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『ナラティヴの臨床社会学』

野口 裕二 20050125 勁草書房,252p


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野口 裕二 20050125 『ナラティヴの臨床社会学』,勁草書房,252p. ISBN:9784326653027 (4326653027) 2730 [amazon] ※ b e01 s

http://bookweb.kinokuniya.co.jp

臨床現場から社会システムまで、ナラティヴ・アプローチが拓く社会分析の新たな可能性。

野口裕二[ノグチユウジ]
1955年千葉県に生まれる。1984年北海道大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。東京学芸大学教育学部教授、社会学専攻

■目次

序章 ナラティヴの臨床社会学
第1章 臨床のナラティヴ
第2章 社会構成主義という視点―バーガー&ルックマン再考
第3章 臨床的現実と社会的現実
第4章 サイコセラピーの臨床社会学
第5章 集団療法の臨床社会学
第6章 ソーシャルワークの臨床社会学
第7章 援助実践の臨床社会学―その課題と可能性
第8章 被害と克服へのナラティヴ・アプローチ
第9章 臨床研究におけるナラティヴ・アプローチ
第10章 個人化する社会とナラティヴ・アプローチ
物語としての臨床、物語としての社会。臨床現場から社会システムまで、ナラティヴ・アプローチが拓く社会分析の新たな可能性。

人文社会科学、臨床科学などのさまざまな領域で注目を集めるナラティヴ・アプローチ。それは、われわれの生きる現実が、「物語」という形式によって構成され、「語り」という行為によって変容することに着目する。この理論と方法を明らかにするとともに、具体的場面における応用を探求する。

関連書:『構築主義とは何か』(小社刊)、『自己への物語論的接近』(小社刊)


序章 ナラティヴの臨床社会学
1 臨床社会学
2 ナラティヴ・アプローチ
3 社会構成主義とナラティヴ・アプローチ
4 本書の構成

第T部

第一章 臨床のナラティヴ
1 医療化
2 病いの意味と語り
3 ナラティヴ・セラピー
4 三つの社会的構成
5 二つの物語

第二章 社会構成主義という視点 バーガー&ルックマン再考
1 はじめに
2 社会構成主義
3 ナラティヴ・セラピーとの比較
4 臨床的現実の再構成
5 おわりに

第三章 臨床的現実と社会的現実
1 はじめに
2 ナラティヴ・セラピー
3 ナラティヴ・セラピーが構成する現実
4 相対主義的現実
5 社会構成主義的現実のゆくえ

第U部 

第四章 サイコセラピーの臨床社会学
1 サイコセラピーとは
2 現実の心理学化
3 セラピー的文化
4 親密性の変容
5 セラピーの変貌──ナラティヴ・セラピー
6 臨床社会学のまなざし

第五章 集団療法の臨床社会学
1 はじめに
2 臨床現場でのとまどい
3 集団療法の効果
4 集団療法のミクロ社会学
5 物語論的転回
6 臨床社会学の可能性

第六章 ソーシャルワークの臨床社会学
1 はじめに
2 臨床実践モデルの変遷
3 ナラティヴ・モデル
4 臨床実践と福祉政策の変貌
5 おわりに

第七章 援助実践の臨床社会学 その課題と可能性
1 「援助実践」の分析枠組
2 専門職論
3 専門化と無能力化
4 専門性の変容──ナラティヴ・アプローチ
5 「近代」と「脱近代」のはざまで

第V部

第八章 被害と克服へのナラティヴ・アプローチ
1 被害の心理学化
2 内在化と外在化
3 ナラティヴ・コミュニティ
4 被害と克服の新しい語法へ

第九章 臨床研究におけるナラティヴ・アプローチ
1 ナラティヴ・アプローチとは何か
2 ナラティヴ・アプローチの実際
3 「困難」を越えて

第十章 個人化する社会とナラティヴ・アプローチ
1 ナラティヴの時代
2 個人化の時代
3 個人化とナラティヴ・アプローチ
4 ナラティヴとスピリチュアリティ
5 ナラティヴ・ソサエティ

あとがき

引用文献
人名索引
初出一覧

■引用

◆第八章 被害と克服へのナラティブ・アプローチ
 「「被害」をなんらかの実体としてではなく、なんらかのナラティブの効果として出現するものととらえるとき、逆に、現在の「被害」がいかに心理学化され内在化されたかたちで存在しているのかが見えてくる。そして、そのようなかたちで存在する「被害」がそのようなかたちで存在するがゆえに生じさせてしまう問題とそこからの脱出という課題が浮上してくる」(p.185)

 「被害の心理学化は、被害を個人の内部にある感情の傷つきとして概念化する。これは「被害の内在化」と呼ぶことができる。こうした内在化する言説が、個人を「問題」へと縛りつけ、結果として「問題」から離れなくする。」(p.176)ex:「さまざまな被害者のさまざまな人生が「心的外傷とその癒し」という定型的なストーリーで語られること」(p.181)
 ↓ ホワイトとエスプトンによる、内在化のもたらすネガティブな効果
1)責任追及による人間関係悪化の問題:被害の内在化による加害の外在化で、犯人探し
2)問題解決の試みにもかかわらず存続する問題のために、多くの人々が不全感をもつ
 「以上の二点が示しているのは、われわれが「問題」や「被害」をどのようなものとしてとらえるかによって、それに見合った新しい現実が次々と呼び寄せられ、その新しい現実のなかで新しい問題や被害が連鎖的に発生していくということである。被害の定義が加害の特定という課題を呼び寄せ、加害が特定できないときは疑心暗鬼や不全感を呼び寄せる。また、もし仮に加害が特定できたとしても、それで被害が解消されるわけではなく、むしろ、加害者がたとえ厳罰に処されても満たされない感情という新たな問題が浮上する。「被害の心理学化」は、被害の大きさを判断するうえで「感情」に決定的な役割を付与することで、満たされない感情への対処という新たな課題を呼び寄せるのである」(p.177)
 →この2点は上田が言っていた「○○のせい」にしてはいけない理屈と重なっている。

↓ 対抗手段としての「外在化」
 「問題の外在化」のシナリオ:問題を個人の内部に求めるのではなく、外においてみる。すると問題によってふりまわされてきたことがわかる。一方で、いつも振り回されていたわけではなく、対抗したりうまくやり過ごした経験もある。「そうした経験の領域を広げ、関係者が一致団結して問題と対抗していく」(p.178)
 「外在化によって関係者は互いに責任を押し付けあう関係から、一致団結して外部の敵と闘う同士の関係へと変わる。また、そもそも問題の解決を志向しないので、解決の失敗という事態がなくなる。問題は解決すべきものではなく、闘うべきものとなるからである。ナラティブ・アプローチは、「問題を解決せずに解消する」(problem dis-solving)という新しい問題克服の方法を提案する(Anderson & Goolishian,1992)。それは、「問題」の解決ではなく、「問題」という言説による呪縛からの解放を目指すものといえる」(p.178)

 「「外在化」はあくまで事態を変化させるひとつのきっかけとなるにすぎない。それまで「内在化」されたかたちでしか語られず、したがって、そのようにしか認識できなかった「現実」が、まったく別の「現実」として語りうるものであることを「外在化」は教えてくれる。ただし、それだけである。そうして「外在化」された現実を定着させていくためには、その新しい現実を共有してくれる人々の存在が不可欠である。そうしたひとびとの存在に支えられてはじめて「現実」は安定したものになる」(p.181)

 「「満たされない感情」、「癒しがたい感情」を埋め込んだ「被害者の物語」が普及するなかで、加害者がどんなに厳罰に処されても、どう反省しても納得できないという感情だけがつのっていく。そうしたなかで、加害者は自分をどう語っても許してもらえない状況、「加害者が使える物語がない状況」が生まれ、それが被害者ルネッサンスに拍車をかけているといえる。」「問われるべきは、われわれの社会に「加害者の物語」がなくなってしまったこと、被害者物語の過剰と加害者物語の過少、この両者の著しい非対称性こそが現代の特徴であるともいえる。」(p.188)

◆第10章 個人化する社会とナラティブ・アプローチ

 現代は、「さまざまな個人的物語が噴出する「ナラティブの時代」であり、同時に、個人の選択と責任が強調される「個人化の時代」」(p.211)である。「ナラティブ・アプローチはこれからの社会変動とどのように関係しているのか」(p.212)。

 「ナラティブ研究の噴出」という事態を考えてみると、「もともと個人化の産物として生まれたナラティブが個人化を促進するようになり、そういう循環のプロセスに研究者もいつのまにか巻き込まれている、そのような構図を思い浮かべることができる。」(p.226)
 「ナラティブのなかに「真実」を見いだそうとする研究は、結果として、その「真実」を個人が参照し、利用すべき資源として位置づける。ベックが論じた「日常行為モデル」という言葉がまさにそれを示している。これに対し、ナラティブの「効果」に着目する研究は、いままで自分たちを縛ってきたナラティブを捨て去り、それに代わる新しいナラティブを共同で生み出す過程を描き出す。」「個人化ではなく、共同化のプロセスを描き出すことで、それは個人化のプロセスから脱出する方法を指し示すのである。こうして社会構成主義的ナラティブ・アプローチは、個人化に適応するための道具ではなく、個人化に対抗するための手段となる。」(p.227)
 →「ナラティブな営みこそ、個人の内部に原因があるという考え方の再生産だ」、みたいな話に対する応答。徹底的な構成主義に立ち、係わり合いのなかで立ち現れることを強調。

ナラティブが噴出する時代の、三つの異なるナラティブの形式(p.230)
1.「モダニストの物語」:プラマー、「苦難を受け、切り抜け、克服した」物語
2.「ポストモダニストの物語」:フランクやセラピスト、「克服」という結末を欠く物語
3.「スピリチュアリティの物語」:島薗、「自己を越えた何か」との出会いによって苦難を克服していく物語
 「「モダニストの物語」はその発生において共同性を必要とするが、その後の展開においては個人化を推し進めるように作用するといえる」。一方、「「ポストモダニズムの物語」は個人化の流れに抵抗し共同化を推し進めるように作用する。というよりもむしろ、個人化する物語こそが問題や苦難と大きく関わっており、個人化の物語からの脱出を共同で達成することに重点がおかれる。」(p.233)
 「「モダニズムの物語」は個人と社会を媒介するエピファニーによって成り立つ。それは、われわれを統制し抑圧する社会構造を明るみに出す。しかし、そうやって明るみに出された「社会」はいま一転してわれわれを個人化の方向へと誘っているように見える」(p.234)「これに対して、「ポストモダニストの物語」は独特の方法で「社会」を描き出す。問題を個人化し「克服」という物語を押し付けてくる「社会」、そうした物語によって成り立つ「社会」をそれは描き出す。さらに、描き出すだけでなく、新しい物語によって成り立つ「社会」を自ら作り出そうとする。」「それは社会構造や社会規範の変革という方向ではなく、新しいナラティブの創造という方向へ向かう。新しいナラティブによって成り立つ社会空間があることを実践的に示す。マクロな社会変革ではなくミクロな社会変革を実践することで、逆に、マクロな「社会」のありようを照らし出すのである。」(p.235)
 「それぞれの物語はそれぞれの形で「社会」を描き出す。ナラティブはあるときは、「社会」を発見し告発する一方で、あるときは、「社会」を遠ざけたり隠蔽したりする。またあるときは「社会」に回収されたりもする。…いまわれわれが生きようとしているのは、セオリーによってではなく、ナラティブによって生きようとするひとびとの存在である。かつてセオリーによって作動しているかのように見えた社会は、いま、ナラティブによる作動という新しい局面を見せ始めている」(p.236)
 
 「フランク(Frank,1995)は次のように述べる。「問題は、病む人が回復の過程を見いだしえないとき、あるいは回復の物語しか語れない者が、もはや健康を取り戻しえない誰かに出会うときに発生するのである」。こうして、「回復」という結末を欠いた物語の新しい形式が生まれる。フランクは、「病いの語り」を三つに分類する。「回復の語り」(restitution narrative)、「混沌の語り」(chaos narrative)、そして「探求の語り」(quest narrative)である。このうち、「回復の語り」はプラマーの説明にも含まれていたもので、文字通り「モダニストの物語」に位置づけられる。これに対し、「混沌の語り」は「決して治癒することのない生命の像を描き出」すものであり、「探求の語り」は「病いに真っ向から立ち向かい、病いを受け入れ、病いを利用しようとする」もので、いずれも「回復」という結末を欠いており、「モダニストの物語」に収まらない形式を持つものといえる」(p.215)
 →フランクのメモ。終わらない「病いの身体」を生きることは、「○○のせい」として考えることとは違う回路なのかどうなのか。

◆その他抜粋
 「現実はどのようになりたっているのか。バーガーらは、この問題を「外在化」「客体化」「外在化」という三つの契機によって説明する。」(p.34)
 外在化(externalization):われわれの内的世界が外的世界に投影されなんらかの形を成すこと
 客体化(objectivation):外在化された現実が客観的なものとして立ち現れること
 内在化(internalization):「客体化」した現実を自分の内的世界に取り入れること
 「自己を語る言説は、会話を通じて、外在化され、客体化され、そして、内在化されていく。この循環のなかで自己はひとつの現実となる。会話における他者の存在が自己という現実を支える」(p.41)

 「「相対化する言説」は傍観者には受け入れられても、当事者には受け入れられない。たしかに、傍観者にとっては相対化によって楽になれることがある。しかし、当事者にとっては、「相対化」は理屈ではなく、結果として達成されるものでなくてはならない。」(p.73)
 「石川は感情社会学の「相対化する言説」はカウンセリング業界には受け入れられないことを述べているが、その理由のひとつもいま述べた点にあると思われる。つまり、「相対化する言説」をいくら説いても、それは多くの場合、当事者の神経を逆撫でするだけのことに終わる。たとえ、それを理屈で理解しても、「問題」は変化しないからである。そうではなく、当事者にとって、相対化はパフォーマティブに達成されねばならない。相対化もまた社会的に構成されなければならないのである。」(p.74)
 「ナラティブ・セラピーは、現実は社会的に構成されたものであり、別様でもありうるなら、別様の現実を自分たちで構成してみようと考える。どうせ「つくりもの」だからと距離をおくのではなく、どうせ「つくりもの」なら、じぶんたちの手でつくりなおしてみようと考える。相対性を受け入れるのではなくて、相対性に賭けてみるのである」(p.75)

*作成:山口真紀
UP: 20061231 REV:
野口 裕二  ◇感情/感情の社会学  ◇社会学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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