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良い死?/唯の生!

立岩 真也 2009/12/18
日本宗教連盟第4回宗教と生命倫理シンポジウム・「尊厳死法制化」の問題点を考える
於:東京・ホテルグランドヒル市ヶ谷 http://www.jaoro.or.jp/


 *資料として送ったもの

死の代わりに失われるもの――日本での動向の紹介に加えて
 立岩 真也 2009/11/02
 安楽死問題韓日国際セミナー 於:韓国・ソウル市・国会議員会館

 本日はこの場に招いていだき、たいへん光栄に思います。日本の、京都にある立命館大学に勤めております立岩真也です。文部科学省によって選ばれた研究拠点、グローバルCOE生存学創成拠点のプログラムリーダーを務めております。専門は社会学ですが、哲学・倫理学も近いところでも研究をしており、何冊か生命倫理に関わる著書もあります。資料集にあります原稿は、私がここ数年、いくつかの新聞などから依頼されて書いた3つの短文です(→◇)。私の考えることを、ごく短く、一般の読者にもわかるように書いたつもりのものです。ご参考になればと思います。昨年と今年に出版された専門的な著書が2冊ありますが、それは日本語版しかありません。もうしわけありません。
 ここでは私の考えるところ、そして日本での状況について、手短にいくつかお話しさせていただきます。その韓国語版、日本語版、英語版は、近日中に、立命館大学の生存学創成拠点のHPに掲載する予定ですのでご覧ください。関係する各国の情報についても今のところほとんどが日本語ですが、かなりの量の情報がHPに掲載されています。文部科学省の資金援助を受けつつ、今後多言語化していきたいと考えております。
 私の報告は短めにしたいと思います。あとでご質問などいただければ、時間の許す限りお答えしたいと思います。

 まず、さきのジョ先生のご報告にも重なるところがあるかと思いますが、今回の韓国の事件について一言もうしあげます。
 私は、いついかなる場合にも延命のためのあらゆる措置がなされるべきであるという立場には立ちません。ただ、「植物状態」と呼ばれる状態において、その人の世界がどのようであるのか、たいへんにわかりがたいことはたしかです。意識がまったくないという推定が多く誤っていることが実証研究によって知られています。そしてそれ以前に、いくらかでも考えてみれば、その人の状態を判断する確実な手段を、その人の外側にいる私たちはもっておりません。また、回復の可能性、また回復とまでは言えないにせよ状態の変動がずいぶんとあることも知られています。ですから、この状態においてその人が生きることを止めることの不利益の可能性は否定できません。
 他方、処置が無益である可能性もまた否定できません。しかし、感覚がいっさい失われており、その人にとってなんらの益をもらさないということは、同時に、害もまた存在しないということでもあります。つまり、所謂植物状態の人の延命は益の可能性がある、あるいは、害はない、このいずれかということになります。とすれば、延命のための措置を継続することが、その人の尊厳を侵してしていると言えるでしょうか。そのようには言えないと考えます。
 さらに、本人の意志の尊重という、たしかに大切であり尊重されるべき原則についても、考えるべきことが幾つもあります。ここでは二つだけ述べます。
 一つ、その人の今の状態がどんなであるか、それ以前の状態にある本人であっても、知ることはできません。人々が大切にしてきた自己決定とは、なかでもそれが奪われてきたがゆえにそれを大切にすべきだと世界の障害者たちが訴えてきた自己決定とは、自分のことは自分がよく知っている、だから自分に決めさせよというものでした。しかし、ここではその前提は成立していません。
 一つ、そこにどんな要因が働いているのか。周囲に迷惑をかけたくないという心情があるでしょう。その心情は立派であると認めてよいと思います。しかし、その周囲の者たちは、その心情を認めた上で、「そんなことを心配することはない、私たちはあなたを守る」と言い、そしてそのことを実現するべきではないでしょうか。それは、人を大切にしようというその人自身の心情にかなう、その人への返信・返礼ではないでしょうか。
 このように考えるならば、安楽死・尊厳死について問題が少ないと思われているかもしれない今回のようなケースについても、法・政治は最大限に慎重であるべきであることになります。

 次に日本の状況についてすこし紹介しながら、すこし議論の幅を広げてみようと思います。
 日本でも2005年頃から、今回の韓国での例のような状態にある人について、措置の停止を許容する法律を作ろうという動きがあります。今のところ法案の提出といった段階には至っておりません。ただ、立法化については慎重であるとしても、その方向を許容する流れは一定の大きさをもっているだろうと考えます。
 しかし、それに対する警戒・批判もまた存在してきました。それは一つに、いわゆる「植物状態」について、今申し上げたようなことを指摘しています。たださらにもう一つそのような状態に今あるわけではない人たちについても、生きるために必要な手段を停止してしまうその流れが及んでしまうことへの懸念があり、現にそのようになってしまいつつあることに対する危機感があります。
 そこには第一に、現実があります。さきほど紹介のあった「積極的安楽死」、すなわち致死薬の投与など死を直接に招く積極的な行ないを許容する国・地域は、オランダ、米国のオレゴン州などわずかです。しかし、そこまではいかない措置の「停止」あるいは「不開始」についてはそうではありません。許容しているところがあります。そして、日本のように許容することを明示していない国もあります。韓国もそうです。
 しかし現実には、人工呼吸器を使えば生きられる人が使わないで死を迎えるといったことが多くあります。日本でも、今回の法律化の動きに最も敏感に反応したのは、そうした重度の障害者の人たちでした。その人たちに対して、意識があり判断能力のある人たちは法や規則の適用範囲として想定していないと、推進する側は言ってきました。しかし、生きていられる条件があれば生きていたい人が生きることを断念してしまうということがあるのは事実です。そしてその断念の度合いは、措置の不開始や停止について寛容であるその度合に、比例しています。つまり、人工呼吸器を必要とする重度障害者が、それを使わずに亡くなる率は、死に寛容な「先進国」において非常に高いのです。このことについて今のところまだ「保守的」な国々、日本や韓国のような国々においても、例えばALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちが呼吸器を使って生きる率は、3割から4割とけっして高くないのですが、それよりはるかに低いのです。このことは、日本で法律家の動きに対して敏感に反応した障害者たちの思いがけっして「杞憂」ではないことを示していると思います。
 第二に、その懸念には理にかなったところがあります。説明しましょう。生命倫理(バイオエシックス)の理論家たちから、死がすぐに訪れることがわかった上で、死に至る注射を行なうことと、死なないための措置を行わないことと、基本的には違わないではないかという主張がなされることがあります。その主張には否定しがたいところがあります。そして、なにかを止めること、またしないことと、積極的な措置を行なうことの違いはないではないかと主張する人たちの多くは、措置を止めること、措置をしないことが認められるならば、市のための積極的な行為も認めてよいと主張します。前半を認めるなら、そうなります。ですから、理論的にも、「滑り坂」を滑っていってしまうという主張にはもっともなところがあるのです。そしてそれが欧米の「バイオエシックス」の主流、少なくとも大きな流れの一つだと言ってよいと思います。
 ですから、自分たちとは別だとされる人たちの死を認めることは、自分たちの死につながるという心配は、根拠のない心配とは言えないのです。日本でも、また他の国々でも表明されている懸念は、現実的な懸念であり、また現実であり、そして論理的に筋の通っているものでもあるのです。
 そして第三に、歴史があります。例えば日本について、今ではその過去を知る人も多くはありませんが、尊厳死の推進の動きは最初のものではありません。1970年代後半から1980年代にかけて、日本安楽死協会、名称変更の後は日本尊厳死協会によって同様の法律を作らせようという動きがありました。その運動が今に引き継がれてもいるのです。そしてその時も反対の運動があって、法案が上程されることはありませんでした。それは、その組織の中心にいた人たちが、社会の生産活動に不要とされる人が生まれ生きることを抑止しようという信念、一言で言えば優生思想を抱き、時にそれを公言したことに対する強い反発があったからでもあります。この協会を創始した太田典礼(おおた・てんれい)は、「不良な子孫の発生を防止する」ためとして制定され、やがて世界から非難をあびて廃止されることになった優生保護法の成立のために活動した人でもあります。
 今、優生思想をおおっぴらに肯定する人は多くはありません。しかし、本人にとってよいと言えないことを行なうこと、さらに直接に死に至らしめることを行なうこと、そのように本人も望んでいると想像し語ること、また本人の言葉だと言って、周囲の人を思う本人の気持ちをそのまま受けとると言って、その生きている人々の中の一人である人の生命が失われることを肯定すること、それを、優生思想と呼ぶか否かは別として、肯定してよいでしょうか。

 世界中でそれは肯定できないと言う人たちがいます。ある人が人々に負担をかけることがあったとしても、それはそんなにたいへんなことではないはずだ、その人が、そしてみなが生きられるような社会が望ましいと主張してきた人たちがいます。韓国にもたくさんいらっしゃいますし、この会場にもいらっしゃると思います。死の決定に対して積極的な欧米においても、それらの国々の障害者、障害者の組織の多くは、その動向を批判してきています。それを私たちは紹介しようとしてきましたし、これからもしていきたいと思っています。そして、それを皆さんにも知っていただきたいと思います。私たちも知りたいと思います。
 だんだんと難しい話になってしまったかもしれません。だとしたらすみません。しかし基本は簡単です。本人にとって、死を与えられることがよい場合があるのかもしれません。しかし、どうしてよいと言えるのか。それはあるとしてもとてもわずかな場合ではないか。それまで、生きさせることがたいした益はないとしもて害でないなら、みなに生きてもらおうではないか。そんなふうに当たり前に考えてみようということです。そしてその当たり前のことを、世界中の人たち、なかでも生きているのが窮屈にさせられている人たちが言ってきたはずだということです。そこから今、世界中で起こっていることを、またこの韓国で今起こっていることを、冷静に見て、判断しようということです。ありがとうございました。

◇「急ぐ人のために――最も短い版」
 2006/08/20「私はこう考える」,『通販生活』25-3(242・2006秋号):119
 (通販生活の国民投票第34回 尊厳死の法制化に賛成ですか?反対ですか?)
 →立岩『良い死』(筑摩書房、2008)に収録

  「延命措置」という言葉は、このごろ最初から悪い意味の言葉になっています。チューブを通して栄養補給をしたり人工呼吸器をつけたりすることは「不自然で人間らしくない」と思われています。でも、まずそれは、栄養の補給であり、呼吸の補助です。いくらかでも感覚があれば、おなかはすきますし、喉は渇きますし、呼吸が困難なのは苦しいです。「延命措置」は――ていねいにきちんと行なえば、ですが――このような苦しさを和らげているんです。
 周囲の人にはその状態はよくわからない。本人ならどうでしょう。その時点では本人は意志をはっきり伝えられない状態になっているだろうから、健康なときに決めておこうというのがリビング・ウィルの考え方です。しかしその状態が自分にとって辛いのか、そうでないのか、健康なときには本人も実感としてはわかりません。そしてその時にはどうしたいか伝えられない。しかし事前に言ったとおりになってしまいます。
 尊厳死を望む理由には、まず、病による身体的な苦痛があるでしょう。たしかにこれは大きな問題です。でも、ていねいな対応が大前提です。日本の医療はそれが下手ですが、それをなんとかすれば、かなり少なくできます。患者の苦痛を緩和する努力を十分にせずに尊厳死を語るのは、順序が逆だと思います。苦痛は多くの場合にかなり少なくすることができます。
 他方、意識がなくなっていれば、その状態は、本人にとって、よいこともないと言えるとしても、その状態が続いてわるいこともありません。
 すると、その当人自身にとって、早く死にたい理由はなくなってきます。
 それでもなお、治療を控えたり止めたりするのがよいと人が思うのは、苦痛を与え、効果のない処置がなされているからかもしれません。効果が見込めないのに心臓に強い電気ショックを与え続けるとかです。それはやめてよいと思います。本人に益がないのですから。しかしそれは、今ある法律の範囲内で可能なことです。
 一つ補足します。回復に効果がないというのと、生きるのに効果がないというのは別です。回復しないからといってなんでもやめていったら、病や障害をもちながら生きている人はどうなりますか。回復をもたらさなくても、生命・生活の維持に役立つ処置を否定する理由は何もありません。
 それでも、実際、遷延性意識障害、いわゆる植物状態から回復する人もいます。脳死についてはずいぶん議論があったじゃないですか。尊厳死で問題になっているのはもっとずっと死から遠い状態なのに、簡単に認めることにしようというのは変だと思います。
 それ以外に「延命」を拒否する理由があるとしたら、大きいのは、周囲に迷惑をかけたくないという理由です。それは立派な心情のようにも思います。しかしそれを周囲がそのまま受け入れたら、それは「私たちのためにありがとう、どうぞ死んでいってください」と言うのと同じじゃないでしょうか。
 私自身には、その人が決めたとおりでよいだろうという思いもあります。けれども、最低、社会の側の問題があって、それで人が「自分が決めた」と言って亡くなっていこうとされるのを、「自己決定」だからとか言って、そのまま「どうぞ」と言うのはおかしい。尊厳死に賛成する人の多くも、負担のこと、医療や福祉にかかるお金のことで決定が左右されることはよくないことを認めます。ならば、どう考えたって、昨今の流れは順序が逆です。生きたいなら生きられるという条件がきちんと整えられてから、死ぬのもよしということにするべきです。


◇「初歩的なことを幾つか」
 初出:2006/04/21「生き延びるのは悪くない」『朝日新聞』2006/04/21朝刊
 →立岩『希望について』(青土社、2006)に収録

 終末期という言葉は余命いくばくもない状態を指す。ならば急ぐことはない。その短い期間をできるだけ苦しみなく過ごせるよう、世話し見守っていればよい。日本の医療は苦痛緩和が下手だが、うまくなってもらえばよい。
 そういう状態が長く続くならそれは本当の終末期ではない。別の状態だ。植物状態などと呼ばれる遷延性意識障害の状態が問題にされるが、どんな状態か、外からは分かりがたい。状態は多様で変化もする。回復を見せることもある。脳死の議論はそれなりに慎重だったのに、もっと微妙な状態を、尊厳や本人の意思の問題であっさり片付けてしまうのはおかしい。
 意識がないなら本人は苦しみも感じないだろう。ゼロか、何かかすかにでも感じているか、状態が良くなるかのいずれかだ。いずれでも本人にとって悪いことはない。
 他方、意識があればどうか。人工呼吸器を着けた状態が苦しい、悲惨だと言われるが、それは思い込みだ。息が苦しければ身体もつらく、気もめいる。実際に目の前が暗くなる。自発呼吸が次第に難しくなる筋萎縮性側索硬化症(ALS)の人たちの手記には、人工呼吸器でどんなに楽になったかが書かれている。
 それでも、本人が死んでもよいと言うのだからよいと言うのだろうか。その決定は、本人も事前には分からない状態を想像しての決定だ。自分のことは自分が一番よく知っているから、本人に決めさせようと私たちは考える。しかし私たちは終末の状態を実際には知りえない。そして実際に知った時には、気持ちが変わったことを伝えられない状態や、眠っているような状態の場合もある。
 なぜ知りえないことで、しかもその時の本人の状態が悪くはないのに前もって決めるのか。見苦しいと思い、生きる価値がないと思い、負担をかけると思うからだ。「機械につながれた単なる延命」と否定的に語られてばかりだが、機械で生き延びるのは悪くはない。動けなければ動けない、働けなければ働けないで仕方がないではないか。
 負担をかけると思うから早めに死ぬと言う。そんな思いからの決定を「はいどうぞ」と周囲の者たちが受けいれてよいか。自殺しようとする人を、少なくともいったんは止めようとするではないか。なぜ終末期では決定のための情報を提供するだけで、中立を保つと言うのだろう。しかもその理由は周囲の負担だ。それをそのまま認めることは、「迷惑だから死んでもらってよい」と言うのと同じではないか。それは違うだろう。本人の気持ちはそれとして聞き受け止めた上で、「心配しなくていい」と言えばよい。
 家族には簡単にそう言えない事情がある。実際に本当に大変だからだ。しかし言えないなら言えるような状態にすればよい。世話のこと、お金のことを家族に押し付けないなら、それは可能だ。
 尊厳死は経済の問題とは関係なく、あくまで本人の希望の問題だと言う人もいる。しかし、意思の尊重と社会の中立を言いたいのなら、どんな時も生きられるようにするのが先だ。でなければ金の問題に生き死にが左右されてよいと認めていることになる。
 物があり、支える人がいれば、人は生きていける。物はある。少子高齢化で支える人がいなくなると言う人もいるが、そんなこともない。この社会は亡くなるまでの数日、数月、数年を過ごしてもらえない社会ではない。


■ただいきるだけではいけないはよくない 2003
 2003/06/01「ただいきるだけではいけないはよくない(上)」
 『中日新聞』2003-06-01:06/『東京新聞』2003-07-15
 2003/06/08「ただいきるだけではいけないはよくない(下)」
 『中日新聞』2003-06-08:06/『東京新聞』2003-07-22
 →立岩『希望について』(青土社、2006)に収録

 人生のことなど少しもわからない。ただ一つだけ確かだと思って、それだけ言おうと思って書いてきたのは、美しく死ぬとかいうのはやめた方がよい、ということだ。
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)という病がある。全身の筋肉が次第に動かなくなっていく。解明は進みつつあるが、まだなおる病気ではない。全国に五千人ほどいるとされる。進行していくと自分で呼吸をするのが難しくなるのだが、人工呼吸器を付ければ息ができて生きていける。しかし半数以上の人がそれを付けずに亡くなると言われる。
 厳しい病気だからという医療側のためらいもあり、多くの人は自分の病気のことをよく知らされず孤立してしまう。それをなんとかしようと患者や関係者のつながりを作ることを呼びかけ、日本ALS協会という組織が発足するのに力のあった人で、一九九四年に五三歳で亡くなった川口武久という人がいた。私は『現代思想』(青土社)という雑誌にこの病気の人についての続きものを載せてもらっていて、彼のことを四月号に書いた。
 川口はこの病気の人としては進行がゆっくりで、発病してから呼吸器をつけず二十一年、家族と別れ病院で暮して、そして最後は急性呼吸不全で亡くなった。四冊の著書がある〔川口[1983][1985][1989][1993]◆02〕。
 彼は入院した病院を「ホスピス」と考え、「人工的な延命」を拒否し、「自然な死」を望むと言った。そして実際最後まで呼吸器をつけなかったのだから、その意志を貫いて亡くなったとも言える。それから約十年がたち、こういう死に方は望ましいこととして広くこの社会で語られている。またどういう死に方であれ、本人が決めたことであるからそれは受け入れるべきだということになっている。
 ただ、彼の書いたものを読んでいくとまったく単純ではない。まず彼は医療を受け、食べるにしても普通の方法では食べられなかった。それは人工的な延命ではないのかと自問し、たしかに自分は人工的な手段を使って暮していると認め、そしてそうして生きることを肯定している。また身体がまったく動かなくなっても、意志を伝えられる限り、いや伝えられなくなっても、生き続けたいともはっきり記している。そうして自分の言うことが矛盾していることにも気がついている。また、著書四冊のうちの一冊は小説のかたちをとっているのだが、その中の主人公は、呼吸困難で意識を失った緊急事態への家族の対応として呼吸器を付け、そして意識を回復した後、自らがそれを肯定することになる。すこし何かが違えば、彼はもっと生きただろうとどうしても思える。しかし当初の決定は覆されなかった。
 一つに、呼吸困難やそれに伴う苦しさにつきまとわれ、そして疲れていった。そして様々なことが次第に自分の思い通りにならなくなっていった。むろんだから援助を人に頼む。しかし彼は病院を自らが死ぬまでの一時期の場所として選んだという思いもあり、生きるために必要なことをなんでも要求するのはためらわれた。結果的に遺書になった文章が残されているのだが、そこには呼吸器の装着を断わることを繰り返した後、「私の考えは間違っているかもしれません。……しかしこれ以上呼吸器を装着して、ご迷惑をかける訳にはいきません。」とある。彼は前向きな人で努力家であり、またそういう時代と社会に生きた。それは他の患者のための活動に向かわせたものでもある。しかし自分のことになると、人に「迷惑」をかけまいとし、自らの否定に向かってしまった。
 それでも彼は自らのためらいを文字に残したからそれを私たちは知ることができる。しかしそうでなければ、せいぜいすっきりした潔い「決定」と、その決定通りに事態が運び終わったことだけが残される。それで周囲はそれでよしとする。そんなことがおびただしく私たちのまわりに起こっている。

 迷惑をかけないことは立派なことではあるだろう。だがこの教えは反対の事態を必然的に招く。それを他の人に要求するなら、周囲に負担をかけるようなことをお前はするなということになる。その分周囲は、他者に配慮するはずだったのに、負担を逃れられ楽になってしまう。自らの価値だったはずのものを自らが裏切ってしまう。
 犠牲という行ないにも同じことが言える。誰かのために犠牲になることは立派なことだ。だが、その人に犠牲になることを教えるのは、その人の存在を否定することになり、その価値自体を裏切る。そして犠牲になることを教える側はそのまま居残るのだから、ずいぶん都合のよいことだ。
 だから、正しさ、美しさの語られ方には注意深くならざるをえない。実際に何が何より大切にされているのか。
 とくに「尊厳な死」と呼ばれるものにおいて遣り取りされるのは明らかに不等価なものだ。尊厳を保つためにと言われ、ただ生きているよりもという言い方で説明されるその行ないは、なにか精神的に高い営みのように思うかもしれないが、それは違う。
 一つに耐えがたい苦痛が言われる。もちろん身体が痛いのは辛い。しかし苦痛は、医療者が下手でなければ、かなり軽減できるようになっている。すると、言葉の飾りをとって残るのは、身体的にあるいは知的に、自らが何かができなくなるから、できる度合いが減るから、生きるのをやめさせよう、あるいは自らやめようという、それだけだ。
 できるとは、生きていく上で役に立つことができることだ。つまりできることは生きていくための道具だ。できることが少なくなったから生きることを否定するというのは、存在の道具によって存在が規定され否定されているということだ。これは逆立ちしたおかしなことである。ところがそんなことが、その人の周りの人たちによって仕立てられ現実のものにされているし、またその人自らの決定としてもなされてしまうのである。
 一つには、実際に支えがないために生き難いから生きられない、あるいは生きないことにするということである。一つに、生存のために役に立つもの、つまり手段を自力で生み出せないとき、生み出せない自分が生きる価値を否定する。この二つとも、存在のための道具によって存在が支配されている。
 世界にどうしてもその道具が足りないのなら、そのために生きていけなくても仕方がないかもしれない。しかし私たちの世界はそんな世界ではない。少子化・高齢化で人が足りなくなるというお話があるが、よく考えれば、そう深刻になる必要がないことははっきりしている。一人ひとりの存在を認め、そのための道具を各人について用意する。そのために世界にあるものをうまく分ける。このような順序で考えればよい。
 尊厳の問題とはまず単純にそんな問題ではないか。そしてできることであるにもかかわらず、それがなされないことが、尊厳が冒されているという事態の核にあると思う。
 例えば、私たちが新型肺炎で騒いでいる間に、世界中で一日に約八〇〇〇人の人がエイズで亡くなっている。とくに南部アフリカに多い。それは不可避の悲劇ではない。安く供給しようと思えば供給できる薬を使えば死なずにすむのに、供給されないから亡くなっている。それが悲劇なのだ。
 それに比べればこの国で生じていることはもう少し見えにくいかもしれない。つまり本人の選択として、すこし屈折した形で現われる。ただ、交通事故死よりはるかに多い数の自死の背景には、失業や倒産、仕事絡みの疲労がある。あえて言えば、そんな背景しかないのに、そうなってしまっている。実際に人が生きていくことのできる物も、何もかもこの社会に既にある。その意味で、どこにも危機がなく悲惨があるはずがないにもかかわらず、こうなってしまっていることが悲惨なのだ。
 どんな生き方がよいか知らない。ただの生がたんに肯定されればよい。それを消耗させようとしないことだ。そのために、当たり前のことを当たり前のこととして確認していくこと、本来は可能なことを可能だと言うことができる。そして、その方に現実をもっていくことも、本来は可能なのだから、できる。


■立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. \2940

■立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. \3360

 *立岩(TAE01303@nifty.ne.jp)までご連絡いただければ、郵送いたします。
 お申し付け下さい(各1冊の場合5200円+送料)


「『唯の生』」(医療と社会ブックガイド・94)
 立岩真也 2009/05/25 『看護教育』50-5(2009-5)

 連載最終年は手前味噌に徹するということで、今回からはさらにその度合いを増し、失礼ながら、私の単著を紹介させていただく。
 2008年の9月に『良い死』が筑摩書房から刊行された。この3月に刊行された『唯の生』はその続きということになる。一冊目の本で死ぬ話を、二冊目の本で生きる話をしているわけではない。死を巡る「決定」について書いた文章が並んでいる。そして背表紙を並べた時の見栄えを考えた語呂合わせのようなところがある。
 当初、本連載の一部(2001年の「死の決定について」1〜4、2004年から2005年の「死/生の本」1〜6、等)を含め、本の紹介を入れようと考えたのだが、到底入りきらないことがわかったので、これは3冊目ということにした。『生死本』という題――2冊にはそう予告してある――にして並べると、上から読んで「生死本」、右下から読んでいくと「死生本」となる。しかしなんだが下品な感じもして、やめようと思う。3冊めは、共著という形の採用も含め、2冊とは少し別の体裁のものにしようかとも考えている。
 ただ漢字を混ぜた『唯の生』という題を思いついた時には「いいかも」と思った。「ただのせい」と読む。宇野邦一に『<単なる生>の哲学』(2005、平凡社)という本があり、それが出た時、「先に使われたかな」という感があったのだが、まったく同じにはならずにすんだ。
 「ただの」という語には「たかだか」といった意味がある。その「たかだか」が、あるいはその「たかだか」こそが大切であろうというのである。そしてまた「唯」は「たった一つの」「それだけ」という意味もある。「唯物論」「唯心論」といった語を連想させるのでもある。「唯生論」などというものを打ち出そうというのではまったくない。ただ、かつてあったそれらの言葉を想起されるような漢字を使うのはよいと思った。字の形としてもよいように思った。それで使うことにした。
 そこで、いつもそうなのだが、対応するよい英語が浮かばない。今その関係の仕事をしてくれている人に付けてもらったのは「Sole Life」というのだが、たぶん、すこし違う感じがする。そもそも適切な訳語がないのかもしれない。
 冒頭に記したようにこの本は、2冊合わせて、所謂安楽死・尊厳死のことを論じた本だから、「生」「唯の生」について論じたものではない。というか、生はなにか積極的に規定できるようなものではなく、またできなくてよいものだから、たいして書くこともない。むしろ生の中にあるなにかが良いものだから生が肯定されるという考え方が人を苦しめもするし、死なずにすむ人を死なせもすると考える。だから、生を積極的に語るというより、むしろ生の中のなにかを取り出してそれに肯定性を付与する(同時にそのなかにを有さない生に否定的である)ことについて、そうでなければならないのかと考えていくというのが基本的な方向になる。
 では私は、いわゆる物理的生物学的生存自体が肯定されるべきであるという立場、それと同じなのか微妙なところもあるが、「生命絶対尊重論者」だということになるか。そうでもない。長い本のわりには短くではあるが、何箇所かで関わることを書いてはいる。
 一つは『良い死』の第3章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」の第7節「肯定するものについて」。そして『唯の生』では、第1章「人命の特別を言わず/言う」の第4節「別の境界β:世界・内部」。
 「唯の生」というぐらいで、たいしたものがあるとか、また要るとか、思えない。なにを外に向けて発するというのでないとしても、なにかを受領しており、そこに世界があるなら、それでよいではないかといったことが書いてある。
 ただこれもまた一つの「線引き」であるのは確かである。生にいくらかの「内容」を想定している。この意味では、私がこれらの本で相手にし批判している人たちの主張と私の立場の差異は相対的なものでもある。しかしその程度の差が大切だと考えていて、これらの本を書いている。
 そして、ここまでだけなら短い話なのだが、しかし、「それは一つの見方、価値、趣味にしかすぎないのであって、それを押しつけるなどは横暴である。一人ひとりに委ねるべきである」といったことを言う人がいるだろう。するとこの問い、詰問に答えねばならない。それは『良い死』の方の第1章「私の死」で考えてみている。こうして話は終わらず、続き、長くなってしまう。

 次に、今度の本では、今あげた問いかけにどう答えるのかといったことにも関係し、幾人かの人の論を検討している章がある。
 これまで私は、誰かの議論がどうであるといったことをあまり書いてこなかった。それに意味がないなどと思ってきたわけではない。ただ費用対効果を考えた場合、ただ考えて書いていくのと、読んでから考えて書いていくのと、どちらの方がよいのかということがある。どちらがすっきりした話ができるかということもあった。
 まず、この世にある論のかなりの部分にはなにかしらの型というものがあって、多くはそこにはまっているので、誰が言ったのかといったことはさほど大切なことでなく、「一般にこんなふうにものごとは論じられているが、さてそれはいかがなものか」という具合に話を進めていくことができる。それで具体的に誰かをあげて論ずることはあまり必要でなく、あげるとすれば、典型として例示すれはよいといった場合がある。
 次に、そう一筋縄でいかず、相手側の話がまずはなかなかに複雑でそして深淵そうであるのだが、よくよく考えてみた結果、考えるだけ無駄だったということもないではない。ならば最初から放置しておけばよかったかもしれない。ただ、時間を使って考えてみないとわからないというところがやっかいだ。どうするか。やっかいそうだから、他の人にやってもらうという手がある。哲学者なら、その人の相手をする仕事は哲学者の仕事だろうということにもなる。
 こうして私はおおむねさぼってきたのだが、そうでありながら同時に、誰かの論を検討し批判するということがあまりなされてもいない、もっとなされてよいとも感じてきた。それなりに苦労して書かれ、まとまった議論がなされている本をそのままにしたり短くふれたりするだけというのはもったいない。しかし長い書評を載せる媒体が少ないこともあり、十分な論評がなされていない本が多い。
 書いた時にそんなことを考えたからではないが、私にも他の人の著作を検討した文章がある。そして振り返ると、それは今回の主題に関係している。それで再録した。再度考えて書き直したら、たいへんそうに思えたということもあり、また基本的にはそう間違ったことも言っていないだろうと思い、そのまま再録した。文献情報など後で加えた部分についてはそれがわかるようにした。
 そういった章としてまず第5章「死の決定について」がある。小松美彦の論を検討した章だ。
 「自己決定」ばかり言われることに疑問を感じるとしてそれをどう考えるか。「自己」「個人」の代わりに「共同性」をもってきたらよいのではないか。それはよくわかるように思えるとともに、それでよいのだろうかとも思える。そんな議論が展開されているものとしての小松の『死は共鳴する』(1996、勁草書房)がある。それを検討してみるのもよいのではないか。それでやってみた。それが『所有のエチカ』(大庭健・鷲田清一編、2000年、ナカニシヤ出版)に収録され、『唯の生』に再録された。またこの連載で小松の著作を紹介した回も再録した。
 そしてその本の第1章「人命の特別を言わず/言う」の第2節「関係から」。そこでは加藤秀一の『〈個〉からはじめる生命論』(2007、日本放送出版協会)を検討している。この部分は、2008年の本連載で3回に渡って書いた部分にいくらか書き足してできた。加藤の本は小松の著作の後に書かれているということもある。そしてそんなことよりなにより、加藤は一貫して個が個であることを重く見てきた人だ。だから加藤はより慎重で周到な議論をしているのだが、そのうえでなお、その本では「関係」からの議論を展開している。だからそれは検討・検証するに値する。それで検討した。
 誰かの存在、そして生死が周囲の人々に大きな意味合いをもつことは事実としておおいに認めよう。そしてそれを大切にすることも必要だ。しかし例えば、人と関係がない人、よくない人もいるだろう。その個々の関係によって「決める」のはよくないだろう。こんなことを書いた。それは『良い死』の第2章5節「思いを超えてあるとよいという思い」に書いたことにもつながっている。(続く)


「『良い死』」(医療と社会ブックガイド・95)
 立岩 真也 2009/06/25 『看護教育』50-6(2009-6)

 昨年出た拙著『良い死』(筑摩書房)に続いて今年出た『唯の生』の紹介を前回に始めた。
 一つ、「唯の生」という題に関わり、生と言うに値する/しないという「線引き」に関わることを第1章に書いたことを記した。
 一つ、他の論者の論を相手にしたこと、論点としては、「自己決定」に「関係」「共同性」を対置する議論を取り上げ、それはまっとうな考え方ではあるのだが、また限界もあるだろうことを書いたことを紹介した。
 他にその本で取り上げた論者には、本連載で著書を紹介した――その部分も本に再録した――清水哲郎や小泉義之がいる。第6章の「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」は、清水の『医療現場に臨む哲学II』(2000、勁草書房)の一部を検討している。第7章「『病いの哲学』について」では小泉の『病いの哲学』(2006、ちくま新書)を取り上げた。何を書いたかは略。読んでください。ということで、いったんここまで。
 基本的なことをまず考えて述べたのは『良い死』の方だ。今流行であるのは「他者を思う自然で私の一存の死」だから、その各々を考えみようとした。第1章「私の死」、第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」、第3章「犠牲と不足について」。
 そこで何を述べたのか。やはりその本を見ていただく以外にない。しかし簡単に紹介する。
 第1章では、多くの場合その人の決定を大切にすることは大切だが、生死の決定の場面でそれだけを言うのは間違っていると述べ、その理由を書いた。第2章では、人工物を使って生きている私たちが人工物を否定するのはおかしいと述べ、次に、自然・世界が大切であるなら、自分は何もできなくなっても長生きすればよいと書いた。第3章では、他人を大切にすることは大切だが、そのために身を引くことを称揚することは、その大切なものを裏切ると述べ、さらに、しかし金や人が足りないから仕方がないという話については仕方がなくはないと書いた。
 そこに書いたことについて、批判してもらえるなら、いくらでもしていただいたらよいと思う。ただ、気になるのは、今、この主題を主題として考えることを素通りして、「その次」に行こうとしている、そんな流れになっているように思えるということだ。
 そのことは『良い死』の最初の方で書いた。その本の序章は「要約・現況」となっていて、一つには、忙しい人のために、要するに私はどのように考えているのかを短く記した。『通販生活』に掲載された文章を使った。そしてもう一つに、今学問や言論がどんな具合になっていると私が思うのかを書いた。第3節が「考えてきただろうか」という題になっている。
 そこで、2005年11月、東京大学のCOE「死生学の構築」関連の催し「ケアと自己決定」で話したこと、同年の12月に熊本大学でのシンポジウム「日本の生命倫理:回顧と展望」で私が話したことから引用している。

 思うのはこんなことだ。哲学者や倫理学者がものを考えることをやめているように思われる。それでよいのか。よくない。学者であってもなくても考えるべきは考えるのがよいだろう。しかしなんだかそんなことはもう終わったかのようにされており、「応用」「教育」の時代になったかのようである。その教育の仕事をすることが学者の仕事であり、そうした教育を受けた医療者等が現場を采配していく、そういう仕組みを作ったり維持していくのが学問であるかのようにされている。教育も応用も大切なことに決まっているのだが、しかし、その手前で何を教えるのかである。それは実は曖昧である。あるいは、いくらかでも考えてみるならそのままに受けいれられないことが当然のこととされている。例えば、死の決定について、本人の意志、それがない場合には家族の意志に従うべきだとされる。しかしそれでよいか。そのことに関して、たくさん考えて言うべきことがある。であるのに、話は先に進んでいってしまっている。これはとてもまずいと思う。
 このことをこの3月には東京での集会でも繰り返し、その前の2月、大阪での日本集中治療医学会学術集会でのシンポジウムでも繰り返した。『Medical Tribune』にそのシンポジウムの概要が掲載されるということで、編集の方と幾度かやりとりがあって掲載された。ごく単純なことを述べたのだが、最初にいただいた原稿は私が話したつもりのこととすこし異なるところもあるように思ったので、すこし直したものをお送りし、ほぼ受け入れていただいた。こちらのHPにその原案も掲載している。以下掲載されたものを引用する。「医療の信頼を得ることが先決」という見出しになった。
 「立命館大学大学院総合学術研究科の立岩真也教授は、基調講演「良い死?唯の死」で、倫理原則が確認されていればそれを現場に応用するだけでよいが、「そうでないのが現状だと」述べ、「まず医療をきちんと行い、そのことを社会に向けて示すことの方が先決だ」と指摘した。」
 ここが概要の概要ということになる。さらに以下。少し略す。
 「治療停止・尊厳死といった厄介な面にどう対処するか、現場への応用や教育が大切であることは認めるが、教える原則がはっきりしていないなら、応用のしようもないはずだ」と述べた。さらに趨勢としては治療の停止を様々に認める方向になってはいるが、論理的・倫理的に議論の終わっていないところが少なくないと指摘した。
 「死にたい」と本人が言っているとして「それをそのまま受けとることがよいことなのか。自分はそうは思えないし、そのように社会も医療も対応してこなかったはずではないか、それは間違っていたのだろうか」と問いかけた。
 他方、家族の意思についても、「家族は確かに患者の一番の代理者ではあろうが、経済、心理、身体的な負担が少なくない状態に置かれてもいる」と分析。停止の同意に負担軽減という要因が働くことは否定できず、「家族の意向をそのままに受け入れるべきだとならないはずだ」とした。
 その上で、「医療側は社会に対し、何を最初に言わなければいけないのか」と提起した。過剰な医療による被害を避けるための患者側からの異議申し立てという図式があり、それは医療をより多く行うことが利益に結びついた時期には問題とならなかったが「医療が過剰より過少である現状では、むしろ救命・延命のためにするべきことをするという医療の基本を確認し[…]遵守し、そのことを社会にアピールすることの方が大切だろう」と述べた。そうして医療の信頼を得ることが先決とした。」

 なおしきれていないところがあるが、おおむねこんな話をした。ここで私は、一つに医療の現実がどうなっているのか、それをふまえたら何を先に示すべきかを述べている。つまり、現実は「過剰」でなくむしろ「過少」である、だから、するべきをする、するべきことをできるようにする、このことを訴えるべきだと述べた。このことに関しては、次回、続ける。
 そしてもう一つが、基本のところが飛ばされている、終わっていることにされているという話だ。なぜその学会の大会に私を呼んでいただけたのか、わからないのだが、私はとにかく思うことを話すしかないから話した。
 ただ、その場の全体はまず、たくさんの人のたくさんの話が次々となされていった。遺族に対する所謂グリーフ・ケアの話もあった。(もちろんそれはそれとして大切なことである。ただ分けて、一つひとつに取り組んでいくことも大切である。)「本題」に関わるところでは、例えば「欧米」ではしかじかである――「尊厳死」は問題にされていない――という「事実」が示され、それ以上のことは言われず、そして次に「教育」のことが語られた。その学会としても「倫理に強い」医療者を育てる、認定するという仕組みを作ろうということであった。
 もちろん、医療者が哲学・倫理学を学ぶことに問題があろうはずがない。それはまったくよいことである。けれども何を学ぶのか。「生命倫理の4原則」か。しかし以前本連載で清水哲郎の本を紹介した時に述べたことだが、それでは「解」が出ないことがある。4つのどれを優先するのかといった問題が生じることがあるのだ(それを清水は正しく指摘していることを紹介した)。なのにどうして前に進めることになるのだろう。『唯の生』の第1章でとりあげたシンガーやクーゼといった人たちが言うことが正しいとされているからだろうか。だが考えてみるとわからないところがいろいろある。このことを私は書いたのだった。そうして書いたことのどこがどのように間違っているのか、示していただければ、私も話を終えることに同意するのだが。(続く)


「『良い死』『唯の生』続」(医療と社会ブックガイド・96)
 立岩 真也 2009/07/25 『看護教育』50-7(2009-7)

 この2冊の本、とくに『唯の生』で書いたことの一つは、短い間のことではあるのだが、歴史についてである。30年ほどの間に何が起こったのか。第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」。
 何が起こってきたのだろう。世の中が、と大きなことは言わないとしても、とくに高齢者の生活がだんだん悪くなっていると語る人もいる。私自身はそのようにばかり言うと、以前はよかったということになって、そういうことでもないだろうと思うから、そうは言わない。とくに医療施設や福祉施設の現場で働いている人たちが、依然として、とてもていねいに根気よく仕事をしていると思う。
 ただとにかく「限界」はある、それは仕方がない、そんな気持ちが広まってきたように思う。そして働き手たちは、しなくてよいことをしているかもしれないと自分たちのことを思うようになっているところがある。受け手の方も、控えめであった方がよいと自分について思う。思わなくても言う。
 どんな具合にそのようになってきたのだろう。ただお金がもったいない人が、足りない足りないと言いふらしたからというのではない。様々にもっともなことが言われてきた。良心的な人、まじめな人たちが、事態をよくしようと思って言ってきたこと、行なってきたことが関係していると思う。そのことを書こうとした。
 その一つに、医療と福祉の間の関係の変化、またそれぞれに起こった出来事があるだろう。結果、どちらとの関係でも、うまく暮らして行けない人たち、両者の間の溝に落ちてしまう人が現れる。
 もちろん、すべての人が「医療と福祉の連繋」を言うし、すべての人が賛成する。けれども実際にはどうか。まず、関係者が知っているべき制度を知らないとか、具体的な様々な事情がある。このことについては4月号で紹介した雑誌『生存学』創刊号に掲載されている「独居ALS患者の在宅移行支援」という4本続きの論文に記されている。こんどの私の本では、1970年代以降起こったいくつかのことを追っている。

 たとえば「キュアからケアへ」という標語がある。もっともな言葉である。だが、あきらめなくてちよいことをあきらめてよいとされる時に使われることもある。
 「なおす行ないとしての「キュア」とそれが断念された後に用意される「ケア」という図式があって、この二つともたしかに大切なものであるのだが、しかし、この二つだけではない、あるいは両方でもあるような営みは、実際にはいくらもなされているのに、この図式のもとでは浮かびあがってこない。[…]
 しかしそれは大切なことではないだろうか。」(p.165)
 福祉施設に移った(移された)人が、そこで、完治するとかそんなことにはならないとしても、生き続けるためにはあった方がよい処置を受けることができないといったことがある。それはないだろうと思うこともあるのだが、他方では、それは仕方がない、それでよいのだともされる。そんなことが起こってきた。起こっている。
 なおらないものをなおそうとしてもむだだ。それはその通りだ。私自身も、なおらないのになおそうとされて迷惑を被ってきた人たちのことを書いてもきた(『生の技法』、藤原書店)。しかし、なおらなくても生きていくことができることがあり、生きていくために必要なものがある。それを医療と言おうが福祉と言おうが、当人にとってはどうでもよい。しかし「延命措置」「無駄な延命措置」「たんなる延命」などという言葉が使われる時、その当たり前のことが忘れ去られている、とまでは言わないが、後景に退いていく。
 「不治である病を抱えているとして、その状態で生きていることに価値がないことにはならない。このことは障害のことを考えてみてもわかる。それはなおらない[…]。しかしなおらない状態を抱えて生きていることに価値がないとはならない。とすると、生きるために必要なことがなされることに価値がないともならない。
 もちろん、なおらないにもかかわらず、なおすための――しかし結果として何も得られない――行ないをすることは無駄であり、副作用が起こってかえって苦しむことになるのであれば有害である。しかしそれは、その行ないが不要であるということであり、「延命措置」が無駄であり不要であるということではない。
 ここまでも誰もが認める。ただ、一九八〇年代から一九九〇年代を経て「たんなる(単なる)延命」という言葉が普及していった時、このことがさほど明瞭にされていたのではない。」(p.163)

 「医療から福祉へ」という言葉もある。「施設から地域へ」という言葉もある。そのことに私は、基本的に、反対ではない。しかしそのような言葉のもとに何が起こってしまったのか。書いたのは一つにそのことである。そして、どうして、どのようにして、そうなったのかである。それはそれなりに複雑な過程だったと思う。そして、その記述・分析はそうない。とくに「終末期医療」に即したものは意外なほどない。これからの研究者にもっときちんとした仕事をしてもらうためにも、とりあえず書けることを書いた。
 まず、移っていったというその先の福祉の方が、どれほどのものだったかということだ。2000年に公的介護保険が始まる。それはけっこうなことだった。しかしけっこうなことであったと同時に、そこには、新しくそして相当に大きな制度として、一定数の人々の同意を得て、なんとか立ち上げねばならないという事情があった。医療からのシフト、在宅への移行でお金が節約できると言われた。そして合意を得るための戦術というだけでなく、それは、誰もが等しく有する「要介護」の可能性――そのこと自体はおおむね間違っていない――に対して、一人ひとりが同じ備えをするものとして、具体的には、おおまかには――財源としては税も使われている――各々が同じだけの金を払うものとして、つまり、まさに「保険」として始まり、そしてその枠内で存続してきた。もちろんそういう仕組みのもとでも今よりずっときちんとしたことはできる。けれど、それが難しいように思ってしまう私たちの心性を、この枠組が作ってしまったのだとも言える。一方はこのような具合だ。
 他方、医療の方はどうか。たしかに、出来高で払われる仕組み――私は基本的にはこれはよい仕組みだと考えている――のもとで医療の供給側がなんでもできてしまうようになっているなら、過剰、というより加害的な供給がなされてしまう。1970年代の「老人病院」にそんな状況があった。それに対して正しく批判がなされた。むろんその多くは医療の削減を意図したのではなかったが、「過剰」という理解は社会で一般的なものにもなった。そして、そんな声・意識も受けながら、「無駄」を減らさねばならない、正確には、医療費は自然に増えていくのだから増える分を減らさねばならないと言われ、多くの人がそういうものかと思ってしまう。
 そうして実際に減らされる。その仕事にお金がつかなくなると、その仕事を控えるようになる。仕事を守ろうとする力が衰える。
 このようなことを言うと、怒る人がいる。その怒りはもっともだと思う。「私たちはお金のことを考えてやっているわけではない」と言われるのだ。その通りだと思う。しかし、全般的な傾向というものはやはりある。病院は、営利を追求してはいないとしても、しかし経営のことは気にせざるをえない。これもまた事実である。
 こうして、医療からの撤退が起こっていくのだが、その代わりに用意されたという福祉の方は、最初から「そこそこ」のものとして作られている。
 そこに明白な悪意があったわけでもない。高齢者についてなにもしなくてよいという人はまずいない。みながそれぞれに真面目に、様々を心配して語り、それらが組み合わさり、現実ができてきている。いま記したのはその一部であり、まだいろいろなことがあり、いろいろなことが言われた。十分に調べもせずに書くのはためらわれもしたが、まずは書いておこうと思って書いた。
 しかしそれでも、足りないからには仕方がないではないかと言われる。その真面目な思いはそれとして受け止めよう。しかしそう暗く真面目になる必要はないのではないか。ずっとそのように私は思ってきた。そのことは『良い死』の第3章「犠牲と不足について」で書いてみた。間違ったことは書いていないと思う。もっと具体的にどうするか、この章のもとになった『現代思想』での連載をまだ続けていて、そこで税の話をしている。それももうしばらくで青土社から出る本になるはずだ。


◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,
◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et.

『良い死』   唯の生


UP:200912 REV:20091217, 20100217
安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2009  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa
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