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最首悟氏インタビュー・1

2022/10/13 聞き手:立岩 真也・丹波 博紀

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最首 悟 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
最首 悟 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
最首 悟 i2022c インタビュー・3 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅

東京大学やその周りでの 解放連続シンポジウム『闘争と学問』
生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 【rmk18-2】20221013最首悟_157分


最首:いろんなかたちでやってきたもんだから、ここは。

丹波:〔東京大学への資料の提供について〕誠意ある対応でしたよね。

立岩:吉見〔俊哉〕さんは僕の二つぐらい上で〔1957生〕、じかに知ってる。同じ研究科だったんで。

最首:立岩さんより二つ年上?

立岩:そうなんです。吉見、副学長かよみたいな。でも吉見さんなら確かにオッケーって、うち〔東京大学〕におきたいと言ってくれるだろうなっていうのは思いました。
 今日は僕の感じとしては、だいたい最首さんは言いたいことは言ってんじゃないかなと思っているので、むしろ覚えてる範囲の昔の話というか、断片断片でいいので教えてくれたらなっていう。私はそういう思いでまいりました。

最首:記憶が問題だからね。

立岩:そうでしょうよ。私なんかもうなんにも覚えてないですよ。ですけど、とは言えっていうか。

最首:でもだんだん死んでいっちゃうもんね。高橋、死んじゃった。

立岩:そうそう。今度見田〔宗介〕さんの追悼の会みたいなのが学士会館で12月にあって。その時たぶん吉見さんも来るんですよ。その時にそういうアーカイブとか、そういう話も久しぶりに。久しぶりっていうか、俺吉見に40年ぐらい会ってないよ。

最首:見田さんというのは立岩さんより上?

立岩:見田さんは僕らの先生ですよね。

最首:先生なのか。

立岩:あれも結局なんだかんだ言って、単位外の授業みたいなのをみんながやるみたいな。今日おうかがいしようと思う自主講座とか「闘争と学問」とか、それが最初だったんでしょうけど。折原〔浩〕さんにしても。見田さんは見田ゼミっていうのがあって、教室は使うけど単位外というか、学校のカリキュラムの中にはないやつで。だから学外の、それこそ和光の学生とかも、和光の卒業生とかも来たり。そういうので僕は一年生と2年生のときに見田さんのゼミに出てたっていう。
 というので、その見田さんたち以降ぐらいのことは、学生もしていたので、多少はわかるんですが、今日はもうちょっと時間を巻き戻してっていうか。っていうのが思っていて。ただ、68年の一番派手なときの話っていうのはいろいろ本やら何やら出ていてある程度はわかるけども、後のことも含めて。知られている部分がこんなぐらい、残りは全部なんかよくわかんなくなってるんで、このままだとよくわかんないまま終わりみたいな話になっちゃうんでっていう。そんなことを思いまして。



最首:資料としては、ここから東大に送った中に西村秀夫メモがありましてね。そんな紙に書いたのがものすごくあって。

立岩:僕ね、今日の話もこれだけうかがってもいいかなと思って。西村さんっていうのが前からちょっと気になっている人で、その資料は資料でまた僕らの大学の院生で見に行く人も出てくると思うので、それはそれとして。僕はちょっと誤解してて、東大闘争の68-70年ぐらいの時に西村さんと最首さんが会ったと思ったんだけど、それは違うと。もう60年安保の時からっていう話、「あ、そうか」と思って。そういう「古い仲」って言っていいんですかね?

最首:西村さんとはね、私が学友会の議長になったのが60年、61年で。「樺美智子に捧ぐ」という駒場祭第12回でしたかね? 翌年やったのかな。

立岩:樺さんが亡くなった次の年みたいなことですか? [00:05:03]

最首:60年だったか61年だったか。要するに、私が学友会の議長になって自治会との関係もできて、その***(00:05:22)を自治会にあげたことなんかもあったんだけどね。そのあたりで西村さんとの関係ができてると思うのね。

立岩:例えば僕は文学部の出なんですけど、文学部は「自治会」って言わなくて、実質学友会が文学部の自治会なんですよね。60年当時の学友会っていうのは、自治会とは別に存在する?

最首:別にあった組織で、教官と学生の懇談会、連絡機関とか懇談会みたいな話でね。運動部も入る、文化部も入ってるという。

立岩:サークル単位的なものなんですか?

最首:サークル単位で。

立岩:駒場に学友会館って会ったと思うんですけど、あれもサークルの組織が運営してるみたいな感じだからサークル棟みたいな。なかったでしたっけ?

最首:学友会館ってなんかよくわかんないな。

立岩:たぶんでもそうなんでしょうね。教員も入ってるし、個人加盟っていうかサークル加盟みたいなもんなんですかね。

最首:サークル加盟ですね。それで自治会からもう「保守の権化」みたいに見られててね。ところが、60年安保に学友会としての運動部がデモの先頭に立ったもんだからだいぶ違ってきたんですけどね。

立岩:その時に最首さんが学友会の議長とおっしゃって。

最首:議長っていうのがトップです。

立岩:議長がトップなんですね。でもなんで最首さんがその学友会の議長になったというか、なろうと思ったとか、誰かになれって言われたとか、どういういきさつだったんですか?

最首:その前が同じ理科系の牛島ってやつがやってて、その後を引き継いだようなことでね。要するに、私はまったくの右翼という感じなのね。それで、牛島の後を引き継いで二期やったんだよな。二期じゃない、何期になんだよ…半期ごとの改選ですからね。

立岩:半期ってのは半年ってことでしょうか?

最首:半年だったと思う。

立岩:半年を二回やったっていう感じですか?

最首:3回か4回。2年間ぐらいやったんじゃないかな。

立岩:じゃあ四期やったかもしれないという。

最首:60年が私は2年生で、それで61年は休学と称して、「茅野さん☆の遺稿集を作る」と称して一年間遊んでたときなんですよね。その時、学友会の議長がやれたのかどうか。やっぱり学友会の議長は60年1年間だったのか。とにかく西村さんとの関係は60年の「WUS(ウス)」です。?山政道☆の民主教育学会かなんか。WUSっていうのは、WだからWorldがついてますよね、世界なんとか連合っていうはず、WUS。?山政道がトップなんです。その関係で、全国の学生が集まって討論をしたいと。というのが、北海道の北大の【演習林】(00:09:43)の音威子府(おといねっぷ)でやると言うんでね、それに私ともう1人・2人、西村さんから声かけられて行ったんですよ。それは学友会の議長としてのだったか、なんだかなあというような。
☆茅野寛志 1962 『残さるべき死 : 茅野寛志遺稿集』,茅野寛志遺稿集編集委員会
 https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001379678-00
cf.最首 悟 19690620 「茅野寛志くんへ 怒り・執念・焦燥・絶望」,『アサヒグラフ』「6・15特集」

立岩:それはWなんとかっていう「世界なんとか」なんだけど、その北海道であったのは全国の大学から代表が来るみたいなもんだったんですか? [00:10:21]

最首:WUSの主催の行事だったと思う。日本支部みたいなね。

立岩:それは日本中の大学? 国立ですかね?

最首:国立だったんだかぜんぜん覚えてないんだけどね。何泊かして、私はその後2人で新冠(にいかっぷ)の牧場のほうへ二週間ばかり行きましたね。それも北大の牧場なんですけど。遊んでたんですけどね、その時に西村さんに声かけられて、それからの付き合いですね。

立岩:最首さんは学生でそういう感じだったと。その時の西村さんはどういうポジションっていうか?

最首:西村さんはもっぱらアルバイトの世話ですね。あと、もらい下げ。逮捕された学生をもらい下げに行くようなね。それがね、政治的なんじゃないの。万引きやなんかで捕まってんだよ、東大駒場生が。

立岩:駒場だったら何署になるんだ? 駒場署ってありましたっけ? まあとにかく、警察行ってもらってくるっていうか。

最首:もらってくるっていうようなことをやってた人でしたね。

立岩:その頃から教員職ではあったってことですか?

最首:西村さんとこは化け学なんですよね。満州にいて引き上げてきて、東北のほうの無教会派の学校の先生になったわけね。それで矢内原忠雄☆に言われて更生課長になったという。学生部の更生課長っていうのもおかしい。

立岩:事務職員的な仕事っていうことになるのかな? 

最首:そうですよね。もうまったく教学のほうには関係がない。

立岩:その無教会派のそのキリスト、矢内原さんが個人的にとか直接にご存知だったってことですかね?

最首:矢内原と西村さんは深い関係にあったと思うね。

立岩:深く知りあっていて、矢内原さんがこの職に?

最首:説得に応じて来たっていうのはけっこうな決断だったでしょうけどね。それで一生更生課長で通して。西村さんのことを言うと、勉強と文字の行動っていうのがあって。生きてると思います。全共闘の時の、非暴力の立場ですよね。そのあたりとそれからの後、どのぐらいかな。一橋大全共闘の次男が自殺するんですよ。

立岩:西村さんの次男のかたが。

最首:長男が西村誠☆で、ジャズの関係なんかの。今でも「西村誠」でTwitterなんかでも見られますけどね。次男は、一橋大の自治会の役をやっていたと。それが自殺しましてね。その自殺の時に「お父さんは下りてきてくれ」っていうのが。その自殺の直前あたりにそういう言い方があったっていう。「下りてきてくれ」って、高みから。
☆西村誠(1945?〜)
 https://twitter.com/naruotamba
 http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/104710.html

立岩:高いとこから下に降りてくるっていう、下りてくる?

最首:うん。それで西村さんは落ち込んでね。いつも日曜日に開いてたその無教会の会の講話もやめるっていうことになって。落ち込んでましたね。そのあたり、私けっこう西村さんのうちへうかがってた。[00:15:48]

立岩:不思議なのは、60年のときに西村さんは大学のそういう職の人として、最首さんは学生の学友会の議長として二人連れ立ってっていう話はわかったとしてですよ、その後、例えば70年って10年ぐらいの間あるわけじゃないですか? その期間も最首さんと西村さんの関係は続いたってことですかね?

最首:いや、ほとんどなかった。西村さんと出会ったのは、私が駒場にいたのは、67年の6月なんですね。大学博士課程に4月に入学したってことになってて、その6月に教養学部に行ったわけで、それで西村さんに出会ったのね。

立岩:それは久しぶりの再会っていう?

最首:まったくもうその間、連絡とかそういうことをしなかった。ただ、西村さんとしては60年の頃のことを覚えてたっていうことでね。駒場へ行った時も別に西村さんに特別に会うというようなことはなかったんですけども、とにかく68年が始まっちゃって。もうあの頃は…。私らの籠城、八本〔第八本館〕の籠城が始まっちゃって、教師との窓口は彼、フランスって哲学? 文学? 哲学の有名な駒場にいた教授。当時サルトルなんかでならしてたあの教授いたでしょ? サルトルの翻訳なんかで有名な。それがね、当時、***(00:18:53)談判でね、とにかく籠城をやめないかということを。

立岩:彼が教員側代表みたいな。

最首:代表だった。西村さんじゃなかったですね。

立岩:それでその時に最首さんは、その籠城側の代表みたいな感じだったの?

最首:籠城側の代表なんです。そういう役に自ずと、みんな暗黙に思ってたんだろうけども、とにかくセクトとか全部入るっていうんで。革マルと中核も入ってるしね。そうすると、話をまとめるってのは「助手S」しかいないわけですよ。

立岩:なるほど。それもちょっとどういうことだったのかなって。学生は一年生から何年生までの単位っていうかまとまりってあると思うんだけど、そこに助手がくっつくっていうか、助手が一緒にやるっていうあたりのその関係っていうんですかね。[00:19:58]

最首:そこが「助手共闘の最首」なんですよね。それでもちろん国際関係の大学院生なんかも入ってたわけ。1・2年生だけじゃないんですけどね。ゲバルト・ローザ☆も入ってた。ただ、結局囲まれやなんかは本郷から来てたかな。そういうのが入って、それで収集は取れないので、まとめるのは、それから決断するのは最首ってことになるんだね。今の立憲民主党の阿部知子☆なんかが入っててね。
☆「ゲバルト-ローザ:日本における新左翼、ジェンダー、暴力」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/2082
☆阿部知子 http://www.abetomoko.jp/profile 19480424生 1967お茶の水女子大学附属高校卒業。

立岩:あの人医学部でいいんでしたっけ?

最首:阿部知子はね、医学部で。

立岩:彼女もその籠城した人の中にいたっていうこと?

最首:阿部知子がまだ2年、1年生で。ICU経てるから。一年間ICUにいたのね。東大に68年の春入ってきて、それで車座討論っていうのが芝生であって、私がやってたんですって、それを。その一員なのね、阿部知子はね。

立岩:そういう学生さんもいるは大学院生もいるは、でもセクトが本郷から来るは、ごちゃごちゃごちゃごちゃしてると。でも籠城サイドは籠城サイドである種の決断というか、交渉を。

最首:そうですね。一番の決断は撤退の決断ですよね、なんせ民青の意見がすごいからね。どうやってそこんとこの犠牲を…どうせ民青は殴りかかってくるだろうからっていう、そこをどうくぐり抜けるかの交渉も大学側とやったのかな。裏門開けてもらってね。裏門っていうか体育館のほうの門から出て明大の泉校舎に向かうんですけどね。デモで。その間にけっこう殴られてね、私も民青に殴られたよ。民青は気持ちよかったろうな、あの頃。(笑)

「闘争と学問」

最首:そういう時に西村さんはそんなに表には出てなかったですね。ですけど、それが終わっていよいよ連続シンポジウム「闘争と学問」の時に、これは誰が主導したのか。やっぱり折原さんなのかなと思うんですけどね。折原さんと西村さんと、脳梗塞を起こしちゃったインド関係の石田〔保昭〕さん☆、奥さんも【岡山大】(00:23:49)の教授になった。石田さんは助教授だったかな、講師かな。折原さんは助教授でしたね〔1966年東京大学教養学部助教授〕。それともう一人、裏方で非常に地味なドイツ語の先生〔信貴辰喜〕がいて。
 それで主に、伝習館の闘争の会津泉っていう、コンピューターのネットワークの草分けみたいなことをそのあとやった会津泉っていうのが頑張ってて。伝習館の関係はそこらへん会津に集中して「闘争と学問」でもやってたというね。
 ※https://ja.wikipedia.org/wiki/石田保昭 1930年9月30日〜2018年5月18日
 解放連続シンポジウム『闘争と学問』では
 8、1970/1/22、東大闘争とわたし、(石田保昭)
 17、1970/2/26、アジア農民闘争と毛沢東思想、(石田保昭)

立岩:例えば、折原さんと最首もだいぶキャラ違うし、みんなだいぶ違うじゃない?

最首:違うんだよなあ。

立岩:西村さんもまたちょっと違うっていうか。三者三様、三人だけ取ってもね。その三者三様、だいぶキャラ違うよねっていう中から「闘争と学問」っていう企画っていうか出来事がどういうふうに出てきたのかなっていうのは、素朴に。[00:25:27]

最首:なんなんでしょうね。私が積極的にそれを企画していくとか推進役ではなかったですね。暴れ役でね。要するに唐獅子牡丹的なんですよ。折原さんと一番折り合わなくてね、もう。折原さんは泣いちゃうしね。責め立てると泣いちゃうんだよ、折原さん。***(00:25:59)もう軽井沢かなんかに「ずっと閉じこもって、とにかくウェーバーをずっと読み返した」とか言って。そういうのがまた頭にカチンときちゃって。「何やってんだ!」って。「何が軽井沢だ!」っていうような感じでさ。そしたら折原くん、泣いちゃうんだよな。

立岩:それは闘争と学問が始まった後ぐらいの話ですか? その「軽井沢行って」っていうのは。

最首:折原さんは「闘争と学問」が始まる前に軽井沢のほうに閉じこもってたのね。そっちが先なんですよ。折原さんもけっこう苦しかったんだと思う。戻るかどうかっていうのは折原さんのほうがもう切実ですよね。授業拒否。助手なんか気楽だからなんとでもなるんだけども。折原さんは、あのかただからもう本当に悩んで。本当に真面目な人で、よく造反したんだと思うね。

立岩:根が真面目だからなあ。そうですよね。普通に考えたら一番そっちじゃない感じですよね。
 だいぶ折原さんもその頃のこと書かれていると思いますけど、やっぱり駒場での授業をしない中で、いろいろ教員たちから言われるっていうか見られて苦しかったみたいなことは書いてありますよね☆。

最首:折原さんはチャランポランになれないのでね。私なんかはやっぱりチャランポラン、ある意味ではうまくやってるわけですよ。助手共闘でスポークスマンやりながら、生物教室の中ではそんなに仲は悪くない。ただ、やっぱり看板は業務拒否ですからね。でもいろんなことをちゃんとやってたしね。
 27年生物教室で助手を続けるなんてのは、そういう中に私のこともみんな庇ってくれる、心配してくれるっていう連中が生物の教師たちの中になければとても。丸山とかチノとか三人組の若手が、私を呼んだ手前私をずっと擁護するわけ。丸山工作☆なんてのはもう花形でしたからね、生化学での。あと毛利さん。茅野・毛利・丸山の三人という助教授たちが私を海洋研から引っこ抜いたわけですよ。それで私の担当の内田清一郎の恨みを買ってね。内田清一郎の最初の***(00:29:39)なんですよ、私は。大学院の第一代目で。それでとにかく自分の跡を継いでくれると。海洋研でね。そしたらなんと駒場に行くっていうんで、もう大変なことになっちゃって。「絶対駒場行ったら研究できないぞ」って言うんで、「いいです」とか何とか言って(笑)。それは、丸山工作と茅野春雄と毛利秀雄っていう優秀な三羽烏が私をほしいと言ったからなんですよね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/丸山工作 1930年6月16日 - 2003年11月19日 1953年東京大学理学部動物学科卒業、1956年同大学院博士課程中退。東京大学教養学部助手、1962年理学部助手、1965年教養学部助教授、1972年京都大学理学部教授…

立岩:ほしいと言って来てくれた手前、そんなに無茶なことできないと。で、働いてないって言いつつちょっと働くみたいな。最首さんはそうやって。

最首:それで研究は何もしないという。[00:30:39]

立岩:授業だともうするかしないかだもんね。一かゼロかどっちかですもんね。

最首:生物実験なんてのはしばらくやってなかったけど、そのうちなんとなくちゃんとやってたね。

立岩:授業はもうやらなきゃやらない。やるかやるなら。

最首:厳しいです。一か八かですからね。助手っていうのは鵺的でしょう。そもそも教授会の一員じゃないし、学生の一員じゃないし。中途半端の本当に鵺的な存在だから、その鵺的存在っていうのの位置をいつも思っていれば大丈夫なんですよ。教授になりたいとかなんとか一心になってるから助手はつらいことになるんでね、そんなのなければ本当に助手ってのはいいかげんなもん。
 それで***(00:31:44)ね、***(00:31:45)には私の部屋が、全共闘の頃から全共闘の終わりにかけて「そのあとどう継承するか」っていう駒場の拠点になったわけですよね。私はだいたい全国歩いたりなんかして研究室にいないんだけども、そこはもう学生が勝手にやってたわけで。

立岩:その話は昨日もだいぶ聞きました☆。ヘルメット取りに行ったとかビラ見に行ったとか。なんか壁にいろいろ貼ってあってっていう話は。
☆ ★

最首:壁中落書きだらけにするしね。よく生物教室は我慢したと思うね。

立岩:私もこの職業の振り出しは千葉大の助手だったんですけど、やっぱり部屋はもらってましたね。ほかの教員と同じサイズのね。だから確かに最首さんが、「本人は留守だけどみんな勝手にそこ使う」っていう使い方はできたってことですね。

最首:事務職員の援護もあったのね。私が21日間ぱくられて。授業再開の教授会に学生が殴りこむんだけども、私はそれ見に行ってたら捕まっちゃってね。21日間、碑文谷だっけ、警察にいたんだけど、そのあいだの給料どうするかっていうのが、事務局員の山口さんって女性がいてハンコついてたわけ。それで教授たちにやられてね。そしたら「私はいつも盲判押してる。あんたたち教授たちのも全部押してる」って言ったもんだ。「あんたたちだって来てないじゃない」とか言って。山口さんってのは偉かったよな。

立岩:そのかたは、とくに政治思想的にどうこうっていうんじゃなくて助けてくれたっていう感じなんですかね?

最首:いや、駒場の職員の大勢は民青ですからね。うちの奥さんなんか【図学】(00:34:14)教室のお茶汲みなんか…お茶汲みって言ったら怒るけど夜間高校生でお茶汲みをやってて、でもまったく民青の…【図学】ってのは民青の牙城なもんですからね。「まー、最首あんたのことはボロクソだったわよ」って言ってたけど。(笑)

立岩:そうですよね、東職、共産党系強いですよね。本郷も含めてね。

最首:生協はまったく共産党だしね。生協の籠城するにあたって女子学生が中心になって、とにかく一晩で在庫あるぶん全部持って来ちゃったんだね。もう大看板で「最首の大泥棒」って。でも俺が泥棒したわけじゃねえんだ。

立岩:生協の購買部のとこから食料をみんな持ってきたってことか。

最首:全部持ってきた。もう空っぽにしちゃった。籠城の時の話はどんどんおかしくなるけど、阿部知子も含めてけっこう八本籠城ってのは女子学生でもったのね、規律はね。極端な食事制限。だから撤退した時にパンなんか***(00:35:50)残っちゃってね。それから正月に築地まで買い出しに行って、正月料理を女子学生が作るわけ。それが楽しくてね。

立岩:それは食料を残すためにコントロールしたってこと? 兵糧攻めで負けないように。

最首:コントロールした。もう絶対許さない、長期間ということでね。せっかく盗ったパンを残してきちゃったの(笑)。全共闘というのは、「男女の」なんてのはまったくの封建的立場ですからね。その中で籠城を支えたのは女子学生だってのは、参加75名全部知ってると思うよ。女子学生が頑張ったってのはね。

立岩:私がいた時の生協って、2階が食堂で1階が購買部で。それは同じだったのかな。

最首:同じだったですね。

立岩:じゃあ1階から食べるものをみんな持ってきて八本に貯蔵して、それを女子学生が管理して。できるだけ長持ちするようにって。そういうことをやったんですね。それはなんか楽しそうで。

最首:私なんかはやっぱりそういう意味では、普通の職員からは恨まれてなかったんだと思うな。要するに、「東大っていうのに挑んでる」っていうのは痛快だっていう感じはずっとあったね。みんなね。

立岩:じゃあ職員でも、ほんとに共産党っていうかに貫かれてる人じゃなければ、なんか大きい組織でちょっと反抗してるのはちょっと傍から見てて気持ちいいっていうか、ちょっと応援しちゃってもいいかなぐらいの。そういう人もいたってことですよね。

最首:そういうふうな感じはありましたよね。一般学生も、参加しなくてもけっこう愉快だって。愉快犯の感じはあるよね。

立岩:なるほどね。軽井沢行って悩んでた折原さんとそういう空間とはやっぱり違うじゃないですか。

最首:違うんだよな。

立岩:醸し出す雰囲気もみんな違うじゃないですか。西村さんも。僕は西村さんは直接には存じあげなくて、でもいろんなところに出てくるんで、今日はそれで聞きたいなと思ったんですけど、そういう三者三様の中で、先ほど最首さんは「闘争と学問」で自分は引っ張ってやってたわけじゃないって言ったけど、どういうふうに立ち上がったっていうか、あるいは継続したっていうか、記憶にある限りで何か覚えてらっしゃることっていうのはございますかね?

最首:授業再開の教授会で学生がずいぶんパクられてね。いよいよ何もなくなっちゃうっていうことに対して抵抗というか、なんかしなくちゃいけないんじゃないかっていうのは。会津泉なんかは栄光学園ですけどね、まだ入ったばっかりの1年生。そういう気持ちがあって。会津もクリスチャンっていうわけじゃないけども、栄光学園もそういう学校ですからね。たぶん西村さんなんかと***(00:40:30)いろいろ訴えたことはあると思うのね。「これで終わっちゃっていいんですか?」みたいなね。会津たち学生のほうの。それから折原さんは真面目に「これでいいのか」と思ってるしね。西村さんは要するに中道ですからね、いつもね。そう積極的に反逆することはないんで、割って入る、あるいはまとめる役ですから。

立岩:その会津さんっていうかた、その学生さんの訴えみたいなものを西村さんが聞いていたっていうことですかね。

最首:なんかそこらへんはキリスト教関係だと思う。ちょっとそうしないとね、「全共闘の中でシンポジウムやりましょう」なんていう、あんまり真面目なやつはいないからね。とにかくちゃらんぽらんで暴れたいんだから。

立岩:そんなに多数派だったわけじゃない真面目な学生が、真面目な西村さんに相談持ちかけたりとかいうことも関係あったかもねっていうところですかね。

最首:栄光学園も高校闘争やったその一因なわけなんだと思うんですけどね、会津もね。

立岩:やはりけっこう伝習館っていうのは大きかったんですか?

最首:大きかったですよ。伝習館っていうのはほんと大きかったよね。高校全共闘のなんかっていうのは始まったと思ったら本体が倒れちゃうもんだから、そのあといろいろ続けたって、そこらへんが面白いよね、いろいろと高校闘争の。そこらへんが三好春樹☆なんかもその一員なのでね。ケアの。

立岩:川本隆史の同級生だっていう話でしょ? あれもちょっと笑える話ですね。笑っちゃいけないんだけど。

最首:黒住さんだっけ?

丹波:僕の指導教員の。黒住先生の同級生?

立岩:黒住さんの同級生が三好?

丹波:新聞部部長が僕の指導教員で、生徒会長が三好さん。で、川本さんはのちほどですよね、お知りになって。親の介護のかたちの中で、三好っていうすごいのが当時いたけど、あの三好さんかみたいな。

立岩:当時よく知ってたとかそういうんじゃなくて、「なんかいるな」っていうぐらいの感じで。それがだいぶあったあと、「介護って言えば三好」っていう名前見たら実は三好は自分の高校の、

丹波:あ、高校は違いますね。

最首:高校は違うね。

丹波:修道とあと、

立岩:広島学院だっけ?

丹波:学院ですね。だから修道高校なんですよ。三好さんとうちの指導教員は。

立岩:なるほど。広島ではちょっと知られてたっていう感じか。

最首:川本隆史の奥さんが大崎上島の校長の娘でね。で、うちの奥さんはその大崎上島でその校長の学校行ってたわけよ。なんか面白い名前の人だったね。なんとかとうげ。で、川本隆史は大崎上島のことを知ってるので、その面でも仲良くなったんだけど。

丹波:川本さんと。



最首:川本と。また話がそれたけど。
 とにかくね、「闘争と学問」っていうのはけっこう続いたんでしょうよね。私はいろいろ衝撃受けたけど、やっぱり障害者は衝撃を受けてね。青い芝の会が出てきてもうほんと、おおげさじゃなくてひと言もわかんないぐらいなのね。[00:45:13]

立岩:僕、その前後関係わかんないんですけど、僕は最首さんが関わったのでちょっと覚えてるのは、『さようならCP』☆かな? 映画を撮ったやつを東大で上映して、その上映会のパンフレットみたいなものに最首さん、書かれてませんでしたっけ?

最首:それがね、東大で上映したってことはない。

立岩:ないのか。

最首:どっかの初めて上映するときのパンフを書いてくれって、なんかやって来たのね。やって来たのは、原〔一男〕の奥さんの、やっぱり脚が不自由な人でね。

立岩:でも原一男の奥さんが最首さんのとこになんで来るの?

最首:なんで来たのかわかんない。それはね、やっぱり「闘争と学問」で青い芝の会が来たあとだと思うのね。それで「青い芝の会のこともあったでしょ」っていうようなこともあってね。なんのつてで来たのかね…。

立岩:そういう順番か。その「闘争と学問」で来た青い芝の連中っていう話と、それから僕は文献で見る限りでは、八木下浩一さんていう、

最首:そのあとですよね。青い芝の会のあと。

立岩:青い芝、覚えてる限りでもちろんいいんですけど、その東大に来た青い芝の連中っていうのは何者っていうか、なんだったのか覚えてますか?

最首:横田・横塚っていうのは、なんか「横横」みたいな感じ。

立岩:横田・横塚は二人で来た?

最首:二人とも私はそこで名前を知ったので、二人で来たのか、何回か順番に来てるのか。とにかく、青い芝の会っていうのがなんだかもわかんなくて、それで言ってることがぜんぜんわかんなくて。それで映画はどっかで観せられたんだよね、原一男から。『さようならCP』の映画を。観たのかな、観てないのかな。

立岩:その奥さんが来て「パンフに書いてくれ」って言ったのは、観させられたあとっていう理解でいいんですかね?

最首:さすがに観てないと書かなかったかなあと思うので観てると思うんですよ。そうしないと、「見られるものと見るもの」☆ってのは出てこない。ただ、二週間。初めてだしね、障害者関係のこと書くのは。何がなんだかわかんないままに二週間ぐらいけっこううなって書いたんですよね。それが初めての障害者関係のものですけどね。
☆最首悟 1972 「みられることをとおしてみるものへ」,疾走プロダクション[1972]→最首[2010:277-283]
―――― 20100303 『「痞」という病いからの――水俣誌々パート2』,どうぶつ社
疾走プロダクション 19720408 『シナリオ さようならCP』,疾走プロダクション

立岩:横塚・横田っていうのはどういう立場っていうか、何しに来たっていうか。それは何か覚えてらっしゃいますか? 話に来たのか、聴衆というか。

最首:いや、招いたんですよ。全共闘のほうの、「闘争と学問の企画委員会」みたいな大げさな名称だけど。そこらへんは折原さんなんか絡んでると思うんですけどね。西村さんも当然いつも。西川さんの部屋で開いてたんだからね。私なんかは真面目に関わってないわけ、闘争と学問に。

立岩:それはわからない。(笑)

最首:折原さんの真面目ぶりが気にくわないからね。

立岩:それはなんとなくじゃなくてわかるんですよ、実感としてね。だけど、たとえば折原さんの人脈と青い芝の世界ってやっぱりちょっと違う気はするんですよね。[00:50:00]

最首:売り込みに来てたかもしれないね、いろんな、他大学の全共闘。***(00:50:08)の哲学なんていうのが、とにかく闘争と学問シンポジウムでいろいろやるわけね。そういう連中がいろいろいて誰かが引っ張って来たのか、横田・横塚が、

立岩:売り込みに来たのか、両方の可能性がある。

最首:その周辺の青い芝の中の誰かが売り込みに来たのかね。

立岩:それはありうると思いますけどね。

最首:ただね、私は「何もわからなかった」っていう衝撃があってね。それは八木下さんの時もそうだったよね。とにかく第1回はほんとまどろっこしいわけね。いくらわかろうとしてもわかんないし、もう何言ってるかわかんないしね。ほんとにまどろっこしかったなあ。それで「まどろっこしいのになんか明晰らしい」って感じが、彼の場合もそうなんだけど「頭が冴えてる」みたいな感じがしてね、もうびっくりしちゃって。脳性まひってこういうものかと思って。「まどろっこしさと正反対に頭は冴えてる」みたいな。八木下さんもそんな感じだね。それが私たちにはわかんない。「こんなにまどろっこしい言い方しかできない頭脳が冴えてるんだ」っていう、それでものすごい怒りに満ちてるんだっていうようなことも。もう私たちは到底、会わなきゃ想像できなかった。

立岩:亡くなられてね…。
 ほんとに横塚だか、一緒に来たのか別々だかはわかんないけど、とにかく横田・横塚って確かにあの二人は青い芝のリーダー、頭二人ですよ。八木下さんは埼玉のほうで就学闘争やってて、青い芝も関係はするだろうけど、神奈川の青い芝の流れっていうか人たちとはまたちょっと違う場所にいたはずなんですけどね。

最首:違うと思う。

立岩:そうすると、また別に誰かが八木下さんのことを知ってる誰かがなんか、思いつきでって言ったらなんだけど「ちょっと呼んでみようか」みたいな話になったのかなあ。なんだったんでしょうかね。

最首:関係はどっかでできたんでしょうね。「普通学校へ」の連中と関係があるとしたら西村さんですよね。

立岩:西村さん、そのあと大学辞められたあと結局障害者福祉というか、そういう世界に入っていかれるわけじゃないですか、そのへんの流れっていうんですかね。僕は最首さんなり折原さん、宇井さんとか、まあ言ったら造反教官とか助手共闘とか、そういうので駒場におられるっていうのはさすがに知ってましたけど、西村さんってそんなに最初からわかってたわけじゃなくて。それからもう20年も経って90年になって、私たちが『生の技法』っていう本を書いてる時に真っ先に書評してくださったのが西村さんだったんですね☆。それでっていうのでちょっと、「西村さんって誰だろう?」みたいなことだったんだけど。彼も遺稿集みたいのがあるので、ちゃんと読めばわかってくると思うんですけど、その90年に至るまでのわりと長い期間、そういう世界に入っていくっていうことと、八木下さんを駒場、東大に呼んだりっていうあたりの関係ってどうなってるのかなって思ってるんですよね。
☆西村 秀夫  19910110 「読書紹介:『生の技法』」,『いちご通信』087:30-31
―――― 19910301 「「自立生活」についての研究報告書――安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法』」(書評),『障害者の福祉』11-03(116):38  [19910301]における肩書は社会福祉法人和泉会理事,在宅ケア研究会
 [19910301]は第2版→書評等(http://www.arsvi.com/b1990/9505aj.htm#rに全文再録

最首:私がその「普通学校へ」っていうのに関わるのも、どういうきっかけだったかなと思うんですけどね。普通学校っていうのを必ずしも私は…それがそのままずっと尾を引くんですけどね、要するに、やっぱりデモの先頭に車いすの人を持ってくるのと同じじゃないかって。普通学校へ知恵遅れの子を入れて、その子どもがどれだけ悩むか、どれだけ苦しむかっていうことをわかんねえのかってな感じがずっとあってね。途中でその普通学校の大会なんかでも、養護学校はけちょんけちょんなのね。で、私は養護学校の弁護に回るようなかたちで、もう決裂寸前みたいなこともあった。星子は普通学校へ入るんですけども、もう中学校からは養護学校へということでね。養護学校は、とにかく必要な場所なんですよ、子どもたちにとってはね。だから、制度としての養護学校と、現実の養護学校の先生たちをけちょんけちょんにやるのとは別のことなのよ。養護学校の中の教師たちってのは、それぞれみんなパーソナリティがあってね、それなりに全共闘を経てきた、東大の、星子を可愛がってくれた教師とかいろんなのがいるわけよ。そこで、普通学校が養護学校をけちょんけちょんに言うっていうことのあれがやっぱり私にはずっと馴染めなくてね。
 「インクルージョン」なんてまた変な言葉持ってくるけどさ、そんなことが普通学校で起こりうるわけがないんだよ。だって、国民教育をする場面で、障害児は国民じゃないんだから。もうあほかって言うくらいなもんだね。「普通学校を変えたい」っていう時に、「子どもたちを普通学校へ」っていう時のみんなの印象っていうのは、普通学校っていうのが基準なんです。養護学校は基準じゃないんだよ。「普通学校を養護学校へ」っていうスローガンだってありえるわけよね。で、養護学校は国民教育じゃないですからね。それを「普通学校へ」ってスローガンかかげちゃったところが普通学校運動の致命的な欠陥でね。普通学校でインクルージョンなんていうと、福祉と同じ上から目線なんだよ。冗談じゃないよ。

立岩:というか、戻しますよ。

最首:(笑)

立岩:西村さんが、たぶん70年代のたぶん頭ぐらいに、たぶん八木下さんとの付き合いが、その埼玉の人たちとの付き合いがたぶん続くんだと思うんですよね。たぶん、青い芝じゃないかもしれないですけど。そこはちょっと調べてみて、わかる範囲はなんとか裏付けますけど、最首さんの場合は八木下さんなり横塚、横田なりがとにかく来たと。なんか仔細な事情はわかんないけど来て、「わかんなかったけどびっくりした」っていうか、ある種のファーストコンタクトみたいなのがあったのって70年の頭ぐらいじゃないですか。それと、たとえば星子さん生まれて、最首さんの場合はわりと、もう一回障害とか、障害児とか学校とかにぶつかるのって、間があいてる印象があるんですけど、それは最首さん的にはどんな感じだった?

石川正一

最首:闘争と学問が下火になってく頃かな、石川正一くんと出会うんですよね。私の同僚の助手で、やっぱり長男がすごい重度の障害で生まれて、それが石川左門さんとつながったのかな。彼の紹介で私が正一くんの家庭教師になるというか、遊び相手になるという役を引き受けたのね。

立岩:その最首さんの同僚っていうのは、どういう立場っていうか、どういう職というか仕事してたかただったのか。名前とか。

最首:生物教室の助手でそのあと助教授になるんだけども、埼玉大学の出身なので東大の生物教室の中でもそんなに正統派じゃなくて、暴れ派なのね。それでその子どもに障害児が生まれてきたっていうことで。

立岩:なるほど。じゃあその時点では、助手という意味ではほんとに同僚というか同輩というか。

最首:同輩なんですけども。

立岩:名前とか覚えてらっしゃいますか? 正一くんとかは筋ジストロフィーじゃないですか? その同僚のかたに生まれた障害を持ってる子どもっていうのはなんだったか覚えてますか?

最首:さあね…ほんとにわからないっていうか。

立岩:生まれた時から障害を持ってるんだったら、脳性まひかな?

最首:脳性まひとも言えない。

立岩:とも言えないような感じだった。

最首:とにかく、星子より重いんですよね。

立岩:星子さんより重いくらい。

最首:星子は途中からですけどね。生まれつきで脳性まひとも言えない。公害病みたいなのを私は思ってるけどね。

立岩:なるほど。じゃあ知的な障害もある。

最首:もうまったくあったね。

立岩:その同僚のかたのお子さんと、その石川左門、石川正一とのつながりっていうのはどうなるんですか?

最首:なんかね、そいつが正一くんと会ったんですよね。それで、「いいやつがいるから連れてくるよ」とかなんとか言ったんだと思うの。それで、ちょうど住む場所も一緒だったのね。百草園ってとこに私もいて、彼も百草園にいたんだけども、なんで一緒のとこへ引っ越したかと思うんだけど。その頃は教室では付き合うけど日常はそんな付き合うわけじゃなくってね、ただ私を紹介したってことが私にとっては大きかったよね。
 それで、石川左門さんって親父さんも反逆者なのね。それで、子どもに教えるか? って。「何十歳までの寿命だよ」って子どもに教えるかって言ったら石川左門さんは「教える」って言ったんでやめざるを得なくて、東京のそういう会を開いた、自分が長になるわけですけどね。

立岩:そうですね。全国の筋ジスの親の会みたいなものがあって、石川左門さんはそこでいろいろとぶつかって。それで、東筋協っていう東京の分派っていうか、そういうところで活動するんですよね。それはかろうじてというか、僕自身じゃないんですけどうちの関係者が左門さんに生前インタビューしたことがあって☆、多少は。あとは、石川左門さんが書かれたものがあるから多少はそのへんは知ってるんですけど、とにかく同僚のかたが自分に障害を持ってるお子さんが生まれたっていうことがあったのが、何かの縁で石川親子とつながり、その同僚のかたがさらに石川さんを最首さんに紹介して、で、最首さんは正一さんのところに行くようになった、そういう順番か。[01:05:01]
☆石川 左門 i2009 インタビュー 2009/07/19 於:東京

最首:自宅も近かったんですよ。日野ですからね。あれはいつ頃だったんだろう。

立岩:そこも調べればわかるかな。最首さん、短いエッセイかわかんないけど正一さんのこと書かれてますよね。

最首:はい、書いてます☆。
☆★

立岩:それはその、2回目の「衝撃」かどうかわかんないですけど、何か出会い的な感じだったのかしらね?

最首:そうですね…。とにかく出来過ぎの子でね。「小学校5年くらいの知能指数」っていうんだけども、もう出来過ぎで。その覚悟というかね、「神様の舞台で私は踊ってるんです」というようなことを言うわけだよな。木工の額を作ったりしながら遊んでてね。「かなわんなあ」という感じはほんとにしてたねえ。

立岩:どのぐらいの頻度というか、あるいは期間というか、正一さんに、

最首:週に一回ぐらい、一年ぐらいはあったかなあ。

立岩:それはたとえば、僕らが家庭教師っていったら要するにバイトですよ。その時の最首さんの立場というか。

最首:それは、遊び相手というか話し相手というか。とにかく「相手になってくれよ」みたいな頼みだからね。ここにしまってあるかな、どっかにしまっちゃったんだけどね…ないかなあ。ペンダントもらうんですよ。それがね、石に爪で模様を彫って、爪痕の模様なんですけどね、10何個作ったっていう一つをもらったんだよ。それでね、それはなんか怖いのでね、ちゃんとしまってあるんだけどね、すごいんですよ。やっぱりどっかしまっちゃってるな。そのペンダントをもらったってのは大変なことでね。なんか正一くんのほうも、まあ親子して私になんか期待するようなところもあったのかな。要するに「なんか継いでくれる」みたいな気持ちだろうね。お母さんもクリスチャンだし、お父さんもクリスチャンで、正一くんはほんとの敬虔なクリスチャンでね。

立岩:それはそうだと思うし、左門さんもわりと筋金入りちゅうかなんていうか、そういう市民運動、のちのちもそうですけど、それはわかるんですよ。それはわかるんだけど、そのことと最首さんに「来て」っていうその流れっていうか…。

最首:わかんないよね。わかんない。

立岩:左門さんから「うちの正一のとこに遊びに来てくんないか?」みたいなことを言ったっていう記憶はありますか?

最首:んー。

立岩:正一さんは79年に亡くなられてますね。[01:10:26]

最首:けっこう生きたな。そうすると星子が生まれたあとも付き合ってるね。76年ですから。

立岩:星子さんが生まれたのが76か。

最首:だから星子が生まれる前だったのか、生まれたあとなのか…。

立岩:僕が思ってたより、間はそんなにあいてるわけじゃないんですね。

最首:ないですね。79年か。

立岩:僕は、最首さんが書いたもので覚えてるっていうか、一つが、助手共闘でいろいろあって。いろいろやったけど、これもまたあとでおうかがいしますけど、吉本隆明やらなんやらなんかいろいろ相手して、このやろっていうか、とにかくちょっとしばらくじっとしてて、ある意味空白の期間みたいなものがあったあと星子さんが生まれて、それでもう一回書きだした。自分の娘のことであったり、娘の周りのことであったり書きだして。しばらくは、少なくともものを書くとか発言するとかっていうところから遠ざかっていた期間があったんだよっていうことをお書きになってたと思うんだけど、その時は、一応なんだかんだいって完全に干されるわけじゃなく、生物学のところで仕事するようなしないような感じで、そこはそこでいながら、やっぱり対社会的であったり、ものを言うっていうのは、言えないっていうか控えてたっていうか、そういう時期があったってことですか?

最首:まあ、言えないほうでしょうね。私の長男が生まれたのが70年の1月18日。

立岩:うちの子どもと一日違いですね。ぜんぜん関係ないですけど。(笑)

最首:それで、数えてみると隔年ごとに生まれてくるわけね。その次が女の子、隔年に三女、次女が生まれて。隔年にっていうから76年。70年から76年のあいだに四人子どもが生まれたわけね。

立岩:生産性高いですね。

最首:高いんだよなあ。(笑) すごい規則正しいんだよな。それでやっぱり生活のことあるしね。書いてますけども、要するにいよいよその変化が、つまり68〜69のあと76年までの間っていうのは、食わなきゃいけないけどもべつにバイトをしてたわけではない。で、助手の給料で食うって、それは大変なのね。助手の給料はまだ、公務員の給料が上がってないんですよ、まだ。そのあとで上がってくるんだけども。だからね、生活いっぱいっていうことはあるのね。頭のほうは、どうしようっかっていうこと、つまりすれすれのところですよ。普通の助手に戻るかっていうのと、極道なところをずっと歩くかっていうののすれすれのところが生活っていうことの波に。生活の波にっていうのはおかしいな、べつに私はそこの生活に関係してないのでね。ただ、助手の給料というのはものすごい大事なわけですよ。そのへんが、ちょうど「闘争と学問」が終わって、星子が生まれて、正一くんというあたりのところにつながってて。
 それで、77年っていうのが転機だったのね。76年に星子が生まれて、77年が転機で。いよいよ金稼ぎってのが始まるわけね。それは、山本に言われたんです、義隆に言われたこともあるんですけども、駿台の生物の講師になるっていうんですけど、山本が「俺一人じゃもたないよ」みたいなね。とにかく、「最首さん、来てくれないか?」って頼まれたわけよ。駿台の。山本が駿台の講師になったのは76年の4月からなんです。ちょうど不知火海総合学術調査団が始まった年の。それで1年間やって、それはね、駿台の講師連中からも超、もうほんとの総すかん。「東大をぶっ潰す」って言ったやつが東大へ入れる学生予備校で教えんのかって。ところがもう秋には山本の人気は上がっちゃうわけ。その学生からの人気がね。[01:17:36]

立岩:予備校の中における。

最首:人気が上がっちゃう。だけども、講師との関係はもう最悪で。

立岩:駿台の講師、同僚というか。

最首:うん、駿台の講師たちね。それで、やっぱり寂しかったんでしょうよ。「最首さん、来てくれないか?」っていう頼みがあったわけ。私はいよいよもう、四人子ども抱えて、さすがに助手の給料じゃあとても…って感じなので「いいよ」って言って、行ったのね。いったのと、子どもの本の、福音館の『子どもの館』の覆面書評を始めるってことがあってね。それはまたとんでもないことで。子どもの本の書評をするっていうので。それは、ワキさんっていう人、国際関係の大学院だったワキさんっていうのが私を引っ張ったんですけどね。それと水俣調査団にかわれて、三つのことが77年に始まっちゃうわけですよ。それは転機で、ものすごい忙しくなるわけね。忙しくなるのと並行して、なんかいろいろ書く注文が来るようになってね。それをなんとかこなしていた。星子のことに関する注文なので、それを書き始めたっていう。だから77年まではけっこうのんびりしてたんですよね。

立岩:山本義隆さんとはずっと付き合いは続いてたんですか?

最首:付き合ってない。

立岩:じゃあわりと突然というか、なんかひさかたぶりに連絡があったと思ったら駿台で働かないか的な提案というか、お願いだったという感じですか? [01:20:00]

最首:山本は臨職闘争とかそういう職員闘争のほうに関わったのでね、けっこういろんなこと。それから逮捕されちゃったからね。山本とべつに付き合いはなかったんだけどね。

立岩:だけど久しぶりに連絡があって、それはそういう事情で「駿台で」って。山本さんはほんとに評判良かったんだと思いますよ。僕の同級生とかでも、駿台でやっぱり山本さんの授業に感銘というかな、影響受けてっていうのはいますね☆。
青木 健

最首:ほんとにね、やっぱり彼の明快さってのはうけたんだよね。ほんとに彼は、思想はないけど明快なんだ。
 山本のこと書かなくちゃいけなくなってね、岩波に山本のこと書いたの☆。なんだっけ、人物を書いていくやつ。戦後思想家。「山本は無思想だけどいつも面白がってた」っていうようなことを書いたんですけどね、ほんと無思想なんだよ。だけど明晰なんだよね。ある意味ではその思想面からはごみようなのよ。新しいこと考えらんないのね。だから彼の明晰な文章ってのはうけていろいろ本出すけど、みんなそれはそれで月並みなんだよな。原発論にしてもなんにしても。月並みに詳しく書いてくれるんだ。

立岩:僕はフォローしてないんですけど、物理学の歴史のけっこうでかい本☆とかあるじゃないですか。

最首:すごいよ、そこらへんの。すごいよな。

立岩:読んでないからなんともコメントのしようがないんですけど、そうか。

最首:もうすごいですよ。とにかくラテン語、ギリシャ語を習うんだからね。あれはすごいよね。

立岩:わりとそういう、外から降って来た的な77年だったってことですか? 山本さんからバイトやろうってのがあって。

■水俣

立岩:水俣は?

最首:77年です。

立岩:それも誘われたって感じですか?

最首:それもね、聖子が生まれた76年の春にもう話があったのね。「冗談じゃねえ、そんな学術調査団なんて」って一蹴しちゃったわけ。そしたら76年の秋に石牟礼〔道子〕さんが出てきてっていう話があってね。それでよせばいいのに、石牟礼さんが私に会いたいって言うわけよ。それでよせばいいのに出かけて行っちゃったんだよ。「学士会館で会いたい」って言ってね。それはみんな、土本典昭の陰謀なんだよ。石牟礼さんに会わせるっていうのもね。

立岩:土本さんが差配して石牟礼さんを最首さんに会わせて最首さんを調査団に引っ張り込もうっていう、そういう土本さんの作戦だったっていう話ですか?

最首:そう。つまり、学術調査団がどうできたかっていうのは現代の思想グループをまとめた、そこらへんは土本さんは関係しないわけだけど。それで、水俣に通じてる土本っていうのを調査団としては非常に重用してね。しかも、運転手役を全部引き受けるなんて役をしてて。で、土本さんは土本さんなりに石牟礼さんの気持ちを慮ってるわけね。で、「最首を引っ張り込みなさい」って石牟礼さんに吹き込んだんだよね、きっとね。それで石牟礼さんに会うのも、たぶん土本さんの工作だと思うの。それでね、石牟礼さんに頼みますって言われたらね…。

立岩:それは断れないですね。

最首:断れないんだよね。行かなきゃよかったんだよな。それでその調査団は始まってるわけですよ、4月から。しかしあまりにもひどすぎるのでね、それで私は77年の春に参加するんですけどね。調査団ってのはもうほんとにひどいもんですよ。[01:25:31]

立岩:それはのちに書かれた本もありますので、それは読めばいいって話にもなるんだけれども、そのひどさっていう、そのへんの「え?」っていう感じはどういうことですか?

最首:要するに現地調査があったのは東大の農学部なのね。戦後ずっといろいろ「現地調査」っていってやったのは。それはみんな上から目線の、もう高みの調査なのよ。そのまんまなんだよ。それで石牟礼さんの意図とはまったく違って、「入っていく」ってことをしないわけね。「調査団ってのは入っていったら終わりです」っていう変な理屈があったわけ。つまり客観調査を。調査は客観的じゃないのに「入り込んだら客観的じゃなくなります」ってのが東大の調査団の、いろんな現場調査団のシンプルなプリンシプルなのよ。それは意図しなくても不知火調査団にはあってね。それに早々と菊池昌典(きくちしょうてん)ってソ連派が参加してたんだけども。

立岩:菊地昌典、駒場で授業あった確か。

最首:それで、「最首さんよ、俺はもうだめだ」って言うわけね。「俺の資料全部渡すから」って言われてね、菊池昌典辞めていくわけね。そもそも水俣に来ない調査団、員とかいるし。その中でいちばんひどかったのが市井三郎だよ☆。ほんとにあのアル中もうどうしようもない。

立岩:アル中とは本に書いてなかったですけどね。(笑) 市井さんのことはちゃんと文章にして批判してるじゃないですか。それは読めばわかるっていうか。

最首:あんまりね、ちゃんとしてないんだよ。(笑)

立岩:必ずしもその市井さん一人ってわけじゃなくて、ほんと全体というか。

最首:鶴見和子なんてひでえよ。
 そんなことが始まっちゃったんだよ。三つ同時に始まったので、それで***(01:28:23)はじめてたりして、けっこう忙しくなりましたね。
 駿台もしっちゃかめっちゃかなんですよ。ひどかったのは、駿台入って論文科ってのを、駿台としては私一人で、あとは國學院の教授が一人、それはすぐ辞めちゃって私一人で論文科ってのを支えたあたりからなんか、忙しいのなんの。それはバブルってのもあるんでしょうけども。それで信じられないことを、丹波も自分で河合塾の経験があるからわかってるけど、論文200枚添削指導がある。それを締め切り厳守だっていうのに、明日締め切りって時に「できません」って持ってくるやつがいたりしてね、ほんと200枚ぐらい一晩でこなすっていうことをやってね。それはインチキもほんとにインチキなことで通ってたんですよ、論文だってね。

本頁:◇最首 悟 i2022a インタビュー・1 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
続き:◇最首 悟 i2022b インタビュー・2 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅
続きの続き:◇最首 悟 i2022c インタビュー・3 2022/10/13 聞き手:立岩真也丹波博紀 於:横浜・最首氏宅

〜このように表現しています〜
・タイムレコード:(hh:mm:ss)
・聞き取れなかった箇所:***(hh:mm:ss)
・聞き取りが怪しい箇所:【○○】(hh:mm:ss)
・漢字のわからない人名・固有名詞はカタカナ表記にしています。


UP:20221127 REV:
最首 悟  ◇東京大学やその周りでの  ◇声の記録  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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