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誰の?はどんな時に要り用なのか(不要なのか)

立岩 真也 2022/02/25
天畠 大輔 2022 『しゃべれない生き方とは何か』,生活書院

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天畠 大輔 20220225 『しゃべれない生き方とは何か』,生活書院,392ページ ISBN-10:4865001360 ISBN-13:978-4865001365 [amazon][kinokuniya]

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◇天畠 大輔・立岩 真也・荒井 裕樹 20200520 「なぜ〈弱さ〉は〈強み〉になるのか――しゃべれない人が語りつくします」,『しゃべれない生き方とは何か』(生活書院)『〈弱さ〉を〈強み〉に』 (岩波書店)W刊行記念,於:本屋B&B(東京・下北沢) https://bookandbeer.com/

博士号取得者

■全文

 本書に書かれているように、著者は2010年4月に私の勤め先の大学院に入学した。その時すでに、最初の著書『声に出せないあ・か・さ・た・な――世界にたった一つのコミュニケーション』(生活書院)があったような気もしていたのだが、それは間違いだった。その本の刊行は2012年5月。著者は東京に住む人だし、来る時には介助者こみだし、そう頻繁に京都に来れない。やはり本書に書かれているように、教員たちは、東京に仕事に行ったついでに、著者に会ったりした。調べてみたら、私が天畠の事務所を訪問したのは2018年8月。事務所があるのは武蔵野市なのだが、最寄りの駅は三鷹駅。1985年から1995年まで三鷹市に住んでいた私は、その面会の後、23年ぶりということになるのか、住んでいたあたりにあって時々食べに行っていた「ハルピン」という店が立派になって経営を続けていることを確認し、食べて飲んでいい気分になった〔隣同士の2軒になっていた→食べログ:[食べログ][食べログ]/〕。そのことと、事務所にプリンターがないようだったので、そのぐらい買いなさいよと言ったのぐらいしか覚えていない。加えて、演習への参加はしばしばオンラインで、だった。Zoomがかくもはびこる前のことで、スカイプを使ったと思う。
 筆者は2019年3月に博士号を取得した。審査委員が筆者に対して行なう「口頭試問」というものと、たいがいはその2ヶ月後ぐらいに行われる誰でも聴ける「公聴会」というものがある。2018年秋に論文を提出した(こちらの研究科は、春と秋、2度提出の機会がある)筆者の口頭試問は12月18日、口頭試問は翌年1月8日だった。この間隔はかなり短い。これには、熟練の通訳者黒田宗矢さん(358頁)がフランスの大学院に留学していて日本に来れる期間が限られていて、という事情があったように思う。審査には研究科外から外部審査員を1名お願いするのだが、この時の外部審査員は福島智さんにお願いし受けていただいた。口頭試問は、著者の通訳者2人、福島さんの通訳者2人が加わり、というなかなか前代未聞のものだった。おもしろかった。公聴会の後には、福島さんに会場と同じ建物の4階にある生存学研究所の「書庫」というところに来てもらって、公開インタビューというものをさせていただいた。福島さんの大学入学に至る話、大学・大学院でのことを聞いた。これもおもしろかった。その記録を研究所のサイトに公開している(http://www.arsvi.com/2010/20190108fs.htm、「福島智 インタビュー」で検索しても出てくる)。本書にも関わる。読んでいただけるとよいと思う。
 公聴会のあと、「主査」という役の教員が「審査報告書」というものを書く。A4・1枚の短いものだが、基本褒めなければならない、しかし、あまり虚しく持ち上げても悔しい、というものでもあり、それを教授会で全文を朗読せねばならないというものでもあり、これを書くのはなかなか気の重い仕事だ。だからもったいなくもあり、これまでも、こちらの修了者の博士論文をもとにした本の「解題」などではしばしばそれをそのまま再掲してきた。今回も、論文の要旨、といった部分は省いて、そうする。

 著者は、四肢麻痺、発話障害、視覚障害を併せ持っている。通訳者=介助者が「アカサタナ」と言ってサ行で身体を揺らし、「サシス…」と言うとスの時に身体を揺らして、「ス」と確定する、といった具合に発話する。そう聞いて思うよりはずっと早く発信はなされるが、それでも時間を要する。それを円滑にし時間を短縮させるのが、長く著者と関わりこの仕事に習熟した通訳者=介助者たちである。どのようにしてこの方法が始まり、発話しようとする言葉を「先読み」したりして短縮する方法を双方が作り上げてきたか、実際にどのようにして発信はなされているのかが、とくに本論文の前半において解析され提示される。
 それは特殊な方法ではあるが、しかし発話が時間的その他の制約のもとにあること自体は普遍的なことであり、そこに他者が入り込んでくることも普遍的である。条件が変わっていくと発話の仕様・過程がどのように変容していくのか。それを本論文は詳細に具体的に明らかにしている。独創的で有意義な研究がなされその成果が本論文に記されている。そのことにおいて既に、本論文は博士論文として十分な水準に達していると審査委員会は判断した。
 さて、こうした技術はまったく有効で有益なものだが、とくに博士論文のような、論理を展開してく長いものを書こうとする場合、たんに文字列を予想するだけでなく、通訳者はときに先に続く論を提案することもある。するとそれは誰が作っていることになるのか。他人が介在することの益を得るが、自分の作品であると思いたい。それを著者はジレンマであるとするが、ただ二つの益を得ようとしているとも捉えられる。その指摘に対して、著者は、あらゆる人がそうして人々やその営為の堆積があって初めてものを生産しているのに、障害者の場合には他者の介在の事実が見えやすいので、相対的に、しかし大きな度合いで自身の寄与が低く評価されてしまう度合いが高いのが不当であると書いているのだと応えた。それは妥当な応答である。ただ、詳細に本論文で明らかにされるのは、協同で生産されているという事実であり、結論として提示されるのも、結局のところ、みなで(「多己」が)ものを作っていることを認めよということである。
 すると一つ、ここでは自分が作っていると(思いたいという)思いは解消される(べき)という話になりそうだが、それでよいか。一つ、その主張はもっともであるとしても、それは普遍的な普通の事実を認めよというただ普通の話に帰着するだけにならないか。すると一つにはさらに進め、そして著者にもそうした線でこれからの研究を進めようという考えがあるのだが、通訳者を介助者というより情報生産の協同生産者として社会的にも待遇すべきだと主張するという道もある。
 こうして、どのような論に繋げまとめていくのかについては種々の意見が審査委員からも出された。ただ、こうして多様な展開の可能性があることもまた本論文が優れた成果であることを示している。本論文を博士論文と認めることになんの異論もなかった。
 以上により、審査委員会は一致して、本論文は本研究科の博士学位論文審査基準を満たしており、博士学位を授与するに相応しいものと判断した。


 今回はもう一つ。2018年11月に青土社から出してもらった本『不如意の身体――病障害とある社会』があり、その第3章が「なおすこと/できないことの位置」でその第2節「できないことの位置」の3が「存在証明という方角もあるが」。以下その全文。

 このように見ていくと、それと対照的な方向であると気づくのだが、もう一つ、自分が作ったと言いたい思いが(すくなくとも一方では)あることがある。そしてそれも言われればもっともな思いではある。天畠大輔がそういう思いの人である〔文献略〕。彼は、世界で一番?、かもしれない身体障害の重い大学院生で、発話できず、身体の細かな動きはできないので、通訳者が「あかさたな」と唱えるのを聞いて身体を揺するのを通訳者が読み取り、次にあ行なら「あいうえお」と唱え、「う」で確定といった具合に話す。想像するよりはずっと早く進むが、しかし時間はかかる。視覚障害もある。長い文章、とくに博士論文といった長く面倒な文章を書こうとなると、どうするか。
 彼には長い時間をかけて育ってきたきわめて優秀な通訳者が複数いる。普通の意味での通訳にも熟達しているが、長年付き合ってきて、何を天畠が考えているかもわかっているし、この通訳という仕事がどんなものであるかもよくわかっている。だから、このコミュニケーションを主題に書かれるその博士論文について、本人の意を察するという以上のことができることがある。それで天畠はかなり助かっていて、それがないよりはるかに楽ができていると思うとともに、そして依存する気持ちのよさを味わうとともに、自分の仕事が自分の仕事として認められたいと思う。そういうジレンマを抱えているのだと書く。
 それをジレンマと言えるのかどうか。自分でやっていると言いたいが、手伝ってもらってもいる。そしてそれはそれで心地よく、楽でもある。他方、彼自身が寄与しているのも間違いない。そもそものアイディアを出すということもあるし、そのチームを作ったのも、彼、彼の身体である。どれだけと確定はできないが、彼は寄与している。同時に手伝ってもらってよくなっている。それだけのことである。だから共著ということにしたいのであれば、すればよい。論文も学会報告も、ほとんどすべてがそのようにして発表可能である。
 ただ学位は個人に対して与えられる。個人を評価したその結果が学位であって、その成果には、もちろん環境があり、人との関係があったうえであること等々を承知しつつ、一人に一つ出すというものである。その合理性はあるか。例えば職を得る/与えるための指標であるとしたらどうか。普通は、人は一人採用するということになるから、その際の指標は、一人について一つということになりそうだ。このように一人につき一つが必要とされる場合があり、そのように求められることにつきあってもよいという人はその世界の流儀に従うことになる。これ以上つついても仕方がない。他方、同時に、仕事は共同で行なったといって何も問題はない。
 ときに自分がやっているか誰がやっているかが曖昧になる。それは当然のことであり、それ自体はよいことでもわるいことでもない。主体性が常に大切であると決まったものではない。本人と介助者の間のそんな、自律であるとか依存であるとかのマイクロな部分を記述することがなされてきたが、もうだいたいのことはわかっているように思う。たいがいのことはまかせてなんとかはなる。その範囲で支障なく生活が成り立っているなら、問題はない――ということは他方では、自分の身体の痛みが他人には看過されやすいといった看過すべきでないことがあることも認めるということだ。それをさらに繰り返すことにどれほどの意味があるだろうか。
 ただ天畠の場合は、言語が関係しているから一定の複雑さがあり、種々の工夫もなされているだろう。それは十分に稀少な珍しいできごとではある。それを調べて書き出すことにまず意義はあるだろう。それをきちんと行なえば、それはそれでよい。
 そこでいったんこの話は終わり、止まるだろう★15。ただ、仕組みをどのようにしていくかという問題は残るはずだ。誰かと組むことによって仕事ができるという場合はある。教員の場合であれば、客である学生に伝わるものとしては一人分のものである。学位取得においては、仕方なく一人が取り出されるとしても、二人で一人分なのであれば、二人を一人分の仕事をする二人として雇ってもよいはずだ。それは二人でいっしょの方が、他の一人ずつの人たちよりも勝っているからだと言うことになるか。そこまでがんばって言う必要はないだろう。一人分ができればそれでよしとする。すると、二人なら雇う費用が倍かかることになる。それを雇用主の側が支出することになると、そうした場合の雇用差別を禁じても、密かに、差別は実行されるだろう。とするとどうするか。一つには、もう一人分の給料は雇い主が支出しなくてすむように別途公金から支出するといったやり方だ。するとこの場合には、本人がいて誰かがその介助者でいる――すると、介助に対する費用は、現在の制度はとても不十分にしか対応していないが、出させることはありうる――というより、二人(以上)で一つであることを十全に示せた方が説得力が増すということになる。そしてその時、天畠(たち)の論文で示される、その仕事の製造過程の記述は人々の理解を助けることになり、再び意味を有することになる。それは、天畠が(一方で)望んだ自らの名誉と自尊心を獲得するという方角とは少々異なるかもしれない。その気持ちはわからないではないが、それは自分で言いたいように言えばよい。わかってくれる人はいるだろう。それも言いながら、傍目からは不思議に見える共働を詳細に描いた方がまずおもしろいし、職に結びつくかもしれない。ではこのような仕事の仕方、させ方は、あらゆる職種に及んでよいことであるのか。簡単にはそうは思えないとするとどうしてか。次にそうした問いを考えていくことになる。」(87〜91頁)


 言いたいことはまず以上だ。協働と呼ばれるような営みがある。自分の仕事を介助してもらうことがある。両者は地続きに連続している。そうしたなかで「誰が?」が、なぜ、どのように問われるかは、その行ないが行われている場による。どうでもよい場合もある。なされさえすればよく、誰が、はどうでもよいという場合だ。しかし、そうもいかない場合がある。それにも幾つかある。自分が生活するに際して介助を得るといった場面、なんらかの主張をもって社会に訴えるという社会運動の場面、いずれも、「誰が?」がどうでもよいということにはならないが、同時に、委ねてしまってもよいところがある。いま引用した文章の「★15」とあるのは註で、「介助者手足論」にふれている。その「論」にも少なくともこの二つの契機があるのにそこがこんがらがっているから、分けて考えようと思ってきて、そのこと等を言っている。そして私の考えは、介助に関わっては、『介助の仕事』(2021、筑摩書房)の第8章「へんな穴に落ちない」、そして介助に加えて運動については、青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(2019、生活書院)で私が担当した第6章「分かれた道を引き返し進む」の第2節「つきあい方について」に記した。だいたいそれに尽きると思う。
 ただ、労働・製作となるとまた違ったことを考えねばならない。その一部を引用した文章に記したが、それは一部だ。論文を書くこと一つをとっても、複数の契機があると思う。なぜそこに筆者の名が書かれるとよいことがあるのか。研究者としての力量を評価する/される必要がある場合には、誰がどれだけ寄与したかを示す必要のある場合があるだろう。また筆者の名前から複数の文章・思考のつながりを知ることができるといった効用もあるだろう。また書き手にとっては、自分が書いたのだと示したい、それを糧にして仕事をしていくということもあるだろう。私は、自分の生産物を自分だけが取得できる、のではないとずっと言い続けてきたのだけれども、「これは自分の仕事だ」、と思うことまでを否定したわけではない。ただ他方、同時に、誰が書いてもかまわず、よいものでありさえすればよいのだということもある。
 だとして…、と話が続いていく。長くなるからやめるけれども、ついでに、一つ関係して思うことを書いておく。論文というものはこういうものだという像があって、それを基準に評価され、査読にかかり、落とされたりする。それにはそれなりにもっともなところがある。しかし、なんのためか、他のありようがないのか、と考えることはできるし、私はそれが必要だと、論文を書いてもらうことを手伝う仕事を長くしてきて――数えたら私が主に担当した博士論文が2021年の末までに68本ある――ますます、思うことがある。研究者・教育者としてやっていくとすれば、社会的な事実を解釈しそれを示す力は必要であり、その力の具合を論文によって示すこと、例えば教員として採用する側が知ることに意味はある。そのためにはいまの論文を巡る仕組みは有効だ。しかし、事実をひたすら書いていって、それをただ重ねて集めたもの、はだめなのか。もちろん、何を書くかにも常に選択が働くのだから、「ただ書く」などということがあるのかと言われれば、ないということにはなる。しかし、そこはいろいろと手伝うこともできる――それが私の仕事、すくなくとも仕事の一部のだと私は思っている。そして、できたものについて、さらに別の人が考えたり、解釈を加えたりすればよい。その全体を一人の人が行なうことは、それができることを示しそれで職を得るといった場合は別だが、常に必要なわけではない。
 こちらで博士論文を書こうという人も、博士号をとってそれで研究者に就こうという人ばかりではない。そうでない人がたくさんいる。その人たちは、例えば自分(たち)がやってきたことをとにかくまとめたいと思っている。「社会学者」などになろうとしているわけではない。私はまったくそれでよいと思う。間違いや嘘はよくないが、間違いでないことをきちんと調べてたくさん書いてくれたらそれでよい、その「社会学的含意」なるものは、別の人に探してもらったらよい。
 査読には通っているようだが、つまらない「含意」が書かれ、つまらない「おち」でおちている論文をたくさん見てきて疲れ気味、ということもあるが、そう思っている。加えて、そのようなひとつひとつ分量内に「まとめ」をつけて、査読に落ちたり、ときに通ったりといったような仕組みのもとでは、書かれていくペースが遅すぎ、書かれるべき量にまったく足りないと思っている。だから、私としては、分業・協業おおいにけっこう、とにかく書いてくださいと思っているし、普通には論文とされないものであっても書いてもらい読んでもらいたいと思っているし、その手前の材料をたくさん集めて、公開していこうと思っている。話してもらった記録を研究者の所有物のように手許におくのでなく、むしろ話し手のものとして、話し手の許可を得て公開していきたいと思っているし、すでにそれを進めている(「生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築」→「声の記録」:http://www.arsvi.com/a/arc-r.htm)。
 いささか話が滑っていってしまったが、とにかく、書くものが、どういう位置に置かれるものとして書かれるのか、そうした視点・立脚点をもって考えることだ。そうでないと、「○○とはなにか?」という、自分でも何を問うているのかわからない問いのまわりをぐるぐるまわるだけで、よくない。そのことを私は筆者に、筆者にだけでなく、言ってきたつもりだ。「誰が?」を特定すること、また他方で問わないことは、どんな場合に、どんな理由で必要なのか、本当に必要なのか、必要だとしてではどうするか…。そんな具合に考えていく。それが社会科学、に限らず学問というものだとも私は思う。そのような問い方を筆者(たち)自身にも求めてきたが、本書でその部分がうまくいっているかというとそうではないというのが私の評価だ。しかし、ここまで考えて書かないとだめだと、深追いはしない。それはまた別の仕事としてすればよい。また、自分が始めた仕事だからといって自分だけが続けねばならないわけではない。誰かがやるかもしれない。やってもらえばよい。本書はその「もと」として十分なものになっている。
 さらに、労働全般について。労働をともに行なうこと、介助を得て行なうこと、それは必要なことであったりよいことであったりするだろう。では労働が対価が払われるものだとして、必要なものを得るには費用がかかるとして、それをどのような仕組みに乗せるがよいのか。これがさきに『不如意の身体』から引用した部分の最後の段落で示した問いだ。仕事するに際しても重訪(重度訪問介護)を使えるようにする。それでよい。ややこしいことを考えずそれを進めていけばよい。そう思う。ただ同時に、考えるべきことはある。そしてこれは、著者にとってもまったく他人まかせにはしきれない次の主題・課題だ。どういうわけだか、ここ数年、「障害者と労働」という主題に関わる研究をしようという人たちが幾人かこちらにいる。そんな人たちと/の仕事をまとめ本を作ろうというつもりもある――私の準備作業として「障害者と/の労働について:覚書」(http://www.arsvi.com/ts/20210011.htm、「障害者との労働について覚書」等で検索して出てくる)。著者にもそこに加わってもらうことがあるかもしれない。
 あるいは、著者にそんな暇はなくなり、「おおまかに正しい方向」にぐいぐいと現実を進めていくのが著者の主な仕事になるかもしれない。 『介助の仕事』の111頁には著者の学位授与式での写真があるのだが――著者の写真映りがなんだかえらくよいことは皆が言うことだ――そのあたりに、ある種の障害者は、「社長・経営者に最適、ということがあります。…私の勤め先の大学院生だった天畠大輔なんかがそういう感じです。実際、経営者をしています。」と書いた★。そして、ややこしく細々した仕事は私たち下々の者が行なうことになるかもしれない。それもそれでよいだろう。そのような分業・協業・恊働の仕方もある。そしてそのこともまた本書に書かれているのだった。


 *リンクはこれから

※ 数えてみたら、私が主査(主担当)で博士論文が書籍になったものが三三冊、主査でなかった人二人のも含めて十二の博士をもとにした書籍の冒頭あるいは末尾に解説・解題を書いたようだ(これから書くことになっているもの、帯の宣伝文は別)。そのうち、審査報告書をその文章のなかに引用したのは四冊に書いた文章においてで、この本でが五度目になる。その四冊と私が書いた文章の題を以下に列挙する。なお、窪田の本はナシニシヤ出版からの刊行だが、他は生活書院から。@樋澤吉彦『保安処分構想と医療観察法体制――日本精神保健福祉士協会の関わりをめぐって』(二〇一七)に、「不可解さを示すという仕事」。A仲尾謙二『自動車 カーシェアリングと自動運転という未来――脱自動車保有・脱運転免許のシステムへ』(二〇一八)に、「この本はまず実用的な本で、そして正統な社会科学の本だ」。B葛城貞三『難病患者運動――「ひとりぼっちの難病者をつくらない」滋賀難病連の歴史』(二〇一九)に、「ここから始めることができる」。C窪田好恵『くらしのなかの看護――重い障害のある人に寄り添い続ける』(二〇一九)に、「ここにもっとなにがあり、さらにあるはずについて――解題に代えて」。これまで私が書いてきた十二の文章すべての全文をやはりこちらのサイトに掲載している(http://www.arsvi.com/ts/dt.htm、「立岩真也 博士号取得者」で検索)。


■-------- Forwarded Message --------
Subject: [mlst-ars-vive: 23006] 【ご報告】生活書院から本を刊行しました。
Date: Tue, 22 Feb 2022 17:53:26 +0900

皆さま

いつもお世話になっております。
日本学術振興会特別研究員PD/中央大学の天畠です。
本日、9年かけて立命館大学に提出した博士論文をベースに最新の研究成果と考察を加え、
一連の研究の集大成となる本を刊行しました。
https://seikatsushoin.com/books/shaberenai/
この『しゃべれない生き方とは何か』は、私天畠が、発話困難な重度身体障がいを持つ当事者の視点から、
当事者が「情報生産者」となり生産物を生み出す過程を詳細に描き出し、さらにそのジレンマを社会学的に考察したものです。
とりわけ、「しゃべれない」ゆえに思考の表出に複数の介助者らを介入させているという状況を社会学的に分析したこと、
もう一歩踏み込んで自己と他者の思考主体の切り分け難さからくるコミュニケーションのジレンマまで論じたこと、
さらに彼らと協働で行う研究過程そのものを問題視したこと、
などから障害学をはじめとする社会学にとって、ユニークな内容になったのではと自負しています。
また私を導いてくださった恩師、立命館大学立岩真也先生に、すばらしい解題もいただきましたので、ぜひご高覧下さい。
そして今後の研究活動への励みとなりますので、ご感想をお寄せくださると嬉しいです。
今後ともご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。

日本学術振興会特別研究員PD/中央大学
一般社団法人わをん代表理事
天畠大輔


UP:202202 REV:20220223
博士号取得者  ◇天畠 大輔  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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