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『エピファニーの社会学――解釈的相互作用論の核心』

ノーマン・K. デンジン(Denzin, Norman K.) 19920520 マグロウヒル出版 266p.


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■ノーマン・K. デンジン 19920520 『エピファニーの社会学――解釈的相互作用論の核心』,マグロウヒル出版,266p.  ISBN-10: 4895014363 ISBN-13: 978-4895014366 2650 [amazon]

■内容(「BOOK」データベースより)
社会学や社会心理学のフィールドワークでは、研究者と調査の相手とのかかわりが、常に問題となる。本書はその両者のかかわりを捉えなおすテクストであり、生活史の社会調査をするさいの方法的態度が示されている。本書では、ゴフマン、ギアツ等の豊富な事例やフィールドワークを、批判的に吟味することによって、解釈的相互作用論の視点と態度が具体的に追体験できるようになっている。

■目次

日本語版への序文
序文
凡例

第一章 解釈的視点 1
  1 解釈的遺産 7
  2 世界の解釈への開示 8
  3 解釈的相互作用論とは何か? 16
  4 解釈と科学 24
  5 歴史、権力、情動、そして知識 30
  6 解釈の基準 33
  7 解釈の行程 38
  8 結論 39

第二章 個人誌的経験の確保 41
  1 例 41
  2 概観 45
  3 用語の確定 46
  4 個人誌の解釈 58
  5 結論 64

第三章 解釈過程 66
  1 解釈への段階 66
  2 調査上の問いの枠づけ 67
  3 脱構築 71
  4 捕獲 76
  5 カッコ入れ 78
  6 構成 84
  7 文脈化 86
  8 解釈素材の評価 89
  9 結論 95

第四章 解釈を状況づけること 96
  1 時期、歴史、地図化 97
  2 言語とその意味を習得すること 106
  3 個人、個人誌、社会的類型 116
  4 相互作用状況に個人を関連づけること 121
  5 新参者としての調査者と知識のある主体 124
  6 結論 125

第五章 濃い記述 127
  1 濃い記述がおこなうこと 127
  2 濃い記述の例 129
  3 薄い記述 133
  4 濃い記述の類型 141
  5 良い濃い記述と悪い濃い記述 155
  6 記述と解釈 158
  7 結論 160

第六章 解釈の実行 162
  1 解釈の例 164
  2 解釈がすること 169
  3 解釈と例の諸類型 174
  4 理解 189
  5 結論 196

第七章 結論――解釈的相互作用論 197
  1 解釈 198
  2 個人誌的経験 202
  3 解釈を読むことと書くこと 206
  4 フィクションと解釈 216
  5 ポストモダンの時代における解釈的相互作用論 217

用語解説 221
解説
あとがき
参考文献

■紹介・引用

 第一章 解釈的視点
p1
 本書は、質的調査の様式として解釈的相互作用論をどのようにおこなうかについての書である。

p15
 トラブルは常に個人誌的である。公的問題は常に歴史的で構造的である。個人誌と歴史はこうして解釈的過程で結合する。この過程は、常に個人生活や個人的トラブルを、公的歴史的社会構造に結び付ける。個人的トラブルは、個人的で集合的な危機の契機に噴出する。トラブルは個人の人生のエピファニーの中で、しばしばきわめて詳細に明らかにされる。これらの実存的危機や転換点の出会いは、その個人を公的な舞台へ押し出す。彼/女の問題は公的な問題になる。
 調査者は、エピファニーを個人的なトラブルが公的な問題になる相互作用状況に、戦略的に位置づける。そのトラブルが公的な注目をあつめることになる人を求めながら、公から私へもどる作業をする。

p38
 解釈的相互作用論の核心は、濃い記述、濃い解釈、そして、深く真正の理解にある。


 第二章 個人誌的経験の確保
p45
解釈的研究は、個人誌的に有意味なひとつの出来事、あるいは一人の主体(調査対象者)の生活における一契機から組織される。そしてこの出来事がどのようにして経験され、どのようにして定義され、さらに主体(調査対象者)の生活の多様なより糸をとおしてどのようにして織られるのか、といったことが解釈的研究の焦点を構成する。

p47
解釈的研究は二つの語りの基礎的類型を収集する。一つ目の語りは<個人的経験の物語>であり、それは既に生じてしまった一連の諸経験に、話し手のセルフを関係づけることである。
もう一つの語りである<セルフの物語>とは、語られるままに経験の構造を生成し、解釈する語りである。

p48
セルフの物語は過去、現在、未来を同時に扱う。個人的経験の物語は過去を扱う。セルフの物語は、その人物の生活の中において進行中の問題的な出来事を扱うのである。


 第三章 解釈過程
pp66-67
解釈過程には六つの局面、または段階がある。それらは次のように述べられるだろう。
 (1)調査上の問いの枠づけ。
 (2)現象についての先行概念の脱構築と批判的分析。
 (3)現象を捕獲すること。それを自然的世界に位置づけ、状況づけ、その多様な例を得ることを含む。
 (4)現象をカッコ入れすること。その本質的要素にまで還元し、その本質的構造と特徴が発見できるように自然的世界から取り出すこと。
 (5)構成、またはその本質的部分、諸断片、構造の点から諸現象をもとに戻すこと。
 (6)文脈化、または自然的な社会的世界にふたたび諸現象を再配置すること。

p68
枠づけられた質問は、「なぜ」ではなく、「いかに」の問いでなくてはならない。第一章で論じたように、解釈的研究は問題的な転換点の経験がどのようにして相互行為している個人によって、組織され、知覚され、構成され、そして意味が与えられるかを検証する。

p71
現象を脱構築的に読むことは、既存の調査と理論文献の中で、その現象がいかにして提示、研究、分析されてきたかについての批判的分析を含む(Heidegger,1982,p23; Derrida,1981,pp.35-36; Denzin,1984a,p.11)。

p76
現象を捕獲することは、自然的世界で研究されるべきことを位置づけ、状況づけることを含む。脱構築は過去に現象がどのように処置されたかを取り扱う。捕獲は、調査者が彼/女の研究の中で、現在ある現象をどのようにしているかを取り扱う。捕獲は次のものを含んでいる。

p78
カッコ入れの中で、調査者は現象を厳密な観察下に置く。現象はそれが起きた世界から取り出される。そして分離され、詳細に調べられる。その要素と本質的構造が発見され、定義され、分析される。現象はテクストあるいは記録として、すなわち、研究されている現象の具体例として取り扱われる。それは既存の文献によって与えられている標準的意味の点から解釈されるのでは<ない>。脱構築の段階で分離された先行概念は、カッコ入れのあいだ判断停止され、脇に置かれる。カッコ入れにおいて、主題は、可能なかぎり、主題自身がいうとおりの条件で対峙させられる。

p84
構成はカッコ入れを基礎としている。それは現象にもどって分類し、秩序づけ、筋のとおった統一体へと現象を再び集めることである。もしカッコ入れが分離することであるならば、構成は再びつなぎあわせることである。

p86
文脈化とは、現象について学んできたものを取り上げ、カッコ入れを通して、それが起こった社会的世界に、その知識を適合させることである。文脈化は現象を、相互作用している個人の世界の中で生き返させる。文脈化は、現象を、研究されている人物の個人誌と社会的環境の中に位置づける。〔つまり、〕それは人びとにとっての意味を取り出す。それは、人びとの用語、言葉、そして情動で提示する。そして現象が普通の人びとによっていかに経験されるか、を明らかにする。文脈化はこうしたことを、人びとの相互作用する世界で起こる現象を濃く記述することによって、成し遂げる。


 第4章 解釈を状況づけること
p96
 どのような研究であれ、首尾一貫した個人誌的な経験についての研究は、自然な社会的世界の中に位置づけられなければならない。この章では、解釈的研究を状況づけるさいに含まれている問題を取り扱う。この議論は、最終章で述べられる「捕獲」(capture)の分析につながるものである。捕獲において、調査者は、複数の事例と、問題を経験している、あるいは、研究されようとしている現象を経験している諸個人の個人史とを手に入れる。個人史、個人的な経験、そしてセルフの物語は、それらの諸個人から入手され解釈される。
 解釈を状況づける、あるいは、位置づけることは、次の各段階を含んでいる。(1)問題を経験している諸個人が、いつ、そしてどこで、一緒になり相互行為をおこなったかを決定する(これは、時期、歴史、地図化(mapping)の問題である)。(2)その場に接近する手段を手に入れる。(3)その状況において話されている言語、用いられている意味を習得する。(4)諸個人、個人誌、社会的類型を、相互作用の当該状況に関連づける。

p97
調査者は、諸個人を状況に関連づけなくてはならない。私はこれを<時制的な地図化>(temporal mapping)と呼ぶ。これは、二つの相関する過程を含んでいる。(1)その場における、諸行為の時間的連続性、組織化について決定する。(2)空間に、場と人びととを位置づける。つまり、どこにそれらの相互作用状況が位置づけられるのか? どのような社会構造であれ、社会的状況を共にし相互行為する諸個人から成り立っている。諸個人は、そうした状況で、個人的トラブルをかかえていたり経験したりする。このような場で、個人的トラブルについての物語が語られる。それらの物語は、解釈的研究にとっての素材を構成するものである。

pp97-98
 地図化の過程は、いくつかの理由から重要である。まず第一に、研究されている過程が、社会構造上どのように区分されているのかについて調査者が知っているのでなければ、彼/女〔調査者〕は、変則的な、典型的ではない現象例を研究することになるかもしれない、というリスクを負うことになるからである。第二に、地図化は、調査行為の中に歴史的側面を作りあげる。研究されている各個人は、観察された出来事や危機、問題に、それぞれ歴史的‐個人誌的関係をもっている。(その意味では、地図化は諸個人を状況に関連づけすることを含んでいる。これは、個人を地図化するという以下のトピック〔第四節〕で論議される。)第三に、研究されている地点――つまり、グループ・ミーティングの場所、ホットライン、仕事の場所、暴力のふるわれた家、診療所など――には、それぞれ社会構造の中での歴史がある。この歴史には二つの側面がある。一つは、地点には、他の地点と共通の歴史があるということである(以下の議論を参照)。二つめは、地点には、それぞれ独自の歴史があるということである(例えば、いつ設立されたかなど)。
 時制的な地図化が重要である第四の理由は、個人誌と個人的経験に関係する。時制的な地図化は、調査者も含めた各人が通らなければならない過程である。アルコール中毒者、虐待された女性たち、あるいはバスケットボールの選手たちも、彼/女らが参加している相互行為がいつどこでなされているのか知っていなければならない。虐待された女性は、ソウル・ホットラインの受付時間を知らなければそこに電話することはできない。アルコール中毒者は、AAのミーティングがいつどこで開かれているのかを知らなければ、彼/女の物語をそこで語ることはできない。調査者の経験は、虐待された妻が初めて虐待をうけて助けを捜し求めるという経験に似たものであろう。つまり、調査者は、問題の社会構造を見い出し、そこへ到達する道を学ばねばならないのである。これは、解釈される現象へいたる道筋を生きる、その過程の一部である。

p100
 接近手段の獲得と、時制的な地図化の各段階
(1) トラブルが持ち込まれた制度的な地点を確認する。
(2) その地点を明らかにし、そこで進行する相互行為と経験とを研究するという、〔調査者の〕要望にかかわる説明を展開する(Adler and Adler,1987,pp.39-43を参照)。
(3) それらの地点を列挙し、住所番地を確認し、その地点における相互作用を構造化する時系列を決定する。
(4) 可能な限り初期の段階から、地点の歴史と、他の地点との(歴史的・相互作用的な)関係とを記述する。
(5) 日常的にその地点にやってくる人物を特定する。
(6) その地点に定着している人物から、個人史を手に入れる。
(7) 危機やエピファニー〔劇的な感知〕にかかわる個人的なセルフの物語について、その場の諸個人から聴き取りを開始し、収集する。
(8) 問いかけと調査項目の洗練を続行する。これには、「いかに」問いかけられた問題に答えられるのか、また、研究されている諸個人(と集団)にとって個人的なトラブルであり続けるのか――についての問いかけと聴き取りとが含まれる。

p106
調査者がその対象となる調査場面において作業するさい、言語とその意味の問題が重要なものとなる。どのような集団にも、<イディオレクト(個人言語)>(Barthes,1967)や特別な言語が発達する。この言語には、他の集団では一般的に話されていないような、ある種の用語や概念が含まれている。日常的な言葉に結び付いた特別な意味が含まれている。また、一緒に運用する言葉についてのコードや規則のセットが含まれている。この意味で言語は、明らかにされなければならない制度的歴史的継承物なのである。どのような集団であれ、異なった言語コミュニティなのであるから、調査者はまず話されている言語を習得することから始めなければならない。

pp106-107
 言語を習得する段階
(1) その場で、鍵となり、繰返されている用語やフレーズを抽出する。
(2) それらの用語が、その場で、初心者・新参者・古参者・男性・女性を含む社会的諸類型によって、どのように用いられているかを確定する。
(3) それらの用語やフレーズが用いられている、印刷された、および、口頭で伝えられた、鍵となる文化的なテクストを位置づける。
(4) 社会構造や集団の文化において、地点や性別や〔所属している〕期間の長さによって異なる意味や用法の差異を抽出する。
(5) それらの用語の含まれている物語や報告(statement)を収集する。
(6) それらの用語を個人的な経験に関連づけし、それらの意味や用法がどのように経験を構造化するのかを示す。

p107
言語は、理解と解釈の課程を構造化し、作りあげる。第一章で述べたように、解釈は、出来事や報告の意味、あるいは過程を明らかにする。理解において、個人は、解釈されてきたものの意味を把握する。理解と解釈とは、情動的な過程である。それらは、共有された経験と共有された意味とを含みこんでいく。もし経験を組織している言語とその意味が理解されないならば、経験は共有されえない。共有された言語的理解があるから、個人は共通の過去と計画された未来(Couch,1984,p.1)とを構築できるのである。


 第五章 濃い記述
p128
濃い記述は、迫真性を作り出す。すなわち、記述されている出来事を経験したことがある、もしくは、それを経験することができた、という感覚を読み手に作り出すような真に迫った報告(statement)を作り出す。もし、《論理的に正しく適切であり、確認され実証されることが可能であるような》説明を作り出す能力があることを妥当性をもつと呼ぶとすれば、濃い記述とは妥当性を持つ経験についての報告であると言えるだろう。

p134
薄い記述において、調査者はしばしば、一次的で経験に近い概念や用語のかわりに、二次的で経験から離れた社会科学の言葉を用いる(Schutz,1964; Geertz,1983,pp.57-58)。経験に近い概念とは「誰か――患者や調査対象者、我々の場合では情報提供者――が、彼もしくは彼の仲間が見たり感じたり考えたり想像したりするものを、定義するために自然に使用する概念である」(Geertz,1983,p.57)。経験から遠い概念とは「専門家実験者、エスノグラファーが科学的な目的に向けて使用するものである。愛は経験に近い概念であり、『対象カセクシス』は経験から遠い概念である」(Geertz,1983,p.57)。経験に近い概念は日常の言語に由来し、経験から遠い概念は社会科学の理論に由来する。薄い記述は経験から遠い概念を用い、濃い記述は経験に近い概念を使用する。

pp141-142
充分な、すなわち、完全な濃い記述というものは、個人誌的、歴史的、状況的、関係的で、かつ相互作用的である。しかし、すべての濃い記述が充分で完全なものとはかぎらない。関係性に焦点を置くもの、個人に焦点を置くもの、状況に焦点を置くものなど様々である。したがって、どの側面に主に焦点を置いているかに応じて、濃い記述を分類することが可能である。私は、次のような類型を区別している。(1)ミクロな記述、(2)マクロな歴史的記述、(3)個人誌的記述、(4)状況的記述、(5)関係的記述、(6)相互作用的記述、(7)侵入的記述、(8)不完全な記述、(9)注釈された記述、(10)純粋に記述的な記述、(11)記述的で解釈的な記述。

p159
濃い解釈は、体験の世界の内部において有意味な分析と理解のシステムを構築する。それは、あらゆる経験は二つの水準の意味を持つということを前提としている。つまり、表層的(すなわち意識的)水準と深層的(すなわち無意識的)水準である。(Freud,1900[1965])。意味は、解釈において捕獲されるべきものであって、シンボル的なものである。意味は同時に表層へも深層へも入り込む。濃い解釈は、相互作用の経験から流れ出てくるこれらの重層的な意味構造を解明し記録しようとする。濃い解釈は、どのような状況でも重層的な意味が存在するということを前提している。どんな経験でも、二人の個人にとって同じ意味を持つことはない。そのような理由から、意味は感情的であると同時に個人誌的なのである。

p160
 濃い解釈は以下の特徴をもつ(次の章で敷衍される)。
(1) 濃い記述に基づき、それを解釈する。
(2) 意味はシンボル的であり表層と深層で作用する、ということを前提とする。
(3) あらゆる相互作用経験の中に存在する重層的意味を解明しようとする。
(4) 調査される人びとにとって有意味な解釈を構築するという目標を持つ。


 第六章 解釈の実行
p170
解釈は、解釈者によってなされる。二つの解釈者のタイプがある。すなわち、記述されたことを実際に経験してきた人びとと、いわゆる事情通の専門家たちで、後者の専門家たちとは多くの場合、エスノグラファー、社会学者、あるいは人類学者である。解釈者のこれらの二つの類型(局域的と社会科学的)は、濃く記述された経験の同じひと組に、しばしば異なった意味を与える。(解釈のこれら二つの類型における相違については、以下で論じよう。)

p172
解釈の主目標は、研究される人物の経験を構造化するこれらの理論を解明することであり、それはしばしば物語の形で語られる。第一章で論じたように、解釈的相互作用論は、特定の目的にとって、解釈の局域的理論を発見すべきであることを前提にしている。局域的理論が発見されたとき、調査対象者の行為を報告する概念構造が発見されるだろう。

p173
前章で、私は、経験には常に少なくとも二つのレベルの意味、つまり表層的と深層的とがあることを示唆した。ある行為が表層で意味するものは、おそらく深層でもっとシンボル的レベルで意味するものとは異なっている。出来事は、言語のうちに経験され把握されるがゆえに、シンボル的である。これは、解釈が常にシンボル的であることを意味する。

p174
解釈には、それらの基礎となる記述と同様に、ミクロ的、マクロ的、個人誌的、状況的、関係的、相互作用的、侵入的、不完全な、注釈された、濃い、あるいは薄いものがあるだろう。これらの類型(第五章を参照)の論議を繰り返すのではなく、私は次の解釈の諸類型にのみ焦点をあてたい。すなわちそれは、(1)薄い、(2)濃い、(3)当事者の(native)、(4)観察者の、(5)分析的、(6)記述的-文脈的、(7)関係的-相互作用的である。
 薄い解釈――とっさの叫び(response crise)  薄い解釈は注釈である。

p175
濃い解釈――アルコール中毒者のスリップ 濃い解釈は、濃い記述(第5章の終わりの論議を参照)を練り上げ、それに基づく。濃い解釈は、文脈、相互作用、および歴史をその中に組み入れる。

p176
当事者の解釈、文脈-関係的――虐待された妻たち 当事者の解釈は、先に論じたように、実際に経験に関わった個々人の局域的な知識によって、経験の意味を述べている。

p177
観察者の解釈 観察者の解釈は、独自的でありうるし、研究される人びとの声を抑圧することもありうる。それは、彼らの経験を観察者の言葉によって提示する(ギアツからの例を参照)。他方で、そのような解釈は、対話的で多声的なこともある。すなわち、それらは、観察者と研究される人びととの対話を反映し、また、書き手のテクストから多くの異なる声や解釈を語らせる。

p179
 分析的解釈 分析的解釈は、抽象的で、しばしば因果的な図式を、一組の出来事や経験に押しつける。それは典型的には、観察者が調査の状況に押しつけてきた理論に由来するが、場に由来することもありうる。
 記述的―文脈的――ジャズの演奏 記述的―文脈的解釈は、解釈される具体的経験に適合する。それは、必然的に、個人誌的で歴史的、個性記述的でエミック的である。それは、特殊化されたものであり、そのユニークな特性や規模の点から、事例あるいは経験を解釈する。

p180
 記述的解釈の二つの類型――事実的および解釈的 記述的解釈には二つの類型がある。第一のものは事実的なものである。記述的−文脈的解釈は、一連の経験を客観的に記録するものと考えられている。第二のタイプは解釈的なものである。それは、経験の当事者による語りの説明に基づいている。客観的―記述的解釈は事実で始めようとする。解釈―語りの説明は、経験を解釈されているものとして提示し、実際に正確であることや、それ自体が事実に基づくことを主張しない(以下の議論および前の十二のステップの議論を参照)。
 関係的−相互作用的 関係的−相互作用的解釈は、状況のうちに生じる社会関係や相互作用(行為)の面から一連の経験を理解する。

p183
分析的帰納(および解釈)は、理解さるべき現象を徐々に定義し解釈する過程である。抽象的に記述すれば、それは次のステップを含んでいる。
1. 現象の定義を定式化する。
2. 現象の当初の解釈を定式化する。
3. この解釈に照らして、事例あるいは一連の事例を点検する。
4. 否定的事例、あるいは経験的不規則性が生じた場合、解釈を再定式化する。
5. すべての事例について普遍的、あるいは全包括的解釈が定式化されるまで、この過程を継続する(Denzin,1978,p.192;1988,chap.8を参照)。

pp189-190
 ちょうど、記述が解釈の枠組を供給するのと同様に、解釈もまた理解の条件を作り出す。理解は相互作用的過程である。理解は、ある人が他者の経験に参入し、「他者によって経験された、同一のあるいは類似する経験を自身で経験する」(Denzin,1984a,p.137)ことを要求する。「自分自身の観点から他者の情動的経験を主観的に解釈することは、情動的理解の中心である」(Denzin,1984a,p.137)。これは、共有された、および共有されうる情動性が、理解過程の中心にあることを意味する。

p190
 理解には二つの基本的形態がある。すなわち、認知的と情動的である(Denzin,1984a,pp.145-156)。情動的理解は、情動性、自我感情、および共有された経験が、相互作用的−解釈的過程に入り込むにつれ、情動的経路に添って移行する。認知的理解は、対照的に、合理的、秩序的、論理的で、情動的感情から分離したものである。認知的理解が、情動を包摂し、論理、根拠、および合理性と置き換えることもある。実際には不可能でないとしても、これらの二つの理解の形態を分離することは困難である。
 これらの理解の二つの形態は、二つの付属的カテゴリーに分割されうる。第一のものは、擬似の理解である。これは、個人が他者の経験に、表面的に参入した場合に生ずる。擬似の理解においては、人は自分の理解を他者へ投影する。これは、しばしば、他者の視点に参入するのが嫌であるために生じる。それはまた、自分の感情を他者の感情と取り違えるがゆえに生じる。それはまた、他者の行為や経験についての、薄い、あるいは怠慢な記述によって生み出されることがある。
 私が導入したいと思っている理解の第二のカテゴリーは、真実のあるいは本物の情動的理解である。これは、人が他者の経験に参入し、他者によって感じられたものと類似する経験を、再生し、あるいは感じる場合に生じる。これは、共有された情動的経験が本物の情動的理解の根底にあることを意味する。先の区分を前提とすれば、ここでさらに次のような説明を加えることができる。つまり、認知的および情動的理解に対応して、認知的および情動的解釈がある。認知的解釈は、経験から情動をはぎ取る。それは、ただの事実を扱う。それは薄い記述に基づいている。[一方]情報的解釈は、情動と感情にあふれている。

p193
<簡潔に述べれば、解釈の目標は、研究している現象の真実で本物の理解を構築することである>。これが、濃い記述が解釈的研究にとって非常に重要であることの理由である。それは、迫真性を生み出し、それによって、読者が研究対象となっている人びとの情動的経験に参入することを許すのである。


 第七章 結論――解釈的相互作用論
p197
質的研究のひとつの様式として解釈的相互作用論をいかに実行するかという、ここでの考察での基本的問題は、次の二つの目的に答えるものである。一つは、解釈的研究の仕組を描くこと、もう一つは、人びとが自己やその経験に付与する意味を根本的に変化させる生活経験についての研究上の中心点を明らかにすることである。

pp202-203
人生における実存的で問題的な瞬間やエピファニーに関する四つの主要な構造やタイプを指摘することができる。第一に、主要で、人生のあらゆる基盤に触れる瞬間〔契機〕がある。第二に、長い期間に渡って進行中の出来事に対する瞬時で、激しい反応を意味するエピファニーがある。第三に、人との関係の中での主要な問題的契機を、副次的だが象徴的に示す出来事がある。第四の、そして最後の出来事は、その効果は間接的だが、その意味が後になって、出来事の想起や活性化の中で与えられるものである。問題的経験のこれらの四つの構造に対して、次のような名前をつけておこう。(1)主要なエピファニー、(2)累積的なエピファニー、(3)照射的、副次的なエピファニー、(4)再体験的なエピファニー(もちろん、どのようなエピファニーも再体験しうるし、新しい想起による意味を付与される)。これらの四つのタイプは、もちろん相互に依存している。


■言及

片桐雅隆.20030210.『過去と記憶の社会学――自己論からの展開』世界思想社.
 一方、個人誌を書き換えられるものとする視点から扱った不可欠な研究として、N・K・デンジンのエピファニー論がある。デンジンは、ひとは必ず、その人生において転換点となる出来事に遭遇し、その出来事を契機として人生を見直す=個人誌を書き換えることが不可欠であると指摘する(Denzin 1989)。そのような人生における転換点が「エピファニー(epiphany)」=劇的な感知(ibid. 141[221])で〈3〉ある。
 その後の人生を大きく転換するような問題的経験の瞬間が主要な(major)エピファニーであり、それは考えるまでもなく今までの同一性を大きく揺さぶり、個人誌の書き換えを求める出来事である。しかし、転換点は、必ずしもそのようなものには限られない。主要なエピファニーのように劇的でなくとも、それが累積することによって個人誌の書き換えをせまる契機となるかもしれないし(累積的エピファニー)、後で人生を振り返ったときにそれが自分の人生の大きな転換点となったことを意識させるような出来事もある(再体験的なエピファニー)。また、転換点となるような問題的契機を潜在的に思わせるような、緊張や対立を含んだ経験も考えられる(照射的エピファニー)。
 デンジンのエピファニー論は、あくまで調査論として書かれており、何がそのひとのエピファニーであるかを決めるのは調査者である。したがって、その本人には気づかれないが、読み手としての調査者から見ると、そのひとの転換点をなすと解釈される照射的エピファニーという分類も立てられている。その意味では、エピファニー論は、あくまで自己の構築のあり方として過去の書き換えを問おうとするわれわれの視点とずれる面を含んでいるが、過去の書き換えが一回のエピファニーによってなされるとは限らないという指摘は重要である。(pp. 55-56)

高井葉子.20030707.「インタビューの現象学――〈あなた〉の前にいる〈私〉の経験」. 桜井厚編『ライフストーリーとジェンダー』せりか書房, pp. 21-44.
 鷲田が〈共同の現在〉とよぶ場を、インタビューの場に見たててみよう。「繋留される」二艘の船が、ゆらゆらとした動きのなかで否も諾もなく近づいたり離れたりする光景は、「私」が、「あなた」に近づいたり離れたりする様と重なる。そして、「あなた」という舟に近づいたと感じたとき、私は、あなたの語る言葉だけではなく、あなたの感情の一部についてもより深い理解ができたと感じてしまうのである。
 それは、デンジンも言うように、「他者の経験に入りこむこと」Denzin 1989: 121)であり、たとえ一部であれ、「あなた」という女性と同じ世界を見たと感じる経験である。このような感覚を「オーバーラポール」として、危険視する見方もある。しかし、語り手の世界の住人の一人になったように感じることができた時が、インタビューの醍醐味を味わうときというのも事実である。理解とは、「他人の思考を過去時制においてとらえるのではなく、その生き生きとした現在においてとらえる」(シュッツ 1980: 151)ことであり、見たように知ることは、理解の位相のひとつである。(p. 35)

麦倉泰子.20030707.「障害とジェンダーをめぐる複数の視線――知的障害を持つ男性のセルフ・ストーリー」. 桜井厚編『ライフストーリーとジェンダー』せりか書房, pp. 45-64.
 私の調査の計画もこうした知識を出発点とするものであった。知的障害がある男性は、結婚というライフイベントに関して、障害による二重の差別を経験している可能性がある。その経験の詳細を聞くことが調査の一つの目標であった。実際、Aさんの語りも、「その障害をいかに定義し、対処しようとしていったのか」という一つの時代における障害をめぐる知識と、それに基づく制度のありかたに大きく影響されている。しかしながら、社会的な障害と障害者の性・結婚への意味付けの側面のみに注目し、こだわることは、Aさんの語りの多様性・個別性を無視するという結果を招くだろう。デンジンが調査もまた一つの権力であると指摘しているように(Denzin 1989=1992: 31-2)、自身の調査がそうした差別の文脈の一つであることに無自覚であることによって、調査者の側の権力に基づいた解釈、記述による差別の文脈の再生産に寄与することとなるのである。(p. 49)
 以上のような考察を、再度Y地域生活支援センターに提出した。それから約一ヵ月たった後、Y地域生活支援センターから再び電子メールで連絡が入った。そこには、職員が「不安定」という言葉を使ったことに対する私の考察について、「真実でない」とし、「真実」のA氏の蚤言は次の通りであった、という内容が書かれていた。すなわち、「もう(調査者である私と)会いたくない。いろいろなことを聞かれるのは嫌だし、困ってしまう。彼女になってデートでもしてくれるのなら話は別だけど。自分では断りづらいので、Y地域生活支援センターの職員から、不調だとか停滞気味だとか、うまい書言って断ってくれ」とA氏が電話で職員に話した、とのことであった。私は、職員に語られたというA氏の発言を読み、私自身が「いろいろ聞く」ことに対して、A氏が不快な思いを抱いていたことを知り、少なからずショックを受けた。それは、現場に入っていき、個人的なことを根掘り葉掘り聞く、という行為自体を可能にしている、「科学」そのものが持つ権刀性、さらにそれに拠って立つ「調査者であること」権力性(Denzin 1989=1992: 31-2)に、あまりにも無自覚であった自分を、嫌というほど思い知らされる言葉であった。(pp. 62-63)

江口重幸.20041030.「病いの語りと人生の変容――「慢性分裂病」への臨床民族誌的アプローチ」. やまだようこ編『人生を物語る――生成のライフストーリー』ミネルヴァ書房, pp. 39-72.
私は細部を詮索するように促したわけではなかったが、いつもは目立たず控え目なBさんが、生き生きと語る姿に、かつての彼女の姿が重なり、自然と長い語りに耳を傾けることになった。それらは、発病というよりは、デンジン(Denzin, 1989)が、聖なるものの顕現を意味する「エピファニー(epiphany)」という宗教用語を用いて言おうとした体験であり、人生の中に劇的な意味が析出する経験を語った貴重なストーリーであると感じられた。おそらくこれは、それまでの医療機関で、病歴を飾る挿話として断片的に語られたことはあっても、自分が生きた経験という文脈に即した形では誰に話されることもなく、またBさん自身もそのような必要性すら感じなかったものであろう。つまり、準備されたものでも、自分で系統的に回想することもなかった記慮である。母親も本人も、それぞれのストーリーは、医療場面で話すようなことではないと何回もためらう様子であった。そしてそれは、いくつかのエピソードについてはやはり言葉にできず「蓋を閉めたままにして」おきたいという母親の言葉にもあらわれていた。(p. 49)

野口祐二. 20050125.『ナラティヴの臨床社会学』勁草書房.
 これに関連してもうひとつ検討しておかなければならないのは、それぞれのナラティヴが「社会」それ自体をどのように描き出し、「社会」とどのように接続するのかという問題である。ここで、かつてデンジン(Denzin,1989)が論じた「エピファニー」という概念が参考になる。デンジンはわれわれが人生で出会う大きな転機のなかに個人的問題が社会的問題と関連付けられる契機が含まれていることを見いだした。「トラブルは常に個人誌的である。公的問題は常に歴史的で構造的である。個人誌と歴史はこうして解釈過程で結合する。この過程は常に、個人生活や個人的トラブルを公的歴史的社会構造に結びつける」。(pp. 233-234)

古賀正義. 20010910. 『〈教えること〉のエスノグラフィー――「教育困難校」の構築過程』(認識と文化 12)金子書房.
 社会学者デンジン(Denzin, N.)は、認識の変容の契機となる象徴的出来事を「エピファニー」(epiphany)、すなわち「劇的な感知」と呼んでいる(*14)。基本的にはそれは、個人が自己の経験のなかで職業や性など自己のアイデンティティを確認するような忘れがたい出来事であり、しかも、個人だけでなく現場の他の人々にとっても、経験の転換点として理解されるような印象深い出来事である。特にそれは、例えば父親の失職や生徒のいじめなど、個人が危機に直面し経験した「問題的な他者との相互作用状況の出来事」として語られるという。
 「授業不成立」の出来事が、いわばエピファニーとして、教師たち個々人に指導活動の意味的な転換を促す最も代表的な事例は、最終的に教務手帳事件で休職を余儀なくされた数学教師のケースにみとめられる。(p. 151)

中野卓. 19950215. 「歴史的現実の再構成――個人史と社会史」.中野卓・桜井厚編『ライフヒストリーの社会学』弘文堂, pp. 191-218.
 「デンジンによれば、ストーリーはフィクションであって、実際の、また想像上の出来事から構成されたものである」と桜井厚(一九九二)(*12)は紹介してこの点に批判を加えていないけれども、私はライフストーリーが文学作品ではなく、ライフヒストリーとされるとき編者たる研究者は「真偽(*13)」つまり「歴史的現実とみなしうる信憑性」の有無に注意を払う必要があると考えている。現実に「生きられた生において経験したこと」について語っているのかどうかの信憑性であり、生の経験の語りと作り話との区別を軽視してはライフヒストリー、人生の歴史はなりたたない。現実に生きられた生において経験したことについて語られているのか、創作(フィクション)にみられるような架空の人生のストーリーなのかは、ライフヒストリーにとっては大切な違いである。創作作品まで歴史的現実再構成の資料とすることはできない。「真偽」をあげつらうのは「古典的」で「ポスト・モダーン」な考えではない(デンジン・桜井)と批判されても、社会学が歴史的社会的現実を対象としている限り、現実の人生と創作された文芸を区別しないわけにはいかない。現実の人生に即して語られたライフストーリーは、その信憑性に応じてライフヒストリーとして社会史のなかに位置付けることが可能であるが、フィクションは文学史のなかに位置付けることのほうがふさわしい。(p. 204)
 (*12)桜井(一九九二)五六頁(Denzin, op. cit., p. 41.)
 (*13)桜井(一九九二)六七頁(Denzin, op. cit., p. 50.)

桜井厚. 19950215. 「生が語られるとき――ライフヒストリーを読み解くために」.中野卓・桜井厚編『ライフヒストリーの社会学』弘文堂, pp. 219-248.
 ひとつは意味解釈上の問題で、一部の意味世界から社会的文化的コードといわれる意味構造のヒエラルキーにまで到達するのは、かなりやっかいである。実際のチェスゲームからチェスのルールの全体をけっして導き出すことができないように、ライフヒストリーの理解と解釈から社会的意味世界の全体像を描き出すことはきわめて困難だ(松田[1989])。しかもそうすることで、ライフヒストリーの主体の位置づけがたいへんあいまいになるという点がもうひとつの問題である。結局、調査者/研究者の解釈が先行して存在しているため、解釈が記述のなかに入り込んでライフヒストリーそのものの記述を形成することになりかねない。そうなると、読者は「当事者の視点」や主体の経験に接近することができない。読者は調査者/研究者の解釈や経験を通してライフヒストリーを読むように求められる。こうした記述をノーマン・デンジンは「侵入的記述」(Denzin[1989 a=1992:151])と名づけて批判しているが、アグネス論文はこのような装いをもっている。(p. 227)
(略)
 問題のひとつはフィクションの理解についての両者のちがいにある。中野は、フィクションを「作為的な歪曲」あるいは「恣意的な歪曲や創作」と同じものと考え、だからこそライフストーリーをフィクションとみなすことに反対している。それに対しデンジンは、フィクションはなにかしら経験から作られており、しかも真理と対立するものではないとし、「起こったこと、何かを意味することについての、観察者や調査対象者の説明をふくむという意味において、あらゆる解釈はフィクションである」(Denzin[1989a=1992:216])という。ここで、すべての解釈がフィクションであるとデンジンが主張するのは、方法論的なふくみからである。それは、調査者(研究者)が集団や個人について客観的に説明したり、他者の現実を自分の解釈でおきかえたりする様式から自由になって、語りの聞き方を学びかつ解釈のさまざまな表現をおこなう方法をうながすためである。すなわち「研究される世界を見る解釈の窓を広げる」[Ibid:217]ためなのである。しかし、問題はこうした研究上の戦略的な意図にとどまるわけではない。(pp. 239-240)


*作成:植村 要
UP:20071022
BOOK ◇社会学
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