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『相模原障害者殺傷事件』補遺

連載・129

立岩 真也 2017/01/01 『現代思想』45-1(2017-1):22-33
『現代思想』連載・第120回〜『現代思想』連載(2005〜)

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立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』カバー
このHP経由で購入すると寄付されます

◆立岩真也・杉田俊介 2017/01/05 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社,260p. ISBN-10: 4791769651 ISBN-13: 978-4791769650 1944 [amazon][kinokuniya] ※
 ※2016/12/19発売開始

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社

病者障害者運動史研究

■目次

 ■『相模原障害者殺傷事件』
 ■本に引いた二つの短文
 ■もう二つの短文・『聖教新聞』『ハフィントン・ポスト』
 ■もう一つ、「再発防止策」関係で
 ■科学研究費・優生思想
 ■殺されなかった人も亡くなっていく
 ■二〇一六年に亡くなった井形昭弘、のような人
 ■もう一人、松山善三の一九六一年と八一年
 ■杉田俊介:「この子らを世の光に」
 ■杉田俊介:「誰とも争わない」

■再掲

◆2016/12/31 「『相模原障害者殺傷事件』補遺・終―「身体の現代」計画補足・289」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1826680704265575
◆2016/12/30 「杉田俊介「誰とも争わない」続(補遺・13)――「身体の現代」計画補足・288」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1826310114302634
◆2016/12/29 「杉田俊介「誰とも争わない」(補遺・12)――「身体の現代」計画補足・287」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1825858961014416
◆2016/12/28 「杉田俊介「この子らを世の光に」続(補遺・11)――「身体の現代」計画補足・286」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1824817667785212
◆2016/12/27 「杉田俊介「この子らを世の光に」(補遺・10)――「身体の現代」計画補足・285」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1824588981141414
◆2016/12/26 「松山善三の一九六一年と八一年(補遺・9)――「身体の現代」計画補足・284」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1824407344492911
◆2016/12/25 「亡くなった井形昭弘、のような人(補遺・8)」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1823719967894982
◆2016/12/24 「殺されなかった人も亡くなっていく(『相模原障害者殺傷事件』補遺・7)――「身体の現代」計画補足・282」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1823382194595426
◆2016/12/23 科学研究費・優生思想(『相模原障害者殺傷事件』補遺・6)――「身体の現代」計画補足・281」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1821908544742791
◆2016/12/22 「「再発防止策」関係『京都新聞』(『相模原障害者殺傷事件』補遺・5)――「身体の現代」計画補足・280」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1821443071456005
◆2016/12/21 「『ハフィントン・ポスト』(『相模原障害者殺傷事件』補遺・4)――「身体の現代」計画補足・279」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1821179021482410
◆2016/12/20 「『聖教新聞』(『相模原障害者殺傷事件』補遺・3)――「身体の現代」計画補足・278」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1821147238152255
◆2016/12/19 「本に引いた二つの短文(『相模原障害者殺傷事件』補遺・2)――「身体の現代」計画補足・277」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1820236834909962
◆2016/12/17 「『相模原障害者殺傷事件』補遺・1――「身体の現代」計画補足・276」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1819768518290127

■全文

 ※リンクはこれからします。

□『相模原障害者殺傷事件』
 杉田俊介との共著の本『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』(立岩・杉田[2016])が刊行された。私が担当した「はじめに」は次のように始まっている。

▽「二〇一六年七月二六日に相模原市の障害者施設で入所者一九人が刺殺され二六人が負傷する事件があった。本書はそのことがあって作られた。書かれていることはずいぶんの遠回りのことであるように思えるだろう。しかしいろいろと考えてはみたのだが、結局、こんな具合にしか言えない書けないと思った。本文にも同じようなことを書いているが、即効の答がある(とよい)ことにして、それを求め、ないということになるとあきらめて(むしろ安心して?)、思考を停止するといったことがあるように思える。それは最悪につまらないことだと思う。面倒な話をすると言われる私は、いつも謝ってまわっているのだが、このたびはすこし居直ろうと思った。
 ただ私(筆者の一人である立岩)には、私ができることしか、私ができるようにしかできない。その私はまず一つ、事件そのものというより、事件の前、その容疑者という人によって語られた紋切型が、それが犯罪の「原因」であったかどうかはともかく、ただの紋切り型だったとは思えなかった。けっこう皆が思っていること言っていることがそこには含まれている。
▽そして一つ、出来事は凄惨で特異なものだったのだが、その度合いをいくらか――それにしても、その度合いはどうやって測られるのだろう?――減らせば、かつても今もなかったことではないし、しかもそれは単純に糾弾されたのでないこと、消極的ときに積極的に肯定されたことがあったし今もあることを少し知っていた。そこから考えることもあると思った。
▽そして一つ、こんなことがあると、語ってしまう、語られてしまう、さらになされてしまうことがあるのだが、かえってそれはよくないと思えることがあった。そんな具合にものを言わない方がよい、しない方がよいことがあり、しかも私たちはそんなことを過去いくらも繰り返したきたのだと思った。こんな時だからこそ、しない方がよいことを言った方がよいと思った。
▽そんなことを思って第1部になった文章を書いた。」

 第1部は三章よりなる。本誌に掲載された原稿がもとになった。第1章は本誌九月号に書いた[2016/09/01](以下筆者のものは著者名略、必要に応じて八桁表記)、題は「精神医療の方に行かない」とした。第2章は事件を特集した一〇月掲載の[2016/10/01]、「障害者殺しと抵抗の系譜」という題をつけてもらった。第3章は先月号掲載の原稿を書き直し、「道筋を何度も作ること」とした。
 こんな時には、こんな時だから、言葉を繰り出し捻り出すことをよしとしようと思ったし、思うことにした。いま引いたところでは、迂遠であっても、即効性がなくても、そしてそんなことを言われるとしても、言えることは言っておこうと言っている。そしてまた、わかるだろうと思って書かないと、あるいは控えめに書くと、繰り返さないと、結局わかられないから、しつこいのがよいのだろうと思うようになった。じつはそのしつこさはこの本では達成されていないのだが、書いてしまってからさらにそう思った。そこで以下補足する。また、二〇〇五年からの本誌連載におけるここのところの「生の現代のために」という連載――『造反有利』になった部分の後、二〇一四年に始まって、『精神病院体制の終わり』になった部分があっての中断の後、継続中、例えば二〇一六年一一月号掲載の第一六回は[2014-(16),2016-11,127]のように記す――、そしてそれとこの本、この本に関わることとの関わりについて記す。

□本に引いた二つの短文
 事件から本がでるまでの間、短い文章を幾つか書いた。新聞などに載るものだから、短いものでしかありえない。そして読むのを楽しむというのでもなければ文章は短い方がよい。当然のことではある。私も短く伝えられればその方がよいと思う。他方、本はそれより長い。その関係について。
 まず二つ、『朝日新聞』掲載のコメント([2016/07/28])と共同通信の配信記事([2016/08/02])を、前者については取材・掲載の経過とともに、本の第1章に収録した。後者はまず言えるだろうこと、言っておいた方がよいと思うことを一〇〇〇字程度で書いたものとして再録した。こんなことをするのは初めてのことではない。その方が便利だろうと、何冊かの本の冒頭に新聞等に掲載された短文を置いている。ただ、残念ながら話はその短い話だけで完結しない。例えば「社会がやっていけなくなるような負担といったものは今もこれからも存在しない。それはまったく確実だ」と私は書くし、実際そう思っている。しかし、その文章にはその根拠は書いていない。書けるスペースがない。それでよい人もいるし、その方がよいという人もいるようなのだが、例えば疑い深い人はそうではない。だからより長いものを書かねばならないことになり、それで本になる。この当たり前のことが一つ。
 次にもう一つ。短いものは、電話での取材もあったし、インタビューもあるし、最初から書かせてもらうものもあったが、今回はいずれも出る前にやりとりがあった。それはいつもではなく、ときに記事になったかどうかも確認できないこともあるのだが、今回はなおした。さらに私がなおしたものがそのまま通ることもあるが、そうはならないこともあった。どのような部分がとりあげられるか、当方の思い、なおしがどのようになるのか。どのような部分が受けるのか、受けると人は思っているのか、その結果、どのようなことが起こるのか。それをどう考えるか、そのうえで何を言うのか、どう対していくのかを考えるべきだと思う。例えば「精神障害者の犯罪率は低い」といった(私の)発言は取り上げられる。それはもっともなことだと思える。ただそれだけを言えばよいというわけではない。やはり続きが要ることになってしまう。まずこのことは言っておくが、それだけではかえってまずい、だからよい長いものの方で補う。やはり両方が要る。そうして少なくとも二通りのものを書いていくことになる。

□もう二つの短文・『聖教新聞』『ハフィントン・ポスト』
 加えて「はじめに」で、てっとり早いものがよいだろうからからと、読んでもらいたいと書いてあるのは二つ。いずれもHPから読めるようになっている。
 一つは、『聖教新聞』に掲載された[2016/09/29]。これは文芸欄の記事で、横田弘との二つの、むろん彼が生きている時だから実現した(後述)対談・鼎談を含む『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』(横田他[2016])が昨年の春に出版され、そして事件があり、依頼があって書いた。事件のちょうど二月後、九月二六日に参議院議員会館で追悼集会があったのだが、その日の集会の前に原稿を送った。その集会で私は、面倒でも鬱陶しくても野蛮な言葉に反論していかざるをえないといったことを話した。その後パレードがあって銀座辺りを歩いた。皆で唱和した言葉は「インクルーシブな社会を作ろう」だとか、もっと長いフレーズもあって、個人的にはすこし言いづらいなと思った。文章を依頼してくれた記者もパレードに来てくれて、その写真が私の文章に付された。その記事で私は、横田たちが始めたように、きちんと怒るときには怒るのがよいという、前後何回も述べ、本でも繰り返していることを書いた。むろん『聖教新聞』は肯定的なことがたくさん書かれている明るい新聞だが、創価学会の人だって怒るときは怒るだろう。そしてこの新聞を読まない人にも読んでほしいから、HPにも載せるし、別の媒体でまるで同じことを書いたりする。
 もう一つ読んでくださいと書いたのは、『ハフィントン・ポスト』というオンラインだけの新聞に載った[2016/11/25]。長谷川豊というアナウンサーだった人が「自己責任」の腎臓病患者は人工透析を受けず死ぬべきだといったことを何回も書いた。それに対するコメントがほしいということで記者のインタビューを受けた。それは、十一月八日、杉田との対談の前の時間に行なわれた。記者から文案をもらい、かなりの時間をかけて手をいれたものを送った。文章の順序等すこしだけ変更されたものが載った。私が書いたものとしては反応があった。それは九月二六日に話した、仕方なくいちいち反論していくことも必要だというその反論でもある。そして反論はまずはごく簡単に可能だが、もう少し行くと実はすこし複雑なことを言わねばならないのでもある。それは相手方がいくらか「高級」なことを言っているということではまったくない。ただ、それに対する「返し」にはいくらか頭を使わねばならないということがあり、さらにそれを短く言わねばならないということもあって、面倒な仕事なのだが、仕方がないから、する。そしてやはり、その短文だけでは話は完結せず、誰が読むとわからなくとも他方で長いものを用意しておく必要もあるということになる。

□もう一つ、「再発防止策」関係で
 本の仕事(一一月二九日に校正を終わらせたが、一二月四日にさらに間違いを一つ発見)が終わった後、十二月八日「相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム」の報告書が出た([2016/12/08]、「中間とりまとめ」は[2016/09/14])。その日の夕方、京都新聞社の記者から連絡があって、一〇〇〇字ほど書くことになった。四時間ほどをかけてなんとか書いてみた。翌日の朝刊に[2016/12/09]が載った。これは京都の人しか読まない新聞で、他の新聞におけるこの報告書の扱いはだいぶ違うものであったようだから、やはりHPに公開している。
 精神医療は基本的にこのような事件に関わらない方がよいことについては、本の第1部第1章に書いた。だからその章は、その一〇〇〇字の短文の一部をより詳しく説明するものではある。その私の基本的な主張は維持されてよいとして、もっと考えることはある。私が不勉強であり、考えが足りないことを思った。近頃は「社会防衛」とは言わない(かつてその言葉がまったく肯定的に使われていたことは連載で紹介した)。「支援」と言う。それは人を欺く言葉であり、そしてたぶん報告書を書いた当人たちはそのことに自覚的でない。このことは記事に書いた。けれどそれを言うことは「ではどうするか」に応えるものではない。「病気」から行為を「予想」するというのでなく、「現に行なっていること」に応ずること、その容疑者であれば脅迫していることへの対応は可能だし、なされてよいだろう。このことも本や記事に書いた。しかしさらに、それだけではない。例えばいったん捕縛したとして誰が何をするか。
 きっぱり言えることは言う。それはそれで大切だと思うから言う。ただそれとともに、その後のことを考える必要のあることがある。考えるだけでなく知っておく必要のあることがある。考えるために知っておく必要のあることがある。歴史を知る、書くことの意味の一つがそこにある。
 本の第1部第2章になった「障害者殺しと抵抗の系譜」――今回はたくさん題を編集者につけてもらった――に書いたことをすべての人が知っていることはない。不幸なことを多くの人が知っているというのも、それはそれで不幸なことであるように思う。ただ、知っているかのようなことを言う(立場の)人たちには知っておいてもらう必要がある。例えば、殺さないことがよいことを言うに際しても、ひとまとめにしない方がよい複数の言葉がある。皆が同じことを願っていることが本当だとして、その前にある、さほど大きくはないかもしれない差異、第2章では六〇年代初頭と七〇年の間にあったとした差異、断続を見て置く必要がある。後述する。

□科学研究費・優生思想
 冒頭で本の「はじめに」の始まりの部分を引いた。以下は「はじめに」の終わりの部分。

▽「人が死んでものを書いて、少なくともそれは、その人たちのためには全然ならない。なにかを書いたり言ったりして故人を悼んだりするという感性が私には欠けている。ただ、これまで書いてきたことやさらに加えて書かねばと思っていることは、関係はしていると思えた。むなしくなったりしないことにして、書いてきたことを繰り返し、少し足して第3章にした。[…]

▽学者は後衛であり、学者の仕事は落ち穂拾いであると思っているところがある([2008])。二〇一五年の秋に出した科学研究費の申請書を、この(二〇一六年)秋また書類を――つまり二〇一六年度のものは当たらなかったのでまた出さねばならず――出す際に読み返すことがあったのだが、次のように書いてあった。

▽▽「なにより、高齢化、認知症者の増加が言われ、悪意と偏見によってではなく、資源の有限性をもって、社会が護られるべきこと、広い意味での「防衛」のやむをえぬ必要が言われる。多くの人たちがそのように思っている。かつて優生思想といった言葉によって指弾された力がこれから最も強く作動する時期に入っていく。それに運動はどう対しているか、またどう対するべきか。分析と考察の精度を上げる必要がある。流動的な現在を把握し、将来を展望するためにも、これまでの経緯をまとめる」(「生の現代のために・8」、[2014-(8),2015-12,118]に再掲)。

▽今年提出した書類「病者障害者運動史研究――生の現在までを辿り未来を構想する」([2016/11/07])でも、この箇所は「多くの人たちがそのように思っている」を「多くの人たちが不安と諦めとを感じている」とした他はそのまま。そのように思っている。幸い殺されなかった人も徐々に亡くなっていくからいくらか焦っているのだが、そうした仕事をしていこうと思って仕事をしている。」

 この「はじめに」の日付は一一月十七日となっている。研究をするという業種の人たちは皆よく知っているが、科学研究費(科研費)の応募書類の提出期限は毎年一一月初旬だ。研究教育機関の確認承認が要るからそれより前に「学内締切」といったものがある。第3部になった杉田との対談を行なった(そして『ハフィントン・ポスト』の取材のあった)八日の一日前がその日本学術振興会に提出する「本締切」で、書類は二〇一五年の秋に(も)出して落ちたものがもとで、あまり変更しようもなかったのだが、それでも支度がようやく整ったのはその直前だった。
 「かつて優生思想といった言葉によって指弾された力がこれから最も強く作動する時期に入っていく」というのは、はったりぽい表現ではあるが、しかしそう考えているから書いたものではある。
 研究組織の運営に私が関わっているという手前があって、数年かなり大きな規模・額の申請をしてきて、それはやめた。それでもうまくはいかず、今年は私の専攻分野でなく「社会福祉学」の領域で応募することにした。その学に幾つかの立場・宗派はあって、私(たち)はその「本流」にはいないのもしれない。ただその学が主張の分岐に敏感であるならそれは基本的によいことだと、ばくっと「支援」だとかで括ってものを考えるようなおおまかな「社会科学」達よりはまともなものであるとも考えた。そして「福祉」を追究するのだと言ってしまうことも、事実を集めてきてそのことによって搦手でなにかを批判し、その裏でなにかを肯定するといった素振りを見せることより、まともなことだとも思える。
 書類は、昨年のも今年のもHPでご覧になれる。すくなくとも私はこれはやっておかねばならない仕事だと考えている。

□殺されなかった人も亡くなっていく
 一つ、「幸い殺されなかった人も徐々に亡くなっていくから」というのは書いてあるそのままのことだ。科研費書類の「研究目的」はその「概要」の後「@背景・経緯」「A明らかにしようとすること」「B意義」を書くようにとなっている。Bについて。

▽「学問の意義の一つは記録することにある。この研究は今しかできない。本申請の年にもその前の数年も、運動で中心的な役割を果たした人たちが数人ずつ亡くなった。その中の数人に存命中の聞き取りが実現し、現在その書籍化を進めているが、その速度を上げる必要がある。多くの人たちが語ろうとしているが、自らそれを文字にして公けにできる人は少ない。それは公正でない。そして惜しい。つまりもう一つ、この研究は実践的な、人々に有益なものであろうとする。[…]/同時に理論的な貢献も期待される。」

 つまり意義は三つあると言っている。そのうちの一つを述べる中で亡くなった人のいることを述べている。それを書くのは、人が亡くなったことを契機にした本を出すのと比べて、同じぐらいかあるいはどちらがどうなのか、あざとくも思われる。いくらか脅迫的で卑怯なことのようでもある。しかし実際、殺されなかった人も亡くなり、言葉は消える。あるいは不在であるままになる。語ること、語らせることに基本的に否定的すくなくとも消極的である(私はそうだ)、そのうえで、一方でおしゃべりな人たちがさんざん語り書いている事実と違う事実、道筋と違う道筋があることを知るためにも、聞いておいたり書いてもらったりした方がよいことがある。
 私が話を聞けた/話ができた人でここ数年(以下の三人はいずれも二〇一三年)に亡くなった人に、「府中療育センター闘争」の後種々、「全国公的介護保障要求者組合」他で活動した新田勲(一九四〇〜二〇一三、八七年に聞き取り、二〇〇七年に対談、対談は新田編[2009]に収録)、「全国「精神病」者集団」の大野萌子(一九三六〜二〇一三、二〇一一年に聞き取り→大野[2014])、「神奈川県青い芝の会連合会」の横田弘(前出、一九三三〜二〇一三、二〇〇二年に二度の対談、二〇〇八年に鼎談、二度目が横田[2004]に、一度目・三度目が横田他[2016]に収録)といる。
 二〇一五年に出した科研費書類のかなりの分量を再掲した「病者障害者運動研究――生の現代のために・7」([2014-(7),2016-1,117])で、書類再掲の後に、数年のうちに亡くなった三〇人ほどの人を挙げた(今年出したものは「病者障害者運動史研究」と「史」が加わっている)。

□二〇一六年に亡くなった井形昭弘、のような人
 その後も亡くなった人はいた。二つの書類の間、二〇一六年に亡くなった人で連載と今度の本に関連する人では、映画監督・脚本家の松山善三(一九二五〜二〇一六)、日本尊厳死協会理事長他を務めた井形昭弘(一九二八〜二〇一六)といった人たち。
 八月一二日に亡くなった井形については立岩・有馬[2012]で、そして今度の本の第1部第2章の「もう一つの相模原事件」(二〇〇四年)に関わる部分で――この事件のことは記憶されるべきだと考えたから――言及している。
 そこで引用した文章、書いたことを繰り返さない。ただとくに第2章全般に言えることかもしれないのだが、私は遠慮深すぎたかもしれない。例えばこの人の文章のこの箇所を引用さえしておけばその含意は伝わるだろうと私は思うのだが、実際にはそうでないことがしばしばある。すこし言葉を足す。
 そこで言いたかったことはまず、その人やその人を支持する人、師と慕う人たちの言論について、その主張の中身の差異はまずさし措いて、その言論の水準がとても低いことに私は困惑しているということだ。さらに、それでも一つひとつていねいに疑問点を示して議論しようとしている人たちがいた場であったことが、井形の熱心な支持者である同じ組織の副理事長の追悼文においては、理不尽な総攻撃を受けたという話になっている。その(追悼文を書いた)人は帰りの列車で悔し涙にくれたというのだから、その人がそのように受け止めたのは事実なのではあるだろう。しかしそのように受け止めれらてしまうということ自体がたいん悲しく残念なことである。さらに加えれば、その長尾という人のほぼ同じような質の文章が例えば新聞社のオンラインの媒体に掲載されてもいる。それも残念なことではあるが、しかし執筆と掲載自体は自由であるといったん認めるとして、しかし中立を重んずる日本の新聞社にある両論併記の習慣はここではどうなっているのだろうかとも思う。
 といったことを書いていくと、書いている側の品格が失われていく。さきほどの、言論につきあうことの鬱陶しさということになる。けれどもそれは具体的な文言、証拠を示していないからだとしよう。これからは、一方でただ淡々と引用し、他方で中身を示さず解説する評価するといった無駄で失礼なことはしないようにしようと思う。
 もう少し意味のあることを述べようとしてみる。井形自身はなにかまとまったことを書いた人ではなかった。書いてもらう必要もなかった。ただ学界・業界の首領の一人ではあり、様々に関わった。このような種類の人物がいくらかいる。例えば、井形に比べればものを多く書いた人として、秋元波留夫(一九〇六〜二〇〇七)という精神科医がいる。また上田敏(一九三二〜)というリハビリテーションの世界で著名な人がいる。それらがよい人であること、善人であることを否定せずに、しかしそれらの位置を測ることが必要な場合がある。秋元については本連載の一部がもとになった『造反有理』([2013])でいくらかを述べた。上田については、二〇一〇年、『造反有理』になった部分の手前(「社会モデルについて」序・1・2、「社会派について」1・2)でいくらかを記したのだが、そこはまだ本になっていない。そうした、もっともなこともたくさん言ったのだが、そうして時流に合致した、つまり論を検討するに際してはとくにその人たちの固有名を持ち出す必要のないことをいろいろと語り書き、学会や業界を率い、政府関係の委員会等にも関わって一定の役割を果たした人たちをどう扱うかということもまた一つの課題ではある。本連載の先月号で、筋ジストロフィーの研究所を作ろうとした(元)西多賀病院の近藤文雄(一九一六〜一九八八)が、その構想がかなえられす別の性格の施設にさせられてしまうに際し、その施設設立に関わった秋元に恨み言を述べているのを紹介した。そうした小さく狭い政治も見ておいてよい場合がある。

□もう一人、松山善三の一九六一年と八一年
 八月二七日に亡くなった松山善三は、今度の本でもいくらか出てくるが、連載でも「生の現代のために・4」「6」等幾度か言及している([2014-(4),2015-7,113][2014-(6),2015-9,115]、挙げた文献略)。松山は、聴覚障害者の夫婦を描く映画『名もなく貧しく美しく』を一九六一年に撮った人だが、同じ六一年に「日本全国の子を持つ母親たちを恐怖のどん底におとし入れた」ポリオの流行のこと、そして脳性まひの人について、取材記事を書いてもいる。恐ろしい障害のこと、けれども懸命によくなろうとする人たちを描く。そして、その二〇年後、一九八一年には『典子は、今』というサリドマイド児として生まれた女性を主役にした映画を作る。前者は、清く美しく生きる人を描く。後者は、旅行してみたり水泳してみたり、より自然に生きる姿を撮る。この年は「国際障害年」で、明るく強い障害者の姿を多くの観客が観た。この八一年、六一年にはベルギーでサリドマイドの子を親が殺し有罪となるが世論は親を支持したという事件があったこと、それをきっかけに、『婦人公論』で障害者殺しが議論され、生殺を決める審議会を作るべきだといったことを水上勉や石川達三が言ったことは、たぶん忘れられている。見せ物小屋についての言及があり、奇形のおぞましさが言われ、殺すことがそれにつなげられたことももう語られない。ただし、八一年の映画の主人公は生後すぐに肩からすぐに出ている手――六〇年代には「あざらしっ子」と呼ばれた――を手術でとってしまっていて、奇形はあまり感じさせないのでもある。こうしておどろおどろしいことは軽減されている。
 第1部第2章「障害者殺しと抵抗の系譜」の2・3・5にこれらが出てくる。さて、その間に何が変わったのか、また変わらなかったのか。なぜこのことを本に記したのか。やはりもっとくどく書いたほうがよかったかもしれない。たしかに変わったことはある。社会は障害・障害者により肯定的になった、と言ってもよい。ただそれは、忘れることによって、ないことにして、そして過剰と思われるものを実際になくすることによって、欠損だけがあるものとすることによって得られている。それは、この事件を引き起した人のその行ないに抑制的に作用するだろうか。そうはならないはずだ。その人は、「そういう「普通の障害者」は問題ない、問題だと言うのは…」と言うだろう。それを私たちは受け止めることができる。

□杉田俊介:「この子らを世の光に」
 本の第2部は杉田が本誌一〇月号の特集に寄せた文章に大幅に加筆した部分。そして本の第3部には杉田俊介と私の対談(本では討議となっている)を加えた。対談は一一月八日に行なわれた。こんなできごとについて何をどのように言ったものか、双方あまりあてのないまま話は始まって、やがて堂々めぐりぽくなり、時間は経ち、疲れもしたから、なんとか終わりまで行ったように思えた時、始まって二時間ほどで終わった。そしてそれを素早くまとめた原稿が一一月一三日に送られてきた。その後、幾度か原稿をやりとりするなかで、双方が自らの発言を補うことになった。前後の相手の発言と矛盾は来たさないように、削ることもないではないのが、主には加える。それは私たちが、すくなくとも私はよく行なうことである。
 杉田の発言。

▽「僕は自分がNPOで支援者をやってましたから、小さな制度がいかに大事かということは本当に痛感してきました。そして制度はいかに動かないか、ほんのわずかな一歩、一ミリを刻むことがいかに難しく、ゆえにいかに大事か。そういう現場の困難や折衝、条件闘争の苛酷さをあまり知らない人たちが、抽象的な理念ばかりを主張して――「左翼」や「学生運動崩れ」にそれは多いという気が正直しましたが――現実をなし崩しにしていくことには、強い違和感を覚えていました。ただ一方では、かつての障害者運動などで綱領化されてきたラディカルな理念の力を、日々の中で実感することもありました。そういう理念のラディカリズムが、根本的に現場の疲弊や苦しさを支えてくれているのだ、という感じがあったんです。たとえば青い芝の綱領もそうですが、僕らのような重症児関連のNPOの場合、それこそ糸賀一夫の「この子らを世の光に」とか「重症心身障害児を守る会」の親たちの三原則とかですね。
▽しかしグローバリゼーション全盛の時代にあって、マジョリティとマイノリティの境界線に落っこちた、構造的には加害者であり同時に被害者のような、マジョリティのようなマイノリティのような、何かができるようなできないような、そうしたキメラ的な存在や身体に立ちながら、そこから出てくる理念性みたいなものも同時に必要ではないか、と思えるわけです。」

 いくつかのことが言われている。それに対して私はいくつか応じているのだが、ここでは一つ。糸賀一夫、「重症心身障害児を守る会」の箇所は最初はなかった部分だから、私の以下の発言もその場でのものではない。いったん私の部分のなおしを送った後、二〇日の杉田最終版が送られてきて、そこにいま引用した部分があって、それで急ぎ加えて二一日に私の最終版とした。

▽「「この子らを世の光に」とか言わんきゃならないのかということです。糸賀一雄はじゅうぶん立派な人だと思いますけど。そして「守る会」の三原則の一番めは「決して争ってはいけない 争いの中に弱いものの生きる場はない」で、二番目は「親個人がいかなる主義主張があっても重症児運動に参加する者は党派を超えること」ですよ。それでよいのですかと。その青年やその主張の支持者とも争わないんですか、と。そしてこの原則は、一九六四年にできたその親の会がどういう道を行ったか、行かざるをえなかったかということに深く関わっている。そういったことを明らかにし考えよう、考えてもらおうと思って「病者障害者運動史研究」とか言い(立岩[2016/11/07])、「生の現代のために」という、あまり落ち着きのよくない題の連載をしているということはあります。」

 事実についてだけ確認する。糸賀一雄は、東京の島田療育園とともに重症心身障害児――大雑把には知的にも身体的にも重い障害のある子ども(やがて大きくなり、今は高齢者となっている人たちも多い)――施設として先駆的な施設である滋賀県のびわこ学園の創設他に関わった人である。(その後、連載で長く扱っている国立療養所が、結核療養者の次のお客として多くの「重心」の子を受け入れ収容していく。)
 この言葉は社会福祉の業界では広く知られている言葉で、「この子らに世の光を」ではなく、「この子らを世の光に」と言ったところがよいのだと言われている。重症心身障害児「を」「が」世の光「にする」「となる」というのだ。そしてこの事件の際にも、例えばこの事件のすぐ後に組まれたNHKの朝の座談会のような番組で親の会の人が――他には犯罪社会学者と精神科医などがいた――この言葉を持ち出したことを記憶している。
 すぐ後に記すように六〇年代前半・中盤はかわいそうな子(と親)を救ってくださいということであった時期であり、その時にこの言葉は、いったんそうした姿勢とは異なるように思われる。しかし両立もしうるし、実際両立したのではある。さらに、糸賀と「発達保障論」はしばしば結びつけられ、そしてその――説明を省く――発達保障論は、一九七〇年代(以降)において、青い芝の会や(その会はすぐに脱退してしまう)「(全障連)」によって強く批判されたのでもあった。そしてその「発達」と「世の光」もまた異なる方向を向いているようでしかし両立しないわけではない。こうしてこれは単純な主張なのではあるが、しかし置かれている場所はすこし複雑である。
 そして、こうしたややこしいことをいったん措くとしても、前節に紹介した松山善三の映画と同じく、これがこの事件に、その容疑者に「効く」だろうかということだ。効かないと思う。例えばその容疑者(のような人)は「そのように言いたい気持ちはわかるが…」と言うかもしれず、「あなたがそう思うことは否定しないが…」と言うかもしれない。「世の光」と思う人にもさらに言い分はあるだろうが、話は平行線を辿ることになるだろう。
 実際「世の光」であることはあり、それを否定する必要はないと私は思う。ただ、「この子ら」が「世の光」であると言わねばならないかということである。そんな必要はなく、そのものを賭けて争うべきではない。この本でそのことを言った人たちを私は紹介し、そしてそちらを私は支持すると述べた。

□杉田俊介:「誰とも争わない」
 次に「全国重症心身障害児を守る会」については「生の現代のために・9」「15」「16」等に少しずつ記してきた([2014-(9),2016-2,120][2014-(15),2016-8,126][2014-(16),2016-11,127]、挙げた文献略)。この会が結成されたのは一九六四年であり、「発達保障論」を主張した側が共産党との結びつきが強かったのに対して――そのことも発達保障論を巡る争いが激しかったことと関係している――「誰とも争わない」という方針を掲げた。「争わない」というのは具体的には政府・与党の批判はしない、陳情して得るものを得るということを意味する。そしてそうした姿勢は六〇年代からしばらく、例えば自民党の厚生(厚労)族の大物議員や大臣たちに対して効果的だった、それはまったく合理的な行ないであったことも記した。
 そして内部において、もっと争ってよいはすだと主張する人たちは抑えつつ、その争わないと言う人――創設以来夫が会長を務めその死後会長を北浦雅子が継ぎ、二人合わせて会長であった期間は五〇年ほどになる――自身も例えば次のように争っている。「最近、施設の先生に「重症児の親御さんたちは、みなさんよくがんばっておられますが、なかにはいろいろな方がいます。″うちの子は社会の子です。職員が世話をするのは当り前でしょう″などという親もいるのですよ」と聞かされたときには、私は血の気のひくような悲しみにおそわれました。たった一人のこうした親のために、すべての親が同じようにみられてしまいます。私たちの二〇年にわたる運動も、根本からくつがえってしまいます。いいえ、それは重症児の生命を危うくしてしまうのです、と私は叫びたくなります。/故市川房枝先生が長い問婦選運動をつづけられ、逝くなるまで、「権利の上に眠るな」といいつづけられたことを、私たちは忘れてはならないと思います。」(北浦、一九八三)
 いちいち言葉を補わねばならないのも悲しいことではあるが、私は、「世の光」の人たちや「争わない」の人たちが、「命を護る」ことにおいて、すくなくとも「リベラル」な人たちや私自身に比して、とても頼りになる人だと思っている。そして私は、たしかにこれらの人たちと別の宗派に属しているのだろうが、だからことさらに差異を言い立てたいのでもない。ただ、言い立てなくとも存在する差異はあって、それはまずは受け止めるべきだと考えている。受け止めたうえで、たいした差異でないということになればそう言えばよいと思うのだ。
 七〇年に青い芝の会が争った相手は、この「守る会」、正確にはその神奈川県の組織だった。このことも連載でそして今度の本で紹介した。だから理念は理念として既にあって、しかしそこからもこぼれてしまうような人たちがいる、そこで…、という話の前に、いや同時でもよいから、どのような場に立つのかという主題がやはりあるのであり、そのことを考えるためにも、こうした標語の位置づく位置を見ておく必要があるということだ。
 そしてそれは、その容疑者や、その人のように語ったり感じたりする人たちに、自分たちにどのようにものを言うのかということでもある。肯定されるものがあることはまったくよいことであるに違いない。しかし、生きていくこと、それもただ死なない程度に生きていくのでなくもっとのうのうと生きていくために、自分によいものがあることが必要なのでなく、そのことを言い示すことも必要でない。このような態度が作られていって、それは、近い場所にいるが同じではない態度との差異において示された。そして、そのような態度をもって争うこと、そこから引かないことが言われ、実際様々に争いがなされてきた。
 こうして、私は、明らかな障害者とそこははっきりせずかえって悶々としているようであるその人とを別建てで考えるより、基本的には、その青年(杉田は青年という言葉を使った)にもまた同じように言うのがよいようにも思う。このことは、対談と、対談のなおし、増補の際にも思っていたが、もっとぼんやりとしていた★02。今はもう少し強くそのように思うところがある。そのうえでなお、杉田が気にしていて私が捉えられていない部分があるようにも思う。それはまだよくわからない。本を読み、杉田の第2部を読み、第3部の行ったり来たりしてまた戻ってきてしまうようなその対談(討議)を読んで教えていただければと願う次第だ。

□註
★01 はっきりと「障害者」「弱者」であるとはされない人の辛さの指摘については、対談でまず以下のように応じている(ここにも対談の後に加えた部分がある)。
 「デフォルトで何の支障もなく生きられている人は「生きられる」とか言われてもぴんと来ないですよね。そういう人はほっとけばいい、というか、数で、多数決で決まるはずのこの社会の政治的決定において少数派にしてしまえばよいと思ってます。
 もう一つ、そとめ見てもできないのがわからないというのはかえって辛いということは確かにあると思います。私はいわゆる「障害」よりも広く「できないこと」を捉えるべきだと思っています。そしてむろん、できる/できないは多くの場合完全に連続的でグラデーションになっているし、どんなできる/できないが注目されたりは時代によって変わってくる。みな障害者になるかもみたいな、それはそうなんでしょうけど、そういう話でなくて、外見的にどうあろうとできないものはできない、それが不利に働くなら基本その社会がよくないという線で行こうということです。
 私はそんな感じです。そしてそれは私が考えたというようなことではまったくない。「能力主義」が批判されたんですから。だからその主張・運動は、そもそも狭義の障害者専用ではないわけで、その道を行けばよいと私は思うんです(本書第1部第3章2−1、『私的所有論』英語版序文[2016/09/21])。[…]所得保障のことにしても、社会サービスのことにしても、障害者という「印」をもっていて初めて受け取れるという主張がなされてきたわけではない、むしろそれを否定する主張・動きがずっとあってきたことに留意すべきだと思う。」
 これはどう対するかという話の一部だが、それとともに「反体制」になれず、防御的・攻撃的になってしまう人たちの拡大をどう見るかということもある。対談で幾度か話し、そしてそれを受けて、対談の後に書いた(もとは本誌昨年一二月号に掲載された)第1部第3章「道筋を何度も作ること」の第3節「野蛮な対処法と別の方法」の1「野蛮な対処法」と2「別の方法」にいくらかを記した。

□文献 ※はウェブ上で全文を読むことができる
早川一光・立岩真也・西沢いづみ 2015 『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』、青土社
新田勲編 2009 『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』、現代書館
大野萌子 2014 「私の筋が通らない、それはやらないと」(インタビュー 聞き手:立岩・桐原尚之・安原壮一)、『現代思想』42-8(2014-5)
相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム 2016/09/14 『中間とりまとめ――事件の検証を中心として』 ※
―――― 2016/12/08 『報告書――再発防止策の提言』 ※
立岩真也 2008 「学者は後衛に付く」、『京都新聞』2008-1-30夕刊:2 現代のことば ※ 
―――― 2013 『造反有理――精神医療現代史』、青土社
―――― 2014/03/01- 「生の現代のために・1――連載 97-」、『現代思想』, 2014-3,4,2015-6,7,8,9,12,2016-1,2,3,4,5,6,7,8,11,12
―――― 2016/06/25 「人工呼吸器の決定?」、川口・小長谷編[2016]
―――― 2016/07/28 「七・二六殺傷事件後に」、『朝日新聞』2016-07-28朝刊(取材:07/26-27) ※ 
―――― 2016/08/02 「七・二六殺傷事件後に」、共同通信配信(『新潟日報』『静岡新聞』『高知新聞』等に掲載、原稿送付:08/01) ※
―――― 2016/09/01 「七・二六殺傷事件後に」、『現代思想』44-17(2016-09):196-213
―――― 2016/09/21 On Private Property, English version,Kyoto Books
―――― 2016/09/21 Preface (2016, to Readers of the English Version), Tateiwa [2016] ※ 
―――― 2016/09/29 「自らを否定するものには怒りを――横田弘らが訴えたこと」、『聖教新聞』2016-9-29  ※
―――― 2016/10/01 「七・二六殺傷事件後に 2」、『現代思想』44-19(2016-10):133-157
―――― 2016/11/07 「病者障害者運動史研究――生の現在までを辿り未来を構想する」、2017年度科学研究費申請書類 ※
―――― 2016/11/25 「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」(インタビュー、聞き手:泉谷由梨子)、『The Huffington Post』 ※
―――― 2016/12/09 「拙速で乱暴な仕組み」、『京都新聞』2016-12-9朝刊:3 ※
立岩真也・有馬斉 2012 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』、生活書院
立岩真也・杉田俊介 2016 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』、青土社 文献表
横田 弘  2004 『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』、現代書館
横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』、生活書院

*使わなかった部分
★01 筋・概要の予告の類を幾度か書いている。「生の現代のために・10(予告)」([2014-(10),2016-3,121])では、(1) 自らを護る運動:結核/ハンセン病療養者、(2) 親の運動:筋ジストロフィー/重症身心障害児、(3) 被害者たちの運動:サリドマイド/スモン、医療、(4) 別の動き、という項目建てなっている。
 また科研費の申請書の冒頭では「障害・病を有する人達の主張・運動の多くは記録も考察もされていない。資料の散逸が進み、今後しばらく長く活動してきた人の声を聞く最後の機会となる。研究を組織化し、世界的な流れの中に位置づけつつ、その過程を明らかにする。」とした上で、「T結核・ハンセン病等の収容施設が批判の対象とされつつ生活のための砦であったことがある中での運動。U社会・政治を加害の原因として糾弾しつつ自らの内にも対立や困難を必然的に抱えてしまった公害・薬害に関わる運動。V医療福祉政策の狭間に置かれる中で自らの位置を得、生活を獲得ようとしてなされてきた「難病」を巡る運動。Wすべてに関わりつつ障害と病の位置の転換を主張して一九七〇年前後に新たに現れた運動、それが起こした波紋。そしてXそれらを経て世界に共通する現況を診断し、これからを展望する。」としている。
 両者の分け方、つなげ方は少し異なる。幾度も分け方やつなげ方を変えて、書いてみて、手直しをしていくことになる。

■文献()→文献表(総合)

○有吉玲子 2103 『腎臓病と人工透析の現代史』,生活書院
○あゆみ編集委員会 編 1993 『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』、第一法規出版
●早川一光・立岩真也・西沢いづみ 2015 『わらじ医者の来た道――民主的医療現代史』,青土社
堀智久 2014 『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』,生活書院
○石川准・倉本智明編『障害学の主張』,明石書店
○川口 有美子・小長谷 百絵 編 20160625 『在宅人工呼吸器ケア実践ガイド――ALS生活支援のための技術・制度・倫理』,医歯薬出版,168p. ISBN-10: 4263236777 ISBN-13: 978-4263236772 [amazon][kinokuniya] ※
○北村健太郎 2014 『日本の血友病者の歴史』,生活書院
○北浦雅子 1966 『悲しみと愛と救いと――重症心身障害児を持つ母の記録』、佼成出版社
○―――― 1983 「この子たちは生きている」、全国重症心身障害児(者)を守る会編[1983:10-24]
○―――― 1993 「「最も弱い者の命を守る」原点に立って――重症児の三〇年をふりかえる」、あゆみ編集委員会編[1993:59-65]
○松山善三 1961 「小児マヒと闘う人々」、『婦人公論』46-11:116-121 ※
○松山善三・高峰秀子 1981 『典子は、今』、潮出版社
●新田 勲 編 2009 『足文字は叫ぶ!――全身性障害のいのちの保障を』,現代書館
大野真由子 2013 「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題――障害者総合支援法のこれからに向けて」「『障害学国際セミナー2012――日本と韓国における障害と病をめぐる議論』,生存学研究センター報告20
●大野萌子 2014 「私の筋が通らない、それはやらないと」(インタビュー 聞き手:立岩・桐原尚之・安原壮一),『現代思想』42-8(2014-5):-
○定藤 邦子 2011 『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』,生活書院
●相模原市の障害者支援施設における事件の検証及び再発防止策検討チーム 2016/09/14 『中間とりまとめ――事件の検証を中心として』 
●―――― 2016/12/08 『報告書――再発防止策の提言』 
○障害学研究会中部部会編 2015 『愛知の障害者運動――実践者たちが語る』,現代書館
立岩真也 2002/10/31 「ないにこしたことはない、か・1」,石川・倉本編[2002:47-87]
○―――― 2004 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院
●―――― 2008/01/31 「学者は後衛に付く」,『京都新聞』2008-1-30夕刊:2 現代のことば ※ 
●―――― 2013 『造反有理――精神医療現代史』,青土社
○―――― 2014 『自閉症連続体の時代』,みすず書房
●―――― 2014/03/01- 「生の現代のために・1――連載 97-」『現代思想』, 2014-3,4,2015-6,7,8,9,12,2016-1,2,3,4,5,6,7,8,11,12
●―――― 2015 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社
◇―――― 2015/12/01 「病者障害者運動研究――生の現代のために・6 連載 118」,『現代思想』43-18(2015-12):16-29 ○―――― 2016/06/25 「人工呼吸器の決定?」,川口・小長谷編[2016]
●―――― 2016/07/28 「七・二六殺傷事件後に」,『朝日新聞』2016-07-28朝刊(取材:07/26-27) ※ 
●―――― 2016/08/02 「七・二六殺傷事件後に」,共同通信配信(『新潟日報』『静岡新聞』『高知新聞』等に掲載,原稿送付:08/01)
●―――― 2016/09/01 「七・二六殺傷事件後に」,『現代思想』44-17(2016-09):196-213
●―――― 2016/09/21 On Private Property, English versionKyoto Books
●―――― 2016/09/21 Preface (2016, to Readers of the English Version) ※ 
●―――― 2016/09/29 「自らを否定するものには怒りを――横田弘らが訴えたこと」,『聖教新聞』2016-9-29  ※
●―――― 2016/10/01 「七・二六殺傷事件後に 2」,『現代思想』44-19(2016-10):133-157
●―――― 2016/11/07 「病者障害者運動史研究――生の現在までを辿り未来を構想する」,2017年度科学研究費申請書類
●―――― 2016/11/25 「長谷川豊アナ「殺せ」ブログと相模原事件、社会は暴論にどう対処すべきか?」(インタビュー、聞き手:泉谷由梨子),『The Huffington Post』 
●―――― 2016/12/09 「拙速で乱暴な仕組み」,『京都新聞』2016-12-9朝刊:3
●立岩真也・有馬斉 2012 『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』,生活書院
●立岩真也・堀田義太郎 2012 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社
●立岩真也・村上慎司・橋口昌治 2009 『税を直す』,青土社
●立岩真也・齊藤拓 2010 『ベーシックインカム――分配する最小国家の可能性』,青土社
●立岩真也・杉田俊介 2016 『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』,青土社 文献表
○利光 惠子 2012 『受精卵診断と出生前診断――その導入をめぐる争いの現代史』,生活書院
●横田 弘  2004 『否定されるいのちからの問い――脳性マヒ者として生きて 横田弘対談集』,現代書館
●横田 弘・立岩 真也・臼井 正樹 2016 『われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」』,生活書院
○全国重症心身障害児(者)を守る会 編 1983 『この子たちは生きている――重い障害の子と共に』、ぶどう社

■人

井形 昭弘(1928/09/16〜2016/08/12,医師,日本尊厳死協会)
松山 善三(1925/04/03〜2016/08/27)

■(使わなかった註)

★□【T】「社会防衛」のために結核、ハンセン病等の療養者の収容がなされたことから、共通の利害が生まれ、集合的な運動が、戦前を引き継ぎ戦後すぐに始まった。その運動の事実の記録はなくはない。ただ、そこに生活する人は、その処遇に不満を持ったから運動を組織したのだが、その施設・制度は生活を支える場・資源でもあった。この部分を捉えた研究、この時期の運動が後にどのような影響をもたらしたかを捉えた研究は僅かである。そして社会防衛は、定義によるが感染からの防衛に限られない。衛られることを願うのはまずは家族だ。その願いは切実で、それが一九六〇年代初頭の重度心身障害児(重心)施設、筋ジストロフィー児の施設・施策に繋がる。またこれらの施設には結核療養所が転用されていくという具体的な場の連続性もある。それは親たちの願いに発し、当時善いこととされたから、施設を求める親たちの組織の側の記録は一定存在するが、例えば精神病院について家族会側の推進の動きのあったことは表には出てこない。多面的・多角的な調査によって、防衛の対象とされた側と防衛を求めた側双方の運動を明らかにする。
□【U】一九六〇年代前半から、加害者として社会を名指し社会に対する動きが前面に現れた。つまり公害、薬害の健康被害が大きく問題化される。これは世界的にも生命倫理学や医療社会学といった学問領域の誕生に関わり、日本社会にも大きな影響を与えた。だが例外的に水俣病について一定の記録が残され研究が組織的になされている以外、またいくつか事件当時の資料集等の刊行物がある以外、ほとんどまとめられ分析されていない。そしてそこから受けとるべきはただ加害に注意深くしていこうといったことではないはずだ。加害の償いと生活の保障とをどう関係させるべきか、そこにほぼ必然的に現れる病・障害の悲惨の表象をどう解するかということもある。
 医療・福祉の大きな政策動向を紹介する文献は相対的には多く、大まかなことは知られている。ただ【V】どこまでをどんな理由で社会的支援の対象にさせ、またしてきたのか。病気でもあり障害でもあるような領域、「難病」「特定疾患」に関する運動・政策の推移から見えてくるものがある。Tの一部、親や子に対する同情から、医療と福祉、児童と成人の境界に、法外の、また複数の法に根拠をもつ制度が現れていく。さらに、Uに関わりスモン病に対する対応として始まり、研究のためとして医療費の負担を免除するという説明で徐々に難病対策が始まり、その後対象を増やしてきた。しかし、そうして拡大しますます複雑になった制度がそのままでよいと思っている人はどこにもいない。そして何を基準にどのような公的支出をなすかは普遍的な主題でもある。
□【W】Uの動きとも連続しつ、一九七〇年前後に新たに現れた運動がある。それは社会を糾弾するが、その糾弾は障害を悲惨とすること自体に向かうのでもある。これには一九六〇年代末からの社会運動と関係している。その時期、本人たちに自らの位置と主張を転換する動きがあり、研究者・専門職者集団の一部にも自らの営為を問い直す動きがあった。日本ではそれには左派内部での対立が絡んでもいた。社会改革を肯定し志向した上での対立を受けてなされる主張(の一方)は、時に「極端」なものともなる。例えば(なおせても)「なおさなくてもよい」と主張する。ゆえにその脆さを突くことは容易だが、同時にそれは――時に欧米の同じ領域の言説より――主張しうることの「限界」まで行こうとしたと見ることもできる。その動きを跡付け、理論的に考察する。
□【X】厳しい対立もあった運動は現在、大きくは障害者権利条約を受けた国内法・制度の整備という方向に収斂しつつある。それは、様々の困難に遭いながらも前進をもたらすだろう。ただその運動はより困難な局面に遭遇してもいる。運動が、Tの時期から抵抗し、Wにおいて自覚的に対象化し批判してきた「社会の都合」が、身も蓋もない資源・経済の問題として現れている。すると医療・福祉に関わる社会運動が旗印にしてきた「自律」を言い続けるだけではうまくいかない。そしてこれは世界的な問題であり、W〜Xが国際的にどのように捉えられてきたかを見る必要もある。国によっても差異がある運動と主張とその背景を比較検討するために、催の共同企画等既に研究協力関係を築いているJo Hanjin(韓)、Cai Cong(中)、Colin Barnes(英)、Fernand Vidal(西)、Karen Nakamura(米)らの協力を今後も得て互いに議論し、成果を多言語で発信する。

★  以下。
「【T】日本での集合的な運動は結核療養所、ハンセン病療養所入所者の運動から始まった。ハンセン病療養所における生活・運動については近年幾つか研究がある。また結核療養者の運動についても「朝日訴訟」を象徴的なものとして運動に積極的に関わった人たちによる文献はある。ただそれがその後の運動にどのように連続し不連続だったかについての研究はほぼなされていない。「防衛」の対象になれば、その対象者には制約が課せられる。施設とそこでの処遇は不満・批判の対象となり、だからそこで運動も生起したのだが、あてがわれた場や人は実際上生活の「よすが」でもあった。するとその処遇に対する抗議の運動もいくらか複雑になる。全国組織の会報の合本版等はあるが、距離をとったその解析はなされていない。その変化と連続性を追う。
□施設化と脱施設化は、現在「地域移行」に誰もが反対しない中で、かえってその実情がわからなくなっているところがある。例えば、重症心身障害児(重心)の施設や筋ジストロフィー児の施設については、その家族の切実な訴えがあり、その「成果」を得るに至るその足取りがある程度記憶され、資料が残り、私達においても研究がいくらかある。だが否定的な価値が付与されている精神病院については、精神疾患・精神障害の家族会が少なくともその初期、病院体制に肯定的であった部分は見えなくなっている。そしてこれらは家族・親を護るために、政治色を出さずに政権党の政治家の同情を得て要求を実現する。結核やハンセン病の場合には自らを護るために施設労働者や革新勢力と連携する。こうした共通性と差異がある。また国立療養所を巡る政策においても変化と連続性がある。つまり結核が減り結核療養病床が減らされていくが、そうした施設が一つに重症心身障害児、筋ジストロフィー児を受け入れていく。またいっときはサリドマイド児(→U)が入所していたこともある。運営に関わった人たちが回顧した文書がいくらかある以外、これらのほぼすべてがまとめられていない。この年〔二〇一七年〕、代表者の単著をまず1冊刊行する。
 【U】これらの動きと接し、特に一九六〇年代以降、「社会が作る」病・障害が問題にされる。薬害・公害や労災を巡る責任追及や補償を巡り、被害の有無や軽重を巡って原因を追求し、その因果関係に関わる争いが起こる。だが、例外的に蓄積がある水俣病に関わる研究以外、社会学では『薬害の社会学』(宝月誠編、1986)以後、まとまった研究はない。一つ、責任追及と補償が必要でありそれを得ようとすることが同時に求められ、争いを提起した人達の内部に対立が生じてしまったことが度々あった。因果関係の証明が求められ、そのことを巡り大きな負荷と分断がもたらされた。また一つ、社会に訴える時に病や障害の悲惨を語らざるをえなくなる。実際悲惨な境遇はあったのだが、後にその表象のされ方は後に(→W)自らによる懐疑・批判の対象にもなる。これらを考えるためにも、『日本の血友病者の歴史』(2014)◆の著者北村健太郎他が薬害エイズ、C型肝炎等を巡ってなされた運動について調査し言論を解析する。
 【V】以上二つは一つに社会の側の利害による管理・保護とそれへの抵抗、また一つ、加害者として社会を名指すものだったが、直接の原因・理由がなんであれ、当人たちにとって大切なのは生活であり、治療を含む生活のための費用であり、それが社会に対して常に求められてきた。そして求められた側も何もしなかったのではない。政策側も何かはしようと思うのだが、どこまでなら認めることにするか戸惑いもする。大きくは医療保険等の医療政策、障害者施策全般とそれに関わる運動があり政策があるが、それらについてなら一定の研究の蓄積はある。今回の研究においては、それでは到底足りないと感じられそれで起こったできごと、制度の狭間にあり位置づけにくいものに関わって起こった運動とそれへの対応を追って、境界・限界を巡る攻防を検証する。まず1970年代初頭には、人工透析について、公費負担(1972年に更生医療適用)に至る経緯、「全国腎臓病協議会(全腎協)」(1971〜)の関わりが有吉玲子『腎臓病と人工透析の現代史』(2013)◆で明らかにされた。その他についても、とくに「難病」と呼ばれるようになったものがどのように位置づけられてきたのかを探る。それがT・Uと接続し、偶然的な事情にも左右されて今日に至るその動きを明らかにする。難病対策の始まりには1960年代に設立されていく疾患別の患者会の活動があるが、「難病」「特定疾患」という行政的な範疇の生成を現実化したのは1970年前後の薬害スモンの政治問題化(U)が関わっている。そうした中で政策が始まり拡大していった過程がある。その制度とその内実の推移を調査しまとめる。それは(まだなおらない)疾患をなおすための研究という名のもとで生活を(生活も)援助する制度として現れ、それはその政策の対象になる本人や家族において障害というより(やがてなおるようになる)疾患という認識を強めるものだったが、1990年代に入ると障害者運動が獲得した介助制度等の利用を介し、障害者運動との接近、障害者としての自己規定が一部に現れもする(cf.立岩2004『ALS』◆)。同時に、列挙される疾患だけが対象になるという制度そもそもの限界を有しつつ、対象疾患を拡大する動きは続いてきたが、例えば苦痛を主症状とする「複合性局所疼痛症候群(CRPS)」は、病が忌避されるのは苦痛ゆえであるのに、客観的基準がないとして認定されず(米国・韓国では認められている)、認定を求める運動が続いている(cf. 大野真由子2013「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題」◆)。それらを追って変動し浮動する歴史・現在の全体を描き、これからの主張・政策のあり様を示す。これ自体はこの国に特異に起こったことだが、それでも数百万の人たちの生活に直接関わる。さらに、どこまでの範囲の疾患・障害、広く人の状態・様態に関わる費用をどのような理由でどこが持つのかは普遍的な問題であり、理論的検討課題となる。
 【W】1970年の前後、別の流れが生まれる。保護として現れる隔離に反対し(T)、社会を問題にしつつも社会による身体への危害(U)というだけでない場面を問題にする流れが生ずる。その運動はまず我彼の間の差異をはっきりさせようとした。自らのためになされていることと他人(達)の都合によってなされていることが、意図的にせよ非意図的にせよ、曖昧にされてしまうことを指摘し、それに反対した。社会が支えることを求めつつ他者達の都合で自分たちの身体と境遇が作用されることを拒んだ。脱施設・反施設を鮮明にした。「優生思想」「能力主義」という言葉を頻用し、この社会で暮らしていけないから得るものを得ようとしながら、社会の全体を批判した。自らを積極的に肯定するわけではないが、否定されていることを強く自覚することから始まり、そしてなおすことに懐疑的だった。「青い芝の会」といった組織の行動については比較的知られるようになったが、他でもこうした主題が現れた。遺伝性の部分を含む筋ジストロフィーについて、一九七〇年代、そのことも社会に知らしめるべきだという主張と、それに慎重な主張が対立し、それは組織の分裂も引き起こした。遺伝子診断を巡る議論もなされる(cf.利光惠子2012『受精卵診断と出生前診断――その導入をめぐる争いの現代史』◆)。現在は入手困難な出版物や石川左門(1937〜)他への聞き取りからこれらの軌跡を辿る。また「先天性四肢障害児父母の会」(1975〜)は、環境汚染が様々に問題にされていたその活動の初期、環境要因を疑い、原因究明を訴え、その障害をなくすための活動を展開した。だが現に障害があって暮らしている子どもがいる時、障害を否定的に捉えてよいのか。それを考えていくことになる。『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』(2014)◆でこの組織を追った堀智久らの研究をさらに発展させ、反原発運動において再度起こった加害の告発と障害の否定を巡る「論争」も含め、議論を追う。また、直接的な加害・犯罪(の可能性)の主体と名指され治安・医療の対象とされる精神障害者自身の動きが、組織規模としては家族会の全国組織に比してまったく小さなものだったが、「全国「精神病」者集団」(1974〜)等によりこの時期に始まる。それは治安の対象になることに抵抗するとともに、疾病とも障害ともされる自らの状態をどう捉えるか、身体障害者の動きにも連動しつつ、抗精神薬にどう対するかといったより具体的な場で自らのあり方を考え始める。これらについての研究は、さらに知的障害・発達障害の運動史研究は、まったく始まったばかりである。
 そしてこれらの動きには、一九六〇年代末からとくに障害者運動には当時の左翼運動における、共産党やそれに近い組織とそれに対抗する勢力との対立、具体的には障害児教育のあり方等を巡る厳しい対立関係が関わっている。そしてそれは学問・科学のあり方にも関わった。精神医療・臨床心理等の学会・業界に自らの位置を問題化する動きが少なくとも一時期あった。ここで押さえておくべきは「造反」を批判した側も「改革派」だったことだ。「造反派」から「極端」な主張がなされ、発見しなおすことへの懐疑が示されたのにもこのことが関わっている。双方の言論と実践を検証する。この時期以降については、立岩他『生の技法』(第3版・2012)◆、各地の動きについても、定藤邦子2011『関西障害者運動の現代史』◆、障害学研究会中部部会編2015『愛知の障害者運動――実践者たちが語る』◆、神奈川青い芝の会の横田弘(1933〜2013)への聞き取り等からなる『われらは愛と正義を否定する』(2016)◆等があるが、この年、全国「精神病」者集団の大野萌子(1936〜2013)・山本眞里(1953〜)らへの聞き取り記録を整理し、書籍を公刊する。
 こうした「新しい社会運動」は世界中で起こった。ただ少なくとも始まりとしばらくの推移は同じではない。例えば脊髄損傷の車椅子使用者(英国)やさほど障害の重くないポリオの人たち(韓国)等、移動の手段を得られれば十分やっていけるといった人たちが中心となって始まった運動においては「本来はできる」という主張がより強いのに対して、重度の脳性麻痺者他から始まった日本の運動は、より解消も軽減も困難な部分があることを言い続ける。ただ世界のどこでも、支援があれば人は社会的に生産的になりうるという主張が通じない場面はあり、結局運動は同じ困難を見ることにもなる。つまり単純な「社会モデル」を適用すればそれですむというわけではない。それは次のXの問題にも関わっている。そのためにも各国の運動史を、各々の研究者の協力を得ながら進め、まずこの年は日本の運動の特質について英語の論文を刊行する。
 【X】いま日本ではいっときの騒乱・対立は収束に向かっているようでもある。つまり、地域生活と自己決定という看板は、誰もが反対しないものになっている。とくに1980年代以降、Wの時期の運動体を引き継ぎつつより広範な範囲が加わる組織が活動している。そして大きくは障害者権利条約の批准、その実施状況の国連への報告(民間組織も報告できる)を利用して、それによる法整備等を進めようという流れになっている(cf.長瀬修他編2012『増補改訂 障害者の権利条約と日本』◆、長瀬監訳2013『世界障害報告書』◆)。だがまずなお理論的に追究されるべき論点は残っている。なおすことを巡って病者と障害者の間にあってきた差異をどのように理解するのか。(障害は)なおらないという現実が所与である限り、これは現実的な問題にはならないが、その前提は不動ではない。また差別禁止は当然に必要だとして、それは「障害」による差別に対する対応とされ、そこから除外される能力の差異に関わる不利益は捨象されてしまうことにもなる。認定は免責をもたらすが(「病人役割」)、同時に排除の理由にされるという現実の基本は変わらない(立岩2014『自閉症連続体の時代』◆)。そしてなにより、高齢化、認知症者の増加が言われ、悪意と偏見によってではなく、資源の有限性をもって、社会が護られるべきこと、広い意味での「防衛」のやむをえぬ必要が言われる。多くの人たちが不安と諦めとを感じている。かつて優生思想といった言葉によって捉えられ批判の対象となった力が、これから最も強く作動する時期に入っていく。それに
運動そして学知はどう対することができるか。分析と考察の精度を上げる必要がある。流動的な現在を把握し、将来を展望するためにも、これまでの経緯をまとめる。
□平成三〇年度以降:[…]」

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社


UP:2016 REV:20161211, 27, 20170304, 20180601
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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