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赤堀 政夫
あかぼり・まさお


 *島田事件の頁作りました。この頁との調整は今後行っていきます。

■文献→島田事件

◆2014/03/29 「重かった扉〜袴田事件 再審決定・釈放(下) 死の恐怖46年間 鑑定の進歩、開いた道」
 産経新聞社 2014.3.28 20:43
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140328/trl14032820450010-n1.htm
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140329-00000109-san-soci@

 「◇死の恐怖46年間「心たとえようもなく冷たく」
 「死刑執行という未知のものに対するはてしない恐怖が、私の心をたとえようもなく冷たくする時がある」
 元プロボクサーの袴田巌(はかまだ・いわお)さん(78)が昭和48年、獄中から兄に宛てた手紙には死刑に対する言いようのない恐怖がつづられていた。
 「死刑囚にならないと分からない恐怖がある」。こう語るのは、昭和29年の島田事件の死刑囚として35年間にわたり独房で過ごし、再審で無罪を勝ち取った赤堀政夫さん(84)だ。
 収監されていた仙台市の宮城刑務所仙台拘置支所。ある朝、約10人の刑務官の足音が自分の独房の前で止まった。絞首台への導き。「どうして自分が…」。腰が砕け頭が真っ白になった。扉が開き、両腕を引っ張られ、房から出されようとしたときだった。別の刑務官が鋭い声で「違う、隣だ」。隣の房の死刑囚が連れて行かれた。
 「殺されるくらいなら自分から死のう」と何度も思った。でも、あきらめなかった。面会や手紙で「あなたはやっていない」と言い続けてくれた支援者の顔を思い出したからだ。「巌君にとっても支援者の存在は大きかったはず」。赤堀さんは袴田さんが1審で死刑判決を受けてからの46年間を察した。
 ◇はけないズボン
 事件が起きた41年6月30日未明は、ビートルズが初来日した翌日だった。世の中が沸く中、袴田さんの苦難は始まった。
 1審判決後、希望の光が差したことがあった。控訴審の東京高裁法廷で46年、犯人のものとされる「5点の衣類」のうちズボンの装着実験が実施され、袴田さんには小さく、はけないことが判明したのだ。だが、控訴審判決は「ズボンはみそに漬けられて縮んだ」と認定、1審判決は覆らなかった。
 55年に死刑判決が確定すると、弁護団が結成され、袴田さんと二人三脚の闘いが始まる。逃走経路の裏木戸の出入りは不可能、衣類を発見場所のみそタンクに隠せない、刃体と傷が不一致…。第1次再審請求審で独自に鑑定や実験を重ね、次々と手を打っていった。
 1次請求棄却に対する即時抗告審では、衣類に付着した血液のDNA型鑑定を求めた。平成12年に出た結果は「鑑定不能」。村崎修弁護士(61)は「最高の証拠になると期待していただけに落胆した」と振り返る。
 2次請求審では技術の進歩に期待し、再度の鑑定実施を要請。24年4月、袴田さんのものと「不一致」の結果が出た。村崎弁護士は「再審の道が開かれたと思った。10年越しの鑑定結果にとても勇気づけられた」と語った。
 ◇弁護側の武器に
 再審開始の重要な根拠となったのが、この鑑定結果だった。ここ数年で飛躍的に向上した鑑定精度は時に「真犯人」の痕跡を浮かび上がらせてきた。弁護側にとって強力な武器となる可能性を持つ。
 平成元年にDNA型鑑定が導入された当時、同型の人の割合は「200人に1人」と精度が低かった。15年に各都道府県警が導入したSTR型検査法はDNA型の配列を複数箇所で比較するもので、「1100万人に1人」に。現在主流とされる改良版のSTR型は「4兆7千億人に1人」まで上がった。
 鑑定結果が司法手続きの中で重要な位置を占めつつあるのは確かだ。ただ、今回は袴田さんと一致するDNA型が検出されなかったのに対し、検察側は「試料の劣化」などを理由に鑑定方法の信用性自体を争った。
 東京電力女性社員殺害事件の再審請求審を担当した元東京高裁部総括判事の門野博法政大学法科大学院教授(69)は「証拠物の保管方法や、どのような鑑定方法を選ぶかなど、多くの課題があることを明らかにした」とみる。
 「国家機関が無実の個人を陥れ、45年以上にわたり身体を拘束し続けたことになり、刑事司法の理念からは到底耐え難い」。証拠捏造(ねつぞう)の疑いにまで踏み込んだ今回の決定は、自らを含めた関係者を戒めるような言葉で締めくくられている。
 谷垣禎一法相(69)は28日の会見で「相当な環境の激変になると思う。うまく乗り越えていただきたい」と袴田さんをおもんぱかる発言をしたが、検察側は期限の31日までに即時抗告する方針だ。」

◆2014/03/27 「重かった扉〜袴田事件 再審決定・釈放(上) 背中さすり「お帰り」 表情緩め「ありがとう」」
 産経新聞社 2014.3.27 22:27
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140327/trl14032722330013-n1.htm

 写真:死刑囚も収容される、東京拘置所の独居房=東京・小菅
 「27日午後5時20分すぎ、東京・小菅の東京拘置所。建物の入り口が開き、釈放された袴田巌(はかまだ・いわお)元被告(78)が、姉の秀子さん(81)に付き添われて姿を現した。
 半世紀近く前の写真に比べ、ふっくらとした顔つき。黄色の半袖シャツに黒のズボン姿で、紺色の布靴を履いていた。自前の靴は40年前のもので、ぼろぼろなため拘置所から借りたという。右前方に一瞬視線を投げかけた後、ゆっくりだが、確かな足取りで迎えの車に乗り込んだ。
 これに先立つ午後4時すぎから約20分間、秀子さんは平成22年8月から約3年半ぶりに弟と面会した。空白期間は、袴田さんが面会を拒否していたため生じていた。
 アクリル板越しに向き合った。決定文を見せ「再審が開始された。釈放されるかもしれない」と何度も伝えた。しかし、心神耗弱状態で糖尿病が進んでいるとされる袴田さんは「そんなの嘘だ」「袴田事件はもう終わった」などと独り言のようにつぶやき、信用していない様子だった。
 釈放が決まり、袴田さんが1階応接室に現れると、秀子さんは駆け寄り、肩や背中をさすりながら「お帰り」と声をかけた。だが、特別な反応はなかった。
 昨年、全面改築工事を終えた東京拘置所。弁護団によると、袴田さんは今月3日に医療棟に移るまで、ある建物の10階の独居房に収監されていた。トイレと洗面台が付いた約4畳の空間。差し入れを受け取らないため、持ち物はあまりない。一日中、入り口と部屋の奥を不自由な膝を押して歩いていた。会話も必要最小限。もの静かだった。
 ようやく外で会うことができた姉と弟。この日は都内のホテルに宿泊し、体調が良ければ28日にも静岡に帰る。拘置所から車で移動中、2人は車酔いし、丸の内の駐車場で休憩した。外を歩く袴田さんに弁護団の一人が「釈放されたんですよ。分かりますか」と尋ねると、初めて表情が緩んだ。そして、こう言った。
 「ありがとう」
◇拘禁反応「姉いない」
 「みなさま、本当にありがとうございます」。再審開始決定を受け、静岡地裁前で秀子さんは声を震わせた。30年以上にわたり毎月1回、東京拘置所に通い、弟を支え続けてきた姉は感極まった。
 浜松市に住む会社員一家のもとに育った。秀子さんと袴田さんはきょうだいの中でも年が近く、幼い頃から仲が良かった。「おとなしい、口数の少ない子。いつも一緒だった。スポーツが得意でね」。中学校卒業後に弟がボクシングを始めたときも「好きでやっていることだから応援しよう」と決めた。
 やがてプロボクサーを引退した袴田さんは、昭和36年にみそ製造会社に就職。41年6月に事件が起きる。「しばらくは息を潜めて暮らしていました。何も言うまい、黙っていようと思っていた」
 面会に通ううち、袴田さんに拘禁反応が出始めた。「痛みを出す電気で攻撃されている」「ごはんに毒が盛られている」…。認知症も進行して「姉なんていない」と話すようになり、面会を拒否した。
 秀子さんは「長い拘置所生活で、まともでいるという方が無理。『拘禁反応は出てくれば治る』とみなさんが言ってくださるので、それを信じたい」と語り、今後も弟を支える決意を示した。
◇菅家さん「よかった」
 再審で無罪を勝ち取った人たちも喜びの声を上げた。
 「良かった。(再審開始決定に導いた)DNA型鑑定といえば、自分と同じ。自分のことのようにうれしい」。栃木県足利市で平成2年に女児が殺害された「足利事件」の再審で無罪が確定した菅(すが)家(や)利和さん(67)は話す。
 静岡県島田市で昭和29年に女児が殺害された「島田事件」の再審で無罪が確定した赤堀政夫さん(84)は「検察官には絶対に即時抗告をしないように言いたい。裁判所は一日も早く袴田君の再審裁判を開いて、無罪判決を出してほしい」と語った。
 「最有力証拠の5点の衣類は捏(ねつ)造(ぞう)された疑い」「衣類の色合いや血痕の赤みは不自然」…。静岡地裁の決定文には当時の捜査を痛烈に批判する言葉が並ぶ。静岡県警の佐藤真哉刑事企画課長は「県警としてはコメントする立場にない。今後の裁判の結果は関心を持って見守っていきたい」と述べるにとどまった。
 袴田さんの今後は未定だ。「(社会に)順応しながら、ゆっくり過ごしてもらいたい」と弁護団は話しており、当面は人前に出ないという。

 逮捕から48年。死刑判決確定から34年を経て、ついに司法の重い扉が開いた。27日の再審開始決定を受け、釈放された袴田巌さん。関係者の反応を追った。」

◆2014/03/27 「「自分のことよりうれしい」=再審無罪の元受刑者ら−袴田事件」
 時事通信 2014/03/27
 http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014032700317

 写真:再審開始決定を受け、記者会見で笑顔を見せる袴田死刑囚の姉秀子さん(左)と西嶋勝彦弁護団長=27日午前、静岡市葵区
 「袴田巌死刑囚(78)の再審開始決定が出たことを受け、過去に再審無罪を勝ち取った元受刑者は「自分のことよりうれしい」と喜びの声を上げた。
 1967年に大工の男性が殺害された布川事件で無期懲役が確定した後、再審無罪となった桜井昌司さん(67)は、静岡地裁に駆け付けて決定を待った。「ほっとして涙が出た。自分のときは緊張していなかったが、今回はドキドキした」と高揚した様子で語り、袴田死刑囚の姉秀子さんと握手した。
 布川事件で同様に無罪が確定した杉山卓男さん(67)も地裁前で決定を見守り、「検察は即時抗告するだろう。まだ(再審開始が)確定したわけではないが、自身と重なり2倍うれしい」と語った。
 54年に女児が殺害された島田事件で死刑確定後、無罪となった赤堀政夫さん(84)は「本当に良かった。しかし時間がかかりすぎた。これでようやく、警察、検察、これまでの裁判が間違っていることがはっきりした」とのコメントを寄せた。
 足利事件で再審無罪となった菅家利和さん(67)は取材に、「涙が出た。おめでとうと言いたい。人ごとじゃなくて、自分のことのようにうれしかった」と述べた。東京電力女性社員殺害事件で再審無罪が確定したゴビンダ・プラサド・マイナリさん(47)も、「真実はこのように必ず勝つのです。袴田さんをすぐに自由にしてあげてください」と支援者を通じてコメントした。(2014/03/27-13:29)」

◆2014/03/27 「「よかったが時間かかり過ぎだ」島田事件・赤堀政夫さん」
 産経新聞社 2014.3.27 14:11
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140327/trl14032714120007-n1.htm

 「島田事件の赤堀政夫さん「本当によかったが時間がかかり過ぎだ。ようやく警察、検察、そしてこれまでの裁判が間違っている事がはっきりした。無実の人を死刑にするなど、あってはならないこと。検察官には絶対に即時抗告をしないように言いたい。裁判所は1日も早く袴田君の再審裁判を開いて、無罪判決を出してほしい」」

■言及

◆立岩 真也 2012/07/** 「もらったものについて・9」『そよ風のように街に出よう』83

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「ロボトミーを糾弾し、Aさんを支援する会(A支会)」は分会の役員が呼びかけ人になって七五年に結成される。証拠保存の申し立てが同年十一月に受理され、証拠の差し押さえにかかる。七六年二月・三月に自主交渉がなされるが、四月、病院側は今後交渉に応じない、「つまるところ、本件は損害賠償の請求に関する法律上の問題でありますから、右賠償の請求については、当院としてすべて法廷の場で意思表明をしたいと考えておりますので念のため先め申し添えます」と回答。五月、Aと(次に記す弘前病院事件の)Sが病院前でハンスト、交渉を要求するが、実現しなかった(この時に支援グループの一人が逮捕される)。七七年五月、国、横手興生病院、杉田孝(院長)、小林久男(執刀医)を東京地裁に提訴。八〇年に秋田で(次に記すS、S支会の参加もした)集会があったこと、提訴後五年を経た八二年に至っても、被告側が時効を申し立てているため、準備書面が取り交わされている段階に留まっていること、そのことまでしかわからず(佐藤[1982(3)])、後に和解で終わったのではあるが、その時期・経緯も、今のところ、わからない。  「全日本港湾労働組合横浜支部京阪港湾分会(全港湾横浜分会)」がAの支援に当たったことは記した。その組合で働いていた伊藤彰信(七五年から全港湾中央本部書記局員)は「ロボトミー糾弾全国共闘会議(ロ全共)」の立ち上げに関わり、その議長になる。その機関誌『ロボトミー徹底糾弾』の何号かを桐原尚之が入手し、入手できた分については、そのガリ版刷り(をさらにコピーしたもの)の、時にひどく字の読み取りにくい全文を入力している。これまで記さなかった分だけ補足しておく。  七八年に準備委員会、委員長は佐久間茂夫(A支会)★21、七九年九月三〇日正式結成。議長は先述した伊藤。機関誌『ロボトミー徹底糾弾』一号(七九年一〇月)によれば、結成大会に集まったのは百名近く。名古屋事件のM、横手事件のA(準備委員会の発起人でもあった)、弘前事件のSも参加、「決意表明」を行なった。午前には吉田哲雄(→◆頁)による講演があった。赤堀 政夫の――静岡県で少女が殺された島田事件で殺人罪で死刑宣告を受けた赤堀政夫は冤罪を訴え、氏を奪還しようとする闘争があった(事件があったのは一九五四年、六〇年に死刑確定、八六年再審開始、差し戻し審で無罪判決が出て獄から出るのは八九年、よって書面での――のアピール(右の機関誌に全文掲載)、「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」からは八木下浩一がアピールを行なったという。翌一〇月一日には厚生省に要求書を提出、その要求は「一、精神外科を公認してきたことを反省し、謝罪すること。二、治療指針から精神外科を削除すること。三、精神外科被術者の恒久的な医療・生活保障のための処置を講ずること。四、以上の点について、我々と継続的に交渉をおこなうこと。」厚生省では公衆衛生局精神衛生課総務係長が対応、直接要求書を渡し、六日までに返事を得られるとの確認をとったが、結局門前払いをくらうことになる。」

★03 二〇一一年十月に長野英子(山本真理)(→◆頁)に公開インタビューをした。そして同じ月の一週間前、二〇一一年十月一日、安原荘一桐原尚之と私は偶然のようなことから同じく「全国「精神病」者集団」の活動に関わってきた大野萌子に話をうかがうことができた。赤堀政夫氏も同席されていた(これらの組織が最重要課題の一つとしたのが島田事件で死刑判決を受けた赤堀氏の奪還だった)。  大野は名古屋市立大学附属病院に入院していた一九七二年に入院者からの要求を掲げ保護室を占拠した(大野[2006])。自分のいびきを気にする同室者を気遣い、自ら志願して入った保護室をそのまま占拠し、入院者・仲間のための「条件闘争」を行なったのだという。そしてそんなところをその病院にいた造反派の医師たちに見込まれて、活動に引き入れられていったのだという。精神障害の本人たちと造反派の医療者たちの遭遇と、軋轢・離反その他、現在文字としてはほぼどこにも残っていない歴史を読んでもらえるようにしようと考えている。まず大野への聞き取りの記録(大野[2013])他が桐原・白田・長谷川編[2013]に収録された。  本人による本はいろいろと出てはおり、それを集めて分析しようという試みもないではない(松原[2013])が、社会運動に関わる部分、とくにその過去がわかるものは多くない。「友の会」の本が二冊(友の会編[1974][1981])、吉田おさみの本は第5章で紹介する。他に例えば宇都宮病院に入院していた安井[1986]。聞き取りが可能ならそれを行なう必要があり、そうした記録も使い、私には記すことのできない病者側の生活・運動が記述・分析されるべきである。桐原[2013a][2013b][2013c]等、そろそろと始められている。」

「精神医療に関して、知識の蓄積もなにもない中、いくらか過去を辿って書いてきた。
 近くで起こっていたことでもあるために、いくらか(一時期の終わり頃、一九八〇年頃から数年)をすこし傍から見ていた私にとっては、(東大医学部での)「赤レンガ(病棟)」の自主管理(別の人たちによれば占拠)がなされ、やがてそれが終わったこと、そこも一つの拠点として、そして大学の自治会といった場でも、反保安処分闘争があったこと、赤堀闘争(→一七四頁)があったこと、臺の「人体実験」が告発されていたこと、それらについての断片しか記憶にない。そしてそうしたできごとにここで「造反派」と呼んでいる医療者たち(の一部)も関わっていたのだが、本書に出てくるほとんどのすべての人を私は知らず、その時「レンガ」にいたわりあい若い医師が学内の屋外の小さな集会でなにか報告するのを聞いたことがあった、ような記憶しかない。その頃かその後か、その人たちの実際の医療は、そうなにか変わったことがなされたというわけではない、しょせん医者は医者、病院は病院、そんな声も聞いてきた。そして[…]」(「あとがき」冒頭)


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