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松山 善三
まつやま・ぜんぞう(1925/04/03〜2016/08/27)
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last update:20150810
◆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E5%96%84%E4%B8%89
◆立岩 真也 2016/10/01
「七・二六殺傷事件後に 2」
,『現代思想』44-(2016-10):
◆2016/09/02 「松山善三さん死去=映画監督・脚本家、91歳」
時事通信 9月2日(金)17時53分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160902-00000121-jij-soci
「「名もなく貧しく美しく」「典子は、今」など社会派の作品で知られる映画監督で脚本家の松山善三(まつやま・ぜんぞう)さんが8月27日午後8時41分、老衰のため東京都内の自宅で死去した。
91歳だった。神戸市出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は養女の明美(あけみ)さん。
1948年に松竹入りして木下恵介監督に師事し、「荒城の月」で脚本家デビュー。55年に女優の高峰秀子さんと結婚。61年、聴覚障害者の夫婦の暮らしを描いた高峰さん主演の「名もなく貧しく美しく」で初監督を務めた。
サリドマイド症の被害者本人が出演した81年のセミドキュメンタリー映画「典子は、今」は、障害者の社会参加を描き話題を呼んだ。他の監督作に「ふたりのイーダ」「虹の橋」など。
小林正樹監督の「人間の條件」シリーズの他、「乱れる」「恍惚(こうこつ)の人」、一般公募に名乗りを上げて選ばれた「人間の証明」など数多くの映画脚本も手掛けた。」
◆2016/09/02 「映画監督の松山善三さん死去」 NHK 9月2日 18時02分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160902/k10010666331000.html
「サリドマイド薬害の被害者が障害を乗り越えて生きる姿を描いたドキュメンタリー映画「典子は、今」などで知られる映画監督の松山善三さんが、老衰のため、東京都内の自宅で亡くなりました。91歳でした。
松山さんは兵庫県の出身で、現在の岩手医科大学を中退して昭和23年、松竹に入り、木下恵介監督の下で助監督を務めました。
「人間の條件」シリーズなどで脚本家として注目され、昭和36年、耳が不自由な夫婦の愛を描いたオリジナル脚本の「名もなく貧しく美しく」で初めて監督を務め、主演した妻の高峰秀子さんとともに数々の映画賞を受賞しました。
昭和56年には、サリドマイドの薬害で両腕がない状態で生まれた女の子が障害を乗り越えてたくましく生きていく姿を描いたドキュメンタリー映画「典子は、今」を監督し、大きな話題になりました。
こうした功績が評価され、昭和62年に紫綬褒章、平成7年に勲四等旭日小綬章を受章しています。
松山さんは1年ほど前に体調を崩し、療養してしていましたが、先月27日、老衰のため東京都内の自宅で亡くなりました。」
◆松山善三さん死去 映画監督「名もなく貧しく美しく」 日本経済新聞 2016/9/2 22:45
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG02H79_S6A900C1CZ8000/
「「名もなく貧しく美しく」などで知られる映画監督で脚本家の松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏が8月27日午後8時41分、老衰のため東京都港区の自宅で死去した。91歳だった。連絡先は同区赤坂3の9の18のアクト法律事務所。告別式は近親者で行った。喪主は養女、明美さん。
岩手医学専門学校(現在の岩手医科大学)を中退後、1948年に松竹に入社。木下恵介監督の助監督としてシナリオづくりなどを学んだ後、54年に映画「荒城の月」で脚本家デビューし、「人間の條件」「恍惚(こうこつ)の人」「人間の証明」など多くの話題作の脚本を担当した。
61年には監督も始め、ろう者の夫婦の苦難と愛を描いた「名もなく貧しく美しく」が大ヒット。ヒューマニズムあふれる作風が評価され、薬害によって生まれつき上肢のない実在の女性を主人公にした「典子は、今」(81年)などが話題となった。
私生活では55年、映画「二十四の瞳」のロケをきっかけに交際を始めた女優の高峰秀子さんと結婚。高峰さんが2010年に亡くなるまでおしどり夫婦として知られた。」
◆2016/09/02 「映画監督の松山善三さん死去 「名もなく貧しく美しく」」
朝日新聞2016年9月2日22時59分
http://www.asahi.com/articles/ASJ926292J92ULZU009.html
「映画監督で脚本家の松山善三(まつやま・ぜんぞう)さんが8月27日午後8時41分、老衰のため死去した。91歳だった。近親者で葬儀を営んだ。
社会的弱者をヒューマニズムの視点から描いた作品を数多く発表した。ろうあ者同士の夫婦が戦争末期から戦後までを生き抜く「名もなく貧しく美しく」で1961年に監督デビュー。サリドマイド薬害で肢体が不自由に生まれた女性が自ら主演し、明るく生きる姿を描いた劇映画「典子は、今」(81年)は大きな反響を呼んだ。
神戸市生まれ。岩手医学専門学校(現岩手医大)中退後、48年、松竹大船撮影所に入社。木下恵介監督の「二十四の瞳」などに助監督として参加した。54年から脚本家として活動。小林正樹監督の「人間の條件(じょうけん)」シリーズや成瀬巳喜男監督の「乱れる」、豊田四郎監督の「恍惚の人」などを手がけた。脚本が一般公募された77年の角川映画「人間の証明」(佐藤純弥監督)ではプロの松山さんの脚本が選ばれた。他の監督作品に「母」「虹の橋」など。
「二十四の瞳」に主演した俳優の高峰秀子さんと55年に結婚。2010年に高峰さんが死去するまでおしどり夫婦として知られた。」
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◆松山 善三 1961/09 「小児マヒと闘う人々」,『婦人公論』46-11:116-121→立岩編[2015]※ ※立岩真也 編 2105/05/31
『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』
,
Kyoto Books
1000 ※r.
◆松山善三・高峰秀子 1981 『典子は、今』、潮出版社
◆白井 のり子 2006
『典子44歳 いま伝えたい――「典子は、今」あれから25年』
,光文社
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◆立岩 真也 2015/07/01
「生の現代のために・4――連載 113」
,
『現代思想』43-(2015-7)
:-
「そしてこの時期、ポリオ(小児まひ)の流行もあった。松山善三は「日本全国の子を持つ母親たちを恐怖のどん底におとし入れた」ポリオの流行のこと、そして脳性まひの人について、取材記事を書く(松山[1961])。水上勉にも北海道でのポリオの流行について書いた記事がある。ワクチン、の中でも所謂生ワクチンの輸入・接種を求める強い運動があり(cf.西沢[2009a][2009b])、ワクチンが使われることになり、この一九六〇年代の前半以降日本で新たな発生はなくなっていく。
そして約二〇年後、いま名を出した松山善三は『典子は、今』という映画を八一年に作って(松山・高峰[1981])、まず足使いが見事であり、一人旅や(本人は初めてだったという)海で水泳をしたり、力強く生きる人を主役にした映画を撮ることにもなった。そしてこの映画はずいぶん多くの人に見られた。(この映画自体はドキュメンタリーではないが、主人公は六二年生まれの人で、所謂サリドマイド児だった。結婚し、子を育て、四四歳で熊本市役所を退職してから自分のこれまでを書いた本に白井[2006]がある)。
八一年の時期のことは覚えている人の多くは、その二〇年ほど前に、サリドマイド児を殺すかどうかといった議論があったことを知らなかったか忘れていたかかもしれない。私たちが今知っていたり、つきあっているその人たちは比較的軽い(から生き残ったのでもある)人たちで、そんなこともそう長くない時間の間に起こった(ように見える)差と関係しているのかもしれない。ともかく、ここでは十分にその文言を紹介できないが――だから資料集を作って全文を収録しているのだが(→註2)――ずいぶんなことがかつて言われたものだという印象は受ける。そして、いくらか落ち着いたように思える時期において、文章として残されているものは記憶していないが、「ポリオ根絶」ということでよかったのだろうかという言葉を耳にした記憶はある。変化があったとも言える。ただそれほど単純でもない。やはりさきに名を出した水上勉には二分脊椎の娘が生まれ、そのことに関わる(自分の、親の)苦悩・労苦から六〇年代初頭の障害者福祉の推進のための発言も行なっている☆04――それは同時期にも、また七〇年代にも、花田春兆(→註2)・横田弘(→註1)からも批判はされるのだが。そして、「アザラシ奇形児」「ナマコみたいな不具廃疾の人」とか「生きた屍」(小林提樹)とは言わないとか、言葉使いに気をつけることになったとは言えようが、それがどれほどのことかとも思える。」
◆立岩 真也 2015/09/01
「生の現代のために・6――連載 115」
,
『現代思想』43-(2015-9)
:-
「一つめは、整肢療護園――
横塚
がそこにしばらくいた――を訪ねた映画監督松山善三の文章より。前々回紹介した、小児麻痺(ポリオ)の流行のことそして脳性麻痺(CP)の人たちについて書いたその同じ文章である。
「生産にたずさわるプライドと喜びを、一日も早く彼らのものにしてあげたい。整肢療護園はもちろん、全国、どこの施設でもよい。そこを訪ねた人々は、異様な感動を持ちかえるだろう。施設の中に脈々と波うつものは、偉大な人間の意志そのものである。小児マヒやCPは、たしかに恐ろしい。しかし、どんな恐ろしい病気も人間の心までむしばむことはできない。一日も早く、社会へ、家庭へ復帰しようと努力する姿は、感動なくして見ることはできない。」(松山[1961])
そして立岩[2015b]でも引いた横塚の文章。
「私の両親は働き者で「働かざる者食うべからずだ。人間は働らかなければならない。働く人間が偉く働かないやつはだめだ」というのが父の晩酌のたびに子供達を並べて言う言葉でした。そして妹や弟達は親の理想に近い線に成長したようです。/私はこの父の勢力圏からぬけ出すことが急務だと思い続けました。」(横塚[2010:74])
そしてサリドマイド児の殺害事件を受けた企画された座談会における水上勉――後に横田弘が厳しく批判することになる――の発言。
「私は中学一年生に入ったときに、人間はなんのために生きるか、ということを校長先生がおっしゃった。社会にプラスするものになるということにその意義があるのだ。それがないということは、生きる資格がないということです」(石川他[1963]、水上の発言)」
◇立岩 真也 2015/11/25
「横塚晃一――障害者は主張する」
,吉見俊哉編
『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(ひとびとの精神史・5)
,岩波書店,pp.257-283
◆立岩真也 20170101
「『相模原障害者殺傷事件』補遺――連載・129」
,『現代思想』45-1(2017-1):22-33
「□もう一人、松山善三の一九六一年と八一年
〔二〇一六年〕八月二七日に亡くなった松山善三は、
『相模原』
でもいくらか出てくるが、連載でも「生の現代のために・4」「6」等幾度か言及している([2014-(4),2015-7,113][2014-(6),2015-9,115])。松山は、聴覚障害者の夫婦を描く映画『名もなく貧しく美しく』を一九六一年に撮った人だが、同じ六一年に「日本全国の子を持つ母親たちを恐怖のどん底におとし入れた」ポリオの流行のこと、そして脳性まひの人について、取材記事を書いてもいる。恐ろしい障害のこと、けれども懸命によくなろうとする人たちを描く。そして、その二〇年後、一九八一年には『典子は、今』というサリドマイド児として生まれた女性を主役にした映画を作る。前者は、清く美しく生きる人を描く。後者は、旅行してみたり水泳してみたり、より自然に生きる姿を撮る。この年は「国際障害年」で、明るく強い障害者の姿を多くの観客が観た。この八一年、六一年にはベルギーでサリドマイドの子を親が殺し有罪となるが世論は親を支持したという事件があったこと、それをきっかけに、『婦人公論』で障害者殺しが議論され、生殺を決める審議会を作るべきだといったことを水上勉や石川達三が言ったことは、たぶん忘れられている。見せ物小屋についての言及があり、奇形のおぞましさが言われ、殺すことがそれにつなげられたことももう語られない。ただし、八一年の映画の主人公は生後すぐに肩からすぐに出ている手――六〇年代には「あざらしっ子」と呼ばれた――を手術でとってしまっていて、奇形はあまり感じさせないのでもある。こうしておどろおどろしいことは軽減されている。
第1部第2章「障害者殺しと抵抗の系譜」の2・3・5にこれらが出てくる。さて、その間に何が変わったのか、また変わらなかったのか。なぜこのことを本に記したのか。やはりもっとくどく書いたほうがよかったかもしれない。たしかに変わったことはある。社会は障害・障害者により肯定的になった、と言ってもよい。ただそれは、忘れることによって、ないことにして、そして過剰と思われるものを実際になくすることによって、欠損だけがあるものとすることによって得られている。それは、この事件を引き起した人のその行ないに抑制的に作用するだろうか。そうはならないはずだ。その人は、「そういう「普通の障害者」は問題ない、問題だと言うのは…」と言うだろう。それを私たちは受け止めることができる。」
cf.
◇白井 のり子 2006
『典子44歳 いま伝えたい――「典子は、今」あれから25年』
,光文社
◆立岩 真也 2018
『不如意の身体――病障害とある社会』
,青土社
◆立岩 真也 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社
UP:20150810 REV:20160903, 20180715
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病者障害者運動史研究
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