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合原亮一氏インタビュー 2022/12/11 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町・学士会館


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合原 亮一 i2022a インタビュー 2022/12/11 聞き手:立岩真也 於:東京・神保町・学士会館
◇文字起こし:ココペリ121 https://www.kokopelli121.com/ 7分+44分

生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇東京大学やその周りでの
青木 健(1960〜2009/01/12)/◇高橋 秀年(〜1984)

立岩:その間(かん)、金井康治の闘争とか、70年代終わりから80年代はじめごろの東大やその周辺のことをちょっと調べていて。そんな長い話じゃなくてもいい。
 合原さんって、高校生何年が何年まで?

合原:高校生が74年から76年かな。計算上。1年まちがってるかもしんないけど。引き算ができなくて。

立岩:たぶん4、5、6っていうかことか
 高橋秀年とかって死んじゃったから聞けないわけじゃない? でもその当時のこといろいろ聞くと、彼とかが出てきて入ってからのことは多少わかるけど、高校の時っていうのは。教育大附属がどんな感じだったのかっていうのは、それだけでいいんですけど。

合原:まず、おれの二つ上の世代まではいちおう自治会があったのよ。いちおうだ。ちょっと正確じゃないけど。それで、おれが入学した時にはすでにあって、その、間の学年っていうのはほとんど知らないんだけど、二つ上までは学内でなんかそれっぽい、ちょっと政治活動っぽいことやってる人たちがいたのは事実。で、一つ上からそういうのなくなって。

立岩:それは何? 自治会をお取り潰しにあったみたいなことなんですか?

合原:自分たちで解散したんだ。「こんなものは役に立たないからいらん」って言って。

立岩:自己解散?

合原:そう。だからすごい先進的な高校なので。それはおれが卒業できたってこと見ても(笑)、奇跡的、先進的なとこなんだけど。
 どういうことかっていうと、先生がばかだっていうか純真すぎて、「生徒の自主性を重んじよう」とかいって好きにやらせてるから、べつに酒飲もうがたばこ吸おうが、現場を押さえられないかぎり問題になんないみたいな学校なのよ。で、そこまでばかじゃないからべつに放っといても大丈夫だろうっていうような考え方でやってて。
 で、その自治会がなくなったあと、学園祭っていうのがいちおうあるんだよね。桐陰祭っていうんだけど。その実行委員会は毎年有志が勝手に組織して、全校投票して承認されると学祭ができるっていう。おれは2年の時にその学園祭の実行委員長になってたんですよ。ただ、おれなんか完全ノンポリだよね。単純に言うと、人間だから信条はあるけど、べつに政治信条があるわけじゃないからさ。そういう学校で。
 たまたまその年はみんな「なんとかくちゃくちゃになっちゃってるものをなんとかしたい」っていう話がほかの学校でも起こっていて、たまたまその時は「10校会」という組織ができて、近辺の10高校、もう忘れちゃったけど、うちと麻布と桜蔭と、あとどこだったかなあ? えっと都立なんとか高校…、忘れちゃったな。いくつか10校の高校が集まって、なんかの歴史教育研究所か何かが、そういう今の高校生の座談会みたいのやった時に呼ばれた人たちが、「これもうちょっとやろうぜ」っていってやったような気がするな。
 だからアヤって知ってるんだっけ? アヤノブヒロか。今日は来てたけど。

立岩:名前しか知らない。

合原:そいつは奥さんは桜蔭の出身なんだけど、そこで知り合ってるんだよな。みたいなことをやっていて。で、そのあと学園祭やりました。で、終わったあと…終わったあとだよなあ。まあこのままやってもしょうがないので、新聞部ってのもなくなってたので新聞部再興したいと思って、一人で新聞部作って。印刷機の残骸があちこち落ちてたのでそれを学内から拾ってきてたの。輪転機を組み立てて、ガリ版刷りで2週間に1回出したかなあ。よく覚えてないなあ。ていうことを私はやっておりました。

立岩:それは何、一人新聞みたいなもんだ。ほんとの一人?

合原:最初はね。でもだんだん人が増えてって3人、4人みたいになってって。
 秀年は当時まだそんなに目立ってなかったよな。学年がちがうからあんまりよく知らないかもしれないけど。年がちょっと離れてるから。

立岩:そうでしょう。だって秀年おれと同じ年なのよ。だから高校生だったのは76・77・78年度かな。

立岩:新聞部再建までの話を聞いたんですけど。

合原:新聞を出して。あとなんかね、そのころ、「関東高校生の会」つうのがあったのよ。それは学内じゃないんだけど。そこにたまたまオオフナが中心で、「変人奇人文化研究会」っていう名前なんだけど(笑)、なんかそういうところでちょっと少し社会的な活動をしていたのかなあって感じ。あと、今はあんまりやってないけど、同じ高校にサクライってやつがいて、さっきのアヤと同じクラスだったけど、なんかデモとか行ってるやつでさ。誘われてそういうの行ったりとかそんな感じでやってて、べつに深い考えもなく、六価クロムの何とかとか。
 だから結局そんなことばっかりやってて、学校にはだいたい授業の終わりごろ行くっていう。

立岩:それでも許されるような学校だったのね。

合原:そうそうそう。担任がもう。でもやっぱり職員会議では問題になったらしいけど、担任が「いや、あいつは考えがあってやってるから、今はちょっと見守ってやってくれ」って言って擁護してくれたらしいけど(笑)。そういうんで、まあなんとなく…。
 おれってわりと頭の中がすごく単純にできてるので、教科書に載ってるようなことが正しいと思っちゃう人なのね。で、「こういうふうにやんなきゃいけないよなあ」と思って、みんな先生もそうしてきたのに、なぜかこうやってる人は誰も世の中にはいなかった(笑)。おかしい、先生もやってることと言ってることがちがうじゃんか、みたいな話ばっかりだけど、まあでもどっちもが正しいんだろうと思って生きてたので。変わっているよね、たぶんね。
 ほんでそういうことやってれば大学に入(はい)れないわけよ。

立岩:3浪?

合原:2浪。

立岩:2浪か。

合原:結局だからほら、学校に入(はい)れないわけじゃないか。あたりまえだよね、まったく学校行ってないし。偏差値40いくらだったからな。
 で大学もほら、そういうことやってたから、まああんなとこ行って特権階級になんのはよくないみたいなさ、頭のなかで考えた世界で生きてたので。

立岩:浪人の時はふつうに浪人やってたんですか?

合原:毎日パチンコやってたね。予備校がきらいで勉強がきらいだから「予備校に行く」と言って毎日パチンコやってた。

立岩:予備校は登録っていうか入学はしたけど行かないみたいな、そういうことですか?

合原:そうそうそうそう。よくないよな、金だけ払ってな。

立岩:何予備校?

合原:駿台。

立岩:駿台? 駿台行ったけど行かなかった。

合原:おれとしては、まあそうは言ってもどこの大学も行かないっていうのは先々めんどくさそうだからどこでもいいから入ろうと思っていて。そこははっきり言うけどなめてたわけだけど。だから最初の年は東大しか受けてないのよ。どうせどこ受けても受かんねえし、親もあきらめるだろうと。
 で、1浪したら「まあしょうがねえ、入ったとこでいいや」ってかたちになるんかなと思って。考えが甘くて、五つか六つ受けたけどぜんぶ落ちたんだ(笑)。で、「おれ、ここも落ちちゃうの?」と思って、これやばいよなあと。来年は、今年受けたいちばん下の大学には入るように勉強しようと思って勉強しました、やっと。

立岩:浪人2年目はようやく勉強した、それで2浪で入って。

合原:はい。なぜか入りました。

立岩:合原さん大学の入学って何年?

合原:78年。

立岩:そっか。じゃあおれと1こしかちがわないっちゃちがわない。

合原:学年はね。

■『恒河沙』

立岩:『恒河沙』始めたのはすぐですか?

合原:78年にクラスで文化祭に映画を作ろうってことになって。おれと一緒にいた小山ってやつが「映画作るの大変だからやめようぜ」って反対したんだけど。

立岩:小山ってあの小山とは同じ?

合原:あの小山だよ。

立岩:あの小山?

合原:うん、そうそうそう。

立岩:あの小山、なんか九州で豚飼ってるとか言ってなかった?

合原:豚はもう飼ってない。沖縄にいるんだけどな。

立岩:沖縄か。

合原:いまJICA(ジャイカ)の何かやってるって。開発。コンサルタントやってる。

立岩:小山さんとクラスは同じだった?

合原:そうそうそうそう。おれと小山と、江川さんと、もう一人名前出てこないけど、その4人が。映画撮り始めるとみんな何にもできないわけよ。しようがないから小山がカメラまわして、おれが音響やって、「だからめんどくせえからやだって言ったのに」って(笑)。

立岩:何の映画撮ったの?

合原:しょうがない学園生活みたいな映画だ。覚えてねえよもう。ただまあせっかく一緒にやったんだから、このままつまんねえから何かやろうぜっていって、じゃあ雑誌出そうぜって話で、『恒河沙』作ったの。

立岩:そうだったんだ。じゃあ何、L1(エルイチ)何組みたいな。

合原:そうそうそう。

立岩:何組だったか覚えてる?

合原:8組だったかな? よく覚えてないけど。

立岩:じゃあ、そもそもL1のひとつのクラスから始まったような話だ。

合原:そうだよ。

立岩:『恒河沙』っていうタイトルはその時決めたんですか?

合原:そうだよ。

立岩:誰が決めた?

合原:おれが。

立岩:「恒河沙がいい」って合原さんが言ったわけ?

合原:いや、とくにいいってのはねえんだけどさ、みんなだったら名前決まらんのだよね。恒河沙ってのは数の単位なのよ。

立岩:ぼく、恒河沙って数の単位知らなかったんですけど、知ってたってこと?

合原:辞書で調べた。

立岩:何? 大きい数がいいなって思ったってこと?

合原:っていうかほら、ガンガーだからさ。ガンガーの砂の数っていうかさ。結局今の見田さんのあれにつながってくるようなことを。

立岩:まあちょっとそんな感じはあるよね。

合原:その時分、ちょっとそういう世界観だったのよ、なんとなく。要するに、オルタナティブなものを求めてたんだね。これまでの、学園闘争みたいなのやってもだめだってことがはっきりされた時代だったからさ。
 あとのことは立岩も知ってると思うけどさ、なんか怪しい襲撃とかされたから。でも高校の時にそういう経験があるから、とりあえず印刷機があれば何とでもなると思ってさ(笑)。まず印刷機をなんとかしなくちゃって(笑)。

立岩:襲撃っていつのどういう話?

合原:おれが終わったあとだから、もう立岩はもう3年生だったんじゃねえの? おれが1留してるから。で、おれが本郷に行った時に会ったから。

立岩:じゃあ両方が3年で本郷行った年ってことか。

合原:そうそうそう。部室が襲われて。なんかもとから2台あった輪転機が下に落ちてるんですけど(笑)、部屋中消火器まかれてるんですけど、みたいな(笑)。

立岩:そんなことあった? それは誰がっていうのはわかったの?

合原:特定もしてない。要するに当時自治会に次いで活動能力が高かったわけよ。あっという間に看板がーっと出したり、一晩で何千枚とビラ撒いちゃうしさ。それを快く思わない勢力あったってことね。それは原理なのか、中核なのか、革マルなのか、それはわからん。まあ民青はそういうつまんねえことやんねえからちがうと思うんだけど。ぜったい裏にセクトがついてると思ってるんだ。

立岩:思ってるっていうのは?

合原:相手はね。おれらの裏にセクトがついていると思ってんだよ。

立岩:おれらの裏に何かあるだろう、と。それに反対する党派とかそういうとこがっていうことか。

合原:そうそうそう。

立岩:バックナンバー送ってもらって…。微妙だよね、政治色がないっちゃないけどあるっちゃあるっていう。

合原:そうそうそう。おれは正しい政治色を出したかったから。だから決まった政治色無しで]みんなが自由に好きなことを言って何らかの動きが起こればそれはいいなと思ってただけなんで。


立岩:そういう流れなんだ。関係してたっちゃしてたけど、わかんないっちゃわかんなくて。聞かなきゃわかんない話だなあと。ぼくは大学入った年に、秀年。秀年は年は同じだし、あれはストレートで入ったってことなんだ、たぶん。ちがうかな?

合原:細かいことはわからない。数字弱いので。

立岩:わかんなくていいんだけど。高校の時はあまり付き合いがないのね?

合原:うん。でも名前は知ってた。

立岩:ああいう人の名前ってどういうふうに伝え聞くものなんですか?

合原:教育大附属っていうのは変わった学校で、蓼科があるの。で、夏にクラス単位でそこで合宿やんだけど、三泊四日かな。OBがついてって、山登ったりめし作ったりっていうのやるんだけど、そこが掘っ立て小屋にむしろ敷きで、真ん中にいろりがあって。寝るのは毛布3枚支給されてそれで寝るんだ(笑)。そういうところなんで。そういうのはもうすでに当時でも珍しいじゃん?
 そういうのに惹かれるおかしいのがいて、そこが夏休みは1年生が順番でクラスごとに合宿やってるんだけど、それ以外の期間は上級生とかOBに解放されてるのね。そこに集まる人たちがいて、そういうとこで学年とかに関係なく、つながりがあるんだよ。で、そういうとこで秀年が来てたと。

立岩:じゃあ名前を聞くぐらいの感じだったってことか。

合原:そう。何やってるやつかは知ってるぐらいね。で、入ってきて、あれだから2年になった時だよな。だから1年の時に黒ヘルやってるってことももちろん知ってるし、そういうのは知ってたかな。ときどき会えばあいさつするぐらいの関係。

立岩:じゃあ同じ学校とはいえ、そんなに直(ちょく)になんか知ってたり、関係してたりっていうわけでもなく。

合原:そう。ただおれはじつは高校の中ですごい有名人だからさ。毎週全校集会で前に立ってしゃべるような人だからさ。しかもべつに政治的なことはしゃべらないんだね。学園祭をどうやって盛り上げるかみたいな話をしただけで。それで学園祭のポスターは、でっかいこの紙にスクリーン印刷で、自分たちでそこらじゅうに貼るんだけど、白衣の背中にそれを刷ってたから、毎朝通学はそれ着て通ってた(笑)。

立岩:なんとなく雰囲気はわかる。だから合原は高校生として著名な人であったわけだ。

合原:そうそう。

立岩:おれの記憶ではね、秀年は直接には『恒河沙』とかと関係なかったけど、でもけっこう出入りっていうか、遊びに来てたっていう意識はあって。で、何だろうね、青木健とかとは、青木はたぶん現役で、

合原:高校同じだから。

立岩:うん、高校同じで。

合原:あいつはうちのだから新聞部にいたので。

立岩:青木が? 新聞部の人だった。

合原:高校ね。

立岩:そういうことか。たとえば青木と秀年が高校の時同学年じゃない? たぶんね。それで知ってたってことあんのかな?

合原:それはあるだろうな、とうぜん。

立岩:そんなんで『恒河沙』になんかぶらぶらと来てたっていう。

合原:そうそう。だからおれは秀年から見れば「有名な先輩」っていうね。

立岩:そういう感じなんだ。合原さんは秀年のことは何か、

合原:接点はいろいろなくはないけど一緒に何かやったってことがそんなにあるわけじゃないしさ。でも向こうはおれのことよく知ってるよね、それはね。

立岩:そういう関係か。それ以外に何か秀年のことで覚えてることとか知ってることとかある?

合原:いや、まあその葬式には行ったからなあ、とうぜん。あとは駒場で会ったりしてちょっと話したりすることは、とうぜんあるわけでさ。ただあいつらはどっちかっていうとちょっと政治的だったのかなあっていうね。その世界のおれと同じ学年のやつらとは付き合いあるからさ、とうぜん。そういった黒ヘルやってたようなやつらとか文学部の自治会のメンバーとか、農学部の自治会のメンバーとかとはけっこう一緒にやってたかな。

立岩:秀年がやってたってことだよね。

合原:秀年がやってたとこのほうの上のやつらとおれは付き合いしてたからな。。



立岩:たとえば77年とか、百年祭とか、文学部で火事とか、いろいろっていうかあったじゃないですか。あのへんのことについての記憶であったり、合原さんなりの受け止め方っていうか、距離感っていうか、そういうので何か覚えてるとかあります?

合原:駒場のことで?

立岩:本郷も含めて、文学部含めて。

合原:本郷行ってからはさ、農学部で毎年五月祭でコンサートがあって。

立岩:桑田佳祐呼んだとかいうやつでしょ?

合原:そうそうそう。おれ、あの実行委員会にも入ってたから。国枝とか〔高橋〕さきのとか、それから野上、そういうのとはよく一緒にやってたからなあ。みんなあのへんはつながってるのよ。文学部、死んじゃったけど狩野とかな。みんな死んじゃうから。

立岩:狩野死んじゃったよな★。やれやれ。
斉藤 龍一郎 i2019 インタビュー 2019/11/02 聞き手:立岩真也 於:御徒町・焼肉明月苑/アフリカ日本協議会事務所 文字起こし:ココペリ121
「立岩:そうか、動労千葉、やってたよね。なんだろうな、あんまり盛り上がらなくなった日本の学生たちの運動っていうのが、その70年代から80年代にかけて何してたのかっていうの、俺はやんないけど誰かね、もうちょっとまとめてほしいなって今日思ったのよ。で、僕らはたぶん共通に知ってるのって、僕より歳上の、狩野っていたんですよ。
斉藤:はいはい、狩野ね。
立岩:心理学科にいた奴。あのへんな、彼なんか生きてれば覚えてて、彼らが一番文学部では熱心にやってたから、学部によって自治会も違うわけよ。で、教養学部っていうのは東大の場合は1・2年生はみんな教養学部っていう同じとこに行って、で、3年生になる時にいろんな学部に学科に分かれていくわけだ。で、僕は文学部だったんだけど、斉藤さんは教育学部だけど、僕の記憶では僕らの学部生の時は文学部と医学部あたりが、あと駒場の大学院の小松とかがいた科学史、科学哲学とかそういうのがあるとこ。
斉藤:基礎科ね。
立岩:基礎科あたりが、これも説明は今日はしませんけど、日本っていう国は変な国で、フランスもちょっとそういうとこあるけどね、共産党に対抗する左翼っていうのがいる国なわけですよ。
イヴァンカ:うん、いる。
立岩:ね、そういう人たちがいる国ってあんまりなくて、フランスはちょっとそうですけど、まあドイツもちょっとそういうとこある、そういうとこが一時期あった。今でもまあ、ちょっと緑の党とかちょっとそういうことに関係なくはないですよね。で、日本もそうで、で、そういう意味で大学の中で共産党系の学生たちと、そうじゃないレフトっていうか人たちっていうのがだいたい喧嘩してるわけ。
イヴァンカ:レフトと、
立岩:レフトとレフトが喧嘩してる。内輪揉めって、内輪だとは思ってないんだけど、してて。教養学部は共産党系が強かった、僕が学生の時はね。僕らは負けてた。で、文学部はその全共闘っていう過激派だな、の流れ。過激派っていうかセクトっていう党派ではないんだ。さっき言ったのは中核派っていうね、白いヘルメット被ったちょっと野蛮な、今でもちょっといますけど、かなり野蛮なやつらが、には別に牛耳らせないんだけど、そういう党派ではないんだけど、ノンセクトって僕ら言ってましたけど、そういう人たちが主導権持ってる自治会が文学部と医学部もそうだったと思うね。で、僕らは文学部で反100年の闘争の続きみたいな。で、そこの中に養護学校義務化のこともあったし、けっこうそこの中に医療・障害系のテーマっていうのがかなり入ってた記憶は、例えば精神障害の関係でいうと保安処分反対とかね、そういうのが入ってて。僕はその、そうだ、学友会、文学部の場合は文学部自治会とは言わなくて学友会、学ぶ友の会って書くんだけど、学友会って所で僕は社会学科だったんだけど、社会学科の場合、そこのなか二人ぐらい委員が出るわけね、学友会のね。で、それの委員っていうのをやったり、それから大会の議長という、チェアマンやったりとかそんなことはしてたんですけど、そこまでは言えるんだけど、どういうふうにその時々に誰がどういう主張で何を論点だったのかって具体的にあんまり覚えてなくて、僕ほんと頭悪いっていうか記憶力ないっていう、そういう話だよね。その文学部のずっと長いこと、僕らの上にいて僕なんかよりずっと一生懸命やってたのが、狩野さんっていう男の人だったんだよ。で、たぶん彼なんかはまだちゃんと生きてれば、彼に聞けばいろいろ教えてくれたかもしんないけど。彼は心理学科出たあと、医者を批判するためには医者になんなきゃいけないみたいなことを思ったんだろうね。
斉藤:先に陽和病院に9年ぐらい仕事をしてんだ。
立岩:陽和病院っていう精神病院があって、それは反体制派の共産党系ではない人たちが、の医者たちが関わってた病院が、太陽の陽に平和の和か。そういう病院があってそこに関わってた。
斉藤:病院の近くにこう、なんていうんだろう、ケアハウスみたいな感じで出れるような。
立岩:退院した人がね。
斉藤:だから病院の敷地外に、とにかく病院から遠くなくって住むスペースを、あれは病院で用意したんだな。だからそういう感じで地域へ戻るってそういうことをやってたんだな。」
「立岩:ちょっと待ってね。で、狩野は、だからそこで医学部の三年生ぐらいだったのかな、そん時に。
斉藤:そうですね。大阪市大医学部。[01:50:03]
立岩:大阪市大の医学部の学生だった時に、くも膜下出血だったよね。」

合原:だから一緒にこう…。ただおれはどっちかっていうと、そういう何ていうか、狭い意味での政治活動みたいなのはあんまり好きじゃないんだ。だから「協力してくれ」って言えば協力するし。さっき言ったような自治会の役員とかさ。結局、しようがないから緑会選挙出て。

立岩:緑会ってあれ、法のやつ?

合原:そうそう。法の自治会ね。

立岩:出たことあんだ。

合原:全員民青でおれだけ、あと(笑)。でも民青ってね、やっぱまじめなのよね。

立岩:まじめだよね。まじめすぎるとこが問題みたいな。

合原:そうそうそう。必ずね、もう「合原さん」ってね、もう。おれがだんとつで得票数多いからさ。

立岩:それは緑会の何に出たわけ?

合原:緑会委員。緑会委員の選挙に出て。

立岩:じゃあ委員にはだんとつで、トップ当選で委員になるわけだ。

合原:だんとつ、トップ当選(笑)。だっておれ、戦略的にちゃんと考えてやってるもん。

立岩:そういう意味ではそれなりに、法学部なら法学部。

合原:そう。だから法学部緑会の委員をずっとやってたし。だからあとやっぱり、あの人たちまじめだから、一定の勢力であって、学生に支持されてると思うと、「寮の部屋使わせろ」とかね、「むこうの部屋遠いから、こちらを使わせよう」って、ちょっと考えてねえもんね、あの人たち、まじめだから(笑)。

立岩:まあそうだよね。

合原:裏では民青の足をひっぱったと(笑)。
 なんかそういうことをやってたので。そうね、で何が知りたいんだい? 立岩としては。

立岩:いや、もういい。もういいっていうか、だいたいでも、なんかぜんぜんミッシングっていうか、東京にもいなかったし、何にも知らないわけじゃない? その時の、その当時の高校の状況っていうことも知らないし。

合原:いろんなセクトからなんとなくおれが感じたのは、ほかのセクトからは「あいつはバリバリの活動家だろう」と最初から思われたと思うね。ただ、どこのやつかわからんと。なんでおれたちの情報網に引っかからんの? と。そういう対応。どこからもまじめなオルグがかかんないの。警戒してんだよ(笑)。

立岩:あの当時って、民青の諸君は民青の諸君でまじめにがんばっててなんかっていう、それはぼくはわかるけど。党派もけっこう入ってたんですかね。

合原:党派はまだね、要するに黒ヘルといってもちょっと何とかの流れ引くみたいなのがいくつかあってやってたんだけど、おれは細かいこと関心がないのでよくは知らないんだけど。そういうのは個人的にはどうでもいいのよ。ともかくもうちょっとみんなものを考えてほしいなっていうだけのことで、そのきっかけを作りたいなと思ってやってるんですけど。

立岩:2浪1留? 法学部はふつうに出たの?

合原:法学部はふつうに出られました、ふしぎなことに。



立岩:就職は川崎何とかって。

合原:川崎重工。

立岩:重工。ぼくの記憶では、辞めてアメリカの大学なんかに、大学に行ったとかそういうんじゃなかった? ちがったっけ?

合原:えっとね、そこもまあ人とくらべると大変むちゃくちゃなんですけど、まず川崎重工に行ったのは、「このまま行くと…まともに就職しないと結婚できない」と思った弘子ちゃんが(笑)。

立岩:え、ちょっと待って、弘子さんが何だって?

合原:「このまま行くとまともなとこに就職しないから、自分が親を説得できなくて結婚できない」と思って。

立岩:弘子さんの親を説得できない。

合原:自分がね。

立岩:うん、自分がね。

合原:だからまず一流企業に就職させなけりゃと思って、オートバイ乗ってたから、オートバイメーカーならあきらめるだろうと思って「そこにしよう」って(笑)。
 ただ、重工ちょうど冬の時代だったからさ。有名大学を取るの大変だから向こう側から猛烈なアタックかかってきちゃって。ああいうとこでもいいやと思って入っちゃった。

立岩:じゃあ入る時はそれべつに苦労はしてないわけ?

合原:まったくしてない。川重ですね、川崎重工。
 正確には日本で7年働いて、アメリカで4年働いて、あと2年留学して。いちおうそのあいだ在籍したから13年いたことになるのかな。

立岩:そうか、大学院生だった時も川重に。

合原:籍はあった。それもさ、おれって自分で言うのもなんですけど働き者なんです。

立岩:それはわかりますよ、横にいたんで。「この人働くなあ」ってのは。

合原:会社入っても目の前の問題解決するのが趣味なので、ずっとまじめに仕事してて。
 1988年に初めて地球環境問題があるっていうのを知って。そんなのでも日本は先進国じゃん、だって公害問題にもいちばん進んでるんだと思ったらなんかぜんぜんちがう話らしくて、なんかオゾンホールがどうとかなんかわけのわかんないこと言われて、「これ、なんかやばいかもしれない。調べなきゃなあ」と思って調べようと思ったら、日本には文献が皆無で。でも海外には論文あることはわかったと。おれが留年したのは、ともかくは語学の授業にいっさい出てないから。語学大っ嫌いだからさ(笑)。
 それでさ、地球環境問題のこと知るにはともかく横文字が読めなくちゃいけないと思って。高校までむりやりやらされた英語のほうがまだいいだろうと思って、地球環境問題のこと知るために英語圏に引っ越すっていう決定をしたら弘子さんにすごく怒られて。「おなかに赤ちゃんがいるのに、どうすんのよ!」みたいな。「いや、おれはどこでも食ってける」「そんなん無理よー」とか言われて、「会社から出してもらいなさい」とか言って。頭が上がらないのですぐに会社に行って、「あの、3か月以内に英語圏に転勤させてくれなかったら辞めなくちゃいけないんですけど」って言ったらばかな会社だから出してくれて(笑)。ほんとに3か月で出してくれたの。

立岩:それはどこ行ったんだっけ?

合原:KHI(ケーエイチアイ)ニューヨーク。アメリカ。いちおうKHIの米国本社ってかたちになってんだけど、もう事業部が大きいからリエゾンですよ、実態はね。

立岩:ニューヨークに行った。で、ニューヨークで働いてて、最後の2年間の大学院生活、だいたい大学院はどこの大学院行ったの?

合原:ニューハンプシャー州立大学。

立岩:ニューハンプシャー州立大学の何学?

合原:Resource Economics(リソースエコノミクス)。

立岩:資源経済学、そういうことか。2年ってことはそこの修士課程を出たっていうこと?

合原:そう。そこに行った理由は比較的簡単で、デニス・メドウズっていう人がローマクラブレポートを書いた三人の一人だったんだけど、あと離婚しちゃってるんだけど二人は夫婦だったんだけど、そのメドウズ夫妻ともう一人、三人で「World3(ワールドスリー)」っていうシミュレーションモデル書いて、出してたんだけどね。で、その人が1991年に「World3/91(ワールドスリーきゅうじゅういち)」っていうモデルを書き直して、またその予測を立てて本出してるのよ。それがニューハンプシャー州立大学の研究所にいたので。

立岩:その三人のうちの一人が。

合原:うん。そいつに教えてもらおうと思って。

立岩:ニューハンプシャー州立大学の先生だったの?

合原:そう。研究所で研究しかしてないけどね。結局一回話をしただけなんだけどさ。

立岩:その人とはね。

合原:うん。シミュレーションモデルはどうやって書くかっていう話を教えてくれた。

立岩:それは教えてくれた。修士号っていうのは取ってきたの?

合原:それがだから研究不足でさ。まずアメリカでは修士課程と博士課程っていうのは分かれてるのね。修士課程までしかない大学と、最初から博士課程まである大学とあって、別々なのよ。それも知らなかった。日本はそんなことないからさ。何も考えずに、とりあえずそのメドウズ先生がいるからそこ行きゃあいいやと思って行ったら修士課程しかなくって、そこで修士課程を取ってもほかのドクターに行くとすごーく認定単位が少なくてめんどくせえってこと、入ってから卒業するころにわかって。
 まあでもどっちにしろ、その論文、いちおうモデルは書いて、論文は書いてディフェンスもやって、口頭試問も終わって、あとは清書して出すだけってとこで日本に帰ってきちゃって。

立岩:なんで?

合原:子どもの学校が9月から始まるんだよ。

立岩:(笑) 子どもの…9月ってアメリカ、

合原:いや、日本に戻ってきちゃったからさ。要するにだから、博士課程に行くのはかえって大変そうだっていうことがわかったのと、あとは「あんなばかなやつらと一緒に暮らしてんのもうやだ」って。
 で、子どもが9月から学校に行けるようにするにはと思って。そんでまた弘子がばかでさ、自分長野県の出身のくせに長野の小・中学校は8月20日から始まるって忘れてるわけだよ。

立岩:2学期がってこと?

合原:そう。秋休みがあんのよ、稲刈り休みが。そのぶん夏休みが早く終わるの。それで、早く日本に帰らなきゃいけないことになっちゃって、そんな修論なんか書いてるひまねえわって。もちろん書いたんだよ、書き終わって提出して、口頭試問も終わって合格して、あとは修正して出せばいいわけだったんだけど、修正して書く予定がその10日間なくなっちゃったからさ(笑)。

立岩:じゃそれはそのまんまになったっていう。

合原:ほっといて。でもアメリカの大学って学籍残るのよ。年に100ドル払うと学籍がずっと維持される。
 で、おれなんかそういう「なぜそんなことが世の中起こるのか」みたいな話が多いんだけどさ、2001年か、5年経ってなんか指導教官からメールが来て、「さすがにそろそろ論文を出さないともう認められなくなるから」みたいな。それがただ、その年に会社でアメリカの投資雑誌の日本版を出すっていうんで、翻訳体制作って、

立岩:アメリカの投資?

合原:投資雑誌の日本語版を出すっていって。

立岩:投資雑誌の日本語版ね。

合原:翻訳体制を作って、「よし、9月から本格的に事業を立ち上げるぞ」って言ってて。でも8月に向こうの投資雑誌の会社が倒産しちゃった(笑)。

立岩:翻訳もへったくれもないわけだ。翻訳のもとがなくなったってことだよね。

合原:それがけっこう大きなプロジェクトだったんで、わりとぜんぶ片づけて人に振ってそれに専念してたんだけどさ、それがそうなった瞬間に指導教官からメールが来たのよ。「じゃあおれ、アメリカ行くわ」って。だってひまなんだもん、やることなくて。論文書きあげて出さなくちゃって、うちじゃできねえから、日本じゃ大変だから。で、大学行って論文書きあげちゃおうってなって8月末にフライトまで取ってたのよね。たださ、その日、おれがアメリカに行く予定の日が後輩の結婚式があったってことを思い出して(笑)。しょうがねえ1週間延期するか…その間に9.11が起こったのよ。

立岩:ちょうどその年のその時というか。

合原:で、その直前に、9月の頭に向こうへ行くはずで、フライトもホテルのぜんぶ押さえてあったのにぜんぶ解約して、ネットで取りなおそうとしたら、ネットワークがおかしいわけよ。順番にこういろんなサイトが応答しなくなってくわけ。たまたまその時毎日新聞の仕事もしてたんで、毎日新聞の特報が入ってくるのね。なんか「ニューヨークで飛行機事故が起こった模様」とかさ。ああセスナが落ちたのかなあ、みたいな。「ペンタゴンでなんか事故起こった模様」とか入ってくるんだけど、まったくわからんの。でもさ、順番にいろんなサイトが応答しなくなってくわけよ。で、最後にスタテンアイランドの旅行サイトも落ちちゃって、これニューヨーク行ったらだめだなと思って。遠くのサイトに切り替えて、ぜんぶ取り直したんだけど。その時の体験は『月刊アスキー』に書いてますけど★◆もしデータ残っているならください◆。というようなことで、結局もう明けてすぐ最初のフライトでアメリカに飛んで。まだぜんぜん警戒大したことなかったよ。1か月ぐらいいて論文書きあげて出して。だら修士号取りました。

立岩:結局取ったって話ね。長い話だね、取るまでが。

合原:取るまで大変でしょ。なんかあまりに偶然が重なってるよね。



立岩:取ったんで戻ってきて、今の仕事に至ると。

合原:今の仕事は当時から同じことやってるんですけど。たまたまぽかっと空いちゃったので。

立岩:今日弘子さんに聞いてさ、今日聞いたいちばんおもしろい話が、ニワトリが150羽いるっていう話と、

合原:あ、弘子嘘つきだ。

立岩:ちがうの?

合原:250羽いる。

立岩:250羽。じゃあちがうじゃん。150って言ってたよ、たしか。聞きまちがいかもしれないけれども。

合原:いや、たぶん自分も正確に認識してない。

立岩:それは楽しかった。ごくろうさんです。百姓ってきらいじゃないけど、そういう域にはぜんぜんまったく達してない。

合原:まだ2町歩だよ、面積は。2町歩ちょっとだな。

立岩:2町って平米というかアールとかでいうとどのくらい?

合原:2ヘクタール、200アール。

立岩:200メーターかける100メーター?

合原:そうそう。200メーターかける100メーター。再生可能エネルギーを何とかするには農地を作るしかないのよ。でも農業をやってる人はみんな頭の悪い人か頭のかたい人なので。まあわかるよねって、今のそういう環境なんでね。べつに悪口で言ってるわけじゃなくてたんなる客観的事実なんで、なかなか設置はできないよね。設置をしようと思うと、農地を買って作ってくれって言われてどんどん農地が増えてくる★。
★ガリレオ:自然エネルギー事業 https://www.galileo.co.jp/solution/?id=energy

立岩:つぎつぎと拡張されてるんだって話は弘子さんからもちょっと今日聞きましたけど、「まあ止められないよね」って言っていました。

合原:弘子さんは、そういうなんかおれとの関係で言ってるけど、統計的なデータで見る限り農地作る以外選択肢がないんだ。

立岩:合原の試算だと、農地にまんべんなくじゃないけど、そこそこ。

合原:おれの試算じゃないよ。環境省が出してる。

立岩:環境省が出してるそういう公式発表みたいなもので。

合原:それでも環境省は、「だから農地に付けましょう」っていうことをやってくれないんだ。要するに、

立岩:付けたら何とかっていう、

合原:潜在発電力が農地しかないよねっていうことが、読めばわかるレポートは出してる。

立岩:なるほど。でもやってくんないから。

合原:そう。だから、「だから農地は作らないから無理だ」っていうことになってんだけど、べつに農地作りゃいいじゃんって。めんどくせえけど。

立岩:わかった。
 これ何? 酒井さんたちとやりとりしながら今日の企画を作ったんですか?

合原:発起人会に最初から入ってるのが、酒井さんと吉見と、あとこの中だとそれぐらいか。もうちょっといるかもしんないけど。年配のかたお帰りになったので。
 で、さっきの大澤。大澤、吉見、酒井イの3人がうちうちで会って来年の企画している。

立岩:それはほんとにやるんだ。

合原:やる。もう日も決めてるし場所も決まってる。なんかそれだけの何か書いて出たら、

立岩:合原さんは見田ゼミは1年生の最初からですか?

合原:そう。今日のあれに書いたけど、当時は競争率がきびしくて「エッセイを書け」って言われて。

立岩:そうだよね、落とされる人いたよね。ぼくも作文書いたもん。

合原:で、落とされたんだけど、高校の同級生と、ぼくらと同じじゃないんだけど、同じ学年のやつでアヤってやつが先に見田ゼミ入ってて、「おまえを落とすなんて見田がまちがってるから出ろ」って言って、最初の回に連れてかれて。見田に「こいつ入れろよ」って言ったら見田は「わかりました」って(笑)。

立岩:落ちたのに連れて行かれてっていうか、行ったわけだ。そしたら結果としては入(はい)れた。

合原:そうそうそう。

立岩:っていうことは、ぼくは79年に入るわけだけど、78年に入った時にそういうことがあって、最初から見田ゼミだった。

合原:そう。

立岩:弘子さんもそうなの?

合原:同じ学年で。彼女は賢いからきっとちゃんと受かって入ったんだろうね。よく私も覚えてないけど。

立岩:でも見田ゼミで一緒だった?

合原:そうだよ。

立岩:だよね。それが最初っちゃあ最初なの? 弘子さんと。

合原:おれは見田ゼミで一緒だっていう認識はあんまないんだよね。

立岩:彼女ってもともと何? 文いくつ?

合原:浪人してない。

立岩:浪人はしてないけど、

合原:学年おれと同じ。入ったの78。

立岩:文何?

合原:文三。

立岩:文三か。でもふつうだったらそんなにしょっちゅう会ったりする機会あんまりないじゃない。

合原:『恒河沙』を作ってやり始めたら、「入れてください」って言ってきた。

立岩:そういう関係か。『恒河沙』が先なのか。小山と『恒河沙』やって、『恒河沙』、

合原:たぶん78年の年末ぐらいにはもう最初の号出してたはずだから。

立岩:じゃあ見田ゼミうんぬんじゃなくて、どっちかっていうと『恒河沙』、

合原:で、まあ「見田ゼミにもいたんだね」みたいなことかもしんない。よく覚えてない。
なんか青木健からよく言われてたんだけどさ、「なんで合原はいつも寝ててレポートも出してないのに、ぼくがBであんたがAなんだ」なんて(笑)。

立岩:青木はさっき新聞部で一緒だったっていうのはわかったけど、それ以外に、

合原:見田ゼミでも一緒だよ。

立岩:青木も最初から見田ゼミか。そういうのぼくはぜんぜん知らなかったんだよ。見田宗介も知らなかったんだよ、大学入った時。

合原:おれも知らなかったよ。アヤが入れっていうから入っただけ。

立岩:それはアヤさんがそういう話だったの?

合原:そう。そしたら中野と**がいて、「一緒にインド行こうぜ」とか言って連れてかれて。

立岩:中野さんも同じ学年?

合原:学年はおれよりもちょっと上じゃねえかな。大澤が同じ学年かなあ、1こ上かなあ。でも年はおれより1こ下なんだよ。

立岩:大澤はぼくの二つ上だよ。そんな感じだと思う。

合原:生まれた年同じなんだけど、おれは早生まれで彼は遅生まれなので、学年は1こ下なんだ。大学入ったのは先かもしんない。よくわかんない。

立岩:そのままずっとたぶんぼくの二つ上で入って二つ上で出たっていう感じだと思うんだな。
 あれアダチさんだ。わかりました。青木は新聞部で一緒だった以外に、大学入ってからうんぬんっていうのはどういう? 青木も『恒河沙』なわけじゃない? それは最初から『恒河沙』入りたいって言ってきたわけ?

合原:たぶんそうなんだろうな。よく覚えてない。ごめん。

立岩:じゃあどのぐらい知ってたの? 知り合いだったの? 青木。

合原:新聞一緒にやってたからよく知ってるじゃん。さっきの桐陰寮って、立科の山の寮にも来てたし。

立岩:ぼく、合原の青木の追悼文★、サイトに載っけてるよ。
★合原亮一 2009/01/20 「弔辞」,告別式・於:五反田・桐ヶ谷斎場

合原:ありがとうございます。

立岩:勝手に。もういいだろうと思って。

合原:いや、私の書いたのはすべてパブリックドメインなのでかまいません。

立岩:これ終わったら、反省会というかまとめの会を、やるということ?

合原:1月でいいですよ。というか年内ちょっと日があんまないから厳しいよね。

立岩:だから1月に。

合原:ちょっと日程調整して、まあできれば一回顔合わせられればいいと思う。


UP:20230131 REV:20230201
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