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薬害スモン

薬/薬害
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■新着

◆2015/09/01 「薬害スモン、苦しみ教訓に 京都の患者ら証言、映像化」
 『京都新聞』2015/09/01
 http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20150901000080

 写真:「薬害の歴史を繰り返してはいけない」と語る矢倉七美子さん(右)とキノホルムを含む薬が入っていた缶を手にする高町晃司さん
 「「薬害の歴史を繰り返してはいけない」と語る矢倉七美子さん(右)とキノホルムを含む薬が入っていた缶を手にする高町晃司さん 繰り返されてきた薬害の再発防止に向けて、厚生労働省が薬害被害者の証言を映像で記録する取り組みを進めている。薬害救済制度や難病制度をつくるきっかけとなったスモンを最初の収録に選び、京都府内の患者2人を含む計5人から、薬で人生を狂わされた悔しさを聞き取った。映像は研究者育成などに活用する。
 昨年5月、対象疾病を大幅に拡大した「難病医療法」が成立。高額な医療費に苦しんできた人たちの救いとなったが、スモンは皮肉にも対象から外れた。医療費は従来通り全額公費負担だが、「自分たちで声を上げ続けないと権利が削られかねない」と、危機感を持つ患者もいる。
 厚労省が薬害肝炎の疑いが強い患者リストを放置していたことが2007年に発覚し、被害者や弁護士、製薬関係者らでつくる「医薬品行政のあり方検討委員会」が10年4月、最終提言で薬害被害者の証言の記録化を求めていた。
 薬害スモンは整腸剤や栄養剤の成分であるキノホルムが原因。海外で副作用が指摘されていたが、戦後、製薬会社は一般向けに販売し、1955年ごろから下半身のまひや筋力低下、視力障害などの報告が散発的に続いた。患者が立ち上がり、裁判で国や製薬会社と闘った。京都の患者も先導的な役割を果たした。厚労省は、販売を停止した70年までに患者は1万人を超えたとみている。
 全国薬害被害者団体連絡協議会には、高齢化が目立つスモン患者への聞き取りを優先するよう要望し、厚労省が今年2〜3月、京都、東京、広島、福岡在住の男性1人、女性4人にインタビューした。「京都スモンの会」会長の矢倉七美子さん(78)と会員の高町晃司さん(54)は1時間ずつ、発症の経緯や治療法がない現状を語り、「薬害の歴史をきちんと学んでほしい」と訴えた。薬害はスモン以降も、血液製剤によるHIV(エイズウイルス)感染やC型肝炎ウイルス感染、ヒト乾燥硬膜移植によるクロイツフェルト・ヤコブ病などが起きている。」

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■薬害スモンとは

◇「整腸剤キノホルムの副作用で中枢神経がまひし、1960年代に歩行困難や失明となる患者が相次いだ。当初は感染説やウイルス説が流布され、患者と家族は差別に苦しんだ。厚生労働省によると、患者は全国で約1万1127人に達した。昨年11月末現在の生存患者は全国で2430人。県内では20人余と推定される。
( 2007-01-11 朝日新聞 朝刊 福島全県 2地方 ) 」(kotobank)[外部リンク]

◇「スモン(SMON、subacute myelo-optico-neuropathyの略称、別名:亜急性脊髄視神経症)とは、整腸剤キノホルム(クリオキノール、5-クロロ-7-ヨード-8-キノリノール)による薬害。1955年頃より発生し、1967〜1968年頃に多量発生した。
 ……
 スモンは、キノホルム投与により激しい腹痛が起こり、2〜3週間後に下肢の痺れ、脱力、歩行困難などの症状が現れる。舌に緑色毛状苔が生え、便が緑色になる(緑色物質はキノホルムと鉄の化合物であることが明らかにされている)。視力障害が起きることもある。合併症としては白内障、高血圧症などが起きやすい。患者は女性が多い。1970年に日本ではキノホルムの製造販売および使用が停止となり、新たな患者の発生はない。」(wikipedia)[外部リンク]

◇http://www.mi-net.org/yakugai/dacases/smon/smonmain.html
 「スモン(SMON)は、腹部膨満のあと激しい腹痛を伴う下痢がおこり続いて、足裏から次第に上に向かって、しびれ、痛み、麻痺が広がり、ときに視力障害をおこし、失明にいたる疾患である。膀胱・発汗障害などの自律障害症状・性機能障害など全身に影響が及ぶ。
 患者団体のス全協(スモンの会全国協議会)では、次のように指摘する。

『中枢神経麻痺、末梢神経麻痺・感覚麻痺の三つが加わったスモンの運動機能障害は、機能を回復することはきわめて困難といわれています。涙ぐましい努力によってやっと歩行が出来るようになった患者も、今では疲労と加齢が加わって、かなり症状が悪化し、余病も併発しやすくなっています。』(ス全協作成パンフレットから)

 SMONは、亜急性・脊髄・視神経・抹消神経障害subacute myelo-optico-neuropathyの略称である。」

◆坂本 久直・高野 哲夫 編 19750830 『裁かれる製薬企業――第2・第3のスモンを許すな』,汐文社,325p. ASIN:B000J9OGXE 980 [amazon] ※ d07. d07smon(増補)

 第四章 ”安全な整腸保健薬”キノホルムはどうしてつくられたか
 高野哲夫 179-241
 「緑の窓口
 一九六〇年前後から猛威をふるっていたスモン[…]の病因をめぐって、さまざまな論議がかわされたが、長らく原因不明の奇病とされていた。一時はウイルス説も唱えられたが、これら病原体説は、@ウイルスが侵入すれぱ血中のリンパ球白血球が増え、骨髄液にも変化があるはずだ。A病原体によって引きおこされるはずの炎症が認められない。B神経細胞そのものが破壊されているのではなく、軸索に摂傷を受けている。Cわが国に特有と云うのが不自然である。D老若男女に発生差がある。病原体があるならば差はないはすである。G集中発生例ばかりでなく散発例もあり、家族性の発症はむしろ稀である、などの理由から決定的なきめ手を欠いていた。
 一九六九年九月から発足したスモン調査研究協議会は、全国的なプロジェクト研究として組織されたものであるが、分折班の田村善蔵東大教授らは、いわゆる緑の窓口と呼ばれた”緑▽223 舌、緑便、緑尿”の解明から始めることになった。当初ウイルス説の影響もあって、伝染するかも知れないと云うことで、こわごわ始められたが、緑尿からとれた物質は、何とキノホルムでありた。そして緑の色素は、その鉄キレートであることも解った。あまりにもありきたりな、しかも”スモンの治療に用いられていたキノホルムでは話にならない”一瞬頭の中をめぐつた[ママ]。しかし、椿忠雄新潟大教授らの疫学調査が行なわれてみると、”スモンあるところにキノホルムあり”と云うことが明確になって来た。
 キノホ一ムに焦点がしぼられてから研究は急速に進み、その全貌がほぼ明らかにされた。その概要をまとめると、次のようになる。」(高野[1975:222-223])

◆福永秀敏 20031113 「難病とともに生きてこられたのは患者さんから勇気とやさしさ、耐える心をもらったから。」,ドクターズマガジン編[2003:165-176]*
*ドクターズマガジン編 20031113 『日本の名医30人の肖像』,阪急コミュニケーションズ,373p. 1800+ ISBN-10: 4484032236 ISBN-13: 978-4484032238 [amazon]


 
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■患者/患者会

◆団体(サイト)
◇スモンの会全国連絡協議会
 〒160-0022 東京都新宿区新宿2-1-3 サニーシティ新宿御苑1001 スモン公害センター内
 TEL 03-3357-6977 FAX 03-3352-9476
 http://www.nanbyou.or.jp/entry/1674(難病情報センター)
◇愛知スモンの会
 〒484-0087 愛知県犬山市中山町1丁目39
 TEL 0568-62-7315
◇東京スモン患者の会
 〒160-0022 東京都新宿区新宿2丁目1-6‐1001
 TEL 03-3356-7028
◇福岡県スモンの会
 〒 810-0041 福岡市中央区大名1-10-25上村第2ビル406号
 TEL 092-751-4097
 FAX 092-751-4097
 http://www.uoeh-u.ac.jp/kouza/rihabiri/homepage/kenkyukai_kanjya.html(産業医科大学)
◇千葉県スモンの会
 〒285-0854 佐倉市上座438-92 田村 泰三 方
 TEL 043-461-7478
 http://www.nanbyousien-chiba.jp/dantai/dantai1.html(千葉県難病相談支援センター)
◇京都スモンの会
 〒604-8227 京都市中京区西洞院通蛸薬師下ル古西町440番地 藤和シティコープ西洞院1F 103
 TEL/FAX 075-256-2524
 http://www5.city.kyoto.jp/chiiki-npo/npo/search/npo_search_result.php?id=581(京都市 自治会・町内会
 NPOおうえんポータルサイト)
 http://npo-db.info/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%B8%AD%E4
 %BA%AC%E5%8C%BA/55573/(NPO法人データベース )
◇広島スモンの会
 〒730-0013 広島県広島市中区八丁堀3-8
 TEL 082-227-9769
スモン・ネットワーク
社会福祉法人 全国スモンの会

◆個人サイト
「態度を一変した主治医」 岩出市 谷口陽子さん(スモン病患者)(那賀地方患者家族会 きほく)
「高校生の為に薬害スモン被害者としてのわたしを語る。4 」[ブログ:この命、つむぎつづけて]


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■年表(ごく一部)

……
1969/**/** 研究班発足
1969/11/26 全国スモンの会結成
1970/03/13 全国スモンの会(相良□光・川村佐和子)→SMON調査研究協議会
      「SMONの保険社会研究班(仮称)設置についての要望書
1970/05/11 衆議院労働委員会に全国スモンの会会長相良□光が参考人として呼ばれる
1970/08/06 新潟大椿忠雄教授 スモン=キノホルム説を提唱* 
1970/03/30 衆議院予算委員会 質疑:山田太郎 答弁:佐藤栄作
1971/05/28 スモン患者4000人以上が製薬企業・国に損害賠償を求め各地の20を超える地裁に提訴* 
1972/03/** 1971/07にさかのぼり医療費月額20000円支給決定
1972/04/10 「全国難病患者団体連絡協議会」結成
1972/10/** 難病対策要綱
1973/01/09 厚生省 難病のスモン等8疾病の診断基準決定* 
1974   スモンの会全国連絡協議会結成* 
1977/10/28 東京スモン訴訟 全国初の和解成立* 
1978/08/03 東京地裁 東京スモン訴訟でキノホルムが起因と断定。国と製薬3社に総額32億5100万円の損害賠償命令*
1979/09/15 スモンの会全国連絡協議会 厚生省・製薬3社と和解確認書に署名*
……
1999/10/22 全国薬害被害者団体連絡協議会発足(サリドマイド、スモン、HIVなど薬害被害者8団体約4000人)* 


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■人

古賀 照男
高橋 晄正


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■文献(発行年順)

 20160203:22冊→20170104

◆水野 茎子 19691126 『詩集 哀しみの目に灯を――スモン病の夫をはげまし、たたかいつづけた妻の叫び』,講談社,142p. ASIN: B000J95P8E 390 [amazon] ※ d07. smon. n02.
◆水野 茎子 19700330 『静かなる闘いの日々――スモン病の夫とともに歩んだ六年』,朝日新聞出版,310p. ASIN:B000JA0LLE  d07. smon. n02.
◆坂本 久直・高野 哲夫 編 19750830 『裁かれる製薬企業――第2・第3のスモンを許すな』,汐文社,325p. ASIN:B000J9OGXE 980 [amazon] ※ d07. n02. d07smon.
◆福井 恒美 19751105 『僕は太陽が待てなかった――スモンと闘い力尽きた青年の手記』,日東館出版,114p. ASIN:B000J9WD3E 欠品 [amazon] ※ n02. d07smon.
◆渡辺 理恵子 19751225 『愛と闘いの序章――スモンと共に歩んだキャンパスの青春』,立風書房,282p. ASIN:B000J9WDHA 欠品 [amazon] ※ n02. d07smon.
◆志鳥 栄八郎 19760415 『冬の旅――音楽評論家のスモン闘病記』,朝日新聞社,378p. ASIN: B000J9WDAM 1200 [amazon] ※ d07. smon. n02.
◆高橋 秀臣 19760730 『謎のスモン病――スモン・キノホルム説への懐疑』,行政通信社,294p. ASIN:B000J9VZ2E 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ d07. smon. n02.
◆亀山 忠典 他 編 19770615 『薬害スモン』,大月書店,279p. ISBN:B000J8WWRC 1300 [amazon] ※ d07. smon. n02.
◆福岡県スモンの会 編 19780415 『ひとりで歩きたい』,西日本新聞社,305p. ASIN:B000J8CTXY 欠品 [amazon] ※ n02. d07smon.
◆高橋 秀臣 19790125 『スモン訴訟の真相』,行政通信社,317p. ASIN: B000J8JTQO 1365 [amazon][kinokuniya] ※ d07. smon. n02.
◆高野 哲夫 197907 『スモン被害――薬害根絶のために』,三一書房 d07. d07smon. n02.
◆川瀬 清 他 編 1980 『ノーモアスモン――スモンの恒久対策の確立と薬害根絶のために』,新日本医学出版社 d07smon. smon. n02.
高橋 晄正・水間 典昭 19810125 『裁かれる現代医療――スモン・隠れた加害者たち』,筑摩書房,264p. 1100 ※ d07. d07smon. n02.
◆淡路 剛久 19810615 『スモン事件と法』,有斐閣,206p. ASIN: B000J7XHJ0 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ n02. d07smon. d07.
◆スモンの会全国連絡協議会 編 19810630 『薬害スモン全史 第一巻――被害実態編』,労働旬報社,534p. ASIN:B00DEDHNUA 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ d07. d07smon. n02.
◆スモンの会全国連絡協議会 編 19810630 『薬害スモン全史 第二巻――裁判編』,労働旬報社,586p. ASIN:B00DEDHPNA 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ d07. d07smon. n02.
◆スモンの会全国連絡協議会 編 19810630 『薬害スモン全史 第三巻――運動編』,労働旬報社,635p. ASIN:B00DEDHO8Q 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ d07. d07smon. n02.
古賀 照男 19860315 「薬の神話の被害者として」,東大PRC企画委員会編[1986]* d07. smon. n02.
◇東大PRC企画委員会 編 19860315 『脳死――脳死とは何か?何が問題か?』,技術と人間,213p. ISBN-10: 4764500493 ISBN-13: 978-4764500495 1800 [amazon] ot.
◆高野 哲夫 19870125 『翼折れ爪はがれても――ある車いす薬学者の半生』,青木書店,219p. ISBN-10:4250870049 ISBN-13:978-4250870040 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ t09. d07smon.
◆実川 悠太 編/羽賀 しげ子・小林 茂 19900630 『グラフィック・ドキュメント スモン』,日本評論社,245p. ISBN-10:4535577382 ISBN-13:978-4535577381 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ d07smon. n02.
◆泉 博 19960318 『空前の薬害訴訟――「スモンの教訓」から何を学ぶか』,丸ノ内出版,332p. ISBN-10: 4895141144 ISBN-13: 978-4895141147 3000 [amazon] ※ d07. smon. n02.
古賀 照男 19991101 「スモン被害者として」浜・坂口・別府編[1999:66-67]*  d07. smon. n02.
◇浜 六郎・坂口 啓子・別府 宏圀 編 19991101 『くすりのチェックは命のチェック――第1回医薬ビジランスセミナー報告集』,医薬ビジランスセンターJIP,発売:日本評論者,479p. d07. smon. n02.
古賀 照男 200003 「孤独と連帯――古賀照男・闘いの記」,『労働者住民医療』2000-3,4,5  d07. smon. n02.
◆岩手スモンの会 20001220 『岩手スモン運動誌 失われた時の叫び――薬害スモンとの闘いとその軌跡』,岩手スモンの会,177p. ISBN-10:4924981257 ISBN-13:978-4924981256 欠品 [amazon][kinokuniya] ※ n02. d07smon. d07
◆井上 尚英 20111126 『緑の天啓――SMON研究の思い出』,海鳥社,160p. ISBN-10: 4874158374 ISBN-13: 978-4874158371 1500+ [amazon][kinokuniya] ※ d07. smon. n02.


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■言及・引用

◇山田真・立岩真也(聞き手) 2008a 「告発の流儀――医療と患者の間」(インタビュー)、『現代思想』36-2(2008-2):120

◆―――― 2008b 「告発の流儀」、稲場・山田・立岩[2008:149-267]*
◇稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※,
流儀 (Ways)

 「スモンの裁判を最後までやった古賀照男さん☆43という人がいて、彼がやった裁判は本当に被害者自身の裁判だったと思うけれど、そういうふうに被害者自身が方針を決めて進めていくという裁判は少なかった。弁護士が自分の利害も含めて、引くべきか進むべきか考えて、それでやめたり、進めたりしていたようなところがあったと思う。それはもう今も薬害C型肝炎訴訟でもなんとなく垣間見られるような気がするけど、考えすぎかな。何か被害者の思いと弁護士の方針が少しすれ違っているような気がする。」(185)

 「☆43 訴訟団が高裁で和解した後も高裁・最高裁で争う。本人がスモンでない可能性があるとして敗訴。二〇〇三年死去。その文章、インタビューの記録として古賀[1986][1999][2000]。
 「被害者のなかで、ぼくたち「支援する医者」にも鋭く批判をするのは古賀照男さんくらいでした。古賀さんはスモンの患者さんでしたが、病気になる前は労働者で、病気になった後で加害者である「田辺製薬」を追求(ママ)するときも作業衣のままだったりしました。二〇〇三年に亡くなられましたが、最後まで製薬会社の追求(ママ)をやめず、その姿勢にぼくは深く感動し、また多くのものを教えられたと思っています。[…]
 古賀さんの闘いでは古賀さんが主役で、医者も黒衣(ルビくろこ)にすぎませんでしたから、スッキリした気持ちでかかわることができましたし、古賀さんの言葉からあらためて日本の医療の問題点を見直すことにもなったりしました。
 しかし、被害者の人たちと医者とがこんな関係になれるのはめずらしいことで、医者が医療被害者運動の先頭に立ってしまうこともしばしばあったのです。」(山田[2005:242-243])
 次に、田中百合子[2005]『この命、つむぎつづけて』より。【田中は一九四七年生。七二年三月、薬害スモンのため、東京都を退職。七六年、スモン訴訟東京地裁原告団事務局長代理。七七年、スモン訴訟東京地裁原告団事務局長】
 「もうひとり、忘れられない人がいる。古賀照男さんである。
 彼は、神奈川県のスモンの会会員だった。いつも茶色のビニールの長靴を履いて、クラッチという肘まである松葉杖をカチャンカチャンと鳴らして歩いていた。
 胸と背中には「薬害根絶」という文字があった。汚れた布にいつ書かれたか分からないような手書きの字だった。いつも同じようなジャンパー姿だった。「それでよー、おまえよー、何考えてるんだ、しっかりしろ」というような、言葉使いは乱暴だったが優しい心根をもった人だった。
 東京地裁の裁判が和解に向けて怒涛のように動いていったとき[…]いつもわたしと行動をともにしてくれた。
 自分たちの弁護団のところへ何度も話し合いに行った。話し合ってもちらがあかないため、新しい弁護団をつくることができるかどうかを模索するため、二人で歩き回った。あちらの弁護士、こちらの弁護士、ほんのちょっとの知り合いにも紹介してもらって、とにかく歩いた。[…]しかし前にも述べたように、社会的な地位のある弁護団を解任して新しい弁護団をつくることは、もうここに至ってはできなかった。しかし、たった一人の弁護士だけが、第一次判決のときにわたしたちを助けてくれた。
 その後しばらくして、わたしたちの原告団は頑張ってはみたが判決を求めていくことができず、和解へと追い込まれていったのは、先述したとおりである。
 ところがこのとき、古賀さんともう一人の原告だけは絶対に和解しないと言った。わたしたち判決派の原告団では、決して和解を強要することはしまいと申し合わせていたので、古賀さんにはできるだけ協力することにした。
 とは言っても体力、気力の限界まで頑張った後に和解したわれわれだったので、古賀さんの闘いにおいて、わたしたちにできることは限られていた。[…]
 わたしたちスモンの原告団は、古賀さんの仲間だったはずであったが、時々のカンパを別にすれば、古賀さんと行動をともにできた者は結局いなかった。
 古賀さんは、強烈な個性の持ち主であった。彼は、自分だけを残して和解してしまったわたしたち原告団に対して、表面上はともかく、心の中に怒りを秘めていた。裁判にも負け、奥さんを失い、古賀さんの心で燃えるのは怒りのともしびだけだったかもしれない。古賀さんは、私たち昔の仲間に電話をかけては、怒りをぶつけた。
 わたしたちは、古賀さんに愛情をもっている仲間であり、古賀さんの気持ちは十分理解できると思ってはいたのだが、古賀さんに鋭く批判され、怒りをぶつけられたとき、体の具合が悪いわたしたちは、寛容の心をもってそれを聞き、ともに闘うということができなかった。
 私も電話をもらい、あまりに理不尽なことを言われて大げんかをしたことがある。同じ病で死ぬか生きるかのときちる、こちらも古賀さんのわがままをわがままとして受け止め続けることができなった。
 古賀さんは私たちを見放した。古賀さんは、自分の怒りを受け止めてともに闘ってくれる仲間と田辺に対する抗議行動を続けた。」(田中[2005:94-96])」(213-217)

◆立岩 真也 2016/02/01 「国立療養所/筋ジストロフィー――生の現代のために・9 連載 120」『現代思想』44-(2016-2):-

 「□反社会的病気/社会病
 前回、「迷惑」を広く捉えた方がよく、直接的な「加害」はそんなに現実には「効いていない」はずだと述べた上で、「狭義の加害」についていくつかを記した。「広義」の方に話を戻し、再開する。第一一七回(昨日一一月号)、引用だけしておくと述べて引用したのが以下。『腎臓病と人工透析の現代史』(有吉[2013:176])で引かれている、一九七〇年四月六日、第六三回国会参議院予算委員会一六号における厚生大臣内田常雄の答弁。

 「スモン病というものはむずかしい病気ではありますけれども、必ずしも結核でありますとか、あるいは精神病患者、さらにはまた、らい病のように、何といいますか、反社会的な要素をおびておるものということにも断定をいたしておりませんので、したがって、公費でこれだけの病気を対象にして診療するという制度は、なかなか確立いたしにくいところでございます。ガンのようなものでも、患者にとりましては非常に大きな負担でございますけれども、研究には力を入れておりますが、公費負担の制度をとっておりませんことは御承知のとおりであります。そうではありますが、[…]悲惨な家庭の状況もございますので、研究費の中におきまして薬剤費のごときものは、実際はまかなっておる。したがって、本人あるいは家族の負担というものも、さような限度におきましてはできるだけ研究費の中でかぶる場合もある」

 次に七二年三月一七日、第六八回国会衆議院本会議一三号。斉藤昇厚生大臣の答弁(有吉[2013:178])。

 「公費負担は、御承知のように社会防衛的に必要な疾病、あるいは社会的な事柄が原因になって起こってくる疾病、そういったようないろいろな観点から、どういうものを公費負担にすべきかということをきめてまいらなければならないと考えます。公費負担制度は逐次拡張をいたしてまいっておりますことは御承知のとおりでありまして、ことに公害に基づく疾病等につきましては、これは一種の公費負担という制度も確立をいたしてまいりました。今後も社会的原因に基づくような疾病に対しましては、公費負担の原則を拡充をいたしてまいりたい、かように考えます。」

 この時期は、薬害スモンが社会問題となり、それを巡る対応が議論されていた頃だ。そしてスモンに対する対応を認めさせるのに合わせて、他の「難病」についても公費負担を求める要求がなされる。七〇年の質疑で要求されているのはベーチェット病についての公費負担だった。答弁で言われているのは、大きく二つ、「反社会的」「社会防衛的に必要」な疾患と、「社会的な事柄が原因」の疾患である。前者には精神疾患、結核、ハンセン病があげられていた。後者には所謂公害病が入れられており、他方、他の疾患については公費負担は難しいということになっている。それでもスモンが入り口になってこの時期だんだんと変わっていって「難病対策」が始まる。このことについては別に記すとして、ここでは「反社会的」で「防衛」されるべき範囲が広かったこと、そしてそれを特に患者やその人たちを支援する側も利用することがあったことを見ておく。
 スモンはウイルス説が当初強かった。それが否定されるまでに長い時間を要した。次のような挿話がおもしろいという人もいるかもしれない。オリンピック等の催と都市の「浄化」が組み合わさることがしばしばあることは指摘されてきたが、スモンについてもそんなことがあった。一九六四年、東京オリンピックの時のことだ。

 「とくに昭和三九年の戸田地区での四五例に及ぶ集団発生はオリンピックのボートレース開催予定地であったために、国の威信をかけて、厚生省は補助金による研究班を急遽発足させた。その当時、すでに三七都道府県で八二三例という多数の罹患者が集積されていた。」(西谷[2006])

 伝染、発生が懸念され、そしてそれが生じている(らしい)ことが対外的にもたらすものが懸念されたということだ。そしてそれは、差別を生じさせることでもあったから、患者たちにとっては迷惑なことであったのだが、しかしそれは、害を広げさせる可能性を有するから「対策」を促すものでもあった。
 当時の状況のもとで生活の方面に金を出させることは困難だった。そんなこともあって、研究を掲げその枠の中でいくらかの支援をするという方向が考えられた。このことに関わるもう一つの挿話がある。椿忠雄(都立神経病院院長の後、新潟大学神経内科教授)がスモン=キノホルム説を公表したのは七〇年八月七日だが☆01、対策を求めていく一つの方向として、東京都では神経病総合センターを作ることが構想されており、それを推進・実現するためのセンター設置促進講演会があったのは、その翌日、八月八日だった。この時のことを、「難病」についての唯一、ではないかと思う研究書で、衛藤幹子が自らの関係者への聞き取りから次のように記している。なお文中の白木は白木博次。(一九一七〜二〇〇四。一九六八年四月、東京大学医学部教授のときに都立府中療育センターの初代院長に就任。同年一一月、東京大学医学部長。一九七〇年七月美濃部都知事の委嘱で東京都参与、等。)

 「神経病総合センター設置は、感染説を印象づけることによって都民の関心を盛り上げその支持をバックに実現を図ろうとの意図があった。そのため、都知事講演会当日にキノホムル原因説が発表されたことについて、そのことを開催直前に知った白木や全国スモンの会関係者は、キノホルム説の公表が少なくとも講演会以前でなかったことに安堵したという。」(衛藤[1993:121])

 薬害であるとなれば、その薬の使用をやめれば、原因はさらにはっきりし、発生は抑えられる――実際、このとき厚生省は珍しく早くキノホルム剤の使用を禁止し、新たな発生はなくなった。この証言をそのまま受け取れば、伝染病である可能性があるなら、それを研究し、研究費として支出される金や作られるセンターを患者のために使うといったこともまたできる、(しばらく)感染説が維持され、研究のため(として)金を出させることが、すくなくとも当座は、より容易だと考えられたということのようだ。感染の可能性があることによって、「社会防衛」の対象であることによって、関心を得て、金を得ようとしたということである。

 「☆01 京大がウイルス説、東大・新潟大が非ウイルス説を主張して対立していたことは比較的知られている。次の註にあげる西谷の著書では当時の京大での様子についての記述もある。また当初キノホルム説を否定していたが椿らの研究もあり自らの研究成果からもキノホルム説を支持すにるいたった九大の研究グループの動向等々について井上[2012]にかなり詳しく記されている。スモンに関わる告発・訴訟以後の書籍は多く出ている。HPにいくつか挙げている。」

衛藤幹子 1993 『医療の政策過程と受益者――難病対策にみる患者組織の政策参加』、信山社
井上尚英 2012 『緑の天啓――SMON研究の思い出』、海鳥社
有吉玲子 2013 『腎臓病と人工透析の現代史――「選択」を強いられる患者たち』、生活書院

◆立岩 真也 2018/12/15 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p. ISBN-10: 4791771206 ISBN-13: 978-4791771202 [honto][amazon][kinokuniya] ※

立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『不如意の身体――病障害とある社会』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙

 「一つ、政治・政策が引き受けるということは、同時に(例えばスモンについての政治・政府の)責任を曖昧に回収・回避する策であることがあることに留意すべきである。」(立岩[201812:5])

 「4 (3) 被害者たちの運動:サリドマイド/スモン
 そしてほぼ同時期に現れたのが、社会が与える害を告発する運動だった。サリドマイド★06がそうだったし、スモン★07がそうだった。
 それを先導したのは、六〇年代初頭のサリドマイドにしても七〇年前後のスモンにしても、被害者の家族であり、後者についてはその被害者であり、そしてそれを支持した人たちがいた。
 その人たちは被害者であり、その直接の敵として政府や企業がいて、そのことを社会に訴える。その人たちは訴えることにおいて共通性を有することになる。どこに解決・収拾を求めるかといったところで、そこではやがて、あるいはすぐに、熾烈な内部での争いもまた起こるのではあるが――このことに関わることを、[201408]の補章に記した――まずは、その運動は活発な積極的なものになる。サリドマイドの症状は新生児に現れる、それはやはり可哀想な対象であり、その人たちについての「安楽死」論議があったりもするのだが(立岩編[2015]に収録した)、基本的には救済の必要が言われ、重症身心障害児の施設にサリドマイド児が収容されたこともあったことを述べた。そしてその一件はいったん収束する。
 筋ジストロフィーについては親の運動があって、一九七〇年代初頭に始まる「難病」対策・政策に先んじて政策対応がなされていた。その難病の方面については、スモン病が大きな役割を果たしたとされる。スモンは当初感染説も強く、それで病者は差別され苦しむことにもなった。ただその危険性ゆえにハンセン病や結核のように「社会防衛」の観点からその原因の究明に予算が使われもした。そして原因究明と対応は病者と支援者にとっても重要な関心だったから、研究施設建設のための講演会が開催されたのがキノホルム説の公表よりわずか前であってかえってよかったという受け止め方もあった(◆頁)。△043 だがキノホルム説は証明され、頑強にそれを認めなかった田辺製薬といった製薬会社は別として、その説は受け入れられた。その責任追及と救済を求める運動が続いた。
 政府はこの件について法的責任を認めることはしなかったが、その辺りを適当なところで収拾するためにも、なにがしかのことはせざるをえなかった。そのことと「難病政策」の始まりが実際に関わっているのか、それを示すものが見つかったらお知らせする。
 こうして、被害者の側は強い運動を展開し、社会は味方することになる。難病政策が始まる。すると、作られた仕組みに入ることを求め、また運動の力と成果に影響を受けて、各種疾患の人たちが「認定」を求めていくことになる。」

 「5 医療
 サリドマイドにしてもスモンにしても、それは医学・医療が作り出したものであり、その限りにおいて、医療は敵であるとも言える。ただ自らが生じさせたことを調べて、その原因を特定したのは医学者だった。そして、個々の人がその疾患にかかっているかどうかを判定するのも医師であり、さらに、そうたいしたことはできず、いくらかの対症療法を行なうのがせいぜいだったのだが、それでも、いくらかの処置をし、その症状を軽くさせるためのことをするのも医療であり、医療者が、そして良心的な医療者はなお熱心に、それに対応することになった。
 こうして制度は基本的に原因究明と治療法の追究のためにあるとされたが、実際それはその本人や家族が望んだことでもあった。加えれば私自身も多くについて同じことを望んでいるし、また可能性があるとも思っている。しかし『ALS』[200411]でも書いたのだが、もうすぐ治療が実現するといったことが幾度も語られつつ、残念ながら、多くについてそれほど有効な、すくなくとも決定的な療法が開発されることはなかった。その点でスモンは例外的だった。当然のことである。キノホルム剤を大量に処方していたことが原因だったのだから、それをやめれば、長く続く後遺症への対処は残されるが、新しく発症することはなかった。ただ他の多くは厄介だった。同じことは筋ジストロフィーについても言える。この病名が知られ治療法が求められそのための体制が組まれてから五〇年は立つのに、今に至るも決定的な療法はない。その理由は私にはわからない。ただ事実ではある。今までのところは「補う」ことの方が効果的であってきた。筋ジストロフィーにしても、その寿命が大きく変わったのは人工呼吸器の導入によってだった。筋ジストロフィーについては、使わなければ亡くなるのはずっと若い人だったこともあり、「自己決定」によって過半の人はそれを使わないで亡くなるといったことにはならず、△045 多くで比較的積極的にそれは取り入れられた。」

 「★03 ようやくいくらか増えてきた難病(政策)を巡る研究をする人として、著書に『困ってるひと』(大野[2011])、『シャバはつらいよ』(大野[2014b])のある渡部沙織(大野更紗)。修士論文に「「難病」の誕生――「難病」対策と公費負担医療の形成」(渡部[2015])、他に渡部[2014b])、大野名で大野[2013][2014a])。渡部[2016]は薬害スモンを巡る医療者・医学者の対応から描かれている。それはそれでもっともなことではある。ただ、もう少し手前から、そして本人や親の動きを含めて見ていくのも私はよいと思って本書を書いている。そうして見ていくと、たしかに医療者・医
学者たちは尽力はしたのだが、その労苦をただ讃えればよいというものではないことも見えてくる。また、本人や家族会の運動に不連続な部分があること――例えば日患同盟の流れと一九六〇年代の筋ジストロフィーや「重心」に関わる親の会の運動(いずれも後出)には一つに括れない部分がある――もわかってくる。それらをふまえながら、この国における「難病」を巡ってあった歴史を、本書ではそれを見ることはないのだが、調べ書いていく必要がある。七〇年前後の国会でのこの「難病」という言葉の現われについて酒井美和[2019]。また白木博次(243頁)、冲中重雄(◆頁)といった医学者たちによる規定や、その後の継承・変遷(金澤一郎[2012]等々)を見る必要もある。△052 」

 「★07 スモンについて市販された本で集まっているものは以下。『詩集 哀しみの目に灯を――スモン病の夫をはげまし、たたかいつづけた妻の叫び』(水野茎子[1969])、『静かなる闘いの日々――スモン病の夫とともに歩んだ六年』(水野茎子[1970])、『愛と闘いの序章――スモンと共に歩んだキャンパスの青春』(渡辺理恵子[1975])、△054 『僕は太陽が待てなかった――スモンと闘い力尽きた青年の手記』(福井[1975])、裁かれる製薬企業――第2・第3のスモンを許すな』(坂本久直・高野哲夫編[1975])、『冬の旅――音楽評論家のスモン闘病記』(志鳥栄八郎[1976])、『謎のスモン病――スモン・キノホルム説への懐疑』(高橋秀臣[1976])、『春は残酷である――スモン患者の点字手記』(星三枝子[1977])、『薬害スモン』(亀山忠典他編[1977])、『ひとりで歩きたい』(福岡県スモンの会編[1978])、『スモン被害――薬害根絶のために』(高野[1979b]、cf.高野[1979a][1987])、『スモン訴訟の真相』(高橋秀臣[1979])、『ノーモアスモン――スモンの恒久対策の確立と薬害根絶のために』(川瀬清他編[1980])、『スモン事件と法』(淡路剛久[1981])、『裁かれる現代医療――スモン・隠れた加害者たち』(高橋晄正・水間典昭[1981])、『薬害スモン全史』(スモンの会全国連絡協議会編[1981][1981][1981])、『グラフィック・ドキュメント スモン』(実川 悠太 編/羽賀しげ子・小林茂[1990])、『空前の薬害訴訟――「スモンの教訓」から何を学ぶか』(泉博[1996])、『岩手スモン運動誌 失われた時の叫び』(岩手スモンの会[2000])。」

 第3章 国立療養所で
 第1節 開始の前に
  1 反社会的病気/社会病

 『腎臓病と人工透析の現代史』(有吉[2013:176])で引かれている、一九七〇年四月六日、第六三回国会参議院予算委員会一六号における厚生大臣内田常雄の答弁。

 ▼スモン病というものはむずかしい病気ではありますけれども、必ずしも結核でありますとか、あるいは精神病患者、さらにはまた、らい病のように、何といいますか、反社会的な要素をおびておるものということにも断定をいたしておりませんので、したがって、公費でこれだけの病気を対象にして診療するという制度は、なかなか確立いたしにくいところでございます。ガンのようなものでも、患者にとりましては非常に大きな負担でございますけれども、研究には力を入れておりますが、公費負担の制度をとっておりませんことは御承知のとおりであります。そうではありますが、[…]悲惨な△058 家庭の状況もございますので、研究費の中におきまして薬剤費のごときものは、実際はまかなっておる。したがって、本人あるいは家族の負担というものも、さような限度におきましてはできるだけ研究費の中でかぶる場合もある。▲

 次に七二年三月一七日、第六八回国会衆議院本会議一三号。斉藤昇厚生大臣の答弁(有吉[2013:178])。

 ▼公費負担は、御承知のように社会防衛的に必要な疾病、あるいは社会的な事柄が原因になって起こってくる疾病、そういったようないろいろな観点から、どういうものを公費負担にすべきかということをきめてまいらなければならないと考えます。公費負担制度は逐次拡張をいたしてまいっておりますことは御承知のとおりでありまして、ことに公害に基づく疾病等につきましては、これは一種の公費負担という制度も確立をいたしてまいりました。今後も社会的原因に基づくような疾病に対しましては、公費負担の原則を拡充をいたしてまいりたい、かように考えます。▲

 この時期は、薬害スモンが社会問題となり、それを巡る対応が議論されていた頃だ。そしてスモンに対する対応を認めさせるのに合わせて、他の「難病」についても公費負担を求める要求がなされる。七〇年の質疑で要求されているのはベーチェット病についての公費負担だった★01。答弁で言われているのは、大きく二つ、「反社会的」「社会防衛的に必要」な疾患と、「社会的な事柄が原因」の疾患である。前者には精神疾患、結核、ハンセン病があげられていた。後者には所謂公害病が入れられており、他方、他の疾患については公費負担は難しいということになっている。それでもスモンが入り口になってこの時△059 期だんだんと変わっていって「難病対策」が始まる。このことについては別に記すとして、ここでは「反社会的」で「防衛」されるべき範囲が広かったこと、そしてそれを特に患者やその人たちを支援する側も利用することがあったことを見ておく。
 スモンはウイルス説が当初強かった。それが否定されるまでに長い時間を要した。次のような挿話がおもしろいという人もいるかもしれない。オリンピック等の催と都市の「浄化」が組み合わさることがしばしばあることは指摘されてきたが、スモンについてもそんなことがあった。一九六四年、東京オリンピックの時のことだ。

 ▼とくに昭和三九年の戸田地区での四五例に及ぶ集団発生はオリンピックのボートレース開催予定地であったために、国の威信をかけて、厚生省は補助金による研究班を急遽発足させた。その当時、すでに三七都道府県で八二三例という多数の罹患者が集積されていた。(西谷[2006])▲

 伝染、発生が懸念され、そしてそれが生じている(らしい)ことが対外的にもたらすものが懸念されたということだ。そしてそれは、差別を生じさせることでもあったから、患者たちにとっては迷惑なことであったのだが、しかしそれは、害を広げさせる可能性を有するから「対策」を促すものでもあった。
 当時の状況のもとで生活の方面に金を出させることは困難だった。そんなこともあって、研究を掲げその枠の中でいくらかの支援をするという方向が考えられた。このことに関わるもう一つの挿話がある。椿忠雄(都立神経病院院長の後、新潟大学神経内科教授、本書◆頁)がスモン=キノホルム説を公表したのは七〇年八月七日だが★02、対策を求めていく一つの方向として、東京都では神経病総合センターを作ることが構想されており、それを推進・実現するためのセンター設置促進講演会があったのは、その翌日、△060

八月八日だった。この時のことを、「難病」についての唯一、ではないかと思う研究書★03で、衛藤幹子が自らの関係者への聞き取りから次のように記している。なお文中の白木は白木博次(本書◆頁、一九六八年四月東京大学医学部教授のときに都立府中療育センターの初代院長に就任、同年一一月東京大学医学部長、一九七〇年七月美濃部都知事の委嘱で東京都参与、等)。

 ▼神経病総合センター設置は、感染説を印象づけることによって都民の関心を盛り上げその支持をバックに実現を図ろうとの意図があった。そのため、都知事講演会当日にキノホムル原因説が発表されたことについて、そのことを開催直前に知った白木や全国スモンの会関係者は、キノホルム説の公表が少なくとも講演会以前でなかったことに安堵したという。(衛藤[1993:121])▲

 薬害であるとなれば、その薬の使用をやめれば、原因はさらにはっきりし、発生は抑えられる――実際、このとき厚生省は珍しく早くキノホルム剤の使用を禁止し、新たな発生はなくなった。この証言をそのまま受け取れば、伝染病である可能性があるなら、それを研究し、研究費として支出される金や作られるセンターを患者のために使うといったこともまたできる。(しばらく)感染説が維持され、研究のため(として)金を出させることが、すくなくとも当座は、より容易だと考えられたということのようだ。感染の可能性があることによって、「社会防衛」の対象であることによって、関心を得て、金を得ようとしたということである。
 本書で主に見ていくのはこの時期の前の主に一九六〇年代のこと(第3章)、そして次に八〇年代に入って起こった小さなできごとになる(第5章)。この時期、七〇年代のことは、いま出てきた椿忠雄といった人たちが、六〇年代を経て七〇年代の体制を作っていった人たちのうちの幾人かについて簡単△061 にふれる第4章2節(◆頁)ですこしふれるだけだ。だから、本章の冒頭にもってくるのには具合がよくない。ただ、この約五〇年前のことは、それだけでも、とどめておいてよいことのように思った。」


UP: 20090727 REV: 20131124, 20140217, 20160107, 0117, 0209, 20170101, 04, 20181203
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