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椿 忠雄

つばき・ただお
19210316〜19871020

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◆19210316 生

◆1945 東京帝国大学医学部医学科卒・東大副手

◇神経内科学と私
 「神経学を始めた頃
 私が大学を卒業したのは昭和二〇年、ちょうど終戦の年であった。学生の頃は、将来は結核の専門医となり、この病に悩む多くの患者のために働くつもりであった。このため復員後は坂口内科に入局した。坂口教授の退官後、沖中教授が教室を主宰することになったが、もしこのことがなかったら私は一生、神経内科学をやる可能性はなかったと思う。とすれば人の運命は奇なものである。黒岩君(現九大教授)は私と同期生であるが、私は一年間細菌学の研究をやっていたので、彼は私より一年前に神経学を始めていた。
 ところで、当時は終戦直後、実験器具も研究費も皆無といってよい状態であった。これからわれわれはどのように研究したらばよいか。途方に暮れるはすであるが、若さというものは有難いもので、何らかの道をみつけるものである。
 浴風会と尼子先生
 冲中教授は,黒岩君や私に浴風会病院へ行って研究することをすすめられた。冲中先生の慧△005 眼であるが、そこには多数の神経障害患者が入院しており、長い経過観察と剖検所見を経て、これから脳の機能なみるという生きた神経学を勉強することができた。このようなシステムは当時の尼子富士郎先生がつくられたもので、老年医学のメッカになつていた。このシステムのため日本の医学がどれほど進歩したかは計りしれないが、何より大きな影響をわれわれに与えたのは尼子先生のご人格であった。学問の深さと裏腹の謙虚さ、人間的尊厳さと温かさは、若いわれわれの尊敬の的であり、先生のご指導下にどれほど多くのすぐれた弟子が輩出したかわからない。この環境の下にこそ、研究費のほとんどゼロのわれわれが研究な続けられたのであった。
 米国留学
 一九五六年から五七年にかけて、冲中先生のご推薦でカリフォルニア大学神経学教室エアード教授の下に留学する機会が与えられた。ここには有名なワルテンぺルグ教授がおられたが、私の到着後、約一週間で急逝された。この間のことは拙著、神経内科四巻三六一頁に記した。
 カリフォルニア大学ではてんかんの臨床と実験的研究、多発性硬化症の臨床、クラッべ病の病理などの仕事をさせていただいたが、この時の経験で何より驚いたことは、日米の臨床神経学のレぺルの差であった。われわれの知らないことを学生が沿々と述べる場面にもしばしば遭遇し、臨床レぺルの向上に努力する必要性を実感して帰国した。△006
 当時の印象では、米国でも診断に多額の費用をかけるわけでなく、日本でも十分対応できるものであったのは幸いであった。むしろ、必ずしも高価な機械がなくても、よい研究ができることを教えられた。日本へ持ち帰った最大の収穫は、米国の臨床レべルの高さであった。
 東大脳研究所の頃
 私の渡米中に、私は東大脳研臨床部門の助教授に就任した。しかし、そこに診療科があるわけではなく、結局、冲中内科の研究室の隅に、従来と同様、机の一部を借りる生活であった。当時、東大に神経学の講座のできる見通しはまだなかったが、冲中内科には若い有能な医師が集まり、多くの不備な研究設備の下で身体を使って研究した。これらの医師のうち一〇数人が、現在全国の大学に散り、神経内科の教授となっているが、当時は夢としても信じられなかったであろう。
 脳血管障害、神経・筋疾患、脊髄疾患などは当時の研究室の主要テーマであったが、これらは現在、全国的な神経内科学的テーマとなっている。臨床のレぺルもトレーニングシステムのと充実とともに向上し、米国のレぺルに近づくに至った。
 日本神経学会
 この学会の設立については、昭和五四年の日本神経学会二〇周年記念講演で述ぺた(臨床神経学一九巻八〇四頁)ので省略するが、昭和三五年、日本臨床神経学会の名称で発足した。学△007 会名に「臨床」の入っている理由は、当時の神経学研究には臨床を離れたものが多かったことに対する反省をこめている。来年には京都で第一二回世界神経学会を開催するまで発展した現在、われわれが若いころ貧しい研究費で行った研究の影はない。巨大な機械により、次々とデータが出される。機械の影にかくれたアイデアな表面に出し勝負をすることを忘れれば、再び反省を強いられるであろう。
 新潟大脳研究所に移って
 昭和四〇年、ニ〇年を過ごした東大から新潟大へ転任した。新潟へ来て感じたことは、研究者の人情も厚く協力体制もよいことであった。私の最も尊敬する学者のひとり中田瑞穂先生のお教えもうけることができ、夢のような楽しい研究生活であった。当時率直にいって、新潟大神経内科の臨床レぺルは東大とはかなりの差があったが、間もなく差をとり戻した。ニ〜三の点を除けば、一五年間の新潟は夢のように過ぎた。水俣病の研究も、スモソの研究もここで完成した。しかし、変性疾患はやはり難物であった。この病気の原因の解明は見通しがつかないが、私は臨床家として何がしかの貢献なしたと信じている。
 患者の幸福はいかがあるべきか、現在、最も大きい神経疾患の医療問題について、私の気持が新潟の若い医師に受けつがれることを信じつつ、、この稿を終ろう。
 (クリニシアン 二九〇号・昭和五五・四)」(全文)()

◆東大助手

◆1956 米国カリフォルニア大学留学

◆1957 医学博士(東京大学)
◆1957 東大助教授

■1965

◆19650108

 「昭和四十年四月、新潟大学に神経内科の講座が新設される事になり、最初の主任教授には東大脳研究所の椿忠雄助教授が決まっていた。四十年一月八日、椿助教授が新大医学部に挨拶にこられて、たまたま、脳神経外科に入院していた今田一郎さん(三十一才)を診察した。そして今田一郎さんが新△0219 潟水俣病の第一号となったのである。
 一郎さんの父藤吉さんは阿賀野川の漁師だった。今田さんの家は農業兼漁業で、下山部落で畑作と養鶏を営んでいた。昭和三十九年六月十六日、新潟地震の被害で、耕作が不能となり、川漁に専念した。その頃、特に豊漁が続き、毎日ニゴイ、マルタなどを多食した。
 一郎さんは昭和三十九年九月頃より腰痛、一カ月くらいで両手足のしびれが現れ、ひき続き二週間くらいでしびれ感は口周囲、両下肢、全腕さらに全身へと拡大し、下肢の脱力感と、歩行がふらついて定まらず、目も視界がぼけ、日常動作も円滑さを欠き拙劣となり、言語も遅く不明瞭となった。十月二十六日に近くの桑名病院に入院した後、十一月十二日に新潟大学脳外科に転院した。他に著明な視野狭窄、運動失調、聴力障害が認められた。これらはハンター・ラッセル症候群である。そして、椿教授の予想したとおり、四十年一月二十八日には今田一郎さんの毛髪から三二〇ppmという高濃度の水銀が検出され、アルキル水銀中毒症の診断が確定した。
 新潟大学の初期の取組み
 椿教授は後でこの時のことについて、白癬治療薬によるメチル水銀中毒の患者を診察したことがあるので今田さんを診察したときすぐにピンときた、私に述懐されたことがある。」(斎藤[1996:219-221])

 「実は、椿氏自身も遅くとも1965年1月にはハッ牛リと水銀中毒の発生を確認していたようだ。
 新潟大学医学部で椿教授に指導を受けたというM医師(キリスト者)は、「学生のとき、椿先生が『実は水俣病についてはかなり前にわかっていたんだが、それをすぐに発表すると大問題になるので、充分手をうってからにしようと発表を遅らせた。』と言ったので「先生はキリスト者でもあり、しかも医師なのだから、患者の救済のためにはすぐに発表すべきだったのではないか。社会的な配慮は行政の仕事ではないのか。」と質問をしたら『いや、あの時の判断は、あれで正しかったと思っているjと答えたことがあった。」と述べている。椿氏の水俣病問題の苦悩は、既に18年前の事件発生のときから始まったのだ。」(高見[1983])

◆196503 東京大学(脳研究所)助教授→新潟大学医学部神経内科(新設)教授

◆196504-
 「新潟大学の初期の取組み
 […]
 新潟大学神経内科には、昭和四十年四月中旬、胡桃山の太田藤松さん(二十八才)、五月中旬には江口の星田幸平さん(五十五才)も受診し、有機水銀中毒症の診断を受けた。また今田さんの近所で三十九年八月に発病し十月に亡くなった北大助(六十三才)さんも本症と診断された。
 有機水銀中毒の報告は、原因別に見ると、@工場の労働災害によるものA農薬中毒B医薬品中毒C水俣病の四つに大別される。△220
 当時の新潟大学の精力的な取組みについて、当時の新潟大学神経内科の近藤喜代太郎講師の報告が具体的に記してあり暫く引用させていただく。」(斎藤[1996:220-221])

◆19650612 椿ら新潟水俣病発生を公表

◆1966 第63回日本内科学会 椿他[1965]

 「一九六六(昭和四一)年の第六三回日本内科学会の話題は新潟大学神経内科の椿忠雄教授の「阿賀野川下流沿岸地域に発生した有機水銀中毒症の疫学的ならびに臨床的研究」に集中していた。椿はニ六名の患者を発見したこと、毛髪水銀値が五〇ppmから三〇ppm以上あったこと、川魚を食べることによって起こったものであることが考えられること、汚染源としては上流のアセトアルデヒド工場が疑われていることなどを報告した。
 その時の討論をみてみよう(「日本内科学会雑誌」五五巻六号より)。

 九州大・勝木「椿教授の御発表に表在僅知覚障害が頻発しているが、今回の観察ではこの様な症状のみのものはどの程度あったか。また、このような有機水銀中毒症の不全型を綿密に観察され、本中毒症の一症状としてとりあげた炯限に敬意を表する。実はかつてわたくしが熊本大学在職中昭和三一年の水俣病多発の一年前に、われわれの内科に二名の末梢神経炎症状を示す患者が入院、検討したことがめる。何か中毒性のものではないかと疑い調査したが遂に原因不明のままであった。しかるに翌年には定型的水俣病症状を具備して再入院した。このことから、原因不明の症状、疾患に出遭った場合、僅かの変化も見逃さず追求する必要があることを痛感した。」
 椿「症例の中には、知覚障害のみのものも含まれている。毛髪中水銀量、魚の摂取状況と症状 > 068 > 発生の時期、知覚障害の特異性と経過により、有機水銀中毒と診断したもので、アルキル水銀中毒症、必ずしも定型的ハンター・ラッセルの症状を呈しないことを強調したい。勝木教授の御経験はわれわれにも大いに参考になり、われわれの診断を支持されることであり、貴重な御意見に感謝する。」
 熊本大・徳臣「本演題の報告はかつてわれわれが経験した水俣病と同一である。本症の診断は電型的の場合には、いわゆるハンター・ラッセル症候群として容易である。しかしながら毛髪中、尿中水銀量が正常の数倍に達し、わずかに知覚障害を伴うだけといった症例を如何に取扱うか問題である。われわれは水俣地区で九〇〇名の住民の毛髪水銀量を検査し五〇ppm以上の者が二三%に認められた。この間題は補償問題が起こつた際に水俣病志願者が出現したので、過去においてわれわれはハンター・ラッセル症候群を基準にすることにて処理した。」
 座長「初めの疾患単位を確立する時期においては必要であったと思います。」

 この時の二名の患者とは発病初期の浜元二徳(昭和一一年生まれの漁師)、中津芳男(仮名) (昭和六年生まれの漁師)であった。このときの彼らの診断は「アセチレン中毒の疑い」であった。その翌年、浜元の両親が急性激症で発病して死亡した。中津の父親も同様に発病した。もし、現在言われているように「感覚障害だけの水俣病があるかどうか」の議論が病像論であると△069 するならばこの時点で決着はついていたのである。さらに、水俣に関しても胎児性水俣病の母親の臨床症状や住民の健康調査などの結果、多数の特徴のある感覚障害患者が存在する事実、加えて、カナダ・インデアン区の居留地の汚染地住民検診や中国水俣病の症状などから「感覚障害だけの水俣病が存在するという」証拠のほうが多い。これに対して、「感覚障害だけでは水俣病ではない」とする根拠はない。専門家があげたいくつかの論文が確かにあることはあるがこれらは多くがミスリーディングであった。すなわち、荒木らの「水俣病は感覚障害だけの水俣病がなかった」という報告は認定患者の一〇年間の追跡調査であった(「臨床神経」二四巻二三五頁)。認定患者は認定する時点で初めから感覚障害だけの患者は含まないのだから、一〇年後に追跡しても感覚障害だけの患者が見つからないのはあたりまえではないか。老人にも感覚障害が多いという論文は一般の感覚障害と水俣病に見られた特徴ある感覚障害を故意に混同しているものであった(「水俣病に関する総合的研究」中間報告第二集、一四九頁、一九七六年)。ただ、環境庁が唯一の根拠とされるものは、一九八五年一〇月の「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議」の意見書である。」(原田[1995:68-70])

■1967-

◆19670(-197109) 第一次新潟水俣病裁判(1967年提訴−1971年9月原告患者側勝訴―確定) 椿、患者側証人に立つ

◆白木 博次・佐野 圭司・椿 忠雄 196804 『脳を守ろう』,岩波新書

◆新潟大学→東京

◇19850622 「ALS患者に対し、われわれは何ができるか」,新大神経内科開講二〇周年記念講演→椿[1988(2):105-127]
 「私は五年前に東京へ参りました。まだ定年前でございました。私は、なぜ定年前に大学を辞めたかということに関して、いくつかの理由をあげて参りましたけれども、とくに私が申し上対げたいことは、私は、この大学において少なくとも、学生の教育と、そして患者に関する診療に対しては、誠意を尽くしてやったと思っております。しかしある日のこと、私の臨床講義のときに、学生に講義の邪魔をされ、そして何かマイクをつきつけて「答えろ」と、そういうことをいわれました。そのために、講義が流れてしまいました。その後何回かストライキが続きました。しかしストライキはそのうちに解除になり、私は解除になった第一回の講義のときに、こういうことを申し上げました。「私は本当は大学にいる人間ではない。第一線の病院で働く△105 人間だ。だから、おそらくそのうち、私がこの大学に働く使命が終ったら、病院に移るぞ」ということを話しました。もちろんそれがその学生と関係があるとは話しませんでした。けれども、私はその頃から、私の誠意を解ってもらえないことがとてもショックでいずれ大学をやめなければならない、というふうに思ってたわけです。そして私は、東京の病院に移りましたけれども、私のほんとうにいきたい病院は、もっと第一線の(今の病院が第一線の病院でないという意味ではありませんが)それほど専門的でない病院の方を考えていたわけであります。」

◆1970

 1970年2月に「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」(旧救済法:9年12月15日公布)が施行されるまで、新潟では新潟県水銀中毒患者及び水保有者に対する特別措置要項(特別措置要項)に基づき、医療費支給などの措置がとられていた。特別措置要項の対象になるか否かを判断するのが「新潟県有機水銀中毒患者審査会」で、ここで認定された患者が医療費等の給付を受けた。もっとも特別措置要綱は水俣病患者に対する緊急支援の意味合いが大きく、対象者の水銀保有量は200ppm(または)50ppm以上とされたが、その基準も受け入れ態勢との関係で暫定的に決められたものだった。
 救済法が施行されるまでの間、熊本でも一定基準のもとに医療費の公費坦措置がとられてきたが、新潟県の認定基準は熊本の認定基準を踏襲したものではなかった。当時、診断にあたっていた新潟大学の椿忠雄は熊本での水俣病研究の蓄積が新潟水俣病に役立ったことはいうまでもないが、同じ研究方法を通用したわけではなかったと述懐している(椿1979 :291)。では、新潟での水俣病認定基準とはどのようなものだったのだろうか。この間いは、当時、潜在患者の発見のために行われた第1回一斉検診が、どのような基準に基づいて被害者を見つけ出し、被害者救済策を行ったかという点に通じる。
 椿忠雄は、「疫学調査の際、調査地域の正確な実態を知るにはhouse-to-house survey(すべての家庭を訪問し、すべての個人に面接し、症状の有無を個人ごとに調べる方法)が最も完全であり、また、これによらなければ完全な情報をえられない」(同上:298)という立場と方法に依拠して一斉検診を行ったと述べている。また、調査の際には「中毒にはごく軽症のものから定型的なものまで、いろいろの段階のものがありうるとの考えから、私はごく初期には診断△027 基準の枠をはめることを避け、疑わしいものを広くすくいあげ、この中から共通の症状をもつものを選び、これと平行して診断要項を設定するという方法」(同上:293)をとったと論じる。」(関[2003:27-28])

 「新潟水俣病の認定患者数は、最終的に690名になるが、第1回一斉検診で見つかった患者は26名、新潟水俣病発生から旧救済法の施行までの約5年で「発見」された患者は僅か41名にすぎず、しかも阿賀野川の下流域(横雲橋より下流)でしか患者が見つかっていなかった。だが、このことは、第1回一斉検診の時点で、阿賀野川中・上流に患者が発生する可能性が存在しなかったことを意味しない。
 第1回一斉検診ではアンケート等で精密検査を要する者(要精検者)に選ばれた1,458名の頭髪水銀を検査した結果、158名が総水銀50ppm以上という高い数値を示しており、鹿瀬町でも2名に75ppm、187ppmと高い水銀値が検出△030 されていた。また、一斉検診時に行われた妊産婦及び妊娠可能婦人及び乳児の健康調査では、下流地域の4,280世帯、6,419名を対象としたアンケートが行われ、健康異常や川魚喫食状況を考慮して1,026名の頭髪水銀値が測定された。結果、46名から50ppm以上の総水銀値が検出されくいる。また、乳児1名からも50ppm以上の総水銀が検出され、後に胎児性水俣病として認定された(新潟県の資料による)。
 椿は、県にこれらの人々の精密検査を申し入れたが、実現しなかったという経緯を述べている(椿1972)。新潟県では、暫定的に200ppm、50ppmという数値が水俣病の基準として定められただけで、それが正常値と捉えられていたわけではなかった。実際、椿は論文のなかで「地震前の値までさかのぼって得ることができたのは2例だけだが、この両人とも水銀量は明らかに正常値(20ppm)をこえていた」と表現している(椿1979 : 297)。1965年当時の日本人の頭髪水銀値の平均は都市部で平均4.39ppm、農村部で8.98ppmという調査結果がある。しかも日本人の頭髪水銀値は世界最高水準だったというのだから、50ppmという数値がいかに高いかがわかる(浮田1966、若月1966)。」(関[2003:30-31])

■19710929 判決

◇、「椿氏は第一次新潟水俣病裁判(1967年提訴−1971年9月原告患者側勝訴―確定)では、患者側証人に立ち、患者の訴えを全面的に支持し、判決当日には裁判所までかけつけ患者らを「祝福」することまでしたくらいだった。」(高見[1983])

◇椿 19710928 「判決を前にして」,『読売新聞』1971-9-28→椿[1988(1):67-70]

 「私は原告の勝利を確信しているが、これはあくまでも患者の幸福に連なるものであってほしいと思う。そんなことはないと思うが、公害闘争が前面に出て、患者が忘れられることがあっては、余りにも患者が気の毒である。
 もとより、このような公害が許されるはずはなく、公害に対する戦いは今後ますます強力に推し進めなければならない。国や地方自治体の行政面や、有毒物質を流す企業の責任は当然であるが、公害闘争が行政や企業にのみ向けられていてよいであろうか。私は、すべての人が公害を自分の責任として考えなければならないと思う。国民の一人一人が、自分自身が何か公害をつくっていないかを反省すべきではなかろうか。
 私は、このまま公害が進めば、人類が破滅するのではないかと不安を感ずる一人である。それならば、この裁判で争われていることは、公害の中のごく小部分。公害との戦いは、今後ますます拡大していかなければならないと思う。」(ここで終わり)(椿[19710928→1988(1):69-70]])

◇椿 19710928 「新潟水俣病判決を迎えて」,『新潟日報』1971-9-28→椿[1988(1):71-73]

 「今回の判決を前にして、私はこの判決が被災者たちの幸福に連なるものであってほしいと思う。公害との戦いがあまりに前景に出て、被災者たちの幸福が忘れられないように、私どもも注意しなければならないし、また県民の皆さまもそのような気持ちでこの判決をみつめていただきたいと思うのである。このことが、長い間この病気と患者なみてきた私の率直な感想である。
 公害の根はあまりに深い。現在のような環境破壊を続けていけば、人類は減亡するであろう。しかしこれは、一企業の責任か否かの裁判とはあまりにも次元の違う事柄である。公害に対する戦いは、すぺての人が自分自身、環境破壊に対してなんらかの役割りをしていないかどうかを、反省することから始めなければならないのではなかろうか。 人はよく、公害に対する行政の姿勢をいう。行政機関の責任が重大なことはもちろんであるが、私はなにか責任転嫁のような気がする。この事件においても、厚生省のだれがどういった△072 とか、どうしたとか、ということがしばしば重大事件のように報ぜられてきた。しかし、それは枝葉末節である。われわれがもっとも反省すべき点は、水俣病が発生してから第二の水俣病を発生させたことである。行政や企業の責任は当然であるが、当時第二の水俣病が発生する危険性を指摘する学者はほとんどいなかったし、また、いまでこそ公害を取り上げてさわいでいるマスコミも、当時はこの点に対しては無関心であった。」(椿[19710928→1988(1):72-73]])

◇椿 197112 「水俣病と新潟水俣病」,『Creata』1971-12→椿[1988(1):74-76]

 「そのような附随的な新潟水俣病であったが、それがまた本家の水俣病に大きな影響を及ぼすに至った。昭和三十五年に新患者の発生も終り、世間の耳目もこれから離れつつあった時、新しい新潟水俣病は大きな波瀾をまきおこした。昭和四十三年に至り政府の統一見解が出されたが、新潟水俣病がおこらなかったらば、このような見解も出されなかったであろうし、また被害者が裁判所へ提訴するという事態もおこらなかったであろう。また、これと並んで水俣病の実態というものが新たな問題として起った。事件発生後数年しか経過していない新潟においてさえ、我々が当初考えていなかったいくつかの事実が明らかになりつつあるのであるから、歴史の古い水俣において更に色々の事態が起ることは想像に難くない。最近このような問題から過去の研究に対し批判が行なわれようとしているが、それは真面目な研究者に対し酷ではなかろうか。後になって明らかになった事実をもとにして初期の研究を批判するのが不当なことは誰でもわかるのであるが、社会問題となると仲々やっかいなことになるのである。元来、他人△075 を批判することは容易であるが、批判されないような研究を自分で行なうことは至難の業である。勿論正当な批判は率直に受け入れなけれぱならないが、批判者も充分の節度な持つべきであると思うのである。
 水俣病は今後何年間の間に、新知見や色々の問題が出てくるであろう。それが科学の進歩というものである。これを過去の歩みに照して批判の目を向けるよりも、前向きに考えるべきである。すなわち、世界に類をみないニつの特異な事件を経験した我々は、この事を徹底的に科学的に解明し、全世界における水銀の人体への影響を防がねばならないのである。
 私は最初に「一応の終り」と述べたが、水銀の人体への影響の研究は終りがないのである。これを行なうことが我々の義務であり、義務を怠ったことに対する批判は酷しく責められくも致し方ないと思っている。
   (Creata 昭和四六・一ニ)」」(ここで終わり)(椿[19710928→1988(1):69-70])

◆1972-1973

 「水俣病の他覚症状
 すでに述べたごとく、新潟水俣病発生当初から疫学面を重視して取組んだ椿教授が、それまで基準とされた「ハンター・ラッセル症状」にとらわれることなく、昭和四十七年、水俣病診断要項を発表した。
 その診断要項で椿教授は「知覚障害は最も頻度が高く、特に四肢末端、口囲、舌に著明であること、またこれが軽快し難いことを重視する」と述べている。
 水俣病に感覚障害のみの例はあるかどうかについては、熊本でも新潟でも行政不服や裁判で長い間、争われていることである。
 新潟水俣病の初期の二十六例について、感覚障害のみの例も水俣病と診断されているが、椿教授は多くの例が知覚症状以外の症状を持つとしても、水俣病で感覚障害のみの例も、この頃は認めていたのである。この二十六名中、運動失調調査のアジアドコキネージスと指鼻、膝踵試験の異常例は+と±を加えても、二十二例中八例、三十六.四%に過ぎない。そして、感覚障害のみの例は、二十六例中四例、一五.四%に認められている。また、昭和四十五年に行なわれた第二回の一斉調査でも、有機水銀汚染地区に四肢遠位部に知覚障害を認める多発神経炎のみの患者数、頻度が有意に高頻度であったことも認められている。
 水俣病の場合の感覚障害は、多発神経炎型の感覚障害である。これは、四肢の末端に強く、軀幹に近づくにつれ次第に感覚鈍麻の程度は弱くなる。感覚障害部と健常部の移行ははっきりしないが、障害部は手袋や靴下をはいたような分布を示すとして、手袋靴下型(glove and stocking type)という。感覚障害の範囲も四肢だけではなく、下腹部や臀部に及ぶものも多い。口囲、舌先、二腹壁の正中部の△235 知覚障害も、神経の走行から抹消に強い障害を示している。
 また、水俣病の場合、半身の知覚障害がよく見られる。
 昭和四十七年に当時、沼垂診療所に受診中の水俣病認定患者百八十二名について、私が調べたところでは、半身の知覚障害のある例は、一過性のものも含めると、八十一名、四四・五%であった。
 新潟大学医療技術短期大学部の白川健一教授は昭和四十八年に新潟水俣病患者五十六名を調べ、そのうち三十二名、五七・一%に不全片麻痺が認められたと報告している。
 感覚障害については四肢だけではなく下腹部、臀部にもみられ、また口囲や腹壁や背部の正中部に感覚障害の強い例も認められる。半身の知覚低下も約半数に認められている。
 昭和四十二年の初秋のことである。私は水俣病の桑田忠一さんの家に往診し、忠一さんから最近手指が曲がってきたことを告げられた。両手を揃えて反るように伸ばすと、手指が基、中、末関節ともに軽く屈曲し、指を揃えて伸ばせず、指の間が少しずつ開く状態になっていた。
 そこで、見舞にきていた忠一さんの兄で水俣病の桑田周平さんの手を見ると、程度は少ないが、手は反らせて伸ばすことができず、両手の小指が少し開いていた。また本家の婿の清さんも水俣病であったが、足の第一趾と第二趾が重なってきて歩くと痛むこと、背骨も湾曲してきていた。そして、さらに阿賀野川の水銀汚染以来、大骨のまがった魚がよくとれること。人間も魚も同じ、やはり水銀のせいではないかと告げられた。
 また、体のあちこちの筋が縮んで行くような痛みや筋肉の痙攣がよくあるという。
 まもなく私は椿教授に会い、この事を話し、神経や筋の生検(生体の臓器または組織の一部を切り取って、病理組織学的に診断を確定すること)をやってはどうか、四肢のしびれは末梢神経や筋肉の障害によるのではないか、と聞いてみた。△236
 椿教授は自分でもこれまで水俣病は中枢神経だけが重視されているが、末梢神経を調べてみたいと答え、「しかし、水俣病は社会問題になっているので、生検まで患者にいうことはできないので斎藤君、患者で神経をとって調べてもよい人を探してほしい」と依頼されてしまった。
 私は二、三の患者にあたってみた。そして、これは患者本人の治療にすぐ役立つかどうかはわからないが、潜在患者で水俣病と診断されずに苦しむ人たちには役立つ可能性があることを率直に話した。
 昭和四十三年の水俣病患者たちの新年会で患者たちに、椿教授に依頼された件を話してみたが、その塲では何の反応も聞けなかった。
 しかし、春になってから、一人の患者が私のところに申し出てきた。水俣病になってから一度漁をすると三日も休むほど疲労するため、つい酒ばかり飲み、肝臓も痛めて入院もした五十嵐健次郎さんという若い漁師である。「おれはまだ三十六才、働き盛りの年でこんな病気になり、世の中の役に立にない状態になって、ほんとに残念だ。せめて、おれでも役に立つことがめるなら、神経でもなんでもとってほしい」と言う。
 私はその気持ちに感動すると共に、早速、椿教授に紹介し、患者の会でも報告した。すると、さら志願者が増えた。
 かくして、水俣病で最初の神経生検が行なわれたのである。ただ、これは下腿背部の下方に感覚神経のみからなる腓腹神経があって、この一部を切除して調べるため、切除するとそれより末梢の感覚がなくなるという弊害がある。
 昭和四十四年、椿教授はそのときの結果を含めて次の報告を行っている。末梢神経の組織像は二剖検例において、斑状の脱髄巣、シュワン核と線維細部核の増加を見出した。最近さらに二生検例を得たが、同様に著名な脱髄変性を認めた。」(斎藤[1996:234-237])

 「初期に新潟水俣病の疫学調査を指導された椿教授は、「診断基準の枠をはめる事を避け、疑わしいものを広くすくいあげ、この中から共通の症状をもつものを選び、これと並行して、診断要綱を設定するという方法を採った。この方法が正しかった事は、後に新潟水俣病の実態把握の際に立証されたものと信じている」と疫学調査を重視し、事実を重視する立場で述べておられる。
 この手法で「ハンター・ラッセル症候群」を基本としながら、その狭い枠にとらわれずに、椿教授による水俣病の診断要綱がまとめられていったのである。
 公害問題においては、この立場がいつも大切なことである。」(斎藤[1996:274])

■1973

◆19730320 水俣病訴訟判決第一次訴訟判決

 「一九七三(昭和四八)年の水俣病第一次訴訟判決の結果、チッソと患者の間で協定が結ぱれ、判決許容額である一六〇〇万円から一八〇〇万円の補償金が支払われることになった。このとき、椿教授はこんな言葉をもらしたといわれている。
 「自分の書く診断書で、自分の退職金より多い金額を患者が手にする。この事実が、どうしても納得できないのだよ。」△179
 この言葉の真意がどのようなものだったのかはわからない。だが、このとき以降、椿教授は国の患者切り捨て策を支える医学者に変節していったのだった。
 椿教授にすれば、国の政策を助けるために自分は医学的な節を曲げてまで行政の片棒を担いできたという思いがあったのではないだろうか。ところが、国の意向を受けて自分たちが切り捨てたはずの患者に、いまになって国が救済の手をさし伸べる「特別医療事業」が実施きれるという。医学者としての自分は国に裏切られた、というのが椿教授の気持ちだったのかもしれない。
 椿教授の胸中がどうであれ、ここではすでに水俣病患者の認定が、医学としての認定作業から「補償金をもらう患者の認定」作業に変質してしまっている。医学的な立場からするならば、疫学的条件や本人の自覚症状、臨床症状などから純粋に判断すべきはずだ。ところが、「認定になればこの患者はいくら手にする」というような社会的要素が加わることで、認定の判断基準そのものにもゆがみが生まれてしまっているのだ。多くの医学者が、水俣病の認定を「補償金」との関連のなかでしか考えられなくなっていくなか、行政は医学者たちを取り込んで患者切り捨ての政策を遂行してきたといえるのではないだろうか。」(矢吹[2005:179-180]

◆19730621 新潟水俣病、補償協定

◆19730817 環境庁専門家会議

 「1973年、有明海、徳山湾のいわゆる「第3・第4水俣病事件」のとき、熊大第2次水俣病研究班(班長、武内忠男 病理学教授)が出した第3水俣病発生の結論を環境庁は、椿氏らを専門委員とする「健康調査分科会」で検討し、熊大の結論を否定してしまったのである。」
 「ある記者が『2年間に及ぶ研究の結果と数分間フィルム(患者の運動機能をみるために撮られたという)を見ただけの判断と、どちらを信用したらよいか』と質問したところ、椿氏は、『君、失礼じゃないか、答える必要はない!』と机をたたいて激怒、顔面蒼白にしてそっぽを向いてしまう一幕があった。」という報道がある。(雑誌「青と緑」1973年10月号、<不毛の医学論争を排す>)これを引用して、武谷三男氏は次のように述べている。「科学的な問題に対して、いかなる質問をされても科学者は矢礼だと言って怒る理由はないのである。こういうことに対して答える必要がないというのは全く科学的態度とはいえないのであり、やはりちゃんと説明すべきではないか。これは医者の特権意識に基づいている態度である。」(「医療と人間と」4号 1974年1月) 私も、これに賛成である。武谷氏は又、「特権は差別につながる」とも言っている。」(高見[1983])

◇武谷三男 197401 『医療と人間と』
◇『青と緑』
 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000025039-00
 楓出版社 創刊号 (昭47.10)-5巻2号 (昭51.2) https://ci.nii.ac.jp/ncid/AN00151127#anc-library

 「これまで無策であった政府も第三の水俣病事件によって急遽、日本中の水銀汚染の総点検を始めると共に、環境庁(三木武夫長官)はカセイソーダ工場の水銀電解法の廃止、そして全国の九つの汚染水域(水俣湾・不知火海・有明海・徳山湾・新居浜・水島・氷見)を緊急に調査することを決定した。
 また一方、環境庁では昭和四十八年八月十七日、新潟大学椿忠雄教授を座長とする専門家会議を開き、対策を協議した。この専門家会議で、熊本大学第二次研究班から報告された有明町の二症例が「シロ」とされ、大牟田市の一例も九州大学の黒岩教授により水俣病が否定された。
 昭和四十八年八月十七日、有明町の二症例が「シロ」とされ、四十九年三月二十三日、有明町の残症例がいずれも否定され、熊本大学が第三、第四の水俣病発生を警告して以後、浮かび上がった疑わしい地域の症例は、四十八年八月から一年間にすべてが否定されてしまったのである。
 新潟水俣病の自主交渉も補償協定が六月二十一目に締結され、運動も終息に向かっていた時期である。そして、さらに昭和四十八年暮れから日本経済は石油ショックにぶつかり、四十九、五十年は戦後最大の不況に入っていた。そして皮肉にも社会的には公害問題は急速に影をひそめていった。
 そして、昭和四十八年の春から四日市喘息の否認例が増え、秋から熊本、次いで新潟水俣病の否認例が急増したのである。
 平成四(一九九二)年になって、熊本大学第二次研究班の班長であった熊本大学名誉教授武内忠男先生が昭和四十八年の環境庁専門家会議の状況を『水俣病におけるガリレオ裁判』として公表された。
 「熊本大学、武内教授が全般の報告をした後、立津教授が臨床報告を行ない、その後、眼科の筒井教授が眼球運動の異常、視野の狭窄と沈下が明瞭に見られる事、さらに耳鼻科の野坂教授が内耳性難△142 聴があることは確かであるが、これは水俣病の際にもみられる。その他の後迷路性難聴も否定できず、水俣病の特徴的所見の一つであると報告し、最後に立津教授が以上から総合して水俣病と同様の症状みた、と報告した。その後、徳臣教授が映画で、この患者で歩行失調のないことを示す。一方、立津教授は映画でも、ぼたんかけがまがまずくて遅い。手掌(しゅしょう)をつかっている。振戦もある。歩行障害もこの映画ではわからぬが、診察して何回もみるとあるのです。それでも正常とはいえない、と主張するが、椿委員長が映画では歩行は正常と判定されると主張し、議論が沸騰する。
 しかし、椿教授は、映画で見た限りでは明らかな運動失調はない。いろいろ議論はあるが、今日委員長とて結論を出さなければならない。私にはその義務がある。現時点ではこの二例は水俣病であると認める事はできない、と述べ、予め用意してあった環境庁の文章を結論として読み上げる。
 始めから結論が出ていたことに、立津教授初め熊本第二次研究班の委員たちは怒り心頭に発したが時間切れとなり、涙を飲んだ」と記載されている。
 映画で運動失調がはっきり言えるような新潟水俣病は何人もいないことは椿教授自身がよく知っていたことである。それをあえて否定してしまったのである。この事は明らかに椿教授が変身したことをうかがわせるものである。そして、水銀パニックを起こしたのは熊本大学第二次研究班であるとして、これを否定し、はやくパニックを押さえることのみを目的とした極めて政治的なものと見られる。これと同時に、審査会の認定は厳しく変えられていったのである。
 さらに見ると、認定区分の六ランクについて記載されている。
 その区分についてはすでに述べたように、一ランクは水俣病である。二ランクは有機水銀の影響が認められる、すなわち水俣病が疑われるものということになっている。 △143
 有機水銀の影響を認める症状が臨床的に確認されるならば、それは「疑い」ではなく水俣病そのものであって何故一ランクとニランクと分かれるのか、私にはわからない。
 第一回から六回までは事務次官通達の出る前で認定、否認、要観察と再検に分かれている。
 昭和四十四年十二月の「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」によるものである。四十五、四十六、四十七年の頃は一度否認されても後から認定されているものが多い。その頃は私が診断書を書いて申請した例はほとんど認定されていた。棄却にあたる四ランク、五ランクはほとんど見られていない。
 それが、椿教授が環境庁の専門家会議の責任者になり、水銀パニックを静めようと努力する頃から急速に四ランクの棄却例が増え、一、ニランク認定が滅っている。昭和四十九年の県議会での証言も一つの大きな転機となったように見える。
 審査会で水俣病を否認された患者から不服申請が出ている。それで、新潟県議会で椿教授が、共産党の林県会議員に質問を受けたのである。そのときの林氏とのやりとりの一部を抜粋してみる。

  林氏 審査会での仕事は、純医学的になされるのか、それとも行政的判断が入っているのか、
  椿教授 純医学的だ。
  林氏 認定ランクは六つあるが、区別の基準は?
  椿教授 すべての病気は、一〇〇%そうだというのは少ない。水俣病らしさというのが多い。九〇%ぐらいあるのが@ランク、七〇%ぐらいがAランク、可能性が半分以上あるのがBランクと考えている。しかし、Cランク以下でも完全に否定できない。環境庁の通達で広く認定せよということだった。しかし、最近もう一回純医学的に見て行こうということになった。 △144
  林氏 Cランクについても、まったく否定するものではないとのことだが、そういう人たちについて、行政的に救済措置をしながら、追求していくことが必要と思うが。
  椿教授 追求するのは当然だ。Cランクの場合他の病気も考えられるので、水俣病だけで、狭く追求していくのはよくない。認定したほうがいいかどうかは、行政の問題で関与することではないと思う。
  林氏 否認が増えてきたのは二十五回以降の審査会からだ。昨年八月頃から否認が多くなっている。全国的にみて、厳しくなっている。審査会に外部から何かあったのかどうか?
  椿教授 そんなことは絶対になかった。影響もされないし、こういうことは間違いだ、という信念をもっている。認定されたのだから患者だという考え方が患者にはある。患者の診かたには充分でない面があり、昨年秋頃からレントゲン、カルテも突き合わせて審査会で検討するようにした。以前認定された患者で、今、改めておかしい、という患者もいる。こうした反省もあって純医学的には前に診たものをもう一回見直してみたい。

 以前の審査に甘さもあったから純医学的に見直したいと述べたことは、新潟大学で審査会の会長であり、環境庁の特別委員会の責任者でもあるだけに、当然のことながら全国的にも大きな反響を呼んだ。そしてこの後から一、二ランクの認定がほとんどなくなり五ランクが増えている。昭和五十一年にはいると三ランクも影を潜め、ほとんど認定されなくなっていく。
 このわずかな期間で少なくとも四ランクの考え方、五ランクの考え方、医学的評価が変わってきている。
 私はちょうどその頃、椿先生にお会いし、率直にいろいろお開きしたことがあった。私は椿先生を△145 信頼し、尊敬していた。それまでも、患者の症状についても、リハビリについても、私の見解を述べ、いろいろ教えていただくことが多かった。
 私は認定ランクについても、一ランクとニランクを分けるのはおかしいとか、パーセントで分類するのは医学的にはどう決められたのか、ハンター・ラッセルの症状を視野狭窄、運動失調、平衡障害、感覚障害、難聴など五つの症状から一つを二〇%として計算するんですか? なども聞いたことがあった。
 椿教授はそんなものではないといわれたが、はっきりとは答えられなかった。また、私は昭和四十八、九年頃、否認例が増え始めたことについて、先生の考え方が変わったんではないですか、と聞いてみた。その時、椿教授は三つほど意見をいわれた。
 一つは共闘会議は水俣病患者をどうして一律補償にしたのか、私は全部が水俣病とはいってない。疑いもある、ということ。
 共闘会議は「新潟水俣病共闘会議」のことで、「新潟水俣病被災者の会」と一緒になって昭和四十八六月に一律補償の補償協定を結んだときのことを聞かれたのである。
 私は、患者への連絡はあなたは認定されたというだけで、ランクは教えられないこと、患者でも一律補償といっても介護を要するようになると、介護手当てが出たり、補償金もあがることを述べた。
 二つめは、補償協定でどうして癌の治療費まで昭電に出させるようにしたのか、という事だった。
 水俣病だけに限った医療保障では発熱や腹痛など、日常的に最も多い病気で医療手帳が使えない場合は、実際に近くの医者にかかれないことになること、水俣病の患者が、近くの医者から、水俣病の医療なら専門のところに行け、水俣病以外の病気になったときにこい、ともいわれている。
 私は、それを考慮にいれて疾病補償ではなく、水俣病患者には何病にかかっても適用する対人補償△146 にしたことを話した。
 三つめは認定に関する事だった。
 汚染の事実がはっきりして、四肢の感覚障害があれば認定しても良いのではないか、と言う私の質問に対し、椿教授は、「斎藤君、君のいうことはわかる。それは今まで認定されているよりもっとピラミッドの底辺まで認定しろということだろう。しかし、そうなったら昭和電工や国はやって行けるだろうか?」といわれた。
 私は驚いて、「椿先生ともあろう人からそんな言葉を聞くとは思わなかった。それは政治的に医学を歪めることではないですか」と言うと、椿教授は「でもねー」と言って黙ってしまった。さらに私から、「どうして頸椎症の診断をよく使われるんですか、ほんとに皆頸椎症とは思ってはおられないでしょう?」という質問も行なってみた。
 すると、椿教授は、「斎藤君、君も知っているだろう、新潟大学の人文学部のW教授が水俣病にかかり、『新潟日報』に書かれたことがあった。これはたまげて驚いた、という文章だ」
 新潟大学人文学部のW教授は郷里の津川町に住み、しょっちゅうアユ釣りをし、そのはらわたで作る「うるかの塩から」が好きで毎日酒の肴にしていた。アユは年魚であり、肉は水銀も低く規制とならなかったが、アユの常食にする苔に水銀があり、それを食べて水俣病になり、自分の病気が不治の水俣病と言われて驚いた、と、その感想文が『新潟日報』に掲載されていたことがあった。
 椿教授は、あのような方でもびっくり仰天される。しかし、水俣病は治らぬ病気である。頚椎症のように治る病気であるといってあげたほうが本人には幸せではないだろうか、といわれた。
 この言葉には私もびっくりした。そこで、私は「それにしても先生、社会が水俣病の専門家として、椿先生に期待していることはそんな事ではないでしょう」とまで申し上げた。 △147
 私は椿先生が以前の先生と違い、環境庁の特別委員会の責任者として、水俣病の幕を引く事のみを考えているように思えた。医学者としてでなく、行政官になってしまった感じがして、その後、直接部屋を訪問する事は止めてしまったのである。

 昭和五十二年環境庁環境保健部長通知と五十三年の事務次官通知
 認定ランクをパーセントでいう考え方について、昭和六十一年、椿教授は法律雑誌『ジュリスト』で「後で考えて見ると、とてもそれはパーセントなどで言えるものではないので、パーセントでいうのはとてもできないという考えになっています」と撤回されている。
 とにかくこのような流れを経て、昭和五十年から椿教授が座長となり、四十六年に通知を依頼検討され五十二年七月に、環境庁環境保健部長通知「後天性水俣病の判断条件について」が出されたわけである。これも全文を掲げておこう。」
 (斎藤[1996:142-148])

◇加藤 一郎・椿 忠雄・森島 昭夫 19860801 「医学と裁判――水俣病の因果関係認定をめぐって」,『ジュリスト』866:58-73 (公害環境訴訟の諸問題<特集>)

◆197402 「水俣病の診断」,『熊大医学部新聞』31→1988(1):80-85]

◎「それぞれの立場から真面目に研究にとりくんだ研究者が、時には非難され、時には罵倒され加えられるのは悲しい事実である。水俣病の研究者も複雑な社会問題に振り廻されるのは一つの宿命であろうか。私もこの難しい問題の渦中にまきこまれ、迷ったり困惑することが多い毎日である。」(椿[1974→1988(1):80]

■1974 新潟県議会公安厚生委員会参考人

◆19740723 新潟県議会公安厚生委員会参考人
 「かつて、環境庁の通知がでたときに広く認定した方がよいと言われ、それに影響されて医学的には50%の可能性で病気を診断するのが普通のやり方であるのに、それ以下の人も認定してしまった。今思うと、水俣病でない可能性の強い人も認定患者の中にはいる。それは不幸なことだから見直しすることも考えている。」

 「10年前、県議会(1974年 前述)で椿氏は、「こんなに苦しい仕事をやるのはいやだ」と述べ、認定審査のやり方を変更した心境についても語っている。それによると、公害患者を何とか救済しようと思った氏は、どんどん症状をひろっていき、他の病気であるということが明らかにならない限り、汚染魚を食べた人で一定の症状があらわれておれば積極的に水俣病だと公害認定していたようだ。ところか、中毒患者のピラミットの図のすそ野の方にまで下がっていったとき従来の水銀中毒の症候群からはかなり違ったものになってきた。椿氏は「水俣病以外の神経の患者を診ているが仮りに阿賀野川の魚を食べていたら我々はどう診断するだろうか。逆に阿賀野川の魚を食べている人について、もし食べていなかったら……」(県議会発言、以下同じ)と不安になり「これは無限に拡げていくと日本人全部が水俣病といっても不可能じゃない−」などと考えはじめたらしい。つまり、従来の医学診断学の常識では考えにくい状況に入っていったとき、学界内の批判を恐れ出したのだ。その頃、第3水俣病事件の騒ぎで彼は”日本の混乱を何とかしなければ‥….”と秩序がこわれる危機意識をもったのではないかと私は思う。それは、体制側の人間特有のものであるが、先の武谷氏の「医者の特権意識」という批判のとおりだろう。」(高見[1983])

◆1975

 「私の家は両親と八人きょうだい。きょうだいはみんな仲が良くてですね、私も自分の家を持つときにはカンパしてもらっています。一〇人のうち、新潟水俣病の第一次訴訟が終わる頃には七人が認定されています。
 私も認定申請を勧められましたが断っていました。第一次訴訟の原告団長をしていた長兄が亡くなって、水俣病の恐ろしきもわかって、一九七三(昭和四八)年ですが、認定申請しまレた。新潟大学で神経内科、耳鼻科、眼科などを受診したんですが、結論からいえぱ一九七五(昭和五〇)年に棄却されました。
 椿忠雄先生に診断されましたが症状があるものの、水俣病の認定には至らず、ということなんですね。△049
 実をいうと、私もその頃は子育て時代で、ちょうど上の子が就職の時期でもありましたし、非常にほっとしたことを覚えています。
 親父の近喜代太一は、七六歳で亡くなりました。新潟水俣病が公表きれる一年前の秋、たまたま家に行ったら、一生懸命、四股をふんでいるわけです。四股をふんで「お前らに負けねぇ」なんて。その頃から親父は自分の体に変調を覚えていたと思うんです。形相も変わってきました。うちの屋号は「オケヤ」。親父は桶をつくる職人だったんで、怒ったことがない人だったんですが。
 本当に具合が悪くなったのは、一九六五(昭和四〇)年の春です。ムラの旅行を楽しみにし、参加するわけですが、土産話を楽しみにしていたら、非常に浮かない顔をして疲れて帰ってきた。開口一番、「年をとって旅行はするもんじゃねえぺ。」
 具体的には知りませんが、トイレが近かったことは聞きました。そのあと、みるみる言葉が弱くなって舌ももつれて。二日後に病院に連れて行って、二週間、通院するんですが、日に日に悪くなっていくんですよ。耳の聞こえは悪くなるし、手が震えてしまうし、目は視野が狭くなるし、しびれ、悪寒、物忘れ、ありとあらゆる症状が吹き出してしまうわけなんですね。医者も「このふらつきで通ってくるのは危険たから、近くの病院に紹介状を書くから行ってくれ」と、さじを投げる状態なんですね。「それで容態はどうなんですか」と聞いたら、「病名は△050 つけようもない」。これだけの症状が一気に吹き出す患者というのは、医者も会ったことがなかったというわけです。
 自宅療養で、発症してニか月後の六月二日に亡くなりました。新潟水俣病の発生が公表される十日前でした。本当に病名も知らされないまま、わけがわからないまま亡くなってしまうわけです。親父の遺体を前に、子どもたち一同、合掌するのですが、みな無言でした。次兄が「おい、みんな。親父は七六歳だよ。長生きだ。大往生だ。みんなで送ってやろうじゃないか。元気だして、いままでよりも、さらに頑張ろうじゃないか」と話をするわけですが、みんな、△052 黙ってしまう。」(関礼子ゼミナール編[2016:49-52])

■1975-1978

 「昭和五十二年環境庁環境保健部長通知と五十三年の事務次官通知
 「昭和五十年から椿教授が座長となり、四十六年に通知を依頼検討され五十二年七月に、環境庁環境保健部長通知「後天性水俣病の判断条件について」が出されたわけである。これも全文を掲げておこう。[…]」(斎藤[1996:148])

◆椿 忠雄 1978 「環境汚染による患者の認定の問題」,『今日の治療指針』→1988(1):91-93]

◆椿 忠雄 1979

◆1980 新潟大学を辞職、東京都立神経病院初代院長に就任
 新潟水俣病認定審査会会長は続ける

◆椿 忠雄 1980 『神経学とともにあゆんだ道』,私家版・非売品

◆椿 忠雄 19811001 「「生命の尊厳」をめぐって」,『教会婦人』(全国教会婦人会連合会)→椿[1988(2):137-146]

■1982-1983

◆椿 忠雄* 198207 「イエスの癒し――意志と信仰のはたらき」,『婦人の友』1982-7→椿[1988(2):174-177],新潟水俣病未認定患者を守る会[198305]→弦巻編[2014-] http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-09-4
 「イエスがこの世に来られたのは、罪の赦しであり、病いをいやすことではなかった。この人が、病いのいやしに満足し、罪の赦しによる永遠の生命を求めなければ、もっと悪いことが起るかも知れないといういましめを、イエスがしておられるのである。表面的な病いのいやしに満足していることは、許されないのである。イエスのいやしは、単なる肉体のいやしではない。
 最後に蛇足であるが、一言つけ加えたい。病いをいやす目的で周辺に人々が群れていたベテスダの池は、今日の社会の一面を象徴していないだろうか。現代の社会には、よりよい地位、より多くの富を得るための池があり、争ってその池に入ることを望むという傾向はないだろうか。」

◆椿忠雄・住谷馨(対談) 1982冬 「寿命と医学」,『明日の友』1982冬(婦人の友社)→椿[1988(2):147-159]

◆新潟水俣病未認定患者を守る会・稲村 渉→水俣認定審査会 19821220 「公開質問状」 http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/archive/c2304876497-2,弦巻編[2014-]

 「昭和57年12月20日
 新潟水俣病未認定患者を守る会
 稲村渉

 日頃医師としてまた水俣病の認定審査委員として御努力されていることに敬意を表します。
 私ども新潟水俣病未認定患者を守る会は、すべての水俣病被害者が全面的に救済されることを願って活動している団体です。とりわけ未認定患者の方々が行政の救済を求めてさまざまな苦労をされていることに対して、ささやかながら物心両面の支援を続けているものです。
 しかし、残念ながらこれまでの行政は、被害者の救済とはほど遠く、むしろ被害者を切り捨てることによって自らの責任を回避しているようにさえ思われます。とくに新潟水俣病の「認定」に関しては、今年7月の不服審査で逆転裁定されたことにより認定された1例を除けば、ここ数年間の認定申請はすべて棄却されており、被害者の救済措置としては機能していない状況です。そして、県または市が棄却処分にした理由の説明としてきまってもち出すのが「水俣病に関して高度な学識と豊富な経験をもっている専門の審査委員の意見に基づいている」ということです。
 したがって、私どもは実際に水俣病の認定審査を担当している貴職に対して、公害健康被害補償法の目的とする「被害者の迅速かつ公正な保護」という趣旨に基づいて、どのように自身の責務を果しているかを社会的に明らかにしていただきたく、下記の質問を公開で行いますので、昭和58年1月20日までに御回答くださるようお願いします。」

◆新潟県・新潟市公害健康被害認定審査会会長・椿 忠雄→新潟水俣病未認定患者を守る会・稲村 渉 19830315 「回答 前文」 http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/archive/c2304876497-2,弦巻編[2014-]

 「昭和58年3月15日
 新潟水俣病未認定患者を守る会
  稲 村   渉   殿
 新潟県・新潟市公害健康被害認定審査会
 会長 椿 忠雄

拝啓                     ’
 時下ますます御清栄のこととお慶び申し上げます。
 さて、昨年12月20日付けの公開質問状に対する返事が大変遅れましたことをお詫びいたします。多忙な日常の業務に追われている各委員の意見を集約して書いたものでありますので、遅れましたことを御了承ください。舌足らずの点はあるかもしれませんが誠意をもって書いたものです。
 御質問は各委員あてにされておりますが、認定審査会として回答することになりました。各委員の意見を踏まえて回答していますので、今後各委員に回答を求めることは御遠慮ください。
 時節柄、御自愛の程お祈り申し上げます。
                          敬 具
追伸
 私の医療に対する考えの一端をおくみいただくため、「イエスの癒し」「『生命の尊厳』をめぐって」「寿命と医学」の三編を同封いたしましたので、御参考にしていただければ幸いです。」

◆新潟水俣病未認定患者を守る会 198305 『新潟水俣病 第2集――認定審査会の実態を曝露する』 一部→弦巻編[2014-] http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-09-4 http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-15-3 http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-16-2

◆19851011 「水俣病の判断条件に関する医学的専門家会議」

■1985

 「動かす力と動かぬ力と
 水俣病第二次訴訟の控訴審判決が確定する直前の一九八五(昭和六〇)年一〇月一一日。環境庁において、「水俣病の判断条件に関する医学的専門家会議」と名づけられたひとつの会議が開かれた。
 この会議は、何を目的としたものだったのだろうか。初日からわずか四日後に出された会議の「意見」序文に、その目的とするところが次のように記されている。
 「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議は、昭和六〇年八月一六日熊本水俣病第二次訴訟控訴審判決が福岡高等裁判所から出されたことを契機とし、現時点における水俣病の病理及び環境庁が示している後天性水俣病の判断条件が医学的に見て妥当なものであるかどうかについて環境庁の諮問を受け、病理学、精神医学、耳鼻咽喉科学、眼科学の専門家の意見も踏まえ、医学的立場から総合的に検討を行った。」
 つまり、水俣病第二次訴訟控訴審判決で、チッソが敗訴しただけでなく昭和五二年判断条件までが「厳しすぎる」と断定されたので、学者や専門家がほんとうにそうかどうかを検討するというものだった。
 会議のメンバーは、椿忠雄東京都立神経病院長、井形昭弘鹿児島大学医学部教授、荒木淑郎熊本大△176 学医学部教授など八名だった。このうち、座長の祖父江逸郎国立療養所中部病院長をはじめとする三名の医学者は、水俣病患者を診察した経験のない医師だった。それ以外の五名の学者は、昭和五二年判断条件を作成した検討会のメンバーだった。
 このような学者たちによる会議で、何が話し合われたのだろうか。一〇月一一日の初日会議は午後六時に開会し、午後九時に閉会している。翌一二日の目曜日には二回目の会合がもたれ、午援五時に開会、午後九時閉会となっている。これが、話し合われた会議のすべての時間だった。
 休憩時間などを含めた二日間すべての時間を合計しても、たった六時間半の話し合いしか行なわれなかったことになる。この短時間の「会合」によって、「水俣病の判断条件に関する医学専門家会議の意見」は出されている。
 焦点となっている「判断条件」についてはわずか一二行の記述があるだけだが、次のような結論をはっきりと打ち出している。
 「一症候のみの例があるとしても、このような例の存在は臨床病理学的には実証されておらず、現在得られている医学的知見を踏まえると、一症候のみの場合は水俣病としての蓋然性は低く、現時点では現行の判断条件により判断するのが妥当である。……」
 判決を受けて専門家が議論をしたという体裁は聞こえかよいが、実質的な議論などほとんどできないほどの短時間で出された結論が、これまでどおり環境庁の政策を支持するものだという。逆に考えれば、判決にあわてた環境庁が、あらかじめ用意した結論を「専門家」が議論したかのように装って△177 形をつくろった会議だったと指摘されても否定できないようなものでしかなかった。
 しかし、この意見書に書かれている「このような例の存在は臨床病理学的には実証されておらず」といった言葉の内実は、どのようにして検証されているのか。誰が何をどのように調べた結果、こういった結論が出されているのか。この意見書からはまったく判断できない。
 「専門家」の井形昭弘鹿児島大学教授は、八八(昭和六三)年七月二三日発行の専門誌『日本医事新法』で「水俣病の医学」という論文を発表し、「判断条件は医学酌」だと主張する。さらに、八八(昭和六三)年八月一三日発行の同誌においては、荒木淑郎熊本大学教授、岡島透大分医科大学教授といった八五(昭和六〇)年医学専門家会議のメンバーも加えた五人の学者による「水俣病」という座談会を行ない、自分たちの判断の正しさを繰りかえしている。
 座談会で井形教授は、「判断条件に誤りがありますかと聞かれれば、誤りはないと言うべきでしょう」と発言している。しかし、八五(昭和六〇)年医学専門家会議と同様、どのような根拠にもとづいて井形氏がそう断言しているのか、まったく理由は示されていない。自分たちでつくった判断条件を、根拠も示さず自分で「間違いがない」と強調しているだけなのだ。
 環境庁はこの八五(昭和六〇)年医学専門家会議の意見書を受けて、「専門家のお墨付き」をいただいたかのように、強硬に昭和五二年判断条件を固執する態度をとりつづけていく。
 その一方で、環境庁は専門家会議があったすぐあとの八五(昭和六〇)年一一月、いままで一貫して相手にしようとしなかった未認定患者に対して「特別医療事業」を開始することを決定した。これ△178 は、行政が棄却した四肢末梢性の感覚障害を有する患者に対して、「水俣病にみられる一定の症状がある」として医療費の自己負担分を補助するというものだった。
 いくつかの条件つきという不十分さをもってはいたものの、患者や支援者たちが粘り強く働きかけてきた結果、棄却した患者に対して国が初めて「被害」を認めた結果の制度だと言えるだろう。
 どのような社会的批判があろうともけっして動こうとしない行政と、事実からスタートしてその牙城を突きくずしていこうとする力の、せめぎあいがつづいていた。
 この「特別医療事業」を開始したという知らせを受けた椿忠雄新潟大学教授は、環境庁に対して激怒したと伝えられている。
 新潟水俣病の患者救済などで大きな役割を果たした椿教授は、昭和四〇年代の初期に「毛髪水銀値と四肢末梢の感覚障害」で水俣病と認める説を主張していた。だがその後、態度を急変させて水俣病者患者を切り捨てようとする国の側にたつ医学者になっていく。
 一九七三(昭和四八)年の水俣病第一次訴訟判決の結果、チッソと患者の間で協定が結ぱれ、判決許容額である一六〇〇万円から一八〇〇万円の補償金が支払われることになった。このとき、椿教授はこんな言葉をもらしたといわれている。
 「自分の書く診断書で、自分の退職金より多い金額を患者が手にする。この事実が、どうしても納得できないのだよ。」△179
 この言葉の真意がどのようなものだったのかはわからない。だが、このとき以降、椿教授は国の患者切り捨て策を支える医学者に変節していったのだった。
 椿教授にすれば、国の政策を助けるために自分は医学的な節を曲げてまで行政の片棒を担いできたという思いがあったのではないだろうか。ところが、国の意向を受けて自分たちが切り捨てたはずの患者に、いまになって国が救済の手をさし伸べる「特別医療事業」が実施きれるという。医学者としての自分は国に裏切られた、というのが椿教授の気持ちだったのかもしれない。
 椿教授の胸中がどうであれ、ここではすでに水俣病患者の認定が、医学としての認定作業から「補償金をもらう患者の認定」作業に変質してしまっている。医学的な立場からするならば、疫学的条件や本人の自覚症状、臨床症状などから純粋に判断すべきはずだ。ところが、「認定になればこの患者はいくら手にする」というような社会的要素が加わることで、認定の判断基準そのものにもゆがみが生まれてしまっているのだ。多くの医学者が、水俣病の認定を「補償金」との関連のなかでしか考えられなくなっていくなか、行政は医学者たちを取り込んで患者切り捨ての政策を遂行してきたといえるのではないだろうか。」(矢吹[2005:176-180])

■1986-1987

◆1986 →川口武久

 「私は、この会〔日本ALS協会〕の初代会長は、川口さんにどうしてもやって頂かねばならないと感じて△035 おりますし、恐らく、関係して来られた患者さんとそのご家族すべての方々の、一致した気持ちであることを、固く固く確信しております」、追伸で「神様は、あなたがこの世において、何をすることをお求めになっておられるのでしょうか。お考え下さい。」(椿[1983-1986→1988:35-36, 37])

◆1987 日本ALS協会新潟県支部
 「椿先生のまな弟子の多い新潟県は翌87年に早速支部を作り、意思伝達装置の支給、人工呼吸器の貸与制度創設などを行政に陳情して成果を得ました。その後協会全体で国に働きかけ、ヘルパー吸引や難病法の制定などにつなげました。」
 https://www.asahi.com/articles/ASKBW5G7NKBWUBQU01L.html?ref=chiezou

◆椿 忠雄 198704 「序文」,日本ALS協会編[1987:1-4]*
*日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200 [5][7][13]

◆椿 忠雄・鈴木 希佐子・矢野 正子・高橋 昭三 編 19870630 『神経難病・膠原病看護マニュアル』,学習研究社,290p. ISBN: 4051505294 3150 ※ [amazon] ※

◆19871005 「新訂版『筋肉はどこへ行った』に寄せて」→椿[1988(2):179-181]
 ※執筆は四月一七日と記されている。
川合 亮三 197503 『筋肉はどこへ行った』,刊々堂出版
◇―――― 19871005 『新訂版 筋肉はどこへ行った』,静山社,201p.,1000 ※

◆19871020 逝去

◇坂東 克彦 20000125 『新潟水俣病の三十年――ある弁護士の回想』,NHK出版,219p. ISBN-10:4140804920 ISBN-13:9784140804926 1600+ [amazon][kinokuniya] ※ m34

 「弁護団は原告全員が水俣病患者であることを立証すると同時に、認定基準は医学的なものでなく、患者を切り捨てるために運用されていることを明らかにしました。
 白木博次(元東大医学部長)、原田正純(熊本大学)、藤野糺(水俣協立病院)、大島義彦(山形大学整形外科)、斎藤恒(医師団)、関川智子(医師団)らが原告患者側の証人に立ちました。
 白木は国際的に優れた神経痛理学者です。白木は次のように証言し、認定審査会を厳しく批判しました。
 「体内に入った有機水銀は全身に行きわたるのであって、これを神経細胞だけを冒す神経内科病としているところにそもそもボタンのかけ違いがある。認定審査会は患者の訴え(自覚症)を無視し、数値化、客観化された症状だけを症状と見るが、それは正しくない。医学は経験科学であって実証△078 科学ではない」
 原田は幾度も新潟を訪れ、新潟の患者を診察しうえ、新潟の原告も熊本の患者と同じく水俣病患者に間違いないと証言しました。
 斎藤、関川は主治医として原告らの病状を明らかにし、全員が水俣病患者であると証言しました。
 これに対して国と昭和電工は、共通の証人として椿忠雄を最初に尋問する予定でいました。
 椿は新潟水俣病を発見した入物です。その後厚生省特別研究班の一員として県衛生部の北野博一、新潟大学の滝沢行雄とともに原因究明に加わり、いち早く「工場排液説」を打ち出しました。前にも述べたように椿は弟一次訴訟で原倍側の証人を引き愛け新潟水俣病の原因は昭和電工であると証言し、裁判勝利に大きく貢献しました。
 ところが、椿はその後環境庁の側に立ち、一九△079 七七年(昭和五二年)、一九七八年(昭和五三年)の水俣病認定基準の見直しに深くかかわったぱかりか、環境庁水銀汚染調査検討委員会健康調査分科会の会長をつとめて、有明海、関川など一連の第三水俣病問題では積極的にこれを否定ずる側にまわり、さらに熊本水俣病第二次訴訟では、原者らは患者でないとの鑑定書を書きました。そして椿が会長をつとめる新潟の認定審査会では、認定申請をした患者のほとんどを患者でないとしました。
 国と昭和電工は椿を被告側のトップバッターとして証人に立て、新潟の患者に対峙させようとしたのです。しかし、椿は証人申請が行われる直前に亡くなりました。
 椿亡きあと、国と昭和電工は椿にかわる証人として滝沢行雄(元新潟大学公衆衛生、その後環境水俣病研究センター長、生田房弘(新潟大学脳研究所)、岩田和雄(新潟大学眼科)、水越鉄理(新潟大学卒、富山薬科大学耳鼻科)、福原義信(新潟大学卒、国立療養所犀潟病院)、湯浅龍彦(元新潟大学神経内科、東京医科歯科大学)、近藤喜代太郎(元新潟大学神経内科、北海道大学公衆衛生)らを立ててきました。
 椿にかわる医学証人はすべて、審査会での患者切り捨てを結果として正当化する証言をしました。
 このうち近藤喜代太郎は、認定審査会の仕事は患者を「カットオフポイント」で切ることだと公然と認めたうえ、「診定にあたっては高度な神経学的知識が要求される。真の水俣病は神のみぞ知るであり、真実と一番近いのが認定審査会の結論である」と述べました。
 診定というのは、患者が認定基準にあたるかどうかという判断であって、患者の症状から何の病△080 気かを判断する診断とは性格が違うものです。」(坂東[2000:78-81])

◆豊倉 康夫(東京都老人医療センター) 19880210 「追悼 故椿忠雄院長を偲ぶ」,『神経研究の進歩』32-1:183
 https://webview.isho.jp/journal/detail/pdf/10.11477/mf.1431906176;jsessionid=C2492D3CE53519559E8A5AE32CB4BF86

◆厚生省精神・神経疾患研究筋ジストロフィー症の遺伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究班 19880331 『厚生省精神・神経疾患研究 筋ジストロフィー症の迫伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究 昭和62年度研究報告書』、厚生省精神・神経疾患研究筋ジストロフィー症の遺伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究班(班長 西谷裕) 

 「おわりに
 今年度、筋ジス第3班はプロジェクト編成などに多少の手直しをお願いして、第2期の1年目のスタートを切りました。この班が筋ジストロフィーの研究、療養のすべての分野で力強く前進し、諸先生が活躍されつつあることを心から喜んでおります。
 ただ一つ残念なことは、本班の顧問として御指導いただいていた都立神経病院々長椿忠雄先生が1987年10月20日に急逝されたことであります。椿先生は極めて謙虚な研究者であられましたが、スモンのキノフォルム説の確立や阿賀野川の水銀中毒の発見などの際には臨床医の社会的責任を果すために毅然たる姿勢を貫かれました。
 とくに社会的に最も難しい遺伝の調査研究を本研究班で円滑に進めることができましたのは先生の真情により筋ジストロフィー協会や親の会の協力を得られたことが大きな力となったものと考えております。
 日本神経学会の理事長という御多忙な公務の中でも、門下生のみならずすべての勉学の徒に公平な励ましと暖かい限ざしを注がれたことは、先生に接することのできたすべての人々の感じていたことでした。
 先生のあまりにも突然の御他世に深い哀悼の意を捧げるとともに先生の御冥福を心から祈ります。(西谷記)」(西谷[1988:369])

◆椿 忠雄 19881020 『神経学とともにあゆんだ道 第一集〜第三集』,私家版・非売品(編集協力:医学書院),177p.+343p.+212p.


……

宇井 純 19990725 「医学は水俣病で何をしたか」,『ごんずい』53(水俣病センター相思社)http://soshisha.org/gonzui/53gou/gonzui_53.htm#anchor605632
 「病気に対する謙虚な姿勢は長くはつづかず、のちに椿は新潟水俣病の第二次訴訟で、昭和電工側から最重要証人と期待されるほど、水俣病に対して限定的な立場をとり、水俣病の認定制度を維持しようとする環境庁の理論的支柱となった。この変貌の理由について椿はほとんど語っていないが、私にはほぼ推察がつく。
 椿はこのあとスモン病の原因研究に参加しその原因がキノホルムであることを発見する。一般に医師が新しい病気を発見するのは、一万人のうちで一人に一生一度に起こるぐ2018/05/28らい幸運なことだといわれる。椿は新潟水俣病とスモンの二つの病気の原因を発見した、いわば日本の医師として最高の名誉を得るに値する功績をあげたことになる。この功績が椿に専門性を強調する傲慢への道を開いたといえよう。二つの発見はいずれも問題がかなりの程度まで煮詰まって来て、誰が発見者になるかは時間の問題であり、しかも発見したことを発表するには決断が必要であって、決断のための勇気を迫られるのは事実だから、椿が自信満々になることも無理はないが、患者の運動を「このままでは国益にかかわる」などと、日本国を背負ったつもりで考えるのは、やはり椿が国家鎮護の大学である東大出身だからであろうか。」(宇井[1999])

◆津田 敏秀 20040629 『医学者は公害事件で何をしてきたのか』,岩波書店,256p. ISBN:4-00-022141-8 2730 [amazon][kinokuniya] ※
 「クリスチャンである椿氏は、冒頭に引用したように「神に誓って」とまで言いながら、新潟では、新潟水俣病の斎藤恒医師と次のような会話を交わしている(『新潟水俣病』斎藤恒著、毎日新聞社)。
 「汚染の事実がはっきりして、四肢の感覚障害があれば認定しても良いではないか、と言う私の質問に対し、椿教授は、「斎藤君、君のいうことはわかる。それは今まで認定されているよりもっとピラミッドの底辺まで認定しろということだろう。しかし、そうなったら昭和電工や国はやって行けるだろうか?」といわれた。
 私は驚いて、「椿ともあろう人からそんな言葉を聞くとは思わなかった。それは政治的に医学を歪めることではないですか」と言うと、椿教授は「でもねー」と言って黙ってしまった。」
 この会話は、『ジュリスト』という法律雑誌において「神に誓って」とまで主張したことが、本音と異なることを示している。椿氏は、新潟大学医学部教授から東京都老人総合センター院長になるが、その後体調を崩し、水俣病事件の学者の主役は井形氏のみになっていく。この「交代」の背景には、椿氏が水俣病における感覚障害が、末梢神経障害ではなく中枢神経の障害に由来するということを主張し始めていた関係もあるのかもしれない。感覚障害が中枢神経由来のものとなれば、昭和五二年判断条件やこれまでの「認定作業」の全面的な見直しにつかがりかねない恐れもあったからだ。」(津田[2004:107])

◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya] ※
 「これまでにもその文章をいくつか引用してきたが、今井尚志、近藤清彦、佐藤猛、林秀明、吉野英といった医師たちがいて、熱心に支援に関わってきた。また既に一九七〇年代から川村佐和子、木下安子といった保健・看護職の人たちがALSの人に深く関わり、ALS協会等にも協力してきた。そして、スモン病、新潟水俣病の原因を特定した人である椿忠雄(都立神経病院院長の後、新潟大学神経内科教授※)がALS協会の創設などにも協力した恩人として記憶されている([…]椿の新潟水俣病への対応に批判的に言及しているものとして宇井[1999][…])。こうした人々の業績、言説を跡付ける必要もあるが、本書ではその作業はまったくできていない。一九七〇年代から一九八〇年代のALSの人たちやその関係者、ALS協会の足取りは、今後の研究によって明らかになるだろう。」(立岩[2004:321])
 この部分誤り →「新潟大学神経内科教授の後、都立神経病院院長」

◆矢吹 紀人 200510 『水俣病の真実――被害の実態を明らかにした藤野糺医師の記録』,大月書店,221p. ISBN-10: 4272330446 ISBN-13: 978-4272330447 [amazon][kinokuniya] ※

◆最首 悟 2007 「水俣病と現代社会を考える――水俣の五〇年」,最首・丹波編[2007]〈U:277〉
◇最首 悟・丹波 博紀 編 2007 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』,作品社

 「医学者たちが真面目であることを前提にして、どうして引き受けるか、一つには国を憂える。一つには人々を信じられないことがあります。東大医学部から新潟大に行った椿忠雄は、新潟水俣病の発見者でクリスチャンですが、あるとき態度が変わる。水俣病診断基準を厳しくする当事者になり、以後水俣病認定が激減する。それを踏襲してその後権威になるのが、東大医学部から鹿児島大学に行った井形昭弘で、今は尊厳死法の立役者です。」(最首[2007:18])

◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀』,生活書院
 「★ 最首・丹波編[2007]。最首による序章から引用。
 「朝日新聞社が情報公開法に基づいて請求した環境庁(当時)召集の医学者たちの議事録があります。冒頭の環境庁の挨拶、先生方に医学基準じゃないんだけれども、医学基準としてお願いし、それを引き受けていただいたと言っている。医学者たちが真面目であることを前提にして、どうして引き受けるか、一つには国を憂える。一つには人々を信じられないことがあります。東大医学部から新潟大に行った椿忠雄は、新潟水俣病の発見者でクリスチャンですが、あるとき態度が変わる。水俣病診断基準を厳しくする当事者になり、以後水俣病認定が激減する。それを踏襲してその後権威になるのが、東大医学部から鹿児島大学に行った井形昭弘で、今は尊厳死法の立役者です。」(最首[2007:18])
 例えばこんなことについて調べて考えてみてもよい。椿忠雄はALSの人たちへの貢献によって讃えられる人でもあるが、いま最首は批判した(もう一人批判している井形――日本尊厳死協会の理事長でもある――は、立岩[2008][2008]に幾度か登場する)。また宇井も椿のことを批判していて、そのことは立岩[2004]『ALS』でもふれている。
 「これまでにもその文章をいくつか引用してきたが、今井尚志、近藤清彦、佐藤猛、林秀明、吉野英といった医師たちがいて、熱心に支援に関わってきた。また既に一九七〇年代から川村佐和子、木下安子といった保健・看護職の人たちがALSの人に深く関わり、ALS協会等にも協力してきた。そして、スモン病、新潟水俣病の原因を特定した人である椿忠雄(都立神経病院院長の後、新潟大学神経内科教授)がALS協会の創設などにも協力した恩人として記憶されている([…]椿の新潟水俣病への対応に批判的に言及しているものとして宇井[1999][…])。こうした人々の業績、言説を跡付ける必要もあるが、本書ではその作業はまったくできていない。一九七〇年代から一九八〇年代のALSの人たちやその関係者、ALS協会の足取りは、今後の研究によって明らかになるだろう。」(立岩[2004:321])
 この本では引用しなかったが、その宇井の文章には以下のように記されている。
 「病気に対する謙虚な姿勢は長くはつづかず、のちに椿は新潟水俣病の第二次訴訟で、昭和電工側から最重要証人と期待されるほど、水俣病に対して限定的な立場をとり、水俣病の認定制度を維持しようとする環境庁の理論的支柱となった。この変貌の理由について椿はほとんど語っていないが、私にはほぼ推察がつく。
 椿はこのあとスモン病の原因研究に参加しその原因がキノホルムであることを発見する。一般に医師が新しい病気を発見するのは、一万人のうちで一人に一生一度に起こるぐらい幸運なことだといわれる。椿は新潟水俣病とスモンの二つの病気の原因を発見した、いわば日本の医師として最高の名誉を得るに値する功績をあげたことになる。この功績が椿に専門性を強調する傲慢への道を開いたといえよう。二つの発見はいずれも問題がかなりの程度まで煮詰まって来て、誰が発見者になるかは時間の問題であり、しかも発見したことを発表するには決断が必要であって、決断のための勇気を迫られるのは事実だから、椿が自信満々になることも無理はないが、患者の運動を「このままでは国益にかかわる」などと、日本国を背負ったつもりで考えるのは、やはり椿が国家鎮護の大学である東大出身だからであろうか。」(宇井[1999])
 この解釈がどうだというのではない。きつく(あるいはきちんと)認定してしまおうとすることについて、どう考えたらよいのか。それは考えてもよいことだと思う。次のように考える。
 […]」

◆三枝 三七子 201308 『よかたい先生――水俣から世界を見続けた医師 原田正純』,学研教育出版,133p. ISBN-10: 4052038266 ISBN-13: 978-4052038266 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4052038266[kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2014/08/26 『自閉症連続体の時代』 みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※
□□補章 争いと償いについて
□1 害について
□2 内部における争い
□3 理由を問われない生活
□4 この方法がよいこと
□5 反論への応答
□6 非現実性について

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

□第4章 七〇年体制へ・予描1
 □1 短絡しないために
 □2 医(学)者たち
  □3 椿忠雄(一九二一〜一九八七)


https://kotobank.jp/word/%E6%A4%BF+%E5%BF%A0%E9%9B%84-1649902

昭和期の神経内科学者 東京都立神経病院長;日本神経学会理事長;新潟大学名誉教授。
生年大正10(1921)年3月16日
没年昭和62(1987)年10月20日
出生地東京
学歴〔年〕東京帝国大学医学部医学科〔昭和20年〕卒
学位〔年〕医学博士(東京大学)〔昭和32年〕
主な受賞名〔年〕新潟日報文化賞(第18回)〔昭和40年〕「水俣病の研究」,環境庁環境保全功労者〔昭和55年〕,紫綬褒章〔昭和58年〕「神経内科学の研究」
経歴昭和20年東大副手、助手を経て、31年米国カリフォルニア大学留学。32年東大助教授。この時代、北海道釧路の原因不明病を仲間と共同研究し、39年スモンと診断。40年新潟大教授に迎えられるが、研究を継続し、45年スモン病はキノホルムが原因と断定し、その使用を禁止する。55年東京都立神経病院初代院長に就任。日本神経学会理事長、日本学術会議会員。
(出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報)

■文献

◆坂東 克彦 20000125 『新潟水俣病の三十年――ある弁護士の回想』,NHK出版,219p. ISBN-10:4140804920 ISBN-13:9784140804926 1600+ [amazon][kinokuniya] ※ m34
原田 正純 19951015 『裁かれるのは誰か』,世織書房,248p. ISBN-10:4906388302 ISBN-13:978-4906388301 2300+ [amazon][kinokuniya] ※ m34, w/hm06, w/tt15
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀』,生活書院
◆厚生省精神・神経疾患研究筋ジストロフィー症の遺伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究班 19880331 『厚生省精神・神経疾患研究 筋ジストロフィー症の迫伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究 昭和62年度研究報告書』、厚生省精神・神経疾患研究筋ジストロフィー症の遺伝、疫学、臨床および治療開発に関する研究班(班長 西谷裕) 
◆三枝 三七子 201308 『よかたい先生――水俣から世界を見続けた医師 原田正純』,学研教育出版,133p. ISBN-10: 4052038266 ISBN-13: 978-4052038266 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4052038266[kinokuniya] ※
◆日本ALS協会 編 19870415 『いのち燃やさん』,静山社,278p.
◆新潟水俣病未認定患者を守る会 198305 『新潟水俣病 第2集――認定審査会の実態を曝露する』 一部→弦巻編[2014-] 最首・丹波編[2007]〈U:277〉
◆最首 悟・丹波 博紀 編 2007 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』,作品社
◆斎藤 恒 19960310 『新潟水俣病』,毎日新聞社,413p. ISBN-10:4620310980 ISBN-13:978-4620310985 3500+ [amazon][kinokuniya] ※ m34
◆関 礼子 20030228 『新潟水俣病をめぐる制度・表象・地域』,東信堂,370p. ISBN-10:4887134819 ISBN-13:9784887134812 5600+ [amazon][kinokuniya] ※ m34
◆関礼子ゼミナール 編 20161220 『阿賀の記憶、阿賀からの語り――語り部たちの新潟水俣病』,新泉社,242p. ISBN-10:4787716107 ISBN-13:9784787716101 2000+ [amazon][kinokuniya] ※ m34
◆高見 優 1983 「被害者の救済か、切り捨てか――迷えるキリスト者=椿氏を批判する」,新潟水俣病未認定患者を守る会[1983]→弦巻編[2014-] http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-09-4 http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-15-3 http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-16-2
◆武内 忠男 199201 「水俣病におけるガリレオ裁判――水俣病研究史の報告」,『公害研究』21-3:59-67(特集:水俣病の現在)
◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya] ※
◆―――― 2014/08/26 『自閉症連続体の時代』 みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※
◆―――― 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

◆椿 忠雄 他 1966 「阿賀野川下流沿岸地域に発生した有機水銀中毒症の疫学的ならびに臨床的研究」(第63回日本内科学会大会報告),『日本内科学会雑誌』55-6
◆白木 博次・佐野 圭司・椿 忠雄 196804 『脳を守ろう』,岩波新書
◆椿 忠雄 198207 「イエスの癒し――意志と信仰のはたらき」,『婦人の友』1982-7→新潟水俣病未認定患者を守る会[198305]→弦巻編[2014-] http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/2014-05-09-4
◆椿 忠雄 1988 『神経学とともにあゆんだ道』,https://www.yomitaya.co.jp/?p=49125
◆椿 忠雄・住谷 馨(対談) 1982冬 「寿命と医学」,『明日の友』(婦人の友社)
◆新潟県・新潟市公害健康被害認定審査会会長・椿 忠雄→新潟水俣病未認定患者を守る会・稲村 渉 19830315 「回答 前文」 http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/archive/c2304876497-2,弦巻編[2014-]
◆椿 忠雄 198704 「序文」,日本ALS協会編[1987:1-4]
◆椿 忠雄・鈴木 希佐子・矢野 正子・高橋 昭三 編 19870630 『神経難病・膠原病看護マニュアル』,学習研究社,290p. ISBN: 4051505294 3150 ※ [amazon] ※

◆津田 敏秀 20040629 『医学者は公害事件で何をしてきたのか』,岩波書店,256p. ISBN:4-00-022141-8 2730 [amazon][kinokuniya] ※
◆弦巻 英一 編 2014 『畑のたより、書庫』,http://hatakeno-archive.blog.so-net.ne.jp/
宇井 純 19990725 「医学は水俣病で何をしたか」,『ごんずい』53(水俣病センター相思社)http://soshisha.org/gonzui/53gou/gonzui_53.htm#anchor605632
◆矢吹 紀人 200510 『水俣病の真実――被害の実態を明らかにした藤野糺医師の記録』,大月書店,221p. ISBN-10: 4272330446 ISBN-13: 978-4272330447 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ hsm, ms, m34



◆2018/04/30 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/990911974149009408
 「椿忠雄(1921〜1987)頁増補→http://www.arsvi.com/w/tt15.htm 水俣病を巡る態度の変化について、とか。きちんと調べるのは他の人々にやってもらいますが、そのためにも情報歓迎です。雑誌『青と緑』、などまったく知りませんでした。なぜ『自閉症連続体の時代』写真かは、本に書いてあります。」

◆立岩 真也 2018/07/01 「七〇年体制へ・上――連載・147」,『現代思想』46-(2018-07):-

 「これから研究するという、その方法も定まらないのだが、「施設ケア」は、予め、強く肯定されている。この不思議な文章を書いた近藤喜代太郎(一九三三〜二〇〇八)という人は椿忠雄(次回)の東京大学から神経内科が新たに設置された新潟大学への転任に伴い、やはり東京大学から移った医師・医学者(後に北海道大学)。
 その著書では(「患者本位の医療の仕組み」といった題の章で)「患者の団体活動」を肯定的に述べている。」

 「この人の上役である椿は新潟水俣病を「発見」した人だが、その後認定基準を厳しくすることに関わった。近藤はそれを引き継ぎ、それを維持した。この二人、そして東京大学からやはり神経内科が新設された鹿児島大学――新潟大学と鹿児島大学の医学者は今でも国の難病政策に関わる重要な位置にいると聞いたことがある――に行き、後に国立療養所南九州病院の院長他を務める井形昭弘たちはこの立場を取り続ける。その人たちが、認定がどんなものであるべきかについての普通の科学知識をもたず、しかし反論に答えないままその主張を維持したことについては津田敏秀の著書等で詳しく示されている☆。このことは、水俣病に関わった一部の人たちには知られている。ただ他方の同業者たちは、そのことにはふれることなく、互いに讃えあい続ける。その一人である近藤にとって、一部の団体には「行き過ぎ、身勝手」があると言うのだが、そうであるかどうかはおのずと決まる、つまりは自分が決める、そして自分が決めていることに気づいていないようなのだ。自分が思っていることを隠さず言うという意味ではすなおではあるが、無思慮ではあり、そして文章としても論理として良質と言えないものがそのまま、報告書という「うちわ」の媒体だけでなく、文章となる。そうした研究・言論の水準が、先輩を讃え互いに肯定しあう空間の中で維持される。他方で肯定的に紹介されるのがどんな団体であるかはいま見て、再唱した通りだ。そうして讃えられる団体の人たちもまたこの医師たちを讃え続け、他で、例えば水俣病について何を言い何をしたかは知らないか言わない。
 こうして六〇年代から始まった動きから七〇年代以降の体制が作られていく。次回にそれを確認する。椿忠雄、白木博次☆、井形昭弘☆といった人たちが出てくる。やはり水俣病に関わった人たちでもあり、難病に関わった人たちでもある。なぜ椿が水俣病について厳しい態度に転じ、井形・近藤らがそれを継いだのか。それは水俣病への対応だけみてもわからないと思う。その人たちが占めることになった位置に関わるはずである。そのこと等を見る。」

◆立岩 真也 2018/08/01 「七〇年体制へ・下――連載・148」,『現代思想』46-(2018-08):-

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


作成:立岩 真也・岩ア 弘泰
UP:20081031 REV:20180430, 0529, 0613, 0705, 06, 07
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