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横塚晃一
よこづか・こういち
1935/12/07〜1978/07/20
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脳性麻痺(CP) 19351207・埼玉県生 52〜54整肢療護園・小学6年に編入〜中2まで、以後不就学1955.4〜56.3国立身障センター 64.4マハラバ村 66.10関口りゑと結婚 69.2川崎市生田 70.5神奈川青い芝の会副会長及び会長代行 72.11青い芝の会会長 71.3川崎市有馬に移転 71.9長男信彦誕生 73.10 〜青い芝全国連合会会長 (75.11 第2回 77.11 第3回 再選)76.8〜 全障連 (第1・2回:代表幹事) 1978/07/20 死去 『母よ! 殺すな』,1975 すずさわ書店 『そよ風』20:18(追悼集会)
◆20070910
『母よ!殺すな 第3版』
,生活書院,432p. ISBN9784903690148 10桁ISBN4903690148 2500+
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*初版1975年すずさわ書店、増補版1981年すずさわ書店
◆20100110
『母よ!殺すな 第4版』
,生活書院,466p. ISBN9784903690148 10桁ISBN4903690148 2500+
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※新たに9つの未収録文章を補遺 帯:雨宮処凛
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■新着
◆立岩 真也 2020/**/**
『(本1)』
,岩波新書
◆立岩 真也 2016/04/29
『青い芝・横塚晃一・横田弘:1970年へ/から』
,
Kyoto Books
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◆立岩 真也 2015/11/25
「横塚晃一――障害者は主張する」
吉見俊哉編
『万博と沖縄返還――一九七〇前後』(ひとびとの精神史・5)
,岩波書店,pp.257-283 ※
◆1972****
『CPとして生きる』
全国青い芝の会事務所?,「青い芝」神奈川県連合会叢書第1号,27p. ※r 複製版:発行年不明 リボン社
◆19731115 「CP――障害者として生きる」,朝日新聞社編[1973:116-125]
「本原稿は、横塚晃一氏の口述、妻りえさんの筆記によって機関紙『青い芝』に掲載されたものを転載させていただいた。」*
*朝日新聞社 編 19731115
『立ちあがった群像』
,朝日新聞社,朝日市民教室・日本の医療6,250p. ASIN: B000J9NNZ6
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※ b
母親の殺意にこそ――重症児殺害事件の判決を終って
施設のあり方について――施設問題への提言
◆19750225
『母よ!殺すな』
(↓)
すずさわ書店 d→
◆19770618 『CPとして生きる 改訂版』(↓)
全国青い芝の会事務所,54p. 川崎市高津区子母口437 さつき荘 044-788-8869 b d
◆1981
『母よ!殺すな 増補版』
すずさわ書店,211p. 980 d
◆196912 「ごろごろさま」
『あゆみ』07:56-58→
◆197004? 「脳性マヒ者の社会参加について」
『青い芝』77→横塚73-76
◆19700610 「脳性マヒ者の親子関係について」
『青い芝』78→横塚16-19
◆19700612 「募金運動をふりかえって」
『あゆみ』09:99-102→
◆197008 「差別以前の何かがある」
『あゆみ』10:64-67
◆19701025 「或る友への手紙」
『あゆみ』11:22-23→
◆1971 「施設問題への提言」
『青い芝 施設問題特集号』:27-28
◆19710310 「CP者としての自覚―― '71年年頭にあたって――」
『あゆみ』12:1→「脳性マヒ者としての自覚」(71-72)
◆19710310 「我々の手で小さな施設を」
『あゆみ』12:4-5→:103-106
◆19710805 「T婦人との往復書簡」
『あゆみ』13→(24-27) (71.6) 一部COPY
◆19720402 「母親の殺意にこそ」
『あゆみ』増刊:8-10
◆19720920 「優生保護法と私」
『あゆみ』16:7-8→(107-110)
◆19730101 「N女への返信」
『あゆみ』17:11-12→(60-63)
◆197308 「「優生保護法改正案」は廃案へ」
『青い芝』91→横塚111-114
◆197403 「不合理な存在として」
『青い芝』93→横塚68-70
◆197407 「優生保護法改正は阻止された」
『青い芝』94→横塚115-119
◆19741010 「ある障害者運動の目指すもの」
『ジュリスト』572(臨時増刊 特集 福祉問題の焦点):209-214→横塚[1975][2010:93-150]
◆19770330 「全障連機関誌発刊にあたって」
『全障連』001:02-03
◆1977 「発刊にあたって・障害者解放運動の現在的視点」
全国障害者解放運動連絡会議
1977『全障連結成大会報告集』
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■言及・追悼文・等
◆
『関西青い芝連合』No.1
(1975)
「これまでのあゆみ」
「以上の様に、我々は自らの強烈な自己主張をもって様々な面で障害者差別と闘いつつ、一方で週に一度の役員会、学習会運動(当初は、全国常任委員会会長、(63頁)
横塚晃一
氏の「CPとして生きる」を学ぶ)を続け、11月から月に一度の例会をもうけ、CP者同士の団結をはかって来ました。」(p.52)
「(リボン社発行資料)」
「CP者として生きる 横塚 晃一 250円」(p.110)
◆
『関西青い芝連合』No.2
(1975)
「(リボン社発行資料)」
「CP者として生きる 横塚 晃一 250円」(p.88)
◆
『月刊全健協』〈9〉78年4月特別号
(1978/04)
「関・青、あしの会、専従者、話し合い 3月27日」
「鎌谷:[…]私は、全国に行っても、この何ヶ月か、毎月、全青に行ったけど、関青のことは1つも言わんかった。だから、説明しといた。健全者に組織持たしたのが間違いやった。組織を持つと、力を持つし、目的を持つ。目的を持つと、どんなに思おうと、引き回しにしかならん。これまで、全健協やなにやかやとつくってきたけれども、そしたら、<0010<横塚さんが言いよった。全青やCP者として自覚して何か言うていかなあかんし。」(pp.10-11)
「小辻:[…]ボク自身がこだわっていたのは、青い芝の組織性がエエかげんやというのが青い芝の方からあるんやけど、じゃあ、約束事をふみにじっていいのか。金の話する様で悪いけど、あの6項目かて、青い芝とくい違ってると思うし、都合のいい時に組織がなかったり、実につかみどころがない。
鎌谷:もともと青い芝の組織はつかみどころがないというのが
横塚
さん。」(p.23)
◆
『がしんたれ』創刊号
(障害者解放新聞編集委員会)1978年8月5日
「非凡の友人 全国青い芝の会会長逝く
私達の共通の友人であり、障害者解放運動という人間の本質に迫る運動の旗手でもあった横塚晃一さんが7月20日午前11時45分、私達を残して逝ってしまった。
春の別れは藤の花、人の別れはただ涙、という。私達と横塚さんの付き合いは長い、私達が第2地産マンションで運動の拠点を築き上げて以来、変わらぬ友情と共通の闘いに支えられて、それは駒込病院の最後の病床まで続いていきました。横塚さんが逝かれたいま、何をも語る言葉を持ちません。
打ちひしがれ、差別の谷間に身を置かざるを得ない障害者として、支配と分断の中、無数に分立し孤立した全国の兄弟姉妹、仲間をまとめ、全国青い芝の会総連合会、全障連を創り上げた業績は、人間の歴史の中で消えることはありません。私達は、横塚さんの正しい後継者として自らに任じ、厳しい覚悟を持って横塚さんを送らねばなりません。 最後の面会の時、横塚さんが私達に残された言葉は「もう一度大阪に行きたい」というものでした。
ご家族の深い悲しみに、ただご冥福を祈るばかりです。 合掌」
◆
『がしんたれ』No.3
(障害者解放新聞編集委員会)1978年10月5日
「"故横塚氏追悼集会"のお知らせ 坂本博章
横塚氏が、他界されて2ヶ月が過ぎようとしています。同氏が障害者解放運動の創始者であったことは、みなさんご承知と思います。同氏の功績は、我々の未来に大きい光を投げかけ、明日への解放の道しるべにおいて我々障害者に強い自信を与えた人は、同氏以外にいませんでした。
私が同氏と初めて会ったのは、2年前の和歌山センター闘争でした。ちょうど、私は青い芝の会に入って間がなかったし、初めての座り込み闘争だったので、参加することも家族に偽り、自分で初めて行動したのです。座り込みは、まる2日行われ、最後に機動隊が導入され、強制排除されました。が、同氏は終始一貫して、我々の行動を外部から支援し、ある時は、座り込み現場に近づき温和な顔を見せて、我々を励ましてくれました。強制排除され、護送車に乗せられ、警察に連れられて行くかと思えば、警察ではなく、和歌山事務所に運ばれました。私は、真っ先に運び込まれ、その時に同氏に初めて対面したのです。同氏は入り口近くに座っていました。そこに運びこまれてきた私は、同氏をしらず、「そこのおっちゃんのいてんか。」と言い、ずかずかと奥の方へ入っていったのです。あとで横塚氏であることが分って、なんやら気恥ずかしい思いをしました。しかし、同氏は、そのようなことは何も気にせず、笑って道をあけてくれたことを覚えています。今になって思えば、同氏はこの様に、何事に対しても広い心を持っていたからこそ、現在の全国青い芝の会の総連合会ができたと思います。
しかし、同氏が、7月20日に42歳というまだまだ活動できる年齢で亡くなったことは、非常に悲しく、惜しまれることです。我々の障害者解放運動は、まだ幼児からやっと幼稚園に入った位の状況です。全障連にしても同氏の意志を継ぎ、今年で3回目の大会が京都で行われました。前段に掲げられた同氏の遺影を前にし、大会に参加した全員が決意を新たにしたものです。
同氏の大阪(関西)における働きは、今の大阪の解放運動に大きな1ページを残し、現在の大阪青い芝回をかたちづくったと考えます。そこで、大阪で活動している多くの闘う仲間と共に、同氏の功績を称え、その遺志の正当な後継者として自らを任ずべく、また哀悼の意を表する意味で、横塚氏の追悼集会といったものを行いたいと考えています。日時、場所、内容など、まだ充分にはにつまっておりませんが、11月初旬には行いたいと思っています。
追悼集会を成功させ、私たちの障害者解放運動を太く、たくましく、大きなものとするため、早急に内容を検討し、呼びかけたいと思います。」
◆坂本 博章 19780905 「全障連第3回大会に参加して」
『がしんたれ』No.2
,障害者解放新聞編集委員会 1978年9月5日
「[…]
以上が今大会に参加した報告と感想であるが、最後に一番悲しく感じたこととして、横塚氏の死去と今大会の健全者ペースが目立ってきたことである。個人的にはこの二つのことの間に何か関係があるかのごとく感じられて仕方がない。横塚氏が日頃、言っておられた障害者ペースを一番大切にしなければならないということが、何か彼の死去によって忘れ去られいくような錯覚にとらわれて仕方がない。」
◆介護ノート編集委員会 編・発行 1979 『はやく ゆっくり――横塚晃一最後の闘い』,367p.,2000 d
「健全者組織と青い芝との関係を『やってやる』『理解していただく』というような今までの障害者と健全者との関係ではなく、むしろ敵対する関係のなかでしのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めて葛藤を続けていくべきものと位置づけてきました。」(介護ノート編集委員会1978:224、山下[2003]*に引用)
*山下 幸子 2003/10/13
「健常者として障害者介護に関わるということ――1970年代障害者解放運動における健全者運動の思想を中心に」
,
日本社会福祉学会
第51回全国大会報告
◆本田 勝一 1979 『貧困なる精神 第9集』,すずさわ書店,230p.,980
(「二重の責苦で死んで行った「青い芝の会」会長・横塚晃一氏」他)
◆寺田 良一 ?(『青い芝』114 p.52に一部引用)
「横塚君が胃の痛みに悩まされるようになったのは、だいぶ以前からであった。すでに三年前の四月か五月のことだったと思うが、僕と磯部君とで彼をある東京では有数の病院に連れていったことがある。ところが僕もその時はじめて知ったのだが、その設備もスタッフも整った大病院が、医療保護は扱っていなかったのだ。そのため全額負担の自由診療ということで、普通なら必ず行う各種の検査を受けることもなく、触診と薬だけで帰ってこざるをえなかった。その時はその薬がある程度効いたことでそのままになってしまった。その後の二年間は地域の病院に入院を繰り返し、昨年夏、悪性腫瘍であることが判明した時には、すでに病状はかなり進んでしまっていた。もしもあの時、ということを考えると、一面的な見方かもしれないが、生活保護者をそして脳性マヒ者を差別する現代の医療制度の矛盾によって、障害者運動の偉大なリーダーがわずか四十二才でむざむざ命をもぎ取られていったという思いに、腸をかきむしられるのである。」
……
◆立岩 真也 19901025 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」
安積・尾中・岡原・立岩
『生の技法』
,第7章 pp.165-226 160枚
◆『青い芝』114 pp.47-55
「故横塚晃一氏十三回忌に集う」
◆
杉野 昭博
1997 「『障害の文化』と共生の課題」,青木保ほか(編),『異文化の共存』(岩波講座文化人類学8 ),岩波書店
◆
倉本 智明
1997
「未完の〈障害者文化〉――横塚晃一の思想と身体」
,『社会問題研究』47-1
◆立岩 真也 19980201 「一九七〇年」(
『弱くある自由へ』
所収)
「「よく健全者が、身障者に″理解″を示して″身障者も同じ人間だ″なんていうね。……絶対に違うんだよ。おれたちの最大の生活環境は一人一人が持っている肉体なんだ。これはどこへ行こうとついてまわる。」☆08」
「☆08 高杉[1972]に紹介されている横塚晃一の言葉。後で彼自身の文章も引用するが、映画『さようならCP』制作の動機について語っている。〔『さようならCP』は貸ビデオ屋にあることがある。また『カニは横に歩く』(1972年)、『何色の世界――ある在日朝鮮人障害者の証言』(1975年)『ふたつの地平線――養護学校はもういやだ』(1977年)の三本の八ミリ映画がビデオ化されて発売されている。各巻三〇〇〇円、三巻セット七五〇〇円、問合せは障害者問題資料センターりぼん社、〒五三三−〇〇三三大阪市東淀川区東中島四−一−一五、電話〇六−六三二三−五五二三、ファックス六三二三−四四五六、soyokaze@hi-ho.ne.jp、
http://hi-ho.ne.jp/soyokaze
〕」
「そして五月一日にはメーデーに参加する。横田弘はその時の文章を「働く者たちの行進は去った。」という文から始める。そして、彼は詩を書く人だったのだが☆11、その時のことを書いた「足/私の目の前を通りすぎる」と始まる詩「祭壇」を、新宿の歩行者天国で「朗読」することになるだろう。「よく障害者も同じ人間なのだという言葉を聞く……しかし果たしてそうなのだろうか。この安直に使われる言葉に反発を感じ、いや、絶対違うのだと思ったことから」☆12作られた映画『さよならCP』(一九七二年、監督・原一男)の主役として。 「☆11 青い芝の「綱領」をはじめとする文書が時に少々芝居がかっているのは横田の文才によるのではないかと思う。横塚は徹底した散文家だった。立岩[1990]のタイトルは横塚の遺言「あわてず はやく ゆっくりやっていくように」からとられている。」
「☆12 横塚「カメラを持って」『あゆみ』十周年記念増刊号、一九七二年六月→横塚[1981:45]」。
「こんなところで終ってしまったらどうにもならないような話ではある。けれども、この認識は、その「能力主義」というものが、結局のところ私達の都合だけから発している、それだけのもので「しかない」という認識でもある。この時に、「働かざる者人に非ずという社会風潮」(先に引用)が単なる「社会風潮」であること、「働くことだけが正義であるという風潮」(横塚)が「正義」ではなく、「正義であるという風潮」であると、はっきり言うことができることになる。そして彼らはやがて無理して働くことはないのだと言うだろう。生活保護や年金の「ただ食い」の暮らしでよいのだと言うだろう。」
◆市野川 容孝・立岩 真也 19980201 「障害者運動から見えてくるもの」,『現代思想』26-2(1998-2):258-285 100枚
→立岩
『弱くある自由へ』
(青土社,2000)に収録
(立岩)「青い芝っていうのは面白くって、青い芝の会神奈川県連合会の機関誌が『あゆみ』っていうんだけど、それには何もかも書いてあるんです。復刻されて出てますけど、えらく紛糾している総会の議事録とか最初から最後まで出てる。減刑嘆願の署名が出回った時、最初の時点ではっきり問題だとみんなが言ったんでもなくて、小山正義さんっていう神奈川県連合会を始めた人の書いた本だと、いちばん最初に問題にしたのは、いまでも神奈川の方で活動してるけど、横田弘さんっていう人で。あと何人も重要人物がいるんだけど、後で全国青い芝の代表になって、一九七八年に癌で亡くなられた横塚晃一さん、彼は歩ける脳性マヒ者だったんですよ。横田さんは歩けない。会の中じゃ重い横田さんが、これはおかしいって言って、で、そうだ、っていう人が何人かいて。そういうわりと小さいところからはじまった。そういう中で、青い芝自体の性格がいろんな偶然的な事情も絡みながら変わっていく。2、3年の時間をかけてなんだけど、変わっていく。
そこの中で、障害者っていうのはたしかに−−これは彼らも認めるわけですよ−−社会にとってはいらない、迷惑をかけてる存在ではあると。そういうことによって、端的に言えば殺されてよいのかと。そんなことで殺されちゃかなわんよ、という、すごいシンプルといえばシンプルな主張だった。ただそれは当たり前っていえば当たり前なんだけれども、ある種それが当たり前じゃない空間がそこに張られていたっていうことでもあるんでしょうね、この主張はすごいインパクトがあって、それはいろんな記録の中に残ってますけれども、何年かの間に全国に広がっていく、そこの中でいま障害者の運動やってる人たちが育っていくっていう経緯がある。その当時のことも書いた本(『生の技法』、藤原書店)を僕らと一緒に作った一人でもあり、1994年のカイロ国際人口開発会議で優生保護法のことを世界中に言いふらして、96年の優生保護法撤廃のきっかけのひとつを作った張本人でもある安積遊歩(純子)は、1976年、20歳の時に福島で青い芝に出会って、人生変わったんだよ。」
(立岩)「青い芝の綱領の三番目に「われらは問題解決の路を選ばない」ってあるんですね。これは、解説のところを見ると、問題解決の手段を選ばない、どういう手段をとっ てもいいんだっていう意味の文言ではなくて、問題解決という道を行かないんだという意味なんですよ。機関誌の編集人だった横田弘が書いて独断で掲載して、大顰蹙をかいつつ、やがて綱領になるこの「われらかく行動する」が出てるのと同じ号の機関誌(70年10月)で横塚晃一がこう言ってます(「或る友への手紙」)。「われわれが種々の問題提起をした場合、いまだ討議もされないうちに『じゃあどうすればいいのか』という言葉が返ってきます。この場合私は、そんなに簡単に『じゃあどうすればいいのか』などと言うな、とはねつけます。なぜなら相手の『じゃあどうすればいいのか』という言葉は真にどうすべきかということではなく、われわれの問題提起をはぐらかし圧殺することが目的だからです。」
まさにこれが青い芝が批判される部分ではあったわけですよ。なんか文句ばっかり言ってると。だけど、少なくとも僕は彼らが言ったことは半分以上当たっていたと言いたい。つまり「問題解決」の仕方というか、それに対するかまえというか、あんまり粗雑なんですよ。たとえば出生前診断と安楽死のことはかなり違うことだと僕は思いますよ。それを一緒くたにして、自己決定権の問題に解消してしまって、じゃあどうすればいいのかということに答えてしまうっていうことに、彼らはそんなんじゃ駄目なんだって言ったわけで、それは当たってると言わざるを得ない。
ただし[…]」
「しかし、国家、あるいは福祉国家というものが、他のものより、より介入的であるとなんとなく考えてるとすれば、その人は初歩的な誤りをおかしている。なぜならば、一人の人にとっては、国家が介入してくる主体であるのと同時に、家族も介入してくる主体であるんです。青い芝が家族は敵だと言ったのはやはり1970年です。『母よ殺すな』という本を書いたのは横塚晃一です。そして、たとえば国家が手を引くとしましょう。そうすると[…]」
◆立岩 真也 19990331「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」
石川准・長瀬修編
『障害学への招待』
,明石書店,pp.79-107
「こでは言葉そのものを追っていく。まず、一九七〇年から七二年にかけて「独立」そして「自立」という言葉が使われ始める。
[…]
「園(東京久留米園)での生活訓練により社会性を身につけて、好伴侶と共に、又は独身のままでも、民間アパート・公営住宅などの独立した生活に入っていく人が大勢おります。」(横塚晃一「我々の手で小さな施設を」,『あゆみ』十二号,一九七一年三月,→横塚[1975:104],「青い芝の会」神奈川県連合会[1989:110])」
◆土屋 葉 199907
「全身性障害者の語る「家族」――主観的家族論」の視点から」
,『家族社会学研究』11:59-69
「横塚晃一は「愛によって造られた施設」や殺すことが愛であるとする親への批判を行い、「泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛をけっ飛ばさねばならないのが我々の宿命である」という有名な一文を提示した(横塚, 1975→1981)。」
◆20000917 NHKラジオ第2放送番組名:「共に生きる」でとりあげられる
午前8:00〜8:30(再放送:同日 午後7:00〜7:30)
「30分の番組まるまるが横塚さんの特集です。担当のディレクターさんの話によると、原一男さんや横田弘さんのインタビューなどを交えながら、河野秀忠さんがスタジオでコメントしていくといった感じの構成の番組のようです。」(倉本さんより)
◆立岩 真也 20001127 「手助けをえて、決めたり、決めずに、生きる――第3回日本ALS協会山梨県支部総会での講演」
倉本智明・長瀬修編 20001127
『障害学を語る』
,発行:エンバワメント研究所,発売:筒井書房,189p. 2000円 pp.153-182
「[…]
私がたいへん尊敬する人の一人に横塚晃一という脳性まひの方がいて、1978年にガンで若くして、42歳で、亡くなってから20年になります。「青い芝の会」という一部ではかなり有名で、今では伝説的な、見ようによっては過激な集団の全国的なリーダーだった人です。その人が亡くなる時に遺言を残しています。それは「はやく、あわてず、ゆっくりやっていくように」という言葉でした。
なんのかんの言っても暮らすためにはいろいろそろえなければならない。そのために時間があまり残されているわけではない。急がなければいけない。けれど、ゆっくりとあわてずにやっていけという、それだけの単純なことです。ただ考えてみますと、生きていること自体が本当はゆっくりとした営みであるとも、彼は死ぬ間際に言ったのではないかと私には思えるのです。生きていくということは、ゆっくりと緩慢に流れていくようなものである。たしかに、ゆっくり生きていくためには早く何かしなくてはいけないということもあって、それがこうした社会運動にとってはなかなか厄介なことです。しかし私は、彼の言葉から聞こえてくるのは必ずしもそういう矛盾とか悲壮感ではなくて、早くしなければいけないけれどもゆっくりでもよい、本来ならば矛盾する二つのことが並んでいてよいのだ、自分が死んでからもそうやっていってほしい、ある意味では自分がやってきたこともそうであったのかもしれない、そういう言葉だと思います。これには一種の快活さと言いますか、ある種のユーモアがあるような気がします。
私は、障害のある人たちの動きを15年くらい追ってきましたが、それは私に勇気を与えてくれます。それは今述べたような意味においてです。なにかけなげに、努力して、なにかを克服して生きる姿に感銘、というのではないのです。自己決定という言葉は矛盾するような二つの意味を持っています。自分のことを何でもかんでも決めて自分の思う通りにやっていくことだけが生きていることではない。自己決定が、自己決定主義みたいものになるとかえって苦しくなってしまう。けれども、だけど、同時に普通に生きていくときのさまざまの細々としたことは自分が生きていきやすいようにアレンジされて手元にあってほしい。そういう、早く実現されるべきことはやむを得ずのかたちでも早くしなければいけない。しかしこの中でもゆっくり悠々と生きていけるのですし、また、ゆっくりと過ごしていくためにこそあった方のよい様々なものがあって、その中のある部分をみなさんは獲得された。
これから、みなさんはどのように生活を過ごしていかれるのか。また、この会はどのようなかたちで活動を継続し発展させていくのでしょうか。そうしたことを考える時に、「はやく、ゆっくり」という言葉を思います。
あまりまとまった話になりませんでしたけれど、今日はお招きいただきどうもありがとうございました。」
◆立岩 真也 20021031 「ないにこしたことはない、か・1」
石川准・倉本智明編
『障害学の主張』
,明石書店,294p. 2730 ISBN:4-7503-1635-0
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[kinokuniya]
pp.47-87
「そこには時間がある。なにかを得たにせよ、それを得るのに自分の時間が使われなかったのなら、やはり時間がある。そしてその時間のあいだに行うことのできる別のことがある。そして空間もまた異なって現れる。世界に対する対し方の異なり、世界の異なりがある。例えば知的障害はたんに機能としてできることが少ないことではない。生きる様式の違い、世界に対する対し方の違い、違うように世界を生きることでもある。そのことの現われは「欠損・損傷」と呼ばれるものがあることに関わっているだろうが、ここでもたらされているものを「障害」としてとらえることはできない。他の人の世界と隔絶しているとは言えないにせよ、違う世界はある。そして身体障害と呼ばれるものにもそれはあるはずだ☆16。違うこと自体がなにか特別に大切なことだと言わなくてはならないというものでもないだろう。ただこうして事実違うとき、そのいずれがよいか、それを決めることはできないだろうし、決めなくてならないこともないだろう。できる/できないという機能に限れば優劣はつきうるが、ここではそれが問題になっているのではない。そしてその人がその世界を親しみ、大切にすること、そんなこともあるだろうし、それもまた否定されるべきことではないだろう。
さらに、[…]」
「☆16 「私の見る風景までも、他の人達特に健全者といわれる人達とは全然別なのではあるまいか」(横塚[1975])。注08にあげた文献を参照のこと。」
◆立岩 真也 20070331
「障害の位置――その歴史のために」
高橋隆雄・浅井篤編
『日本の生命倫理――回顧と展望』
,九州大学出版会,熊本大学生命倫理論集1,pp.108-130
「それはとくに「学問」に関連づけられてはいない。むしろ、学校には行っていない(障害を理由に学校に行けなかった)人たちによってなされてきた。
「青い芝の会」
の中心的なメンバーであり
「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」
の設立にも関わった
横塚晃一
(1935年〜1978年)――重要な著作として横塚[1975]、その増補版として横塚[1981]、この本を2007年に復刊する――は中学校2年までしか行かなかったし、若くしてガンで亡くなった横塚の後も神奈川で活動を続ける
横田弘
(1933年生)は学校に行っていない。1980年代から1990年代に重要な活動をした
高橋修
(1948年〜1999年、cf.立岩[2001/05/01])も学校に行っていない。学があるけれども学校には行っていない人がいるという時期が日本にもしばらくあったのだが、その人たちは――その後現れる、学校に「行かない」人たちを別にすれば――その最後の人たちかもしれない。米国の自立生活運動と呼ばれるものが始まったのは、カリフォニルア大学バークレー校だとされる。口の達者な、例えば下肢以外は健常者と違わないといった人たちが、語った。発言できたのは一部の人たちであったはずだ。いったいどの程度の障害の、どのような社会環境にあった人たちが学校に行けていたのか、高等教育を受けられているのか、それがなにかに影響したのかしなかったのか、それはそれで見ておく必要がある。」
◆立岩 真也 2009/04/25
「もらったものについて・3」
『そよ風のように街に出よう』
77:,
「さきに紹介した
『流儀』
に注をつける際、医療、薬害…に関わる古本をいくらか仕入れたのだが、その過程で、朝日新聞社編
『立ちあがった群像』
(一九七三年、朝日新聞社)という本が見つかった。この本は「朝日市民教室・日本の医療」全六巻の第六巻である。ここに
横塚晃一
「CP――障害者として生きる」が入っている。「本原稿は、横塚晃一氏の口述、妻りえさんの筆記によって機関紙『青い芝』に掲載されたものを転載させていただいた。」と注記があって、「母親の殺意にこそ――重症児殺害事件の判決を終って」、「施設のあり方について――施設問題への提言」が収録されている。そして、一九七四年刊行の『ジュリスト』五七二(臨時増刊 特集「福祉問題の焦点」)には横塚「ある障害者運動の目指すもの」が収録されている
『母よ!殺すな』
に再録)。このことは、調査を始めた当初に気づいたことで、専門的・業界的な本にはほとんど出てこないことからすると、こんな「堅い」雑誌にと、不思議な感じがして、記憶に残っている。ただ、同じ調査の過程で見かけたところでは、例えば全国社会福祉協議会が出している『月刊福祉』にしても、ある時期はけっこう硬派な記事が並んでもいたように思う。こんな雑誌も含め、なにか知らせねばと思ったメディアの人はそれなりにいたのではある。
そしてやはり追加情報。昨年、それまで面識のなかった中央大学他非常勤講師の種村剛さん(以下三名について敬称あり)から連絡をいただき、民放(TBSと東京12チャンネル)で放映されていた『東京レポート』という東京都の広報番組で二度、青い芝の会関係の人が出てくる番組が作られたことを教えてもらった。一九七二年五月のは、「はばたきたい」という題。江東区四肢不自由児訓練施設「青い鳥ホーム」で親や職員が熱心に脳性マヒ児を訓練する様子が映し出される。それだけならそれだけなのだが、続いて寺田良一へのインタビューがあって、そこで「世の中に積極的に迷惑をかけてでも生きるんだという人間になっていくことが必要だという気がする」といったことが語られる。一九七三年五月の番組は「子にとって親とは…」という題のもので、横塚晃一の家の夫・妻・子の日常が映され、晃一が「親はエゴイストだ。やっぱり抑圧者ですね。」といったことを語る。そんな番組があったのだ。
種村さんがたまたま入って行きつけになった東京都府中駅近くの「玲玲」という薬膳料理屋・飲み屋の主人が赤羽敬夫さんで、その店で飲み食いしている時にこの番組の演出・構成を赤羽さんが行なったことを種村さんが聞いて、そのお店で小さな
上映会
をするということになって、私も呼んでいただいたのだった。とてもおいしい料理と酒を出すその店で、私たちは赤羽さんのお話もいくらかうかがうことができた。青い芝の会の人たちのことをそう詳しく知っていたわけではないが、またとくに「政治的主張」をしたいとか、またある主張を支持したいとかいうのではなかったが、報道でその人たちのことを知り関心を抱いて、それで取材・撮影に入ったのだという。十五分の短い番組ではあるが、かなり長い時間、聞きやすいと言えない寺田・横塚の言葉が流れ、顔が映し出される。東京都の広報番組であるが、かなり現場の裁量でできた部分もあって、赤羽さんは、「子どもの日」に合わせて、横塚親子の番組をと思って作ったのだという。
その上映会は二〇〇八年七月二〇日に行われた。その日はまったく偶然、一九七八年七月二〇日に亡くなった横塚の三〇周忌の日だった。その前年の二〇〇七年に
『母よ!殺すな』
の再刊を果たした
生活書院
の高橋敦さんがそのことに気がついて、私と高橋さんと皆はそんなことにも感じいってしまったのだった。といった話をし出すと、これはたしかに特異なマニアの話になっていくのではあるけれども、しかし恥ずかしくとも、書いておく。
まずこんな感じの「陣容」だったとしよう。では、何が争われたのか。また、その争いにも影響されて形成されていったものは、どんな性格を有していたのか。その中身を書かなかった。機会があったら、書くことにしよう。」
◆立岩 真也 2011/06/01 「社会派の行き先・8――連載 67」,『現代思想』39-8(2011-6):-
資料
「身体障害者の運動の指導者だった横塚晃一は一九七八年、四二歳に胃がんで――普通に早めに手を打てば死なずにすんだはずだが、生活保護の医療保護を扱わない病院にかかったといったことがあって――亡くなったのだが、その「介護ノート」が後でまとめられたりもした(介護ノート編集委員会編[1979])。
吉田
のことは今のところよくわからない。」
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■横塚 晃一 1977.6.18 『CPとして生きる 改訂版』
全国青い芝の会事務所,54p.
川崎市高津区子母口437 さつき荘 044-788-8869
神奈川県社協社会福祉情報センター A272.1-89
1. CP者の親子関係について
2. ある友への手紙
3. T婦人との往復書簡
4. 母親の殺意にこそ
5. 施設のあり方について
6. 障害者と労働
7. カメラをもって
8. CPとして生きる
(以上『母よ! 殺すな』所収)
9. 団結こそ解放への道・・藤田正弘氏自殺への抗議行動によせて・・ 34-36
76.4 『青い芝』98
10. バス乗車拒否に対する青い芝の考え
1)全交連・中央バス共斗会議の見解への反論 37-41
全交連の見解 77.1.25
申し入れ書
2)朝日新聞への投書に対する反論
投書 社会とミゾ深める「青い芝」の行動 平石登紀子 (東京都・無職・22歳)
朝日新聞「声」欄掲載 77.4.19 42
反論 「青い芝」批判に答えて 「青い芝の会」全国常任委員会
朝日新聞「声」欄掲載 77.4.26 43-44
11. 障害者解放運動の現在的視点 45-53
77.4 全障連結成大会報告集
12. 略歴 54
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◆1981 『母よ!殺すな[増補版]』,すずさわ書店,211p. 980
目 次
序 文 本多 勝一
T 脳性マヒとして生きる15
脳性マヒ者の親子関係について/或る友への手紙/T 婦人との往復書簡/母親の殺意にこそ/施設のあり方について/障害者と労働/カメラを持って/脳性マヒとして生きる
U 差別以前の何かがある55
ゴロゴロさま/N 女への返信/差別以前の何かがある/不合理な存在として/脳性マヒ者としての自覚/脳性マヒ者の社会参加について
V ある障害者運動の目指すもの77
ある障害者運動の目指すもの/募金活動をふりかえって/我々の手で小さな施設を/優生保護法と私/「優生保護法改正案」は廃案へ/優生保護法改正は阻止された/ボランティアに期待するもの/鶏にみる「弱者考」
W 「さようならCP」上映討論集131
親須佐上映会レポート/防府養護学校上映会/長崎大学上映会/九州リハビリテーション大学校上映会/福岡県社会保育短期大学上映会/八女上映会/柳川上映会/北九州大学上映会
あとがき
〈付録〉 亡き夫の介護ノートより195 横塚 りゑ
駒込病院入院のこと/手術及びその後のこと/介護者への手紙/妻沼行き/健全者集団に対する見解/心の共同体
■親鸞・『歎異抄』
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■[]内は『母よ!殺すな 第4版』
1935/12/07 埼玉県生。埼玉県大里郡妻沼町出来島(現在は熊谷市妻沼)で育つ
1952〜54 整肢療護園・小学6年に編入〜中2まで、以後不就学
整肢療護園:
http://www.ryouiku-net.com/introduction/index05.html
http://www.ryouiku-net.com/introduction/ayumi1.pdf
1955/04〜56/03国立身障センター
1964/04 マハラバ村
1966/10 関口りゑと結婚
1969 マハラバ村解体
1969/02 川崎市生田
1970/05 神奈川青い芝の会副会長及び会長代行
1971/09 長男信彦誕生
1971/02 NHK「現代の映像」で「あるCP者集団」放映
1971/03 川崎市有馬に移転
1972/11 青い芝の会会長
1973/10 〜青い芝全国連合会会長
1975/11 青い芝全国連合会会長第2回
1975 虎の門病院受診[寺田純一 350]
1976/08〜 全障連 (第1・2回:代表幹事)
1977/11 青い芝全国連合会会長第3回
1978/05 青い芝の会全国委員会に出席[寺田純一 346]
1978/05/04-05 妻沼行き [横塚りゑ 260-262]
「私は車椅子を信彦に押してもらって嬉しいような、うら悲しいような変な気分でした。鎌谷さんが丸太で組んだジャングルジムにはいずり上って、なかなか下りようとせず、皆からあきれられたり」(p.262) 1978/06/05 駒込病院に再入院(3度め)[寺田純一 346][磯部真教 352]
1978/07/20 11:45 死去
■ 【】内は『母よ!殺すな 第4版』の頁数
1935/12/07 埼玉県生。埼玉県大里郡妻沼町出来島(現在は熊谷市妻沼)で育つ
「私の両親は働き者で「働かざる者食うべからずだ。人間は働らかなければならない。働く人間が偉く働かない
やつ
はだめだ」というのが父の晩酌のたびに子供達を並べて言う言葉でした。そして妹や弟達は親の理想に近い線に成長したようです。
私はこの父の勢力圏からぬけ出すことが急務だと思い続けました。」【74】
七〇年の登場以前についてほとんど書かれたものはない。ただ、七八年の五月四日、亡くなる二月前、妻りゑと生家のある妻沼(埼玉県大里郡妻沼町出来島、現在は熊谷市妻沼)に出かけたときのことを記しているりゑの文章の中に、彼の訪問を喜んだその時八八歳の横塚の祖母についての記述がある。
「祖母は夫が幼い頃、職をもつ姑に代わって面倒をみたのです。庭に杭を打ち棒を渡して、お手製の平行棒をつくり、歩行訓練をさせ、また十六歳まで就学し△260 なかった夫に忙しい畑仕事の合間をみて字を教えたのだそうです。 「俺が歩けるのも、本が読めるのもお祖母さんのおかげだ」と夫はいつも言っていました。」(妻沼行き、【260−261】
1952〜54 整肢療護園・小学6年に編入〜中2まで、以後不就学
整肢療護園:
http://www.ryouiku-net.com/introduction/index05.html
http://www.ryouiku-net.com/introduction/ayumi1.pdf
1955/04〜56/03国立身障センター
「私は二十歳頃から約八年間にわたり養鶏をしていたことがある。養鶏といっても私の体力などからいってそれは一番多い時でも三百羽程度のいわゆる「障害者の楽しみにで△143 もなければ」といわれるものであったのだが」【143-144】
1964/04 マハラバ村
横塚は、『母よ』の「あとがき」で、「障害者としての自己の立場を認識させ、更にそれを思想的な裏打ちができるまでに目を開かせてくださったのが大仏空師であった」と述べ、歴史、民俗学、仏教、キリスト教についての知識を学んだだけでなく、「何か物事にあたった場合のとるべき態度、決断といったもの」を学んだと記している【246】。
1966/10 関口りゑと結婚
1969 マハラバ村解体 「おしめの御旗」[寺田純一 347]
1969/02 川崎市生田
1970/05 青い芝の会神奈川県連合会副会長及び会長代行
1971/09 長男信彦誕生
1971/02 NHK「現代の映像」で「あるCP者集団」放映
1971/03 川崎市有馬に移転
1972/11 青い芝の会神奈川県連合会青い芝の会会長
1973/10 青い芝全国連合会会長
1975/11 青い芝全国連合会会長第2回
1975 虎の門病院受診[寺田純一 350]
1976/08〜 全障連 (第1・2回:代表幹事)
「六八〜六九年ごろ、東大闘争を頂点として全国的に高揚した学生運動が権力の手によって抑え込まれるなどして沈滞していくと同時に基盤を失った学生運動の流れが障害者運動にどっと流れ込んできた。もちろん、日本中を経めぐったエネルギーからすれば、それはほんの一部だっただろうが、それまでほとんどかえりみられることがなかった障害者の世界からすればそれは大変なことであった。青い芝の会のように、それまで障害者だけで組織し、まがりなりにも運動を続けてきたものにとっては強大なエネルギーとして迫り、この強大なエネルギーによって自分達の創ってきた組織の力の内部バランスが崩されたり、そのうえ運動の方向までも左右される事態が起った。もちろん当時の障害者組織は非常に未熟であった。障害者自身の組織活動の未熟さに加え、学生運動の流れをそのままのペースで障害者問題にもちこんできた健全者にも「障害者との関わり」といった面からして非常に未熟な点があった。このような状況の下で、当時の青い芝の会などのように自らのペースを守る為に健全者の介入を阻止するものものもあったが、それと同時に全国的に一人あるいは数人の障害者を多数の健全者がとり囲んでさまざまな要△323 求をかかげた運動体が、まるで雨後の竹の子のように出てきたのもこの時代であった。」(「障害者解放運動の現在的視点」、『全障連結成大会報告集』、一九七七年四月、【323−324】)
1977/11 青い芝全国連合会会長第3回
1978/05 青い芝の会全国委員会に出席[寺田純一 346]
1978/05/04-05 妻沼行き [横塚りゑ 260-262]
「私は車椅子を信彦に押してもらって嬉しいような、うら悲しいような変な気分でした。鎌谷さんが丸太で組んだジャングルジムにはいずり上って、なかなか下りようとせず、皆からあきれられたり」(p.262)
1978/06/05 駒込病院に再入院(3度め)[寺田純一 346][磯部真教 352]
1978/07/20 11:45 死去
REV:...20031019 20050520,0630 1025 20070726,29 20080102, 20110615, 1023, 20121226, 20150731, 0804, 05, 06, 07
◇
青い芝の会
◇
脳性麻痺 (Cerebral Palsy)
◇
病者障害者運動史研究
◇
障害
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障害者(の運動)史
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障害者(の運動)史のための資料・人
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WHO
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HOME (http://www.arsvi.com)
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