、寛解者の社会では、健康と病気は相互浸透しながら移行する変化のプロセス。

医療による「病いの経験」の植民地化
● 近代医療は患者の身体を治療の続く間は自らの領土であることを患者に要求する。寛解者の場合、定期的に医療による植民地化が行われる。
⇒ 寛解者として生きることを請求することが、脱近代的=脱植民地化。
● 近代医療の達成のために、病む人の個別的経験が一般化されていく。「病人役割」を演じている病む人間は、自らの個人的な苦しみの個別性を、医学の一般的視点に還元することを受け入れる。近代ではこの還元が問題とされることはなかった。
⇒ 還元の代償は何か?
治療とその試みの代価として、病いの経験の植民地化がなされることとなった。しかし、病いが急性から慢性へと移行するとともに自己認識も推移する。長い時間、病人である者は、自分自身の苦しみがその個人的な個別性の中に認識されることを望む。
⇒ 脱近代において、病む人たちは医療による病いの経験の一般化に対して不信を表明するようになる。寛解者の社会のメンバーは、医学の世界を表から裏まで知り尽くし、医学的な語りの中での自己の位置を問い直す。
医学雑誌の支配的テクストは、苦しんでいる人を必要とするが、病む人の苦しみを認知することはない。病いは医療に従属することで、私秘化されてしまうために集合的な力を確立することができない。寛解者の社会のメンバーは、医学的テクストの構成のなかで「臨床的素材=物」に還元されることを拒み、彼らは自らの声を要求する。教材として関与するのではなく、教育的役割として関与しようとする。
⇒ 病いの一般的な脱植民地主義の形態として、語られるのではなく語ること。表象され、完全に消去されるかわりに、自らを表象することの要求がある。
しかし、病む人は医療の現場で語ることができない。寛解者の社会で、互いに病いについて語るようになり、病いの物語が具体化されていく。
脱近代の病いの物語は、人々が自分を「統一的で一般的な視点」の外部に位置づけうるように語られる。人々にとって、自らの物語を専門家の権限が届かないところに移行させるということは、自らの個人的な責任をより深いところで引き受けるということを意味している。寛解者の社会では、脱植民地的な存在としての病む人々は、病いが自己の人生の中で持つ意味に対して責任を負わなければならない。

脱近代的責任
● ギデンスの「再帰的企図」
現代における自己を「個人がその責任を担う再帰的な企図」として規定。
近代性は、人々が自分の人生を変えていく力をもっていることを前提としており、そこでは哲学的な自己審査が日々の実践における課題となる。ギデンスのいう「再帰的企図」とは、自己を審査する課題を担おうとする人々を描き出す試み。
⇒「再帰的企図」は二つの異なる種類のアイデンティティを生み出しうる。
● バウマンの「つかのまのアイデンティティ」、「その日限りのアイデンティティ」
この自己は、何よりも自分自身に対して責任を負うもの。その責任は自らが認知した自己の利害関心の領域に限定される。しかも他者への責任は自己の利害と関与する期間に限定される。
● レヴィナス
他者のために生きるということは、模範的な善の行為ではなく、自らの生が人間としてそのような生き方を求めてしまうがゆえに他者のために生きるのである。自己は他者に対する関係のなかで人間的なものになる。
⇒ 他者のために自らを犠牲にせんとする自己ほど、責任を「追って通知があるまで」のものとする感覚から遠くはなれたものである。
世俗的な近代の文化の中では他者のために生きるという理想が見失われており、それを再定義することが新たな出来事になっている。

病いの責任
近代において、病いに対する責任は、患者として従順であることに還元。
⇒ 他方で医者は個々の患者よりもむしろ専門職規範に対して責任を負うことになる。
⇒ 医者が職業的規範に忠実であることで、患者に対する最大限の責任が達成されることになる。
職業的規範とは、真理に対して責任を負うもの。
病いにおいて近代が受け入れてきた真理とは、 ⇒ これらの真理を受け入れることは、患者が医療に物語を譲り渡すことにつながるもので、専門職実践の土台。
そして、実践に対する要求・期待の高まりが生じる。しかし、要求が高まる一方で、真理がその約束どおりの成果をもたらす可能性に対して、次第に信頼が薄れていき、専門職に懐疑の眼差しが向けられるようになる。また、専門職と一般人との間の緊張は、期待をめぐる葛藤への反映だけでなく、各グループの期待の内部での葛藤からも影響をうける。
⇒ こうして、近代医療への語りの譲り渡しを拒絶することが、反省的な自己点検という明確な行動へと転じ、責任の遂行へと繋がっていく。

病いの個人的責任の遂行
病いの責任の遂行は、普遍的真理ではなく、「本当の現実」である「常識的世界とそこに生じる義務」を肯定することから始まる。
⇒ 常識的世界への責任の感覚によって促され、他者のために生きる一つの生き方を表すこと。自己のためだけでなく、自らの後にしたがう他者を導くために物語を語ること。
海図を再構成するという経験の証人となること。
証人となることは、共に生きられた世界と他者に対するひとつの義務。

物語ることの相互性
物語は、自分自身に対して語られるものであると同時に他者のために語られるもの。
語り手は自らを他者の自己形成の導きとして差し出す。
⇒ その他者がその導きを受けることは、語り手を承認するにとどまらず、価値づけることにもなる。
⇒ 語り手と聞き手のそれぞれが他者のための物語空間に入っていくことになる。
物語とは、他者の生に働きかけることで、自らの生を変えていこうとする試み。
かくして、物語は証言の要素をそなえている。

病いの物語
病いの物語の語りは、医学が描き出すことのできない経験に声を与えようとする試み。
病いの物語は、個々人のなかで実現されるが、同時に社会的なもの。
近代医療が病む人に声を与えたが、声を出すことは医療専門職の支配とそれへの語りの譲り渡しにかかわる諸前提のうちには含まれ得ない。声が聞こえてくるということから、その越境の事実を知る。
⇒ 自らの苦しみの経験を取り戻すことは、自身の病いの経験を自らの責任から引き受けることを意味する。
⇒ 苦しみを証言へと転じようとすることで、語り手は道徳的行為へと参与する。身体と声と病は、脱近代社会において倫理の領域へ高められる。

脱近代の固有の倫理
偶発性と傷つきやすさのなかに身を置くこと。
そうしないことは、自らを他の人々のために存在する人間として捉えるための土台となる結びつきを切断することになる。
社会科学は、その見守るという振る舞いへの責任を証人行為として引き受けなければならない。それが人間として縛ること。
責任は身体とともに始まり、その身体とともに終わるというのが本書の前提。
見守ることも証人となることも身体と始まり、その身体を縛る。

本書について
偶発性
自らの行為が他者の行為に依存し、にもかかわらずその他者の行為を統制しえない時に、なお行為の経過はいかにして安定的なものとなりうるのか、という問題。
身体を他者として考えたときに、どれほど私たちが自己の身体に依存しているか。

物語
物語は、生の移ろいに合わせて変化し、経験も変化するもの。
物語について考えるのではなく、物語とともに考えること。
物語について考えることは、物語を内容へと還元し、その内容を分析することであるが、物語とともに考えるとは、物語をそれだけですでに完全なものとして受け取ること。
物語が自分自身に影響を及ぼすことを経験し、その影響の中に自らの生に関する何らかの真実を発見すること、物語は私が物語とともに理論化するための素材。

証人の社会学
認識を導くための枠組み作りが、物語を聞くことの助けになる。
枠組みは、さまざまな語りの類型をより分けることを可能にする。
基本的な生の配慮が差し向けられているのか、物語はいかに身体との特定の関係を要求しているのかを認識するための手助けとなりうる。このような枠組みは、それ自体において真実である物語への注意を高めるためだけのもの。

本書の目的
物語とともに生きる最終的な要求は個人の中に経験を沈殿させること。
常識世界とそこでの義務を確認する。

 
 
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第2章 病んでいる身体の諸問題

本著では病む身体にいかなる言語を押し付けようとしているのか。
この章では、その問いにこたえるために、まず、一般的な身体の問題を規定し、それらの問題に応答する仕方を明らかにした後、そこから四つの身体の理念型を打ち立て、そのなかの一つである〈伝達する身体〉を身体の理想型として提示している。

一般的な身体問題
身体の問題は行為の問題とリンクする。
4つの一般的な身体の問題として、「統制」、「自己とのかかわり」、「他者とのかかわり」、「欲望」がある。身体?自己が、この4つの問題に対応して応答するその仕方は、一続きの、またはある幅のなかで可能な応答として提示される。そして、それは四つの連続的な座標軸を生み出す。それは〈規律化された身体〉、〈支配する身体〉、〈鏡像的身体〉、〈伝達する身体〉。
四つの問題とそれに対する四つの反応軸、そして四つの理念的な身体像から構成。


身体の諸問題
統制
統制の可能性によって自己を規定。
病いとは統制の喪失、そしてそれを生きていくという事。
統制の問題は、「予測可能性」から「偶発性」までの連続的な広がりに沿って身体が生きているということ。統制を喪失したら、それを回復するように努めることが期待され、そうでない場合は喪失を隠すように求められる。
⇒ 統制の喪失はスティグマを生み、統制の欠落を管理するための特別なワークが要求される。
統制の欠落の管理
統制を喪失した当人とその当人の周りにいる人の当惑を防ぐために、統制の欠落を管理する必要がある。病いのしるしを明らかにするのかについて責任を負っている、という事実。   
脱近代的振る舞いとしての「カミングアウト」
スティグマを押し付けられた身体?自己であることを肯定することが「カミングアウト」。偶発性への対処=統制についての統制を行っていることを人に宣言すること。

人は生理的水準でどこまでが予測可能であり、どこからが偶発的なのかに依存するだけでない。生理的機能を、人がいかに選択し解釈するのかにかかっている。統制の喪失への反応は、身体に関するその他の行為の問題がどのように管理されるのかという問題と繋がっている。

身体とのかかわり
身体と自己の関係の問題。
自己と身体は、結合的であったり分離的だったりする。 近代医療はその結び付きを後退させるもの。
近代医療の外部に位置する治療者は、患者に対して自分が感じていることへの感受性を磨き上げ、その感覚を信頼することをする。
それは脱近代の分水嶺を越えたことを示す一つの指標。

他者とのかかわり
自己-身体と他者とのかかわりの問題。
自己の行為のために他者とのかかわりを規定する必要があるという問題は、身体として存在するという共有された条件が、いかに生きている者たちの間での共感的関係の基礎となるのかという点に関わっている。
● 「互いに開かれた身体」
互いに開かれた関係とは、他者がわたしの外部にある身体として「私に対峙する」ものだとしても、他者は私にかかわらなくてはならず、私もまた他者にかかわらなくてはならないと認識する関係。
病む人は、自らの周囲、自らの前後に、同じ病を経験し、その人自身の完全に個人的な苦しみに苦しんできた他者を見いだす。物語を語るということは、互いに開かれた身体が、自らの痛みを差し出すと同時に、何がその身体を悩ませているのかを他者が理解してくれるという保証を受け取るためのひとつの媒体である。ゆえに物語の語りは互いに開かれた身体の特権的な媒体となる。
● 「閉ざされた身体」
開かれた身体の対極にあるものとして個々に閉ざされた身体。本質的に他者から隔てられ、孤立したものとして理解する身体。
近代医療の管理システムは他者との接触を排除してしまうだけの距離を生み出している。患者は医療スタッフに対して、患者同士の集団としてではなく、個々ばらばらに関係を持つ。個々人の業績を求める市場や教育において閉ざされた身体はうまく接合する。
「互いに開かれた身体」は、他者に対するこれとは異なった関係のうちに自らを位置づけるという倫理的な選択を示している。それは、他者の諸身体のための身体となる、という選択。痛みの共同体の中に自己と身体を位置づけるということ。
「開かれた身体」は、互いのために存在する。互いのために生きることの意味を発見するために存在するもの。
他者のために生きることは、その行為について反省してみることから離れてはなされえない。

欲望
欲求(desire)を、欲望(need)と要求(demand)の三者関係のうちに位置づける。

 欲求:肉体的な現実。
 要求:欲求以上のものを請い求める。
 欲望:常により以上のものをもとめ、充足することができないもの。欲望は、何らかの対象に対する要求として自らを表現せざるをえない。

欲望に関する身体の問題は、「欲望を欠落させるに至った身体」と、「欲望を産み出し続ける[=産出的な]身体」の間に連続的な座標軸を構成する。病む人の語る脱近代的な物語の筋立ては、欲望を中心に構成される。
● 「欲望の欠落」
    病める身体は欲望することをやめてしまう。諦観するようになる。
欲望の喪失は自己と他者への無関心と接合する。
● 「産出的な欲望」
痛みの共同体は、他者の身体のための身体となる倫理的選択に基礎付けられて、産出的な欲望を表現する。
欲望の探求により自己愛を深めることができる。欲望が反省の対象となることによってはじめて、欲望の対象に対する高次の責任を引き受けるための通路が開かれる。人は病になっても自己愛を失わないばかりか、病気であることを所与として共有する。そして人間性への愛を持ち続けることが可能になる。

身体の四つの理念型
〈規律化された身体〉
規律化された身体-自己は、まず何よりも自己管理 (self-regimentation) の行為のなかで自らを規定する。
行為に関する重要な問題として、統制。規律化された身体は、統制能力の喪失によって深刻な危機を経験。
その反応として、
⇒ 治療のための生活管理 (regimens) を通じて予測可能性を確保しようとするもの。
     その生活管理のなかで、身体は受け入れがたい偶発性を埋め合わせようとする。生活管理を追及することは、身体を治療されるべき「それ」へと変形させ、自己はこの「それ」から切り離されたものとなる。
規律化された身体の理念的形態においては欲望を欠落させている。また、規律化された身体は自己の物語を語りたがらない。その物語は生活管理の実践を通じて語られる。〈規律化された身体〉は生活管理を正しく行うことにあり、生活の遂行それ自体が高い重要性をもっている。
⇒ しかし生活管理が喜びをもたらすようになると、欲望が産出的になり、規律化された儀礼的行為の実践以上のものが生まれる。しかし、それは自虐的な欲望。
規律化された身体から脱却するには、その身体と和解し身体との新しい関係を築くこと。

〈規律化された身体〉とは、個々に閉ざされた状態へと自らを囲い込むこと、「それ」と化した身体から[自己]を切り離すこと、何らかの統制の手段の回復を必要とすること、あるいは欲望を喪失すること。

〈鏡像的身体〉
鏡像的身体は消費行為のなかで自らを規定する。
身体を消費の道具として、その対象にもする。
健康な身体のイメージのなかで、自らの身体を消費行為により作り直そうとする。「規律化された身体」が、内なる指揮官の命令に従って行動するのに対して、「鏡像的身体」は内面化された一組の理想的イメージにあわせて身体の手入れをする。治療がうまくいくかどうかよりも、目に見える副作用に対する不安のほうに関心。
鏡像的身体も、偶発的な出来事を恐れ、予測可能性を求める。
鏡像的身体は、他者からの行動期待のうちに、自己の追求すべき道筋を見いだす。
鏡像的身体は欲望を産出するが、その欲望は個々に閉ざされたもの。

鏡像的身体において、健康と病との対象において身体を理想化し、理想化された健康との対比において病を憐れなものとしてえがく。鏡像的身体は、自己を愛してはいるが、醜さを含まない自己愛。

〈支配する身体〉
支配する身体は力によって自らを規定する。
支配する身体は偶発性を前提としながら、それを受け入れようとしない。規律化された身体が、その偶発性に対する恐れを、生活管理によって予測可能性に転じようとするのに対して、支配する身体は偶発性への怒りを他者に向けようとする。病を統制できない代わりに他者を統制しようとする。
支配する身体は、身体と意識との分離と欲望の欠落という性格を規律化された身体と共有している。しかし、決定的な違いとして、支配する身体は、他者に開かれている。
⇒ その開かれた関係の倫理的姿勢は、他者のためではなく、他者に敵対してある。

〈伝達する身体〉
伝達する身体は承認によって自らを規定する。
規律化、鏡像、支配の身体は、いずれも理念型。しかし、伝達する身体?自己は、単なる理念型にはとどまらず、同時に理想型でもある。伝達する身体は、身体にとって倫理的理想を提示する。
「伝達する身体」
⇒ 伝達する身体は、その偶発性を生命の基本的な偶発性の一部として受け入れる。
⇒ 伝達する身体は、身体?自己を統一体として存在するものとして理解する。それは相互依存的で深く絡み合い、切り離すことのできないものとしてある。
⇒ 身体組織内の問題が生の全体のうちに浸透してくる。
「身体と自己との」結び付き、及び偶発性は、互いに開かれているという性格と、欲望を生み出し続けるという性格を伴う。
⇒ 身体の偶発性と結びついている身体が、外に向かって開かれた関係へと転じるときに、自らの苦しみが他者の身体のうちに反映する。
そして、身体が欲望を持ち続けるときには、人は他者の苦しみを和らげることを欲し、それを必要とする。伝達する身体の互いに開かれた欲望は、身体が決して自分ひとりのものではなく、他の身体との関係の中で人間性を培っていくものを示す。
⇒ 伝達する身体は、他者のためという倫理的理想を具現。
他者のために存在する身体とは、分かち合う身体 (communing body) のこと。
分かち合うことは、伝達 (communicative) であり、それは伝えられる内容の問題よりも、協調 (alignment) にかかわるもの。協調が欠けていれば、メッセージは適切に伝達されない。

理想型としての〈伝達する身体〉
病いにおける倫理的人間としての責任の中には、自己と他者が病いのなかに自らの姿を見いだし、それを自分自身のものとしなければならない状況を良い物語にするということが含意されている。
伝達する身体は他の身体とは異なり、物語を他者と分かち合う。物語は他者を、その中に自分自身の姿を見いだすように招き入れる。それにより、分かち合いが身体の中に生まれる。互いに結びついた身体?自己のかかわりと、互いに開かれた他者とのかかわりが合流することによって生まれる、伝達する身体?自己の核心を表す。
生命にとって逃れることのできない偶発性としての苦しみと、他者の身体にかかわりたいという産出的欲望がもたらす奉仕とを結びつけること、身体の倫理的理想の表現。
伝達する身体を倫理的課題を担うものとして提示することで、身体の倫理学を導き出すこと。反省的な自己点検のためには、それを基準として身体?自己の発展が測定される理想像が必要。

章の概説
3章:様々な物語に目をむけ、病いの中で物語の役割と脱近代の時代におけるその文脈について検討。
4章から6章:3つの基礎的な病の語りを提示。ここでは、語りが、身体-自己が自らを表現し、反省的な自己点検を行うための媒体として示される。
さまざまに異なる身体は、さまざまに異なる病の語りと「選択的親和性」を有している。選択的親和性は決定論的なものではなく、身体は、身体の語る物語のなかで――単に再現=表象されるばかりでなく、また創造されながら――具現化されていく。具現化は再帰的であらざるをえない。ある種の物語を語ることで倫理的な選択がなされ、その選択が翻って物語を生成させる。伝達する身体へと至る道は、物語を語ること。
終章:証言と倫理について論じ伝達する身体を、病とともに生きるための倫理的理想として提示する。

 
 
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第3章 物語への呼びかけとしての病い

 物語は、自己を描きだしていくだけではなく、自己が存在するための媒体である。前章では、身体-自己の身体の部分を強調してきたが、本章では自己の方に力点を置く。特にここでは、自己と物語を病いという観点から考察する。そして、本章の結びでは、病いの物語と脱近代との親和性を探求する。


 語りの難破
 重い病いを患うということは、二つの意味において物語へと呼びかけることである。ひとつは、病いによって、自分は人生のどの地点にありどこへ向かおうとしているのかという感覚を損なわれてしまった時には、物語によってその損傷を修復しなければならない。物語とは、海図を描き直し、新しい目的地を見いだすための方法である。もうひとつは、病いの物語は、医療者や保健所の職員、雇用主や職場の同僚、家族や友人たちに語られねばならないという直接的なものである。病む人々が物語を語りたいと思うか否かに関わらず、病いは物語を要求してしまう。
 物語は、疲労・不安・痛み・恐れを伴いながら語られ、それらの条件は、病む人を「難破」のメタファーへと導く。このメタファーの延長線上では、物語を語ることが難破船の修復作業として描きだされる。修復は、嵐の後で何が生き残っているのかを調べ上げるところから始まる。
 化学療法を受け始める前夜の若者から聞いた物語では、その海図の上には、ありうべき目的地のひとつとして癌が描かれていた。しかしそれでもなお、彼は少なくとも二つの理由から、語りの難破を経験していた。ひとつは、癌が空想の中で予期されていたとしても、現実はまた別のものであり、時には、まったく物語を持ちえないということよりも、この現実との接続の悪さの方が厄介なことになる。もうひとつは、時間の感覚を失ってしまったことである。聴き手も語り手も、語りに対して、過去が現在へと導かれ、その現在が予見可能な未来を準備することを慣習的に期待しているが、現在が過去から導きだされると思われていたものとはくい違ってしまったことで、未来を考えることが不可能になってしまうのである。
 物語を語ることは他者に対して物語ると同時に自分に対しても物語っているのであり、語りの難破を抜けだす道は、シェイファーが「自己物語」と呼ぶ物語を語ることにある。重い病いは、自己物語を通して、他者との関係性の確認、自己の確認を要求する。シェイファーの考察は、その二つがいかに相互的に進行していくのかを描いている。
 「自己とは語りである」というシェイファーのテーゼにかかわる文献から、病いの物語を聴くということにかかわるいくつかの主題を引きだすことができる。

 中断と目的
 病いとは永続的な中断とともに生きることである。中断された物語であるナンシー・メアズの自己物語における「コーラ」をこぼしたというメタファーは、メタファーが病いの物語の中でいかに働くのかを例示している。医師・患者間の対話においては、「病歴の聴取」として臨床上の課題として再定義されることで、日常的な礼儀に関する慣習が棚上げされて、中断が正当化される。
 中断された人生の語りは、新しい種類の語り方(ナラティヴ)を必要とする。メアズは、語りは、すっきりした結末に向けて突き進んでいくという欠点を抱えている、と述べる。「病いによる中断」は、語りをその結末から逸脱させ、医者も患者も居心地の悪さを覚える。
 病いの物語は二重の課題に直面する。語りは、病いによる中断によってばらばらになった秩序を回復しようとすると同時に、その後もこの中断が継続するという事実をも語らねばならない。このことは、その物語には、すっきりとした結末がふさわしくないことを示している。
 中断された語りは、多くの新たな目的を見いだす。これについては、また後の各章で考察するが、最も一般的な言葉は、ジュヌヴィエーヴ・ロイドによって示されている。ロイドは、それが再び繰り返されるとすれば、そのすべてを伴う形でしか生起しえないものとして、起こっていることのすべてを自己の存在に不可欠のものと見なすことである、という。

 記憶と責任
 病いという中断、あるいはそれがさらにもたらすであろう中断とは、記憶の解体である。それは、人生のつながりに関する一貫性の感覚であり、デヴィッド・カーが「未来・現在・過去を包摂する全体」と呼ぶところのものである。
 記憶の解体は、道徳的問題である。病いを患う現在は、過去に思い描いていたものとは別のものになっており、記憶は語りの中で一貫性を備えたものに再構成される。記憶は、ただ再構成されるだけのものにはとどまらず、語りを選択して作りだされるのである。そこでは未来もまた作りだされていくのであり、その未来には明確な責任が伴うことになる。
 語りのはじめの時点で、あらかじめ主体あるいは自己が与えられているのではないということが、物語の道徳性にとって不可欠の条件となる。もしも、主体がはじめに与えられているのだとすれば、何ひとつ学ばれることはなくなってしまう。
 人がその状況を受けとめて応えるためには、何でもいいから物語を語るということではなく、よい物語を語らねばならず、それが病む人が上手に病むための手段である。よい物語が物語的真実を保つためには、それが実際に生きられていく中で、その生活に対して真実のものであり続けなければならない。問題はいかなる出来事にいかなる真実が見いだされるのかにあり、病いの物語において、真実は選択的なものであるが、そのことについての自覚は保たれていく。真実が語りつくされているように見えるとしても、それは病いの物語の表層に限られたものである。
北米人の間では嘆くことをためらう否認と紙一重の文化が共有されており、また、医師は居心地が悪いと感じた患者の物語を中断させる。しかし、よい物語は否認を拒絶し、それによって社会的圧力に抵抗する。
 病いの物語をよい物語とするのは、証人の行為である。証人は、暗黙のうちにであれ明示的にであれ、次のように語る。「私は、あなたがそれを聴きたいとは願わないとしても、私がそれを生きてしまったがゆえにそれが真実であると知っていることをあなたに告げる。その真実は、あなたを混乱させるかもしれない。しかし、結局のところあなたは、真実を聴かずに放免されることはない。なぜなら、あなたはそれをすでに知っているからだ。あなたの身体がそれをすでに知っているのだ」。こうした物語を真実のものとして語ることによって、病む人は、その状況を受けとめ応えるのである。
 記憶とは責任である。なぜなら、それは語られることによって証言となり、個人の意識を超えて共同体の意識へと到達するからである。

 自己を再請求する
 再請求(リクレイミング)という言葉は、病いの物語が、度重なる中断の中にあって、ただ何事かを発話するということにとどまるものではないことを示している。そこに示唆されるのは、病む者の声が奪われてきたという事実である。
 再請求行為については、オードリー・ロードの記述がある。彼女の再請求は身体とともに始まり、身体?自己を超え出、彼女が動こうとするとそのたびに「障害となって現われてくる世界」へと継ぎ目なく移行していく。病いはその障害を乗り越えるためにより多くのエネルギーの集中を要求する。そこでの集中は、自分が使いものになっているという感覚を必要とし、また別の意味ではその感覚そのものなのである。ロードによる語りの実践は、シェイファーやカーやスペンスやシャンクが求めたものとなっているが、これらの理論家たちが考えおよばなかった政治的次元を強調している。
 ロードが自らの生きていく世界の多元性を明らかにしているのに加えて、再請求される自己の多元性にも注意を向ける必要がある。多くの病む人々にとって課題となるのは、複数の自己を自分自身が使い分けられる状態にしておくことであると思われる。しかし、たったひとつの身体は、どれだけの数の自己を支えうるものなのだろうか。
 これには物語が二種類の答えを示している。シュー・ナタンソンは、自分を単一の人格ではなく、複数の人格としてとらえ、自分の中のある部分は別の部分の価値基準と矛盾する行動を取るものなのだと認識した。レイノルズ・プライスは、自分自身を新しい自己と考えることによって、古い自己のままでは恐ろしいものであっただろう身体的条件を生き続けるための言葉を見いだした。
 ロードとナタンソンとプライスによる語りの再請求を結びつけているものについて、ロイドは簡潔なまとめを示している。「記憶をめぐる考察は、自己を驚きの対象へと変える。自らの存在が、それまでは世界を見据えることの中でしか感じ取ることのなかった驚異の的となるのである」。よい物語は驚きに至る。

 語りの難破と脱近代の時代
 自己物語の一形式としての病いの語りは、少なくとも他の三つの形式と重複し、境を接している。その三つとは、精神史的自伝、ジェンダーにかかわるアイデンティティを獲得していく物語、トラウマを生き延びた者たちの物語である。
 脱近代の時代にある今、その不確実性に対するひとつの応答として自己物語が増殖するのは、なぜか?
 自己物語は、語りの難破に基礎を置き、再請求の行為を伴っており、脱近代がそれらの資源をもたらす。線形的発展の欠如と複数の声の競合という脱近代の記憶の形は、中断された経験に適合する。共同体的信念が共有されない脱近代においては、外部から書き込まれる複数の物語から自分自身のものと認められる声を求めて闘わねばならなくなり、自己物語が増殖するのである。自分自身の声を語る者としては、自己が多様なものとなろうとも、その中には本当の現実の基底が残されており、その名はしばしば痛みと呼ばれる。
 自己物語が増殖するまたひとつの答えは、近代社会が累積してきた暴力がもはや見過ごすことのできない域にまで達してしまったという点に求められる。

 
 
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第4章 回復の語り――想像界の中の病い

 語りの類型とは、個々の物語のプロットやテンションの基礎と見なされうるような、きわめて概略的な物語の筋書きをいう。病いの語りの「諸類型」を提示することは、個々人の経験の個別性を包摂する「一般的で統一的な視点」を作り上げてしまう危険があるが、病者の言葉への関心を促して、聴くことを助けるという利点がある。実際の語りは、以下に提起する語りの3類型のすべてを組み合わせたものであり、それぞれの経験の段階ごとの特異性は、その時点において支配的な語りの類型によって記述することができる。
 語りの類型のそれぞれについて、四つの節をもうけて考察する。まず第一に、そのプロットについて見る。第二に、その語りと身体化に関する行為の諸問題(統制、身体とのかかわり、他者とのかかわり、欲望)との間にある選択的親和性を記述する。第三に、語りがいかにして自己物語として機能するのかを論じる。そして最後に、それぞれの語りの類型が持つ力と限界を検討する。

 回復のプロット
 回復の語り(restitution narrative)の頻度は、病気になって間もない人々に顕著で、慢性疾患の場合に低くなる。今日の文化の中では、健康は取り戻さなければならない正常な状態と見なされており、病者自身の回復への欲望の中には、その回復の物語を聴きたいと願う他の人々の期待が混入している。
 回復の物語は、将来に向けての予測としても、過去を振り返る形でも、また制度的な形式でも語られる。私は以前、一人の男性から、将来の予測である回復の物語を聞いたことがある。癌患者のセルフヘルプグループでは、過去を振り返る形での回復の物語を聞いたが、そこでは、回復の物語以外の形式において病いの物語を聞くことに不快感が示されていた。ある癌センターについての冊子や市販薬のコマーシャルは、病気がたどる経路に関する期待を条件づけるだけでなく、患者が語るべき物語のモデルを提供しており、制度的医療の好む語り口を主張している。
 ウィリアム・メイは、回復という結末がヨブの物語に書き加えられた時、苦しみの本質は、ただ直面することしかできない謎から、解決することのできるパズルへと転じてしまったという。答えの不在が、謎を近代社会にとっての不名誉としているのである。
 タルコット・パーソンズの「病人役割」理論は、病いを回復の物語の中に書き込むことで、近代主義的想像力の一翼を担った。この理論は、回復の物語に対する支配的語り(マスターナラティヴ)としての力を持ち、近代主義的な社会統制の語りになっていることが問われなければならない。病人役割概念の潜在的仮定となっているのは、人々は必ずよくなるという信念である。この概念は、医療が病む人間に何を期待し、他の社会的諸制度が医療に何を期待しているのかを示す強力な語りであり続けている。
 医療が個々の専門領域に分化することで、「致死という現実」は解体される。小さく解体された課題をひとつひとつ済ませていくことは、小さな勝利であり、セラピーとしての効果を持つ。しかし最終的には、致死の現実と責任、そしてその謎に直面しなければならない。そのためには、回復の語りとは別の物語が必要となるのである。

 修復可能な身体
 病いの苦しみはいつか軽減されるという信念は、どのような身体からも好まれる語りの形式だが、ある種の身体は、その他の身体に比して、回復の語りとの間により大きな親和性を示す。そうした身体のあり方は、統制、身体とのかかわり、他者とのかかわり、および欲望という四つの次元を用いて記述することができる。ただし、身体はこれらの四次元の上で固定されるものではないのであるから、回復の語りとの親和性とは、すべての身体がこれを通過していく、病いの身体化のプロセスの一段階なのである。
 統制の次元は、身体が以前に備えていた予測可能性を取り戻すことを望むものである。しかし、医療への依存は新たにそれ自体の偶発性=条件依存性を生みだしてしまい、この逆説を考えることは、回復の物語の語りにとって、せっかくの回復を台無しにしてしまうことになるだろう。
 医療の疾患モデルは、疾患を個々の人間の所有物と見なす考え方を強化する。病気を「持つ」ことについての語りは、個々に閉ざされた身体をさらにそれ自体のうちに振り向けることになる。身体は回復を期待する自己から切り離され、治療されるべき「それ(it)」となる。この種の物語は、近代主義的な致死の現実の解体を支持し、また支持され、私という存在全体が死すべきものであることを暗示する病気は、思慮の対象外へと放逐される。
 最後に、回復の物語における身体は「それ」であるとしても、治療されることを欲している。身体を治療するものは、薬品やサーヴィスという形で商品化されている。商品化は、致死の現実の解体の一側面をなしており、買うべきものがある間は修復されていくはずであって、私は存在し続けるはずなのだ。治療技術が死を回避可能な偶発事と思わせることで、回復の物語は、それ以外の物語を閉めだしてしまうという語りのバランスの欠落を露呈する。したがって、回復の語りを選び取る身体、そして、この語りによって選び取られる身体は、医療に従順であるために必要とされる規律化された身体と、消費の強調という点における鏡像的身体の間に位置することになる。

 自己物語としての回復
 回復の物語において、病いは起源を明示されないまま、身体の機械的な故障と見なされる。近代主義的思考は、修復され続ける無限の未来に関心を向け、起源については関知しない。回復可能な場合には「さらに到達されるべき未来」が選ばれ、この病いの語りは、中断を一時的なものとして中断の期間を超えて存続するものである。これに対して、回復不可能と判断される場合には、創設行為が重要になり、この物語は永遠に中断され続ける語りである。
 回復の語りは、故障を修復されうるものと確認する作業と、病いを通常の時間経過からの一時的な脱線とすることで記憶を混乱から守る、という二重の目標を目指している。
 病についての責任の問題は、語りが病む人に対してもたらす主体性の差異として、語りの類型間の差異のひとつを示す。責任は、回復の語りにおいては、病いからよくなるということに限定され、その他の語りにおいては、病気の前と同じ生活に戻ることは道徳的な選択として不可能であると見なすところから、病いの経験を理解する。責任は、自分自身の身体が健康であるか病んでいるかを超え出たところの、病者との持続的な連帯の感覚に基礎づけられる。
 回復の語りは、治療を可能にする他者の専門的技術について証言するものであって、自己の闘いについて証言を生みだすものではないという意味において、自己物語を生成する力を持たない。しかし、重い病いを患う人の中にも、自己の一貫性が乱されているという感覚を持たない人が存在するのであり、すべての病いの物語が自己物語として語られねばならないわけではないという認識を持っていなければならない。問題は、病む人が回復の過程を見いだしえない時、あるいは回復の物語しか語れない者が、もはや健康を取り戻しえない誰かに出会う時に発生するのである。

 回復の語りの力とその限界
 ロバート・ザスマンは、病院の専属スタッフが英雄的であるのは、未来に向けて準備し、日々自分の仕事を果たしていくことを繰り返していくという点においてだという。回復の物語を語る病む人々も、病気後の未来に向けて準備し、日々患者としての自分の仕事を果たすことで、病いを生き抜く英雄性を実践している。医師と患者のそれぞれの英雄性は補完的だが、医師は能動的な英雄性を、患者は受動的な英雄性を担う。この非対称性が問題なのではなく、こうした語りを自己物語として採り入れる病者は、それによって、一個人としての自己を従属させるひとつの道徳的秩序のうちに位置を占めることになる。
 医療の英雄性は、近代主義的な「英雄」と脱近代的な「道徳的人間」にかかわるバウマンの区分によって、より広い視野の中に位置づけることができる。近代の「英雄」とは、「自己保存よりも高貴で、高尚で、価値のある」大義を信じる者である。脱近代の「道徳的人間」は、「他の人間存在の生命や幸福や尊厳」を自らの大義として引き受け、自分や自分がかかわっている他の誰かを、「医療専門職」の理念のために危険にさらすことはしない。
 回復の物語は、病いの経験と医療処置の双方に、近代主義的な語りを刻み込む。回復の物語の第一の限界は、致死の現実の近代的解体という限界である。回復の物語が機能しえない時には、他の物語が準備されなければ、語りの難破が現実のものとなってしまう。もうひとつの限界は、回復の物語が病いの語りとして広められていながらも、回復の手段がその人に購入可能であるか不可能であるかによって、実質的な適用範囲が限定されたものとなっていくことにある。回復の物語の究極の限界は、死の不可避性である。
 医療専門職は、生存のための言語を用いることのない人間には、何も言うことがない、という事態を制度化しているのであり、これが英雄性の核をなすものである。脱近代の時代において、その核にはますます大きな亀裂が広がり始めている。
 ひとたび回復の語りの生命力が失われてしまったあとで、それまで自分の経験を生存のための言語で語ってきた人々が、もはや自分自身については何も言うことがないということを発見するとしたら、そこには何が生じるのであろうか。

 
 


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第5章 混沌の語り――沈黙する病い

1) プロットの欠落

混沌の語りは、決して快癒することのない生命の像を描き出す。物語は秩序が不在の中で混沌としたものになる。

【ナンシーの例】
 それで、私が夕食の支度をするとするでしょう。私はその時点ですでに気分がよくないのね。母が冷蔵庫の前にいるの。それから母はオーブンの中に手を突っ込もうとするの。私が火を入れたやつにね。それから母は電子レンジの前に行き、それからシルヴァーウェアの引き出しのところに行き、それで…。それでもし私が母を追い出したりしようものなら、もう狂ったように私にあたるの。そうなるともうひどいわ。それが本当に、本当に悪いときかしらね。

〈混沌の物語の聞き取りがたさ〉…混沌の物語の語り手は「確かな」生を生きているものとして、その言葉を聴いてもらうことができない。
  1. 継続性、因果関係の無さゆえに「適切な」物語を語っていると理解されない。
  2. “ひとつの出来事が次の出来事を導く”という、聴く側の期待を裏切る。
  3. 混沌の物語は不安をかきたてる。
     治療、進歩、専門職制度など(近代の防波堤)を脅かす。
  4. 脅威的
     →現に生きられている混沌においては、媒介(mediation)は存在せず、ただ直接性(immediacy)だけがある。身体は、その瞬間ごとに満たされない欲求にとらわれている。混沌の語りを生きている人は、自らの生に対して距離をとることも、それを反省的に把握することもできない。(p. 140)
  5. 個人的・文化的嫌悪感
    「それから、それから」という統辞的構造。語りがたい沈黙が、執拗な「それから(and then)」の反復と交互におとずれる。

〈統制〉
・卵巣癌の治療に関する、ラドナーの例
統制能力の喪失。「私が頑張って闘って、耐えてみても、私はその結果を統制できなかった。」(p. 143) 書くという行為(記憶を失う治療の際にビデオテープに記録する)によって、反省の場所を手にしている。混沌を見通すことを可能にする。 p. 145
聴くことが困難なのは、聞き手が語られている事柄を、容易には自分自身の生の可能性または現実として受け止め得ないということだけによるものではない。同時に、混沌の語りが多くの場合に深く身体化された物語の形式を取るがゆえに、聴くことが困難になるのである。混沌の語りが、傷口の縁の上で語られているのだとすれば、それらはまた発せられた言葉の縁の上で語られているものである。つまり、混沌とは、言葉が見通すことも照らし出すこともできない沈黙の中で語られるのである。
 混沌の語りは常に語られた言葉を超えて存在する。したがってそれは、語られた言葉の中には常に欠落している。混沌は、決して語ることのできないものであり、語りの中に穿たれた穴である。

2) 身体化された混沌

3) 混沌の自己物語
(ランガーのホロコーストの証人のインタビュー、サックスの足の怪我と治療、アーサー・フランクのがん治療)
アウシュビッツからの解放、病院からの退院、治療の終了が「解決」ではなかった。
→解決は「混沌の経験」を理解し得なかった、理解しようともしなかった世界から隔てられているという点にあった。病院から開放される時というのは、一方でそれを歓迎しながらも、その人にとって本当の困難が始まるというときでもある。その困難とは、世界が要求する目的の感覚を作り直すことの困難である。(p. 152)

4) 混沌の物語に敬意を払うこと

 〈混沌の身体とケア〉
…その現実を否認された人間はただ治療とサービスの受取人にとどまり、ケアにもとづく共感的な関係に加わることはできない。…この身体は何を必要としているのかを言い表して援助を求めることができるほど、自分自身の物語をうまく語ることができない。
  →ケアをする人間はまず何よりもその混沌の物語の証人であろうとする時、初めて人を支援することができる。
   混沌は決して克服されるものではないが、新しい生活が立てられ、新しい物語が語られる以前に、混沌が受け入れられねばならない。

〈混沌と社会的論点〉
・現代の人間は、医療者であれその他の人々であれ、彼女(ナンシー)の混沌を想像すること?混沌を自分たちの正常な生活と隣り合わせにあるものとして迎え入れること?を許容できない。
・臨床家たちが混沌を迎え入れることができないのは、混沌が臨床の仕事の近代的前提に対する潜在的な批判であるから。…個人史であれ社会史であれ歴史というものを進歩と見なそうとする近代主義的な理解である。

 
 
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第6章 探究の語り――病いと伝達する身体

探求の物語
病を受け入れ、病を利用しようとする、病は探求へとつながる旅の機会。何が探求されているのかがすべて明確になることはないが、経験を通じて何かが獲得されるのだという病む人の信念が、探求を成立させる。

1) 旅としての病
 探求の語りは、病者であることの新たなあり方の追及について語る。病む人が、少しづつ目的の感覚を形作っていくことによって、病は旅であったのだという捉え方が浮上してくる。

・キャンベルの「英雄」の旅の3段階
※英雄…「私は・・・を克服した」。この克服のヒロイズムは、脱近代の分水嶺の近代の側に位置する。

  1. 出立 (departure)。症状の出現を自覚する。
  2. イニシエーション (initiation)。すでに導きいれられていた経験の中に、正式に加入させられていく。(スー・ナタンソンの例)
    「試練の道」(キャンベル)。病に付随して生じる身体的、感情的、社会的でもあるさまざまな苦しみという形をとる。誘惑や贖罪、神格化へと導かれる。探求の語りはこれら変容の過程を自覚的に語る。語り手の経験によって何かを与えられたということを前提としており、他者に伝えるべき洞察となっている。
  3. 帰還 (return)
    「痛みの同胞としてのしるしを負っている」「二つの世界に精通した者」
帰還は病む人に証人としての責任と課題を課すことになる。

2) 探求の三つの顔
  1. 回想録 (memoir) …その人の人生におけるその他の出来事への語りと結びつける。中断された自伝。
  2. 宣言(manifesto)…病が単なる個人的な苦痛ではなく、社会的な問題であることを主張する。宣言は、疾患に伴う身体的問題に社会がどれほど荷担してきたのかを証言し、苦しむものたちの連帯の上に、変化を呼びかける。
  3. 自己神話(automythology)…個人的変貌が強調され、その書き手がその変貌の模範と見なされる。(足の怪我のサックス、リューマチ様関節炎のカズンズ)
3) 自己物語としての探求  それまでもずっとそうであった自分、本当の姿としてあった自分を実現することによって、彼らはそれぞれにその自己の、再創造された道徳的な姿となる。…こうして人格を提示する中で、記憶は改訂され、中断は消化され、目的が把握される。物語の語り手は英雄として主張する。「私に何が起こったとしても、あるいは何が起ころうとも、目的は私自身の定めるべきものとしてある。」

4) 自己物語の三つの倫理
  1. 回想の倫理(ethic of recollection)。回想する者が過去の行為の記憶を他者と共有することによって実現する。過去になされたことに責任を負う〔=応答する〕ことが必要。
  2. 連帯と関与の倫理(ethic of solidarity and commitmennt)苦しみと共にする者としての他者に対し語るときに表現される。
  3. 励ましの倫理(ethic of inspiration)。励ましとなる模範。
探求の自己物語は、それを発見する声についての物語であり、沈黙は潜在的な恐ろしさを持つ。(看護師の言葉に一瞬声を失ったロードの例)

5) 探求から証言へ    
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第7章 証言

生存という概念には、生き延びるということ以外になんら特別な責任が付随しない。しかし私なら、その呼び名としてまず第一に選択するのは「証人」である。(p. 191)

証人は、一般には認知されていないかあるいは抑圧されている真理に証言を与える。病いの物語を語る人々は証人となり、病いを道徳的責任へと転換させる。(p. 191)

脱近代社会と証言は、親和性を示す→近代社会の中で混沌の物語が堆積してしまったことへのひとつの応答であり、証言はそうした混沌の物語を語ろうとする。

脱近代の証言
脱近代の証言は、リオタールが語るわけではなく、フェルマンがいう破片と断片の中で語られる。

脱近代社会の性質
多くの出来事が、速いテンポで生じる
ある種の出来事が、ある特定の枠組みに合わなくなっていく
というような、性質によって、古い枠組みは新しい経験の速度と広がりを捉えることができなくなる。
フェルマンのが証言の中で見出す前提にあるものは圧倒された身体である。
身体は常にそれ以上の何かであり、身体は証言が語りうるいかなる言語をも超え出てしまうのである。(p.194)

身体の証言
ガブリエル・マルセルは、生きている証言として存在するという見方を提示した。それは病いの物語によって提示される証人の本質を捉え、さらには病いの物語が身体についての物語にとどまらず、いかにして身体の物語、身体を通しての物語となるかを説明する。(p.195)

・病いの物語は身体によって語られる。その身体が、それ自体において生きている証言である。
→ゲイルの言葉は最良の証言であるが、ゲイルは痛みを知らない人々を健常者たち(nomals)と呼び、医療関係者を白衣の人たち(whitecoats)として指し示す。
ゲイルのもっている証言は、彼女の語りうることのうちにあるのではなく、そこに存在する彼女そのもののうちにある☆

このような、証言行為の相互性は、単独の伝達する身体だけでなく、複数の伝達する身体間の関係を必要とする→証言という行為の形が伝達する身体を定義づけるのである。

苦しみの教え
苦しむことは教えることであると見なすことによって、病む人々は行為主体としての力を取り戻す。(p.202)
→社会は苦しみの教えを必要としており、それは行政的システムに対して私なりに処方した解毒剤である。

医療スタッフは宇宙船の論理によって生きている…限定的責任
・メアズやヒルファイカーにとって、真のサーヴィスとは思いやり深くあることではなく、自分自身の欠如を満たしうるものは他者の抱えているありあまるほどの必要以外にないと認識するところにある。Ex,自分自身を奉仕されている者として理解する奉仕者としての医師のイメージ
↓これを意識しないとどうなるか
自分が窮乏者を必要としていることに気づかないということは、慈善は支配へと転じる。

苦しみの教えから生まれる倫理学上の論点
ルカーチによると、倫理の推進力となるものは孤独であるという。
おそらく倫理が生活において有する最も大きな価値は、それが一種の分かち合いの生まれる領域、永遠の孤独が停止する領域であるという点にある。倫理的人間とはもはやすべてのものごとの起点でもなく終点でもなく、世界の中に生じるありとあらゆる出来事の意味はその人間の気分によって削られるものでもない。倫理はすべての人の上に共同体の感覚を課す。(ルカーチ 1911 『魂と形式』)

自分自身をすべてのものごとの起源や終点と見なす幻想はもはや維持されず、したがって分かち合いへと開かれた関係だけが残される。多くの宗教的共同体は、誰であれこの分ち合いに参与する者は、そのことによってすべての物事の起点となり終点となるという不思議な錬金術に対する信仰を伝えている。

語りの倫理
語りの研究の貢献
  1. それがどれほどとらえがたいものであったとしても、患者の生の、語りとしての一貫性を認知することを助ける。
  2. 患者の物語の多様な語り手や、その物語が向けられる複数の聴き手や、それを理解することに責任を負う解釈共同体を特定することを助ける。
  3. 物語の多様な表象の中にある矛盾、語り手と聴き手の間の葛藤、出来事それ自体の曖昧さを検証することを助ける。
  4. 倫理的議論に参加するすべての人々が、「ひとつひとつの人間的な出来事の一貫性と共鳴関係と個別の意味」を評価することを助ける。
しかし…
語りの倫理が際立った動きを見せるのは、臨床の医療的関係を超えた世界においてである。(pp.214-215)

つまり、専門職者と患者とが二人の人間同士の関係となったときに


循環とリスク
伝達する身体は、ひとつの理念型にとどまるものではなく同時に理想型である。

伝達する身体は循環的なプロセスであり、不完全なプロジェクトである。

近代主義は、できるだけ早くひとつのプロジェクトを終わらせ、次のプロジェクトへと進もうとするが、脱近代社会においては、それを遂行しようとする活動の中でプロジェクトの本質を発見していくことがもとめられる。→伝達する身体がなそうと試みているのは、伝達する身体であろうとすること

人間になるプロジェクト=伝達する身体
病の語りは、難破によってその海図と目的地を失うところから始まる。病による中断は、また別の種類の語りに姿を変えていく。

伝達する身体だけが、中断を再請求することができ、ただそれだけが、自らの偶発的な傷つきやすさと結びつくことができる。
↓身体化され証言された語り
探求の語りは、病いを天命として、使命として受け入れる。この使命は証言に対する責任をうちに含んでいる。

 
 
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第8章 半ば開かれたものとしての傷

苦しみと抵抗
語りの倫理の中心には、傷ついた物語の語り手が位置している。倫理的なるものは物語の中に見出される。そして、物語は傷に依存している。かくして、私のメタ物語は、傷それ自体へと、苦しみへと立ち返ることになる。

苦しみの定義
  1. 苦しみは、全人格に関るものであり、心と体に関する歴史的な二元論の破棄を要求する。(身体-自己)
  2. 苦しみは、ひどい苦痛の状態が人間として無傷であることを脅かす時に生じる。
  3. 苦しみは、その人間のいずれかの側面とのかかわりにおいて生じる。
  4. 苦しみは、人々を脅威と認知するだけでなく、その脅威に抵抗しなければならない。
  5. 苦しみは、人間の条件の実存的不変であると同時に生活の中での実践の一形態であり、したがってそれぞれに個別的な世界の中でたぶんに文化的に作りこまれていく新たな体験でもある。
1〜3までがエリック・キャッセルの定義で4〜5がアーサー・クラインマンの定義。
苦しみの物語は二つの側面をもつ、その一つの面は、1〜3のようにキャッセルがいう、崩壊の脅威を表現するもの。もうひとつは、4〜5のクラインマンが指摘するように苦しみの中からやがて現れてくるであろうものへの信頼を映し出している。

脱近代社会において病む人々は、崩壊の脅威と再統合の約束とを同時に生きている。

解体した自己
脱近代化社会において、病の脅威は身体化されたパラノイアと呼ぶ特異な形態をとる。

身体化されたパラノイア=医療の犠牲になるということが、病の物語の中で繰り返されるテーマとなっており、医療制度の植民地化によってもたらされる内的な葛藤状態

身体化されたパラノイアとは、何を第一に恐れるべきであるのかわからないということであり、まさにその確信欠如の罪の意識を感じるということでもある。

脱植民地的な自己がこれ以上外部からもたらされた語りによって自分自身が語られることを望まないのだとしても、その自己が、即座に使用することのできる自らの病についての代替的な語りを手にしているわけではない。

・脱近代社会においては、自分自身の人生の語り手となるということは、その人生における諸々の出来事以上のものに対する責任を引き受けるということを意味する。出来事はまさに偶発的である。しかし、物語はその偶発的な諸々の出来事をひとつにして、道徳的必然性をもった人生へと束ねていくものとして語られうるのである。

身体-自己を再生する
苦しみが他者に対して開かれたものとなる時[身体-自己の]再生が始まる by レヴィナス

レヴィナスのいう「担いきれぬものとしての苦しみ」=個人が自分自身のものとして引き受けることのできない苦しみ(至高の倫理的原理にまで高められた人間的主観の紐帯そのものである)

レヴィナスの議論は、混沌の語りと探求の語りの間の強い結びつきを示唆する。混沌の語りは、担い切れぬもの、名前のない苦しみであり、探求の語りは、正当な苦しみである。
☆「人と人との間」は、苦しみが自己と他者とにかかわる呼びかけと応答になる時、開かれたものとなる (p. 243) ☆

ホロコーストと病の苦しみの違い…比較を行うのは無理
しかし、すべての苦しみにおいて、身体?自己は解体させられる。苦しみが、それ自らの意識のうちに孤立させ、意識のほかの部分を吸い取ってしまう痛みであるとすれば、病院の中で生じる苦しみと収容所の中で生じる苦しみとの間に本質的な違いがあるわけではない。
違い:叫びに耳を傾ける者がある苦しみとそれ自体の無用の状態に放置される苦しみ

苦しみにおけるエッセイにおいてレヴィナスは護神論の問題を取り上げている。
「正当にして万能なる神がいかにしてこのような苦しみを許しうるのか」という問題

アウシュヴィッツには不在であった神をアウシュヴィッツ以降拒絶してしまうとすれば、それは結局のところ国家社会主義の犯罪的な企てを完成させてしまうことになる。(pp.247)

神に対して開かれた身体?自己は継続的な責任を担うものである。(病いの物語は、生じてしまったものごとを、継続的な責任として受容する。)

自己は、自らの立つ土地を聖なるものとして再発見するために、戦い続け、傷を負い続けなければならない。生きることは神と戦うことなのである。

■言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya]

「☆03 この「論争」について山口[2009b][2009c]。山口真紀は人に降りかかる(よくない)できごとについて語ること、その理由を探し語ることについて、例えばアーサー・フランクといった人が語ること(Frank[1995=2002])とはだいぶ異なる気持ちで考えていく中で、この論争を取り上げた(山口[2008][2009a])。山口[2008]について以下。  「なおらないこと、もう起こってしまったよくないこと、それをどうしたらよいのか。十分な答などというものがあらかじめないことがわかった上で、このことに関わる私たちの営為について知ることがなされてよい。(そう簡単に)もとには戻らない、消し去ることのできないことがあった時、人はどんなことをするのか。それにしたって一様ではない。もちろん自分のこの状態は、あるいは過去に起こったことは、わるくはないのだと思えた方がよいこと、そして思えることもあるにはある。しかしむろんそんなことばかりではない。その時に人は何をするか。自分のせいにしたり、人のせいにしたり、妖怪のせいにしたりする[…]]、等々。それはどのようによく、どのようにうまくいかないところを残すのか。山口真紀[2008]が考え始めている。」(『唯の生』[2009b:206-207])」(立岩[2014:n3],第2章註3)

◆立岩 真也 2008 『良い死』,筑摩書房 言及・関連部分 文献表

 第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」7節「肯定するものについて」2項「私に向かわなくてもよいこと」より
 「この近代という時代も始まってしばらくが経って、自らを保ち、育て、そして何かに打ち克つという物語がいくらか下品なものであることは感じられるようになった。そしてすくなくとも衰弱し死に向かう過程において、この物語を語ったり受け入れたとして、よいことはそうはない。そのことは自明である??自明であるにもかかわらず、とても多く語られているのだが。ただそのことをよくわかりながら、別の語り方によってではあろうし、その語り方は固定されていないのだろうし、その目標も定められることはないのだろうが、探求すること、そして語ることが推奨されることがある。そしてそのような語りが、近代の次の時代の語りであるとされることもある。
 しかし、語ってよいこと、事態を悪くしないために語るべきことがあることを、以上述べたように、おおいに認めるのだが、やはり、それを求める必要はないのだし、語りたくない人は語らなければよいのだし、語りようのない人は語りようがないと思えばよいのだし、既に語れない人は黙って生きていればよい。そして考えてみれば、この時代における自己とは、ずっと、なにか固定されたものでなく、探求される先に見出されるかもしれないもの、あるいは探求していくという行ないそのものが指し示すところのものではなかったか。だから私には、ここになにか格別に新しいことが起こっているとは思えないのだ☆33。
 知ること、探すこと、探し続けることはわるいことではない。それがよい人には、よいことであるかもしれない。しかししなければならないことではない。自らの病の意味を探すことが病を抱えて生きていることの意味であるとされても、探しても見つかないことはある。その場合には見つかることが最重要なのでなく見つけようとすることが大切だと慰めてもらえるのだが、しかしそれでも何かが見出されると思えないし、その営みに意味があると思えないことがある。そのように思うのはもっとである。そして探す気力もないことがあり、すでにその種の営みを終了してしまった人がいる。病人に推奨される探求と表出の営みは、既に非力であり自身の身体や世界に対する物理的制御能力を失いつつある病人に配慮した営みではある。それでも、その奨めはよい奨めではない。自分のもとにあるものを探し出すより、自分を囲むものの中にいた方がよい。」
 「☆33 この項をアーサー・フランク――二〇〇八年に立命館大学大学院先端総合学術研究科での集中講義・グローバルCOE「生存学創成拠点」主催シンポジウムのために来日――の『傷ついた物語の語り手――身体・病い・倫理』(Frank[1995=2002])を読んで書いている。その第6章「探求の語り」が私にはよくわからなかった。わからなかったというか、必ずしも受け入れる必要のない前提を共有して始めて理解できる章であるように思った。
 こうしたことを、たとえば「ポストモダン」の側にいると自らを規定する人たちについても、幾度も感じてきた。そんなこともあって『自由の平等』の第6章は書かれている。
 「第三に、もう一度自由が登場する。そこでは、行うことと在ることの両方から離れ、どこからも脱する自由という規定のされ方がなされる。その時点で、それはもう単純なリベラリズムではないのかもしれない。私が行うことは生産活動に限られず、もっと広いものを包接するものとして語られる。あるいは自己が生産に方向付けられることを批判する。それでも、信じることにしても、よいとするものにしても、それが自分の選択としてある限りにおいて認められるとするその論は、能産者でありすなわち所有者であるような私を私として残存させることになる。あるいは自己を表象する自由と言うとき、それがどこかを目指したものではないとしても、やはりそれは作り出そうとする。自己の実在を、またその獲得の可能性を素朴に信じないこと、支配し制御する方に行ってしまいがちな所有という言葉を使わないこと等、いくつか「進歩」はそこに見られる。そして与えられたものを脱ぎ捨てようとする。やがて、何にせよ作ってしまったらやはりそれは作られたものだとして、自らが何かであることから逃れることもまた言われることになるのだが、それもやはり破壊的であるとともに生産的なことなのであり、それによって私は駆動されることにもなる。」([20040114:273])
 「そこに見られる」に以下の註を付した。
 「「人格とは、決して一度も充たされることのありえない計画=投影であるがゆえに、一つの願望なのである。」(Cornell[1998=2001:34])けっしてその願望を否定しないが、そうでなければならないものなのか。このことばかりを、この章で、他に[20001127]等々で、私は述べてきた。」([20040114:346])
 ドゥルシラ・コーネルもまた同じ大学に講演にやってきた人であり、その時に同じことを質問した(質問してもらった)のではあるが、よくわかったというふうではなかったような記憶がある。「文化の違い」ですませたくはないのではあるが、いくらかの違いはあるのかもしれない。
 語りたくないのであれば、そして/あるいは語ってよいことがないのであれば、語らずにすませるためにも、私たちは、たとえば歓迎できない出来事が起こってしまった時に何を語ってしまうのか、それを分類し、並べ、それぞれの得失を計算したりする必要がある。山口真紀[2008]がその仕事を始めている。」


*更新:樋口 也寸志小川 浩史
UP: 20080425 REV: 20080525, 0831, 0918, 1209, 20090928, 20100504, 20140823, 20150203, 0330, 0716, 0801
Frank, Arthur W.  ◇医療社会学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK 
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