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「三重赤堀問題を訴える〜赤堀斗争に敵対する三氏に抗議を〜」

三重赤堀さんと共に斗う会(準) 兵頭建樹 19821122

last update:20110530


〈@何故この問題を提起するか〉
1)三氏が赤堀斗争に敵対していること。
2)会計(現金及び会計簿)をもちにげしていること。
3)僕(兵頭以下僕)を脅し病状を悪化させたこと。

〈A三重赤堀問題のいきさつ〉
1)結成にいたる経過〜「三重で赤堀をやれる。」とことばたくみに近づく。
1980年秋、三重県立T病院のS先生より三重県恥労青年部長・小川裕之氏を紹介される。小川氏から「君に会いたがっている人がいる。」と聞かされ、部落解放同盟赤堀支部・鈴木仁氏、山城弘敬氏(同支部書記長)と知りあう。鈴木氏から「三重で赤堀を斗うグループをつくる。」と話がでる。しかし、僕の病状が悪いので「良くなってから考えよう。」と話がつく。また、僕は「三重の事情では赤堀をやるのはむづかしい。」と考えていた。ところが、鈴木・小川両氏から「三重で赤堀をやれる。」と積極的に話があり、僕の病状の悪いまま三重赤堀結成へ進展し、1981年2月15日に第1回学習交流会開催。
2)結成時からもめる。
A「中斗委にははいらぬ。」(小川氏)
小川氏「赤堀さんと共に斗う会という名称では中斗委直轄と思われるので困る。中斗委とは一線を画す。中斗委にははいらぬ。」鈴木氏もその後「中斗委に対しては、Sさん(元愛知赤堀メンバー)と同一見解をもつ。」と発現。その鈴木氏が「中斗委キャラバンが三重にこないとは何事か。三重にくるよう設定せよ。」と全く意図不明の発現。
B1981年2月15日に第1回学習交流会と決定し、赤堀さんにも決意表明しアピールまでもらい、案内状も各方面に発送しているのに、直前の2月8日になって小川氏が「動員がきかないし準備できないから延期せよ。」と突然もちだす。結局2月15日に開催し12名参加。それなら他の日ならもっと多数参加できるのか。実際は、1981年6月28日の第2回学習交流会も10人しか参加せず第1回より2人も減っている。これは一体何を意味しているのか。これを例会との関係でみると小川氏が「第4日曜日しかこれない人がいる。第4日曜が一番集まりやすい。」ち第4日曜に例会開催。事実は第4日曜しかこれないという人もこず人は集まらない。これこそ彼らが本気でやる気があるのか疑問。僕「例会は『病』者集団と重なるから第3日曜にしてほしい。」山城氏「第2日曜の中斗委にも行ってないではないか。」鈴木氏「その日に行かなくても他の日に行って資料だけもらってくればよい。」僕「会議に参加するしないでは相当違う。情報がはいらず三重赤堀にも不利。」要するに彼らは僕を「病」者集団に行かしたくないのである。
3)「赤堀さんに名前を忘れられたからうれしい。」(鈴木氏)と暴言。
僕「赤堀さんに名前をだしてよいか。」確認。山城氏「自分は本名しか使ってないからよい。」三氏の了解をえて名前を手紙に書く。ところが、鈴木氏から「何故名前を書いた。」とおこられる。
その後、名前を書かず。僕「赤堀さんから三者の名前を書いてこなくなった。」鈴木氏「赤堀さんから名前を忘れられたからうれしい。それでいいのだ。これ以上名前を書くな。」これは、何という暴言であろうか。これで、赤堀さんと共に斗うと云えるのか。これこそ鈴木氏の本質が暴露されたと云える。僕「学習交流会で赤堀さんによせ書きを書こう。」鈴木・小川氏「名前がでるからまずい。」三氏は、赤堀さんと文通すると当局にリストアップされるからしないというのである。
鈴木氏「夏休みになったら交通費も安くつくので山城の車でツアーをくんで赤堀さんに面会に行こう。」僕「赤堀さんと面会するには文通が必要だ。」鈴木氏「面会の為の文通はしない。」鈴木氏はその後も「もう少しスケジュールが早くわかっていたらNさんが職場をやめたのでNさんの車でツアーをくんで面会に行けたのに。」と全く意図不明の発現。
4)任務をせず何から何まで僕におしつける三氏。
結成時に三氏と僕が事務局員として任務分担と決める。事務局長?僕。教宣〜山城氏。会計〜鈴木氏。渉外?小川氏。鈴木氏が会計をやると云いながら僕におしつけ。山城氏が機関紙をたとえ半ビラでも発行すると云いながら全く発行せず。会議等で僕が何から何まで準備。僕「任務をしていないではないか。何から何までおしつけておいてよいのか。」鈴木氏「お前がそれだけやれる人だからまかしている。」これも彼らが全くやる気のない事を示している。
5)「兵頭をフォローしている。」(鈴木氏)
鈴木氏「病状が悪くなったらいつでも電話をかけて自分達をよぶぐらいしなければダメだ。Yさん(「身体障害者」)を見習え。」ところが「夜中しか電話をかけてこないとは何事だ。」と全く逆におこられる。鈴木氏は昼間は留守でどこにいるかわからず夜しかいない。病状悪化は昼夜関係ない。
また、事務局会議を午後11時に設定し、午前2時までかかったり「病」者無視の運営。
6)突然党派問題をもちだし赤堀斗争そっちのけで大混乱に。
A独断で党派に抗議とは。
事務局会議に全く参加していなかった山城氏が何故か7月になって参加。しだし突然党派問題をもちだし赤堀斗争そっちのけで大混乱におとしいれる。山城氏「A派三重県委員長から聞いた。兵頭宅にB派がきて強硬にオルグしていったので兵頭の具合が悪くなった。B派は『病者無視のとんでもない党派なので、三重赤堀として抗議すべきなのでSさん(関東赤堀メンバー)を通じてB派に抗議するよう申しいれた。』山城氏は、僕と事実確認せず三重赤堀の確認もとらず、三重赤堀として抗議すると独断で申しいれている。また、この問題が他にもれるとまずいのですぐストップをかける事を確認したが山城氏はその旨S氏に伝えていず無責任である。S氏「電話なのでふせ字で話したので意味が伝わってない。B派に抗議せよとは聞かなかった。」S氏がB派に抗議していたら大問題ではないか。こんな無責任な事が許されるのか。
B「兵頭はB派におそわれる。」(鈴木氏)と脅し病状を悪化させる。
鈴木氏「B派は議長が地下にもぐっており何をする党派かわからない。この問題がB派の耳にはいったらお前はおそわれるぞ。」僕は、「病」者で被害妄想をもつかもしれないという事をわかっていながら脅す。この発言で大きな精神的打撃をうけ病状悪化。鈴木氏「自分達が云わなければB派の耳にはいらない。」山城氏が独断でS氏に「B派に抗議せよ。」と申しいれているではないか。そのうえ山城氏が「自分はA派はどんな党派かよく知っている。この問題はA派の上層部まではいっている。A派はB派はとんでもない党派だと宣伝にのりだす。何をやるかわからない。やると断言する。」と更に脅す。彼らこそ「病」者を脅し病状を悪化させるとんでもない人達である。
7)僕はA派にひきまわされているとでも云うのか。
A 山城氏「7、5三里塚集会(1981年)でアピールするとは何事か。A派に利用されている。この集会で兵頭の具合が悪くなった。」僕「利用すると云うのなら赤堀の宣伝になりこちらが利用したと云える。アピールは僕の個人的立場で云ったもので、三重赤堀とは関係なくそう断って発言している。」山城氏の「これで具合が悪くなった。」と云うのも事実無根である。山城氏「A派は三重で赤堀も『障害者』問題もやっていない。アピールをせずその点を何故追及しないのだ。」集会は、三重県実行委員会のものでA派としてではない。僕は運動の関係で会合的にA派の知人がいるが、三重県のA派を知らなかったのでそのような事も知らない。そうだとしたら赤堀を知らしめた意義は大きいではないか。
B A派が何故僕の夏休み(1981年)のスケジュールを設定できるのか。
山城氏「全障連大会に行かずA派の所へ行くとは何事か。」スケジュールの都合上全障連大会参加は断念せざるをえず。山城氏が「兵頭は夏休みにA派の所へ行く。A派が兵頭をひきまわし、夏休みのスケジュールも設定したろう。」とA派を追及。1981年の夏休みに友人知人の神奈川赤堀のSさん、東京の「病」者のTさんらの所に交流に行く事になる。そして、神奈川の「病」者のOさん、東京の「病」者のSさん、全障連のTさん、関東赤堀のSさん、地の底のうたの会のKさんらと会う約束。これらの人々と交流する事が何故A派の所へ行く事になるのか。三氏がX派なら話は別だろうが、もしかりにA派だったとして何の問題があるのか。A派であろうとB派であろうと共に赤堀を斗う関係ではないか。また、A派の所へ行こうとB派の所へ行こうと自由ではないか。僕は、A派に利用されひきまわされA派のロボットになっているとでも云うのか。これではどこにも交流に行けない事になる。その山城氏がA派三重県委員長に「三重赤堀をやるからテコいれしてほしい。」とたのみ「三重ではやれない。」と断わられているのはどういう事か。山城氏の方こそA派にたよろうとしたではないか。結成時に小川氏が「三重には党派はいないから党派ははいってこないしひきまわしもない。関東のような心配はない。」と発言している。その彼らが党派問題で混乱させたのである。また彼らの関係でC派までいれている。
8)何故彼らはことさらA派、A派とさわぐのか。
鈴木氏は会えばA派非難しか云わない。鈴木氏「OさんはA派と軌を一にしている。5、24(1981年)もA派は赤堀をやる気がなく三里塚集会を設定した。OさんはA派におしきられ頭があがらず何も云えない。」鈴木氏は「5、24が三里塚と重なったが三里塚へ行きたい奴は勝手に行けばよい。自分は赤堀をやる。」と云いながら、5、24に赤堀をやらず三里塚に行っている。鈴木氏「神奈川赤堀はA派の分派がとった。それをセトウチ派と云う。」「セトウチ派」なるものはX派の云っている事ではないか。赤堀斗争が危機を迎えているのに彼らはそれをそっちのけにして、党派うんぬんのみしか云わず党派問題で大混乱させ予定していた第3回学習交流会も開けなかった程で悪質きわまりない。

〈B決裂〉
1)1981年8月25日事務局会議で三氏から党派うんぬんで重圧的威圧的雰囲気の中で厳しく非難攻撃追及される。深夜まで攻撃され大きな精神的打撃をうけ病状悪化。三氏こそ党派うんぬんを云いながら「病」者無視のとんでもない人達である。
2)この問題をOさんに訴え三氏への要請文を書いてもらう。1981年8月29日事務局会議で要請文を読みあげ手渡す。すると山城氏が「ウソを云うな。話にならない。退場する。兵頭は三重赤堀から脱落したとみる。自分は三重赤堀をやる。お前はそれでは運動はやっていけない。どこからも追放される。A派の云う事は信用するのか。A派がこわいのか。」と云い残し、会議途中に話を聞こうとせず三氏一方的に退場。彼らは、僕を具合が悪くなるほどつるしあげておきながら、自分達が追及されると一方的に退場して逃げだしてしまうありさまである。また、山城氏は「三重赤堀をやる。」と云いながら何もしていない。

〈C鈴木氏、三重赤堀をつぶそうと図る〉
1981年10月17日に鈴木氏が三重赤堀メンバーY氏に電話し、例会に参加できないよう圧力妨害し不安動揺を与える。この為Y氏は「このままでは三重赤堀には行かない。」これで、鈴木氏の本質は更に一層明白になり鈴木氏は三重赤堀の敵対者と云える。鈴木氏は明らかに三重赤堀の分断をねらいつぶそうと図ったものである。

〈D除名〉
1981年11月23日例会において赤堀斗争に敵対する三氏を永久除名追放処分に決定。従って、11月23日付で鈴木氏に会計(現金及び会計簿)を12月7日までに返還するよう求める。しかし、不当にも返還されず、その為、12月17日まで・12月24日まで・1982年1月3日までと期限を延長したが返事さえなく完全に無視される。そこで、1982年6月10日付内容証明郵便で6月30日までに返還するよう要求したがそれでも無視。返事さえなし。返還しないならしないでその立場ぐらい明らかにしたらどうなのか。

〈Eどう話しあうのか〉
1)鈴木氏と偶然会って会計返還要求をするといつも「話しあう事になっている。」と云い残し逃亡するのみ。鈴木氏は「話しあう、話しあう。」と云いながら、いつどうやって話しあうのか方針を示さず1年も逃亡。「話しあう。」を逃げ口上に使うのみ。
2)1982年7月10日、Oさんが鈴木氏に手紙。「会計と話しあいは別問題。」それでもいぜん彼らは完全無視を続ける。

〈F三重赤堀はつぶれた?〉
鈴木・山城両氏と親しいS氏「三重赤堀なんてまだあるのか。お前は気にいらないものは除名してつぶしているではないか。今度は事務局へでていってつぶす気か。本気で赤堀斗争への支援共斗を思っているのか。」これは、彼らの逆宣伝と思われる。

〈Gこのような三氏に抗議を〉
1)以上のように三氏は、赤堀斗争の基本である文通さえしようとせず暴言まではいて、反赤堀てき行動及び言動をとり続け赤堀斗争に敵対している。そして、会計も返還せず完全無視を続けている。彼らには赤堀さんと共に斗うという視点が全くなく「病」者をつるしあげ脅し病状を悪化させるとんでもない人達で悪質きわまりない。ことばたくみに僕に近づき三重赤堀結成を提起してきたのは彼ら三氏である。その彼らが赤堀斗争を混乱させたのである。彼らが僕に近づいてきたのは。
赤堀斗争を混乱におとしいれる為の陰謀だったというのは考えすぎだろうか。
2)このような三氏に抗議するよう訴える。
3)三氏の連絡先
○鈴木仁氏・山城弘敬氏 (住所は削除)
○小川裕之氏 (住所は削除)
以上
1982年11月22日
三重赤堀さんと共に斗う会(準)
兵頭建樹

*作成:桐原 尚之
UP:2010528 REV:
全文掲載 ◇赤堀政夫 ◇島田事件
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