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大賀 重太郎

おおが・じゅうたろう
1951〜2012


 *以下作りかけ。リンク等はのちほど。

■新着

◆2014/01 大賀重太郎追悼記念誌『きり拓く――ひとびととゆめをつないだオトコのものがたり』刊行
 追悼のメッセージ、略年譜、前史、障害者運動の裏方として(グループゴリラ時代、全障連時代、障問連時代、阪神・淡路大震災)、他資料。1冊500円。

購入ご希望の方は、拓人こうべ(担当葛島)までご連絡ください。
TEL 078-642-0142
FAX 078-642-0942
E-mail gutskunあっとtakuto-kobe.net
です。

◆2013/08 東日本大震災救援活動の中のhideの風景  http://yumekaze21.blog39.fc2.com/blog-entry-849.html

障害者問題を考える兵庫県連絡会議:代表 福永年久
機関誌 障問連ニュース8月号からの転載
連絡先
TEL 078−842−3299
FAX 078−842−3354

「「追悼」大賀重太郎さんの1回忌に思うこと 高島恵津子(NPO法人ピータンハウス理事長)
・昨年7月8日に突然の拓人からの連絡。
……嘘と言う気持ちで1ケ月が過ぎた事。
暑い季節に辛い悲しい事が思い出されます。

大賀さんとは、震災が有ったからこそ出会った人です。
ピータンを設立再開できた人です。
大賀さんに出逢えたからこそ知り合いからの繋がりで、再開そして作業内容も陶芸に神戸では、数少ない陶芸の作業所だから、最後まで面倒見のよい京都相楽の先生をと、力強く説得してもらったことが(技術なく不安があったので)……昨日のように思い出されます。

そして再開スタートしてあんな事こんな事がある中で設立して18年間、支えて下さり、特に理事として昨年の理事会、総会には今までよりも足取りで、遠方の姫路よりピータンに本当に良く足を運んで頂き、全国で行動されている中、ピータンが心配、(いいえ、私が頼りなく、特に主人が亡くなり、心配かけたのでは……?)、ピータンが1日も早く安心の報告が出きるよう、来年の移行に向けて、みんな一丸になり頑張ります。
大賀さん、ずっこけないように見守って居て下さりね。
暑い折全国の皆様、ご自愛ください。

○この文章は「ピータン通信夏号2013年7」より転載させていただきました。
ご理解いただきありがとうございました。
(「ピータンハウス」は……重度障害者の働く場・表現活動の場、そして「地域につながり誰もが参加できる場」として、陶芸を中心した作業活動を行われ、現在「地域活動支援センター」、そして今後自立支援給付事業への移行を目指し取り組まれています。)

○歳月の経過は早く、大賀さんが亡くなられ1年が過ぎました。
昨年10月に開催された「偲ぶ会」以降、全国から多くの追悼文を寄せていただきました。
今秋には「追悼記念誌」を何とか発刊すべく「拓人」の方々と作業中です。
また、発刊を記念し、大賀さんが精力を注がれていた「ひょうご地域福祉政策研究会」も 各方面に働きかけ再開できるよう、現在準備中です……。」(全文)

 
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■経歴

1951年兵庫県生まれ。1972年から障害者問題に出会い、青い芝の会運動等と共同。1976年から全国障害者解放運動連絡会議(全障害)事務局。1981年障害者問題を考える兵庫県連絡会議に参加。1995年に被災地障害者センターを発足、1999年にNPO法人となり事務局長を経て専務理事。2005年拓人こうべに名称変更。NPO法人姫路自立生活支援センター副理事長。社会福祉法人えんぴつの家評議員他(似田貝編[06])より。

1951 兵庫県相生市に生まれる(後に姫路市へ)
1970 神戸大学へ入学
1971 福永年久氏(現・拓人こうベ代表)の丸山中学校西野分校(長田区、夜間)への送迎ボランティアを担う、これが福永氏との初めての関わり
1972 障害者問題に出会い、以降「青い芝の会」運動等と共同
1973 ・3月友人に誘われ、書写養護学校での映画『力ニは横に歩く』の完成試写会に参加、多数の障がい者に出会う
   ・「自立障害者集団グループ・リボン」メンバーの勧誘により「自立障害者集団友人組織グループゴリラ」に参加、兵庫の中心メンバーとして活躍
   ・兵庫青い芝の会の事務所にて編集局を組織、機関紙の発行等を行う
   ・優生保護法改悪阻止闘争、兵庵県「不幸な子どもの生まれない運動」糾弾闘争等に参加
1974 青い芝の会と関西障害者解放委員会と、全障研に対抗し得る障害者運動の全国組織化に向けて協議
   ・準備会に500〜600人集結
1976 「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」事務局
   当初、全国事務局は東京、関西事務所の専従であり東京に通う
1979 ・春甲山事件の裁判中に甲山施設の理事会長が発言「障害児が死んでよかった、親に迷惑かけて生きていくよりも死んでよかった」、これに抗議するため甲山施設の事務所に関西青い芝連合会の30人ぐらいが座り込みを実行。その前に福永氏とともに被告女性宅を訪問、抗議の座り込みを行う旨の報告を行う
   ・全障連全国事務局(大阪)と関西ブロック事務局の専従
   ・養護学校義務化阻止闘争、金井康次君の就学闘争の支援に張り付く
1981 「障害者問題を考える兵庫県連絡会議」(障問連)、「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議」 (障大連)の結成に尽力
1982 富山市生活保護行政差別事件糾弾闘争に張り付く
1984 ・「関西障害者定期刊行物協会」の設立に尽力、第1期事務局長として関西全域に障害者低料第三種郵便制度を広げる
   ・DPI日本会議結成に尽力
   ・ノーマライゼーション研究会の結成に尽力
1986 無認可福祉作業所「ひびき共同作業所」(姫路市)の立ち上げに関わる
1987 ・《生きる。働く・ホットライン》「ネットワーク」発刊
   ・「国際障害者の10年」中間年イベントにおいてレーチェル・ハースト氏招へいに尽力
1993 ・7月 自立生活センター神戸Beすけっと設立に関わる
   ・9月 神戸市で全身性障害者介護人派造事業始まる(全国で3番目)
   ・障害者総合情報ネットワークの設立に尽力/「ジョイフルビギン」の編集委員
1995【阪神・淡路大震災】
   ・震災直後から姫路よりFAX「オズの箱」、情報を発信、かつ情報収集、全国の団体とネットワークを組み必要 なものを必要なところにコーディネートする
   ・「被災地障害者センター」の発足に参加、その後、同センター事務局長、専務理事を歴任
   ・「仮設住宅支援連絡会」(現、被災地NGO協働センター)に参画
1997 小規模作業所等体力アッププロジェクト(ゆめ・風プロジェクト)事業開始(「阪神・淡路コミュニティ基金」の助成による3年事業、被災地作業所訪問調査、作業所合宿、ゆめ風ギフトセットなど、〜1999年)
1998 作業所、ゆめ・風プロジェクトにより「第1回福祉縁日」を開催(ポートアイランド国際展示場・市民広場にて)
1999 ・「生活の場意見交流会」発足
   ・「被災地障害者センター」がNPO法人格を取得
2000 ・「被災地障杏者センター」の「事業所たくと」が介護保険並びに障害者措置制度に基づくヘルパー派遣事業を開始
   ・知的障害者ガイドヘルプの取り組みを行う
   ・「生活の場サボートセンターひょうご」事業開始
2001 「セルフマネージメント手法の研究と開発(愛称:『自分らしく生きたい』発見プロジェクト)」の立ち上げに関わり事務局を務める
2002 長田区の地域生活支援センターの立ち上げ準備を行う
2003 「ひびき共同作業所」の社会福祉法人化(現:社会福祉法人ひびき福祉会)に伴い理事として参加、継続して運営に携わる
   ・「ひょうご地域福祉政策研究会」の立ち上げに関わり、事務局を務める
   ・障がいを持つ子どもの支援事業「よりみちクラブ」開始、運営委員として寧業に携わる
2004 交通事故で受傷、高次脳機能障害の診断を受ける
2005 「被災地障害者センター」が「拓人こうべ」に名称変更
2006 ・NPO法人ネットワークながた発足、ながた障害者地域生活支援センターの業務を受託
   ・「事業所たくと」が「社会福祉法人えんぴつの家」に移行
   ・『ボランティアが社会を変える』(関西看護出版)を共著
2012 7月8日死去
                       (栗山・稲本・葛島 2012『大賀重太郎さんを偲ぶ会/資料』より)

 
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◆2013/1/17 「被災障害者に自立生活を、阪神の活動「教科書」に」  2013/1/17 6:04 日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK16033_W3A110C1000000/

 「阪神大震災から17日で丸18年。震災直後から神戸を拠点に障害者の自立支援活動をリードしてきた男性が昨年病に倒れ、亡くなった。故人の思いは後進に受け継がれ、東日本大震災の被災地でも脈々と息づいている。  ハンチング帽をかぶった人なつっこい男性の遺影を車いすに乗った障害者ら約130人がじっと見つめた。学生時代にたまたま障害者と出会って以来、障害者支援に半生をささげた団体職員、大賀重太郎さん(享年61)を偲ぶ会が昨年10月、神戸市で開かれた。東日本大震災で被災した障害者を支援するボランティアも大勢駆け付けた。  1995年1月、阪神大震災の朝、大賀さんは兵庫県姫路市の自宅にいた。「身動きできない障害者がたくさんいるはず」。つながりやすい公衆電話に通って障害者の安否確認などに奔走、自宅を拠点にワープロ通信でファクスを送り続けた。  「無事か?だいじょうぶか?」。頭文字を取って「OZの箱」と名付け毎日発行した通信は何度も転送され、全国約100カ所の施設や個人宅に届いた。半月後には「被災地障害者センター」を立ち上げて行き場を失った障害者を探し出し、ボランティアの若者らと24時間介護をした。  「『復興じゃない。震災前より良くしていくんや』が口癖でした」。ファクスをきっかけに神戸市を訪れ、今も同市長田区で障害者支援に携わる毛利須磨子さん(41)は振り返る。「障害者は仲間。困っている人を探して、困っていることを聞くんや」。若いボランティアに大賀さんはいつもこう語りかけた。  障害者の避難生活を間近で見た大賀さんは95年5月、兵庫県と神戸市に復興計画への要望書を出した。「障害当事者と共同でニーズ調査を」「仮設住宅の段差やトイレは高齢者や障害者の生活が前提になっていない」――。こうした声が少しずつ行政に届き、復興の過程で駅のバリアフリー化などが実現していった。  そして16年後に起きた東日本大震災。阪神大震災を機に障害者の自立を支援してきたNPO法人「ゆめ風基金」(大阪市)を中心に、のべ100人を超える障害者がヘルパーを伴って東北を訪れた。  東北の被災地では7カ所で「被災地障害者センター」が立ち上がり、障害者の生活相談や送迎を手掛ける。ゆめ風基金の橘高千秋事務局長は「大賀さんを中心にやってきたことが今の活動の教科書になっている」と話す。  2004年、大賀さんは交通事故で高次脳機能障害になり、晩年は障害者施設「ひびき福祉会」(兵庫県姫路市)などに役員としてたまに顔を出すのが精いっぱいだった。昨年7月、食事をのどに詰まらせて急逝した。  「被災地に行きたいんや」。昨春、同会の後藤由美子理事長(54)は大賀さんの絞り出すような声を聞いた。「東北が気になって仕方ないのに、自らも障害者になり体が動かず悔しそうだった。これからも活動を続けることが大賀さんの願い」と空を仰いだ。」(全文)
 
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◆「大賀重太郎さんを偲ぶ会」のご案内

 大賀さんが亡くなられ、早1ヶ月が過ぎました。62歳という余りの早さ、突然の訃報に誰もが驚きました。交通事故に遭われて以来、体調がすぐれず、以前のような活動は制限されたものの、昨年11月には地域福祉政策研究集会「震災と障害者」の開催に尽力され,体調の波は合ったものの、関わられる団体の会議等のために姫路から神戸まで厭わず通い続けられ、少しふっくらされ、お元気になられたのかとの感もあったのに・・・。
 日本における障害者解放運動が創成し高揚した1970年代から、裏方として駈けずり回られ、兵庫においては障問連結成、兵庫障害者解放運動意見交流会の組織化、就学闘争や個別課題、関西においても長らく全障連関西ブロックの専従を務められ、さらに全国各地の個別闘争等の事務局、全国的な組織化など、果された功績は語り尽くせません。
 また、阪神大震災の際には、お住まいの姫路から『オズの箱』と題した救援ファックス(現在のように携帯電話やメールはなかったんですよね・・・)を連日、被災した仲間に情報や救援を呼びかけ続けられ、どれだけ励まされことでしょう。そんな大賀さんの取り組みが被災地障害者センター(現在の拓人こうべ)を生みだし、それが今般の東日本大震災においても、当たり前に被災障害者救援、被災地障害者センターの活動へとつながっています。
 後年、東日本大震災に対する様々な支援活動に接せられ、「被災地に行きたい・・・」と漏らされたと言います。かつて阪神大震災の際には自ら全国的な支援に奔走されていた大賀さん、体力の回復がままならない中で歯がゆい思いを持たれながらも、思いは被災地へと向けられていたのでしょう。
 かけがえのない同志であり仲間であった大賀さんの死を追悼し、大賀さんと言う「人」を偲び、同時に大賀さんが遺された言葉や功績、障害者運動の歩みを、皆で確かめ合うような「偲ぶ会」を開催できればと願います。
 ご多忙とは存じますが、是非ご参加ください。

《呼びかけ人》
楠 敏雄 (NPO法人大阪自立生活協会理事長)
牧口一二 (NPO法人ゆめ風基金 代表理事)
福永年久 (障害者問題を考える兵庫県連絡会議 代表)
石橋宏昭 (全国障害者解放運動連絡会議関西ブロック 代表)
竹本貞雄 (NPO法人拓人こうべ理事/元自治労兵庫県本部委員長)
後藤由美子(社会福祉法人ひびき福祉会理事長)

日時:10月13日(土) 午後1時30分〜4時30分
   午後1時から受付・開場します
場所:神戸市勤労会館 多目的ホール
   神戸市中央区雲井通5丁目1-2 078-232-1881
   市営地下鉄・JR・阪急・阪神・ポートライナー各三宮駅から
   東へ徒歩5分 (地図↓)
http://www.kobe-kinrou.jp/shisetsu/kinroukaikan/index.html
会費:3000円

連絡・問い合わせ
稲本(拓人こうべ  […]
栗山(障問連事務局 […]

☆ご参加の方は、必ず事前に下記までご連絡下さい。
また、ご参加できない方、よろしければ下記までメッセージをお寄せ下さい。
  E-mail  asobigumo1122あっとcocoa.plala.or.jp
  FAX  0798−75−6341(栗山まで)
氏名
住所
連絡先

◆松村敏明 「追悼・大賀重太郎氏」
 『えんぴつの家だより』(社会福祉法人・えんぴつの家)

 「1999年4月1日より、えんぴつの家の評議員を勤めていただいている大賀重太郎氏が7月8日、急逝された。享年62歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。・・大賀氏との出会いは、確か彼が神戸大学生であった頃だから、1970年代の始め頃である。記憶が薄らいで事の順序が間違っているかもしれないが、神戸大学では障害を持つ青年が聴講を申し入れて拒否されるという事件が起こった。学生たちが青年を支援して大学当局と話し合っていたが埒があかず、ほんの少しだが障害者問題に関わっていた私たち市民に応援を求めて来た。障害者のきょうだいとして関わっていた私と同じ立場のM氏と大学近くの教会の牧師さんの三人が学生たちと共に大学の教養部長と話し合った。その中に大賀氏がいたのかどうかは記憶にない。・・その頃、義務教育を受けることができていない障害児「者:」教育権を保障しょうと私たち教師は取り組んでいた。就学猶予になっている子どもや、たとえ成人していても「教育を受ける切符」をまだ使っていない人を公教育の場につなぐ取り組みをしていた。・・一人の脳性麻痺の青年が学校へ行きたいと言ってきた。当時丸山中学校に勤務していた私は校長に受け入れてほしいと話した。その校長が玉本格氏、えんぴつの家初代理事長である。丸山中学校には全国的にも数が少ない夜間中学校「西野分校」が併設されていた。青年はそこへ入学することになった。・・ところが、西野分校は幼稚園の二階にある。車椅子の青年を数人でかつぎ上げなければならない。神戸大学の学生に応援を求めた。夕方学生たちが青年を車椅子ごと二階の教室へ上げてくれた。その学生の一人が大賀重太郎氏であった。その青年とは後に「障害者問題を考える兵庫県連絡会議」や「被災地障害者センターこうべ」の代表として大賀氏とともに活躍する福永年久氏である。
 大賀氏はその後、全国障害者解放運動連絡会議の事務局を担って大活躍をしていく。・・そして、1995年に阪神・淡路大震災である。・・姫路市の実家にいた彼は、被災地の状況や今必要とする「物」「者」「情報」を全国へ流してくれた。:彼はこの情報源を:オズの箱:と名付けていた:被災地のド真ん中で毎日バイクにまたがって在宅障害者の安否確認を続けていた私たちにとって「オズの箱」はどんなに力強かったか。・・二月二日、被災地の障害者団体が結集し「被災地障害者センター」が結成された。その中心に大賀重太郎氏が座っていた。神戸へ帰って来てくれたのだ。これで神戸の運動は大丈夫だ。心底ほっとした。その時思った通り、「被災地障害者センター」は兵庫県における障害者運動の中心的役割を果たして来た。前述のように彼は1994年より18年間、評議員としてえんぴつの家を支えてくれた。・・これからというときに、あまりに早すぎるではないか。悔やんでも悔やみ切れない急逝であった。安らかにお休みください。」

◆大賀重太郎さんを偲ぶ会は、10月13日(土)午後 神戸市勤労会館・JR三宮駅スグ・実行委員会主催

◆立岩真也 2011/07/25 「もらったものについて・7」『そよ風のように街に出よう』81:38-44

 「阪神淡路以来のこうした活動について研究者が書いたものは多くないが、ないではない。東京大学の元教員で今も「東京大学被災地支援ネット」の運営に関わっている似田貝さんとそこの大学院生が幾度か調査してそれを本にしたものがある。似田貝香門編、柳田邦男・黒田裕子・大賀重太郎・村井雅清『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』(関西看護出版、二〇〇六)と似田貝香門編『自立支援の実践知――阪神・淡路大震災と共同・市民社会』(東信堂、二〇〇八)。これらの一部にだが、出てくる。おもしろいか、というと、その当時届けられた機関紙なんかと比べるとそうでもないというのが私の率直な感想なのだが、おもしろがらせるためにこういう本は書かれるのではないのだから仕方はないだろう。ただ、これらの本に、何人か存じあげている人たちが、とくに著者として、あるいは登場人物として、大賀重太郎さんがいた。
 一九八〇年代、二日市安さん(二〇〇八年に七八歳で逝去)の御自宅を会場に、「「障害者の十年」研究会」という小さな研究会がしばらくあった。石毛えい子さん、北村小夜さん、堀利和さんなどがいらしていたと思う。そこに毎回だったと思うが、大賀さんがいた。二日市さんの車椅子を押していたのも大賀さんだったかもしれない。それから一度も直接にはお会いしていないと思う。機関紙などで、ずっと東京を拠点にしていた大賀さんが神戸に戻られ、活動されていることは知っていたが、それらの本に出てきた時、単純にうれしくなって、『ボランティアが…』を『看護教育』(医学書院)でさせてもっていた連載で紹介させてもらったことがある(これも全文をホームページで読める)。その一部を以下。

 「大賀はだいたい二〇年ぐらい前に知った人だ。一九五一年生。[…]たしか神戸大学を中退し、稼ぎの方は妻に任せ、ずっと障害者の生活や社会運動の支援をしてきた人だ。
 そんな人たちがこの運動のまわりには、もちろんそう多くはないが、すこしはいて、たいてい脇の方にいて目立たないのだが、大切な働きをしてきた。それには時代背景というものもあるにはあるだろう。「反体制」的な気分があり、そんな気分の人たちがいて、その一部が、様々な経路でここに入って、抜けられなくなって、何十年を過ごしてきたのだ。自分らの主義主張のために障害者を利用しようという人たちは障害者本人たちからも嫌われ、長くは続かなかった。残った人たちは、介助(介護)の仕事などしながら、側面から支える役をしてきた人が多い。
 そういう時代の雰囲気があったということではあるだろう。だだ、今でも企業に就職せず、という人はたくさんいる。その時代にもそういう人たちがいたのだということでもある。「普通の社会」であればどうか、といった人たちがそんなところへやってきた。(むろん、要所要所でするべきことをこなそうとしたら、それなりの才覚は求められ、ただの変な人では務まらないわけではあるのだが。)
 大賀さんは兵庫の人だが[…]全障連等で仕事。[…]地震が起こった時には東京にいたのだが、いてもたってもいられなくて、兵庫に戻ったのだという。大賀さんたちは「被災地障害者センター」(現在は「拓人(たくと)こうべ」)を設立し、その活動を長く続けてきた。彼は事務局長をし、今はその組織はNPO法人で、肩書きとしては常務理事ということになっている。
 震災後の一時期の騒ぎは収まっていき、引く人は引くが、困難は続く。それでその人たちの活動は長いものになる。一つ確実に言えるのは、そこに既につながりや方法があったということだ。てきぱきとやることをやるという場所ではない場所があって、そこが地縁とはすこし異なる、人々のつながりの拠点になる。生活を立ち上げて続けていくことを支える活動が既にあり、それがあって、よい仕事ができてきたのだと思う。」

 こんなことを書いた。」

◆立岩 真也 2012/12/25 「多様で複雑でもあるが基本は単純であること」,安積他[2013:499-548]
*安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 20121225 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,663p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 1200+ [amazon][kinokuniya] ※

 「そしてCILもいろいろだ。これまでの章でも多様性については書いてきた。ただ、一九九〇年前後に私たちが関わったのは主に東京近辺の幾つかの組織だった。地域によっても形や「乗り」がずいぶん違う。例えば兵庫の「メインストリーム協会」はとても大きな規模の事業をしているが(常勤のスタッフが二〇人はいると聞いた)、東京の「ヒューマンケア協会」とはすこし雰囲気が違う。比べて緩い感じがある。それらがどんな具合に機能しているのか。どのように利用しているのか。どのように働いているのか。例えばさきにあげた前田・渡邉の本が示しているのは、全国で起きていくことでもあるが、その土地のその組織や人たちのことでもある。その上で、各地にできてきたつながり、そのつながりのつながりが、機能している。例えば阪神・淡路大震災の時、常に機能的に機能しているというわけでないそのつながりがあってなんとかなったところがあった。その人たちは新しい組織も作り、「ゆめ・風基金」を設立し金も集め始めた。そして東日本大震災の直後に東北に向かった人たちにメインストリーム協会の人たちもいたと聞く。そして福島で「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表をしているのは、第1章の安積の先輩で盟友であった、そして全国青い芝の代表を務め(○頁)、神奈川県相模原市に「くえびこ」といを場を作りグループホームを運営した後、福島に戻って活動を続けてきた白石清春(一九五〇〜)であり、その活動の支援に、かつて兵庫の青い芝の会にいて(後に解散させ)、その全国組織でも白石と一緒だった(そしてたぶん対立もあったはずの)古井(旧姓:鎌谷)正代(一九五二〜)が駆けつけたりもした☆07。」
「☆07 ごくごく簡単な報告として[12A]。HPに「東日本大震災」の頁があり、関連頁につながっている。阪神淡路大震災の時・その後のことについては似田貝編[06][08]佐藤[10]にいくらか記されている。そして、これらの本にも出てくる大賀重太郎(一九五一〜)――彼もまたものを言わず傍にいて支えてきた人たちの一人だった――がこの章を書いている年になくなった。」

『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版表紙』

■大賀さんの書かれたもの

◆大賀 重太郎 19960226 「震災から1年たっても なんでこんなに涙もろく なんでこんなに腹立たしい」,『障害者救援本部通信』第16号(1996.2.26)
 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/serial/7-z27/eqb90_016.html#01

◆似田貝 香門 編/柳田 邦男・黒田 裕子・大賀 重太郎・村井 雅清 20060331 『ボランティアが社会を変える――支え合いの実践知』,関西看護出版,202p. ISBN-10: 9784906438785 ISBN-13: 978-4906438785 1680 [amazon][kinokuniya] ※ d10.
◆似田貝 香門 編 編 20080208 『自立支援の実践知――阪神・淡路大震災と共同・市民社会』,東信堂,342p. ISBN-10:4887137974 ISBN-13:9784887137974 3800 [amazon][kinokuniya]s ※ v05. d10.
◆佐藤 恵 20100910 『自立と支援の社会学――阪神大震災とボランティア』,東信堂,218+viiip. ISBN-10: 4887139497 ISBN-13: 978-4887139497 \3360 [amazon][kinokuniya] ※ s. v05. d10.

◆大賀 重太郎 2007「障害者問題について(分析と評価) (特集 分析「人権政策マップ」--兵庫県内自治体の人権政策の現状)」『研究紀要』 (13): 55-65.
◆大賀 重太郎 2006「障害者問題について (特集 人権政策マップ--兵庫県内自治体の人権政策の現状) -- (「人権政策マップ」全体の概要報告)」『ひょうご部落解放』120: 16-18.
◆大賀 重太郎 2004「課題別事業評価 身体・知的障害者の人権問題 (特集 「人権教育のための国連10年」行動計画の成果と課題--「10年」最終年にあたって) -- (兵庫県の動き)」『ひょうご部落解放』112: 42-46.
◆大賀 重太郎 2003「「ひょうご地域福祉政策研究会」が活動を始めました」『ひょうご部落解放』109: 60-62.
◆大賀 重太郎 2002「被災地障害者センターの活動 (部落解放研究第24回兵庫県集会報告書) -- (分科会報告 第5分科会 人権のまちづくり)」『ひょうご部落解放』107: 174-178.
◆大賀 重太郎 2002「そこが知りたい支援費制度 NPO法人被災地障害者センターのめざすもの--支援費制度対応と委託事業の受託を見据えて」『月刊福祉』85(8): 48-51.
◆大賀 重太郎 2002「公募研究報告 福祉サービス提供事業と人権コミュニティーづくり」『ひょうご部落解放』104: 43-50.
◆大賀 重太郎 2000「震災からみたバリアフリー (特集 心のバリアフリー) -- (各論 心のバリアフリーへの取り組み)」『教育と医学』48(12): 1120-1124.
◆大賀 重太郎 1997「被災直後,障害者はどこに避難し,どんな生活をつくったのか」『ノ-マライゼ-ション研究』 179-186.
◆大賀 重太郎 1996「震災から1年たっても,なんでこんなに涙もろく,なんでこんなに腹立たしい〔含 阪神・淡路大震災からの「復興」における障害者支援対策について(申し入れ)〕 (1年後の神戸<特集>)」『月刊自治研』38(2): 57-62.
◆大賀 重太郎 1996「なんでこんなに涙もろく,なんでこんなに腹立たしい (大震災,そして福祉)」『ノ-マライゼ-ション研究』 171-181.
◆大賀 重太郎 1993「<人権>がテ-マになる障害者の世界 (ヒュ-マンテクノロジ-と福祉社会<特集>)」『地域開発』 p48-50.



◆立岩 真也 2018 『(題名未定 2018b3)』,青土社


UP:20121006  REV:20121007, 1022, .. 20130117, 0905, 0119, 20180413
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO 
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