「その経過をたどってみますと、1974年5月、第1回全国「精神障害者」集会を東京で開催しました。当時は、法制審議会が刑法改「正」案の答申をしようとする時期で、大会では保安処分新設阻止にむけて闘い抜くことが確認されました。第2回大会は1975年京都で、第3回大会は1977年同じく京都でかちとられ、第3回大会では保安処分に対する抗議、弾劾や、赤堀・鈴木闘争についても闘い抜くことが決議されました。第4回大会は1979年、名古屋において権力の植樹祭を契機とした弾圧をはねのけて開催されました。この大会は、多くの患者の体験が発表され、また赤堀など政治闘争の拡大、発展が確認され、精神医療告発の声も相次ぎました。・・・」(吉田[2003:47])◇全国「精神病」者集団 199009 「「脳死」を恐れる「精神病」者」
「☆03 医療者以外の人としてはわずかに吉田おさみの文章の断片に触れたにすぎない。この十月九日、吉田がそこで活動した「全国「精神病」者集団」の活動を引き継いでいる長野英子(山本真理)――自身は多くの文章を書いている人ではあるが――への公開インタビューが予定されている(於:立命館大学)。」◇立岩 真也 2012/07/** 「もらったものについて・9」,『そよ風のように街に出よう』83
「本書ではまったく触れていないが、一九七〇年代に精神障害の本人たちの組織が幾つか作られていく。七四年の精神障害者全国交流会をきっかけに結成された全国「精神病」者集団――例えばこの小さな不定形な集団は、家族会や作業所を肯定的に語り、ときにその役職についたりもする反造反的改革支持者たちによって(仲のわるい相手が同業者やその組織である場合には、批判を返すために、その相手の存在はそれで知られるのだが)まったく一言もふれられることがなく、そうした人たちが書いたものしか読まない人たちにはまったく知られることがない――の機関紙――桐原尚之が現在HPに過去のそれらの情報を入力・掲載している――は各地の小さな集まりの動向を伝えているが、そこに次のような記載が見つかる。」(立岩[2013:118-119])