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もらったものについて・1

立岩 真也 2007/11/10
『そよ風のように街に出よう』75:32-36

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 *『そよ風のように街に出よう』はとてもおもしろい雑誌なので、ぜひ買ってみてくださいませ。

 小林敏昭さんから「障害者運動の抵抗の根拠のようなものを原理的かつ分かりやすく」という依頼をいただいた。でも、「『そよ風』だったらこんなことを書いてみたいというものがあれば」とも言っていただいた。前者については、わかりやすく、ではない(と人には言われる)としても、いろいろ書いてきたし、かんべんしてもらおうと思う。
 ここでは「昔話」をすることにした。それは、気恥ずかしいということがあるし、なんだか偉そうな気もするし、年取った気にもなる。しかしそうして恥ずかしがっているうちに、何も伝わっていないことに気づくことがある。わりあい近い過去のことであり現在にも関係していることであるにもかかわらず、知られるべきが知られないことがずいぶんとあってしまっていると思う。それはよくないと思う。そこで河野秀忠さんの最新作『障害者市民ものがたり――もうひとつの現代史』(日本放送出版協会)のような本の意義もある。また私が最近書いた堅目の文章としては、「障害の位置――その歴史のために」(高橋隆雄・浅井篤編『日本の生命倫理――回顧と展望』、九州大学出版会)といったものもある(当方のHPで全文を読むことができる)。そしてここでは、自分の身の回りのことから書いてみようと思った。私は、誰が考えてもそうなるはずなことを言いたいと思う。だからどんな人がどうして生きて、だからどう、は不要だと一方では思う。だが、過去について人によく聞かれる。だったら一度書いてもよいだろうとも思った。そして、一九八〇年代から九〇年代の限られた場所でのできごとであっても、知ってもらう意味もあると思った。
 一九七〇年の前後にいろいろなことが起こり始める。そして私はそうした動きの始まりから約十年分については直接にはまったく知らない。私は一九六〇年生まれで、田舎の小学生をし中学生をし、高校生をしていた。佐渡島に生まれて住んでいたのだ。ただ、社会全般の動きというか気分というかはそれなりに伝わり感じられてもいたと思う。そして私の場合、それはなにか「社会科学」的な知識としてやってきたのではなかった。社会学などという学問があることも知らなかったし、社会科学の本を読んだこともなかった。自由がなにより、管理はきらいといった気持ちは、むしろ音楽が支えていたと思う。大学闘争というものがあったことは聞いたことがある、その程度だった。東大・安田講堂に立て篭もった学生に機動隊が、云々はリアルタイムで見た記憶がない。ただ、その流れが高校に及び、制服がなくなった高校が県内にもある(新潟高校)とどこか新聞で読んで、それはよいことだと思った、といった記憶はある。学校のようにうっとおしいものではないものがよいと言った動きがあったというだけで、それはよいことだった。学校は、とんでもないと思われる教師もいて困ったものでもあり、また退屈でもあった。解放的なことはよいと思った。それは音楽がよいと思うのとつながっていた。
 読む本はたいがい小説だった。ただ、大熊一夫の『ルポ・精神病棟』は中学生の時に読んだ。調べると、この本は一九七三年に出ている。出てからそう何年も経っていなかったようだ。ただ、田舎の公民館の図書室の棚にあったのを読んだだけだから、そのことにも気がつかなかった。この本のもとは『朝日新聞』の連載記事だが、私の実家は、販売店の主人が知り合いだというただそれだけの理由で『毎日新聞』を私の生まれる前からずっととっていて、だから私はその連載のことは知らなかった。本を読んで、これはひどい、とんでもない、と思った。気持ちわるい感じが残った。それだけといえばそれだけだ。そして今調べたら、映画『カッコーの巣の上で』が一九七五年。見てはいないが、どんな話かは読んで知っていたと思う。そして水俣からむしろ旗を立ててやってきた人たちの映像は見て、残っているような気がする。そして、ソルジェニーツィンの『収容所群島』といった小説も読んだりした。日本の戦時下での抑圧等々も含め、私は、わりあい単純に肉体に加えられる苦痛に弱いところがある。人間がしてしまったり、なってしまったりすることの重さは感じたと思う。「反体制」の運動に共感する側に大きな衝撃を与えたとされる「浅間山荘事件」は、山荘への警察突入の実況中継他をテレビで見たが、衝撃が加わるような思想的な内実というものが私にはないのだから、格別にどうというものではなかった。人はやるときにはやってしまうものだということを、そのことによって特別に感じたのではないと思う。
 こうして私は、わりあい単純な、どんな時代にもいつでも一定の数いる、あるいは、すべての人がいくらかはそうである、管理や抑圧はきらいで、「近代文明」にいくらか懐疑的といった人間であったのだと思う。
 小学校には特殊学級があった。明らかにそこにいる子たちは、他の子たちに差別されていた。ただ、まったく別ということもなくて、わりとよく話をした子がいたのを思い出す。そしてそこに身体障害の子がいたという記憶はない。佐渡島の市町村が合併して佐渡市という一つの市になるのはずっと後で、私たちは両津市というところに住んでいたのだが、その隣の隣に新穂村という村があり、そこに新星学園という施設があって(やはり今調べたら、たしかにある)、その名前(それは漢字ではなく「しんせいがくえん」という音としてあった)も人をバカにする時に用いられた。またその時代よりだいぶ前のことだが、今なら精神障害というのか知的障害というのか、そんな人が住所職業不定のようなかんじで近所にいて、祖母はそんな人たちの、いまなら「支援」というのか、をすることがあったと聞いた記憶もある。祖母は、真言宗の一代限りの坊主だった祖父をわりあい早くに亡くし、四人の子を育てた。父はその三番目の子だった。
 そして私は、とくに小学校の前から小学生の頃、漁師をしている母の実家に幾晩も泊まりに行っていたのだが、そこにはなんだか浮遊感があるというかぼおっとしているというかそんな感じのおばさんがいて、自分用の一室で縫い物のようなことをしたり、していた。私のおばさんにあたるのだが、当時はどうもそのへんがはっきりしないまま、よく声はかけられ、それになにやら返事はしたりしていたように思う。そしてその当時、その島で、車椅子を使っている人を見た記憶がない。
 東京にやってきたのが一九七九年だった。それは養護学校義務化の年だった。そんな「問題」があるのは大学に来て初めて知った。一方に、「これまで学校に行けなかった人が、行けるようになる。その人の障害に合わせた教育が受けられるようになる。だから賛成」という人がいて、他方に、「それは差別だ隔離だ、だから反対だ」と言う人がいるのだった。
 大学の学生自治会でそれが争点になっていた。私が入学した東京大学の場合は一年生・二年生の教養学部の自治会があって、そこで多数派をとっていたのは前者を支持する側だった。私は、後者が正しいと思ったので(今でも思っている)、そちらの側につくことにした。
 そんなことがなんで大学の自治会での争点になるのか、不思議なことにも思われるだろう。このように、ある人(古い人)にとって当たり前のことがある人(新しい人)にとってまったくそうでないのだ。それは「左翼」の中?での争いに関わっていた。つまり日本共産党は前者を支持した。その政党の若い人たち向けの組織である民主青年同盟(民青)がまめに働いて、教養学部自治会の多数派をとっていた。そして、この政党を批判する「もっと左」の人たち、そう自らを思っているか思われているかという人たち、自分でもよくわからないが「既存の政治勢力」に与しないという人たちがいて、それは後者を支持した。それは、一九七〇年前後の、さらに遡ればそれ以前からの対立の構図であるといったことは、すぐに知ることができた。その「新左翼」の中にも争いがあり、「内ゲバ」などと呼ばれ、その争いはその大学の中にもまだあったが、それに関心はなかった。おおむね、どこにも属さない人たちが、数からしたらまったくわずかなものだが、いるにはいて、それで、それよりはすこし数の多い「民青」の諸君とけんかをしていたのだった。
 私が一方についたのは、この問題に限らず幾つかの問題について、わりあい単純に、どちらの側の言っていることがもっともかと考えてのことではあった。民青の同級生もいて勧誘を受けたり議論をしたりしたが、自分の立場をどうするか、さして時間もかからなかった。私自身は実際にたいしたことをしていたわけではない。もっと前からこういうことに関わってきたという人もいて、知り合いになった。例えば金井康治さんという脳性マヒの人(もう亡くなってしまった)の普通学校就学闘争というのがあったのだが、それに関わっている男がいた。高橋秀年という同学年の人で、「しゅうねん」と呼ばれていた。その当時のキャンパスに多く存在していた(今はさほどはなはだしくないと聞くが)私はあまり見たくないいでたちの男の学生たちと異なり、なかなかのしゃれ者でもあった。彼は教養学部で留年し、それで新入生歓迎の企画で山中湖に出かけ、酒を飲んで湖に漕ぎ出し、それでボートが転覆して、死んでしまった。その告別式に金井さんのお母さんがいらしていたように覚えている。
 二つのうち一つの方がもっともだと思ったから、という理由はたしかに簡単にすぎるようには思われる。なにかきっかけがあったのでは、とよく聞かれる。とくにはない。ただ、大学がくだらないと思ったということはある。大学などない田舎にいるわけだから、誤解していたところ、間違った期待をしていたところもある。高校生のとき、大江健三郎の小説は読んでいた。彼は東大の文学部を卒業した人だ。なにか「そういう人」がたくさんいるような気持ちがしていたのだ。しかし、当たり前のことだが――そこらに大江健三郎のような人ばかりいたら、それはそれでたいへんである――そんなことはなく、普通だった。もっと言うと、説明は略すが、「嫌いなタイプ」の人たちもいて、どうもいけなかった。比べれば、湿った・湿気った(と私には聞こえた)演説を繰り返している民青の学生の方がよかったぐらいだ。そんなこともあり、いくらか違うかんじの人たち、そして「政治的嗜好」に似たところがある人たちとのつきあいの方が気持ちがよかった。例えば、小松美彦がいて、彼はそのころから妙な貫禄があった。後に彼は河合塾という予備校の小論文講師になり、予備校生を煽動していたのだが、それはとても彼には似合っているように思われ、後に大学の教師になり『死は共鳴する』(一九九六年)などという本を出したりするとは思わなかった。また、大学を終えた後技術系の翻訳で生計を立て、ダナ・ハラウェィという人の『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』の翻訳(二〇〇〇年)を出すことになったりもする高橋さきのといった人もいた。
 他には何があっただろう。◇勝又裕司という私より四つ年上の脳性まひの男性が、和光大学を卒業した後、見田宗介(真木悠介)先生のゼミにもぐりで来ていて、彼はその当時世田谷に住んでいたのだが、その家への送りを手伝うというようなことがあった。ちなみに、真木悠介名の著書『現代社会の存立構造』、『気流の鳴る音――交響するコミューン』はいずれも一九七七年の発行となっている。その二年ほど後の見田さん(と呼ばれていた)のゼミに私たちは出ていたことになる。それは、学校の制度外のゼミであったように思う。新入の一年生を含め参加することができた。見田さんのことは大学に入るまでまったく知らなかった。同級生からおもしろいらしいと聞いた。学校の掲示板に、なにか短い文章を出すようあったので、書いて出して入れてもらった。当時はたしか柳田国男の『明治大正史世相篇』などを扱っていたと思う。ものごとを分析するその手際、切れ味のよさに驚いた。見田さんは、だいぶ後のことになるが、『朝日新聞』で論壇時評の欄を担当していた時、本誌『そよ風のように街に出よう』『季刊福祉労働』とをあげて、そのいずれかだったかの発刊何号だか何年だかを讃えたことがあった。そのゼミの先輩には大澤真幸もいて、しかし二年上ですぐに会うことはなく、といった話をしていると先に行けない。勝又は後に一人暮らしをするんだということになって、その住居探しを手伝ったことがある。私が不動産屋まわりについていった日にようやく決まった。その流れで、しばらく、その人の介助をときどきすることがあった。その時はもう私は本郷の文学部の学生になっていて、彼も本郷の近くの西片に住んでいた。ここでも彼はもぐりの学生をしたりしていた。院生になってもすこし介助はしていたかもしれない。私は有償介助を強く支持する立場の人間だが、その仕事では金はもらわなかった。ただ、帰りにそこでシャワーを浴びてくる(銭湯だと金がかかるので)といったいささかの利得はあった。夕飯を作っていっしょに食べたが、材料費を折半ということもしなかったと思う。仕事自体はべつにきつくなかった。ただ、介助者のローテーションを決め、予定表を埋めるために電話をかける仕事をさせられた。これはなかなかつらいものがあった。
 時間を七九年・八〇年に戻す。教養学部の時、私は『黄河沙』というミニコミ誌を作る「時代錯誤社」というサークルにいて、今はつぶされてなくなってしまった駒場寮という汚い建物で雑誌を作っていた。ジョン・レノンが撃たれて死んだニュースはそこで聞いた。そのサークル自体はとくに「政治的」な傾きのあるところではなかったのだが、それでもいろいろに首を突っ込んでいる人もいた。さっき名前を出した人たちが出入りしていたし、そういう人たちとつきあいのある人たちが作ったサークルだった。私が学校に入る前年に創刊号が出た。今でもまだこの雑誌は続いているらしい。そのサークルが学園祭で講演会の企画を立てた。一つは政治家になってまもない、まだそう知られていない時期の管直人の講演会。私はそちらにはほとんど関わらず、もう一つの方の担当になった。
 東京の国立市に「富士学園」という小さな施設があって、その施設はある資産家が自分の子どものために作ったということだったが、どういう理由であったのか、たたんでしまうということになり、それでは入所者はどうなるんだということでそこに務めていた池田智恵子さんという職員が一人残って存続のために活動し、しかし経営者から金は払ってもらえないので、支援者たちが廃品回収などして金を稼いでいたりしていた。その池田さんたちを呼んで何かしようということになったのだ。たしか、さきに名前をあげた、今は死んでいない高橋秀年がそこにも出入りしていて、彼はそのサークルのメンバーではなかったのだが、私たちの幾人かと親しく、そんなこんなで企画が決まったはずである。私は知識もなにもなかったから、とにかく、そこに行ってみなければならないということになって、それで行った。
 そこに暮らしている人は三人だった。そして池田さんがいて、その他の人たちが出たり入ったりといった具合だった。その頃のことその後のことについては池田さんの著書『保母と重度障害者施設――富士学園の三〇〇〇日』(彩流社、一九九四年)に書かれている。(いまアマゾンを見たら、マーケットプレースでは入手できるようだ。)交渉はなかなかうまくいかず、金はなく、厳しい状態ではあったのだが、そこはおもしろいところだった。その学園祭での講演会――そのもののことはあまり覚えていない――の前と後、ときどき出かけ、おもに日曜、国立の近所を軽トラックでまわって廃品回収をする仕事を手伝ったりした。そうして回収して置いてあるものの中から、いくらかを所望し、いただくこともあった。例えば『情況』などという雑誌のバックナンバーをそうしてもらってきた。そして食事をみなとした。三人のうちの一人は「みみ」君と呼ばれていた若い男性だったが、言葉なく、ぐるぐるまわったり、ときに土を食べてしまったりする人であり、「わからん」人であった。ただ、その極小の不定形な場にその人はいて、「これはあり」であると思えた。その確信というか、現実というか、みなが「これでよし」と思っていたと思う。後に「他者」などどいう言葉を聞くようになったりあるいは自ら言ってしまうようになったりした時、この人のことを思い起こすことがある。やがてその人は、夜中建物を抜け出し、中央線の線路まで行き、夜中に通貨する貨物列車にぶつかって死んでしまい、そんなことがあったりもしたので、池田さん(たち)は残る二人をうまく暮らせていけそうなところに移れるようにして、そこでこの施設は終わりになったのだった。
 そんなこんなのことはあった。養護学校義務化を巡る対立のことを書こうとして、そういえばその年、と書いていったら、もう決まった文字数に達してしまった。続きが書けたらその時に。では。

■関連文献(雑誌には掲載されない)

池田 智恵子 19781225 「富士学園自主運営四年間の闘いの中で」,『季刊福祉労働』01:126-132 ※COPY
池田 智恵子 19791225 「地域との交流をめざす富士学園」,『季刊福祉労働』05:128-139 ※COPY
池田 智恵子 19810925 「みみの死」,『季刊福祉労働』12:100-103 ※
池田 智恵子 19940510 『保母と重度障害者施設――富士学園の3000日』,彩流社,268p. ISBN-10: 488202294X ISBN-13: 978-4882022947 1890 [amazon][kinokuniya] ※ b


◆2007/11/10 「もらったものについて・1」
 『そよ風のように街に出よう』75:32-36,
◆2008/08/05「もらったものについて・2」
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◆2015/08/20 「もらったものについて・14」
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◆2011/07/25 「そろいでもってます」
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UP:2007 REV:20090817, 20220712
『そよ風のように街に出よう』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa病者障害者運動史研究  ◇東大闘争:1970'〜
東大闘争:おもに医学部周辺  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇障害者(運動)史のための年表 
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