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『からだの知恵に聴く――人間尊重の医療を求めて』

Frank, Arthur W 1991 At the Will of the Body: Reflections on Illness, Boston: Houghton Mifflin Company
=19960520 井上 哲彰 訳,日本教文社


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■Frank, Arthur W 1991 At the Will of the Body: Reflections on Illness, Boston: Houghton Mifflin Company. ISBN-10: 0618219293 ISBN-13: 978-0618219292 [amazon] ※=19960520 井上 哲彰 訳,『からだの知恵に聴く――人間尊重の医療を求めて』,日本教文社,ISBN-10: 453108098X ISBN-13: 978-4531080984 1631 [amazon] ※ sm.,

 *2008/04/19 アーサー・フランク研究会第2回報告資料


■報告担当
 矢野亮 pp.1-70
 福田茉莉 pp.70-140
 山口真紀 pp.141-Last


苦しみの極致にいる患者とさえ、病いという現実についての生々しい体験について話すことはできる。・・・・・・その体験を見守り、みずからを秩序立てることを助けることは、治療するのと同等の価値があるのである。
                  ――アーサー・クラインマン『病いの物語』

だれかが私に手紙を書いてきた。「あなた自身の病いの体験を、ぜひとも知りたいのです」
 はたしてこの興味はどこからくるのだろうか?
 病気の人がつねに興味深いとはかぎらない。むしろそうでない場合のほうが多い。しかし我々はすべて、あえて言えば、処方箋を求めているのである。我々は、みなそうすべきではないと思ってはいても、病気にならずに、苦しまずに、あるいは死なずにすむ方法をだれかが知っていて、我々に教えてくれるのではないかと期待しているのだ。
            ――ナン・シン『ある禅尼の日記―― 一日一日を生きること』

正当なものであれ、道理に合わないものであれ、ほんとうの怒りを体験しないかぎり、愛という感情はほんものにはならない。少なくとも部分的にまがい物が含まれてしまう。ついには、それはひどくゆがんだものになるだろう。
            ――クリストファー・デュラン『ベットとブーの結婚』より


病い――危険に満ちた好機
私は命にかかわる病いを二回にわたって体験した。三九歳のとき、心臓発作に襲われ、四○歳でがんになった。このふたつの病いが治りつつあるいま、なぜ私は当時を振り返り、病いについて書こうとするのだろう。それは病いがある種の機会だと思ったからである。もっともそれは危険に満ちた機会ではあるが――。この機会をとらえるため、私はもう少しく病いとつきあい、病いを通して学んだことを人と分かち合いたいと思ったのである。〔p2:ll.1‐6〕

筆者の地点:「病いがある種の機会だと思った」
動機―それ自体への問い:「この機会をとらえるため、私はもう少しく病いとつきあい、病いを通して学んだことを人と分かち合いたいと思った」

★「機会」の意味をめぐる地点・・・
重篤な病いは、人を生命の限界にまで連れていく。人はその限界点から、自分の生命がだいたいどの辺りで終わるのかを見定めることができる。そういうある意味では有利な地点から、人は人生の価値について新たに見直すことを余儀なくされるのである。生きながら日常生活から切り離され、いままでどう生きてきたか、まだ将来があるのならこれからどういう人生を送りたいかを、はじめて立ち止まって考えることができる。病いは生活の一部を奪い去るが、それと同時に、いままで何気なくすごしてきた人生とは対極にある、自分が主体となるような人生を選ぶ機会を与えてくれるのである。〔p2:?7‐13〕

★以上の現地点から眺めると・・・
新しい人生を発見してはじめて、回復は価値あるものになるともいえるのである。

★「回復」の意味
 回復はさまざまな意味をもつ。
心臓発作後の「回復」・・・その体験をすべて忘れ去ることを意味した。私はまるでなにも起こらなかったかのように、以前の健康状態にもどろうとした。
がんになった後の「回復」・・・がんには「治癒」が存在しないことを私は思い起こさずにはいられなかった。がんには「退縮」しかないのだ。

さらに大きいのは体験がもたらすインパクトの違い
がんになった後は、以前の状態にもどりたいという欲求そのものが消え失せていた。
若い人たちや健康な人たちにはわからない、多くの苦しみを私は味わった。病後、私は同じ人生をくり返そうとは思わなかった。
私は過去の自分を取りもどすことよりも、自分を変えることを望んだのだった。本書を書いたのもその一環である。
回復を病いの理想的な終結とみる考え方には大きな問題がある。
そのまま回復しない人もいるということ・・・もし回復を理想と考えれば、慢性病や死に至る病いには価値を見いだすことができなくなる。我々は回復よりもむしろ新生ともいうべきものに目を向けるべきなのだ。治らぬ病いにも、死にも、新生のチャンスはありうるからである。
?
病いが提供してくれるチャンスをとらえるには、病いを積極的に生きなければならない。病いについて考え、話す必要があるし、私のように病いについて書くことも必要になってくる。考えたり、話したり、書いたりすることによってはじめて、我々は個人として、社会として、病いを十分に受け入れることができる。そうしてはじめて、病いが特別なものではないことがわかるのだ。
私は病いを自分のものとして受け入れる条件のようなものを見いだすために、本書を書こうと思っている。病いの体験に入り込み、その可能性を見極めたいと思っている。とはいえ、病気になることに愛着をもとうとまでは思わない。チャンスをとらえるということは、病いをフルに体験し、自分を解放することを意味するのである。
本書のなりたちは、私が病気のあいだに交わした会話や手紙に多くを負っている。
また友人や親戚と交わした手紙によって、自分が「より大きな自分」の一部であるという感覚も生まれていった。
私は人の体験も自分のものとして生きることができた。自分の体験と人の体験の区別がなくなっていったのである。

前提としての実情の認識
実際、病気の人のほとんどは会話を奪われている。多くの人がみずからの病いについて話すのをためらっている。病いの話といっても、もちろん診断や治療のことではない。ほとんどの病人が話題にするのは医師や医療関係者のことであって、自分たちのことではないのである。病人は患者として、すでに何人もの患者がしゃべっていたことをくり返しているにすぎない。病人は彼ら個人のドラマをけっして話そうとしないのだ。
病人には、みずからについて話すことがたくさんあるはずである。しかし病人は、希望や恐怖、痛みを生きるとはどういうことか、あるいは苦しみや死の意味などについてめったに語ったりはしない。そういう話は健康な人を当惑させるからであり、そういう話をする習慣がないからである。だからむずかしい。それに、病いは語るべきことではないと思っている人が多い。そのため、病いをまわりの人とともに体験するというチャンスを病人は逃している。他人とともに体験することで、新しい生はもっと容易になるというのに。

本書の目的と限定性
対処についてのなんらかの証言にはなると思う。私はそれで十分だと考えている。
私はいわゆる専門家の立場で本書を書こうとは思わない。
私は病いのいくつかの側面を観察しただけのことである。
本書が病いについて話したり、考えたりする出発点を提供できたらと思っている。私の体験は、いかなる意味でも人が体験すべきものではない。病気に模範などないのだ。我々はみな自分で自分の対処方法を見つけなければならない。しかし、必ずしも孤独になる必要はない。
話すことそれ自体は痛みや喪失感を乗り越える唯一の手段ではないと思うが、もっとも信頼できる手段であることはたしかだ。本書が病める人にとってのよきパートナーとなり、人との会話のきっかけとなれば幸いだと思っている。

「読者」へ
 私は現在病気にかかっている人をまず念頭において、本書を書いていこうと思う。しかし、だれもが病気になるのだろうから、それ以外の読者にも病いの意味を考えるうえで役に立つものと思う。また病人のケアをする人たちにも読んでもらいたい。ケアをする人と十分に話をすることを、私は病人にすすめたい。ケアする人とは、病いの体験を自分と共有してくれる、病いの体験のもう一方の側でもあるのだ。ケアは病人のめんどうをみることに始まり、病人の生を共有することで終わる。では病人と、いったいなにを共有していくのか。それについて本書がなんらかの提示をできればと思う。

諸々の断絶
※危機的な病いは、生のいかなる側面をも揺さぶらずにはおかない。危機的な病いにかかった人のためにつくられた病院や特別な施設は、病人を健康な人から切り離すことによって、病人の生における病いをも封印できるという幻想を産みだした。この幻想は危険である。危機的な病いによって、人間関係、仕事や自分に対する意識、将来の自分、人生の意味、これらすべてが変わるのであり、その変化はすさまじいものである。私は二度にわたって、自分のからだがどのような変容をとげるのかを身をもって知ったわけだが、こうした変化に私はまさに圧倒されたのである。
※私は病気に襲われる前の、若かりし自分に向かって手紙を書くように、本書を書きすすめてみようと思う。


これから私は、病気になる前の自分に、恐れる気持ちはわかるが、だからといって生涯を恐怖のうちにすごすことは愚かだと言ってやりたい。若かりし自分はその後苦しみ、喪失をこうむることになるが、苦しみと喪失は人生と矛盾するものではないのである。
 失うものもあるが、得るものもある。たとえば、より親密な人間関係、より大きな感謝、より透徹した価値観などである。自分がもはやもとの自分にもどれないことを嘆く権利はあるが、こうした嘆きによって、自分がどう変化していくかという認識を曖昧なものにしてはならない。危険に満ちたチャンスを生かそうとする自分の運命を呪ってはならない。自分の可能性を信じるのだ。


病気になる
ある日、私のからだは車が故障するようにダウンした。恐怖といらだたしさのなかで、私はなにが起こったのだろうかと自問せざるをえなくなった。病気になるということは、この問いを発することだ。問題は、からだが心にこの答えを求めているのに、医師が病気の名前を告げることによってその質問を封じこめてしまうことである。この答えは治療をおこなうには便利このうえないかもしれないが、医学もまた限界をもっているのである。

私のからだがダウンしたときに起きたことは、からだだけでなく、私の生にも起きていたのだ。つまりからだがダウンしたとき、生もまたダウンしているのである。医学は、からだの治療はできても、必ずしも生をもとどおりにできるとはかぎらない。医学は故障箇所を診断し、治療することができる。しかし、処理しきれないほどの不安や挫折感が病人のなかに生まれることがある。からだの故障が治ったとしてもそれはいっこうに鎮まらない。そのとき、病いという体験は医学の限界を越えるのである。

心臓発作の体験とその事態をめぐる「知」
【専門的知識】
その週ずっと、なにが起きたのだろうと自問しつづけた。かかりつけの医師は医学的な回答をしてくれた。しかしそれは私の求めていた答えではなかったのだ。
彼は私をドクター・フランクと呼び、私も彼をドクター○○と呼んだ。我々はまるでエラーを出したコンピュータについて相談でもしているかのように、私の心臓について話した。それが問題だった。我々の話は、私か車の修理工と交わした会話よりは高級に聞こえたかもしれない。だが、それは医師も私も曖昧な態度をとっていたからにすぎない。医師は修理工のように細部を語ることはしなかった。私は車にくらべたら少しは心臓のことを知っている。しかも故障したエンジンは私のからだのなかにあるのだ。だが、私は損傷の範囲を聞くことに抵抗があった。
あの会話の問題点は、医師があくまで専門家としての態度をとったことだった。専門に徹するということは、クールに処理するということである。まるで駆け引きでもしているような気分になってしまう。私も同様にクールで専門家的な態度をもって応えれば、チームのなかでパートナーとしての役割を与えられることになる。患者の立場からすれば、それは悪い「取引」ではないことを私は知っていた。だからそれを受け入れたのである。彼はそれを喜んで受け入れた。そのときは「取引」を受け入れることの代償にまだ気づいていなかった。

【支配(隷属化)への気づき】
体験とはそれを生きるべきものであって、支配すべきものではない。からだは自分自身によっても支配されるべきではない。からだは人生の手段であり、媒体である。私はからだの中で、からだを通して生きるのだ。心とからだを切り離すべきではないし、からだを物ととらえるべきでもない。からだがおかしくなっているのにクールでいるべきではないのだ。けれども、患者はつねにそれを強要されている。恐怖心やいらだたしさは病いとは別のものであり、生はそのままで変わっていないという態度をとることを、私は強制されているような気がした。

【非対称的関係】
心臓発作という診断を告げられたとき、私はなにを言っていいのか、医師からなにが聞きたいのかもわからなかった。・・・・・・言いたかったことが言葉にできるものかどうか、今もわからない。けれども、私のからだに何か起きているのかを確認する必要があった。心臓発作に襲われたあの目、私はかぎりなく死に近づいた。それはいつふたたび起きるともしれなかった。そういうからだになれば、人は変わっていかざるをえない。心臓発作だったことを知って、私とからだとの関係が変わったのである。医師にもそれが認識できていたことを、私はなんらかの方法で伝えてほしかった。

【自己のテクノロジーの帰結としての放擲と孤立化】
心臓発作を告げられた私は「祝祭」を必要とした。「祝祭」というのは、必ずしもめでたいことを喜ぶということではなく、その重要性を記憶するということだ。葬式は生を祝う。涙と沈黙はキスや握手のように葬式を祝っている。しかし、医師と私は起きたことを祝ったりはしなかった。ふたりともこの体験を認識することを避けたのである。ふたりは病気のメカニズムについてのみ話すことを許し合った。その結果、私は自分ひとりで病いを祝わねばならなかった。
問題は、私のかかりつけの医師が無能だったということではない。彼は医師として求められていることをきちんとおこなった。そして私は、患者として期待される振る舞いをした。病人として大切なことは、医師の職業的な能力にはかぎりがあるといりことを理解することである。・・・・・・そのことを医師は患者にめったに話さない。医師が話すのは、患者の病気や傷ついたからだの一部のことであり、病いに直面している存在全体についてではないのである。医師がみずからに課したそのような制限は、患者が医師の役割に対応して、みずからに期待されている役割を演じることを強いることになる。私は医師にも病気にも不慣れだったため、このような制限をみずから受け入れていった。そのため、私の生を変え、自分についての考え方を変える病いの大きな力を認識するのに、長い時間がかかることになった。

★「病気」と「病い」の違いの認識⇒主体化(隷属化)への気づきの契機
 ※病気と病いの違いを認識することが、私にとってのとっかかりになった。医学は、医学用語を使うことで、からだを生理に、つまり測定可能なものに還元する。
※患者もすぐに「病気」の用語を使うことに慣れていく。しかしこうした表現を使うことで、自分を失っていくのである。私は自分が体験しようとしている「からだ」が、だれかが測定できる「からだ」になるのはいやだった。

【役割の内面化そして忘却】
人が患者になり、「病気」の言葉を話しはじめると、からだは病気が存在する「場所」のように扱われる。そして患者のからだを「場所」と考える医師に、患者も同化していく。医師と同化することで、病人はより安全で快適でいられる。だからこのような同化現象は理解できるものであるが、すべきことではない。こうした混同の代償として、病人は病気が自分の一部であることを忘れることになる。

【「病い」と「病気」】
病いとは、病気を生き抜く体験のことである。・・・「病い」の言葉は故障したからだを生きる恐怖やいらだたしさを語るものである。病いは、医学が立ち去る場所から始まる。・・・・・からだに起きていることは私の生にも起きる。体温や血液循環も私の生の一部かもしれないが、私の生は測定することができない、希望、失望、喜び、悲しみからも成り立っている。・・・・・・ただのからだではなく、私が体験していく私のからだについて話すのが病いの言葉である。・・・・・・問いつづけざるを得ないからだに変わっていくストーリーを語るのが、病いの言葉なのである。
「病気」の用語がからだの測定に関わるもの・・・・・・からだの測定値を図表化するのは「病気」の用語だ。健康で快適なからだから、自分になにが起きているのかと、問いつづけざるを得ないからだ。


【関係性の制度化(固定化)の体験】
医院であれ、病院であれ、電話であれ、治療の現場においては、測定が可能な「病気」のことしか話してはいけないことになっている。医師と話をしていると私は、自分は話すべきでないということをつねに意識させられる。悪い知らせを告げられたときは、とくに沈黙することになる。病気のことしか質問できないことはわかっている。しかし私か全身で感じているのは、病いなのだ。自分がしたい質問をすることは許されない。話してもいけないし、考えるべきでもないのだ。感じることと、言ってもいいこととのあいだのギャップは広がり、深まっていく。私の声はのみこまれてしまう。

【ほんとうに知りたいこと~制度化の背景に向けた問いへ】
※ほんとうに知りたいのは病いをいかに生きるべきかということだった。私か必要としたのは質問に答えてもらうことではなく、私の新たな生の局面をともに体験してもらうことである。私の体験をいっしょに共有してもらいたいのだ。しかし、医師や看護婦にはしなければならないことがあまりに多く、ストレスも大きい。したがって患者と体験を分かち合うような時間はめったにもてない。
 ※心臓発作に襲われたのだと告げられれば、話したいことは山ほどでてくる。それを表現する必要がある。問題は、その表現を受けとめてくれる人が見つけられるかどうかである。
 ※危機的な病気にかかることで五年にわたって医師たちと関わってきて、私は彼らの限界を受け入れるようになった。だが、けっして彼らと打ちとけることはなかった。医学はみずからを改めて、患者に病気の言葉を押しつけずに、病いの言葉を共有するべきだろう。
 ※医師や看護婦はいままでどおりのことを懸命につづけていくべきだろうか。つまり、医学はからだの故障を治すことに専念し、あえてそれ以外のことはしないようにしたほうがいいのか。本書はこうした疑問に答えを与えられないかもしれない。私が病いを抱える人たちに提供できるのは、もっと直接的なものだ。医療の現場で、医師が考えている以上のことが病人のからだに起きていることを、私は知ってほしい。病いについて話し合うには、人は病院以外の、どこか別のところへ行く必要がある。
 ※病いが私の人生にもたらした変化を表現するために、私は人と話す必要を感じてきた。話し合うことを通して私は、自分に起こった変化とともに生きる道を考えつづけた。重篤な病人は話をすることで、自分が体験していることを認識することができる。彼らは自分自身のためだけではなく、まだ病気になっていない人々のためにも話さなければならない。病いは我々すべてにどのように健康的な生活を送るべきかを教えてくれるが、生きるに値するものとは何なのかを目撃させてもくれる。どんなに苦しくても、またどんなに病気がいやでも、我々には病いが必要なのである。病いの必要性を表現し、病いを祝う言葉を探すことが本書の目的である。


事故としての病
心臓の病気は、生命がいかに素早くからだから出ていくものかを教えてくれる。・・・・・・人は必ず死ぬのだという感覚を、私は一生失うことはないだろう。心臓発作は死の瞬間だった。一度死を体験したら、以前のように生きていくことはできない。

健康と考えている人たちも実は危うい縁を歩いているのだが、深淵は見ずにその手前の堅い地面しか見ていない。縁を歩いていると知ることは恐怖の体験ではあるが、状況を明確にする体験でもある。

【以後の体験の具体的記述へ】
 
 【事故としての病体験から得た自由の幻想】
心臓発作から学んだことはなかったといったら言い過ぎになるだろう。検査の翌朝、モニターで自分の鼓動する心臓を見たときの興奮を思い返した。抽象的な心臓造影図を見てから数力月後に、心臓が実際に鼓動するところを見たわけである。からだの内側の器官が動いている様子を映像で見られるのは、我々の世代が最初だろう。モニターが必要とはいえ、からだの内側という宇宙をのぞき見た私は驚きを禁じえなかった。私はすなおに科学技術に感謝した。とはいえ、当時の私は病いから逃げることばかりを考え、からだに「問題」があることを忘れてしまいたかった。数力月後、最終検査を受けにいった。「ほんとに幸運でした。へたをすればもっと違う結果になっていたかもしれません」と医師は言った。ウイルスに対しても免疫能がいくぶん強まっているという。動脈もとくに問題なく、年齢的にいってもこのままもつだろうということだった。私はその言葉を聞いて、自分に起きたことはたんなる「事故」にすぎないものだと解釈しようとした。・・・・・・それはなんら重天な結果をもたらすことのない、小さな事故にすぎないと思われた。
 
※しかし治癒を告げられても、体力は以前の状態にはもどらなかった。一〇〇メートルも走らないうちに息切れがしてしまうのだった。それでも、私はなんてもしたいことにチャレンジすることができた。心臓発作のことを忘れるのも自由だった。 病いは拘束を強いる。少なくとも治療には時間がかかるし、生活も制約を受けるだろう。最悪の場合、からだはダメージを受け、心は閉じこめられる。病院や医院から出るときには、いつも私はスティーヴソソソの言葉を口寸さんだものである。私もまた、自分の自由を神に感謝した。しかし、もし自由を得るのに健康が必要だとしたら、私の自由はあまりあてにならない自由だったろう。心臓発作の一件は、いかに自分がからだの状態を把握できていないかを教えてくれた。私の「事件」はたんなる幸運だったのだし、回復も偶然の出来事にすぎなかったのである。
  心臓発作を事故と考えることによって、私はまた自由に行動できるようになった。しかしその自由は、私の健康はもう損なわれないという幻想にもとづいている。故障は起こしたが、残りの旅程は故障なしにスムーズに進むというわけである。

【自己差別化という危うさ:アイデンティティ管理の要請】
私は病いから解放されることのない人を、たんに「不運な人」としか考えなかった。私は自分の存在のはかなさを学ばなかったために、いっそう危なげな状態におちいっていったのである。
※人間のはかなさを知ってはじめて、人は分別ある行動ができるのだ。だからといってむやみに旅をし、希望を抱き、愛すればいいというものではない。それはあらゆる行動のうちに、生きていることの実感を確認するということなのだ。 
生の確認として旅をし、希望を抱き、愛するとき、健康に依存しなくてもすむことがわかる。治癒を告げられ、診察室を出たとき、それには気づかなかった。
一年もしないうちに、生をまっとうすることにおいては、病人のほうが健康な人よりもむしろ自由であることを私は知った。健康な人は自分の意志を行使することが可能かどうかを確認するために健康を必要とし、それをたえず確認しつづけなければならない。病人はそのようなことをしないでも、人間のはかなさを積極的に受け入れ、平然としていられる。この点で、病人は自由なのである。しかしこれを理解するには、私はまた別の病いとその回復とを体験しなければならなかった。今度は事故ではなく、病いからの回復だった。
※心臓発作を事故と決めつけたことで、私はまたしても健康に依存するようになった。それを当然の権利だと思った。自分が健康を人生の条件とせずにすむことに、当時の私は気づいていなかった。我々は健康を欲するものだが、健康を必要としなくなってはじめて自由を得るのである。


ふたたび病気に
※心臓発作から一五ヵ月がすぎると、ふたたび自分は健康だと感じるようになった。・・・・・・もとの状態にもどること、それこそが私か待ち望んでいた回復だった。とはいえ、その頃でも、完全にもとの体調にもどったというわけではなかった。
※シャワーの後からだを拭くときに、睾丸に継続的な痛みを感じるようにたった。

【睾丸がんの知識】
※私はこれはがんではないかと疑った。大学院生のときにそれについて知る機会があったからだ。七〇年代のはじめだったと思う。医生態学、つまり地理的社会的な病気の分布を研究している客員教授のセミナーに参加した。医生態学の研究者は年齢、性別、人種、所得、教育、職業など、「社会階層」の要因によって気の種類が異なるかを研究する。
皐丸がんはかかった人が当惑する病気のひとつだが、教授がセミナーで取りあげたのがその皐丸がんだった。
※早丸のしこりが大きくなっていることに気づいたとき、がんではないかと思ったが、私
はそのとき、早丸がんが治療可能な病気であることは知らなかった。あのセミナーで覚えているのは、それが不名誉な病気で、きわめて気の滅入る死の宣告であるということだった。

【医師との関係性の変化】
※九月初旬になると、からだの具合いはさらに悪化していた。腰の痛みがひどく、夜中に
姿勢を何度も変えなくてはならないほどになり、睡眠をとることももはや不可能に思わ
れた。ある日曜の朝、眠れない夜をすごした私は立つこともままならなかった。
※私が「がんでしょう」と尋ねると、がんかもしれないと医師は言った。そのときは、がんという言葉よりも自分が重病なんだという認識のほうが怖かった。
 すでに長いおいた痛みに苦しんでいたから、ほんの一瞬ではあったが、医師がどこかが悪いことを信じてくれたことにほっとした。がんかもしれないと言われても、パニックになる必要はない。もっとも恐れていたことが現実になったとはいえ、医師が事態の深刻さを自分と分かち合ってくれていることが彼の言動からわかった。専門家としても個人としても、彼は私の支えになってくれると感じた。のちに出会った医師たちは私の診断や予後についてきわめて楽観的だった。その医師も楽観的だったが、「症例」というより「人間」として扱ってくれた気がしたのである。

【秘匿の効果】
※とにかく、この第三の意見によってやっと検査が始まり、数日後、超音波検査を受け
た。胎児のモニターなどに使われる非侵襲性の〔切開などでからだを傷つけない〕検査である。・・・・・・しかし当時あの地下の検査室で私か考えることができたのは、自分には大きな腫瘍があるということだけだった。医師はそれ以外になにもつけ加えなかった。彼は私のかかりつけの医師に報告すると言っただけで、検査室を出ていった。科学が勝利して、人間はどこかへ行ってしまったようだった。・・・・・・私は深い孤独を感じた。
数週間前までは、歩くのもままならないほどの苦痛にあえいでいたが、その痛みにすら気づかなくなっていた。
※がんだと告げられたとき、私はなにを思っただろう? まず未来が消え去った。愛する
者の顔も二度と見ることができなくなる。私は圧倒的にリアルな悪夢のなかを歩いているような気がした。こんなことが起きるはずがない。しかしそれが起きているのだ。そしてさらに悪化しようとしている。肉体が砂のように崩れ、病気のなかに吸い込まれていくようだった。
※キャシーと私か心臓発作後の生活を建て直していたころ、がんは私を蝕みはじめていた。・・・・・・心臓発作のような事故なら、私はすぐに立ち直ることができた。「すっかり立ち直ったね」とみんな、が言ったものだ。そうなのだ。たいていの場合、我々は体験の表面をなでまわすだけで、深く考えたりしない。私は心臓発作からは立ち直れたかもしれない。しかし、これが、がんとなれば、考え込みもするし、別の人生を発見したりもするのだ。がんは事故ではない。私はそれを体験しなければならなかった。


病を通して考える
※医師がどのように私のがんを発見したのかは、がん体験のなかでは二義的なものである。そういったことよりも私のからだで体験したことのほうがはるかに重要だ。この話は、痛みから始まる。医学は多くの重篤な病いの痛みを軽減することはできる。だが、いまだに痛みを征服することには成功していない。がんの痛みは病いの初期、医師が病いに気づく前と予測のたたない最終段階に、もっとも痛切に体験される。幸いにも私は最終段階にはいたらなかったが、初期の痛みは体験した。

【痛みと孤立】
※痛みは病いに対するからだの反応である。多くの人が病いという言葉から連想するのは痛みであり、もっとも恐れるのも痛みである。がんを生き抜くうえで痛みがもっともつらい部分であるかどうかはともかくとして、筆舌に尽くしがたいものであるのはたしかだ。痛みを表現する言葉はたくさんある。鋭い痛み、ずきずきする痛み、刺すような痛み、焼けるような痛み、鈍い痛みというのもある。しかし、こうした言葉では痛みの体験を表現することはできない。我々は「痛みを生きる」ということがどういうことかを表現する言葉をもっていない。痛みを表現できないため、言えることはなにもないと我々は思い込んでしまうのである。しかし沈黙すれば、痛みのなかで孤立するしかない。その孤立が痛みをますます増大させる。

【痛みと秩序の喪失】
※私の痛みは夜と切り離すことのできない関係をもつことになった。腫瘍は私のからだを占領すると、心も支配するようになった。闇は痛みの孤独をいっそうきわだたせる。苦しむ者はやすらかに寝入っている人だちから切り離されているからである。暗闇のなかで、痛みに苦しむ者の世界はばらばらになり、秩序を失う。
 痛みの無秩序さについて書こうとすると、またしてもあの無秩序に襲われる気がしてくる。夜の痛みのなかで、私は病いに面と向かうことにたった。しかし、こんな言い方は体験をゆがめてしまうかもしれない。病いに顔を与えよう、なんらかの秩序を与えようとどんなに努力しても、そんなものは存在しないのだった。闇のなかで病いの顔を見ようという誘惑に駆られても、どうしようもなかった。私は自分を見つめることしかできなかった。 理解できないものに支配されると感じたとき、人は我々を脅かすものについて神話をつくる。痛みを神にまつりあげたり、闘うべき敵にしてしまう。そして痛みが我々に罰を加えていると考える。だれでもなにかしら悪いことをした覚えかおるからである。我々は自分を呪い、慈悲を乞う。しかし、痛みは自分のからだの一部であり、その事実以上の顔をもたない。痛みは自分自身なのである。私のからだが何かがおかしいと信号を発しているのだ。外部のなにかではなく、からだ自身が語りかけようとしている。痛みとはからだの外にあるものとの闘いではなく、からだが元にもどろうとするときの反応なのである。
 しかし、痛みをからだの一部と考え、自分で引き受けてしまいすぎるのも、孤独におちいる危険がある。孤独は無秩序の始まりである。・・・・・・からだのリズムが失われれば、計画も夢もなくなる。そして秩序が失われ、無秩序が支配するようになる。
 
【痛みと生のサイクルの喪失⇒社会的孤立】
※人が寝ている夜には眠るのが自然である。休息すべき時間に眠らないことは、健全な生のサイクルが失われることを意味する。それまで眠りを妨げられたことのなかった私はからだの痛みに起こされ、目覚めていなければならないことの理不尽さを意識するようになった。私は眠っている人々から切り離されたのである。
 このように、病気になった人は痛みによって自分が置き去りにされたように感じる。秩序を回復するには、病人は置き去りにされる以前にもどる方法を発見しなければならない。
 夜、痛みに苦しむとき、私はキャシーを起こすこともできた。彼女にそばに来てもらい、孤独を癒すこともできた。しかし、彼女を起こせば、彼女の自然のサイクルを壊すことになる。彼女は日中、働いているのだ。彼女の生活には私が失った秩序があった。私は自然のサイクルの外にいた。日中は疲れて働くこともできず、夜は腰を釘で打たれるような痛みで眠ることなどできなかった。私は昼も夜も中途半端な存在になった。自分は存在しているともいえず、かといって不在ともいえなかった。私には居場所がないのだった。

【人間の条件としての秩序】
※私を起こした悪夢のなかの無秩序の世界には、人間のような顔と姿があった。その日以降、私は医師と共通の幻想をもちつづけることができなくなった。
 しかし、それではまだなぜ妻を起こさなかったかの理由について、半分も答えたことにはならないだろう。もうひとつの理由は、彼女の睡眠が自分にとって唯一秩序のあるもののように思えたからだ。私がもうふつうの人のように健全に眠ることができないだけに、いっそう人の睡眠を大事にしたいという気持ちにたった。自分は眠れたいとしても、妻の睡眠を大切にしたかった。妻の睡眠を邪魔することは、自分のいまの痛み以上に耐え難かった。…・・・大切なのは、痛みが本来の役割を果たすことである。あの痛みのおかけで、私は別の医師の意見を求めざるをえなくなったのだ。

【痛みの本来的役割としての人間性の回復】
※痛みは私の味方だった。痛みによって、からだは何かが変わらなげればならないと主張していたのである。
※痛みの対処法は発見できなかったが、痛みがおさまる一日前になって私は大きな発見をすることになった。二階にあがろうとして、踊り場で目に入った窓の光に心を奪われ私は立ち止まった。窓の外に樹が一本見える。その向こうにある街灯が、霜の下りた窓に樹の影を映しだしていた。痛みに苦しむ真夜中、私はとつぜん美しいものを見出したのだ。美を発見する余裕があれば、人は正しい位置にいるといっていい。あらゆることが秩序だってくるように感じられた。じっと窓を眺めているうちに、一種の俳句のようなものが心に浮かんできた。

枝の後ろの街灯が
くもった窓に模様を浮かべている
ガラスは拭かないでおこう
きみを起こすといけないから

※病いに顔があるとしたら、あの窓の光の美しさのようなものだろうと思った。鎮痛剤の切れ目に現れる痛みが引き起こす悪夢には、病いの顔を見ることができなかったように、その窓にも病いの顔を見ることはできなかった。窓は神話でもないし、比喩でもない。窓は窓である。しかし、私はその窓にわれを忘れた。痛みはそのときもつづいていた。その痛みのおかげで、私はあの窓の美しさを見ることができたのである。秩序は回復された。そして、秩序は表現を要求した。私かそのときつくった詩がいかにつたないものであろうと、私は自分を表現しはじめていた。表現できない痛みは我々を孤立させる。黙ることは孤立を意味する。表現がどんな形をとろうと、我々はそばに人がいるいないにかかわらず、それを人に伝えようとする。表現は、他者の存在を前提にしているのである。表現によって人への仲間入りが果たせるのだ。私以外の者はみな秩序ある眠りについている。美を発見した私は依然としてひとりだったが、言葉が他者を存在させてくれたのだった。
 私か感じた秩序について書くことは、無秩序について書くのと同じようにむずかしい。
私の筆力では無理かもしれないが、とにかく言葉にしてみる。


【人間の条件としての他者の発見】
※病人にとって、コミュニケーションの試みは秩序を呼びもどしてくれる。私の詩のそれぞれの言葉に、たいした意味はない。それは秩序を生みだす表現の試みなのである。私はこの詩を「見る」ために窓を必要とした。そして他者を発見するために、その世界に私の位置を確保するために、詩を必要としたのである。
 私にとっては、思いやりについて書くほうがたやすい。私は人が寝ていれば起こさないように気を使った。夜間はいろんなことに気を使う。その気持ちは美しいものだと思った。そしてこうした感情は痛みを耐えられるものにしてくれた。腹立たしい病気と痛みによって自分か生きてきた生か奪われ、失われるような気がするとき、人はまた別の「秩序」を発見できるのだ。あの夜の痛みはそれほどでもなかった。それは私か自分のからだを無視しようとしたからではなく、自分のからだを超えたところにある自分を想像できたからだった。キャシーの眠りに気を使い、窓に心を向けることで、自分を思いやるのに必要な秩序を取りもどしたのである。しかし、あの窓に見たことを理解できるほど、私の病いはまだ進んでいなかった。あとになってはじめてそれを言葉でとらえることができたのである。けれども、少なくともあの夜、私は自分が人を思いやれる場所にいることを知ったのだった。


失ったものを嘆き悲しむ
【痛みと社会関係の断絶】
※病いにともない喪失感が生まれると、それはやがて人間関係にも影響を及ぼすようになる。・・・・・・まず人間関係が極度に緊張した。そして私のからだは、眠ったり、歩いたり、計画を立てたり、責任を負ったりすることができなくなった。もっとも、まだ自分ががんになっていると信じる気持ちにはなれなかった。まわりもそうだった。それが可能かどうかはわからなかったが、私は人との関わりを避けようと努めた。周囲の人も私か距離をおいていると感じたようだ。私はなにも、自分が情に欠ける人間だからそうしたのではなかった。私のからだが、通常の自然の流れから私を遠ざけていったのである。私はスケジュールや計画が立てられない人間になっていった。私の未来がまるで不確かなものになった以上、私が無計画になったのは当然だとまわりの人たちは思ったらしい。私は自分がどこかに属しているという感覚さえ失いはじめた。
 計画を立てられないということは、属すべき場所を失ったという感覚のごく最初の出来事にすぎなかった。・・・・・・遅かれ早かれ自分は死ぬんだと私は思った。死が苦痛なのは、宗族とともに未来を歩けないという一事につきる。私か生きている理由がこれほどはっきりしたことはなかった。

【喪失と孤立感】
※未来の喪失は、過去の喪失によって完全なものとなる。腫瘍のできた皐丸を切除する手術の何日か前の夜ほど、この喪失感を感じたことはない。・・・・・・中年の私にとっては、痛みを恐れずに下着をはけることのほうが大事だったのだ。
 とにかく私は、自分のからだが青年期とはっきり断ち切られたことを強く感じた。たしかに私のからだも生活も中年のものになっていた。
※・・・・・・たとえそうでも、私は同じ人間ではありえない。手術と化学療法は、からだとその過去とのつながりを断ち切るだろう。自分がどんな人間に変貌するのか、それをこわいとは思わなかった。だが、喪失する自分の一部を悼む気持ちがつのった。それは自分が住みなれた場所に別れを告げるのに似ていた。
自分のからだがいとおしくなり、大切にする気持ちが強まった。それはあとでよい結果を生んだように思う。だが、治療によってからだは変わろうとしていた。
 あの夜私がそうしたように、からだに別れを告げるとき、人は自分の生き方にも別れを告げることになる。
※……ところが最悪の事態が起きたとき、他人はまったくあてにできなかった。助けてくれた人もいれば、姿を見せなくなった人もいた。我々は自分ら夫婦が直面した病いを直視できなかった人たちと、ふたたびつきあいを始めることを困難に感じた。そうした人間関係の喪失もあったのだ。
※キャシーも私も、いわゆる期待というものを失っていった。かつては、何事かを成し遂げ、子どもを産んで、成長を見守り、人と経験を分かち合い、ともに成長することを当たり前のように望んでいた。いまやそんな望みはきわめて不確かなものだと気がついた。人生は不確かなものだ。なにを期待するのが正常なのかがわからなくなってしまった。無邪気な期待というものができなくなったことも、病気がもたらしたもののひとつだと後になって思うようになったが、当時はなにかを喪失したように感じたのだ。
 未来、過去、空間、そして無垢であることの喪失は悲しむべきことである。
※……喪失を人と共有すること、これこそが病いとともに生きるもっとも賢い方法である。 

【ケアを与える人の喪失を阻むもの】
※私は自分が喪失したものと、我々夫婦が喪失したものについて書いてきた。しかし、キャシーが喪失したものについては書いていない。いまでも、彼女が喪失したもの全部をわかっているとはいえない。ケアを与える人のほうが、喪失したものに別れを告げるための時間か少ないのだ。ケアをする人としての妻も、病人と同じぐらい喪失したものを認識する必要があるのだと、私は病いに伏しているとき思った。病人もケアする人も悲しみがあればそれを表わすべきだ。
※悲しむことがむずかしいのは、喪失するものがありすぎるからではない。まわりの人が、悲しむことを阻むのである。医療関係者、家族、友人は、病人やケアする人をできるだけ早く喪失に順応させようとする。喪失を悲しむことは病いの治療を遅らせるし、死が避けられないことをまありか思い知らされることにもなるからである。社会は喪失を忘れさせ、健康にもどるよう圧力をかけるのである。
 専門家は適応という言葉をふりかざして、悲しみを忘れさせようとする。しかし私は、悲しみは肯定的なものだとあえて言いたい。病いや死によって失ったものを悲しむことは、これまで生きてきた生を肯定することである。悲しみを忘れ、あまりに早く適応することは、喪失をすぐに立ち直れるようなたんなる事故として扱うことになる。病Aがもとのからだを喪失したとき、あるいはケアする人がその相手を失ったとき、その喪失は十分に悲しまなくてはならない。悲しみを通してのみ、喪失の向こう側に生を見いだすことができるのである。
 本書はある意味では、病気になる前の若かりし自分にあてた手紙であるとまえに書いた。私は若かりし自分に、喪失したものを悼みなさい、そしてその悲しみを理解してくれる人を探しなさいと言ってやりたい。病人が失ったものを過小評価したり、自分が喪失したものと較べたり、喪失にはすぐに慣れるさと言ったりする人には近づかないほうがいい。
病人が体験する喪失は現実なのであり、だれにもそれを病人から取りあげる権利はない。それらは人の体験の一部であり、人にはその権利がある。病いは、たとえ喪失であっても、それが体験に値するものであることを教えてくれる。嘆き悲しむこととは、失ったものの価値を知ることである。喪失したものを大切にすれば、人生そのものを大切にすることになる。そして人はふたたび生きはじめることができるのだ。


ケアに秘訣はない
【体験の異なり】
※人生ではいろいろな体験が重なってくるから、それを文章にすると、順序の錯覚が起きることがある。さらに重要なことは、私に起きたことは私だけのものだということである。私の話を詳細に語ったのは、人間がそれぞれいかに固有の存在であるかをそれが示しているからである。私は自分の病いの体験をさまざまな段階で一般化しようとは思わない。体験の違いを認めてはじめて、我々はお互いを思いやることができるのである。
 心臓発作とがんの体験は、個々の病いがいかに異なるものかということを教えてくれ
た。
※まず異なるのは、我々が抱く恐怖である。心臓病のときは、恐怖はすぐに消えた。
※がんの場合はたいてい、とつぜん死を迎えるという恐れはない。眠るとき、翌朝目を覚ますことができるという自信が私にはあった。がんの場合の問題は、がんによって覚醒した人が、なにをつかむことができるかということにっきる。私が恐れたのは、死ぬことそのものよりも、ゆっくりと死ぬこと、果てしなく苦しいこと、からだが汚れた体液を吐きだしつづけるというイメージだった。がんで死んだ人も少なからず知っているが、その死それ自体は自分で恐れていたほどのものではなかった。一般に、がんで死ぬことの恐怖ばかりが伝えられ、病いの不快感じたいは過小評価されている。心臓発作が一気に人の命を吹き飛ばすものだとしたら、がんは少しずつ人のからだを蝕んでいくものに例えられるだろう。
※不安は人によって異なる。不安がそれぞれの人で異なるということも、病いの体験の特質なのである。ケアはその違いを知ることから始まる。たとえ同じ病気でも、人によって体験することが異なることを知る必要がある。がんであることをどのようにして知ったかということも、あとあとまで大きな影響を及ぼす。私は痛みによってがんを知った。
※ああいう体験ができたことに感謝している。痛みはからだに起こりつつあることをリアルなものにしてくれた。痛みを感じる前にがんを宣告される人もいるのだ。その場合、がんを具体的なものとしてとらえるのはむずかしいのではないだろうか。
※人の体験を他人がとやかく言えるものではない。それぞれがそれぞれの方法で病いを認識していくのだから。
 
【社会的サポートの差】
※容体がひどく悪化していると告げられたとき、スポーツ医学の専門家と超音波検査をし
た医師の診断にはずいぶん差があるように感じた。その差はなにかというと、彼らが私に与えてくれたサポートの差だった。診断自体はそれほど変わらなかった。が、スポーツ医学の専門家のほうは彼自身が診断に深く関わっているという感じがした。もう一方の医師はまるで判決のように診断をくだした。そうした差が大きくものをいう。同じメッセージも病人がふたりいれば違う意味になりうる。言い方によっても同じ内容がまるで違うメッセージになってしまう。

【ケアの前提としての差異の認識の意味】
※人それぞれの違いを認識することからケア始まる。「がん患者に言うべきこと」などという決まり文句はありえない。「がん患者」という総称的なものは存在しないからだ。発病に応じてさまざまな体験をしていく人間がいるだけである。しかし医学は病いによてではなく「病気」によって患者を分類していく。そういう分類は治療には便利だが、ケアにとっては邪魔になるだけなのである。
※治療とケアとはまったくの別物である。治療とは病いに関わるふりを装った、能率とケアのあいだの妥協の産物にすぎない。医師は病人を、心の状態を表すキーワードにあてはめては治療していく。
※こうした分類化は、病いの個々の体験の細部に我々を導かず、距離を生みだすのである。「予想どおり、患者はいま怒りの段階にいる」こんな言葉が交わされるだろう。病人がなぜ怒っているのかを知らないうちから、怒りは「段階」のひとつになる。それはこの理論によって予想できることだから、「だれも、が体験すること」として無視されるのである。
※体験をリアルなものにするのは、その細部である。怒りや悲しみの内実は人によってまったく異なる。だからそれを同じ言葉で呼ぶことは個々の体験をあいまいなものにする。 「怒り」とか「悲しみ」といった言葉は、実際の感情を隠蔽してしまうのである。だから、こうした理論に人気があるのもわかるような気がする。そうした理論で用いられる言葉を使う人たちは、さまざまに変化する生きた体験に関わることなしに、理解ができたような気持ちになってしまう。そして他人にもそのような幻想を与えてしまうのだ
※段階の理論はケアを与える人にとっては百害あって一利なしであることはたしかだが、病人自身にとっては役に立つ。病人にとって、他人も同じ体験を径ていると知ることは切なことだから。
※しかしケアをする人は、そんなパニックも患者固有のものであり、「段階」のひとつではないことを認識しなければならないのだ。病人は、「パニック段階を通過している」ものとして扱われるべきではない。
※パニックで引き起こされるもろもろの感情は解決できないのだから。

【ニーズを表現するための時間と空間の提供を】
※ケアを与える人に大切なのは、なにが必要なのかを病人が表現できるようにすることだ。最終的に病人がなにを必要とし、ケアを与える人がなにを提供できるかを考えなくてはならない。そのためには専門家、宗族、友人にかかわらず、ケアを与える人は、病人がなにを必要としているかを考えるのを手助けしなくてはならない。そうしてはじめて、なにを与えられるかを話し合えるのだ。……病人は自分のニーズを把握するのに時間がかかる。
※その夜は、彼がいたおかげでむしろ助かった。彼といることで、がんのことをしばらく
のあいだでも考えなくてすんだからである。そして、まだまだ楽しい晩をすごすことができることもわかったのだ。がんを抱えても楽しい人生は可能かもしれない、と思った。自分ががんになるとは思ってもいなかったが、たとえがんであっても自分の好きなように生きることはできるのだ。おそらく、自分が望むものは言葉になどしなくてもいいのかもしれない。みずからが望むものを発見することができるだけだのかもしれない。そして周囲の人にできることは、それを発見するための時間と空間を病人に与えることである。
 病人の言うことをすすんで聞き、個々の体験に対応できる人が「ケア与える人」であ
ると私は言いたい。ケアは病気の分類とは関係ない。ケアとは、人の体験を特別なものと考え、それを重んじることである。だれにも人を分類する権利はない。しかし、各人がいかにユニークなものかを理解する権利はある。

【ケアとは相互的なもの】
ケアを与える人が病人ひとりひとりの個性を尊重しながらケアすることができれば、病人の生を意義あるものにできる。病人の生が豊かになることによって、ケアを与える人の生もまた豊かになるのである。ケアと理解とは不可欠であり、理解と同様ケアとは相互的なものでなくてはならない。人の言葉を聞くことで、我々はみずからの声を聞く。人をケアすることで、我々は自分をケアする。そうでなければ、疲労と欲求不満のままに終わってしまうだろう。
 ほとんどの医療関係者にはケアをする時間はないし、そういう気持ちもないようだ。彼
らはケアに劣らず重要な治療をしてくれる。しかし、治療とケアはまったく別のものであ
る。家族でさえしばしば、ケアをするよりもたんにサービスを与えるだけにとどまっている。
 ケアを施す人は病いの体験につぎつぎに直面するのみならず、パニック、不安、恐怖、
拒絶、狂乱といったもろもろの感情に直面する。キャシーは、診断や治療について私があ
れこれ話すことを何日間も辛抱強く聞かなければならなかった。「そうしなければならな
いんだったら、そうするわ。」病人が、自分には交渉する手段もなく、交渉すべき人もいな
いことに気づくのには時間がかかる。そして気がついたとき、孤独に襲われる。そして自
分や人生についての疑問、落ち込みと希望、人と接したいという欲求と混然一体となった
怒り、自分のことを自分で処理できない依存的状態への不満といったものがつぎつぎと生
まれてくるのである。

【体験の特殊性とその差異の認識=ケア】
私かここで書いたことは、病人の感情を大まかに述べたものにすぎない。結局、私が言
いたいのは、こうした言葉にはなんの意味もないということである。痛みとか喪失といっ
た言葉には、病人自身が実際にそれを体験するまではなんのリアリティももたないから
だ。その体験の特殊性を見きわめ、その違いを認識することがケアの仕事なのである。


pp70-140
「領土」としてのからだ、驚異を秘めたからだ
体裁をつくろうことの代価
化学療法という冒険
「苦闘」は「闘い」ではない
烙印
「領土」としてのからだ、驚異を秘めたからだ
・医学がからだをその「領土」として扱う話
・からだ自身の驚異を学ぶ話
この2つの話は切り離して考えることはできない。病いはそのどちらでもある。

【医学がからだをその「領土」として扱う話】
からだの植民地化
医学の助けを得るために自分のからだを医学の検査対象にさせられる感覚
→看護師が自分のことを名前ではなく、「53号室の精上皮種(セミノーマ)」と呼んだ行為
  *病人が患者になると、医師が患者のからだを引き継いで占拠する。そして医学は、からだとこれからの人生を切り離す
 *医学は痛みが人の生にとってどういう意味をもつかに興味を示さず、人の体験に入り込むことはせず、治療と管理に専念する
 →医師を避けることは危険であるが、病いというドラマの舞台の中央に医師据えることで、病いではなく病気だけの脚本が作られてしまう

患者は自分のドラマの観客となることにより、自分を見失う。自分の体の反応よりも検査結果の方が自分の気分を決定する。いずれは医療環境下での日常と規律の中で自分の意志や信念を忘れていく

医師をドラマの中心に据えることの問題点
医師は病気が治るか、あるいはすべてやりつくしたときに彼らが舞台から去ってしまう
*病いは治療が終わった時に終わりを告げるわけではない
→病気から回復した者は患者でいることからも回復しなければならない

身体は管理可能か?
人のからだを医学の領土とする権限を与えているのは、「身体は管理可能であり、管理すべきである」という社会からのメッセージである。
→からだの管理に失敗した者は社会的・道徳的落伍者とみなされる
*からだを「管理」するという考え方そのものが間違いであると指摘
しかし、医師はからだの管理が可能であると証明するとでもいうように登場する

【からだ自身の驚異を学ぶ話】
*からだの驚異を認識する=からだを信頼し、コントロールをまかせること
→病人がからだのコントロールではなく、驚異に心を向けることができれば、病気のからだを生きることの喜びを見いだすことができる
例)運動することにより自分のからだの力を引き出すことに成功し、運動ができなくなれば音楽を楽しんだ

体裁をつくろうことの代価
感情面での2重の対処
 ①病人がケアする人と共に恐怖や挫折や喪失と対面し病気であることの意味を見出そうとする際の対処(上述のとおり)
 ②患者が周囲に対して体裁をつくろおうとするときの対処

【②患者が周囲に対して体裁をつくろおうとするときの対処】
*健康な友人、同僚、医療関係者は病人に体裁をつくろうことを期待する
→病人は自分を努めて元気に見せなくてはならず、病いの影響を隠しきれなくなると、病気はそれほど悪くないふりをすることが期待される
みずから恐怖や悲しみを表現した病人がよく言われることはない。否定的な感情を表した病人は、短期間であれば一時的な感情の噴出と理解される。悲しみにくれる病人は「抑鬱病」と診断され、治療可能な病気であると分類される
?
*状況によっては強い抑鬱というものが病いの体験の一部であることを認識する必要がある

体裁をつくろうことの問題点
患者が陽気で健康的なイメージを保とうと努めれば、残り少ないエネルギーを消費してしまうことになる。また自分の人生になにが起きているのかを表現し、考える機会を失ってしまう。ポジティブなイメージを作ろうとすることで、病いの体験を分かち合うことができず、他人との関係も構築できなくなる。

「取引」場面における体裁
例)看護師とのアセスメント
  病人はカーテンで仕切っただけのプライベート空間において真実を話すことで冒すリスクと同等のサポートが得られるかどうか?を値踏みする
*嘘をつくことで自分が不利になるとしても、それがサポートを得る唯一の方法である
→問題点や心のわだかまりを他人の前で述べたら、ひどく微妙な立場に置かれる。そのリスクに見合わないサポートしか得られないなら、きわめて不利な立場に追いやられることになる

*真のケアをしたい人は真のサポートを与えるだけでなく、安心してサポートが受けられると病人が確信できるような方法を学ばなければならない
*不安と抑鬱は人生の一部である。病いには、「否定的な感情」など存在しない。生き抜かなければならない体験があるだけだ。必要なのは、「否定」ではなく認識である。病人の苦痛は、治療できる、できないにかかわらず肯定されなければならない。

化学療法という冒険
*医療関係者がする化学療法の説明は、常に苦しみが過小評価されている

この態度は病人が体験したことの価値とその意味の否定につながる

身体的な治療と精神的なケア
病院は身体的な治療と精神的なケアとを区別する。ケアする人は患者にとって不可欠だが、まるで治療には不要な余計なものとして扱われる。
 例)私=「患者」,キャシー=「見舞客」として扱われる
*身体的なケアと精神的なサポートは相互に必要である

化学療法がもたらす問題
*病いがもたらす根本的な問題:生が根本から変化したとき、どう生きていくか?
 →病いは生を破壊と回復を繰り返す奇妙なジェットコースタに変えた
 化学療法のこわい点:日常的な価値の間隔を失うこと
  治療に対して受け身になり、身体ケアのこまごまとしたことに執着するようになる。心もまた身体と同様に無感覚になる

化学療法により気づく新しい価値:退院がもたらす再生の感覚
→妻や友人の存在、家で生活すること

病いと向き合う
*病人は病いとひとりで向き合わなければならない
例)アーサーの場合
聖書(ヤコブの話)の引用、ポール・サイモン「ボーイ・イン・ザ・バブル」の歌詞
→病いという神話の一部をヤコブに準え、冒険と意味づけることに至る

「苦闘」は「闘い」ではない
*病人はがんと「闘わなくてはならない」と表現されるが、実際に闘えるものではない
社会的に用いられる「闘う」という比喩は、病気を生きることの意味をとらえきってはいない

身体プロセスと意識のつながり
自分の中の異物としてがんの存在を認識するのではなく、「身体プロセス」としてがんを捉える。さらに私は「身体プロセス」であると同時に、意志、歴史、自分の考えやエネルギーを集中する能力を持った「意識」でもある
*病いは「身体プロセス」と「意識」の密接なつながりを教示する
→痛みによって思考が生みだされたと同時に、思考がまた苦痛を生み出す。この環は途切れることはない
*病いは身体的なプロセスであり、ひとつの体験である。この2要素が互いを形作る
→病いは偶然に起こったものだが、それを体験するのは自分の責任である。からだの意志の中に自分の意志を認める。


信と意志のバランスの重要性
*病いを抱えることは、信と意志のバランスを常にとっていくことである
病いになってもその体験は生を豊かにするための認識の機会をして生かすことができる。起きたことを受け入れる信と、望む変化をもたらす意志を同時にもつことができる。病気をからだの意志に任せることと医学的治療を求めることには矛盾もない。

烙印
烙印:危険人物、犯罪者、汚れた人間であることを示すためにからだに付けられる印
 烙印を押された者は社会の片隅で印のついた体を隠さなければならない

がんによる烙印
 ・「C・A」や「ビッグC」という通称
 ・禿げてしまうこと=がんである烙印

【禿げてしまうこと=がんであるという烙印】
 化学療法により禿げてしまう
→髪の喪失だけでなく、がんは禿げることを烙印に変えた
  禿げたことで身体的に不快感を伴った。禿げたことで「あいつはがんだ」と叫ばれる夢をみた(むしろ自分が心の中で叫んでいた)

病気の視覚イメージへの還元
社会はがんなるのは病人のアイデンティティに欠陥があるからだという考え方を微妙なやり方で押し付けてくる
社会が烙印を定義づける例)兄ががんになったことで禁煙したモデルの話
自発的な行為である喫煙とがんを結びつける。そしてがん患者の最大のサインは髪の抜け落ちた頭である。

烙印の感覚に対処する方法
化学療法が終わるまで烙印の感覚は消えることがなかったが、がんの退縮により、自意識も消えた(対処法を発見できなかった)
*重要なのは自分がどう呼ぼうと、どう呼ばれようとも、人は自分の生を積極的に生きている「人間」であるということ
 →がんを持つ者は恐ろしい存在ということになり、病人は烙印を隠そうとする方向に力が働くが、烙印の感覚を消すためには、社会の周辺から人に見られるところへ出てくる必要がある

*烙印に抵抗するには個人の意志以上のものが必要となる。烙印を払拭できない病人は、自分たちを組織化する必要がある。

問題:病人の組織化はたいていの場合、医療機関から支持されない


■否定と肯定(pp.141-154)
*病気という出来事の周囲では、微妙な「否定」と張りつめた「肯定」が病人をとりまくことになる。
病気の否定…看護婦が「がん」という名を口にしなかったこと。「看護婦は私が病気以上の存在であることを否定した。そしてこんどは病気の名さえ消されたのだった。看護婦の「C・A」という言葉で、私は消去されたのである」p.144
苦しみの否定…「看護婦と医師は、ある患者ともっと悪い患者の苦しみとを比較するとき、患者固有の体験を否定する。「最悪の症例」の苦しみと比較して、私の価値は減ぜられる」p.144
社会的価値の否定…現代社会は「生産性」に価値を置き、人々が故障しがちな生身のからだを持っていることを「否定」する。
→このような悲しい否定の結果、病人は罪の意識を持たざるを得なくなる。
病人の前から友達や愛する者が消え去ること…「病人とケアをする人からみると、「遠くからそっと気遣う」ことは、なにもしていないのと同じである。彼らが私とのあいだに置いた距離は、もうひとつの、病いの「否定」のかたちのように思える」p.148
「人間の苦しみは分かち合うことで耐えられるものになる。だれかが自分の苦痛を理解してくれると 知ったとき、その痛みを投げ出すことができる」p.149
→ケアする人の存在が病人にとって不可欠でありながら、ケアする人への「否定」もまたなされている。ケアする人自身の危険や喪失(「自分を、力を、食欲を、将来を失う危険」、仕事や時間の喪失)は、軽く扱われていないだろうか、それは病人の病気の回復というカタルシスによって取り戻されるだろうか。また、ケアする人は、自身の体験を表現する言葉や機会がほとんどない。
「我々はまだ病いについて多くを知らないが、ケアについてはさらにわかっていないのである。病人の体験が「否定」されるのと同じように、ケアする人の体験は完全に「否定」されているのが現実なのだ。」pp.152-153

■慰める者と非難する者(pp.155-164)
*がんの要因がその人自身のパーソナリティの内にあるというがん性格説が語られるのは、社会が「不安」を隠蔽しようとするためである。またがん性格理論を説く人とは、病人に対して慰めようとする者であると同時に非難する者である。

・「社会が恐れ、理解できない病気は、いつも社会によって性格理論の形で説明される」p.158
健康な人たちは、「がんになった人は何か悪いことをした。要因を内に持っていたために病気になった」と説明づけることで、生がいかに危険に満ちたものかについては考えなくて済む。
…「病気を病人のせいにするのである。そしてその病いを非難することで安心を見いだす。こうしてがんの性格理論は「セルフ・ヘルプ(自助)的なもの」となる」p.158

・「がん性格理論の本質とは、世の中はなにも変わらなくていいということ」p.162
がんを性格のせいにすれば、がんのリスクを高めるような状況や行為を永続化できる。
過ちと不安を病人の中に閉じ込めておくことで、個人も企業も「安心」に暮らしていくことができる。

また、往々にしてがん患者は、「うまくやっていくため」に怒りを表明することも封じられてしまう。
「[怒りを表明する必要がある時には:引用者]社会や組織の中に、病人が自分を表現するのを妨げるメカニズムが存在することをしっかり認識する必要があるということでもある。がん性格理論はそんな障害のひとつである。それは個人を自分の内部に、自分の罪に向けさせ、ほんとうの原因を作り出している社会を変えることを妨げる。がん性格理論は、実際は非難しながら慰めるふりをする者たちの、病人に対する最大の侮辱なのである。」p.164

■病いの価値(pp.165-174)
*病いを不可避なもの、誰にでも起こりうるものとして考えたとき、病人の権利という問題(支払い、テクノロジー、治療など)に対して答えは得られる。またそれは、病いに価値を見出すことである。

→病人の治療を受ける権利とは、あらゆる人間の基本的権利である。
「がんが差別なしに起こるのだとしたら、治療も差別なしに得られるべきである」p.169
「我々は健康な者と病んだ者とを分けずに、同じ生きる者としてその権利を考えていくべきであろう。あらゆる人間のもっとも基本的な権利は、自分に起こりつつあることを体験するという権利である。」p.171

→また、病人の権利を認識することは、病いを認識する手始めになる。
「病人の権利のなんたるかを理解するためには、人間として自己を再構築するためになにが必要なのかを自問しなくてはならない。この意味での「生産」には、第一に人のケア、それから時間、空間、基本的欲求の充足、ある程度の選択ができることが必要だ。最後に、自分の受け取ったケアを他の人に返すことが可能な状況が整わなくてはならない。たんに生存していくだけでなく生を体験するには、こうしたものすべてが必要である。これらの権利はどれも特別視されるものであってはならない」p.172

→病いの価値とは、今健康な人々へ「生の価値を教えてくれる」ということ。
「病いの究極の価値は、それが生きることの価値を教えてくれるということである。これこそが病人がたんなる症例ではなく、評価すべき存在である理由である。」p.172
「死は生の価値を回復してくれる。病いは、生をあたりまえのものと思っているときに失われる平衡感覚を回復してくれる。価値と平衡感覚を学ぶには、我々は病いに、そして死に名誉を与える必要がある」p.172

■病いに耳を傾ける(pp.175-184)
*病人にとっての責任とは、回復する責任ではなく、「自分の苦しみを直視し、その体験を表現し、他の人たちがそこから学べるようにすること」であり、社会の責任とは、「病人が表現することを理解すること」。

…二人の白血病の子供の新聞記事の分析。一人は解放的に自分の病いを表現し、一人は「閉鎖的」に人と関わろうとしない。記事は、前者の子供は「あるべき」勇気によって回復し、後者は転落し続けると暗に仄めかす。それは彼らに及んだ社会的・医療的影響を配慮することなく、病いを彼ら自身の生理から生まれるものであると理解を促すもの。しかしフランクは両者とも病人の責任を果たしていると述べる。

「病人は病気になることですでに責任を果たしている。問題は、健康な人が責任をもって病いの正体を見たり聞いたりできるかどうかである。つまり、生とはなにかをつかむことである。生きることは二重の責任がある。我々が共有する、生のはかなさに対する責任と、我々がつくりだしたものに対する責任である。病人が表現し、健康な人がそれを聞くという相互の責任は、人間の想像力が限りある命に立脚しているという認識から生まれる。病いのない生は不完全であり不可能なのである。しかし逆説的なのは、病いはその必要を十分に認識している人にとっても苦痛だということである」p.182

■回復の儀式(pp.175-184)
*「病いからの回復は儀式と呼ぶに値する」p.186
医師は単に医学的成功を回復として見なすが、回復とは、患者自身の自己覚醒を含んで、再生の意味づけの儀式として感受されるものとしてもある。
…フランクにおいては血管造影の結果、からだの管を抜く作業、そしてそれを妻と分かち合うこと
「管が抜かれ、切り口が縫われた。医学は私のからだに別の印をつけ、それによってからだに別の価値を与えた。この印はたんなる烙印ではなく、一定の体験を経てきたことを示し、私に高いステイタスを与えることになる。こうして再生した私のからだは再び私のものになった。新たに生を授けられたという感じだった」pp.188-189

再発の可能性を秘めたがんの身体を生きていくことは、「体験のレベルの問題であって医学の問題ではない」p.190。「人は健康か病気かで分かれるのではなく、生命の価値をどれだけ深く把握しているかで分かれる。」p.192
→病いを生きるということは、「今日はどうすごしたか」という問いを発しつづけることであり、それを忘れないということ。フランクは、病いをはらんだ回復の意味を「儲けもの」という言葉に見出す。
**レイモンド・カーヴァーの詩に出てくる男の言葉
「10年も生きることができた。それだけでも儲けものだよ。それを忘れないでくれ」

■儲けもの(pp.195-206)
*「我々の生は、生きる目的を考えるためにある。内省は我々の呪いであると同時に可能性でもある。」p.196

*生と死について。病気になり、しかし生きている者と死んでしまった者がいるということについてどう考えるか?病気がたまたま起こるとしたら、選択の問題はどうなるのか?
→病気から病いへと視点を移すこと
「病気から病いへと視点を移せば、選択は可能になる。病いはどのように体験するかを選択できるからだ。それによって我々は、犠牲者以上のものになる。選択は最悪の境遇を、価値ある体験に変えることができる」p.198
→しかし境遇は選択を制限するから、それは半分の真実である。半分の選択しかできない中途半端な犠牲者たち…「退縮共同体」。
フランクは、いのちを、からだを退縮していくものと捉える。そのような生は、「日常」の些細なことが生をかたちづくっていることの価値に気づくことができる。
「しかし、日常を生きることもまた、病いの危機をはらんでいる。その事実が私を「儲けもの」という言葉に導いた。この考え方は「健康」や「病い」を超えている。そして病いへの不安を必然的にもたらす、健康への希求すらも超えている。「儲けもの」という考えは、病いをロマンチックに描くことからは得られない。それは病いがもたらすものをすすんで受け入れようとする態度なのである。」p.201

*「人生のもう半分の喜びは、喜びも苦労もともにする他人とともにいることにある。」p.202


UP:20080425 REV:
Frank, Arthur W.  ◇医療社会学  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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