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佐藤静氏・江頭英至氏インタビュー 1

2022/10/13 聞き手:立岩 真也

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◇佐藤 静・江頭 英至 i2022 インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町

金井 康治・金井闘争  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/:【rmk18-1】20221013佐藤静・江頭英至_126分

 ※2つに分けたインタビュー記録の1です。2は
◇佐藤 静・江頭 英至 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町 (本頁)


佐藤:で、彼らは〔東京教育大学付属高等学校〕大塚の新聞会とかでつながりがずっとあったんですね。合原〔亮一〕さんは私の2こ上かな。

立岩:そうですよね、けっこう…。合原も彼ら、入ってたというか、見田宗介さんっていう人がこないだ亡くなられて、12月に偲ぶ会みたいなのがあるんですよ、それの関係の連絡で、つい2日前も、合原から来るか来ないか問い合わせメールあって。行かないつもりだったけど、関係者へのインタビューのつもりで行くことにしました☆。
☆ その時の合原氏へのインタビュー記録が以下
◇合原 亮一 i2022 インタビュー 2022/12/11 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町・学士会館

佐藤:合原さんはときどき。だからそのころから緩やかなつながりが今でもあって、共通の知り合いが何かあったりすると会ってますよね。合原さんちって鏡がないらしくて、すっごい久しぶりに、今から20年前ぐらいに久しぶりにみんなで集まった時に「うわー、合原さん髪の毛白い」って言ったら「あー、白いんだ? うちに鏡がないもんで」って言ってるの。

立岩:そういう不思議な人ではありますね。佐藤さんは59年生まれですか?

佐藤:そうです。59年生まれです。

立岩:ぼくはこのところいろいろインタビューしてて、けっこう歳書かなきゃいけないと、いろんなことになって。学年とかが3月、4月で変わったりするじゃないですか? そんなんでけっこうしつこく年月日まで聞いてるんですけど。

佐藤:59年の9月生まれです。伊勢湾台風の時に生まれてたいへんだったって母親が言ってました。

立岩:もともと東京ですか?

佐藤:そうです。

立岩:ぼくは田舎の出なので東京進学事情とか高校事情とかほとんど知らないんですけど。高校の正式名称は何ていうんでしたっけ?

佐藤:合原さんたちは東京教育大学付属高等学校っていうところに行ってたんですよ。私は違う学校ですけど。

立岩:学校は違うけど高校の時から知ってたってことか。

佐藤:そうそう、知り合いだった。そういうつながりがずっとあるなかでいたんですよ。それで金井闘争に関わった時に学生が…金井さんのいちばん最初って、始めた人たちって学校の先生ばっかりだったんですよ。

立岩;そうなんですか?

佐藤:「足立教育と福祉を考える会」っていう団体があって、そこって「がっこの会」から派生しているみたいな感じの会だったと思うんですけどね。系譜的にいったら。で、そこに来てるのは、康ちゃんが小さい時から知ってるような現役の聾学校の先生とか盲学校の先生とか、地域で運動してた、それこそがっこの会に通ってた、当時KDD(ケーディーディー)の社員だった人とか。ほんとにその人、足立生まれの足立育ちの人で。あとはみんな足立の界隈に住んで、足立の小学校の盲学校だとか聾学校の先生をしてた人たちが主なメンバーだったんですよ。

立岩:そのがっこの会っていうのはなんか最近活動停止みたいなかんじ。

佐藤:もうほら、渡部淳さんが亡くなったし。だいたい、がっこの会から派生した人たちっていうのはずっと就学運動とかやってたけど、結局どの子も、普通学校へ全国連絡会とかがやっぱりがんばっていろいろやるなかでみんな年取ってきたし。私たちよりだって10歳以上うえの人たちですからね。だから今もう、76とか?

立岩:たぶんそういうのでちょっと小さくしてて、なかなか活動継続するのは難しくなったみたいで。2年ぐらい前に、段ボール二箱分ぐらいかな、資料いただいてるので、ちょっとそれも整理しなきゃなと思ってんですけど。
 がっこの会ってそうか、教師が多いっていうイメージはないんですけど。

佐藤:足立の人たちが、教員がすごい多かったんですよ。たまたまそうなんだけど。それで、月に一回「遊びの会」みたいなのやってたりして、そのなかで金井さんが、何回も言ってるけど、その下の目黒区議やってるひろしが「ぼくもお兄ちゃんと一緒のバスに乗って学校行くんだよね? ママ」って言ったのがきっかけで、おかしいんじゃないかっていって、やっぱり地域の学校に行かせなくちゃっていうとこから始まったんですけど、当初としては学校の先生とかが、要するに都教組のなかでも障害児分会のなかでも「反代々木」みたいな人たちがやってた、中心になってたっていうところだと思うんですけどね。だから、八王子養護学校の先生たちとつながりがあったりするような人たちが中心的だったのかなと思うんですけど。
 そんなんで、「学校行かれないなら自主登校みたいに勝手に行き始めたらそのうち入れてくれるんじゃないの?」ぐらいの軽い気持ちで始めたのが康ちゃんの自主登校の運動だったと思うんですよね。[00:06:26]

立岩:教祖のなかの反代々木というか、主流じゃない人たちっていうか。

佐藤:っていうのが人の集まりとしてはあったけど、最初は私、まったくそういう政治的なものじゃなくて、「康ちゃん行きたいって言うからやったらいいんじゃない?」ぐらいの感じで。そんなに深くは考えてなかったと思いますよ、あんなに大きな運動になるとか。反差別だとかそういうことではなくて、「本人がそう言ってるからちょっと行ってみようか」ぐらいの感じだったんじゃないかと思いますね。

立岩:それがなんか大きくなってくっていうか、知られていくっていうか。そういうのってどういう経過をたどっていったんですかね?

佐藤:やっぱりそれは、区役所が非常識だったってことじゃない? ちょっと今日持ってきてないけど、要するに交渉する相手は教育委員会じゃないですか、ときどき教育委員会に交渉しに行ってたんだけどぜんぜんだめで、そうこうするうちに足立のなかのいろいろ活動している人たちも。自主登校って毎日やるから、やるためには人が必要なんですよ。最初はその地元の人だけで何人かで回したり、お母さんだけだったんだけど、だんだんうまくいかなく、人が足りなくなってって。で、そうこうするうちにむこうがなんかなかなか中に入(い)れなくなったりとかして、学校の中に。トイレも貸さなくなってきたりとかしてるなかで、「トイレ貸してくださいよ」言ったら「いいですよ、トイレぐらい」って貸してくれてたのが借りれなくなって。そのうち何人かが「強行しろ」ってことになって逮捕者が出たんですよ。それがきっかけでやっぱり大きくなったのかな、運動としてはね。
 でもまさか逮捕されたほうも、すぐ出られるだろうと思ってたのにまさか起訴なんかされちゃって。一人が失職してるんですよ、公務員だったんで、足立の。最高裁まで争って。一人はミヨシさんっていうがっこの会の系列の人で、「手をつなぐ親の会」っていう障害者団体の事務局をやってた人なんですよ。その二人が逮捕されたんで。その手をつなぐのほうは早く出てきたんですけど、やっぱりだいぶ。その手をつなぐのほうも親からの嘆願書みたいのが出て、「ミヨシ先生がそんな人ではありません」みたいなのが出てきて。「私たちのことをいちばんに考えてくれる先生です」みたいなのも出たりして。で、なんかそうこうするうちに逮捕者が出たってこととか、それをやっぱりマスコミが取材したり、どうしてこんな簡単なことを叶えられないのっていうなかで養護学校義務化の話が出てきて、それでやっぱりその養護学校義務化の話と大いに関係がある話だっていうことになってきて。
 それで、「足立区に交渉に行こう」って言ってたらほんとに足立区がバリ封しちゃって。そんなことされるんだったらもうみんながっていって。あとやっぱり、たまたま足立に全障連の、その時関東ブロックの副代表だったかな、矢内健二さんが住んでたりとか、そういう地の利っていうかがあったりして、矢内さんが関わったりとか、そういうなかでだんだん少しずつ、「学校の先生たちが応援してる」みたいなことろから障害当事者の人が応援するようになって。とかっていう広がりがやっぱりあったと思うんですよ。
 で、冬になると「こんどの春こそ入れてください」ってのを何度かやってくわけですけど、だんだんやっぱり運動の規模が大きくなってった。そこに解放同盟が入ったり、それから自治労も「同じ労働者としてそういう住民の要求に対してそういう向き合い方をするのか。おかしいじゃないか」ってこととか。っていうのでいろんなかたちで運動が広がってった、大きくなってったっていうのがありますよね。
大きくなればなるほどほかの地域の人はするっと入(はい)れたりするのに、金井くんだけは入(はい)れないままどんどん運動だけが大きくなっていくような感じでしたよね。

江藤:そこらへんがよくわからん。私は80年からだから。

立岩:それで金井闘争自体の展開っていうかな、何年に何やってっていう。ちょっと私も復習してないんで頭入ってないんですけど、それは本とかもいろいろ出てるんでそこそこわかると思うんですよ。で、今回ちょっと、昨日、今日とちょっと古い人たちに、今日もさっきまで…今日の午後は最首悟さんに話聞いて☆。彼の話も、「養護学校普通学校へ」の全国代表みたいなことをやってたじゃないですか、その話もあるんだけどそれはちょっと置いといて、ほかにその大学闘争というか、学生たちと障害に関わる社会運動との関わり方つっていうか、そこらあたりのことを、ちょっと、そのへんをうかがえればなっていうことがあるんですよ。たとえば佐藤さんだと、大学に入るっていうのが78とかですか?
☆最首 悟 i2022 インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅

佐藤:そうですね、78年の4月入学ですよね。

立岩:ぼくは79年の4月なんですよ。78、79とか、80…。

江藤:私は生まれは同じですけど、一浪したんで80年に入学。

立岩:7、8、9、10とか、そういうところで。
 私は実は〔高橋〕 秀年(しゅうねん)とかも知ってたし、やってるってことは見聞きはしてたんだけど、金井闘争のほうには現地に参加とかってほぼないんですよ。同時期に国立に富士学園っていうのがあって、その富士学園にちょっと入ってたりはしたんですけど☆。だから直接にその金井闘争の雰囲気っていうかな、学生たちがどんな感じでっていう、現場を見聞きした人ではないので、そのへんのこう…。たとえばね、高校生なら高校生、大学生なら大学生っていうのがどういうきっかけであったり、そのことを知って、で、どういう人たちと関わるようになったかっていうあたりを、まず一つそういうことはお聞きできればなと思ってるんです。
☆立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36,

佐藤:私は78年の4月に大学に入って、大学は和光大学なんですけど、けっこう窮屈な中高からああいうゆるっとしたとこに入って「人間何してもいいんだ」みたいな感じになって。それでその年の冬かなんかに金井闘争って始まってたんですけど、闘争ってほどじゃなくて自主登校は始まってたんですけど、そこに一回遊びに。足立教育と福祉を考える会の、日曜日の「どっかに行ってバーベキューする」みたいなのに、川遊び…山…何かの会みたいなのに一回遊びに行って、そのあとから関わることになったんですよ。で、ときどき、月に2回ぐらいかな、自主登校に行ったりはしてたんですよ。
 そうこうするうちに、だんだん運動が大きくなってくなかで、みんなだいたい自分の親ぐらいの歳の人たちばっかりなんですよね、事務局っていうのが。そうこうするうちに私も、あっという間になんか金井さんちの事務局みたいなのに入って。で、運動やっていくうえでは、あそこのうちって子どもが3人いるわけだから、康ちゃんのほかに男の子が二人いるから人手がほしいわけですよ、はっきり言えば。事務局会議なんかも、家で、あの狭い2K(ケー)? 3K? 2Kでよくやってたと思うけど、ほんとに靴が玄関にぐっちゃぐっちゃに置かれるようなかたちでやってて、そういうところに私が入ってって子どもと一緒にごはん食べたりとか保育園迎えにいったりとか、そういうようなかたちで、なんかほとんど「金井律子さんの姪御さんですか?」みたいなこと言われるぐらいの感じの関わりになってたんですね。それはなんとなく。私が望んだっていうよりも何となくそんななってしまったっていう。
 そうこうするうちにやっぱり、「学生としてどう関わるかっていうことをちゃんとやってきたいね」っていう話をしてたら、ちょうど秀年も大学生になったしっていうところで、私は秀年に声をかけたんですよ。

立岩:秀年に声かけたんですか。秀年はその時は…っていうか、秀年が大学生になった時だから79年の4月、そのへんで、その時秀年は金井闘争そのものを知ってはいたのかな?

佐藤:知ってたと思う。知ってたっていうか…知ってたと思うなあ。知ってた。彼も富士学園に行ってたじゃない?

立岩:そうなんですよ。富士学園紹介してくれたのは秀年で、さっき名前出た合原とかが『黄河沙』っていう雑誌を作り始めて、それで「駒場祭の時に富士学園の人を呼んで存続を訴える」みたいなそういう企画をやって。私はその企画には参加してて、その関係で国立に往復したりっていうようなことがあって。そのことも含めて、秀年は『黄河沙』のメンバーではなかったんだけど、合原であるとかそういう関係者の友だちで遊びに来てたんですよね、サークル部屋みたいに。ぼくも秀年、そんな感じで知り合うようになって。その時はもう、「こいつなんか昔からたぶん…」。ぼくは田舎出のぽっと出なので、高校生が社会運動っていうか、それに高校生が関わるっていうリアリティってまったくなくて。だけどなんか「こいつは」っていうか、「こいつはなんかずっとやってきたのかな」っていう。「もうすでにやってるんだろうな。やってるんだよね」って、そういう感じでしたね。
 で、声かけ。「やんない?」みたいな話ですか?

佐藤:そうそう。それこそ私の家に呼んで。だいたい私が友だち呼ぶと親がお寿司とってくれてたんで、お寿司頼んでもらって。しかも、「ごはん大盛でお願いします」って、ちらし寿司の大盛っていうのを食べながら「で、やらない?」っていう話をしたら、「いいよ」っていう話になって。だからずっと秀年は「特上ちらしの大盛でぼくの人生はこうなった」っていうふうに、よくおもしろそうには言ってましたね。

立岩:そうか。意外と大学入ってからぱっとっていう感じだったのかな。

佐藤:そのころに福祉研も立ち上げるって言ってて、それでちょうど吉田〔和彦〕くんが駒場だか本郷に登場してとかっていうのと一緒ぐらいだったのかな?
 『ともだち』☆って、これちょっとぜんぜん読んでないんだけどたいしょうがこれをくれたから、この中にきっとどこでどうやって出会ったかって書いてあると思うんですけど。「1980年夏の終わり出会った」って書いてあるね。だからそんなふうにして吉田くんも大学のキャンパスの行くようになって。それで、「大学の中の文学部学生ホールというところで、3人で福祉研究会というサークルをやっているので私も参加することにした。1週間に1、2回集まっていたっていうのに…」ところに行ってるんだから、やっぱりその夏のことには福祉研っていうのはやってたってことですよね。っていう感じで秀年に声かけて「やろうね」って話になって、そのうち気がついたらたいしょうとも知り合いで、みたいな感じですよね。
 それで、学生としてどう関わっていくのかっていうの、やっていこうっていうなかで、やっぱり差別の問題が大きいんだっていう話になってって。そのころもう私、八木下〔浩一〕さんともすごく親しかったので、八木下さんも学生好きだったんですよ、すごく。八木下浩一が、だいたい。彼は学生が好きだったのでけっこう呼ぶとすぐに来て、「東大なんていうは、」とかすぐアジってて。
☆この日、吉田和彦『友だち』。(貸して?)いただく。
 検索すると、斉藤さんのサイトにあったものがあった。→http://www.arsvi.com/sr/tomodachi.htm

立岩:「八木下さんを佐藤さんが」っていうのは、金井闘争つながりで八木下さんを知って、八木下さんが応援っていうか、その立場で行ったんで知ったっていう感じか。

佐藤;そうそう。それで彼は蕨だったから、私王子っていうとこだったんで、けっこう何かあると「送ってけ」ってとか言われたりして、秀年と二人で酔っぱらった八木下さんを送ってって。ゴンッなんて落っことしちゃったりして。頭ゴンッなんてなって。なんて覚えてるから、けっこうよく八木下さんも私たちのところに来ては一緒に飲んだりとか。「学生が何とかだから」とかって言いたがって。

江頭:「CP(シーピ―)は50までしか生きられない」って。

佐藤:そう。だから「もうおれはいつ死んでもしようがないんだ」って言いながら、ちゅーちゅーちゅーちゅーストローでお酒飲みながらよく来てたよねえ。

立岩:場所的にはどこにいたの?

佐藤:西新井とかに来てたのかね。「迎えに来い」って言われて迎えに行った記憶もあるけど、まだあのころはけっこう、

江頭:歩いて電車とか、

佐藤:歩いてよく来てました。

江頭:杖でね。

佐藤:杖とかつかないで、こうやってなんかずるずるずるずる歩けるの。そう、よたよた歩いてて。それはお母さんが、「康一、康一」って歩かせるっていって。すんごいスパルタで歩かせたらしいんですよ。歩行器がどぶに挟まって頭傷だらけになってって言ってたぐらいだから。そうそう、すごいがんばって歩かせて。

立岩:八木下さん、そうか。一時期っていうか、ある時期まではそうやって自力というか。

佐藤:よく来てた、北千住とか。

立岩:足立区に姿をあらわすっていうか?

佐藤:そうそう。

立岩:そうすると学生のみなさんも一緒になって、

佐藤:どっかで飲んだりとか。

立岩:足立のどっかで飲んだりとか。

佐藤:西新井に信じられないぐらい安い飲み屋があったり。

江頭:私はだから、八木下さんは、「じゃあ、めしでも食おうか」って喫茶店に入ってあの食べ方に圧倒されたっていうか。ぎくしゃくした動き。あーって感じなんだねえ。

佐藤:で、ちゅーちゅーちゅーちゅー、内ポケットからストローを出してとにかくお酒を飲むみたいな。

立岩:それは八木下さんに誘われたってこと?

江頭:私は私でまだべつで。

佐藤:「で、学生を」っていう話になってった時に、「じゃあもう学生を誘おうよ」って、誘っていこうって話になった時に「金井闘争の意義は何だ」とかね、「やっぱりそれは差別がいけない」っていう話だっていうのと、あと私はそもそもずっと子殺しの話に興味がずっとあって。
 今でこそ父親が子どもを殺すけど、昔はお母さんが子どもを殺すのが多かったじゃないですか。とくに私が高校生のころっていうのは圧倒的に女の人が自分の子どもを殺してたんですよ。だから、「そうやって女っていうのは生まれた子どもは自分の成果物みたいな感じで、障害児しか産めなかった女っていうのはそういうふうに二重に差別されていくんだ」ってのはずっと思ってたので。律子さんっていうのは、「障害者産んだくせに髪の毛赤くしてマニキュアなんかつけて、とんでもない女だ」って言われていたんですよ。それもあって私は律子さんにすごくシンパシーがあったから、それで金井闘争に関わろうかなって思ってて。どっちかっていうと私は康治くんそのものよりも律子さんのほうにずっと興味があって。っていうのはまず一つとしてあるんですよ。だから障害者の運動っていうよりは、私はどっちかっていうと、いちばん最初の気持ちとしてはそこですよね。あのころはね、障害のある子を産んだ人っていうのはだいたい子どもは一人で、その子をすっごい大事に育てたりっていうのが圧倒的に多くて。今はまたもうちょっとちがうのかもしれないですけど、あの当時はそうだったなっていう印象なんですね。そのなかであんな年子みたいに男の子どもを二人も産んで、自分でがんがん運転して、恋愛だってもう。[00:25:40]

立岩:ちょっと違うタイプだよね。

佐藤:そうそう、だいぶ違うタイプ。

立岩:和光の、東大に来てた勝又って、☆ ☆立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36,

佐藤:知ってる知ってる。勝又、よく知ってますよ。

立岩:彼のいわゆる自立の手伝いをさせられたんだけど、彼も完全あれだよね、一人っ子で、お母さん専業主婦で、お父さんわりといいとこの会社員でっていう。わざわざ赤堤、光明養護学校の近くに住んでっていう。そういうちょっとお金があるとこはそんな感じだよね。ぼくも赤堤の家行ったけど、なんかほんとにちゃんとした。…っていうのとはまた違うのりですよね、金井さんとこはね。

佐藤:そう。金井さんとこはそんな感じだし、とにかくなんか髪の毛いつも染めてるし。
 また話が飛ぶんですけどね、座り込みになってハンガーストライキとかやってる時にも、ちょっと私のことこうやって。「なんですか?」って言ったら、「あのさ、私の化粧品持ってきてほしいのよ」って言って、「どこどこに化粧品があるから。わかるでしょ?」って言われて、「あのポーチですね」って持ってって。座り込みしながらこんなポーラか何かの高いクレンジングクリームで顔をきれいにするような人でしたからね。だからそういう意味での。
 亡くなった大賀〔重太郎〕さんが、「金井の母ちゃんと梅谷の母ちゃんってやっぱりいい勝負で。金井のお母ちゃんはああだし、梅谷のお母さんはドドンパ歌うんだ」って言ってて。「やっぱりあれぐらいじゃないとね、こういう運動はできないんだ」っていうのすごく言っていたのは私もよく覚えているので。「そうだな」って思ってみてたんですね。

立岩:たとえば、大賀さんなんかも金井闘争つながりで知ったみたいな感じですか?

佐藤:うん。大賀さんはいちばん最初の闘争の時に全障連の関西ブロックの事務局長として東京に来て、ずっと2か月間ぐらい家に帰らずに泊まり込みで一緒に生活してたんですよ、私たち。

立岩:そういう時にたとえば大賀さんはどこに泊まり込むんですか?

佐藤:その時はね、ホテルとってた、…違うなあ。あの時大賀さんって、村田さんっていう、ムラタジュンコさん、イトウジュンコさん、こないだたいしょうのお葬式の時にいちばん最初に挨拶してたジュンコさんが結婚して教員住宅に住んでて。教員住宅って広いんですよ。昔の教員住宅って。それとあと彼女がすごいなんていうか、ものを持ってない人で、喪服も持ってないような人だから、今だに。あの時だって私の喪服貸したぐらいなんで。なんでもいつもジャージみたいな人だったんで家がからんからんしてて。だからそれでね、きっとあそこで泊ってたと思う。あそこで会議やってそのまま泊ってたみたいな感じ。部屋が3DKぐらいだったと思うんだけど、使ってる部屋は一部屋だけであとは本が置いてある部屋があるだけで。

立岩:寝泊まりさせられるってことですね。

佐藤:そうそう。そこで寝てたと思う、みんなで。

立岩:じゃあ、大賀さんなんかそんなとこで。

佐藤:そうそう。だから私は大賀さんとは一時期すごい親しくて。

立岩:私も大賀さんは忘れがたい人だな。



佐藤:うん。それで、私は大学卒業して二日市〔安〕さんの秘書になったもんだから。1年間ぐらいかな。

立岩:大学は無事に4年で出た?

佐藤:それは出ますよ、私けっこうまじめなんで。4年でちゃんと卒業して。先生が「ちゃんと卒業したんだね」っていうぐらいでしたけど、ちゃんと卒業しました。

立岩:なるほどいろんな活動に関わりながらもいちおう単位は取って。ほんとにまじめな人だったんだ。

佐藤:そうそうそう。だいたいだからまじめに活動して、まじめに勉強ちょっとしかしないけどみたいな感じ。

立岩:でも単位は取って、ちゃんとして。それは若干いろいろですね。秀年ってあれ、どれだけ…ずっと留年しててんな。

佐藤:だけど最期に亡くなる時には、彼としては復学して大学ちゃんと卒業したいっていうことで戻って亡くなったんだけどね。
 あの前の渋沢利久☆っていう衆議院議員の秘書をやってた時も、それを紹介したのも私なんですよ、秀年に。誰か探してるって言われて。おもしろいからやろうかなって言って。
https://ja.wikipedia.org/wiki/渋沢利久

立岩:それはおれ知らなくて。それは正式の、秘書?

佐藤:そうそう。ほんとに運転手して。

江頭:名刺が出てきたもんね。たいしょうの遺品整理してたら。

立岩:その議員秘書としての?

佐藤:そうそう。おばさんにすっごい人気があって。渋沢利久って葛飾の、綾瀬とかあのへんの人だったんですよ。それであのへんのおばさんに人気があって、お葬式の時は渋沢さんの奥さんとかがね、もうほんとに残念で残念でって言って、

立岩:何となくわかる気がする。おばさんにうけそうな感じはわかる。

佐藤:そつのなさそうな。

立岩:そっか、留年ってもそんなこともやってたってことか。

佐藤;そうそう。だから食うに困らないっていうか。車も持ってたし。あのころ酒気帯び運転とかにゆるいからしょっちゅう酒気帯び運転して。

立岩;そのへんのやばい話はいろいろ聞いてはいますけど。

佐藤:そんなんで、大学に行きながらそんなこともしていたんですよ。

立岩:和光ってそれなりに障害学生がいたりとか、篠原〔睦治〕さんとかいたりとか、そういう土壌っていうか、そういうのもあるじゃないですか。その時の金井闘争支援なりっていうのは、個人としての参加的な感じなのか。

佐藤:そうそう、個人でやってたの。それで篠原さんに「ちゃんと学内にも広めてほしい」とかいろいろ言われて、2回ぐらい篠原さんのゼミとかで話をしろとかって言われて話はしましたけど、ほら篠原さん子問研だったし、話はしたけど、そんなさ、みんな、論はしたいけど運動に関わりたいわけじゃないから。そんなに、ですよ。

立岩:距離的なこともあんのかな。

佐藤:それもあったと思う。

立岩:鶴川でしょ、学校って。

佐藤:そうそう。

立岩:遠いよね、ふつうに。

江頭:私はそのあたりから北千住まで行ってました。

立岩:それはすごい。

江藤:しいちゃんもうちょっとほら、秀年と大学をオルグしたあたりの話を。

佐藤:それで、そうやって秀年と一緒にやろうよって言った時に、当時ってあっちこっちでデモがあったじゃないですか。狭山のデモとか。狭山のデモってだいたい年に4回とか5回とか、5・23(ごーにーさん)があって、とかさ、10月があってとかこうあるから、そういう意味では「デモに行ってはオルグをする」っていうのをやってたわけですよ。

立岩:デモの場所に行って「こういうのをやってんだけど」みたいなことをね。

佐藤:そうそうそう。あっちこっちあっちこっちこまめに声かけながらやっていって、それで明治とか、彼は慶応だったんだけど、とか、いろんなところの【びーけん】(00:33:42)の人とかに声をかけたりして、どんどん運動の輪が広がっていったっていうところですよね。そうやっていったら、最初は「自主登校に行こうよ」みたいな話だったのが、あっという間にほんとに全国闘争みたいになって関西から大賀さんが泊まり込みで来ようっていうぐらいの運動になったわけだから。それとその養護学校の義務化とちょうど軌をいつにするってかたちで、障害者の人たちが「康治のはおれたちの問題だ」っていうことですごい当事者性の高い運動になってったんだと思うんですけど。

立岩:そうだよね。シンボリックっていうか。79年、まさにその3月、4月っていうのは養護学校義務化だったりしてね。
 おれもよく自己紹介がわりに言うんだけどさ、大学入って教養学部の自治会の大会に行ったら、養護学校義務化反対・賛成みたいなのでなんかやりあってるわけですよ。最初は意味わかんなくて、で、何々してどこつながって…って話は、ぼくも。それが入りっていうか、だったの。確かにそういうので、義務化自体がある部分では大きい争点だったからね。全障連ももちろんそのためにつくられた組織みたいなとこもあるから。で、大賀さん来てか。じゃあわりと短期間にこう広がっていった、かつ、どっかの大学が拠点だったってわけじゃなくて、たとえば佐藤さんみたいな個人がいろんなとこまわってちょっとずつ仲間っていうか。[00:35:17]

佐藤:そう。なんか私もオルグされそうにはなってたけど、どこにも所属したこともなくやってたし。そんな感じですよ。
 あとは、いろんな。今日呼んで来なかったサトウエミコさんとかも淑徳短大で、あそこは第四インターか何かだったんだと思うんですけど。

江頭:第四インターでした。

佐藤:そんな感じだったり。だから大学いろいろ。あと明治なんかいろんな人が、青解〔あおかい・社青同解放派〕だけじゃなくていろいろいるとかあったと思うんですけど。

江頭:法政は?

佐藤:法政は声かけたけどちょろっとしか来なかったような気がする。

江頭:市ヶ谷の法政?

佐藤:そうそうそう。

江頭:あれが不思議なんです。

佐藤:だから、あんま。〔市ヶ谷の〕学館とか行ったけど。あとあれなんじゃないかな、もともと中核派の偉い人も来てたから、もともと運動に。っていうのもあった。めんどくさかったのかもしんないし、わかんないね。

立岩:かえって。

佐藤:わかんない。

立岩:中核はもうすでにそこは入ってたっていうか。

佐藤:っていうかね、その逮捕された尾崎さんって人が当時は中核派だったんですよ。

立岩:あ、二人いて。一人最後までいったって人が元中核派っていうか。

佐藤:元っていうか、当時も中核派だったと思う。それで足立区役所に入った人だったんですよ。
 それから金井闘争はさ、三池闘争で東大の学生だったのに逮捕された矢沢さんっていう人がその当時は足立聾学校っていうところで学校の教員になってたんですよ。矢沢さんってすごい優秀で、静岡高校から東大に入って、南極探検隊の学生代表で「ふじ」だか何かに乗るはずだったのに逮捕されちゃって乗れなかったんだって。それで教授が嘆願書を書いたっていうようななんか伝説の人なんですけど、彼も事務局に関わってたりしてて、要するに20年前とか、当時はだから、私が20歳のとき40だったんです、矢沢さんって。だから今83なんだけど、当時若いころに学生としていろいろ活動してきたっていう人たちが、なんかつるつるとつながってきて、いろんなつながりのなかで。っていうのが一つの、事務局のまわりのそういうつながりが一つあって。
 とか、あとは、学生は学生でそういう私とか秀年とかが中心になって、まったくどこにも所属しないけれどもみんなそれぞれ個々に違う、べつに金井闘争に対してとかお母さんに対してとか康ちゃんに対してとか、いろんなそれぞれの気持ちを持ちながらいろんなかたちでの関りをしてて、そんなに統一的ななんとかってことはなくて。

江頭:組織的に。どこどこ大学のどこどこサークル、みたいな感じで関わってきたっていうとこはないんだよね。

佐藤:だからほんとに、区役所前で座り込みとかになった時に「何人出せる」みたいなので、「明治何人で、誰々に聞けば何人とか教えてくれる」とかっていうのはあったし、あとやっぱり24時間体制でやるから「夜間は必ず学生何人か残せ」って言われてたので、その日は誰が残るとか。「明治でじゃあこの日はね」とかって頼むと、明治が必ず調整して残ってくれたりとかしてたし。
 それとはべつに、律子さんはずっと区役所前に来てるから、家族、置いてきた子どもたちをどうにかしなきゃならなくて。それとあとみんな、事務局で関わってる人たちはみんな家族ぐるみで関わってるもんだから、みんな子どもがいるんですよ。だからみんな金井さんちに置いてきたから、「誰がごはん食べさせるんだ」とかいうと、「今日は誰々さんがいる日だ」とかっていう、生活を支えるっていうことが運動をやっていくうえで不可欠だったんですよ。
 けっきょく主軸が律子さんだから、律子さんが「家が汚くていやだ」とかって言い始めるともうどうにもならないんで、必ずわりと体制はきちんと整えて。あと、お父さんがふつうのネクタイ締めた会社員だったんで、お父さんに朝会社に行かれるように、律子さんがテントで泊ってる時も家で誰かが必ず泊って朝ごはん作ってお父さんも出てくし。子どもたちも保育園に送ってくっていうのが必要だったんですよ。それをやり切ったんだから大したもんだね。今考えるとね。[00:40:03]

江頭:そうやって声をかけたなかに慶応大学の***(00:40:08)の件もあって。

佐藤:そう。



立岩:江頭さんはいつごろどういういわく因縁でっていうか。

江頭:いわく因縁っていうか。大学入る前からの話をすると、私は神奈川の県立の高校なんですよ。川崎学区のとこだったんですけれども。わりと新設校で、ちょうど川崎だと川崎高校が南武線でジェット燃料を運んでたんですけど、それを止めたりとかっていう派手なことをやっていて。そういうあとにできた新設校なんで、管理の仕方が狡猾っていうんですかね。それまでは学ランですよね、制服。だけど、ブレザーとかっていう感じで、ソフトに管理してくよっていうような感じの高校のなかで。だったんですけれども、

立岩:もしよろしければ、それは何高校っていう?

江頭:神奈川県立の生田高校。それまでも、高校に入るまでもいろいろ社会的な問題とかには関心があることはあったけれども、やっぱり郊外、地方の学校とまではいかないけれども、東京のまん中を外れて川を越えてっていうと、やっぱりもうそのようないろんな社会問題について集まって話すような場っていうのはなかなかなくて。関心がある本を読んだりとかっていうようなことをしながら過ごしてたんですけれども。

立岩:社会問題っていうのに関心はあり、知りはするけれども、高校の時にとくに、

江頭:とくに何かあるっていうのがあったとしたら、上の代の卒業式に送辞を読まなきゃいけなくなったから。で、いろいろそういう関心があるもんだからそういうなものをつらつら入れた文章を作ったけども、先生らには検閲でぜんぶはねられるっていう。で、じゃあこれでいこうっていったなかに、やっぱりアドリブでそういうものをぽーんと入れたりして卒業式の会場がちょっとざわつくみたいな、そういうようなことぐらいしかしてなかったの。あと、ちょうど私、島田雅彦も同じ年代なんですよ。彼は川崎高校に行ったんだけれども、彼なんかがけっこう川崎のいろんな学校うろうろしてまして、うちの高校にも来て、「実はシンポジウムをやるんだけれども」って言って。

立岩:その時に島田さんのはどういう関心でそのへん回ってたんですか?

江頭:いやあ…。それはほら、2、3年前に本を出してますよね。『君が異端だった頃』っていう。そこらへんはだけど、ぜんぜん書いてないです。

立岩:書いてないんだ。

江頭:書いてないです。ただだから、彼がたぶん文芸部にいて、その中にはやっぱりいろんな種類の人たちがいてっていう。

立岩:じゃあその生田高校を、そういう小さな波乱もありつつ。で、慶応に入るんですか?

江頭:一浪して。

立岩:一浪して。慶応、三田ですか?

江頭:いや。慶応ってまず日吉なんで、教養課程は。その当時は77年かな? 慶応大学は「学費の物価スライド制」っていうのを導入しまして。それに対しての「学費値上げ反対闘争」っていうのがあって、80年になるともうほぼほぼ火は消えてた。もうみんな、日吉中心で活動してたのが三田に行っちゃってっていうようなことで、ほぼほぼその学費の反対運動みたいなのは収まってたんです。まあ、かすかに残り火みたいなかたちであって。そこの運動になってた人たちの中に、【びーけん】(00:45:05)って言われるところのメンバーとかもいまして。たぶんだから秀年はそこのメンバーに声をかけて。[00:45:20]

佐藤:そうそう。

立岩:大学まわってるなかの一つで、

江頭:それはそれで一つあって、東大の人たちが富士に来てたのと同じ感じで、慶応の中では「福田会」っていう…。

佐藤:今は「広尾フレンズ」☆っていう名前の児童養護施設になってるんですけど、すごい広尾の一等地にあるんですよ。その時に労組組合と法人がもめていて。
http://www.fukudenkai.or.jp/friends/index.html

江頭:たまたまその学費値上げの反対運動やってた人たちが、飲みながら運動がああだこうだああだこうだって言ってるところにその福田会の労組の人たちがいて、「おまえらなんだ、そんな。現場はこうなんだぞ」みたいな話になって、そういうなかで「じゃあ一度来てみろ」ってなって何人かが行って、福祉についての接点っていうのが、部落解放っていうことだけじゃなくてあって。そういう人たちがいて、学費値上げの反対運動をしながらいろいろ話してるうちに「こういうのもあるんだよ」って話を聞いて。

立岩:その広尾の話は今初めて聞いたんですけど。

佐藤:福田会。

立岩:それは金井に関わる前?

江頭:前ですかね。とにかくその、やっぱりどこか「差別反対」っていうのもあるんだけれども、やっぱり何らかの。富士が東大にあって、それが「差別」っていうこと以外に「障害者福祉」っていうことを考える契機になったのと同じように、慶応では福田会の労組の運動に関わったことで、差別があるっていうことだけじゃなくて障害者の問題っていうようなとらえ方をできる人たちがあったんだっていうふうに思って、さっき聞いてたんだけどね。

佐藤:あと、福田会のナギサちゃんと…何だっけね、ナギサと何とかっていう子もやっぱり、広尾中学に私たちもだったら学校行きたいって自主登校したりし始めてたよね。

立岩:「ふくでんかい」ってどういう字書くんですか?

佐藤:福田って書くんですよ。

立岩:福田?

佐藤:うん。

立岩:福田。それを田んぼの田を「でん」って読めってそういうやつですか?

佐藤:うん。今は広尾フレンズっていう名前の児童養護施設になってますけどね。

立岩:法人は継続してるってことですか。

佐藤:どうなのかなあ。

江頭:法人は別だと思うんだけどな。

佐藤:別なのかな。

立岩:なるほど。そしてその、慶応から江頭さん、何人か関わりが?

佐藤:7、8人?

江頭:そんなにいなかったと思う。

佐藤:5人ぐらい?

江頭:5人ぐらいですね。【ワダ、セキメ、江頭、クラハシ、クワキ】ぐらいだよね。

佐藤:5人ぐらい。

立岩:じゃあ生田の学生が5人ぐらい。

江頭:ちがう、慶応ですね。それもだからべつに、うちらの学費の運動も、そういう意味では慶応ってもうぜんぜん80年入ったころには党派も一掃されて。一掃されたっていうか解体してしまった党派とか、なかったんで、みんなどこにも所属してないっていうことで、受け皿になるような障害者福祉のサークルっていう。福祉のサークルっていうのもなかったんで、それぞれさっきのような感じで「じゃあ行ってみようか」って個人が判断して行ったっていう感じです。

立岩:個人で判断するには、5人はいちおう互いに。

江頭:そうですね。連絡、そうです。それで先ほどの「じゃあ、どこどこ大学何人出して」みたいな話があったときに「今日足りないみたいだよ。行ける?」みたいなことで連絡して。

立岩:行くとわりと一晩泊って帰ってくる的な感じが多いんですか?

江頭:泊りになるんで。

佐藤:そんな感じ。そうこうしてるうちに犬塚さんみたいな人が金井闘争に来て、金井闘争に来たなかで東京に来てしまい、

立岩:犬塚勝二でしょ?

佐藤:そうそう。東京に来て。で、そこの学生をオルグして自分の介護の体制を作っていったっていう感じなんですよ。

立岩:たしか斉藤さんも関わってるよね。あと私の知り合いだと市野川〔容孝〕っていうのが。

江頭:私もそうなんですけれども、たいしょうが入ったあとに市野川くんが入って、そのあとが私だったっていう。

立岩:そうなんですか。

江頭:はい。

佐藤:あと、「東京に行くと学生の介護者がいるんだ」っていう話で、金井闘争をやりながらなんかけっこう高崎のコロニーから出てきちゃって介護者探してるっていって、「えー?」みたいなので、「学生集めてよ」って言われて関わったりもしましたよ。

立岩:その高崎コロニーの人とか、なんとかなったりしたんですかね。

佐藤:ハヤセヨウコさんっていう人なんですけど、もう亡くなったんですけど、それこそ私とかいろんなその金井闘争に関わったりしてる人たちとか、あと私の関係のその婦問研(00:52:02)つながりとか、それこそ【鈴木ほがら】(00:52:03)さんとか。鈴木ほがらさんは知らない?

立岩:知らない。

佐藤:婦問研の人なんだけど。とか、そういう感じでみんなで声をかけてみんなでなんとか介護をして。

立岩:ハヤセヨウコ? ヨウコってどういう字書く?

佐藤:太平洋の洋。

立岩:さんずいの洋。そのかたはもう亡くなられて。

佐藤:そうそうそう、食事してて窒息して亡くなったんですよ。

立岩:つまっちゃった。

佐藤:そうそうそう。

 続く→

〜このように表現しています〜
・タイムレコード:[hh:mm:ss]
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


UP:20221125 REV:20230202
金井 康治・金井闘争  ◇斉藤 龍一郎  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
声の記録(インタビュー記録他)  ◇WHO 
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