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高橋 秀年

たかはし・ひでとし(しゅうねん)
〜1984

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1979 東京教育大付属大塚高校卒業
1979 東京大学入学
   渋沢利久衆議院議員の秘書
1984 死去

斉藤 龍一郎(1955〜2020/12/19)
金井 康治(1969〜1999/09/11)


◆立岩 真也 2007/11/10 「もらったものについて・1」,『そよ風のように街に出よう』75:32-36,

 「私が一方についたのは、この問題に限らず幾つかの問題について、わりあい単純に、どちらの側の言っていることがもっともかと考えてのことではあった。民青の同級生もいて勧誘を受けたり議論をしたりしたが、自分の立場をどうするか、さして時間もかからなかった。私自身は実際にたいしたことをしていたわけではない。もっと前からこういうことに関わってきたという人もいて、知り合いになった。例えば金井康治さんという脳性マヒの人(もう亡くなってしまった)の普通学校就学闘争というのがあったのだが、それに関わっている男がいた。高橋秀年という同学年の人で、「しゅうねん」と呼ばれていた。その当時のキャンパスに多く存在していた(今はさほどはなはだしくないと聞くが)私はあまり見たくないいでたちの男の学生たちと異なり、なかなかのしゃれ者でもあった。彼は教養学部で留年し、それで新入生歓迎の企画で山中湖に出かけ、酒を飲んで湖に漕ぎ出し、それでボートが転覆して、死んでしまった。その告別式に金井さんのお母さんがいらしていたように覚えている。」

 「時間を七九年・八〇年に戻す。教養学部の時、私は『黄河沙』というミニコミ誌を作る「時代錯誤社」というサークルにいて、今はつぶされてなくなってしまった駒場寮という汚い建物で雑誌を作っていた。ジョン・レノンが撃たれて死んだニュースはそこで聞いた。そのサークル自体はとくに「政治的」な傾きのあるところではなかったのだが、それでもいろいろに首を突っ込んでいる人もいた。さっき名前を出した人たちが出入りしていたし、そういう人たちとつきあいのある人たちが作ったサークルだった。私が学校に入る前年に創刊号が出た。今でもまだこの雑誌は続いているらしい。そのサークルが学園祭で講演会の企画を立てた。一つは政治家になってまもない、まだそう知られていない時期の管直人の講演会。私はそちらにはほとんど関わらず、もう一つの方の担当になった。
 東京の国立市に「富士学園」という小さな施設があって、その施設はある資産家が自分の子どものために作ったということだったが、どういう理由であったのか、たたんでしまうということになり、それでは入所者はどうなるんだということでそこに務めていた池田智恵子さんという職員が一人残って存続のために活動し、しかし経営者から金は払ってもらえないので、支援者たちが廃品回収などして金を稼いでいたりしていた。その池田さんたちを呼んで何かしようということになったのだ。たしか、さきに名前をあげた、今は死んでいない高橋秀年がそこにも出入りしていて、彼はそのサークルのメンバーではなかったのだが、私たちの幾人かと親しく、そんなこんなで企画が決まったはずである。私は知識もなにもなかったから、とにかく、そこに行ってみなければならないということになって、それで行った。
 そこに暮らしている人は三人だった。そして池田さんがいて、その他の人たちが出たり入ったりといった具合だった。その頃のことその後のことについては池田さんの著書『保母と重度障害者施設――富士学園の三〇〇〇日』(池田[1994])に書かれている。[…]。交渉はなかなかうまくいかず、金はなく、厳しい状態ではあったのだが、そこはおもしろいところだった。その学園祭での講演会――そのもののことはあまり覚えていない――の前と後、ときどき出かけ、おもに日曜、国立の近所を軽トラックでまわって廃品回収をする仕事を手伝ったりした。そうして回収して置いてあるものの中から、いくらかを所望し、いただくこともあった。例えば『情況』などという雑誌のバックナンバーをそうしてもらってきた。そして食事をみなとした。三人のうちの一人は「みみ」君と呼ばれていた若い男性だったが、言葉なく、ぐるぐるまわったり、ときに土を食べてしまったりする人であり、「わからん」人であった。ただ、その極小の不定形な場にその人はいて、「これはあり」であると思えた。その確信というか、現実というか、みなが「これでよし」と思っていたと思う。後に「他者」などどいう言葉を聞くようになったりあるいは自ら言ってしまうようになったりした時、この人のことを思い起こすことがある。やがてその人は、夜中建物を抜け出し、中央線の線路まで行き、夜中に通貨する貨物列車にぶつかって死んでしまい、そんなことがあったりもしたので、池田さん(たち)は残る二人をうまく暮らせていけそうなところに移れるようにして、そこでこの施設は終わりになったのだった。」(立岩[2007-2017(1)])

◆立岩 真也 2008/08/05「もらったものについて・2」『そよ風のように街に出よう』76:34-39

 「学校や教育に関係するところでは、七九年の養護学校義務化実施の前後、とくに東京周辺では、金井康治さん(一九九九年に三〇歳で死去)の普通学校就学運動が具体的かつ象徴的なものとしてあった。さきの年表を見ると、七七年に東京城北養護学校から<0034<足立区立花畑東小学校への転校を希望するが拒否される。七八年に自主登校が始まり、七九年に運動は全国に広がる。八一年――つまり国際障害者年――三月、当時の鈴木首相が「学校選択には親の意見尊重」と国会答弁、といった記述もある。そして一九八三年三月、「金井君就学闘争 区教委が校区校の花畑北中への入学を認め、二〇〇〇日余りの闘争に決着」などと出てくる。
 私は一九七九年に大学に入って四年いたから、かなりかぶっている。だが、その時々には聞いて知っていたはずだが、例えばいったんの決着を見たのが、大学を出たのと同じ八三年三月だったというのは、年表を見て、へー、と思ったというぐらいだ。直接に関係したのではないということもあるかもしれない。前回名前を出した高橋秀年という男はそこにかなり真面目に関わっていた。また、ずいぶん後で知り合うことになって、いまはアフリカのことで私たちの――グローバルCOE「生存学創成拠点」というものの――企画に協力してくれている斉藤龍一郎(東京大学教育学部卒業後、解放書店勤務、現在アフリカ日本協議会事務局長)もこの一件に関わっていたという。だが私は、この件で集会だとかデモだとかに参加したことはなかった。」

◆佐藤 静・江頭 英至 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町

◆佐藤 静・江頭 英至 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町

◆斉藤 龍一郎 2017/10/00 「質問「金井闘争にどのようにして関わることになったのか」への応答」

「1979年入学の高橋秀年(僕らは「しゅうねん」と呼んでいました)君らが起ち上げた「福祉研究会(福祉研)」の誘いで就学闘争に関わるようになった。しゅうねんは、立岩真也さんと知り合いだった(市野川君は秀年の4年下で同じ文III5C。1984年、しゅうねんと市野川君はオリターをやっていて、山中湖で事故に遭遇。その時の事故でしゅうねんは死亡)。」

◆斉藤 龍一郎 i2017 インタビュー 2017/10/13 聞き手:末岡尚文他 於:東京

「末岡:[…]まず1番の「金井闘争にどのようにして関わることになったのか」っていうとこからですけど。先生は東大の文Vから入られて、このホームページにも名前を拝見しました、秀年(しゅうねん)さんっていう方の勧めで福祉研ていうところから、まずそこにお入りになって、そっから更に金井闘争に関わるようになったっていうことでよろしいでしょうか?
斉藤:まあ入ったっていうか、福祉研といっても、思った人間が集まって看板出したって。そういうだから駒場寮にはそういうなんかこう看板だけある部屋っていっぱいあるじゃない。そういうのの一つですよ。
聞き手:駒場寮に結成された研究会だったっていう?
斉藤:いや、秀年が寮にいて、まあ連絡先は寮だし、同年の奴でこうづきっていうのと二人でやるっていうんでお声がかかって、お声がかかったっていうか一緒にまあなってんだよ。一番最初があれだよね、あの、いかん、タイトル…、原一男監督。あれだよ、青い芝の、タイトルが思い出せないぞ。映画、ドキュメンタリー映画。横田さん、横田弘さんが出てくる、青い芝の、神奈川青い芝の、原一男。こういう時タイトルが出てこなくなるのがね、完全に。
聞き手:『さようならCP』とか。
斉藤:ああ、そうそうそうそう。の上映会までやらなくて、どっかに一緒に観に行ったのかな? なんかそんなようなことで集まって話をするのと、でも直接は、やっぱり当時もう秀年は金井闘争っていうか自主登校にもちょっと関わってたんで、それで「じゃあ行ってみようか」と、そういう話だよね。
末岡:市野川先生ともその時からのずっとお知り合いだったんですか?
斉藤:市野川って、僕は74年入学だから10年ぐらい下だね。83年かなんかなんだよね。で、秀年と立岩君がおんなじクラスで、で、市野川は4年下のおんなじクラスかなんかで。まあでも市野川と僕は介助者仲間だね。20年ぐらい、どっか書いてあるんじゃなかったっけ、20年ぐらい、火曜日の朝に会う男の片割れっていうの、もう一人がまつい君っていうので。今もだから、今は、昔は彼は、彼とまつい君っていうのが組んで、火曜日交代、昼間交代交代。で、10年ぐらい前から昼間はヘルパーが入るようになったんで、木曜の夜を交代交代で泊まりに行ってるのかな、うんうん。僕はこの5年、6年で7回入院したんで、2度目の入院の時に「もういい」って。お腹をパクっと開けるから3ヶ月ぐらい力仕事出来ないわけ。だから介助とかもうね出来ないから、その間日程調整するのが大変だからもういいと、ずっと顔合わせてたCPのおっさんに言われまして、それで終わりです。」
※ 高橋(たしか5組)と立岩(8組)はクラスは別でした。(立岩記)

◆斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所

「立岩:僕はそのインタビューで思い出したっていうか、それはさすがに名前っていうか姿形も覚えてるけど、高橋しゅうねんっていうね、僕ら「しゅうねん、しゅうねん」って言ってましたけど、秀年(ひでとし)だよね、あれね。優秀の秀に年、年月の年で「しゅうねん」だよね。あれは確かに僕と同級生で、その4年後か? 山中湖でボートで溺れちゃって。
斉藤:うん、84年。
立岩:84か。で、そうなんだけどさ、俺、大学1年生の時にしゅうねんとは知り合いになって、それからしばらく一緒にやったんだけど、なんで、しゅうねんとどうやって知り合ったのか覚えてないんだよね。
斉藤:いや、『恒河沙』とかじゃないの。
立岩:たぶんそうだと思うのね。『恒河沙』っていう雑誌やってるところ〔時代錯誤社〕があって、
斉藤:ミニコミをやってた。
立岩:ミニコミ、ちっちゃい、東大で今でも作ってるんだけど、そういう学生が作る50ページとか100、そういう雑誌を作ってたのね。で、雑誌は別に障害者とはあんま関係ないんだけど、それに関係してるそういうの…雑誌を作ってた人たちってのがいてね、その人たちとその高橋さんっていう僕と同じ、歳も僕と同じだったと思うけど、その彼がたぶん高校の時の知り合いだな、しゅうねんって筑駒なのかな? なんかどこの学校とか聞いたことある?
斉藤:あいつは、
立岩:教育大付属でしょ。
斉藤:筑波。今の教育大付属大塚のほう。
立岩:大塚のほうか。誰だろ、合原ってのがいたんだけど。
斉藤:ああ、そうだろうね、合原もそうだろうな。
立岩:あのへんだね。青木健というのも。
斉藤:僕はなんかそのへんは知らないな。合原君っていうのはちょっと間接的に、あのへん界隈でけっこう知ってて、よく名前を聞いてる。本人に会ったことはない。
立岩:ああ、そうか。合原はいっぱい浪人して3浪ぐらいで入ってるから、歳はけっこう上なんだけど、その雑誌でずっと仲間で。彼は川崎製鉄かなんかに就職したんだが、大学出てね。で、そこを辞めて、今、長野県の上田に住んでて。そこで、ガリレオっていうね、学会の運営をサポートしてそれでお金もらってっていう会社、日本社会学会なんか契約してるんだけど、そこの会社の社長になってて、会社を作ってやってるんだ。障害学会、今年からそこにお願いすることになって、妙な縁なんだけども。たぶん高校の時の付き合いだったのかな。それで、合原と青木健っていう、青木は同じ歳、同じ年に大学に入った同じ歳で、そのあと彼は都市工学のほうに行って、その建築関係の日経BPとかいう日本経済新聞社系の建築関係の雑誌の編集に関わって。で、そいつが一番仲良かったかな。それがね、でもね、2010、今から8年前かな、進行のすごい早い癌になっちゃって、ここか、咽頭癌っていうのかな。で、2009年の正月に年賀状が来てさ、「今年は厳しい年になりそうです」みたいなことちょろっと書いてるわけ。「何が厳しいだろう」ってわかんないじゃん。で、俺ってあんまり人情がない人なのねっていうか、そういうのわかんなかったしね。結局会いもしないまま、欲年の1月に亡くなって、それで葬式があって、それでその葬式の時に久しぶりに『恒河沙』っていう雑誌で一緒にやってた連中4、5人にも20年ぶりとかに会ったけどね。青木っていうのは子どもがまだ小学生とかでさ。でね、これも不思議なことに青木健っていう健康の健って書く奴なんだけど、青木のその妻、奥さんっていうのが東洋大学の障害者のバリアフリーっていうかさ、そっちの高橋儀平さんってのがいるんだけど、そのチームのボスみたいな人、有名な人ですよ。70年代、80年代ぐらいからずーっとその建築関係のバリアフリーのことをずーっとやってる人。
斉藤:ふんふん、川口のね。こないだ定年で辞めたんだな。
立岩:うん。そこのチームっていうかその研究室にいる研究者なのね。その人、それを初めてその葬式の時に知ったけどさ。たぶん青木と高橋しゅうねんは同学年で同じ高校でそれで知ってて、それでそういう繋がりで僕は青木とか合原とかのサークルに入ったんで、それでしゅうねん知り合ったのかな、たぶんそうだと思う。で、富士学園もその年に行って、ってことだと、それが大学1年だったのか2年だったのか、そりゃ調べりゃわかると思うんだけど。斉藤さんがそのしゅうねんのことでなんか覚えてる、それからもう一つは、その時に聞いたのは、しゅうねん、なんで高校の時からいわゆる政治闘争っていうか、に、けっこう入ってるわけじゃない。東京の進学校ってさ、わりとそういうところがあった学校もあったじゃない。そういうこともあったんだろうけども、一つ僕が聞いてたのは高橋の父親っていうのが公安のなんか偉いさんだって話聞いたことない?
斉藤:いやいやいや、違うよ。彼の父親はスポーツ新聞の記者で。
立岩:じゃあ全然違う、そこは僕間違えてる。誰かそういう人いなかった?
斉藤:そうそう、しゅうねんのその頃付き合ってた彼女の親が検察なのね。
立岩:付き合ってた彼女のか。彼女の親が検察の偉いさんみたいな。
斉藤:うんまあけっこう偉いさんでね。
立岩:ああ、そういう。そのへんをなんか僕は記憶をどっかでごっちゃにしてたんだよね。ああそういうことか。
斉藤:高校の頃のことはチラッチラッとしか聞いたことないけど、確かに横断的な、だから教育大大塚だけじゃなくて高校生の連絡グループがやっぱあったみたいね。今も、なんて言うんだろう、今というかあんまり動けないから、こないだから食欲がなかったって、今食欲あるんだけど、ないないって騒いでたらポトフ作ってくれる友達ってのはその頃しゅうねんと一緒に高校で活動してたっていう。で、そのへんから、だから金井闘争の一番、僕自身は大学でたまたまね、誘われたからだけど。で、高橋しゅうねんなんかは高校の頃から接点があったみたいだね。
立岩:そうだと思う。そういうふうに確か聞いたことあると思う。斉藤さんも田舎だけどさ、僕はもっと田舎だ。まあどっこいどっこいぐらいの田舎。で、そういうのって高校の時はほぼわかんないじゃん、大学入ってからじゃないとわかんない。で、やっぱ東京のある種の連中っていうのは、高校の時からそういう活動に入ってたりしてた奴とかいる。」

◆「もうひとつの東大闘争――「東大闘争」の当事者・森田暁氏に聞く・13」,『週刊読書人』3303

 「森田 […]「山中湖事件」(註1)というのがあって、それはご存じですか?
 大雑把には……。いつの事件でしたか? 八〇年代半ばですよね。
 モリコ 八四年四月です。ぼくも葬式には行ったんですが、亡くなった一人であるS・T〔高橋 秀年〕というのはほんとに優秀な、希望あふれる活動家だったから……なんであんなことになっちゃったんだろうと思いますよ。しかしあれもオリエンテーション委員会の公式の行事だったはずです。
 戸山 駒場のノンセクト運動は、その方が亡くなってしまったあと、かなり弱体化したとも聞いています。」
 「(註1)山中湖での新入生歓迎のオリエンテーション合宿をやっていた東大生が、夜間に酒を飲んだ状態でボートを漕ぎ出し、転覆して五名が死亡した事件。」

◆野口 誠→立岩 真也 2019/12/19 6:59

 「秀年。
 亡くなる1週間前に、うちに来てました。うちも通夜でした。
 大変なことになったと、4月15日の朝に電話があり、TVを開けたら、ちょうど、秀年らしき人が引き上げられていました。
 その前も、明治通りで暴走して、車の天井で道路を走る芸当で、でも、無傷だったのに…。
 彼が生きていれば、とんでもないことになっていたと、今でも思います。
 今日は、不思議な日です。昼間は、業務で自転車で外に出ていたら、昔、付き合って、その後に自殺した彼女の実家の前と、彼女が飛び降りたビルのところを通り、彼女が生きていたら…と考えていました。そして、今、秀年の名前を見ました。
 この瞬間、私は、自宅で、金井闘争の弁護士、大谷恭子さんが代表理事の若年貧困女性支援の若草プロジェクトのLINE相談のモニターしながらのSVの最中です。
 金井闘争で、秀年は、斉藤龍一郎君とともに、学生実行委員会をやってました。ぼくは、自治労系の隊列にいました。」


REV:...20080601 0801, 20190506
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者と教育  ◇金井 康治  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇東大闘争:1970'〜  ◇WHO  ◇物故者 
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