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赤堀闘争/島田事件

精神障害/精神医療歴史

last update:20110822

以下、とてもとりあえず作ったものです。赤堀政夫氏についてのページとの調整は今後考えます。

■目次

関連資料(全文収録含む)
引用


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■関連資料(全文収録含む)

◆鈴木 信治,1975,「赤堀裁判と精神鑑定書」,『臨床心理学研究』13(10): 30-45.
◆静岡・赤堀さんと共に闘う会 19761110 「赤堀差別裁判糾弾!無実の『死刑囚』赤堀政夫さんを奪還しよう」,『新地平』30(1976-11):27-36 ※COPY
◆赤堀闘争全国活動者会議 編,1977,『島田事件と赤堀政夫』,たいまつ社.
◆全国「精神病」者集団,1977,「発刊にあたって」,『絆』1: 1.
◆赤堀闘争全国活動者会議編,1977,『島田事件と赤堀政夫』,たいまつ社
◆『「障害者」解放通信』37 19780115 養護学校義務化/赤堀闘争/… 19p. 200 三田
◆相馬 誠一 19780501 「差別は人を殺す――「死刑囚」赤堀政夫を生みだしたもの」,『別冊・解放教育 差別とたたかう文化』1978春(5):86-91 ※COPY
◆上田 久 19790325 「「障害者」同胞と無実の死刑囚,赤堀政夫氏」,『福祉労働』02:113-121 ※
◆赤堀中央闘争委員会 1979/05/13 『赤堀中闘委ニュース』第4号
◆赤堀中央闘争委員会 1979/08/10 「赤堀中闘委ニュース 第6号」
全国障害者解放運動連絡会議 19790811 『全障連第4回大会レポート集 第6分科会――赤堀闘争』,10p.
◆赤堀中央闘争委員会 1979/09/01 「赤堀中闘委ニュース 第7号」
◆赤堀中央闘争委員会 1979/11/01 「赤堀中闘委ニュース 第8号」
◆全国「精神病」者集団,1979,『1979・6・10 第4回全国「精神障害者」交流集――赤堀さんを殺して私たちに明日はない』,全国「精神病」者集団
◆赤堀中央闘争委員会 1980/07/20 『赤堀さんは無実だ!』第1号
◆大野 萌子,1982,「『精神障害者』解放の課題」,全国障害者解放運動連絡協議会編,1982,『障害者解放運動の現在――自立と共生の新たな世界』,現代書館,198‐220.
◆三重赤堀さんと共に斗う会(準)兵頭建樹 1982/11/22『三重赤堀問題を訴える〜赤堀斗争に敵対する三氏に抗議を〜』
◆佐藤 和喜雄 19860925 「無実の死刑囚赤堀政夫さん再審開始へ偉大な第一歩!――検察の抗告を弾劾し,勝利へ向かって支援を!!」,
『福祉労働』32:091-093 ※
◆白砂 巌 19870725 『雪冤 島田事件――赤堀被告はいかに殺人犯にされたか』,社会評論社,422p. 2600 横浜
◆『全障連関西ブロックニュース』054 19871111 赤堀/大阪市への要望書 150 ※
◆佐藤 和喜雄 19880625 「島田事件――「精神障害者」差別の構造」,『福祉労働』39:008-018 ※
◆仙台赤堀さんと共に斗う会 1988/09/08〜1989/01/31の間(調査中)『赤堀さんは無実だ 差別裁判糾弾!!完全無罪を』
◆佐藤 和喜雄 19880925 「死刑求刑に毅然として対決する赤堀さんガンバレ!――島田事件再審公判結審」,『福祉労働』40:120-123 ※
◆佐藤 和喜雄 19890425 「赤堀さん無罪釈放――島田事件三五年の闘いが勝利!」,『福祉労働』42:110-112 ※
◆赤堀中央闘争委員会 19890625 「その後の赤堀さんの近況報告とお願い」,『福祉労働』43:105-107 ※
◆伊佐 千尋,1989,『島田事件』,潮社.
◆大野 萌子,1989,「赤堀さん無罪釈放――島田事件35年の闘いが勝利!」,『福祉労働』42: 111‐112.
◆鈴木 清子,2003,『父・鈴木信雄――島田事件の弁護士の素顔』,文芸社.
大野 萌子 2004/01/31 「赤堀さんの解放記念日」
 http://popup.tok2.com/home2/nagano2/oono.htm
◆赤堀 政夫・大野 萌子 2004/08/27 「声明」
大野 萌子 2005/04/11 「赤堀政夫さん実社会の苦悩・・・そして介護者の告白」
 http://popup.tok2.com/home2/nagano2/0504akahoricare.htm
阿部 あかね 2009/03 「精神障害者〈反社会復帰〉〈働かない権利〉思想の形成過程――1960〜1980年代の病者運動を中心に」,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文


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■引用

阿部あかね 20090300 「精神障害者<反社会復帰><働かない権利>思想の形成過程――1960年〜1980年代の病者運動から」,立命館大学大学院先端総合学術研究科2008年度博士予備論文
 *以下は上記論文の一部。

 「第3章5節 島田事件の発生

 精神障害者は医療の対象として精神病院へ隔離収容されるか、あるいは精神衛生法のもと地域生活で医学管理・地域管理をうけることについてのべた。また一方で、社会化できない精神障害者、すなわち犯罪を犯すものについては保安処分で対処しようとする動きについてものべた。精神障害者を「社会化」できるか否かという点に関連して、社会から精神障害者を排除し、そのうえ死刑判決によってその生命さえも奪わんとせん事態が起こっていたことをこの章でふれておく。
 1954年、知的障害をもち精神病院への入院歴があった赤堀政夫氏が、幼女淫行殺害の犯人として捕えられた。赤堀氏は裁判では一貫して無実を主張したものの1960年に死刑が確定する。
 1964年には地元島田市民の、赤堀氏の有罪確定を疑問視し無罪を求める『島田事件対策協議会』という支援団体が結成されるものの、あまり世間からは注目されることもなく、地味な救援活動しかできていなかったという(鈴木 1975)。しかし、1974年に『全国「精神病」者集団』は結成と同時に、島田事件を精神障害者に対する弾圧と差別裁判」と位置づける。『全国「精神病者」集団』は、死刑囚赤堀氏の無罪奪還をその闘争標的とし、全国「精神病」者集団、全国障害者解放運動連絡協議会(全障連)、赤堀闘争全国活動者会議・各地共に闘う会(全活)の3者が連帯し、赤堀氏の無罪と精神障害者の解放を目指し運動を展開する。

(1)島田事件の概要、新聞報道から

 昭和29年3月10日、静岡県島田市幸町の幼稚園から、青果商佐野輝男さんの長女久子ちゃん(当時6つ)が男に連れ去られ、3日後に大井川岸の雑木林から絞殺体で見つかった。当時の国警静岡県本部と島田市署は同年5月28日、当時25歳で放浪中だった赤堀政夫・再審被告(59)を別件の窃盗容疑で逮捕。赤堀被告は久子ちゃん殺しを自供した。
 公判で赤堀被告は犯行を否認したが、静岡地裁は死刑を言い渡し、35年12月、最高裁で死刑が確定した。赤堀被告は無実を訴え、36年から4次にわたって再審を請求した。
 第4次再審請求審は静岡地裁がいったん棄却したが、東京高裁は58年5月、地裁に審理のやり直しを命じ、地裁は61年5月、再審開始を決定。高裁が検察側の即時抗告を退け、再審開始が決定。再審公判は62年10月に始まり、検察側は再び死刑を求刑、12回の公判を経て、昨年8月結審し、1989年1月31日、無罪が確定する(『朝日新聞』1989.1.31)。免田・財田川・松山事件と並ぶ戦後の4大冤罪事件のうちのひとつに数えられている。

(2)島田事件の概要 支援者側の視点から
 1954年3月10日、静岡県島田市の寺で、遊戯会の最中に一人の女児がいなくなる。山狩り捜索の結果、3月13日に近くの雑木林で死体となって発見される。現場検証の結果死体の近くに女児がはいていた下駄の跡とゴム長靴の跡があり、これが犯人の足跡とされた。警察は聞き込みや、長靴の店を探し出し、購入者を調べるなどしつつ、被差別部落民、前科者、変質者、ヒロポン中毒、浮浪者、精神障害者など200数十名をリストアップし取調べを行ったがなかなか犯人を逮捕できなかった。
 3月25日の鈴木医師による死体鑑定で久子ちゃんの死因は「頸部絞扼→陰部への加傷→胸の強打」の順序とされる。
 5月28日、岐阜県内の検問で二人連れの浮浪者が職務質問され、これによりリストに上げられていた赤堀氏が判明、「窃盗」の別件で逮捕される。
 5月30日、拷問により自白がデッチあげられる。赤堀氏は、どのように自分が犯罪者として「でっちあげ」られたかについて、以下のように支援者にその様子を述べている。

 「シラナイコトハ私ハシリマセンデストコノヨウニ調べ官の人たちに向かってハッキリト言ってやりましたのです。調べ官の人たちはカンカンニナッテオコリマシタノデス。オマエガシラナイトソレホド言うナラバ今カラワレワレガオマエニワカルヨウニユックリトクワシク話シテヤルカラヨク話ヲキイテイルヨウニ、二人の人がヤルトコロヲミテイテヨイトイイマシタノデス。事件のことについての話であります。一人の人が犯人の男の代役になりました。ほかの一人の人は女の子の代役になってやりましたのです。別の一人が話役をやりましたのです」
 「私は初めて事件をしりましたので有ります。それまでは全然知らないのです」(上申書)
 「調べ官の人が私に言いましたのです。今ワレワレが事件の話を君にわかるようにクワシク話してやったのだぞ今度は君がワレワレカラキイタ事件の話をクリカヘシテ話すのだよいいな、君が話していることをワレワレが用シニカキトルカラユックリト言えと言いましたのです」(上申書)
 「…仕方がなくシカタガナク事件の話をクリカエシテユックリト調べ官の人に話したのです。カキトリ終ワリマシタあとで、大ゼイノ調べ官の人たちがイヤガルコノ私の手に万年筆ヲミリヤリニギラセテ私の手クビヲ上カラツカマエマシテ用シにナマエヲムリヤリニ書カセタノデス。指(朱)肉を手ユビニ付ケマシテカラ私のテクビヲ上カラツカミマシテ、ナマエノ下へムリヤリニオサセタノデアリマス。ケイサツ官の人タチハコノウニシテ、ウソイツワリノ、マチガッテイル、ギサクノ書類ヲコノヨウニシテ作クリ上ゲタノデアリマス」(上申書)(赤堀闘争全国活動者会議編 1977: 41-42)

 6月1日、「凶器の石」が発見される。これは赤堀氏の自白にもとづいて行われた捜査により、凶器となった石がみつかったとし、唯一の物的証拠とされたものである。これについても赤堀氏は、

 別の人ガヨコカラ口ヲ出シタイノデス。君、ボウキレデ、女ノ子ノムネヲナグッテも、死ニはしないぞと 言イマシタノデス。何カ石ノヨウナモノデナグッタノデナイカトボクハ思ウ。前ノ人ガイイマシタノデス。ボクハゲンバヘイッタガ、アノゲンバニハ、石ハ一ツモオチテイナカッタゾと、言イマシタノデス。他ノ人ガイイマシタノデス。君タチ、モット、頭を働ラカセヨ。大井川へイッテ、手ゴロナ石一ツ拾ッテクルノダヨ、ソレヲ現場へモチカエッテ女ノ子ノ死体ノ近クニ、石ヲオイトクノダヨ、裁判官、弁護士ノ人タチガ実地検証ニキタトキ、ワレワレノ方カラ石ヲ見セテヤッテ、ワケヲ話スノダヨ、トコノヨウに話合ッタノデス(上申書)(全国「精神病」者集団編 1979: 10)」

 7月2日、公判開始、赤堀氏は無罪を主張し罪状否認する。そして1955年9月6〜29日、赤堀氏は都立松沢病院へ精神鑑定のため入院する。この時の鑑定医に対して行った自白の様子についても赤堀氏は後に支援者にこう伝えている。

 ケイサツ官ノ人タチガツクリ上ケタギサクノ調書ヲバ見ナガラ、イロイロト事件問題ニツイテ質問ヲスルノデスヨ。ソノ前ニマスイヤクノイソミタールト言ウ注射ヲバ、ウデニウチマシタノデスヨ、アタマノ方ハ、ボウトナリマス。ネムケガシマス。イロイロト質問ヲシタガ、私ノホウハ、クスリガキイテイルノデスカラ、ナニヲ、ハナシタカゼンゼンワカリマセンノデスヨ。私ハ人ヲコロシテハイマセンノデス。犯人デハナイノデス。ハッキリト、先生方ニムカッテ、私ハコタエマシタノデスガムダデアリマシタ。ムリヤリ仮自白サセラレタトキト同ジデス。ヒドイ、ヒキョウナヤリ方デス」(全国「精神病」者集団編 1979: 10)

 赤堀氏が述べる「自白」が捏造されたときの様子である。しかし、1958年古畑死体鑑定は、被害者の死に至る順序は「姦淫→胸の強打→頸部絞扼」との警察が作った自白調書を裏付ける法医鑑定結果を出す。これは事件後第一回目に行なわれた鈴木鑑定と死因の順序が違っている。鈴木医師が遺体を見ての鑑定だったのに対し、古畑鑑定では写真や自白調書などから判断されたものであった。そして5月23日、静岡地裁は赤堀氏に死刑判決を下したのである。

 (3)島田事件/赤堀氏への支援闘争
 赤堀氏の無実を確信した最初の人物は兄の一雄氏であったとされる。「…初めて会えた時(刑務所で)も『お前やったか?』って言ったら『いや、やっちゃいん』ということなんだよ。あいつは私には本当のことをいうだからねえ。『おらやっちゃいん。信神者(占い師)に行ってみてもらってみろ』…弟は本気で信じているからね。あ、これはやっちゃいんだな、と確信が持てた(赤堀闘争活動者会議編 1979: 132-133)。」
 事件の発生から赤堀氏の逮捕拘留、死刑判決、東京高裁へ控訴と棄却、静岡地裁への第2次再審申し立てまでのおよそ10年間をこの兄一人が支えてきたことになる。兄は仕事の休日を使い、実際のアリバイを証明すべく奔走し、裁判に通い続けたという(赤堀闘争全国活動者会議編 1977: 132-137)。その兄の活動と呼びかけに支援者が少しづつ増え、事件から10年が経過した1964年、島田事件対策協議会が結成される。そして、1969年静岡地裁への第4次審査請求を機に、大きな社会運動として盛り上がり発展を見せてゆく。
 1969年、支援者らが実際に赤堀氏の当時のアリバイを集めてまわる、1974年、島田事件対策協議会青年婦人部結成、各地赤堀さんと共に闘う会結成、1975年、全国「精神病」者集団が参加、静岡・仙台で全国集会、1976年、全国障害者解放運動連絡会議が結成され参加、静岡での全国集会、東京でのハンスト闘争、アムネスティに訴えるなど、市民・学生・労働運動とも連帯し運動が展開されてゆくのである(赤堀闘争全国活動者会議編 1977: 161-162)。
 また裁判の過程でこれまで出てこなかった事実が、支援者の活動によって次々と提出されてゆく。それは、自白が拷問とでっち上げによる強要されたものであること、複数の目撃者の犯人像と赤堀氏の外見が合致せず、証言自体の信憑性が疑われること、事件時の赤堀氏が島田市にいなかったとするアリバイが証言されたこと、凶器とされた石では被害者にできた傷は残らないと2度目の医学鑑定が結論付けたことから、その石自体が物的証拠として成立しない、などが無罪を立証する新たな証拠が出されてゆくのである。
 1989年1月31日、無罪が確定する。赤堀氏はおよそ35年もの間獄中で暮らしたことになる。

 精神障害者の社会からの排除として精神病院への収容主義があり、社会生活が営める程度の障害であれば地域での管理(監視)が適応され、しかし犯罪精神障害者という究極の社会不適合者は保安処分が課せられたわけである。そして、この赤堀さんの例が示すことは精神障害者は社会の都合(この場合は警察や世論の要請)でいかようにも処遇され、でっちあげさえ行なわれ死刑という名目で社会から消されてしまうこともありうる存在であったということだといえる。次章からは、これらの境遇を不当とする精神障害当事者たちの主張と運動を記述する。

4章 病者運動のたたかい

1節 島田事件、赤堀死刑囚の支援、無罪奪還へ

(1)『全国「精神病」者集団』による島田事件のとらえ方
 『全国「精神病」者集団』は、1974年の結成当時から赤堀裁判をその「斗争目標」として掲げるが、当事者としての『全国「精神病」者集団』では、事件を以下のようにとらえる。

 1954年、静岡県、島田市で、幼女強姦殺人事件が発生、犯人逮捕が難航。迷宮入りが、うわさされる中で、世情不安が高まっていました。加えて、警察の無力を非難する住民の声にたまりかねた島田署は、浮浪生活を余儀なくされていた赤堀さんに目をつけ、別件で逮捕しました、捜査は赤堀さんに殴るけるの拷問を加え、強制自白させ、一挙にデッチ上げていきました。「精神障害者」を「犯人」として、デッチ上げても、誰ひとりとして、疑い、非難する者はないと、住民意識を実に巧妙に計算した警察の暴力の前に、赤堀さんはデッチ上げられたのです(全国「精神病」者集団編 1979)」。

 同『全国「精神病」者集団』の山本真理(ペンネームは前述の長野英子)は、「全国『精神病』者集団では、『精神障害者が犯人に違いない』という予断に基づき、精神病院に入院歴があった赤堀氏を警察はでっち上げ逮捕と拷問による自白を強要し、市民も嘘の証言を行い、司法はそれらの差別を鵜呑みにし死刑判決を下した」とし、「赤堀さんのデッチアゲの過程はまさに我々『精神病』者総体への差別と排除の全構造をあらわにする。『精神病』者との共生の対極として、究極の排外排除として赤堀さんに死刑判決が下されたのである。それゆえ我々は『赤堀さんを殺して私たちの明日はない』という合言葉を胸に赤堀さんの獄中での闘いの支援へと立ち上がった(山本 1995)」としている。
 すなわち、一般的には精神障害者による幼女殺害という一事件としてとらえられる「島田事件」であるが、それを病者としての立場では「精神障害者差別観による殺人犯でっちあげ事件」とし、その精神障害者差別という本質を問うものと位置づけたのである。そして一冤罪事件の救援運動というレベルではなく、精神障害者差別に対する「糾弾闘争」としたのである。

(2)島田事件に対する『全国「精神病」者集団』の異議申し立て
 『全国『精神病』者集団』は以下のように主張する。

 「精神病院入院歴があり『精神薄弱者』として社会からのけものにされ、職をうばわれ、放浪生活を強いられ、不在証明が成立しないままデッチア上げられた赤堀さんの悲劇は、職を奪われ、家を放逐されている多くの『精神薄弱者だから当てにならない』と決め付けられているが、私たちの日常性もまた類似しているのではないだろうか。言葉や意思が曲解や憶測で無効化されたことはなかったろうか。
 なんと多くのことに口をつぐまされただろう。いかに非人間的に取り扱われたろう。それは『精神病者』というレッテルゆえにではなかっただろうか。(『全国「精神病」者集団』第2回全国大会基調より)(赤堀闘争全国活動者会議編 1979: 141)」

 また1979年に行われた第4回全国精神障害者交流集会において次のように、島田事件の問題点を確認している。@警察、司法による「精神障害者」抹殺の権力犯罪である。A鑑定書に書かれた「被告人のような知能の程度の人間が・・・いつ、どこを放浪していたか、ということについて、明確な記憶を持っていなかったと、認めることが、自然なことである。しかし、かような生活歴においても、本件のような重大事件につき、被告人が相当、鮮明な記憶を持っていたとしても、怪しむにあたらない」というような表記が、精神医学が裁判所に、「赤堀犯人像」を記憶のできない精薄者として、固定化させ欺瞞的な判決に結びつけた。B赤堀氏が日常的に浮浪者生活を強いられ、アリバイ証明が困難であったことは、別の見方をすれば労働者(健全者社会)が生産力の指標で精神障害者を排除していることの結果である。C市民社会が、「精神障害者」に偏見を抱き、マスコミ、民衆が「精神障害者」抹殺の権力犯罪を見破れず、容易に許してしまったこと(全国「精神病」者集団 1979: 11-12)。
 また、『全国「精神病」者集団』の側、は赤堀氏への支援の歩調を共にする島田事件対策協議会や各地の共に闘う会といった健常者たちをも糾弾する。「あなた方は、赤堀さんを今までどのようにしてきたのか。赤堀さんを20年間も知らなかった事をどのように考えるのか。あなた方が赤堀さんを生み出していったし、今も無数の障害者の人々に対して差別しているのではないか」と批判する。ともに連帯する立場ではあったとしても、健常者社会すべてに対する批判であった。そして、その批判を向けられた側は反省し自己を批判する。「赤堀さんとの信頼関係をつくるといっても、今までの20年間の距離はあまりにも遠く、そう簡単に埋まるものではなかったし、赤堀さんの子供の頃、石を投げたり『マー公』『テイノー』と差別したのは、とりもなおさず私たちでもあった」「『赤堀さんと共に闘う』といっても『共に』ということをとらえきれずに過ごす毎日であった」そうして「まず赤堀さんに唯一の交通手段である手紙を出そう、面会をしよう、そういう中で赤堀さんとの信頼関係を作り出そうとした(赤堀闘争全国活動者会議編 1997: 142-143)。」とそのかかわりに健常者としての葛藤を伴ったことがのべられる。

(3)赤堀氏の支援者たち
 1977年、赤堀闘争全国活動者会議(前身は『赤堀裁判全国活動者会議』)『島田事件と赤堀政夫』を出版する。ここに記された精神障害者当事者団体も含んだ運動の様子から、赤堀氏支援の内容をみてみる。
 赤堀氏の無罪を信じ、その疑いを晴らそうと取り組んだ最初の人は兄である赤堀一雄とその妻であったという。兄は赤堀氏の記憶をもとに、事件当時放浪していた先を実際に歩いて突き止めることでアリバイを証明しようとしたのである。その兄の呼びかけで、島田市在住の森源氏(松川事件ほか冤罪告発を行った)、田中金太郎氏、東京の活動家檜山義介氏(帝銀事件、三鷹事件、丸正事件、狭山事件、松川事件など)数々の冤罪事件を告発した)篠原道夫氏らが呼びかけに応え始め、1964年、島田事件対策協議会が結成(森源氏が事務局長、田中金太郎氏が会長)され、1974年には島田事件対策協議会青年婦人部が結成されている。これらの支援者も兄と同様に、赤堀氏が職を求め、事件当日や前後にどのように静岡県島田から東京まで歩いたのかを実際に歩き、当時の時刻表や気象情報などとも照らし合わせながら、赤堀氏の証言内容を確認することでアリバイを証明しようとする。また、死刑の恐怖に時に弱気になり、投げやりにもなる赤堀氏を勇気付けるための文通が行われる。「なによりも『精神病』者集団『0(ゼロ)の会』の人々の文通が赤堀さんにとって励みとなり、『0(ゼロ)の会』の会員、Oさんを『お母さん』と呼び、信頼関係が徐々にではあるが広まっていった。」「各地共に闘う会の仲間にも、日常的な文通、面会のやり取りの中で『妹』『お兄さん』『弟』としての信頼関係が一歩づつ内容のあるものとなってゆくのであった。そうした中で赤堀さんは、無数のアリバイの手紙を私たちによこしてきた(赤堀闘争全国活動者会議編 1977: 143)」

 1976年8月全国障害者解放運動連絡会議が大阪で結成される。ここでは養護学校義務化阻止の闘いとともに、「赤堀さんを生きて奪い返す闘い」が全国統一の課題とされている。「…赤堀さんに対するこの攻撃は『障害者は何をするかわからない』という『精神障害者』差別、すなわち保安処分への攻撃であり、ひいてはすべての障害者をコロニー、精神病院へ隔離収容し、闇から闇へ葬り去らんとするものにほかならない。…赤堀さんへの攻撃は、全『障害者』への攻撃なのだ。」と赤堀氏の死刑執行阻止、無罪奪還を決議する。11月21、22日には全国障害者解放運動連絡会議、全国「精神病」者集団、赤堀闘争全国活動者会議の3者共催で「赤堀闘争第3回全国大行動集会」を静岡で開催する。全国から450人が参加し、132団体27,000人の署名が集まったとされる(赤堀闘争全国活動者会議編 1997: 150)。このように精神障害のみならず障害の種別を越えて、また、労働組合や部落開放同盟の解放運動との連帯もみられるなど、赤堀差別裁判闘争は広がりをみせてゆく。
 また、1976年12月にはアムネスティに代表を派遣し、赤堀氏の救援活動を要請している。アムネスティは、日本の総理大臣あてに赤堀氏の死刑執行をしないよう、法務大臣への抗議の電報をうつこと、在英大使館に抗議に行くなどを約束し実行したという。

(4) 無罪判決と判決要旨への異議
 1989年1月31日、差し戻し裁判の判決公判で無罪の判決が下される。赤堀氏の35年にわたる獄中生活が終わり、死刑判決から一転無罪の判決が下る。その判決要旨として報道された内容をその日の新聞報道から確認しておく。

 自白については「弁護人は、被告人が自白を強制され、さらに、誘導の事実があったことも明白であるから、被告人の自白調書には任意性がないと主張し、被告人も弁護人の主張にそう供述をしている。しかしながら、まず、取り調べにあたった警察官は被告人に自白を強制したことはないと述べている。また被告人は、確定第1審の第2回公判で、自白調書作成の際に暴行を受けたことはないと述べていたのに、確定第1審の第14回公判以降になると、警察官に背を小突かれたり、調書の内の1通はむりやり万年筆を握らされ、身体を押さえられて署名させられたと述べ、再審請求審になって、調書は全部について、腕を押さえられ、万年筆で腕を動かされながら署名させられたと主張するなど、警察官の強制の事実を意図的に膨らませ、誇張しているとしか考えられない。被告人が逮捕されたのは昭和29年5月28日であり、初めて自白したのが同月30日の午後であって、身柄を拘束されてから自白に至るまでの期間が短く、これらの事情を考えると、被告人が本件の取り調べを受けた際違法不当とすべき肉体的心理的強制はもとより、それに準ずるような誘導はなかったと認められる。(『朝日新聞』1989.1.31.夕刊)

 また事件の唯一の物的証拠とされている凶器とされた石と遺体に残った傷との関連については、以下のようにのべられている。

 問題は、本件石で6歳3カ月の被害者の肋骨(ろっこつ)と骨膜に一見してわかる損傷を起こさせることなく、その肋間筋を断裂させることが可能かどうかである。検察官は、ウサギを使用した実験により、人間の肋骨に骨折を生ぜしめないで肋間筋を断裂させることが十分に可能であることが、裏付けられたと主張しているが、このような実験結果が、どの程度まで人体に具現化できるか問題がある。また、検察官のいう石を握る人の手が胸郭全体を陥凹させたとの点は、被害者の左胸部にその痕跡がなく、単なる憶測にとどまるものであるばかりか、石を持つ手がこの役割を果たさないときには、肋骨の骨折が高い蓋然性(がいぜんせい)で発生するのではないかとの疑問が生じる。このように考えると、本件胸部損傷の成傷用器として本件石が適合する可能性が存在するとしても、なお、検察官主張では、肋骨骨折などの損傷が生ずるのではないかとの疑問も捨てきれない。結局本件石で本件胸部損傷を生ぜしめ得るか否かについては、明確には判断できないといわざるを得ない。(『朝日新聞』1989.1.31.夕刊)

 またその石が本当に犯行に使用された実物と認定できるのかという点に関して

 検察官は、第1点として、胸部損傷の成傷用器について、本件石が、犯行に使用された凶器そのものと認められ、本件石に関する被告人の自白は、いわゆる「秘密の暴露」に当たると主張する。しかし、右死体発見現場は大井川河原からそう遠くないところにあり、本件のような石が現場に存在したことは特異なことではないなどから、被告人の自白に基づいて本件石が発見されたとしても、自白の信用性を高め得る「秘密の暴露」があるとはいえない。(『朝日新聞』1989.1.31夕刊)

 とその証拠根拠は無効とされる。
 次に自白時の赤堀氏の精神状態の様子とも関連させた自白の信憑性についてのべられている。

 検察官は、第2点として、被害者の胸部を本件石で強打した直後の被害者の様子について、被告人の自白が、被害者の死体にみられる特異な所見とも合致するなどの臨床症状を示す極めて迫真性に富むものであると主張する。犯行の順序について、被害者の胸部及び陰部の各損傷が死後の受傷とはみられないのではあるが、本件胸部損傷が扼頸(やくけい)前に生じたとの証明はない。被告人の自白は、被害者の死体にみられる特異な所見と整合するという1次ショックの臨床所見とは符合せず、虚偽の疑いが強いといわざるを得ない。検察官は、第3点として、被告人の、留置場係官に述べた「大罪を犯しました」との発言などのほか、犯行当日被告人が被害者を快林寺本堂付近から連れ出すなど多数の目撃者の供述があり、これらは相互に補完し合うことによって、被告人の自白の信用性を確固たるものとしているのであって、被告人が真犯人であることに疑いの余地がないとも主張する。被告人が感情的に不安定であり、自分の主張が通らないと感情的になり、拘禁されるような環境に置かれた場合に心因反応を起こしやすいと診断されている。・・・さらに、右自白はいくつかの確実な事実とも相反し、その変遷が少なくなく、また、被告人が捜査官らに示した犯人であることをうかがわせる言動も、被告人が、心因反応を起こしやすく被暗示性が強いとすると、重大視することはできず、結局、次の項に述べるアリバイに関する事実を考慮しても、被告人の自白の信用性は低いといわざるを得ない…以上の次第で、被告人の自白調書はその信用性に乏しく、被告人の自白調書以外に犯行と被告人を直接結び付けるに足る証拠がなく、本件公訴事実についてその証明がないことに帰着するから、無罪の言い渡しをする。(『朝日新聞』1989.1.31夕刊)

 これに対して、『全国「精神」者集団』をはじめ支援し続けた側の受け止め方は、無罪とされたその判決の内容において新たな怒りを呼び起こした。「精神病」者集団の大野萌子は次のようなコメントを寄せている。

 しかし、今回の判決には大いに不服である。最大の争点であった自白をめぐる判断において、司法は、拷問を切り捨て、その任意性をあいまいにし、自白は警察に迎合しやすい赤堀さんの性格によると問題をすりかえた。これは精神鑑定を活用し、「精神障害者」差別を固定したことである。加えて、その流れの中でアリバイをも切り捨てた。それは、司法が赤堀さんの名誉を傷つけ、共に闘う私たちに挑戦する暴挙と判断する。私達は、これを問題にし全人民に歴史的に問いかける」としており、「拷問と誘導捜査をやめること、障害者差別をやめること、死刑を執行する法律をやめることを軸に、中闘委の維持発展に向けて『障害者』解放へ向けて闘いぬく(大野 1989: 112)」

 判決文からはたしかに、虚偽の自白を強要されたとする赤堀氏の主張を認めておらず、「でっちあげ」という警察の非を追及しない。そして証拠がはっきり断定できないから有罪とする根拠が乏しく、よって無罪判決が下されたといえる。病者の立場からすれば「差別裁判」とした問題の本質はすべて無視された格好になったといえる。

□文献

◆赤堀闘争全国活動者会議編,1977(→1979を使用),『島田事件と赤堀政夫』,たいまつ社.
◆伊佐千尋,1989,『島田事件』潮社.
◆大野萌子,1982,「『精神障害者』解放の課題」全国障害者解放運動連絡協議会編,1982,『障害者解放運動の現在――自立と共生の新たな世界』現代書館,198‐220.
◆――――,1989,「赤堀さん無罪釈放――島田事件35年の闘いが勝利!」『福祉労働』42: 111‐112.
◆白砂 巌 198707** 『雪冤・島田事件――赤堀被告はいかに殺人犯にされたか』,社会評論社,422p. \2730 m
◆鈴木 清子,2003,『父・鈴木信雄――島田事件の弁護士の素顔』,文芸社.
◆鈴木信治,1975,「赤堀裁判と精神鑑定書」『臨床心理学研究』13(10): 30-45.
◆上田久,1979,「『障害者』同胞と無実の死刑囚、赤堀政夫」『福祉労働』2: 113-121.
◆全国「精神病」者集団,1977,「発刊にあたって」『絆』1: 1.
◆――――,1979,『1979・6・10 第4回全国「精神障害者」交流集――赤堀さんを殺して私たちに明日はない――』全国「精神病」者集団.」


作成:桐原 尚之阿部 あかね
UP:20110528 REV:20110608, 20110822, 20120513
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